神魂(かもす)神社考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元年).5.16日

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 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「神魂(かもす)神社考」をものしておく。「古代出雲紀行(6) 概要編 神魂(かもす)神社」その他参照。

 2010.04.17日 れんだいこ拝


【神魂(かもす)神社考】
 神魂(かもす)神社は八雲立つ風土記の丘の西側、田畑を挟んだ山裾にある。意宇王が本拠をこの平野に置いたとき、守り神を山奥の熊野大社ではなく、本拠近くに持ってきた・・・・・・。

 「出雲の神の源流を訪ねる@、神魂神社」が次のように記している。
 「案内板では、祭神はイザナギ・イザナミとされているので、熊野大社の祭神・スサノオよりは上位である。「出雲風土記」の神魂神は「古事記」の神産巣日神(カミムスビ)とされ、これは造化三神の一柱で、高天原を追われたスサノオに手を差し伸べ、大国主神に国づくりを命じるという最上位の神。高皇産霊神(タカミムスヒ)とともに「創造」を神格化した神であり、少なくとも出雲では最も根源の神だと考えられる。

 門脇禎二氏によれば、神魂神は意宇の王が出雲全土に進出するときの守り神で、出雲国の政(まつりごと)の祭神だった。意宇の地主神としての熊野神は豊穣な生産を祈念し、出雲国全体の安寧を守るのが神魂神だった。出雲国から言えば、神魂神の方が上位の神で、出雲の各地域を守る四大神(熊野、杵築、佐田、能義)を超える中枢神とした」。
 大庭(おおば)大宮とも云ひ、出雲国造の太祖・天穂日命(アメノホヒミコト)が、この地に天降し創建したという。国造就任の神事・神火相続式(おひつぎしき)を代々行ってきている。出雲国造家は意宇の首長としての勢力を有していた。斉名天皇の勅令で出雲大社が創建され、国造家は杵築に移住したが、神火相続式では現在も神魂神社と熊野大社とに参向している。大和朝廷に出雲が恭順する事情・時代を彷彿させる。

 祭神としては、イザナミ大神とイザナギ大神が合祀されている。出雲国風土記には神魂神社の社名は見当たらないが、神魂(かもす)はカミムスビである。カミムスビの神はもともと出雲の古い霊格であり、出雲国風土記にもしばしば出て来る。カミムスビの神は造化三神のひとつ(他の二神は、アメノミナカヌシとタカミムスビ)として、後世に宮廷神話や祭祀に取り入れられた。

 この近辺は、奈良時代に国庁、国分寺が置かれ、鎌倉時代まで政治・経済・交通の中心であった。現在もすぐ近くに文化庁の協力の下に「八雲立つ風土記の丘・郷土博物館」が建てられ、出雲文化発祥の転移を紹介している。

 拝殿につづいて御本殿がある。室町時代に建造されたものである。現存する大社造りとして最古のものである。境内は余計なものは何もなく、簡素である。全国の八百万の神々が集う10月には「神在祭」が行われている。御本殿は国宝であり、天地根源造りの形態をもつ大社造りで屋根は栃葺きである。女神イザナミノミコトあるいは女神カミムスビを祀ることからか先端を水平に切る女千木(めちぎ)で、本殿内部は二間の右側から入り、心柱を左に見て左奥の神座に至る女造(めつくり)とする。

 出雲東部、意宇川流域に栄えたオウ王国。出雲西部の神戸川・斐伊川流域のフルネの王国は吉備・ヤマト連合軍の侵攻を受け滅ぶが、東部のオウ王国地域は生き延び、やがて5世紀後半に雄略大王により吉備が滅ぶとオウ王国は出雲西部の地域も支配下に置くことになる。そして、その後も出雲国府は意宇川流域、大庭と呼ばれる場所に設置される。大庭の大宮さんと呼ばれる神魂(かもす)神社。本殿は国宝に指定されている。室町時代に建造された最古の大社造りの神殿。千木が水平なのはイザナミ(女神)を祀っつているからだそう。鰹木が3本。男神かと思いますが、出雲では鰹木の数は関係ないそうです。瓦の紋に注目。亀甲紋の中に『有』という字が読み取れる。10月(神有り月)という意味だそうです。重要文化財の二間社流造りの貴布称稲荷両神社。境内社の武勇社・蛭子社・荒神社・外山社。『ひもろぎ』と呼ばれる神が降臨される依り代。多くは木が依り代として使用される、この神社ではこのようなお姿でした。後ろに洞穴があり、前には亀甲紋の六角形の穴が開いた灯篭があり後ろの『ひもろぎ』に神が降臨されると神社の紋である『亀甲紋に有』となる仕掛けなのでしょうか。

 境内社の杵築社(出雲大社のこと)・伊勢社(伊勢神宮のこと)・熊野社(熊野大社のこと)・釜と祀られている。釜が祀られているのは、天穂日命(あめのほひのみこと)が降臨する時に乗ってきた乗り物が釜だそうです。オウ王国の王が大事にした斎場だったと考えられる。そして、その後出雲を支配下に置いた後はこの近くに国府が置かれ出雲国造として支配した重要な聖地。







(私論.私見)