出雲王朝史6、国譲り後の出雲王朝の帰趨考

 (最新見直し2008.4.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 国譲り後の出雲王朝は歴史の正史から外れる。これにより出雲王朝そのものが抹殺させられていった形跡が認められる。しかし、その他方で、出雲王朝勢力は歴史の深部に息づいたまま役割を果たしていくことになる。本サイトで、そこら辺りを確認しておくことにする。

 2008.4.8日 れんだいこ拝


 井原西鶴の「世間胸算用」に「出雲は仲人の神」という言葉が見える。古くは福の神であって、狂言の「節分」や「福の神」にはその思想が窺える。

 出雲国は他の諸国と比べて特別な宗教性があった。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、出雲国風土記(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが184社、それ以外のものが215社、合計399社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。平安時代の延喜式(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の184社に3社を加えた187社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の50座、伯耆国の6座、石見国の34座に比べてケタ外れに多い。畿内の山城国122座、大和国286座、伊勢国252座などと肩を並べている。 出雲に官社の数がこれほど多いことを、どう理解すべきだろうか。大和朝廷と特別な親近関係があったとみなすよりも、先行して存在した出雲王朝時代の遺物、国譲りに於ける幽事保証の賜物として理解すべきではなかろうか。





(私論.私見)

大国主神

「吾をば倭の青垣の東の山の上に拜き奉れ。」(古事記、依り来る神)
「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ。」(日本書紀、大三輪の神)