出雲の遺跡考(神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の衝撃考)

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).7.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、出雲王朝期の遺跡、文化を確認する。

 2008.4.11日 れんだいこ拝


【1970年代までの細々とした青銅器の空白地帯としての出雲】

【神原神社古墳から「景初三年陳是作」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される】
 神原神社は天より降りられた神宝の司、磐筒女命と大国主命が祀られ、かつては神原古墳の上に建てられていた。神原神社古墳は方墳(周溝あり)(元は前方後円墳だった可能性がある)で、出雲地方に現れた初期の大型古墳であるとともに、全国的にもたいへん注目すべき古式古墳。復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定されている。
 1972(昭和47).8月、島根県大原郡加茂町の斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに位置する神原神社古墳のから竪穴式石室から「景初三年(239年)陳是作」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される。「景初三年」は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を授かったという年であり、出雲王朝と邪馬台国の同心円的関係が注目されることになった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。

 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山ある。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。

 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。

 733(天平5)年に撰録された出雲風土記の大原郡神原郷に、「神原郷郡家正北九里。古老傳云『所造天下大神之御財積置給處。則、可謂神財郷。而、今人猶誤云神原郷耳』」とある。これを読み下すと、「神原郷は郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下造らしし大神の御財を積置き給いし処(神宝を積んだ場所)なり。即ち神財郷と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷と云う」と。本来は神財郷と呼んでいたことになる。以前から貴重なものが出土する可能性を秘めた場所であった。後の荒神谷遺跡の発見と重ねると、出雲風土記は正確に記していたことになる。

【志谷奥遺跡で銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する】
 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山ある。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。

 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。

【荒神谷(こうじんだに)遺跡の衝撃】
 出雲市の駅から山陰本線に乗り、松江方面に向かい荘原の駅で下車し、タクシーで荒神谷博物館に向かう。中国山地の北端、出雲平野に幾筋も尾根が張り出すところの谷あいにある。タクシーで5〜6分の距離。
 1983(昭和58).7月、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山の北側の低丘陵地の大字神庭字西谷の農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。出雲国風土記は、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいる。大原郡の郷の段に「天の下造らしし大神の御財を積み置き給いし処なり」と記している。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。遺跡の西側に三宝荒神が祀られているので「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭西谷)と名付け、再調査することになった。 

 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡の再調査を開始した。水田部から須恵器が掘り出された。7.12日、谷間の南向き斜面から重なり合った状態で銅剣が5本発見された。日本中を驚かせ大騒ぎとなり本格的な発掘をすることになった。遂に全国でそれまで出土していた銅剣の総数を上回る大量の358本の銅剣が4列に並んだ状態で発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。

 358本の銅剣は、テラス状の加工段の下に穴が掘られたところで四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。

 この発見まで、出雲は青銅器文化の未開地とされていた。その出雲から史上空前の銅剣総数300本余りが一箇所の遺跡から出土した。一箇所からの出土では日本最多となる。それまで発見されていた日本中の銅剣数は約300本で、荒神谷遺跡1ケ所でそれを上回った。

 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査を開始した。8.16日、銅矛が出土した。8.21日、銅剣の埋納された場所の東方斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。銅鐸は銅剣と共に出土する例はあったが、銅矛との組み合わせは初めてであった。荒神谷遺跡以前に日本で出土した銅矛は約160本であるが、一度に16本もの銅矛が発見された例はない。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。
 こうして358本の銅剣と、すぐそばに銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせが見つかった。左斜面が銅剣、右斜面が銅鐸・銅矛出土場所。1995年、遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、1998年、この時に出土した銅剣、銅鐸、銅矛が一括して国宝に指定され、2005年、公園内に平屋建ての扁平な荒神谷博物館が開館した。2008年、国宝に指定された。荒神谷博物館の奥の谷あいの雑木林の縁に沿った小道を行くと、左側の山の斜面に銅剣や銅鐸が発掘された状態で復元されている。反対側の斜面の見学ルートを上がっていくと、2〜30m四方の小区画銅剣や銅矛が整然と並ぶ様子が手に取るように分かる。銅剣は長さ50cm前後、重さ500g余りと大きさもほぼ同じで、弥生時代中期後半に出雲で製作されたとみられている。銅鐸は、荒神谷の南東3kmにある加茂岩倉遺跡から、一遺跡からの出土例としては最多の39個口の銅鐸が発掘されている。両遺跡から出土した銅鐸に共通して「×」印の刻印があることから両遺跡の関係性が注目されている。銅剣にしても銅鐸にしてもこれだけ大量の遺物が発見されたことは古代出雲の歴史に対する見直しが迫られるのが必至である。

【加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の衝撃】
 1996(平成8年).10.14日、荒神谷遺跡の東南3キロ、神原神社の1〜2キロ上流の大原郡加茂町(島根県雲南市加茂町岩倉)の農道整備工事中、大量の銅鐸が発見された。これを加茂岩倉遺跡と名付け本格的調査に乗り出したところ、実に39個(約45センチのものが20個、約30センチのものが19個)の銅鐸が一挙に出土した。一箇所からの出土では、日本最多となる。これも驚異的な数字で、それまでは滋賀県大岩山の24個、兵庫県桜ヶ丘の14個が大量出土例の最高であった。銅鐸文化圏の中心である奈良県でさえ出土した銅鐸総数は20個でしかない。荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸には共に「×」印の刻印がみつかっている。

 奇妙なことに、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れてセットする「入れ子」式埋納になっており、初めて確認された。トンボ、シカ、海亀などの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。BC2世紀前半〜AD1世紀前半のものとみられている。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。

(私論.私見)

 358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致している。これは出雲神話の伝える「出雲の国譲り」と関係しており、その結果、うずめられたものではないのかと云う推理が成り立つ。こう読み解く研究者はまだ少ない。

 2011.8.7日 れんだいこ拝

【青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の衝撃】
 1988(昭和63)年、日本海側の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県青谷町青谷)で、大量の傷ついた遺骸人骨が出土した。

 2000(平成12)年、殺害されたと見られる三体の遺骸(男性2、女性1)が弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の溝から見つかり、粘土質の湿地という条件が幸いして酸素が遮断され、奇跡的に当時の弥生人の脳みそが腐らずに保存されていた。頭がい骨が32個みつかり、うち3つには脳みそが残っていた。戦闘による殺傷痕がある骨が89点見つかった。このような発見は国内初の快挙となった。中国史書の「後漢書東夷伝」の二世紀後半の「倭国大乱」の記述との関連の可能性があるとされている。更に、同遺跡から木製品9000点、骨角製品1400点、人骨5500点、獣骨2万7000点、鉄製品270点という、とてつもない遺物が出現した。これにより「地下の弥生博物館」、「弥生の宝箱」と呼ばれている。

 
 県埋蔵文化財センターによると、「魏志倭人伝などで『倭国大乱』(2世紀後半)とされた時期と重なる時代の殺傷痕人骨の出土は国内初」とのこと。邪馬台国の卑弥呼が2世紀末に倭国の女王となる直前に激しい戦闘があったことを直接的に示す画期的な資料として注目されそうだ。
 ( http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/000712/dom/21450000
_maidomm109.html
 青谷上寺地遺跡は紀元前4世紀から3世紀の弥生時代から古墳時代半ばまで1000年ほど続いた集落遺跡である。潟湖があった青谷の内海を利用して、日本海沿岸各地や朝鮮半島などと交易をしていたという。その活動拠点が内海に面した微高地で、わずか200m四方ほどの小さな集落であるが、溝を掘り、杭や柵で護岸改修を重ね、飛砂防止しながら、ものづくりに励んでいた様子が判明している。
 遺跡は山陰自動車道の建設で見つかった。湿地帯にあったことから、保存状態の良い遺物がどっさり見つかった。そのDNAをもとに、県と国立科学博物館などは共同で青谷弥生人・青谷上次朗の顔を復元し、「日本人の祖先」と話題を集めています。現在、現地に青谷上寺地史跡公園が開園し、これまでに発掘された1300点余りの国のお宝(重要文化財)などを収めるガイダンス施設や弥生の田んぼなどができている。引き続き山陰道をはさんだ北側にも弥生の海辺広場などができ、令和11年度には約13haの史跡公園が実現する予定になっている。

 県は公園開園を前に、人骨が大量に見つかった溝の再調査に乗り出している。発掘するのは人骨が出てきたところから15m離れた延長線上で、これまでの試掘で30点ばかりの骨片が確認されている。

【妻木晩田(むきばんだ)遺跡の衝撃】
 1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」(米子市西伯郡淀江町大山町)は、その周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。作業が進むに従い、弥生時代後期後半の遺跡で、佐賀県の弥生時代の環濠集落・吉野ケ里遺跡の1.3倍、約152ヘクタールという日本最大級の弥生集落であることが判明した。神殿と見られる建物の基礎は直径約90cmの柱穴が9個田型に配置されている。柱の直径は40〜50cmではないかというが、これは小さいとはいえ出雲大社の本殿と共通な配置である。これ以外に発見されたものは例えば、竪穴式住居跡など建物跡7百カ所以上、環濠のある防衛施設、首長の墓を含む墓地群などである。首長の墓である大規模の四隅突出型墳丘墓から日本でも最多の鉄器が発見されている。これは首長の権力の強大さを示している.なお四隅突出型墳丘墓墓というのは当時の山陰地方に特有な形式である.

【出雲大社境内で巨大な柱根発見の衝撃】
 2000年、出雲大社境内で巨大な柱根が発見された。平安中期の書物には、出雲大社の本殿がわが国で最も高く16丈(48メートル)あったとされている。その記述が巨大な柱根によって裏付けられた。

【出雲王朝墳墓の特質譚】
 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。

【西谷墳墓群】
 「西谷墳墓群」。

 荒島墳墓群造山古墳。その南東にある仲仙寺8-9号墳、宮山支群W号墳。いずれも四隅突出型墳丘墓で弥生時代後期の築造である。安来平野で勢力を広げていった王墓と考えられ、古墳時代以降、前方後方墳を築く東出雲を治める意宇の王へと引き継がれていく。

 弥生時代の同時期の築造と見られる国内最大級の四隅突出型墳丘墓群として2号墳(3号墳の北側に少し小さいが敷石や張石が完全に復元されている。)、3号墳(少し大きい52m×42m×4.5m。墳頂、竪穴式墓の周りに4本の柱が立つ。右上/東方、左の三角山が仏教山。右下/北東に出雲平野、彼方に島根半島の山々が見える)、4号墳、9号墳(62m×55m×5mは一番大きい「よすみ」)として西谷(にしだに)墳墓群がある。荒神谷から中国山地北端の山裾を縫うように西へ西へと走り、斐伊川に架かる南神立橋を渡る。弥生時代には出雲平野の微高地にムラや小国が次々現れていた。いち早くそれらの小国をまとめ全体を治めたのが出雲の王で、出雲平野を見渡せる西谷の丘陵地に巨大墳墓を築いた。北側には島根半島の山々が見え、東側には中国山地北端部の山並みが続くが、その中の三角山が出雲郡の神名火山・仏教山である。


 その西谷墳墓群は史跡公園「出雲弥生の森」として整備され、四隅突出型墳丘墓は「よすみ」という愛称で呼ばれている。突出部を含め墳丘の裾周りの敷石と外周を取り巻く2列の立石が復元されている。墳丘上中央には竪穴式の埋葬施設で木棺が埋められ、墓域四隅に太い柱が立てられ、その周りで葬送の儀式が盛大に行われたという。

 出雲弥生の森博物館、これは出雲市立なのだが、同館内に文化財保護がある。東の荒島墳墓群、西谷墳墓群は自らの支配地の平野を見渡せる丘陵上に築造されており、弥生後期に出雲の東と西に大きな政治勢力が形成されていたことを物語っている。墳丘頂上に木棺を取り囲むように五つの巨石が立てられ、円墳の南北に二つの突出部をくっ付けた奇妙な形をした双方中円形墳丘墓と言われる吉備の楯築墳丘墓。それと同時期に存在したと推測されている。西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高坏などが大量に混入していた。西出雲は早くから吉備の影響があったことがわかる。東出雲では「よすみ」の後、前方後方墳が中心だったが、西では出雲最大の前方後円墳・今市大念寺古墳をはじめ多くの前方後円墳が作られ、大和政権の影響が強くなる。弥生期以降、西と東の出雲では、別々の影響関係の下、それぞれ独自の発展をしていくことになる。


【出雲振根(ふるね)説話の伝承地/止屋淵(とまやのふち)】
 日本書紀にも書かれる出雲振根(ふるね)の説話。振根はその一族とともに出雲大神の神宝を司っているが、振根が筑紫に行っている間、弟の飯入根(いいいりね)が兄の帰国を待たず神宝を大和朝廷に献上してしまった。怒った振根は飯入根を止屋淵(とまやのふち)に誘い出し謀殺した。この兄弟による争いを西の出雲と東の出雲の争いととらえず、西の出雲における勢力争いととらえる。さらに振根は周辺勢力を滅ぼし出雲の王となったが、後に大和政権により滅ぼされるとされる。この時の出雲とは、出雲全体ではなく、斐伊川、神門流域の出雲平野を中心とする西の出雲であった。この争いの元となった現場・止屋淵の伝承地がある。西谷墳墓群から南東500mほどのところである。林の中に入ると、石に御幣と葦か何かの穂先をつみ取った箒のような飾り物が結わえてあるだけのご神体が壇上に2基据えられている。神社の祠ができる以前の祭り方で、元々の池(淵)の神を祭ったものとみられる。

【出雲の衝撃的遺跡出土考】
 「古代文明の世界へようこそ」の「出雲とは何か 列島に広がる古代出雲文化圏」を転載する。
 弥生の青銅器地図が変わる
 日本の古代史は出雲のことがわからなければ解けない、といわれてきました。神話にしても、神社にしても、古代の日本には出雲の影響のようなものが強く感じられるのに、古代出雲の実態がよくわからないからです。そもそも、出雲から得られる考古学の情報は、これまであまり多くありませんでした。

 1972年、島根県加茂町の神原神社古墳から卑弥呼が魏に使いを送った年、景初3年の年号が入った三角縁神獣鏡が発見されました。でも、それ以外には、出雲からの出土品が注目されることはあまりありませんでした。弥生時代を特徴づける銅剣や銅鐸などの青銅器の出土もわずかで、出雲はむしろ青銅器の少ない地方というのが、一般的な見方でした。ところが、1984年夏、島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡で、358本の銅剣が出土、これまで全国で出土した銅剣の総数300本あまりを一気に上回る大発見となりました。翌年には、銅剣が出土した地点から7メートル離れた場所で、今度は銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。考古学上の大事件ですが、なぜ出雲から?と多くの研究者を不思議がらせたのも事実です。大発見のたびにマスコミをにぎわす研究者も、このときばかりは寂として声がなかったといわれています。しかし、出雲からの発見はそれだけに留まらなかったのです。

 大量の銅剣発掘から12年後の1996年秋、今度は、神庭荒神谷遺跡から3キロほど離れた加茂町の加茂岩倉遺跡で銅鐸が39個も出土しました。銅鐸はそれまで全国で470個ほどが見つかっていますが、同じ穴から一括して出土した例は、滋賀県大岩山、兵庫県桜ヶ丘の14個が最高でした。ところが、加茂岩倉遺跡の場合、一挙にその3倍近い数が出土したわけです。このときも、研究者は出雲からの大発見に驚き、戸惑いの色を隠せなかったといわれています。神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のふたつの発見だけで、弥生時代の青銅器地図は完全に塗り変わってしまい、これまで青銅器が少ないといわれていた出雲が、なんと一躍、青銅器の出土品で全国一位の地位にのしあがったのです。
 銅鐸は近畿から、銅矛は九州から
 ふたつの遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、いずれも古い形式のものでした。まず、最初の発見となった神庭荒神谷遺跡の出土品では、6個の銅鐸のうち1個は弥生時代前期にさかのぼる最古の形式のものでした。他の銅鐸も中期前半の古い形式で、紀元前3〜2世紀に製作されたようです。これらの銅鐸はおもに近畿から持ち込まれたと考えられています。16本の銅矛については、弥生中期中頃から後半に製作されたものらしく、紀元前2〜1世紀というところ。こちらは北部九州から持ち込まれたとされています。大発見となった358本の銅剣については、やはり紀元前2〜1世紀に製作されたもので、その大半が中国の華北の鉛を含んでいるとのことです。ほとんどの銅剣には「×印」がつけられており、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸にも「×印」をつけたものがあることから、銅剣は地元出雲で同一の集団が製作したのではないか、とも考えられています。この大量の銅剣は出雲型銅剣という名で新たに分類され、中国地方や瀬戸内に分布することがわかってきました。

 一方、加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸は、やはり古い形式のものでした。弥生中期後半(紀元前2〜1世紀頃)に製作されたものとされています。一部は近畿の銅鐸と同じ鋳型から造られた「兄弟銅鐸」とみられており、大和や河内など近畿から持ち込まれたようです。しかし、独自の特徴をもつものや、「×印」をつけたものなどが十数個あり、これらは出雲で造られた可能性も考えられています。

 これまで銅剣と銅矛は九州に分布の中心があり、銅鐸は近畿や東海が中心といわれていました。それぞれ銅剣・銅矛文化圏、銅鐸文化圏と呼ばれていたものです。弥生時代後期(紀元後1〜2世紀)には、そういうはっきりした区分けがあるのですが、それ以前となると、必ずしも厳密なものではなく、両方が複雑に入り組んだ感じになります。出雲では、銅鐸と銅矛が同じ場所から発見されるという非常に珍しいケースとなりました。近畿からも九州からも来ているわけです。これは両地方から影響を受けていたとも考えられるし、あるいは、両地方に隠然とした影響力を持っていた、つまり、各地から奉納された、というように考えることもできます。
 なぜ、人里離れた山中から
 ふたつの遺跡はどちらも人里離れた相当辺鄙なところにあります。現場に立ってみると、よくこんなところから発見されたものだ、とつくづく思えてくるほどです。遺跡が見つかったこと自体が奇跡だ、と思えたほどでした。神庭荒神谷遺跡の場合は、上を通る道路からバイパスを通すために予備調査したところ、偶然見つかったものです。銅剣などは明るい感じの小さな谷の急な斜面に埋められていました。遺跡に近づくためには、細いあぜ道のようなところを登っていきます。

 一方、加茂岩倉遺跡の場合は、農道工事の途中で見つかったものです。山あいの狭い農道を数百メートル入ったかなり奥まった谷です。銅鐸は谷を見下ろす丘陵突端の斜面に埋められていました。下の細い農道から見上げると高さは20メートルほどあります。相当急な斜面です。こんな山の斜面で重機を使った農道工事が行われていたのが、やはり不思議になるほどです。


 古代の人々はなぜ、このような山中に大量の銅剣や銅鐸を隠すように埋めたのでしょうか。ふたつの遺跡は両方、銅剣や銅鐸を一時的に土中に保管したというよりは、明らかに隠したように見えます。何のためにそうする必要があったのか、そもそもなぜ出雲地方に大量に集められ、最後には埋められたのか? 出雲をめぐる新たな謎です。

 地元の地図を開いてみると、このふたつの遺跡は、大黒山という小さな山を挟むような位置関係にあります。大黒山は小さいけれども、頂上が鋭く尖っています。この山の西側に神庭荒神谷遺跡が、南東側に加茂岩倉遺跡があります。銅剣は九州方向を、銅鐸は近畿方向を意識しているようにも見えます。加茂岩倉遺跡から1〜2キロ降りていくと、斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに神原神社があります。神社境内の古墳から、卑弥呼が魏に使いを送った景初3年の三角縁神獣鏡が出たところです。神原神社の「神原(かんばら」、神庭荒神谷の「神庭(かんば)」、加茂岩倉の「岩倉」(これは「磐座」に通じる)、このような名前は何かを語っているようでもあります。また、大黒山の「大黒」は「大国」につながり、出雲の主神「大国主命」との関連も考えられます。近くには仏経山という周囲を見下ろす高い山もあります。不思議な地域です。なんでもない谷の斜面から、あれだけの銅剣や銅鐸が出たのなら、このあたりの山野のどこから何が出てきてもおかしくない。そんな気がするほどです。
 神の宝を置いた場所
 『出雲国風土記』によると、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいます。しかし、古くは別の呼び方をされていたと伝えています。「古老が伝えるところによると、天下造大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御財(みたから)を積み置いた処である。従って、本来は神財(かむたから)の郷というべきところを、今の人は誤って神原の郷といっている」。何かを暗示するような、象徴的なことが述べられているわけです。これとおそらく何か関係があるのではないかと思える事件が、記紀にも述べられています。

 崇神天皇の治世60年、出雲には天からもたらされた神宝が大神宮にあったといいます。崇神天皇はそれを見たいと望み、出雲に使者を派遣したところ、神宝を管理している出雲の振根(ふるね)という人物は筑紫に出向いており、弟の飯入根(いいいりね)が勝手に朝廷に神宝を差し出してしまいます。筑紫から帰ってきた兄は、「何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と怒り、弟を殺してしまう。すると、天皇は将軍を派遣し、振根を滅ぼしてしまいました。出雲の人々は、天皇を恐れ、しばらく出雲の大神を祭ることを中止したということです。同様の事件が、垂仁天皇の26年にもあります。垂仁天皇は、いくら調査してもわからなかった出雲の神宝をもう一度調べるために、物部十千根(とうちね)を派遣します。十千根は出雲の神宝をよく調べ、はっきりと報告したので、神宝をつかさどる役に任ぜられたといいます。

 出雲の神宝を取りあげる話は、大和朝廷が出雲の勢力にたびたび干渉と圧迫を繰り返したことを物語っています。出雲には神宝といわれるほどのものがあった。出雲は神宝が置かれるか、集まってくるような場所だったわけです。朝廷はしきりにそれを調査したり、手に入れようとしている。大和朝廷は、それだけ出雲のことを気にしています。四道将軍を派遣して征圧した邪馬台国時代の旧勢力の地域とはまた別に、出雲には特別の神経を使って支配しようとしているように見えます。大和朝廷がそこまでしなければならない何かが、出雲にはあったわけです。
 出雲はどれくらい古いのか
 神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、ほぼ紀元前2〜1世紀を中心とした時期に製作されたものと見てよさそうです。たぶん紀元前2〜1世紀ごろに作られ、あまり時間を置かずに出雲にもち込まれ、その後、紀元後1世紀の前半ごろに埋められたと考えられています。紀元前2〜1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあったことになります。銅剣や銅矛、銅鐸はいずれも弥生時代には貴重な祭りの道具です。これらが大量に集められるということは、それだけ出雲が重要な地位にあったことを意味しています。ここに早い時代の出雲勢力のひとつの基盤をみることができます。しかし、当時の出雲がどれほど重要な地域であったのか、今のところそれを知る材料はほとんどありません。古代出雲の厄介なところが、ここです。突然、大量の銅剣や銅鐸が出土したけれども、当時のことを知る考古学資料があまりない。

 数年前、島根県松江市では田和山遺跡という少し変わった環濠集落が発見されました。弥生時代中期を中心とする遺跡ですが、小さな岡を囲むように三重の濠がある砦のような集落でした。しかし、何か特別な、これというほどの出土品は報告されていません。島根県の他の遺跡なども、弥生時代の範囲を超えない常識的なもののようです。出雲神話を思わせるような何か独特のものは、まだ出ていません。古代の出雲はやはり謎です。なぜ出雲神話があり、古い時代の銅剣や銅鐸が大量に出土したのか。

 研究家のなかには、古代の出雲には列島を支配する王国のようなものがあった、と考える人もいます。しかし、考古学の発掘からはそれを裏づけるものは出ていません。政治的な意味での王国があったかどうか、疑問です。ちょうど紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。百ほどの国に分かれ、まだ全土を支配する王のようなものはいなかったようです。まだ日本には、統一王朝のようなものはなかったようです。

 むしろ、古代出雲について、どうしても気になるのは、邪馬台国の存在です。あらゆる状況証拠から考えて、現在では、邪馬台国は畿内大和の纏向遺跡周辺にあったと考えるのが最も有力です。しかも、第1部の
「邪馬台国は出雲系か」のところで見たように、邪馬台国はどうやら、出雲系の神を奉じる王国であったようです。仮に、古代出雲王国と呼べるものがあったとしたら、それは邪馬台国と同じではないか、と考えられます。古代の日本では、出雲の神々への信仰が、列島のかなり広い範囲に及んでいたのではないか、と私は思います。いわば、古代出雲文化圏のようなものがすでに存在していた。邪馬台国はそのような基盤の上に成立し、出雲文化圏の上に乗っている。そのあたりを、次章でもう少し詳しく見てみます。(2005年6月)

【長瀬高浜遺跡】
 2024.1.3日、産経新聞(松田則章)「砂に消えた1700年前の「貿易都市」 竪穴建物跡320棟以上、ヤマト王権と関係か」。
 令和4年度から行われている長瀬高浜遺跡の発掘調査。遺跡は厚さ約2〜6メートルのシロスナ層の下に眠っている=鳥取県湯梨浜町(松田則章撮影)
 鳥取砂丘から西に約35キロ離れた鳥取県湯梨浜(ゆりはま)町の海岸近くの砂の下に「古代の大集落」が眠っている。冒険映画に出てきそうなこの遺構は「長瀬高浜遺跡」。昭和と平成の2次にわたる発掘調査で約260棟の竪穴建物跡が鉄器や青銅器とともに見つかり、交易で栄えた古墳時代前期(3世紀半ば〜4世紀後半ごろ)の大集落跡と判明している。昨年度からは、前回調査からほぼ四半世紀ぶりに令和の調査がスタートし、すでに60棟以上の建物跡を確認。調査は来年度も予定されており、さらなる発見に期待が高まっている。

 ■重文の埴輪群出土

 「弥生の王国を掲げる鳥取県では青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡や妻木晩田(むきばんだ)遺跡が有名だが、かつては鳥取といえば長瀬高浜遺跡というくらい全国に知られた遺跡だった」。 同遺跡の発掘を手掛ける県教育文化財団調査室の君嶋俊行室長は力を込める。昭和55年には大量の埴輪(はにわ)が発見され、61年に国の重要文化財に指定された。この埴輪群は古墳からではなく、集落の一角で見つかったことにより全国の注目を集めた。発掘調査は昭和49年の遺跡発見後、昭和に7年、平成に3年の計10年間行われ、約8万平方メートルの調査地から261棟の竪穴建物跡をはじめ、掘立柱建物跡64棟、井戸跡12基、古墳を含む埋葬施設101基を確認。大量の埴輪や土器のほか、高さ9センチ足らずの小銅鐸、手裏剣のような形をした巴形銅器といった希少な遺物が出土した。 昭和56年には、巨大な柱穴の大型掘立柱建物跡が見つかり「神殿」とも推測されている。さらに、国内最古級(弥生時代前期)の玉作工房跡も注目を集めた。 令和の発掘調査は国道改築に伴うもので、昨年度から3年かけて約8500平方メートルで実施。すでに60棟以上の竪穴建物跡や廃棄された大量の土器が確認されており、これまでの調査成果とあわせて、同財団は「今から約1700〜1600年前の古墳時代前期の竪穴建物跡の数がさらに増加し、遺構が密集する集落の特徴がより鮮明となった」とする。

 ■地下6メートルに眠るクロスナ層

 長瀬高浜遺跡では、古墳時代を中心に、弥生時代から鎌倉・室町時代の畠跡まで約2千年にもわたる人々の営みの痕跡が確認されている。これらの遺構や遺物は、地表面から約2〜6メートルの厚さがあるシロスナ層の下にあるクロスナ層から見つかったものだ。 シロスナ層は日本海からの季節風に乗って運ばれた飛砂で、15世紀以降に堆積したとされる。同財団によると、地球が寒冷期を迎えたことによる海水面の後退などが飛砂の原因とみられるという。一方、クロスナ層は硬めの黒色砂で人々が住みやすい草原のような土地だった。 同遺跡の特徴のひとつは出土土器の保存状態の良さだ。国重文の埴輪群のほか、令和を含めた3次にわたる調査では甕(かめ)や高坏(たかつき)などが完形のものを含めて大量に出土している。今年度の調査でも、竪穴建物跡からまとまって出土しており、君嶋室長は「土器が大量に出土しているのはそれだけ多くの人が住んでいたからではないか。保存状態が良いのは、砂に埋まっていたためとも考えられる」と話した。 土器の中には近畿型の甕が多数見つかっているほか、鉄器も300点以上見つかり、これらは日本海を介した交易によりもたらされたとみられている。同遺跡の近くには東郷池や天神川があり、「貿易港」を中心に大集落が形成された可能性を示している。

 ■ヤマト王権とつながる豪族

 古墳時代前期初めごろの約1700年前(4世紀後半)から繁栄した長瀬高浜遺跡は、同時代中期後半の約1550年前には衰退し、古墳の集積地へと変貌する。この後、平安時代に再び人々が居住した痕跡が見つかり、鎌倉・室町時代の畠跡へとつながっていく。 繁栄期の集落の規模について、君嶋室長は「推定はとても難しい。4世紀後半の竪穴建物が約60棟。これらが同時に存在していたわけではないため、同時期に暮らしていた人の数は150人程度ではないか」と推測。そのうえで、どんな集落だったかについては、こう話した。 「ヒントは神殿説もある特殊な建物や、首長が居住した可能性がある大型の竪穴建物・掘立柱建物跡、長瀬高浜遺跡近くにある全長約100メートルの前方後円墳『馬ノ山4号墳』にある。馬ノ山4号墳の被葬者はこの一帯を支配下に置いた豪族で、長瀬高浜遺跡はその『城下町』のような集落だった」 そして、「朝鮮半島などとの交易を差配していたこの豪族は、ヤマト王権とも政治的なつながりをもち、長く栄えた」と想像を膨らませる。 令和5年度の発掘調査では、約1700年前の竪穴建物跡から類例のない構造の囲炉裏(いろり)と考えられる炉跡を確認したほか、約1400年前の円墳から副葬品として鉄鏃(てつぞく)(鉄のやじり)が出土した。君嶋室長は「来年度の調査では、引き続き竪穴建物跡や古墳などの検出が期待される。さらに、小銅鐸のような青銅器類が出ればすごい」と期待を示した。




(私論.私見)
出雲市駅から歩いて10分たらずのところに「今市大念寺古墳」という全長92メートルにも及ぶ前方後円墳がある。