諸氏のサンカ論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、諸氏のサンカ論について確認しておく。

 2011.01.30日 れんだいこ拝


【柳田国男のサンカ論】
 柳田国男は、人類学雑誌に「イタカ及びサンカ」と題した文章を明治44年から45年にかけて寄稿している(定本柳田全集四巻に収録)。柳田はサンカ問題に果敢に挑戦し、弟子の折口信夫は「日本の全人口の3割はサンカだ」と発表した。これが当局の逆鱗に触れ、柳田と折口の男色関係を特高に脅され民俗学へ転向を余儀なくされた云々とある。

 1997年1月10日付けの北海道新聞に東大のY教授が「世界の歴史刊行」に寄せての一文が載っていた。文中柳田の民俗学に触れて次のように書いてある。
 「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在への想像力こそ、柳田学から現代史学が受けた貴重な刺激ということになろう」。

 この評が次のように評されている。
 「この先生、国際関係史とイスラム史が専門らしいが、柳田が何故民俗学へ転向しなければならなかったかの、経緯も判らず、常民もサンカの意味もまるで判っていない。また、後段で秀吉とフエリッペ二世のライバル関係から云々と的外れな考察もしている。私は以前少し触れたが五木寛之の「風の王国」では、居付きサンカとトケコミサンカを一緒にして常民の側に置いて書かれていて惜しいが、この方が東大の先生の考察より数段ましである」。

【三角寛のサンカ論】
 昭和初期から戦前にかけて、三角寛が、実録小説の形を採ったスキャンダラスな山窩文学で一世を風靡した。1962年、論文「山窩族の社会の研究」で東洋大学から文学博士の学位を取得している。この三角氏のサンカとの出会いを確認する。(「知られざる日本人(第2回)三角寛(みすみ・かん)「サンカ小説家」と国家権力の影」その他を参照する)

 1903(明治36)年、三角寛こと本名・三浦守が大分県直入郡馬籠(現在は竹田市に含まれる)に農家の4人姉弟の末子として生まれる。幼少期に父親と死別している。


 1915(大正4)年、10歳のとき、近所の豊後大野市大野町田中の最乗寺(浄土真宗)に預けられた。 ここでお経を覚えて漢文に親しむ一方、家事一切や寺に伝わる民間薬の知識を吸収した。

 1920(大正9)年頃、寺を脱走。その後数年間、消息不明となる。赤穂(兵庫県)で私塾の書生のようなことをやっていたことが判明している。その後、有為転変を経る。

 1926(大正15).3月、朝日新聞の取材記者になる。板橋警察署の官舎に住みながらサツ回り担当(取材記者)となる。三角は警察ネタでスクープを連発する。そのひとつが、昭和初期の「説教強盗事件」だった。この事件は、強盗に入った賊が、戸締りの不備だの無用心だのを朝まで被害者に説教するというもの。犯人はなかなか逮捕されなかった。三角寛は取材中、ある刑事から「これは山窩の仕業かもしれない」と聞かされ、初めて「サンカ」に興味を持ったとされている。以降、サンカに遭うため頻繁に出掛け、精力的な取材を行った。結果として“サンカ”に関する貴重な資料が豊富に残された。「売れるから書く」と、三角は娘に豪語していた(「~サンカ小説家の素顔~父・三角寛」三浦寛子・著、現代書館)。

 後に、永井龍男の勧めで小説を書き始め、婦人サロンに「昭和毒婦伝」を連載し文壇にデビューする。

 1929(昭和4)年、初の山窩小説「岩ノ坂のもらい子殺し」を世に出し、流行作家となる。 山窩小説三部作と言われる「怪奇の山窩」、「情炎の山窩」、「純情の山窩」を発表し、流行作家の道を歩む。

 1932(昭和7)年、三角寛が、1913(大正2)年に警視庁の石島丑松刑事がサンカから入手した炙り出しを写真保存したものを石島氏から三角が入手し、サンカ文字と出会う。

 この頃、三角氏がひとのみち教団と関係していたことが判明している。礫川(こいしかわ)全次氏の「サンカと三角寛」によると、ジャーナリスト・大宅惣一氏の「ひとのみちとジャーナリズム」が次のように記している。
 「僕も昨年(1935年)、新聞でこれらの類似宗教を批判し、『彼等ひとのみち文士が果たしてどの程度まで、この宗教を信仰しているか疑問だが、その中で相当文化的訓練を経たインテリが入っているということは、彼等がそれを信仰していると否とに関わらず、より低い、より批判力の乏しい大衆をひきつける上に重要なマネキン的役割を演じている』と書いたのに対し、三角氏は僕に長文の抗議文をよこし、その中で自分が決して売文のために入教したものでないことを強調し、たしか四十八時〔間〕以内に返答せよと迫ってきた。本気で信仰しているのなら、いよいよ馬鹿馬鹿しいと思ったのでうっちゃっておくと、「ひとのみち」のマークをつけた三人の壮漢が、僕の家へ突然やってきて暴力的言動を残して帰って行った。その後、こんど三角氏自身部下を連れて僕に面会を求め教育勅語を教義とする宗教を罵るのは不敬だから、詫び状を書けといって、半日位坐(すわ)りこんだが、ついに何物もえずに帰った」。(「サンカと三角寛」184・185ページ) 

 1942(昭和17)年、太平洋戦争がはじまると三角は山窩小説の筆を絶つ。夕張炭鉱の経営で失敗したのち、皇国(みくに)薬草研究所を開き、痔と霜焼に効くという民間薬の浴用剤を開発。サンカに伝わる薬草を軍に売り大儲けする。

 1948(昭和23)年、戦後、映写機を手に入れ、吉川英治徳川夢声井伏鱒二らを株主とする映画館「人世坐」(池袋、43年閉館)、「文芸坐」(池袋)の経営にあたる。その後、三角は宗教法人を設立し、僧侶の分際で法人名義の不動産を買い漁るかたわら、出版活動も続行する。

 1957(昭和32).6.24日、三角氏は、随筆家福田蘭童氏の作品を著作権侵害だとして著作権協議会に提訴している。6.25日付けの朝日新聞記事「『山窩言葉の盗用』と福田蘭童氏を訴う 著作権侵害で作家の三角寛氏」によると、7.15日号新潮社発行「別冊小説新潮」に福田氏が発表した異色実話「ダイナマイトを喰う山窩」に対し 三角氏は、「自分が想像した山カ〔窩〕言葉を盗用した」として提訴している。三角氏の申立ての要旨は、一、いわゆる山カ言葉は私(三角氏)が、既に死んだ言葉を復元したり、くずれた言葉を直したりしたもので、中には新しく作った言葉が山カナ釜に逆輸入されている場合もある。いわば独創的な創作言葉で、それを福田氏は無断で五十ヵ所にわたり、三十語盗用しているのは著作権侵害である。二、福田氏の作品には関東の山カがバクチ、牛泥棒、農家の娘のゆうかいなどをやったという事実無根の話があり、山カの人権を侵害するものだ、としている。

 福田氏は三角氏の抗議に対し、19日に三角氏と会い「宇都宮の博徒から取材した語を山カ物語に作り変えた。山カ言葉を無断で使ったのは申訳ない」と謝意を表しているという。また、関東著作者大会から新庁舎に宛てて同作品の全面取消し要求が出されている。三角氏は次のように応答している。「これまでもたびたび同じケースがあったが、私的に話合いをつけてきた。しかし、山カ言葉を濫用され、山カの人権を侵害する作品がたび重なるので、公的に決着をつけるため提訴した云々」。

 これによると、山窩言葉は三角寛による「独創的な創作言葉」であるから、それを使用するのは、「著作権侵害」にあたると主張していることになる。奇妙なことに、当の三角氏自身が、サンカなる表現も含めサンカ物語を創作としていることになる。福田氏を著作権侵害で訴えた5年後、「サンカ社会の研究」を著わしていることになる。次のように評されている。
 「サンカが、流行りだ。サンカといえば三角寛、であるらしい。 「サンカ」(山窩)という集団は、ほんの数十年前まで、山々と人里の間を野営しながら定期的に移動し、竹などで編んだ農具(おもに箕:み)を作ったり修繕したりして、村々で食料と交換していた。漂泊する「化外の民」だ。 そして、素朴で特殊な習俗と神話、独自の文字も持っていた。集団には首長、さらに全国の首長を掌握する最高権力者もいた。掟とヒエラルキーと外部への秘密保持は絶対で、反逆者は処刑された――。 以上は、三角寛が伝える「サンカ」像なのだが、三角の博士号取得論文『サンカ社会の研究』(昭和37年)さえ否定されつつあるのが、現在の定説だ。ではなぜ、戦前、山窩小説で一世を風靡した三角は、勘違いな論文を書いたのか? 三角寛の生き様に、その謎を解く鍵がありそうだ」。

 1962(昭和37)年、学位論文「山窩族の社会の研究」で東洋大学から文学博士の博士号を取得する。学位申請書には農学博士、社会学博士などを「各方面から取るようにいわれていた」、「もっともすすめられたのが、サンカ社会研究の論文執筆(略)。サンカに関する限り、三角寛がこのまま死亡すれば(略)学問上の真相文献はのこらない」と記している。ペンネームの三角寛で論文を提出している。

 晩年、埼玉県の桂木寺の住職を務めた。

 1971(昭和46).11.8日、三角寛は世を去った(享年68歳)。

 三角寛全集全35巻・別巻1巻を母念寺出版より刊行中に死去し未完に終わっている。現代書館から三角寛サンカ選集全7巻が刊行されている。


【説教強盗・妻木松吉事件】
 事件録」の「説教強盗・妻木松吉事件」。
 1926年(大正15年)から29年にかけて、都内で「泥棒除けには犬を飼いなさい」、「戸締りは厳重におこないなさい」と親切?にも忠告して、金を奪う強盗事件が相次いだ。逮捕されたのは西巣鴨の左官・妻木松吉(当時29歳)だった。その男は真夜中に静かに家に侵入し、電球をはずし、煙草をふかしながら寝ている主人の枕元に座った。主人が人の気配で目を覚ますと、懐中電灯とナイフを持った男は「もしもし」と声をかけた。「実はのっ引きならぬ事情で、金の必要に迫られ、夜中お眠い所に参上した次第です。寝ている所を甚だすみませんが、少々金を恵んでは戴けませんか」。驚いた主人が家にある金を渡しても、男はすぐには立ち去らない。「あなたの家は、どうも暗すぎる。これでは強盗に入られ易いですよ」、「泥棒除けには犬を飼いなさい」、「くれぐれも戸締りは厳重にお願いしますよ」、「私が去ったら、すぐに警察にお届けになるべきでしょう。電話線は切ってあります。ここからは○丁目に交番があるはずです。では、さようなら」。男はやわらかな口調で防犯対策について説教し、やがて消えていくのだった。

 1926年(大正15年)から29年(昭和4年)にかけて、このような強盗事件が続いていた。犯人は一向につかまらず、警察の他に、青年団や在郷軍人が自警団までつくるほどだった。この強盗犯に対して、朝日新聞・三浦守(のちに作家・三角寛)は「説教強盗」という名をつけた。これは一躍流行語となり、国会でもこの問題について取り上げられたほどだった。まさに「怪盗ルパン」を地でいく、この強盗犯に対して拍手を送る者までいた。一方、金持ちは犬を飼い始め、一時犬の値段が急騰することになった。1929年2月23日、説教強盗はついに捕らえられた。西巣鴨の左官業・妻木松吉(当時29歳)だった。

 松吉は1901年に山梨県市川大門町で生まれた。母親が獄中で産み落としたのである。幼くして父親とは死別し、母の再婚先で育つ。小学校を卒業すると奉公に出た。1920年、松吉は奉公先の牛乳配達店で店の金をごまかしたとして、懲役8ヶ月を言い渡され、半年ほど甲府刑務所に入っていた。出獄後は関東大震災直後の東京・小石川豊川町で左官修行を始め、25歳で結婚しているが、復興景気が終わると仕事にあぶれることが多くなった。妻子を食べさせるために、松吉は26年(大正15年)頃から強盗を始める。最初に入ったのは池袋81番地の女性方だった。それからも、「人を殺さず、傷つけず」をモットーに、犯行を重ねつづけた。びっくりさせるようなこともせず、ひっそりと佇み、家人が起きるのを待っていたのもこのためだった。侵入した家は未遂を含んで、小石川、本郷、中野、杉並などの城北地域中心に100件、奪った現金は計5000円ほどにもなった。ちなみに当時の大卒の初任給は50円ほどである。

 説教強盗が世を賑わしていた頃、「説教強盗2世」なるものも登場した。女流評論家・三宅やす子、歌人・下田歌子方などを7軒を荒らした岡崎秀之助(当時36歳)である。岡崎は松吉とは違い、小田急線沿線などの地域の、有名人宅に狙いをつけていた。1929年2月6日に、デパート松坂屋に入った際に捕まっている。また横浜でも1928年12月に同じような手口が9件起こっており、松本儀七(当時37歳)が逮捕された。「東京中を騒がしている説教強盗の真似がしたかっただけだ」と供述。

 1929年2月23日、警視庁の8人の刑事達は、西巣鴨にある長屋建て松吉宅を、保険のセールスに化けて訪れた。刑事たちが松吉に目をつけたのは、3年前に被害にあった上板橋の米屋に指紋が残されていたからだった。刑事たちはあらかじめ隣りの部屋にも「ごめんください」と訪れていたので、奥の部屋で新聞を読んでいた松吉は保険のセールスマンと思い、怪しまなかった。刑事に取り押さえられた松吉のふところからは、盗品の金鎖り付腕時計、小判2枚、八角型腕時計、ダイヤの指輪などが出てきた。「なぜうちの人が連れていかれるの」。銭湯から帰ってきた妻と2人の子ども達は、彼が説教強盗だったとは気づいておらず、そう泣き叫んでいた。連行された松吉は取り調べに対して、なんでも素直に答え始めた。強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件、婦女暴行1件。松吉はこれだけの犯行に関わっていた。

 説教をしていたのは、逃走に適当な明け方までの時間かせぎと、被害者の方にも落ち度はあったと自覚させるためだったという。毎日、新聞を読み、どの地域なら捜査陣が手薄かも調べてから出かけた。犯行日の2~3日前は、ターゲットとなった家の周囲の地理を徹底的に調べた。犯行は夕方から翌未明のあいだに行なわれ、侵入時と逃走時では服装を変えるなど慎重だった。強盗しに、家を出るときには妻に「徹夜の仕事になる。近頃は物騒で泥棒が多いから気をつけろ」と言っていたという。奪った金は主に生活費に使い、幼い子どもに玩具を買ってやったり、よく行っていた浅草公園の乞食にめぐんでやったりもしていた。ある日には説教強盗が逆に家人に説教されたということがあった。下落合のある家に忍び込んだ時である。「君も好きや、道楽で強盗をしているんじゃあるまい。真人間の生活をしなければ、だめだよ」。松吉は明け方まで主人にお茶をご馳走になり、5円札をもらって出ていった。
 
 1930年、東京地裁・神垣秀六裁判長、松吉に無期懲役を言い渡す。控訴せず、刑は確定となった。秋田刑務所での松吉は稀に見る模範囚だった。1948年、新憲法公布にともなう恩赦を受けて仮出獄。松吉は以前侵入した家が、空襲で焼かれているのを目の当たりにして、「2度とあんなことはしたくない」と思ったという。その後は防犯の講演などをしたり、免囚保護事業に携わったりした。









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