保田與重郎の履歴考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.30日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、保田與重郎の履歴を確認する。「ウィキペディア保田與重郎」、「保田與重郎略歴」 その他を参照する。 2012.06.21日 れんだいこ拝 |
【保田 與(与)重郎(やすだ よじゅうろう)の履歴】 | ||||||||||||||
(1910年(明治43)年4月15日 - 1981(昭和56)年10月4日) | ||||||||||||||
戦中戦後、日本浪曼派を率いて近代日本文学史に一時代を画した、文芸評論家で、卓絶した古典思想により一貫して我が国の歩むべき道を語り続けた文明思想家でもあった。多数の著作を出している。筆名で湯原冬美も用いた。 | ||||||||||||||
戦前篇 | ||||||||||||||
明治43年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれ。 1935(昭和10)年、26歳の時、東京帝国大学美学科美術史学科卒業。卒業後、雑誌「日本浪漫派」を創刊、その中心となる(1938年8月まで続く。通巻29号)。創刊予告に名を連ねたのは、神保光太郎、亀井勝一郎、中谷孝雄、中島栄次郎、緒方隆士、保田與重郎の6名。創刊号には緑川貢、太宰治、壇一雄、山岸外史、芳賀壇らが同人に加わり、後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄などが参加、終刊近くには50名以上の一大文学運動となる。「閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍『文壇の寵兒』となった」、「『日本浪漫派』を創刊し、マルクス主義的プロレタリア文学運動解体後の日本文学を確立する為に、ドイツ浪漫派の影響のもとに日本古典文学の復興をめざした。伝統主義・反進歩主義・反近代主義の立場から多くの評論を展開する」と評されている。
1936(昭和11)年、27歳の時、処女作「日本の橋」を刊行する。「日本の橋」は次のように紹介されている。
同年、「英雄と詩人 文藝評論集」(人文書院)を刊行する。 1937(昭和12)年、28歳の時、「日本の橋」(芝書店、のち角川選書、講談社学術文庫)で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。 1938(昭和13)年、29歳の時、柏原典子と結婚。「蒙疆」(生活社)を刊行する。
同年、「戴冠詩人の第一人者」を執筆する。1941(昭和16)年、東京堂から刊行される。冒頭の文句は次の通り。
「戴冠詩人の第一人者」は次のように評されている。
「戴冠詩人の第一人者」が北村透谷賞を受賞、新進文芸評論家としての地位を確立し、文壇でも旺盛な執筆活動をはじめる。 1939(昭和14)年、30歳の時、「後鳥羽院 日本文学の源流と伝統」(思潮社)を刊行する。次のように紹介されている。
同年、「ヱルテルは何故死んだか」(ぐろりあ・そさえて、のち新版、日本浪漫文庫)を刊行する。次のように紹介されている。
同年、「浪曼派的文芸批評」(人文書院)を刊行する。次のように紹介されている。
保田はこの頃から伝統主義、反近代主義、反進歩主義、アジア主義の色調を強めていく。日本の古典文学、古美術への関心から日本精神の再検討へ向かい「日本の傳統への囘歸を叫び、次第に國粹主義的傾向を強め」、いわゆる日本主義の傾向を深めていく。この頃は、大東亜戦争に突入する時期で、新しいロマンチシズムを打ち立てようとする保田の論調は時代を代表する評論となった。保田は、日本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで戦線の拡大を扇動する論陣を張った。 1940(昭和15)年、「佐藤春夫」(弘文堂、新版、のち日本図書センター)、「文學の立場」(古今書院)を刊行する。。 同年、「民族と文藝」を刊行する。次のように紹介されている。
同年、「近代の終焉」を刊行する。次のように紹介されている。
1942(昭和17)年、33歳の時、「和泉式部私抄」(育英書院)を刊行する。 同年、「萬葉集の精神-その成立と大伴家持」(筑摩書房)を刊行する。次のように紹介されている。
同年7月、「日本語録」(新潮社)を刊行する。次のように紹介されている。
同年、「古典論」(講談社)を刊行する。 1943(昭和18)年、34歳の時、「蒙彊」、「芭蕉」(新潮社のち講談社学術文庫)、「南山踏雲録」(小学館)、「文明一新論」(第一公論社)、「皇臣傳」(大日本雄辯會講談社)、「機織る少女」(萬里閣)を刊行する。
この夏から自宅は常時私服憲兵の監視するところとなる。9月、「鳥見のひかり」、11月、「事依佐志論」を発表する。「神助ノ説」を発表し「鳥見のひかり三部作」成る。この冬より病臥、年明けには瀕死の状態となる。「鳥見のひかり部作」は次のように紹介されている。
1945(昭和20)年、36歳の時、3月、病養中に召集令状を受け応召される。大阪の兵営に入り、北支派遣曙第一四五六部隊に編入され、最後の関釜連絡船で朝鮮半島を経由して北支の石門の部隊に配属された。神道關係者の「國粹主義」が軍國主義者から反撥を受けたのと同樣、保田も軍部から相當睨まれたらしい。軍部の嫌がらせだったとの臆測がある。その後、大患を得て軍病院に入院、そのまま敗戦を迎える。 |
戦後篇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1946(昭和21)年、37歳の時、5月、北支から生還し帰国。以後郷里の桜井の地で農業に従事する。 1948(昭和23)年、39歳の時、3月、芦田内閣の治政下で、大東亜戦争を「正当化」したとされ「追放令」G項該当者として公職追放に遭う。占領下の日本の文壇は、保田を最も悪質な好戦的右翼文士として葬られ、言論の道を閉ざされた。不遇の時期を郷里で送る。右が支配者である時には右から、左が支配者である時には左から「迫害」を受けた。戦後のジャーナリズムと知識人から指弾・黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになる。 1949(昭和24)年、40歳の時、保田を慕う青年らと「まさき會祖國社」を立上げる。9月、雑誌「祖國」を創刊(昭和30年2月終刊)する。以後無署名の文章を毎号のように発表する。匿名の時局論文。主に保田與重郎が執筆したが一部は同誌同人が保田風の文體で書いてゐる。時評文「絶対平和論」「日本に祈る」などを書く。その姿勢は、戦前からの思想の一貫性を守り通した。 1950(昭和25)年、41歳の時、祖國社より時評文「絶対平和論/明治維新とアジアの革命 」を刊行する。次のように紹介されている。
同年、「日本に祈る」を刊行する。 1955(昭和30)年、46歳の時、7月、総合誌「新論」を創刊(昭和31年1月、終刊)。次のように述べている。
1955.8月号「新論」で「政治的不満の表現に現はれた封建制」を発表する。 1957(昭和32)年、48歳の時、3月、歌誌「風日」を創刊。同月、京都に教育図書出版社「新学社」を設立する。 1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守りつづけた。身余堂は、建物から什器一切まで、陶芸界の巨匠河井寛次郎の高弟であった陶工上田恆次(うえだつねじ)の制作設計になる。民家のもつ重厚と洗練した造形美をあわせもつ名建築であり、かの佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」として、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛した。それを伝え聞いた川端康成は、「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。 1960(昭和35)年、51歳の時、「述志新論」の著述を発意する。「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」という戦後民主主義の通念に棹さしている。
1963(昭和38)年、54歳の時、「新潮」に「現代畸人傳」の連載をはじめ、戦後の文壇ジャーナリズムに再登場する。かくて復権する。しかし戰前の華々しい評論に比べると、戰後の文章は精彩を欠く。 同年、佐藤春夫が監修しみずから編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行する。目次は次の通り。
新学社の「新装版に寄せて」は次の通り。
次のように評されている。
1964(昭和39)年、55歳の時、「現代畸人傅」(新潮社)を刊行する。目次は次の通り。
「現代畸人傳」は次のように評されている。
1965(昭和40)年、56歳の時、「大和長谷寺」を刊行。大津の義仲寺再建に尽力し、落慶式を主宰する。1965.8.1日付け教育日本新聞に「自主獨立の眞精神」掲載される。 同年9.11日付け教育日本新聞に「安易な依存心を排す」掲載される。 1966(昭和41)年、57歳の時、1966.9.2日付け教育日本新聞に「自主獨立の教養」掲載される。 1968(昭和43)年、59歳の時、「日本の美術史」(新潮社)を刊行する。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)が刊行される。 1969(昭和44)年、60歳の時、12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)等を刊行する。次のように評されている。
中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)刊行する。 1970(昭和45)年、61歳の時、「日本の美とこころ」(読売選書)を刊行する。 1971(昭和46)年、62歳の時、歌集「木丹木母集」(新潮社)等を刊行する。「保田与重郎選集 全6巻」(講談社)が刊行される。 1972(昭和47)年、63歳の時、「日本の文學史」(新潮社)等を刊行する。次のように紹介されている。
1973(昭和48)年、64歳の時、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)を刊行する。 1975(昭和50)年、66歳の時、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)を刊行する。 1976(昭和51)年、67歳の時、落柿舎第13世庵主となり、「落柿舎守当番」と称する。 1978(昭和53)年、69歳の時、「冰魂記」(白川書院、のち恒文社)を刊行する。 1979(昭和54)年、70歳の時、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)を刊行する。 1981(昭和56)年、72歳の時、10月4日、肺癌のため死去。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保田の死後の追悼の動きは次の通り。 わが万葉集 新潮社 1982.10 「炫火頌(カギロイシヨウ) 歌集」、棟方志功画(講談社文庫、1982) 「日本史新論」(新潮社) 1984.10 「保田與重郎全集 全40巻別巻5」(講談社、 1985-89)(全巻解説・谷崎昭男) 書蹟集『身余堂書帖』講談社 1989年 上記別巻 保田與重郎文庫 全32巻 新学社 1999-2003 保田與重郎文芸論集 川村二郎編 1999.1 講談社文芸文庫 |
【保田與重郎論】 | ||
保田は、「私の郷里は桜井である」と保田はしばしば誇らしくこう書いているように、保田の作品は、「大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」と云われる。戦後は、神武天皇の聖蹟・鳥見山に座す(桜井市桜井)等彌神社に「大孝」の碑を、桜井公園(桜井市谷)に「土舞台」の顕彰碑を、桜井市穴師のカタヤケシでは元横綱・双葉山(時津風理事長)、柏戸・大鵬両横綱らを招いて天覧相撲発祥の伝統を顕彰する行事を行い、桜井市黒崎の白山神社の境内には万葉集発耀の碑を建てるなど、「わが郷里桜井」を内外に示している。 橋川文三「日本浪曼派批判序説」では、保田の作風はデスペレートな(絶望的な)諦観に貫かれており、それが古典の学識に彩られており、ファシズム的な、あるいはナチズム的な能動的な高揚感ではなく、死を背後に担った悲壮感を漂わせていたとのことであり、それが、特攻を企画した軍への反感とあいまって、戦意高揚に資したと戦後批判されることになったとされる。 明治維新以降の神道の国教化(国家神道)に疑問を呈し、上古の神道とは異なるのではと評した。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた。 「絶対平和論」では、近代性の克復により、アジアの根源的精神性の目覚めを期待していた。当人は、そもそもの文明の母体であるアジアの豊繞さの熟成が望まれているのだから、当然戦争という手段は、峻拒されると考えていた。 戦時下の保田の文章でも、神儒分離が徹底主張され、所謂「皇国史観」とは、種類を異にしている。消極的ながら、厭戦的なものを忍ばせていた。本居宣長が「直毘霊」以来の神ながらの道に純粋に徹したと言われる。
「鈴木邦男の保田與重郎30回忌〈炫火忌〉に参加しました」は次のように評している。
|
||
2023.5.16日付け毎日新聞文化欄21P、関雄輔「保田與重郎の文学に迫る 批評家・前田英樹さんが新著」が次のように評している。
|
(私論.私見)