須我神社考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元年).5.16日
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 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2010.04.17日 れんだいこ拝


【須我神社考】
 〒699-1205 島根県雲南市大東町須賀260
 TEL.0854-43-2906 FAX.0854-47-0263

 主祭神/須佐之男命、稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦、八島野命。
 旧社格/県社。本殿の様式/大社造
 例祭/9月28日。
 主な神事/茅之輪神事、茣蓙替祭、鹿食神事他。
 須我神社(すがじんじゃ)は、須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称される。出雲國神仏霊場第十六番。 主祭神は、須佐之男命と妻の稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦(すがのゆやまぬしみなさろひこ)八島野命(やしまのみこと、八島士奴美神)。諏訪大社の分霊の武御名方命を配祀する。
 古事記によれば、肥河上(現斐伊川)でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治し稲田姫を守ったスサノヲノミコト(須佐之男命)は、妻の稲田比売命と共に住む土地を探し、出雲国須賀にやってきた。その際、 「吾此地に来まして、我が心須賀須賀し」と言い、この地は須我といわれるようになった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれる。宮殿が出来上がった時に、美しい雲が立ち上がるのを見て須佐之男命が詠んだ歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を」 (やくもたつ いずも やえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)。この御歌が日本初の三十一文字和歌と云われ、「和歌発祥の地」とされている。さらにこの御歌の出雲が出雲の国名の起源となっている。八岐大蛇伝説、「我が心須賀須賀し」の須賀の地伝説、三十一文字和歌発祥の地伝説の三つの伝承を伝えている。
 天平5年(733年)、出雲国風土記大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、当社の奥宮となっている。この巨石は磐座であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものである。
 天文年間(1532年 – 1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった。明治25年(1892年)に県社に列した。
 9月27日、鹿食神事。例祭の前夜祭の後に神楽殿において宮司、神職、伶人(雅楽を演奏する者)たちによって執り行われる。周囲の灯火が消され、殿内のわずかな明かりの中で祭事が進行する。神饌としてかつては鹿の頭が供えられていたが、現在では茄子の実を輪切りにしたものを鹿の頭に見立てて供えられる。国家安泰、五穀豊穣を祈る神事である。諏訪大社の分霊が合祀されたことによって始められたと考えられる。江戸時代には鹿食免も出されていたという。
 須我神社は、スサノオノミコトとクシナダヒメが造ったとされる「日本初之宮」。古事記によれば、 スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治されたあと、クシナダヒメを伴って、八雲山の麓に至ったとき、 「吾此地に来て、我が御心すがすがし」といわれたことから、この地域を須賀(スガ)というようになった。またこの宮を包むようにして美しい雲が立ち上がるのを見て、スサノオノミコトが、『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』と歌を詠んだことから、須賀の地は和歌発祥の地ともいわれている。そしてこの和歌にある「出雲」が出雲国の名前の起源となった。児授かり、出産、夫婦円満の守護神。【主祭神】須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田比売命(くしいなたひめのみこと)。御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)。また、かつて諏訪とも縁があって、その氏神の武御名方命(たけみなかたのみこと)も合祀されている。本殿のほかにも、境内には海潮神社、若宮神社、荒神の社、虚空社がある。【二宮詣で】須我神社では古来より本社と奥宮への二宮詣での習わしがあり、神社社務所で祈願札をお受けになって、奥宮の納札箱へ納めると、祈願札は一日、十五日に御祈願される。

 ■須我神社の奥の宮が夫婦岩。神社のすぐ傍に『神楽の宿』という茅葺屋根の建物がある。

住所 島根県雲南市大東町須賀260
お問い合わせ 須我神社 TEL:0854-43-2906 FAX:0854-43-5162 社務所(8:30~17:00)
備考欄 主な行事
■節分祭 2/3
宮司さんが放たれた矢を受け取ると、ラッキーが訪れるといいます。

■百手的神事(ももてのまとしんじ) 2/17 14:00~
悪鬼退散、五穀豊穣を祈願する。

■茅之輪神事(ちのわしんじ) 6/30 14:00~
須佐之男命が蘇民将来(そみんしょうらい)に一夜の宿を借りた礼に授けた除災招福の茅の輪にまつわる神事。

■茣蓙替祭(ござかえまつり) 8/22 16:00~
神前に新茣蓙を奉納する祭。奉納演芸(夜)

■鹿食之神事(かじきのしんじ) 9/27 19:00~
鹿の頭を供え、神酒を献じ国家安泰、五穀豊穣を祈願。

■例大祭 9/28 14:00~
年一番の祭礼。祭典後に神幸式(しんこうしき)、神代神楽(かみよかぐら)、綱引き大会(夜)などが行われる。
 島根県の奥出雲といわれる雲南市にある須我神社から約2キロ離れた神々の宿る八雲山(御室山/みむろやま)の中腹に、奥宮として鎮座する巨石(夫婦岩)。ここは大中小の磐座がまるで親子のように、迫力ある姿で鎮座している。古代における須我神社の奥宮(磐座、いわくら)祭祀の地とされる。あたり一帯が神聖な空気に覆われている。無料駐車場から奥宮の夫婦岩まで約400メートル。ゆるやかな坂道で、途中階段もあったり、舗装されていない山道を歩く。参道をしばらく進むと、途中左手に湧水が見えてくる。看板には不老長寿と書かれている「神泉坂根水」という湧水。豊富に流れ落ちる湧水で喉を潤したら、気が満ちる感覚になる。まもなく鳥居が見えてくる。
 60基建立された文学碑の経(ぶんがくひのみち)参道の階段の脇には、さまざまな歌が刻まれた石碑が点在しています。その数60基。一歩一歩、その歌碑が心に静かに染み入る感じです。先に現れたのは、迫力ある3つの磐座。ここは古代祭祀場でもあり、昔から地元の人の崇敬の場所でもありました。ご祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)と妻の櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、そしてその御子神の清之湯山主三名狭漏彦(スガノユヤマヌシミナサロヒコ)八島野命(ヤシマノミコト)の三神。親子3神が磐座3体として祀られています。

【須賀神社の数と分布について】
 戸矢学「怨霊の日本史――蘇我・物部の抹殺」(河出書房新社、2010)によると、北は秋田・宮城から南は宮崎まで511社ある須賀神社のうち、福岡県には130社もあり、とくに多いとのこと。
 木村博昭「古代出雲王国と神々の伝承――消された英雄とスサノオとニギハヤヒ」(批評社、2019)
p.66〜67    ヤマト王権の成立以来、歴代天皇や上皇がたびたび行幸された神社がある。 それは、大神[オオミワ]神社、大和[オオヤマト]神社、石上[イソノカミ]神宮、住吉大社、賀茂神社、八坂神社、日吉大社、松尾大社、伏見稲荷大社そして熊野大社である。これらの神社の縁起・伝承と祭祀氏族、祭神の神性と神事の内容そして各種の古文献を詳細に調べると、驚くべきことに、これらの神社の祭神は神名こそ異なるが、いずれも出雲の神スサノオとニギハヤヒの別名と考えられるのである。スサノオとニギハヤヒの異名同神と推定される神名を以下に示したい。詳細は『古代ヤマトの縁起と伝承』(批評社)を参照ください。
スサノオ 大山祇[オオヤマツミ]神、(大)雷[イカヅチ]神、高龗[タカオカミ]神、(大)綿津見[ワタツミ]神、櫛御気野[クシミケヌ](出雲/熊野大社)、速玉男[ハヤタマオ]命(熊野大社)、布都斯魂大神(石上神宮)、(大)兵主[ヒョウズ]神、迦具土[カグツチ](軻遇突智)神、八千矛[ヤチホコ]神(大和[オオヤマト]神社他)、八剣[ヤツルギ]神 他
ニギハヤヒ
大物主[オオモノヌシ]神(大神神社)、天照[アマテル](魂[ミタマ])神、大山咋[オオヤマクイ]神(日吉・松尾大社)、別雷[ワケイカズチ]神(上賀茂神社)、火雷[ホノイカヅチ]神、闇龗[クラオカミ]神、綿津見神、事解男[コトサカオ]命(熊野大社)、布留御魂[フルミタマ]大神(石上神宮)、兵主神、日本大国魂[ヤマトオオクニタマ]大神(大和神社)、(底)筒男命(住吉大社)、宇迦之御魂[ウカノミタマ]大神(伏見稲荷大社)、金山彦神、鏡作神 他
p.92
 「須賀」という地名は全国各地にあり、そこにある須賀神社にはスサノオとイナダ姫が祀られている。遠い昔、未開の地に移住して開拓に従事した出雲の人々にとって、スサノオは人々の営みを守る守護神であり心の拠り所であった。
p.95
③遠賀川下流域(福岡県)……出雲族が早くから住みつき、古代物部族の拠点になった地域である。(根拠)鞍手郡にある神社はほとんど出雲系で占められている。鞍手郡の古物神社の祭神はスサノオで、境内社の布留御魂神社はニギハヤヒを祀っている。(贄田[ニエタ]物部の根拠地)
 天照神社(宮若市)はニギハヤヒをフルネームで祀る社である。(弦田[ツルタ]物部・芹田[セリタ]物部の根拠地)
 亀山神社(小竹町)はオオトシを祀り、「大歳の社」と呼ばれた古社である。(狭竹物部の根拠地)祭神はその昔志摩国答志郡から白鶴に乗って飛来したという伝説が残っている。

 〈遠賀川下流域の特殊性〉
 北九州のなかでも遠賀川に代表される東側の地域は西側地域と別の文化圏だった可能性が高いと言われている。
 森浩一氏は「弥生時代中期以降の北九州の埋葬文化(大型甕棺や前漢鏡・後漢鏡そして青銅器の武器類を副葬する習俗)は北九州の西側地域のものである。ところが遠賀川流域では、中流域にある立岩遺跡(飯塚市)以外大型甕棺は少なく副葬品も貧弱で、弥生前期的な状況を継承して西側地域の習俗にも見向きもしない感じである。また、出雲地域から出土する出雲型銅剣は九州の西側地域から出土する銅剣とは型式も長さも異なっているが、遠賀川下流域の岡垣町から出土した銅剣は出雲型銅剣とよく似ている」ことを指摘している。
 このように、北九州の東・西地域間に埋葬の習俗や信仰に違いがあり、銅剣を介して出雲地域と遠賀川下流域がつながっていることは極めて重要である。それは「遠賀川下流域の古代物部族は出雲族」という視点とも合致する。
p.99
①筑紫の国魂「白日別[シラヒワケ]」
 太宰府市に隣接する筑紫野市に筑紫神社がある。祭神は白日別尊・五十猛[イタケル]尊・大屋津姫命他を祀る。九州は古代「筑紫」と呼ばれた。神社の記録に「九州を筑紫という称は白日別命の神号より起こった。筑紫の国魂である」と書かれている。つまり、「筑紫神・白日別命」の神号が、その後の九州全体の呼び名になったということである。この偉大な九州の国魂(開祖)「シラヒワケ」とは誰だろうか。ところが、「シラヒワケ」と一緒に祀られているイタケルとオオヤツ姫はスサノオの子である。したがって、「シラヒワケ」はスサノオであると推定できる。筑紫野市の隣町佐賀県基山町にはイタケルの「契り山伝説」が残っている。イタケルはスサノオの二男で、九州から和歌山に至る各地に「木」を植えて回った「木の神」である。そして、スサノオとともに九州で活躍した痕跡を数多く残している。「シラヒワケ」を祀る温泉神社が、長崎県の雲仙岳をとりまく3ヵ所にある。どの社も祭神は白日別命・豊日別[トヨヒワケ]宮・建日別[タテヒワケ]命・速日別[ハヤヒワケ]命・豊久土比泥別[トヨクシヒネワケ]命。
p.101
●福岡県から佐賀県・大分県・長崎県に及ぶ広い地域で、スサノオ父子を祀る神社が圧倒的に多いこと。
●スサノオ・イタケル・オオトシらの開拓と統治を物語る伝承が各地に残っていること。
●「シラヒワケ」の本宮である筑紫野神社で、「シラヒワケ」がスサノオの子イタケル・オオヤツ姫と一緒に祀られていること。
●雲仙の温泉神社(筑紫国魂神社)で「シラヒワケ」と一緒に祀られている「トヨヒワケ」がオオトシであると推測できること。
 以上のことから、筑紫の国魂「シラヒワケ」がスサノオであることは明らかであろう。そして、「筑紫の国魂」にふさわしいスサノオの足跡、この後も到る処で見られるのである。




(私論.私見)