熊野本宮(紀州)考

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).4.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「熊野本宮(紀州)考」をものしておく。

 2021.4.14日 れんだいこ拝


【熊野本宮大社の元社考】
 和歌山県田辺市本宮町本宮に鎮座する熊野本宮大社はかつて、熊野川と音無川、岩田川の合流点の大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中州にあった。五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など現在の数倍の規模だった。「日本一の(本宮大社の旧社地大斎原の)鳥居」として知られる。

 江戸時代までは橋が架けられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らして禊をしてから詣でるのがしきたりだった。明治22年の大水害で神社は流されて、300メ-トルほど離れた現在地の高台遷座された。

 奈良県川上村の丹生川上神社上社も吉野川の河川敷に鎮座していたが、ダムの建設で水没する前の発掘調査で縄文時代から続く祭祀場が発見された。大斎原にも古代から祭祀場があったのではないかと想像が膨らむ。

【熊野本宮大社と八咫烏考】
 八咫烏とは、日本神話において、神武東征のおり、神武天皇を熊野の地から大和国(今の奈良県)に導いたとされる、太陽神の神使とされている鴉で、古事記では高木大神(タカミムスビ)、日本書紀では天照大神から使わされたとされている。熊野本宮大社では、家津美御子大神の神使として信仰されている。

 八咫烏には足が三本あり、その足の一本、一本に謂われがあり、天、地、人の三つの意味があるとされ、天は神を指し、地は大地、人は人々を指し、神と人、大地(自然環境)は同じ太陽から生まれた兄弟に等しい存在とされており、また、かって熊野地方において勢力を保った熊野三党の、榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏の威を表したものとされ、三氏共に、八咫烏の旗印を用いたとされている。近年では、日本サッカー協会、日本サッカーチームのシンボルマークとして使われ、その存在を知られている。  この八咫烏を用いた祭礼神事、八咫の火祭りが近年行われるようになり、毎年、8月の最終土曜日に祭礼が賑やかに行われている。古より、神の使いとして親しまれて来た八咫烏。

【熊野本宮(紀州)の祭神考】

【熊野本宮(紀州)の神事考】
 紀伊国南紀・神社と祭り 【熊野本宮大社例大祭】その①湯登神事

 熊野本宮大社の例大祭は本宮大社の祭礼の中で最も大きな祭礼で、毎年春の4月13日から15日の三日間かけて行われる。一日目の13日は、和歌山県の無形文化財に指定されている湯登神事を執り行う。稚児に選らばた子供たちを肩車した馬役の稚児の父親たちが、本宮大社から湯の峰温泉にある湯峰王子社に向けて向かうことから始まる。本宮大社の例大祭では稚児が神様が降臨される依り代とされている。父親たちに肩車された稚児と、宮司以下の神職、氏子、修験者、伶人(神楽人)、氏子総代らが、神歌と太鼓を打ち鳴らしながら賑やかに湯の峰温泉の湯峰王子社まで進んで行く。湯の峰温泉に着くと、稚児らは湯の峰温泉の湯で禊を行い、湯粥の禊斎食を食べ、稚児の額に大の字を描く。これは神様が稚児に宿った御印で稚児に神様が降りた証となる。この後、稚児は八さばき神事と呼ばれる神事を行う。稚児を肩車した馬役の父親たちが左に三回、右に三回、再び左に三回と、稚児が叩く太鼓の音に合わせて回る。八さばき神事を終えた稚児、宮司、神職は、この後、大日越と呼ばれる山の峠の3・4キロある急な山道を登り、山頂の月ヶ丘神社に向かい、そこで再び八さばき神事を行う。次に熊野川の中洲にある大斎原の旧社地へと向かい、神事の後、一旦解散となり、夕方再び大斎原に集まって神事と八さばき神事、巫女の舞を行って、13日の日程行事を終える。これらの神事、行事を見る限り、本宮大社の祭礼は山岳信仰と自然環境に関連するお祭りであると思われる。
 (「
神社の祭と祀り」の「 」の「【熊野本宮大社例大祭】その①湯登神事」参照)



【出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社の関係】
 紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。







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