スクナヒコナの神考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).9.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、スクナヒコナの神を確認しておく。「吉田一氣の少彦名神の考察」その他を参照する。

 2011.07.20日 れんだいこ拝


【スクナヒコナの神の出自考】
 少彦名の命の出自系譜ははっきりしない。古事記では造化三神の神産巣日神(かみむすびのかみ)、日本書紀では同じく造化三神の高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の御子とされている。母神は分からない。高皇産霊神と神皇産霊神については一般に、高皇産霊神は皇室天皇系の神霊、神皇産霊神は出雲系の神霊と考えられている。この記述の裏意味を窺うのに、後の神武東征譚に於ける天孫族と国津族との内戦に於いて、そのどちらの系でもない、はるか昔の神産巣日神又は高皇産霊神の神であるとしているように思われる。即ち相当古くからの豪族の系譜よりの出自と受け取るべきではなかろうか。大国主の命との共同による国造りに向かうことを思えば、神皇産霊神系にして出雲系の霊統に位置づけられる神と云うことになるのではなかろうか。これ以上の詮索はできない。要するに不思議な神となっている。

【名前の由来考】
 少彦名の命は「スクナビコナの命(みこと)」と読まれ、古事記は少名毘古那神、日本書紀は少彦名命、他に須久那美迦微、少日子根などと表記される。出雲系統を代表する神々であるヤツカミズオミヅの命、スサノウ、大國主の命に続いて知られている。記紀の他、出雲国風土記、播磨国風土記、風土記逸文(尾張国、伊豆国、伊予国)、古語拾遺、先代旧事本紀、文徳実録、逸文伊豆国、逸文伊予国、万葉集4首等に登場する。

 「スクナヒコ」の「スク」は「(昔)」ないしは「スクの国」の意味にとれ、「ナ」は「土地」を意味し、「ヒコ」は皇族の御子を意味する「彦」と読める。これによれば、「昔からのスクの国の皇子」を暗喩していることになる。「スクの国」とは如何なる国かと云う興味に発展する。大国主神の「大」に対する、「小(少)」という対比で命名されていると読む読み方もある。

 もう一つ、「スク」と云う表記に注目すれば須玖遺跡の「スク」に繫がる。須玖遺跡は、福岡県春日市岡本町を中心にひろがる弥生時代遺跡群の一つであり、牛頸山から福岡平野に突出した低丘陵地帯に多くの弥生遺跡が知られ、その丘陵の北端にある。遺跡の三方には広い平地が望まれ、丘陵上には墓地群を中心とした遺跡が発見されている。1899年、台地上の巨石の下から合口甕棺(あわせぐちかめかん)墓が発見され、前漢鏡約30面、ガラス璧(へき)、勾玉、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)など多数の副葬品が出土して注目されている。この地の国は奴国が比定されている。してみれば、由緒正しき奴国の皇子で、大国主の命との共同による国造りを目指す為に参内した神と考えられるのではなかろうか。

【大国主の命と野出会いの様子譚考】
 古事記によると少彦名神の登場の最初の記載は以下のように書かれている。
 「故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知」。

 同様記述の他の文と合わせると次のように訳せる。少彦名神は一寸法師のモデルとなったともいわれる小さな神さまで、大国主命が古事記では出雲の島根半島の西端にある御大(ミホ)の岬(美保の岬)、日本書紀では出雲の五十狭々の小浜(出雲市旧大社町の稲佐海岸と推定される)の海辺を歩いているとき、海の向こうの常世の国から光り輝きながらやってきた。波頭を伝わって天の羅摩船(あめのかがみぶね、多年生の植物のガガイモの殻を半分に割った船に乗り、波の上を蔓芋のさやを割って船にして、鵝(ヒムシ、ミソサザイ、蛾)の皮を着て現れた。「海上(わたつみのうえ)から舟に乗って、潮水(うしお)の随(まにまに)浮き到る(いたる)」と記されている。不思議に思った大国主命が「あなたは何と言う神ですか?」と尋ねたが答えなかった。家来の神に尋ねたが、みんな「知らない」と答えた。そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル、ヒキガエル)の多邇具久(たにぐく)が「山田の案山子(かかし)の神の久延毘古(くえびこ)なら知っているでしょう」というので久延毘古を呼んで確かめさせたところ、「神産巣日神(日本書紀だと高皇産霊尊(タカミムスヒ)の子となっている)の御子で少彦名神でせう」と答えた。そこで大国主命が出雲の祖神である神産巣日神に伝えると、神は「確かに我が子である。子の中で、私の掌の股(指の間)からこぼれた子である」と素性を証した。「これからは葦原色許男の命と兄弟の契りを結び、葦原中国を造り固めるがよい」と二神に申し渡した。こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行うことになった。「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」と云う。
 「雲の上は いつも青空」の2020.9.6付け「少彦名命に逢いに米子に」参照。次のように記されている。
 「少彦名の命は、海の向こうの常世の国から、ガガイモの実の船でやって来た神様で、手に乗るほど小さい姿をされていることから、御伽草子の一寸法師の ルーツとも言われています。豊かな知識と技術をもち、大国主命の国造りに 協力して全国を回られ、医薬や酒や温泉の神として祀られる神様です。

 まずは粟島神社。鳥取県米子市彦名町。御祭神 少彦名命。標高38mの小高い丘 粟島は187段という長い石段を登りつめると本殿があります。粟島は今では米子市内と陸続きですが、江戸時代までは中海に浮かぶ小さな島でした。いにしえより“神の宿る山"として信仰され、伯耆風土記によると、少彦名命が粟の穂に弾かれて常世の国へ渡られたため、この地は粟島と名付けられたといいます。階段を登ったところの左手には伊勢神宮の遥拝所、本殿をはさんで反対側には出雲大社の遥拝所があります。

 森を抜けて行くとある粟島の洞穴は「静の岩屋(しずのいわや)」と呼ばれています。その昔、このあたりの漁師の集まりで、珍しい料理が出されましたが、誰も気味悪がって食べずひとりの漁師が家に持ち帰り、何も知らない娘が食べてしまったところ、その肉はいつまで経っても寿命が来ないと言われている人魚の肉だったのです。人魚の肉を食べてしまった娘はいつまで経っても18歳のまま寿命が来ません。やがて世をはかなみ、尼さんになって粟島の洞窟に入り、物を食べずに寿命が尽きるのを待ちました。とうとう寿命が尽きたときの年齢は八百歳。その後、「八百比丘(はっぴゃくびく)」と呼ばれ、延命長寿の守り神として祀られるようになったそうです。
 小原神社。約300年前に造営された小さな神社です。鎮座地 鳥取県西伯郡南部町原。その昔、この村のおばぁさんが畑仕事をしている時に、神様が降りてきて倒れてしまいます。「私はこの小山に祀られている神だが、雨雪の日に入る宮がない。宮を建ててくれたら、この村は繁栄するぞ」とのお告げに従いお宮を建て大己貴命(大国主命)・少彦名命を奉還して現在に至るのだそうです。境内の常磐の葉にたまった朝露を塗るとイボがおちると伝えられているそうです」。

【スクナヒコナの人物譚】
 少彦名命は体が小さくて敏捷、忍耐力、総じて知恵の神と称されている。神仙術(方術士)の元祖でもある。他に禁厭(まじない)の得意技を持つ。病気の治療及び薬の知識に抜きん出ていた。国土建設、疾病平癒、産業振興、民心の安定を司る。土木業、建設業、医業、薬業、醸造業、殖産業、農業、漁業、商業の守護神である。大国主の命は「五穀豊穣、商売繁盛、縁結び」などの神様、少彦名の命は「医業、薬、温泉、酒造」の神様と云う評価をされて今日へ至っている。

【国土経営譚】
 西暦150年を中心とした前後の頃と推定されるが、少彦名の命は大国主の命と一緒に、あるいは又大国主命の命を受けた巡撫使として全国を遍歴し国土を開発した。同時に出雲王朝の政治、祭事、儀式を始めとする士農工商の技術指導、更には生活作法全般までを指導したと考えられる。要するに国造りである。両神が國土経営の為に諸國を遍歴された事歴は國々の風土記等に記されている。「出雲国風土記」、「播磨国風土記」には国土開発事業、農業技術の指導普及、鳥獣や昆虫の外から穀物を護るための禁厭(マジナイ)の法定め、稲や粟の種の栽培法も広めた様子が次のように記されている。
 「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
 「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。
 「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。

 播磨国風土記」の神前(かんざき)郡の条に次のように伝えられている。
 「はに岡と号(なづ)くる所以は、昔、オオナムヂの命とスクナヒコナの命と相争いて、のりたまいしく、『堲(はに、粘土)の荷を担いて遠くへ行くのと、尿(くそ)下(ま)らずして遠くへ行くのと、この二つの事、いずれが能く為せむ』。オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は尿下らずして遠くへ行かむ』。スクナヒコナの命のりたまいしく、『我は堲(はに)の荷を持ちて行かむ』。かく相争いて行でましき。数日経て、オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は行きあえず』。即(やが)て坐(い)て、尿下りたまいき。その時、スクナヒコナの命、笑いてのりたまいしく、『然(しか)苦し』。また、その堲(はに)をこの岡に投げうちましき。故、はに岡と号く。亦、尿下りたまいし時、小竹(ささ)、その尿を弾き上げて、衣に行(は)ねき。故、はじかの村と号く。その堲(はに)と尿とは石と成りて今に亡(う)せず」。
(私論.私見)
 微笑ましい逸話であるが、「大国主の命とスクナヒコナの神との間に多少の対立」があったことの裏話しとも読める。出雲王朝経営上の方針の違いがあったと窺うべきであろう。但し、友誼的関係内のことであり敵対関係の逸話ではないように思われる。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

 伊豫風土記によれば、少彦名命は道後平野に参上している。少彦名命の住居を定められたと傳えられる新谷村都谷には、その時代の住民が使用していたと解せられる弥生史式土器及び石器が発見されている。又神南備山の北麓一帯の高台、大洲町裏の花瀬山一帯からも同様のものが出土している。少彦名命が、平野の状態を眺められる為に大洲村徳の森を常に御登りになったと伝えている。俗称尊の森「ミコトノモリ」と称する小丘上にて驚くべき廣大なる遺物包含層が発見されている。これによって大洲盆地には上代に出雲系の大集団がいたことが判明している。

 大国主の命とスクナヒコナの共同国造り譚が次のように伝えられている。
 或る時、オオナムヂはスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
オオナムヂ  「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
スクナヒコナの神  「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。

 万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。
 「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」

【各地の温泉定め譚】
 温泉湯治療法即ち「薬湯」(ゆあみのみち)は元々出雲王朝系のお手のもので、酒や和方薬処方同様に少彦名の命の登場以前のかなり古くからあったと思われる。少彦名の命の値打ちは、その伝統を正しく継承し、更にこれに磨きをかけたところに認められると評するべきだろう。これにより少彦名の命は大国主の命と共に各地に湯治場(とうじば)を設営して行った形跡が認められる。且つ入浴文化とでも云うべき型を創った。温泉そのものは世界にあろうが、「裸のつき合い」を前提とする日本式入浴の型ほど洗練されたものはない。そういう意味で、少彦名の命が大国主の命と共に温泉の祖となっている。

 全国各地に逸話が残されており、これを確認する。少彦名命と大国主の命、あるいはそのどちらかが開いた有名温泉地(それ以前に存在していた古湯も含む)は次の通り。
玉造温泉 出雲(島根県)
奥津温泉 美作(岡山県)
別府温泉 豊後(大分県) 速見の湯(はやみのゆ)。
雲仙温泉 筑紫(長崎県)
道後温泉 伊予(愛媛県)
有馬温泉 播磨(兵庫県)
松之山温泉 越後(新潟県)
弥彦温泉 越後(新潟県)
元湯温泉 箱根(神奈川県)
熱海温泉 熱海(静岡県)
伊香保温泉 上州(群馬県渋川市)

 これらの温泉が確認できる。他にも多々あり言い伝えが遺されている。こうした温泉地には、これを守護する神社が設営されており、大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀している。興味深いことは、少彦名の命&大国主の命が見出した温泉は今日でも利用者が多く賑わっている名湯中の名湯ばかりであることである。いずれも湯量豊富で源泉掛け流し名泉名所となっている。その効能が並はずれて優れている。こういう温泉ばかりを見出しているところに凄さがあろう。

 日本各地の名湯探しは大和朝廷下でも続けられ、奈良時代以降は役の行者を祖とする修験者山伏系の僧侶によって引き続き開基されて行くことになった。その元一日の「うったて」を作ったのが少彦名又は大国主の命と云うことで間違いない。

【玉造の湯譚、道後温泉譚、各地の温泉定め譚】
 出雲風土記の「意宇郡 忌部の神戸の条」が玉造の湯について次のように記している。
 「忌部の神戸、郡家の正西*一里二百六十歩なり。国造、神吉詞(かむよごと)望(ほが)いに、朝廷に参向(まいむか)う時、御*(みそぎ)の忌の里なり。故、忌部という。即ち、川の辺に湯出づ(出湯(いでゆ)あり)。出湯の在るところ海陸(うみくが)を兼ねたり。よりて、男も女も、老いたるも少(わか)きも、あるいは道路(みち)につらなり(駱駅し)、あるいは海中を洲(はま)に沿いて(洲(す)を沚(は)て)、日に集いて市を成し、みだれ紛いて宴す(繽紛として燕楽す)。ひとたび濯(すす)げば、形容(かたち)端正(きらきら)しく、再び湯浴みすれば、万の病悉に除(い)ゆ(除く)。古(いにしえ)より今に至るまで験(しるし)を得ずということなし。故、俗人(くにひと又はよしひと)、神の湯とえり」。
 
 嶋根郡の前原(さきはら)の埼の宴遊について、出雲風土記は次のように記している。
 「陂(つつみ)と海との間の浜は東西の長さ一百歩、南北の広さ六歩あり。肆松蓊欝(まつしげ)り浜鹵(なぎさ)の淵澄めり。男女時に随(よ)りて叢会(つど)い、あるいは愉楽(たのし)みて帰り、あるいは眈遊(えら)ぎて帰ることを忘れ、常に燕喜(うたげ)する地なり」。

 四国の愛媛県の松山にある道後温泉は神代の頃からある日本最古の名湯として知られる。開湯には様々な説があり、伊豫国風土記には、大国主の命が重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)を助けようとして掌に乗せて温泉に入れたところ、不思議とよみがえり、温泉の側にあった玉の石を踏んで立ち上がり、「真暫寝哉(ましましいねたるかも)」(暫く昼寝をしたようだ)と叫んで、石の上で舞ったと言われている。この伝承から、大国主命と少彦名命の二神を道後の湯の神として、道後温泉本館側の湯神社に祭祀してある。伊予国風土記逸文に次のように記されている。
 「二神(大汝貴命と少彦名命を云ふ、以下に従う)はかくの如く、各地を跋歩経営し、而して後伊予に来り、國土を開き温泉を修む。伊予風土記に曰く、温郡(ゆのごほり)、大穴持命、見悔耻面、宿奈比古那命、欲活面、大分速水湯、自下桶持度来、以宿奈比古那命而、漬浴者、暫間、有活起居、然詠曰眞暫寝哉、践健跡處、今中石上也」。

 これによると、「少神(少彦名命を云ふ、以下之に准ふ)が病臥して居ませるを大汝(大汝貴命命の略、以下之に従ふ)が之を活かさんとして、大分速水の湯をば、下桶にて渡し来し、少神をあむせしかば、暫時にして蘇生し、元気回復せし。践みたけびし跡、今湯中の石上に在りといへるのは、今道後温泉又新殿の側にある玉の石是れなり」とある。

 次のように解説されている。
 「上記は和銅年間、國司勅令を奉じ録上したるものにして、本項は古来の傳説を記したるものなり。二神は、伊豫の東西を通じて経営し、後にこの温泉に及びたること推知すべきのみ。二神は、道前道後方面の経過綸を了り、尋で喜多平野の開拓に従事せられたるものの如し、而してその居處は一定せず、處々轉々したるは見易きの理なり。喜多郡内ノ子町字植松に、少神を祭れる植松神社あり、社下半町の處に平地あり、ここに古墳ありて(二十許前に除かる)その傍らに太夫屋敷と云ふ處あり、少神最初の居館と傳ふ、神去後その霊を祀りて天神と称す。少神は至て小さき御方也。大汝は之を袂に入れて旅行せられき、されど大汝は大兵にして魯鈍、少神は矮小にして怜悧なり。一日少神一巳にて宮が瀬を渉り給ふ時、川に白手拭を被りたる老媼あり、之を見てこそは急流にして危険なりと注意を與ふると同時に、少神は溺死したまえり。その字媼がしろ手拭をかぶり居たるに因み、以来この川に来る者、白手拭を着くるを忌む、もし之を犯せば、必ず災あり云々 」。

 日本最古の漢文とされるもののひとつに伝聖徳太子作の道後温泉碑文がある。このなかに「沐浴神井而李疹」(神井に沐浴して疹を李す)とある。当時から温泉につかっていたことが分かる。平安びとがこよなく愛した白楽天の長恨歌には「温泉水滑らかにして凝脂を洗ふ」という有名すぎるくらい有名な句がある。

【医薬の祖譚】
 農業技術、温泉湯治場、酒の効用のほかにも様々な医薬的事業も手がけている。自然界の穀物、木々、草木その他の一つ一つを丹念に吟味し、その適切な効用を見出して行く過程で、病気治療の方法、その医薬的処方をも確立して行ったと思われる。これを仮に「出雲医学」と命名する。「出雲医学」は和製漢方とも云うべきもので、今に生きるかなり高度なものであると知られねばならない。これにより「少彦名神は本朝(日本)医薬の祖神なり。異朝(中国)にては神農氏を以って医薬の祖とす」と称されている。丹後国風土記は逸文の中で「少日子命、粟を蒔きたまいしに、秀実りて離りき。即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島という」と記されている。神田明神は一の宮としてオオナムチ・オオクニヌシ、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしてる。

 我が国には、漢方より以前、和方とも云うべき薬草学が発達していた。少名彦がこれに大いに関係している。延喜典薬式に用いられている薬草石斛(せつこく)は「少名彦の薬根」と呼ばれている(「和名抄」、「本草和名」)。近世以降,大阪の薬問屋街,道修町(どしようまち)では薬種の守護神として少彦名神社をまつり,毎年11月には全店休業しての大祭が今日でも行われている。また薬師信仰の普及のなかで,スクナビコナは薬師如来と習合されてゆくが,857(天安元)年2月、神をまつる常陸国大洗磯前(いそざき)神社、酒列(さかつら)磯前神社(ともに式内社)が、官命により〈薬師菩薩名神〉と加号された(《文徳実録》)のはその早いあらわれといえる。

 鍼灸医学も、大国主の命、少名毘古那の命に始まる。和医(やまとい)の祖である。和医は「医は仁術なり」という精神哲学をモットーとしている。「巫」の字は、人が人に工を施すことから作られた字で、「巫(みこ)」と読まれている。「巫」は「天・地・人」の働きを網羅し、「宇宙・自然界・人」の営みすべてに通ずる立派な人で、民の長を云う。したがって、「巫」とは「仁」に通ずる人ということになる。(「医は仁術なり」参照)

【酒の祖譚】

 少彦名は酒造りの技術も広めている。酒造りそのものはホツマ伝えに記されているように相当古くから伝わるものである。これを踏まえれば、少彦名は「旨い酒づくり」に一役買ったものと推定できる。これが各地の地酒の始まりである。医学的に捉えた「酒は百薬の長」の言葉も、この頃よりのものと推定できる。そういう意味で「酒の神」、「酒造の神」としての信仰を集めている。

 日本書紀の崇神天皇の段の8年12月20日に次のように記されている。

 「天皇は大田田根子命に大物主神を祀らせた。この日、活日は御酒を天皇にたてまつり、歌を詠んだ。『この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久』。このように歌って神の宮で宴を開いた。宴が終わり諸大夫が歌った。『味酒(うまざけ) 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出て行かな 三輪の殿門を』。天皇も歌って言った。『味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を』。そして神の宮を開いて出てきた。この大田田根子命は三輪君らの祖先である」。

 神功皇后摂政13年2月の条(仲哀天皇段)に次のように記されている。

 「神功皇后は、政敵忍熊皇子(おしくまのみこ)を破り、摂政となって、自分の子・誉田別皇子(ほむたわけのみこ、後の応神天皇)を皇太子(ひつぎのみこ)とする。そして、大和の磐余(いわれ)に都を作る(神功皇后摂政3年正月)。国が治まると神功皇后は新羅との外交に精を出した。神功皇后は、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて、誉田別皇子と共に角鹿(つぬが、現在の敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)を拝み祭らせる。神功皇后は、磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて敦賀の気比大神と名替えの神事を行い、その後に酒宴を張り、以下の歌を詠む。『この御酒(みき)は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿き(とよほき) 寿き廻(もと)ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉(献)り来し御酒そ あさず飲(ほ)せ ささ』」。

【突然の身隠し】
 スクナヒコナの神が退場する。日本書紀に次のように記されている。
 「その後に、スクナヒコナの神、行きて熊野の御崎に至りて、後に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ。亦曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて、栗茎(あわがら)に縁(のぼ)しかば、弾(はじ)かれ渡りまして常世郷に至りましきという」。
(私論.私見)
 スクナヒコナの神退場の寓意は何か。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

 道後温泉を発見ののち、大巳貴命(おおむなち)(大国主之命)と共に、山頂沿いに南下し、壷神山(大洲市八多喜)に薬壷を忘れ、都(大洲市新谷)に居住され、その後、宮瀬(大洲市菅田)に移られ、肱川を渡り更に南下しようとしたとき、大神に呼ばれ高天原か黄泉の国へ旅立たれたとされる。多くの仕事をやり終え、日本の国が大分良くなった頃、「未完成の国を残して出雲の熊野の御碕(みさき)から常世郷(とこよのくに)に行ってしまった」。出雲国風土記の意宇郡の条に、「粟茎(あわがら)に登ったら弾かれて常世郷へ行ってしまった」と記されている。粟島で粟の茎に登り、その弾力ではじき飛ばされた云々。行き先は淡島(現在の鳥取県米子市の上粟島・下淡島とも、瀬戸内海の島ともいわれるが定かではない。「海の彼方からやって来て、技術や文化を伝え、また常世の国に帰っていく」というパターンになっている。

 スクナビコナが常世の国へ去ったとされる地は鳥取県米子市の粟島。小山にはスクナビコナを祀る粟嶋神社が鎮座している。現在の小山は、かつて中海の島だったといわれている。

【少彦名命の神陵】
 少彦名の御陵は大洲少彦名神社(大洲市菅田町大竹乙937-2)である。次のように記されている。
 「大洲市の少彦名神社伝承では、肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重にお壷谷に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの大洲市の少彦名神社である。少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが終焉の地は当地といわれている」。
 「大國主命の御魂は三輪の神奈備に、事代主命は宇奈堤の神奈備に、阿遲高彦根命は葛木鴨の神奈備に、賀夜奈流美命は飛鳥の神奈備に鎮まりまして居る。大洲地方の神南備は即ち神商山。少彦名命は國土経営の為めに諸國を遍歴して(記・紀)終に伊豫の國に表れ給ひ、道後温泉を定め給ひ、(伊豫風土記)次で同族の多数に住居せる大洲盆地に来住せられ、この平野の開発の途中神去りませしものにして、その神陵は梁瀬山御陵壷谷に築かれ、神南山に其神南備をもうけられたものであります。少彦名の神様は医薬造酒の神であるばかりでなく實に吾国土経営の神様でありまして神代市場重要の位置を占めらるる方であります」。

【少彦名神社】
 少彦名神社は大阪府大阪市中央区道修町二丁目1番8号、北緯34度41分19秒、東経135度30分21.5秒にある。祭神は少彦名命、別称として道修町の神農さん、神農さん。旧社格は村社。少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。旧社格は村社。

 少彦名命を祀る神社は、全国各地に相当数あるが、ほとんどが大巳貴命(大国主命の異名)と合祀されていることが多い。愛媛県大洲市菅田町には少彦名神社という社名の神社もある(旧社格は無資格社)。奈良県桜井市三輪町の大神神社(通称三輪明神ともいい、旧社格は官幣大社。祭神は大物主神、すなわち大国主命の和魂)にも祀られている。であり出雲の神ではない。少名毘古那神(スクナビコナノカミ)は、恵美須神社や五条天神宮に祀られている。

【少彦名の祀り神社】
 少彦名は三輪山にも祀られている。三輪の大神神社は、倭大物主櫛長玉命を祭神とし、大巳貴神、少彦名神を配祀している。大神神社の隣の狭井神社(花鎮社)の祭神は主祭神は大神荒魂神、配祀神として大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜陀多良比売命、事代主神となっている。狭井神社のとなりに磐座神社があり少彦名神が単独で祭祀されている。

 奈良の古社に奈良町天神社がある。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.22.906
N34.40.30.561&l=10

 この神社の天神社略縁起には以下のように書かれている。
 「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京が我が国の首都であった8世紀、平城の飛鳥(ならのあすか)と呼ばれた聖地でありました。ここにまず祀られたのが、国つ神の中心の一柱である少彦名命(すくなひこなのみこと)で、手間天神とよばれ医薬や学問の神として崇められました」。

 三輪からみて歴史に残る峠として逢坂 墨坂 忍坂とあり逢坂には大阪山口神社 穴虫大坂山口神社、墨坂には墨坂神社、忍坂には押坂山口坐神社、忍坂坐生根神社が祭られている。このうち忍坂坐生根神社には少彦名神が祭られ大阪住吉の生根神社の基社とも云われている。宇陀から伊勢本街道を通って吉野に抜ける途中の三茶屋に久須斯神社がある。この久須斯及び久斯は酒のことであり祭神は少彦名神となっている。


【少彦名考】
 少彦名の神徳について、「吉田一氣の少彦名神の考察」は次のように述べている。
 「少彦名神は日本神界では大國主命との国造りのあと姿を消したといわれ今日、祭祀している神社も大半が天満宮に取ってかわられた経緯があるがその大いなる霊験は神仙界にもたらせられている事が分かった。しかしもともと天孫系でありながら大國主命に協力した国造りの神であり国家安寧を願へばその験は比類無い神であれば今一度その少彦名神の神霊を招魂し祈願することが日本国の未来に光をもたらすことになると筆者は信じている」。

【スクナヒコナの神祭祀譚】
 「少彦名神考察」参照
 続日本紀によれば, 735(天平7)年夏に大宰府管内で天然痘が流行し、737(天平9)年春には再び大宰府管内で流行し畿内にも及んだと記録されている。天子宮由緒書きによればそれより以前の713(和銅6)年の道君首名公が初代国司として筑後に赴任した年にも筑後に疫病が流行し死屍累々だったらしい。702 (大宝2)年に出航した遣唐使(粟田朝臣真人、正四位下)の誰かが病気を持って帰国したと推理できる。道君首名公はこの疫病平癒を祈願するために大国主神少彦名神を小天の地で祭祀した。七日七晩祭祀しても霊験がなく思い余って道君首名公が火中に入って身を炎にさらした時、神光赫躍たるを感じ神霊降臨し肥後筑後の民の疫病がことごとく平癒したという。

 その後、天平7~9年(735~737)頃に大宰府の管内から始まった天然痘の流行よりこの大宰府近辺にもに天満天神を祭祀したと想像する。これは筑紫国司の道君首名公が和銅六年に少彦名神を祭祀することにより疫病を平癒させた経緯によるものである。

 その後この地に菅原道真が配流されてきてこの地で延喜3(903)年に没する。この頃の御霊信仰により道真公の霊を鎮めて疫病などもたらす祟りを免れようと、道真公の御陵に、もともとこの地に祭られていた天満天神を祭祀したと考えている。ところが987年に一条天皇の令で菅原道真公が天満天神として祭祀されることになる。奈良市高畑町の奈良創世時に祭祀された最古社である「天神社」の天神社略縁起にも以下のように書かれている。「もともとは少彦名神の一神を祀る天神社でしたが、平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、道真の霊を祀る天満宮が、各地に奉祭されるにともなって、ここの神域にも、相殿が建てられて、御霊(ごりょう)信仰の主神であり、学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました」。
 豊中市服部天神社由緒。

 「その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に秦氏の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの地に住まいました。服部の地名は秦氏の人々の住むところとして機織部から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した服部連の本拠地がこの服部であります。(新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別)外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である少彦名命を尊崇していましたので、当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたものと思われ、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。右大臣、菅原道眞公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、このあたりで持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。そこで村人のすすめで、医薬の祖神少彦名命をまつる服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、再び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の霊を合祀し服部天満宮として堂宇を建立し、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」、「足の神様」として全国の崇敬をあつめる様になりました」。
 少彦名神をゑびす神として祭祀する神社も存在している。京都の八坂神社の摂社五社のひとつ天神社は祭神が少彦名命となっている。丹波の出雲大神宮。ここに事代主神と少彦名命を祀った笑殿社というのがある。八坂神社摂社の五社は八幡社 竈社 風神社 天神社 水神社の五社で天神社の祭神は少彦名神で例祭日は十二月八日となっている。熊本の小天(おあま)に天子宮とも呼ばれる小天少彦名神社があり、この神社こそが道君首名公が当時流行した疫病平癒を祈願した地に立てられた神社だということが分かった。熊本市琴平通りの琴平宮(金比羅神社)には少彦名神が平祀されている。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.42.27.27N32.46.57.867&l=11
 熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.47.12.224N32.46.28.383&l=11
 三輪の大神神社は、倭大物主櫛長玉命を祭神とし、大巳貴神・少彦名神を配祀している。隣りの狭井神社(花鎮社)の祭神の主祭神は大神荒魂神、配祀神として大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜陀多良比売命、事代主神となっている。狭井神社のとなりに磐座神社があり少彦名神が単独で祭祀されている。御巫八神(宮中八神)は神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神。
 三輪からみて歴史に残る峠として逢坂、墨坂、忍坂とあり、逢坂には大阪山口神社、穴虫大坂山口神社。墨坂には墨坂神社。忍坂には押坂山口坐神社、忍坂坐生根神社が祭られている。このうち忍坂坐生根神社には少彦名神が祭られ、大阪住吉の生根神社の基社とも云われている。宇陀から伊勢本街道を通って吉野に抜ける途中の三茶屋に久須斯神社がある。この久須斯及び久斯は酒のことであり祭神は少彦名神となっている。
 奈良の古社に奈良町天神社がある。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.22.906N34.40.30.561&l=10
 この神社の天神社略縁起には以下のように書かれている。「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京が我が国の首都であった8世紀、平城の飛鳥(ならのあすか)と呼ばれた聖地でありました。ここにまず祀られたのが、国つ神の中心の一柱である少彦名命(すくなひこなのみこと)で、手間天神とよばれ医薬や学問の神として崇められました」。
 その北3kmほどのところにある奈良豆比彦神社が気になる。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.13.321N34.42.3.801&l=10

 奈良豆比彦神社には天智天皇の第七皇子の志貴皇子春日王が副祭祀されている。母親は采女であった越道君娘。志貴皇子はまず十中八九、道君首名公とは母方の血縁関係がある。道君首名は若い貴族として大宝律令の制作メンバーに任命され、701年には大安寺にて僧尼令を説くなど将来を嘱望されていた。志貴皇子のほうが3歳程度道君首名より年上である。この二人で一番近い血縁となれば従兄弟ということになる。志貴皇子の第六子の白壁王が光仁天皇として即位しているが志貴皇子にとって自分の後胤が天皇に即位するとは考えられない奇跡ともいえる。さてこの血族が祭祀した奈良豆比彦神とは産土の神の平城津彦神ともいわれており奈良町天神社略縁起にも「平城京の時代にここにまず祀られたのが、国つ神の中心の一柱である少彦名命」とも書かれている。ここに伝わる翁舞の由来は、春日王が病気になったとき、第一皇子・浄人(きよひと)と第二皇子・安貴王が、奈良豆比古神に父君の平癒を祈願して舞を奉納したことに始まると伝えられている。病気平癒も少彦名神の霊験である。
 奈良豆比彦神社の南に常陸神社(ひだちじんじゃ)奈良市法蓮町がある。ここの祭神も少彦名神(少名彦那命)である。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.49.17.878N34.41.32.024&l=11

 常陸神社勧請の記は次のように記している。
 「常陸神社の御祭神を少名毘古那の尊と申す。今より千余年の昔、国司たりし常陸大豪中臣連と言う人が少那彦那の神を信じ、一社を建立信仰せられたる時、桓武天皇、延暦7年、都を山城国愛宕郡へ遷し賜うに際し祭神を当佐保岡の地に移し賜えり。然るに、中世応仁の大乱により神社も廃壊して、神燈も絶へんとせしを、徳川の治世となり、8代将軍吉宗公、寺の由来を調べ再建ありし時、当神社を郡山の城主 柳沢甲斐吉里公に、申し付け、御造営ありてより、参詣者、続々と相集り、時移り、明治の後期、拝殿・社務所等を改築し今日に至る」。

 わざわいは、少名彦那(すくなひこな)の神なれば 祈るやまひも、ひたちなるらん
 京都で少彦名神を古くから祭祀する古社に五條天神宮がある。この五條天神は少彦名神であり、その感応を受けて牛若丸と弁慶の話が出来てきたものと思われる。この五條天神に伝わる嘉賀美能加和(カガミノカワ)宝船は最古の宝船と考えられる。この神社から派生した(勧請された)神社と考えられるものに東京上野の五條天神がある。但し、その由緒書きには創建は日本武尊となっている。大阪の道修町の少彦名神社は安永9年(1780)10月に京都の五條天神から勧請したことが記録されている。
 大阪/露天神社、お初天神/祭神は少彦名神と菅原道真公
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.30.11.332N34.41.46.319&l=10
 道臣命とは大伴氏の祖。天忍日命の曾孫。最初、日臣命(ひのおみのみこと)と名乗った。神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。同年8月、天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。同年9月、神武天皇みずからが高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となり「厳媛(いつひめ)」と名付られる。同年10月、大来目らを率い、国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐する。辛酉年、大来目部を率い、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。神武即位の翌年には、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。天忍日命 あまのおしひのみこと とは大伴氏の始祖。伴氏系図などは高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子神とする。記によれば、「天孫降臨の際、天久米命と共に、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。また書紀神代下一書によれば、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る」とある。
 大阪天満宮
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.30.55.96N34.41.33.7&l=11

 菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向ったが、2年後にわずか59歳でその生涯をとじた。(延喜3年/903年2月25日)その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は金色の霊光を放った。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座された。大将軍社は、その後摂社として祀られるようになったが、大阪天満宮では、現在でも元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっている。毎年六月と一二月の晦日には、都への四方からの進入路上で、「八衢比古(やちまたひこ)神、八衢比売(やちまたひめ)神、久那斗(くなど)神」の三神を饗応し、「鬼魅(もののけ)」が都に入るのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)が行われた。当時の人々が最も恐れた鬼魅は疫病、特に疱瘡であった。道饗祭において、疫神である「八衢比古神・八衢比売神」と、異境の悪神を避ける「久那斗神」を祀ったのは、そのためであった。三神に「於富加牟津見(おほかむつみ、意富加牟豆美)神」を加えた四神を祭神している。於富加牟津見神は、桃の実の精で、悪気を払う霊力ある神とされる。御伽草子の桃太郎は、実はこの神がモデルであり、退治される鬼は疫病(疱瘡)を象徴している。
 東大阪 御厨天神社(みくりやてんじんじゃ)

 この神社は大名持命(大國主命)、少彦名神を祭祀している。ここには東大阪で一番大きい楠の木がある。熊本天社宮にも大クスがあり御神霊の宿るゆえと思える。
 神田明神 

 出雲氏族で大己貴命の子孫の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村である現在の東京都千代田区大手町の将門塚周辺に天平2年(730)創建されたとの事。平将門が並祀されているのが特徴。
 熊野本宮 摂社 音無天神 祭神 少彦名神(旧社地の大斎原内)

 「紀伊東牟婁郡史」から抜粋すると、「所在 一坪四分 向二尺五寸 奥行一尺九寸向拝出端二尺八寸屋根栩葺」と記されている小さな御社。能の「巻絹」に出てくるこの神は梅との関連から菅原道真公になり代わっている。
 和歌山県の加太神社(かだじんじゃ)。祭神は淡島明神。この神が少彦名神とされている。少彦名神の眷属が蛙であるとの伝承を持つ。ちなみに伊勢の夫婦岩がある二見興玉神社は猿田彦命を祭祀するが、ここでは蛙は猿田彦命の眷属といわれている。この神社には神功皇后の伝承が残っている。神功皇后が出兵からの帰途に嵐にあい、天神地祇に祈ったところ、友ヶ島にたどり着き、そこに少彦名命が祀られていた祠があった。数年後にその祠を神功皇后の孫である仁徳天皇が対岸の加太に祭祀し直したのが加太淡島神社といわれている。

 加太淡島神社の神事に雛流しがある。一説にはここがお雛様の神とされるのは、神功皇后(息長足姫尊)が懐妊の身で遠征を行った時に赤白の帯下に悩まされ、薬草を試みたところ平癒したという伝承があり、それで神功皇后が少彦名命の雛型を奉納したことにより、お雛様の神とされたということである。五條市でもこの雛流しは行われており、「竹ひごや楊子などに大豆、または豌豆を刺して、これに顔を描き、千代紙で着物を着せて、菱餅などとともに竹の皮の船に乗せ吉野川へ流す。各家庭の女子が女性の数だけ作り、それを婦人病や安産の神で知られる下流の加太の淡島神社へ届くようにと流す」とある。雛及び雛人形とは少彦名神のことかもしれないと感じる。ちなみに少彦名神神功皇后の男女一対の神像は、この加太淡島神社以外にもいくつか存在している。
 伊賀一宮の敢国神社。秦氏により少彦名神祭祀。これは豊中市服部天神で少彦名神を祭祀するのと同じ由来といえる。それに崇神天皇の御代に四道将軍の一人として、北陸を平定し伊賀の国に永住したといわれる道君首名公の祖でもある大彦命も祀っている。これは沙沙貴神社で記載した古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の祖神「大毘古神」と同一である。どうも秦氏、少彦名神、大彦命、道君首名公とに繋がりを感じる。道君首名公と少彦名神とゆかりがあるからこそ小天での祭祀で神霊が降臨したのだろうと感じる。そう考えると道氏が越の国で祭祀する白山菊理姫と少彦名神との間にも系統的つながりがあるのかもしれない。
 また藤原基経(836-891)は阿衡事件(あこうじけん)を起こし、菅原道真に進言され鉾を収めているがその子である藤原時平 (871-909)の讒言により道真は大宰府に左遷されている。39歳の若さで早逝したために、道真の祟りだといわれた。時平の死後、藤原氏の実権は弟の忠平に移ることになった。さてこの弟の藤原忠平であるが皇室の守護神として御所にお祀りしていた少彦名神、大國主命を鞍馬の由岐神社に940年に勅命を受けて遷宮を執り行った責任者でありその儀式は国家的一大儀式であったと言われている。基経の姉、息子共に勅命により少彦名神の祭祀を執り行っているがこれはなぜなのか?たぶん八坂の地に祭られていた「役神社」とはもともとは「薬神社」で少彦名神を祭祀していたものと思われる。摂政右大臣藤原基経は少彦名神を祭祀していたからこそ疫病平癒祈願したのであろう。そして霊験があったことが広まり異母姉の淑子の宇多天皇の平癒祈願につながったのであろうと思われる。





(私論.私見)