【出雲王朝時代の子供教育、躾について】 |
ここで「出雲王朝時代の子供教育、躾考」をものしておく。日本では出雲王朝時代より子供を大事にし、教育、躾を重視して来た。しかも、それを自由自主自律的に陶冶して来た歴史がある。特徴的なことは、子供が萎縮するような体罰をしなかったことである。日本人常民は扶桑の島以来、「体罰を受けた子供の脳は萎縮する」ことを知っていたからである。「体罰は日本の伝統ではない」と云うことである。以下、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー、2005年初版)その他を参照する。
戦国時代(16世紀)に日本を訪れたポルトガル出身の宣教師フロイスは次のように記している。
「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。 |
江戸時代以降でも同じだった。18世紀後半に日本を訪れたスェーデン人ツュンベリは次のように記している。
「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船(長崎から江戸への船旅)でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」。 |
19世紀前半の日本を訪れたオランダ人フィッセルは次のように記している。
「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」。 |
19世紀後半の明治初期の日本をみたアメリカ人モースは次のように記している。
「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。 |
中江和恵「江戸の子育て」(文春新書、2003年)によれば、子育てに対する人々の知的関心も庶民にいたるまで高く、数多くの育児書が出版されていたと云う。江森一郎氏「体罰の社会史」(新曜社、1989年)が、「武士のモラルがわかり興味深い話」として次のエピソードを紹介している。
概要「鎌田芳朗「海軍兵学校物語」(原書房、1979年)が元ネタであるが、明治六年、できたばかりの日本の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)が英国海軍少佐ドークラスを招聘し新兵学寮規則を制定した。その際、佐賀藩士出身の校長・中牟田倉之助は、英海軍式の鉄拳制裁に対し、武士の伝統と作法を説き頑として受け付けなかった。明治12年(1879年)、教育令が定められたが、「凡そ学校に於ては生徒に体罰を加うべからず」(第46条)と体罰禁止規定が明文化されていた。日本が体罰禁止規定を法文化したのは欧米の大多数の国々よりむしろ早かった。学校体罰法禁の西欧最先進国であるフランスでさえ(日本の)教育令の規定より8年遅れている。日本の学校で体罰が結構みられるようになったのは1930年代から第二次大戦中にかけてのようである。この頃より日本の軍隊が徐々に変質し鉄拳制裁が行われるようになった。その影響が学校での軍事教練などを通じて次第に1930年あたりから学校教育の現場に伝わった」。 |
これにつき、文化人類学者・梅棹忠夫氏(1920年生まれ)は、あるシンポジウムで、自身の体験にもとづき、「一つの証言」として体罰について次のように述べている。
「私は、1920年代に幼稚園、小学校教育を受けた、まさに戦前の非民主主義教育を受けた人間ですけれども、私の記憶の中には、たたかれたという記憶は一切ありません。…体罰というのは考えたこともない。全然ありません。…日本はもともと幼児に対する観念が(欧米などと)非常に違うんだ。たたいたりはしない」(梅棹忠夫・栗田靖之編『知と教養の文明学』中央公論社、1991年)。 |
同じシンポジウムで、日本政治思想史の研究者・渡辺浩氏も次のように述べている。
「ある人の説なのですけれども、体罰というとまず思い出すのが軍隊における私的制裁ですが、それがいつごろ帝国軍隊ではじまったかというと、第一次大戦後ぐらいからだという。明治時代にはやらなかったというのです。それまでは士族が多かったので、その感覚が残っていた。侍の上位者がその下の侍の顔をなぐるというのはちょっと考えられないというわけです。侍は名誉心が非常に強いですから、人格的な屈辱を与えちゃまずいのですね。そうすると死に物狂いで反抗してくる可能性がある。たとえ主君であっても家来の侍を人格的に侮辱すると、死に物狂いに反抗しうる。軍隊の私刑は…、…むしろ武士的なものがなくなってから軍隊ではじまったんだという説があるのです。それが1930年代になったら、学校教育へ還流してきたと言えるのかもしれません」(同上書)。 |
2015.4.9日 れんだいこ拝 |
れんだいこブログでの「投稿: 通りがけ | 2015年4月10日 (金) 19時27分」は次の通り。
>子供を大事に育てる伝統
これについては日本常民研究所(渋沢敬三)の研究員時代の宮本常一が、奈良平安時代の絵巻物や童歌などに、子どもたちが天衣無縫に振る舞っておりいつも親に抱っこされている姿が映し出されているとして、記紀以前の大昔から大和民族の社会が子どもたちにとって天国であった事実を観察しております。 |
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「投稿: れんだいこ | 2015年4月11日 (土) 19時33分」は次の通り。
実は宮本常一の著作を文庫本約30冊、製本約20冊ばかし持っていたのですが、読んであまりにも感銘を受けたため自分一人で読むのは勿体ない、若い人たちにどんどん読んでもらいたいと思って、とある中学生中心の生徒寮に図書館ではなく常民研究所民俗学文庫として全部寄贈しました。なので、宮本常一の件の著述をいま抽出タイプしようと思っても、もとの原稿が手元にありません。しばらくの猶予をいただけるなら、また書店・古書店を巡って探し出して購入したいと思っております。
件の著述は宮本常一が万葉集を全文暗誦できるまでに読み込んでおり、古文書や古い絵巻物や鳥獣戯画や戯画や落書や童唄などを紹介し考究する著作の中に、当時の最大多数である庶民の民俗を「どんな場所でも子どもを親や大人が抱っこやおんぶしてかわいがって育て慈しむ」日本民衆社会の伝統を「こどもにとって天国の社会であった」と分析し指摘したものであったと記憶しておりましたので、先の投稿で斯様に述べたものでございます。生の文章につきましてはいますこしお待ちいただければ幸甚に存じます。
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「通りがけ | 2015年4月11日 (土) 20時33分」は、「江戸時代の社会が日本全国で厳しい生活環境の中、大人がみなこどもを温かく見守る社会であった風俗民俗を、小林一茶の句に見ることができます」として次の句を挙げている。
古典に親しむ~一茶の俳句集 >>www.h3.dion.ne.jp/~urutora/issa.htm
春めくややぶありて雪ありて雪
雪とけて村いっぱいの子どもかな
春雨や食はれ残りの鴨(かも)が鳴く
われと来て遊べや親のない雀
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
鳴く猫に赤ん目をして手まりかな
寝せつけし子の洗濯(せんたく)や夏の月
蚤(のみ)の跡(あと)かぞへながらに添乳(そへぢ)かな
麦秋(むぎあき)や子を負ひながらいはし売り
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
名月や膳(ぜん)に這(は)ひよる子があらば
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http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/mny0501.htm、巻第五 802・803 山上憶良の歌」も挙げている。
「通りがけ | 2015年4月12日 (日) 07時08分」は、「古典に親しむ~万葉集第五集
802
瓜(うり)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しぬ)はゆ 何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
803
銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも
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【意味】
瓜を食べると子どもが思い出される。栗を食べるとまして偲ばれる。いったいどこからわが子として生まれてきたのか。目の前にしきりに面影がちらついて、ぐっすり眠らせてくれない。銀も黄金も玉も、いったい何になるというのか、そんな勝れた宝でさえ、子どもに及ぶものがあろうか。
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【説明】
山上憶良が、離れて暮らす子どもらを思い詠んだ長歌と反歌。この歌の前には、次の意の序文が付いています。『釈迦如来がその貴いお口で正に説かれたのには、「等しくあらゆる生き物をいつくしみ思うことは、わが子を思うのと同じである」。また、「愛は子に対する愛に勝るものはない」ともおっしゃった。この上ない大聖人ですらわが子を愛する心がある。まして世の中の人々のなかに、誰が子を愛さない者があろうか』 |
「れんだいこ | 2015年4月12日 (日) 18時12分」は次のように返信している。
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