サルタ彦考

 (最新見直し2013.3.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、サルタ彦考について確認しておく。「捨てざり難い説 封印された古代史妄想的話 猿田彦大神」、「サルタヒコの実体」、「」その他を参照する。

 2013.03.16日 れんだいこ拝


 猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、三重県伊勢市宇治浦田2-1-10の伊勢神宮内宮の近くにある神社。祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)。境内には天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)がある。

 上記。サルタヒコの父で、オオトシの神の子・ククキワカムロツナネは、カミムスビの娘・キサガヰ姫を妻としたが、所持していた黄金の弓矢を紛失してしまった。やがてキサガヰ姫はサルタヒコを出産するが、ツナネは、紛失した黄金の弓矢を持った子でなければ自分の子と認めないと言う。この時、川に角製の弓矢が流れて来たが、これを見たサルタヒコは、まだ生後二百日にも満たない赤児であったにもかかわらず、これは自分の弓矢ではないと言う。ここゆ 母の御祖の命 又 願(ね)ぎ申す時に 黄金の弓矢 川の瀬に浮(う)かみて 浮き越し来る。放れ 生れませる御子 真受けに取りて こほ吾が弓矢なり 母の命 憂くな思ゐましそとてその弓矢を取らして宣りたまわく ここは 暗き厳(いわを)なるかもと宣りつつも 弓矢引きまかなゐてその厳を射通しましし時に こちこちに照り輝けり。

 この話しは出雲風土記の島根郡加賀の神崎の条の伝説と酷似している。いわゆる佐太の大神の産生れませる処なり 産生まさむとせし時に 弓箭亡(ふ)せましき その時 御祖神魂の命の御子 枳佐加地売の命 願ぎたまひしく 吾が御子 ますら神の御子にまさば 亡(う)せたる弓箭出で来と願ぎましき その時 角の弓箭 水のまにまに 流れ出でけり その時これを取りて 子に詔りたまひしく こは非(あ)らぬ弓箭なりと詔りたまひて 擲(な)げ癈(う)て給ひき また 金の弓箭流れ出来つ すなはち 待ち取りまして闇(く)らき窟(いわや)なるかもと詔りたまひて 射通しましき すなはち 御祖支佐加地売の命の社 ここにいます。


 崎元正教氏の「日本建国史の復元」の「大己貴(大国主)の国造り」 の「5.1 『旧事本紀』が暗示する大己貴とニギハヤヒの親密な関係 」を参照する。但し、崎元氏は「狭漏彦=猿田彦=大国主の命=ニギハヤヒ」としている。れんだいこは、「狭漏彦=猿田彦」の説、「大国主の命=ニギハヤヒ」の説に同調するが、「狭漏彦=猿田彦=大国主の命=ニギハヤヒ」の説には同調しない。よって次のように書き換えることになる。
 旧事本紀巻四「地祇(ちぎ)本紀(ほんぎ)」にスサノオと稲田姫との子大己貴の別称として見える、清ノ湯山主(すがのゆやまぬし)三名(みな)狭漏彦八嶋篠(やしましの)に注目したい。この名は三つからなるが、頭の清ノ湯山主は生誕地をあらわす地名、最後の八嶋篠は八嶋(日本列島)のシ(神聖な)ノ(頭首)を意味している。その間に挟まれた三名狭漏彦というのは、それ以前の幼名の「御名」が「狭漏彦」であると告げているのではなかろうか。

 ここで問題は狭漏彦の読みであるが漢音では「さろひこ」、呉音では「さるひこ」である。かつて日本人は、日本語を書きあらわすために、中国から漢字を導入し、その音を借りて、一語一語を漢字で記すことからスタートしたが、導入当初は中国南方の呉音で発音される漢字を借りていた。それが徐々に北方の漢音の文字に置き換わっていくのは、7、8世紀になって北方に帝都をおく隋や唐に使(つかい)が頻繁に派遣されるようになってからだ。そんな次第で、ちょうどその境目あたりに編纂された古事記は「呉音」で、書紀は「漢音」で記述されていることが本居宣長らにより明らかにされている。 私は狭漏彦は「さるひこ」であった可能性が高いと考えている。

 こうなると、「猿田彦(さるたひこ)」との絡みが出てくる。古事記は、「猿田彦」が初めて登場する場面で、「上は高天原(たかまのはら)を光(てら)し、下は葦原中国を光(てら)す神」すなわち天照国照(あまてらすくにてらす)の神」として彼を紹介している。ここに登場する「猿田彦」神は、「佐太神社又は熊野大社(出雲)」系の祖神と理解したい。

【獅子山八幡宮秋季大祭宵宮】
 2021.6.4日、「神社の祭と祀り」の「野本 泰」氏の「獅子山八幡宮秋季大祭宵宮 比婆荒神神楽①、②」参照。
【獅子山八幡宮秋季大祭宵宮】比婆荒神神楽奉納
岡山県新見市哲西町矢田 獅子山八幡宮
御祭神:譽田別命・神功皇后・玉依姫命
祭礼日:毎年10月第1日曜日(前日の宵宮に比婆荒神神楽奉納)(撮影は2017年)
 ①七座神事と式典
 岡山県新見市哲西町矢田の獅子山八幡宮は、譽田別命・神功皇后・玉依姫命を御祭神とする神社。鎌倉時代の正治元年(1199)に伊勢国朝熊滝八幡宮から御分霊を勧請したのが神社としての始まり。矢田の氏神として人々の崇敬を集めている。 毎年10月第1日曜日に秋季大祭が行われ、その前日の宵祭に比婆荒神神楽が奉納される。比婆荒神神楽は、主に広島県庄原市東城町・西城町で信仰される本山三宝荒神を信仰の中心とする荒神信仰(同族集団全体の祖霊神への信仰)の式年大祭で行われる神楽で、県境をまたいだ岡山県側の新見市でも荒神信仰が盛んで、いくつかの集落で比婆荒神神楽保存会による式年の荒神神楽が行われている(「長作神楽」もその一つ)。また、神社の祭礼で奉納されることも多く、獅子山八幡宮の秋季大祭もその一つ。獅子山八幡宮の境内社には村々から集められたと思われる本山三宝荒神像を祀る小祠がいくつかあり、秋季大祭の宵祭・本祭の日にはすべての境内社の扉が開かれ、本社御祭神と荒神がともに神楽をお楽しみになる形をとっている。式年の荒神神楽は7年、13年、または33年ごとで、獅子山八幡宮での奉納は毎年、村人が毎年楽しみにしている行事の一つとなつている。
 獅子山八幡宮秋季大祭宵宮で奉納された比婆荒神神楽は、式典神事の前に舞われた「打立」(うったて)、「曲舞」、「指紙」(さすかみ)、「榊舞」(さかきまい)、「猿田彦の舞」。神事性の高い七つの儀式舞から構成される通称「七座(しちざ)神事」からの五舞で、それぞれの舞の簡単な説明は以下の通り。
[1] 打立(うったて) 神楽衆が御神前に向かい、笛・太鼓・神楽歌の楽合わせ。最初と最後に幣束を手に拝礼する。
[2] 曲舞 一人舞で「顔見せ舞」ともいい、神楽の基本舞で座ならしの舞。
[3] 指紙(さすかみ) 舞人の役割分担を書いた紙束を竹に挟んで舞う。役割を指定する神事舞。
[4] 榊舞(さかきまい) 座を清め神職や氏子を清める舞。最後に御神前に向って榊の葉を破り、穢れを祓い清める。
[5] 猿田彦の舞 二柱の猿田彦命が登場し、悪魔払いの意味を持つ激しい舞を舞う。
 これらの神事性の高い五舞が奉納されると、神職による厳粛な式典神事が執り行われる。神楽衆が伶人の役を担い、中国地方の祭特有の賑々しい太鼓の楽を奏す。修祓後、宮司により祝詞が奏上され、玉串の奉奠。五穀豊穣と氏子安泰の祈りが捧げられる。
[6] 国譲りの能。 出雲の国譲りの神話を舞にしたもの。天孫瓊瓊杵尊の降臨に先だち、広大な出雲王朝を治める大国主神のもとに高天原から国土の支配権委譲を求める使者、経津主神と建御雷神が派遣されてきた。国譲りを迫る経津主神・建御雷神と国譲りを認めない大国主神は刀を交える。見かねた稲背脛命(いなせはぎのみこと)は「やめろやめろ!」と飛び出してきて仲裁を買って出て、二神の指示で大国主神の息子の事代主神の元へ。大国主神と事代主神は相談の結果、国を譲ることを承認する。しかし大国主命のもう一人の息子、建御名方神はそれを認めず、力くらべを挑む。強すぎる建御名方神になかなか勝てない経津主神と建御雷神。剣の使い手の助っ人も加勢し、三人がかりで建御名方神を倒す。かくして国譲りが決定した。
[7] 八重垣の能 素戔嗚尊による八岐大蛇退治の神話を舞にしたもの。長者の脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)老夫婦が日照り続きのなかで「雨さえ降ってくれれば八人もいる娘の一人ぐらい人身御供に出してもいい」とぼやいたばかりに、それを聞いていた八岐大蛇に七人までも食べられてしまう。‎最後に残された八人目の娘、奇稲田姫(くしいなだひめ)も人身御供として食べられてしまうと途方に暮れていた老夫婦の話を聞いた素戔嗚尊は、奇稲田姫を妻に娶るかわりに八岐大蛇を退治することを約束する。素戔嗚尊はお酒を‎八岐大蛇にたらふく呑ませて酔わせてこれを見事に退治し、奇稲田姫を救う。
 どちらの舞もユニークな茶利役の繰り出す笑いを織り交ぜながら、日本神話のヒーローたちが織りなす白熱のシーンの連続。観客たちは手に汗握り、惜しみない歓声と拍手を送る。中世に生まれた古い農村神楽の伝統と神人和楽の精神が今も息づいている。長丁場の神楽が終了するのは午前3時すぎ。年に一度の神楽をともに楽しまれた神々と人々はしばしの休憩をはさみ、本祭の神輿の渡御に臨む。

【貝貨考】
 出雲大社の祭神はオオナムチ。アワビの貝が祀られている。それを見たいと思った時の権力者が無理を言って立ち入ると貝は「蛇」になったという伝説がある。猿田彦は貝に挟まれて死んだと。貝にはなにか秘密がある。

 キイロダカラなどの貝は貨幣(貝貨)であった。後世、貝に変わって「宝石」が通貨になっていく。貝には特別な意味があったと思われる。ガーナの通貨であるセディ(cedi)は、現地の言葉(Akan)でタカラガイ(の貝殻)を意味する。最古の貝貨は中国殷王朝時代のものでありインドとの交易にも利用された。漢字の「貝」はタカラガイに由来する象形文字であり、金銭に関係する漢字の多くは部首として貝部を伴う。但し、古代中国のタカラガイは貨幣ではなく、相手の繁栄を願って遣り取りされた宗教的な意味での贈与物であったとする異説もある。タカラガイの貝殻を "Megis Shells" もしくは "whiteshell" と呼んで神聖なものとみなし、ミデウィウィン(Midewiwin)という部族組織の儀式で用いていた。カナダマニトバ州にあるホワイトシェル州立公園(Whiteshell Provincial Park)はこの whiteshell にちなんで名付けられている。タカラガイの貝殻は女性、繁栄、生誕、富などの象徴とされ、装身具やお守りとして身に着けられる。タカラガイに対するシンボリズムは、貝殻の形状が妊婦の腹のようであることや、下面から見ると女性器や目を連想させることに由来している。日本でも、縄文時代の遺跡から装身具として用いられたものが出土している。また、沖縄諸島の祝女が首にかけて宗教的な意味を持つ呪物として用いたほか、竹取物語にも珍宝「燕の子安貝」として登場している。




(私論.私見)