保田與重郎の履歴考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.30日

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 2012.06.21日 れんだいこ拝


【保田 與(与)重郎(やすだ よじゅうろう)の履歴】
(1910年(明治43)年4月15日 - 1981(昭和56)年10月4日)
 戦中戦後、日本浪曼派を率いて近代日本文学史に一時代を画した、文芸評論家で、卓絶した古典思想により一貫して我が国の歩むべき道を語り続けた文明思想家でもあった。多数の著作を出している。筆名で湯原冬美も用いた。
 戦前篇

 明治43年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれ。

 大正12年、14歳の時、旧制奈良県立畝傍中学校に入学。

 1928(昭和 3)年、19歳の時、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校文科乙類に入学。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れたが、その思想を受け入れることはなかった。しかし、蔵原惟人や中条百合子の作品に対しても、しかるべき評価をしているように、全く無関心であったわけではない。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある。

 1930(昭和5)年、21歳の時、同級の田中克己らと短歌誌「炫火」を創刊。

 1931(昭和6)年、22歳の時、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、美学を専攻。

 1932(昭和7)年、満州事変勃発6か月後の頃、在学中に大阪高等学校同窓生と同人誌「コギト」を創刊し、その中心的な存在と活躍する。ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開する。

 1935(昭和10)年、26歳の時、東京帝国大学美学科美術史学科卒業。卒業後、雑誌「日本浪漫派」を創刊、その中心となる(1938年8月まで続く。通巻29号)。創刊予告に名を連ねたのは、神保光太郎、亀井勝一郎、中谷孝雄、中島栄次郎、緒方隆士、保田與重郎の6名。創刊号には緑川貢、太宰治、壇一雄、山岸外史、芳賀壇らが同人に加わり、後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄などが参加、終刊近くには50名以上の一大文学運動となる。「閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍『文壇の寵兒』となった」、「『日本浪漫派』を創刊し、マルクス主義的プロレタリア文学運動解体後の日本文学を確立する為に、ドイツ浪漫派の影響のもとに日本古典文学の復興をめざした。伝統主義・反進歩主義・反近代主義の立場から多くの評論を展開する」と評されている。

 1936(昭和11)年、27歳の時、処女作「日本の橋」を刊行する。「日本の橋」は次のように紹介されている。

 「文学界に掲載された日本の橋』とその他の著作によって、中村光夫とともに保田が第一回池谷信三郎賞を受けたのは昭和十一年、二十七歳の時だった。同作品を巻頭に「誰ケ袖屏風」ほか四篇を内容とする単行本『日本の橋』が刊行されたのが同年十一月二十一日、奥付の発行日に従えば、『英雄と詩人』に先んじること四日、処女評論集に位置づけられる。早く二十歳の頃に発想の萌芽が認められる日本の橋』は、橋の形態や架橋の精神を考察し、日本と西欧の本質的な差異を発見したユニークで類ない文芸評論として、その斬新さに文壇の注目が集まり、読書界に広く迎えられた。本文庫に収めたのは、同題前著から、大幅に加筆修正した日本の橋』と「誰ケ袖屏風」のみを残し、「河原操子」、「木曽冠者」を新たに加えて昭和十四年に刊行された『改版日本の橋』である」(「改版 日本の橋 (保田与重郎文庫)」)。

 同年、「英雄と詩人 文藝評論集」(人文書院)を刊行する。

 1937(昭和12)年、28歳の時、「日本の橋」(芝書店、のち角川選書、講談社学術文庫)で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。

 1938(昭和13)年、29歳の時、柏原典子と結婚。「蒙疆」(生活社)を刊行する。
 「昭和十一年末に『年の三分の一以上は東京にゐなかつた。これは例年のそのままである』と自ら誌しているように、保田にとって旅は『詩人の生理』に促された生の自然であった。その旅のうちで最も長期に亘ったのが昭和十三年の大陸行だった。即ち五月二日、佐藤春夫とともに大阪を発った保田は、四十余日を朝鮮、満州、北京から蒙古方面に旅し、帰国後、その折の見聞をコギトはじめ諸雑誌に寄稿した。本書はその一連の稿を中心に同年後半に書かれた文章を付して十二月に刊行されたものである」(「蒙疆 (保田与重郎文庫)」)。

 同年、「戴冠詩人の第一人者」を執筆する。1941(昭和16)年、東京堂から刊行される。冒頭の文句は次の通り。
 「日本は今未曾有の偉大な時期に臨んでゐる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。日本は古の父祖の神話を新しい現前の実在とし有史の理念をその世界史的結構に於て表現しつx行為し始めたのである」。

 「戴冠詩人の第一人者」は次のように評されている。
 「昭和十三年九月に刊行され,第二回透谷文学賞を受けた本書は,『日本の橋』、『英雄と詩人』の二年後に出た三冊目の評論集である。収録作十篇は概ね昭和十年から十三年にかけて発表されたものだが,最も早く書かれた「當麻曼荼羅」は昭和八年の発表になる。因みにこの作は,折口信夫の『死者の書』執筆のきっかけになった。前二著が近代と西洋を媒介として文学的な拠点と感性を自ら語るエッセイが多かったのに比して,本書は日本の古典の美と信実を確信する文章を専らとし,世界史の中の「日本」を強く意識する保田二十九歳の決意とともに上梓された事情は「緒言」にみられる通りである。就中,神人分離を背景に,詩人と武人を一身に体現した悲劇的存在としての日本武尊を描いた表題作と,巻末に置かれた「明治の精神」は雑誌発表当時,文壇を刺戟した作である」(「3巻 戴冠詩人の御一人者」)。
 「これは一編の悲歌である。記紀の記述により、日本武尊と仲哀天皇の遠征による輝かしい武勲をたたえつつ、相聞歌に彩られた悲しい恋の運命を、そして何よりも日本武尊の壮絶な死がこのエッセを思想にまで昇華している。そこでは大和に育った著者保田與重郎のよく咀嚼された歴史的、地理的知識の深さを見ることができる。日の本の子を自覚する保田には、このエッセを書くことは運命的に正統ととらえていたのだと思う。

 戦前文壇の日本浪曼派の中核にあった保田の思想的特徴は、「悲劇に美」を見ることをこえて、「美」しくあるためには悲劇が必要である。悲劇の主が英雄であればあるほど悲劇は倍加して美しいというものであった。このような保田の文学の基底をなすロマンティーク・イロニーは、ドイツ・ロマン派の影響を受けつつ、日本独特の「あはれ」といった情緒を加味して創成した保田の独壇場である。ことに時代は1930年代であり、悲劇を体現する者はすでに限られていた。保田はおのれの「美」を体現出来る者として,白馬にまたがった雄々しき昭和天皇の姿を想像しなかったとは言い切れまい。第2次大戦の末期に保田が公安当局にマークされていたのはあながち理由のないところではない。一方、戦没学生が多く保田の美学に最後の拠り所を求めて戦地に赴いたのもたしかであろう。保田の美学は予期せぬ多くの英雄を作り出そうとしていた。保田もまた三十六歳の老兵として中国に出征、野戦病院で終戦の玉音を聞いた。

 戦後、保田は農の国日本を希求し絶対平和を唱えた。保田にとって、今までの文学活動全てが否定される瀬戸際にあり、彼自身の身の処し方によっては、自らの描く「美」を永劫に体現することもあり得たであろう。しかし、保田はそう はしなかった。日本浪曼派の末裔とも言うべき三島由紀夫の起こした騒擾に、保田は、英雄の悲劇を見たのであろうか。いずれにせよ、本作は、通常いわれる保田の難解な論考の中では比較的読みやすく、複雑な保田イズムの萌芽の一つを確実に見出すことのできる良書である」(「保田與重郎におけるロマンティーク・イロニーの原点, 2011/9/27 」)。

 「戴冠詩人の第一人者」が北村透谷賞を受賞、新進文芸評論家としての地位を確立し、文壇でも旺盛な執筆活動をはじめる。 

 1939(昭和14)年、30歳の時、「後鳥羽院 日本文学の源流と伝統」(思潮社)を刊行する。次のように紹介されている。

 「日本文芸の歴史を考えるうえで、保田にとって後鳥羽院は動かしがたい核に位置する最重要の詩人だった。学生時代、芭蕉に教えられ、承久懐古の情に促されるまま隠岐島を旅して以来、数年にわたって書きためていた祈念の文章を『後鳥羽院』と題して上梓したのは昭和十四年、後鳥羽院七百年祭の歳にあたっていた。その三年後に三篇の新稿を加えた増補新版(本文庫)が刊行されている。本書は、「英雄と詩人」という著者年来のテーマに従って、文化擁護者としての後鳥羽院の志と事業を欽仰し、院に発し西行から芭蕉へと受け継がれる隠退者の文芸と美観に日本文学の源流と伝統を見出そうとした文学史の試みである 」(「後鳥羽院 増補新版 保田与重郎文庫4 」)。

 同年、「ヱルテルは何故死んだか」(ぐろりあ・そさえて、のち新版、日本浪漫文庫)を刊行する。次のように紹介されている。
 「「新ぐろりあ叢書」の一冊として昭和十四年十月に刊行された本書は、同十一年に出た事実上の第一評論集『英雄と詩人』で扱った主題と関心を、さらに発展深化させた稀有の文芸評論の書である。資本主義とともに普遍化してゆく西欧近代の発想に早くから疑念を抱いていた保田は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の背後に、近代の無惨を知って主人公を殺さざるを得なかった作家の明察と、東洋に目を向けようとする芸術家の精神を読み取った。戦後になって著者自ら筆を執った「解題」で「私の近代否定論が、どういふ骨格かといふことを、理解して欲しいので、この本を出した」と述べているところからも窺えるように、文学批評の枠を超えた究極の文芸評論、文明論として光彩を放つ異色作である」(「ヱルテルは何故死んだか (保田与重郎文庫) 」)。

 同年、「浪曼派的文芸批評」(人文書院)を刊行する。次のように紹介されている。
 「日本浪曼派の中心的な批評家として、同誌上に発表したポレミックな文章を収録する表題単行本と、それ以前に「コギト」「三田文学」等に文芸時評のタイトルで旺盛に執筆された時評的文章を集める」(「浪曼派的文芸批評 (保田与重郎全集) 」)。

 保田はこの頃から伝統主義、反近代主義、反進歩主義、アジア主義の色調を強めていく。日本の古典文学、古美術への関心から日本精神の再検討へ向かい「日本の傳統への囘歸を叫び、次第に國粹主義的傾向を強め」、いわゆる日本主義の傾向を深めていく。この頃は、大東亜戦争に突入する時期で、新しいロマンチシズムを打ち立てようとする保田の論調は時代を代表する評論となった。保田は、日本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで戦線の拡大を扇動する論陣を張った。

 1940(昭和15)年、「佐藤春夫」(弘文堂、新版、のち日本図書センター)、「文學の立場」(古今書院)を刊行する。。

 1941(昭和16)年、32歳の時、「民族的優越感」(道統社)を刊行する。

 同年、「美の擁護」を刊行する。

 同年、「民族と文藝」を刊行する。次のように紹介されている。
 「プロレタリア文学運動の流れに沿って言及されてきた民衆像とは次元を異にして、日本の文芸における庶民の役割を独自のスタイルで明らめようとした貴重な一冊である」(「民族と文芸 (保田与重郎文庫)」)。

 同年、「近代の終焉」を刊行する。次のように紹介されている。
 「「近代という命目で現代を害している思想の諸傾向を清掃排除する」という志向から書名を定めた、とはしがきに記された本書は、昭和十六年十二月も押し詰まって刊行された評論集である。十九篇の諸作は昭和十五年の夏から十六年の半ばにかけての開戦前夜に書かれ、それぞれに時代の影をしのばせる文章が少なくない。収載作に「一貫する趣旨は、文化の伝統とその再建について論じ、かたがた時務を述べて名分を正そうとしたもの」と著者が述べているように、遽しさを加える時代の中で、危機と革新を意識しつつ国の文化と歴史をどう考えようとしたかを示す集といっていい。因みに、翌十七年初秋、雑誌「文学界」の主催で「近代の超克」座談会が開かれているが、“超克”と“終焉”の立場の差は明らかで、保田はその座談会に殆ど関心を示さなかった」(「近代の終焉 (保田与重郎文庫) 」)。

 1942(昭和17)年、33歳の時、「和泉式部私抄」(育英書院)を刊行する。

 同年、「萬葉集の精神-その成立と大伴家持」(筑摩書房)を刊行する。次のように紹介されている。

 「本書は、昭和十五年秋、皇紀二千六百年を祝って東京帝室博物館で開かれた正倉院御物展の拝観をきっかけに想を起し、ほぼ一年で脱稿したのち、同十七年六月に上梓されたA五判五百七十一頁に及ぶ大著である。即ち、天平文化を仏教文化と見倣す一般の風潮を排し、『万葉集』の成立事情からその文化を見直すべきだとする天平文化論の性格をも備えた著者の代表作である。就中、同集の成立に果した大伴家持の役割が、国史の信実を再構築する営為にほかならなかったという一冊の眼目は、何よりも本書の性格を示して、著者の異立を表わしている。古典が持て囃され、国粋が幅を利かす時局とは別のところで、「今日に於て万葉集の最後の読者であるかもしれない」と誌す保田は、自らを家持の孤影に重ねていたのだろうか」(「万葉集の精神―その成立と大伴家持 (保田与重郎文庫)」)。

 同年7月、「日本語録」(新潮社)を刊行する。次のように紹介されている。

 「大著『万葉集の精神』が上梓された翌月の昭和十七年七月、新潮叢書の第一回配本として出版された『日本語録』は、簡明な言葉のもつ強さと、類書とは異なった文学性が戦時下の民衆の胸底にわだかまっていた憂情を刺戟したのだろう、版を重ねて二年半ほどの間に三万七千部を刷っている。時代の状況に鑑み、或いは敬慕の情にせかれて選んだ史上の人物五十名が、事に臨んで発した言葉の深意を、国の歴史と民族の精神性という観点から説き明かそうとした本書は、著者の文学観・歴史観を一般人に理解しやすいスタイルで書下した国史読本と言っていい。「日本女性語録」は、「新女苑」昭和十九年一月号から七回に亘って連載されたもので、女性のまごころ、優美で強い心もちの在り様を、主に上代女性の歌に尋ねた稿である 」(日本語録・日本女性語録 (保田与重郎文庫))。

 同年、「古典論」(講談社)を刊行する。

 同年、「風景と歴史」(天理時報社)、「詩人の生理」(人文書院)を刊行する。「日本文学の系譜を跡づける仕事を主とするとともに、いわゆる日本主義的言説がはびこる戦時にあって、独自の日本観と反西洋近代の立場から、さかんに時評を発表」(「保田與重郎 略歴」)とある。

 1943(昭和18)年、34歳の時、「蒙彊」、「芭蕉」(新潮社のち講談社学術文庫)、「南山踏雲録」(小学館)、「文明一新論」(第一公論社)、「皇臣傳」(大日本雄辯會講談社)、「機織る少女」(萬里閣)を刊行する。 

 1944(昭和19)年、35歳の時、4月、私家版「校註祝詞」(新学社)を刊行し、出陣学徒に贈る。次のように紹介されている。

 「吉田神学の亜流たるその頃の所謂神道思想即ち国家神道史観を排し、“日本”という国の成り立ちと本姿を確認するために執筆された本書は、昭和十九年後半から翌二十年にかけて発表された「鳥見のひかり」の先蹤をなすとともに、同稿と不可分の営為である」(「校註 祝詞 (保田与重郎文庫)」)。

 この夏から自宅は常時私服憲兵の監視するところとなる。9月、「鳥見のひかり」、11月、「事依佐志論」を発表する。「神助ノ説」を発表し「鳥見のひかり三部作」成る。この冬より病臥、年明けには瀕死の状態となる。「鳥見のひかり部作」は次のように紹介されている。

 「“祭政一致考”“事依佐志論”“神助説”の三部からなる『鳥見のひかり』は、昭和19年秋から翌20年春にかけて発表された。神道思想が喧伝される戦時下、しかも国土の戦場化を覚悟しなければならない時期に、産土の地にある鳥見山と国の成り立ちに思いを致し、肇国と祭ごとの真義を明らかにすべく執筆された戦中最後の文章である。一方、昭和18年秋から翌早春にかけて草された「天杖記」は、上梓を予定して校正作業に一年を費やしたものの、公刊の機を失って戦後永らくの間、著者の許に蔵されていた作である。多摩に御狩りした明治天皇の行蹟と供奉し奉迎する人たちとのおおらかな交歓を「古代絵巻」さながらの物語として再現した類例のない文章である」(「鳥見のひかり/天杖記 (保田与重郎文庫)」)。

 1945(昭和20)年、36歳の時、3月、病養中に召集令状を受け応召される。大阪の兵営に入り、北支派遣曙第一四五六部隊に編入され、最後の関釜連絡船で朝鮮半島を経由して北支の石門の部隊に配属された。神道關係者の「國粹主義」が軍國主義者から反撥を受けたのと同樣、保田も軍部から相當睨まれたらしい。軍部の嫌がらせだったとの臆測がある。その後、大患を得て軍病院に入院、そのまま敗戦を迎える。

 「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと、評していた。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」と評がある。


 戦後篇
 1946(昭和21)年、37歳の時、5月、北支から生還し帰国。以後郷里の桜井の地で農業に従事する。

 1948(昭和23)年、39歳の時、3月、芦田内閣の治政下で、大東亜戦争を「正当化」したとされ「追放令」G項該当者として公職追放に遭う。占領下の日本の文壇は、保田を最も悪質な好戦的右翼文士として葬られ、言論の道を閉ざされた。不遇の時期を郷里で送る。右が支配者である時には右から、左が支配者である時には左から「迫害」を受けた。戦後のジャーナリズムと知識人から指弾・黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになる。

 1949(昭和24)年、40歳の時、保田を慕う青年らと「まさき會祖國社」を立上げる。9月、雑誌「祖國」を創刊(昭和30年2月終刊)する。以後無署名の文章を毎号のように発表する。匿名の時局論文。主に保田與重郎が執筆したが一部は同誌同人が保田風の文體で書いてゐる。時評文「絶対平和論」「日本に祈る」などを書く。その姿勢は、戦前からの思想の一貫性を守り通した。

 1950(昭和25)年、41歳の時、祖國社より時評文「絶対平和論/明治維新とアジアの革命 」を刊行する。次のように紹介されている。
 「左翼的な政治平和論議が横行支配する時代に抗して、近代戦に敗れた意味を反省し、平和の礎は東洋的生産生活と無抵抗精神への回帰にしかないと問答体で訴えた文章。併録する「明治維新とアジアの革命」は、維新の精神がアジアに及ぼした影響を論じながら、自律すべきアジア像を提示した文明論・アジア論で、昭和三十年の稿を初出とする」(「絶対平和論/明治維新とアジアの革命 (保田与重郎文庫) 」)。

 同年、「日本に祈る」を刊行する。

 1955(昭和30)年、46歳の時、7月、総合誌「新論」を創刊(昭和31年1月、終刊)。次のように述べている。
 「正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない」。

 1955.8月号「新論」で「政治的不満の表現に現はれた封建制」を発表する。

 1957(昭和32)年、48歳の時、3月、歌誌「風日」を創刊。同月、京都に教育図書出版社「新学社」を設立する。

 1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守りつづけた。身余堂は、建物から什器一切まで、陶芸界の巨匠河井寛次郎の高弟であった陶工上田恆次(うえだつねじ)の制作設計になる。民家のもつ重厚と洗練した造形美をあわせもつ名建築であり、かの佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」として、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛した。それを伝え聞いた川端康成は、「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。

 1960(昭和35)年、51歳の時、「述志新論」の著述を発意する。「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」という戦後民主主義の通念に棹さしている。
 「本書は、歿後の昭和五十八年六月末、京都の自邸書庫から未発表の原稿が見出され、翌年十月に新潮社から『日本史新論』と題されて公刊されたものである。六〇年安保に揺れる世情に触発され、昭和三十五年から翌年にかけて発意、執筆された文章でありながら、当時の政治状況に依った時務論ではなく、この国の成り立ちと生成を説き明かすことによって国の行末に警鐘を鳴らさんとした、抵抗の文芸にほかならない」(「述史新論 (保田与重郎文庫)」)。

 1963(昭和38)年、54歳の時、「新潮」に「現代畸人傳」の連載をはじめ、戦後の文壇ジャーナリズムに再登場する。かくて復権する。しかし戰前の華々しい評論に比べると、戰後の文章は精彩を欠く。

 同年、佐藤春夫が監修しみずから編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行する。目次は次の通り。
1 春の朝 ロバート・ブラウニング 上田敏 訳
2 過ぎ去った今 河井寛次郎
3 日本語の美しさ 佐藤春夫
4 「イーリアス」を訳し終えて 土井晩翠
5 奈良日記 エルヴィン・ベルツ
6 行春(ゆくはる)  芭蕉
7 田植えの季節に思う 津田左右吉
8 暮らしと文明 長谷川如是閑
9 立山の賦 大伴家持
10  京の祭り  吉井勇
11 鳥を追うことば 早川孝太郎
12 国原(くにはら) 伊藤左千夫
13 北里先生のことども 志賀潔
14 中江藤樹 内村鑑三
15 夜明け前 島崎藤村
16 阿部一族 森鷗外
17 文芸における道徳性の本質 萩原朔太郎
18 今様(いまよう) 二川相近
19 単騎遠征 福島安正
20 航海日記 村垣淡路守範正

 新学社の「新装版に寄せて」は次の通り。
 「『規範国語読本』は、教育図書出版社である小社が昭和38年、中学校国語の副教材として刊行し、当時国語力の低下を憂慮していた全国の心ある先生方から支持されました。本書は、昭和を代表する文芸評論家保田與重郎が作品選定から解説にいたるまで、すべてをみずから行ないました。そして監修は、その師であった文豪佐藤春夫がすすんで引き受けたのです。国語の真髄やその美しさを知りつくしたこの二人の文学者が、国語力・読書力を養い、さらに日本人としての情緒・情操を育成するためには何が必要かを真剣に考え、出来上がったのがこの『規範国語読本』です。国民的な教養や、国語力・読書力の低下がさらに深刻な問題となっている現在、この最高峰の文学者による国語読本を、装も新たに再び世にわかつことにいたしました。新装版にあたって、できるだけ初版当初の雰囲気を残そうと、収録作品や解説も当時のものをそのまま復元しています」。

 次のように評されている。
 「昭和38年に出版された、中学国語の副読本を復刊したものです。現在ならば、高校現代国語レベルの内容といってもいいでしょう。レイアウトが見やすく解説や図版も豊富で、パラパラと眺めるだけでも楽しい内容となっています。本書の作品選定と解説は保田与重郎、挿画とカットは棟方志功、そして監修の佐藤春夫も (名義貸しではなく) いくつかの作品に鑑賞のてびきを寄せています。編纂者の保田与重郎は、戦前戦中の戦争擁護発言が問題視され、戦後しばらく論壇から干されていますが、本書を眺めてみるだけでも、その批評眼の一端を垣間見ることができます。近年、この編者の著作が再評価されつつあるのも当然といえるでしょう。

 本書では、多分野からさまざまな文章を収録し、国語をとおして日本の文化や歴史にも触れられる内容となっています。それぞれ活躍する場は異なっていても、深い学識や経験、そして鋭い感性によって記された文章には、どれも深い味わいがあります。出雲での日常を、おだやかで美しい文章でつづった、河井寛次郎 (陶芸家) 『火の誓い』 から 「過ぎ去った今」。奈良での印象的な出会いと再会を記した、エルヴィン・ベルツ (医学博士) 『ベルツの日記』 より 「奈良日記」。芥川龍之介の小説を批判した、萩原朔太郎の文章 「文芸における道徳性の本質」。明治25年、ベルリンから釜山まで、馬でユーラシア大陸を単独横断した記録、福島安正 「単騎遠征」。万延元年 (1860年) の遣米使節団に同行した役人、村垣淡路守範正の記した 「航海日記」。このほかにも、佐藤春夫 「日本語の美しさ」、芭蕉 「行春」、長谷川如是閑 「暮らしと文明」、大伴家持「立山の賦」、内村鑑三 「中江藤樹」、島崎藤村 「夜明け前」、森鴎外 「阿部一族」 などが収録されています」(「規範国語読本」)。

 1964(昭和39)年、55歳の時、「現代畸人傅」(新潮社)を刊行する。目次は次の通り。
  序 「月夜の美觀」について 涙河の辯
  一 狂言綺語の論
  二 置みやげ擬作の説
  三 大師匠殺身成仁辯
  四 修身の教へ
  五 歴史の流れの底に
  六 紅葉のいそぎ
  七 さまざまな歴史家たち
  八 行道有福觀
  九 われらが愛國運動
  十 われらが平和運動
  番外 天道好還の理 竝育竝行の理

 「現代畸人傳」は次のように評されている。
 「戦後、故郷桜井で農に従事したあと、同人誌「祖國」を創刊して殆ど唯一の文章発表の場としてきた保田は、昭和三十三年暮に、京都鳴瀧の地に移り住んだ。橋川文三の「日本浪曼派批判序説」が公刊され、保田與重郎という存在を黙殺無視していいものではない、という空気がジャーナリズムに萌し始めた頃である。「新潮」で本書の連載が開始されたのは昭和三十八年二月号、翌年十月に一本として上梓された。文学史的な言い方をすれば、戦後文壇に再登場を果した記念すべき出版だった。その内容は、戦後的世相や思考の外に生きる有名無名の人士を懐しみ、その人生と命の在り様に讃嘆感謝の念を惜しまぬ文章から成っている。保田が悦び、信をおいた人たちの列伝に託して、人間の生成に思いを致した本書は、愛惜の情あふるる畸人傳と言えよう」(「0501040・日本・文学・保田與重郎:現代畸人傳/保田與重郎」)。

 1965(昭和40)年、56歳の時、「大和長谷寺」を刊行。大津の義仲寺再建に尽力し、落慶式を主宰する。1965.8.1日付け教育日本新聞に「自主獨立の眞精神」掲載される。
同年9.11日付け教育日本新聞に「安易な依存心を排す」掲載される。

 1966(昭和41)年、57歳の時、1966.9.2日付け教育日本新聞に「自主獨立の教養」掲載される。

 1968(昭和43)年、59歳の時、「日本の美術史」(新潮社)を刊行する。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)が刊行される。

 1969(昭和44)年、60歳の時、12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)等を刊行する。次のように評されている。
 「昭和四十四年十二月、至文堂から刊行された本書は、「国文学解釈と鑑賞」の昭和四十二年四月号から二十六回に亘って連載された稿を一本としたものである。大阪高校の級友たちと始めた同人誌の後身ともいうべき「コギト」に拠って、本格的な執筆活動を開始した保田は、昭和十年に至って中谷孝雄、亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」を創刊する。同誌は後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄、太宰治なども参加するに及んで一大文学運動の観すら呈した。本書は戦争を挟んで三十年後に、当時の交友や文学者の消息、文学界の事情などを回想した書である。併し単なる文学史の資料や時代の証言の類とは趣きを異にし、自らのめざした文芸の質を振り返って確認しようとした確信的なメモアールと云うべきであろう。 」(「日本浪曼派の時代 (保田与重郎文庫)」)。

 中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)刊行する。

 1970(昭和45)年、61歳の時、「日本の美とこころ」(読売選書)を刊行する。

 1971(昭和46)年、62歳の時、歌集「木丹木母集」(新潮社)等を刊行する。「保田与重郎選集 全6巻」(講談社)が刊行される。

 1972(昭和47)年、63歳の時、「日本の文學史」(新潮社)等を刊行する。次のように紹介されている。
 「『私は日本の美術史をかきすすんで、近古近世に及んだ時、わが執心の本意をいふのに、文学史でなければならぬと感じたのである』と序説に誌される通り、昭和47年5月に刊行された本書は、『日本の美術史』の筆を擱いてから、1年半後の昭和44年初夏に稿を起している。保田の生涯にわたる文業が、畢竟するところ日本文芸の源流と血統を顕彰し、讃仰感謝することにあったとすれば、即ち本書はその総仕上げと称しうる著作である。西欧文芸学とは無縁の筆致をもって、文芸の恢弘と伝承に殉じた文人たちを敬慕しつつ、古人を懐しみ古心に立ち返ろうとした本書は、通常の文学史とは根底から異った述志と祈念の書というべきであろう」(「日本の文学史 (保田与重郎文庫)」)。

 1973(昭和48)年、64歳の時、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)を刊行する。

 1975(昭和50)年、66歳の時、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)を刊行する。

 1976(昭和51)年、67歳の時、落柿舎第13世庵主となり、「落柿舎守当番」と称する。

 1978(昭和53)年、69歳の時、「冰魂記」(白川書院、のち恒文社)を刊行する。

 1979(昭和54)年、70歳の時、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)を刊行する。

 1981(昭和56)年、72歳の時、10月4日、肺癌のため死去。
 保田の死後の追悼の動きは次の通り。

 わが万葉集 新潮社 1982.10
 「炫火頌(カギロイシヨウ) 歌集」、棟方志功画(講談社文庫、1982)
 「日本史新論」(新潮社) 1984.10
 「保田與重郎全集 全40巻別巻5」(講談社、 1985-89)(全巻解説・谷崎昭男) 
 書蹟集『身余堂書帖』講談社 1989年 上記別巻
 保田與重郎文庫 全32巻 新学社 1999-2003
 保田與重郎文芸論集 川村二郎編 1999.1 講談社文芸文庫

【保田與重郎論】

 保田は、「私の郷里は桜井である」と保田はしばしば誇らしくこう書いているように、保田の作品は、「大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」と云われる。戦後は、神武天皇の聖蹟・鳥見山に座す(桜井市桜井)等彌神社に「大孝」の碑を、桜井公園(桜井市谷)に「土舞台」の顕彰碑を、桜井市穴師のカタヤケシでは元横綱・双葉山(時津風理事長)、柏戸・大鵬両横綱らを招いて天覧相撲発祥の伝統を顕彰する行事を行い、桜井市黒崎の白山神社の境内には万葉集発耀の碑を建てるなど、「わが郷里桜井」を内外に示している。

 橋川文三「日本浪曼派批判序説」では、保田の作風はデスペレートな(絶望的な)諦観に貫かれており、それが古典の学識に彩られており、ファシズム的な、あるいはナチズム的な能動的な高揚感ではなく、死を背後に担った悲壮感を漂わせていたとのことであり、それが、特攻を企画した軍への反感とあいまって、戦意高揚に資したと戦後批判されることになったとされる。

 明治維新以降の神道の国教化(国家神道)に疑問を呈し、上古の神道とは異なるのではと評した。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた。

 「絶対平和論」では、近代性の克復により、アジアの根源的精神性の目覚めを期待していた。当人は、そもそもの文明の母体であるアジアの豊繞さの熟成が望まれているのだから、当然戦争という手段は、峻拒されると考えていた。

 戦時下の保田の文章でも、神儒分離が徹底主張され、所謂「皇国史観」とは、種類を異にしている。消極的ながら、厭戦的なものを忍ばせていた。本居宣長が「直毘霊」以来の神ながらの道に純粋に徹したと言われる。

 倫理学者の勝部真長氏は保田を次のように評している。

 「歴史の地下水を汲み上げる人。地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」。

 「鈴木邦男の保田與重郎30回忌〈炫火忌〉に参加しました」は次のように評している。

 「右翼・民族派の青年はもちろん、左翼の青年にも保田の愛読者は多い。左右という政治的違いをこえて日本人の精神、死生観に訴えかけるものが保田の美学にはあった」。
 2023.5.16日付け毎日新聞文化欄21P、関雄輔「保田與重郎の文学に迫る 批評家・前田英樹さんが新著」が次のように評している。
 「前田さんには、日本の文芸批評の確立者とされる小林秀雄に関する著作もある。『日本の近代文学において(小林に)一歩も引けをとらないどころか、より根源から文学について考えた人にもかかわらず、正当な評価も尊敬も受けていない。イデオロギーの文脈から解き放って、その文業を据え直す必要がある』。その思いが本書執筆の動機となった」。





(私論.私見)