出雲の遺跡考(神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の衝撃考) |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).7.5日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、出雲王朝期の遺跡、文化を確認する。 2008.4.11日 れんだいこ拝 |
【1970年代までの細々とした青銅器の空白地帯としての出雲】 |
【神原神社古墳から「景初三年陳是作」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される】 |
神原神社は天より降りられた神宝の司、磐筒女命と大国主命が祀られ、かつては神原古墳の上に建てられていた。神原神社古墳は方墳(周溝あり)(元は前方後円墳だった可能性がある)で、出雲地方に現れた初期の大型古墳であるとともに、全国的にもたいへん注目すべき古式古墳。復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定されている。
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1972(昭和47).8月、島根県大原郡加茂町の斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに位置する神原神社古墳のから竪穴式石室から「景初三年(239年)陳是作」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される。「景初三年」は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を授かったという年であり、出雲王朝と邪馬台国の同心円的関係が注目されることになった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山ある。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。 733(天平5)年に撰録された出雲風土記の大原郡神原郷に、「神原郷郡家正北九里。古老傳云『所造天下大神之御財積置給處。則、可謂神財郷。而、今人猶誤云神原郷耳』」とある。これを読み下すと、「神原郷は郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下造らしし大神の御財を積置き給いし処(神宝を積んだ場所)なり。即ち神財郷と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷と云う」と。本来は神財郷と呼んでいたことになる。以前から貴重なものが出土する可能性を秘めた場所であった。後の荒神谷遺跡の発見と重ねると、出雲風土記は正確に記していたことになる。 |
【志谷奥遺跡で銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する】 |
「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山ある。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。 |
【荒神谷(こうじんだに)遺跡の衝撃】 |
出雲市の駅から山陰本線に乗り、松江方面に向かい荘原の駅で下車し、タクシーで荒神谷博物館に向かう。中国山地の北端、出雲平野に幾筋も尾根が張り出すところの谷あいにある。タクシーで5〜6分の距離。 |
1983(昭和58).7月、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山の北側の低丘陵地の大字神庭字西谷の農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。出雲国風土記は、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいる。大原郡の郷の段に「天の下造らしし大神の御財を積み置き給いし処なり」と記している。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。遺跡の西側に三宝荒神が祀られているので「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭西谷)と名付け、再調査することになった。 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡の再調査を開始した。水田部から須恵器が掘り出された。7.12日、谷間の南向き斜面から重なり合った状態で銅剣が5本発見された。日本中を驚かせ大騒ぎとなり本格的な発掘をすることになった。遂に全国でそれまで出土していた銅剣の総数を上回る大量の358本の銅剣が4列に並んだ状態で発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。 358本の銅剣は、テラス状の加工段の下に穴が掘られたところで四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。 この発見まで、出雲は青銅器文化の未開地とされていた。その出雲から史上空前の銅剣総数300本余りが一箇所の遺跡から出土した。一箇所からの出土では日本最多となる。それまで発見されていた日本中の銅剣数は約300本で、荒神谷遺跡1ケ所でそれを上回った。 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査を開始した。8.16日、銅矛が出土した。8.21日、銅剣の埋納された場所の東方斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。銅鐸は銅剣と共に出土する例はあったが、銅矛との組み合わせは初めてであった。荒神谷遺跡以前に日本で出土した銅矛は約160本であるが、一度に16本もの銅矛が発見された例はない。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。 |
こうして358本の銅剣と、すぐそばに銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせが見つかった。左斜面が銅剣、右斜面が銅鐸・銅矛出土場所。1995年、遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、1998年、この時に出土した銅剣、銅鐸、銅矛が一括して国宝に指定され、2005年、公園内に平屋建ての扁平な荒神谷博物館が開館した。2008年、国宝に指定された。荒神谷博物館の奥の谷あいの雑木林の縁に沿った小道を行くと、左側の山の斜面に銅剣や銅鐸が発掘された状態で復元されている。反対側の斜面の見学ルートを上がっていくと、2〜30m四方の小区画銅剣や銅矛が整然と並ぶ様子が手に取るように分かる。銅剣は長さ50cm前後、重さ500g余りと大きさもほぼ同じで、弥生時代中期後半に出雲で製作されたとみられている。銅鐸は、荒神谷の南東3kmにある加茂岩倉遺跡から、一遺跡からの出土例としては最多の39個口の銅鐸が発掘されている。両遺跡から出土した銅鐸に共通して「×」印の刻印があることから両遺跡の関係性が注目されている。銅剣にしても銅鐸にしてもこれだけ大量の遺物が発見されたことは古代出雲の歴史に対する見直しが迫られるのが必至である。 |
【加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の衝撃】 |
1996(平成8年).10.14日、荒神谷遺跡の東南3キロ、神原神社の1〜2キロ上流の大原郡加茂町(島根県雲南市加茂町岩倉)の農道整備工事中、大量の銅鐸が発見された。これを加茂岩倉遺跡と名付け本格的調査に乗り出したところ、実に39個(約45センチのものが20個、約30センチのものが19個)の銅鐸が一挙に出土した。一箇所からの出土では、日本最多となる。これも驚異的な数字で、それまでは滋賀県大岩山の24個、兵庫県桜ヶ丘の14個が大量出土例の最高であった。銅鐸文化圏の中心である奈良県でさえ出土した銅鐸総数は20個でしかない。荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸には共に「×」印の刻印がみつかっている。 奇妙なことに、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れてセットする「入れ子」式埋納になっており、初めて確認された。トンボ、シカ、海亀などの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。BC2世紀前半〜AD1世紀前半のものとみられている。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。 |
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358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致している。これは出雲神話の伝える「出雲の国譲り」と関係しており、その結果、うずめられたものではないのかと云う推理が成り立つ。こう読み解く研究者はまだ少ない。 2011.8.7日 れんだいこ拝 |
【青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の衝撃】 |
1988(昭和63)年、日本海側の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県青谷町青谷)で、大量の傷ついた遺骸人骨が出土した。 2000(平成12)年、殺害されたと見られる三体の遺骸(男性2、女性1)が弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の溝から見つかり、粘土質の湿地という条件が幸いして酸素が遮断され、奇跡的に当時の弥生人の脳みそが腐らずに保存されていた。頭がい骨が32個みつかり、うち3つには脳みそが残っていた。戦闘による殺傷痕がある骨が89点見つかった。このような発見は国内初の快挙となった。中国史書の「後漢書東夷伝」の二世紀後半の「倭国大乱」の記述との関連の可能性があるとされている。更に、同遺跡から木製品9000点、骨角製品1400点、人骨5500点、獣骨2万7000点、鉄製品270点という、とてつもない遺物が出現した。これにより「地下の弥生博物館」、「弥生の宝箱」と呼ばれている。 県埋蔵文化財センターによると、「魏志倭人伝などで『倭国大乱』(2世紀後半)とされた時期と重なる時代の殺傷痕人骨の出土は国内初」とのこと。邪馬台国の卑弥呼が2世紀末に倭国の女王となる直前に激しい戦闘があったことを直接的に示す画期的な資料として注目されそうだ。 ( http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/000712/dom/21450000 _maidomm109.html) |
青谷上寺地遺跡は紀元前4世紀から3世紀の弥生時代から古墳時代半ばまで1000年ほど続いた集落遺跡である。潟湖があった青谷の内海を利用して、日本海沿岸各地や朝鮮半島などと交易をしていたという。その活動拠点が内海に面した微高地で、わずか200m四方ほどの小さな集落であるが、溝を掘り、杭や柵で護岸改修を重ね、飛砂防止しながら、ものづくりに励んでいた様子が判明している。 |
遺跡は山陰自動車道の建設で見つかった。湿地帯にあったことから、保存状態の良い遺物がどっさり見つかった。そのDNAをもとに、県と国立科学博物館などは共同で青谷弥生人・青谷上次朗の顔を復元し、「日本人の祖先」と話題を集めています。現在、現地に青谷上寺地史跡公園が開園し、これまでに発掘された1300点余りの国のお宝(重要文化財)などを収めるガイダンス施設や弥生の田んぼなどができている。引き続き山陰道をはさんだ北側にも弥生の海辺広場などができ、令和11年度には約13haの史跡公園が実現する予定になっている。 県は公園開園を前に、人骨が大量に見つかった溝の再調査に乗り出している。発掘するのは人骨が出てきたところから15m離れた延長線上で、これまでの試掘で30点ばかりの骨片が確認されている。 |
【妻木晩田(むきばんだ)遺跡の衝撃】 |
1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」(米子市西伯郡淀江町大山町)は、その周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。作業が進むに従い、弥生時代後期後半の遺跡で、佐賀県の弥生時代の環濠集落・吉野ケ里遺跡の1.3倍、約152ヘクタールという日本最大級の弥生集落であることが判明した。神殿と見られる建物の基礎は直径約90cmの柱穴が9個田型に配置されている。柱の直径は40〜50cmではないかというが、これは小さいとはいえ出雲大社の本殿と共通な配置である。これ以外に発見されたものは例えば、竪穴式住居跡など建物跡7百カ所以上、環濠のある防衛施設、首長の墓を含む墓地群などである。首長の墓である大規模の四隅突出型墳丘墓から日本でも最多の鉄器が発見されている。これは首長の権力の強大さを示している.なお四隅突出型墳丘墓墓というのは当時の山陰地方に特有な形式である. |
【出雲大社境内で巨大な柱根発見の衝撃】 |
2000年、出雲大社境内で巨大な柱根が発見された。平安中期の書物には、出雲大社の本殿がわが国で最も高く16丈(48メートル)あったとされている。その記述が巨大な柱根によって裏付けられた。 |
【出雲王朝墳墓の特質譚】 |
出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。 |
【西谷墳墓群】 | |
「西谷墳墓群」。
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【出雲振根(ふるね)説話の伝承地/止屋淵(とまやのふち)】 |
日本書紀にも書かれる出雲振根(ふるね)の説話。振根はその一族とともに出雲大神の神宝を司っているが、振根が筑紫に行っている間、弟の飯入根(いいいりね)が兄の帰国を待たず神宝を大和朝廷に献上してしまった。怒った振根は飯入根を止屋淵(とまやのふち)に誘い出し謀殺した。この兄弟による争いを西の出雲と東の出雲の争いととらえず、西の出雲における勢力争いととらえる。さらに振根は周辺勢力を滅ぼし出雲の王となったが、後に大和政権により滅ぼされるとされる。この時の出雲とは、出雲全体ではなく、斐伊川、神門流域の出雲平野を中心とする西の出雲であった。この争いの元となった現場・止屋淵の伝承地がある。西谷墳墓群から南東500mほどのところである。林の中に入ると、石に御幣と葦か何かの穂先をつみ取った箒のような飾り物が結わえてあるだけのご神体が壇上に2基据えられている。神社の祠ができる以前の祭り方で、元々の池(淵)の神を祭ったものとみられる。 |
【出雲の衝撃的遺跡出土考】 | ||||||||||
「古代文明の世界へようこそ」の「出雲とは何か 列島に広がる古代出雲文化圏」を転載する。
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【長瀬高浜遺跡】 | ||
2024.1.3日、産経新聞(松田則章)「砂に消えた1700年前の「貿易都市」 竪穴建物跡320棟以上、ヤマト王権と関係か」。
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(私論.私見)
出雲市駅から歩いて10分たらずのところに「今市大念寺古墳」という全長92メートルにも及ぶ前方後円墳がある。