戦後篇 |
1946(昭和21)年、37歳の時、5月、北支から生還し帰国。以後郷里の桜井の地で農業に従事する。 |
1948(昭和23)年、39歳の時、3月、芦田内閣の治政下で、大東亜戦争を「正当化」したとされ「追放令」G項該当者として公職追放に遭う。占領下の日本の文壇は、保田を最も悪質な好戦的右翼文士として葬られ、言論の道を閉ざされた。不遇の時期を郷里で送る。右が支配者である時には右から、左が支配者である時には左から「迫害」を受けた。戦後のジャーナリズムと知識人から指弾・黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになる。 |
1949(昭和24)年、40歳の時、保田を慕う青年らと「まさき會祖國社」を立上げる。9月、雑誌「祖國」を創刊(昭和30年2月終刊)する。以後無署名の文章を毎号のように発表する。匿名の時局論文。主に保田與重郎が執筆したが一部は同誌同人が保田風の文體で書いてゐる。時評文「絶対平和論」「日本に祈る」などを書く。その姿勢は、戦前からの思想の一貫性を守り通した。 |
1950(昭和25)年、41歳の時、祖國社より時評文「絶対平和論/明治維新とアジアの革命 」を刊行する。次のように紹介されている。
左翼的な政治平和論議が横行支配する時代に抗して、近代戦に敗れた意味を反省し、平和の礎は東洋的生産生活と無抵抗精神への回帰にしかないと問答体で訴えた文章。併録する「明治維新とアジアの革命」は、維新の精神がアジアに及ぼした影響を論じながら、自律すべきアジア像を提示した文明論・アジア論で、昭和三十年の稿を初出とする」(「絶対平和論/明治維新とアジアの革命 (保田与重郎文庫) 」)。 |
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同年、「日本に祈る」を刊行する。 |
1955(昭和30)年、46歳の時、7月、総合誌「新論」を創刊(昭和31年1月、終刊)。次のように述べている。
正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない。 |
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1955.8月号「新論」で「政治的不満の表現に現はれた封建制」を発表する。 |
1957(昭和32)年、48歳の時、3月、歌誌「風日」を創刊。同月、京都に教育図書出版社「新学社」を設立する。 |
1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守りつづけた。身余堂は、建物から什器一切まで、陶芸界の巨匠河井寛次郎の高弟であった陶工上田恆次(うえだつねじ)の制作設計になる。民家のもつ重厚と洗練した造形美をあわせもつ名建築であり、かの佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」として、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛した。それを伝え聞いた川端康成は、「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。 |
1960(昭和35)年、51歳の時、「述志新論」の著述を発意する。「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」という戦後民主主義の通念に棹さしている。
「本書は、歿後の昭和五十八年六月末、京都の自邸書庫から未発表の原稿が見出され、翌年十月に新潮社から『日本史新論』と題されて公刊されたものである。六〇年安保に揺れる世情に触発され、昭和三十五年から翌年にかけて発意、執筆された文章でありながら、当時の政治状況に依った時務論ではなく、この国の成り立ちと生成を説き明かすことによって国の行末に警鐘を鳴らさんとした、抵抗の文芸にほかならない」(「述史新論 (保田与重郎文庫)」)。 |
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1963(昭和38)年、54歳の時、「新潮」に「現代畸人傳」の連載をはじめ、戦後の文壇ジャーナリズムに再登場する。かくて復権する。しかし戰前の華々しい評論に比べると、戰後の文章は精彩を欠く。 |
同年、佐藤春夫が監修しみずから編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行する。目次は次の通り。
1 |
春の朝 |
ロバート・ブラウニング |
上田敏 訳 |
2 |
過ぎ去った今 |
河井寛次郎 |
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3 |
日本語の美しさ |
佐藤春夫 |
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4 |
「イーリアス」を訳し終えて |
土井晩翠 |
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5 |
奈良日記 |
エルヴィン・ベルツ |
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6 |
行春(ゆくはる) |
芭蕉 |
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7 |
田植えの季節に思う |
津田左右吉 |
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8 |
暮らしと文明 |
長谷川如是閑 |
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9 |
立山の賦 |
大伴家持 |
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10 |
京の祭り |
吉井勇 |
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11 |
鳥を追うことば |
早川孝太郎 |
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12 |
国原(くにはら) |
伊藤左千夫 |
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13 |
北里先生のことども |
志賀潔 |
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14 |
中江藤樹 |
内村鑑三 |
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15 |
夜明け前 |
島崎藤村 |
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16 |
阿部一族 |
森鷗外 |
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17 |
文芸における道徳性の本質 |
萩原朔太郎 |
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18 |
今様(いまよう) |
二川相近 |
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19 |
単騎遠征 |
福島安正 |
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20 |
航海日記 |
村垣淡路守範正 |
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新学社の「新装版に寄せて」は次の通り。
「『規範国語読本』は、教育図書出版社である小社が昭和38年、中学校国語の副教材として刊行し、当時国語力の低下を憂慮していた全国の心ある先生方から支持されました。本書は、昭和を代表する文芸評論家保田與重郎が作品選定から解説にいたるまで、すべてをみずから行ないました。そして監修は、その師であった文豪佐藤春夫がすすんで引き受けたのです。国語の真髄やその美しさを知りつくしたこの二人の文学者が、国語力・読書力を養い、さらに日本人としての情緒・情操を育成するためには何が必要かを真剣に考え、出来上がったのがこの『規範国語読本』です。国民的な教養や、国語力・読書力の低下がさらに深刻な問題となっている現在、この最高峰の文学者による国語読本を、装も新たに再び世にわかつことにいたしました。新装版にあたって、できるだけ初版当初の雰囲気を残そうと、収録作品や解説も当時のものをそのまま復元しています」。 |
次のように評されている。
「昭和38年に出版された、中学国語の副読本を復刊したものです。現在ならば、高校現代国語レベルの内容といってもいいでしょう。レイアウトが見やすく解説や図版も豊富で、パラパラと眺めるだけでも楽しい内容となっています。本書の作品選定と解説は保田与重郎、挿画とカットは棟方志功、そして監修の佐藤春夫も
(名義貸しではなく) いくつかの作品に鑑賞のてびきを寄せています。編纂者の保田与重郎は、戦前戦中の戦争擁護発言が問題視され、戦後しばらく論壇から干されていますが、本書を眺めてみるだけでも、その批評眼の一端を垣間見ることができます。近年、この編者の著作が再評価されつつあるのも当然といえるでしょう。
本書では、多分野からさまざまな文章を収録し、国語をとおして日本の文化や歴史にも触れられる内容となっています。それぞれ活躍する場は異なっていても、深い学識や経験、そして鋭い感性によって記された文章には、どれも深い味わいがあります。出雲での日常を、おだやかで美しい文章でつづった、河井寛次郎
(陶芸家) 『火の誓い』 から 「過ぎ去った今」。奈良での印象的な出会いと再会を記した、エルヴィン・ベルツ (医学博士) 『ベルツの日記』 より 「奈良日記」。芥川龍之介の小説を批判した、萩原朔太郎の文章 「文芸における道徳性の本質」。明治25年、ベルリンから釜山まで、馬でユーラシア大陸を単独横断した記録、福島安正
「単騎遠征」。万延元年 (1860年) の遣米使節団に同行した役人、村垣淡路守範正の記した 「航海日記」。このほかにも、佐藤春夫 「日本語の美しさ」、芭蕉
「行春」、長谷川如是閑 「暮らしと文明」、大伴家持「立山の賦」、内村鑑三 「中江藤樹」、島崎藤村 「夜明け前」、森鴎外 「阿部一族」 などが収録されています」(「規範国語読本」)。 |
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1964(昭和39)年、55歳の時、「現代畸人傅」(新潮社)を刊行する。目次は次の通り。
序 「月夜の美觀」について 涙河の辯
一 狂言綺語の論
二 置みやげ擬作の説
三 大師匠殺身成仁辯
四 修身の教へ
五 歴史の流れの底に
六 紅葉のいそぎ
七 さまざまな歴史家たち
八 行道有福觀
九 われらが愛國運動
十 われらが平和運動
番外 天道好還の理 竝育竝行の理 |
「現代畸人傳」は次のように評されている。
「戦後、故郷桜井で農に従事したあと、同人誌「祖國」を創刊して殆ど唯一の文章発表の場としてきた保田は、昭和三十三年暮に、京都鳴瀧の地に移り住んだ。橋川文三の「日本浪曼派批判序説」が公刊され、保田與重郎という存在を黙殺無視していいものではない、という空気がジャーナリズムに萌し始めた頃である。「新潮」で本書の連載が開始されたのは昭和三十八年二月号、翌年十月に一本として上梓された。文学史的な言い方をすれば、戦後文壇に再登場を果した記念すべき出版だった。その内容は、戦後的世相や思考の外に生きる有名無名の人士を懐しみ、その人生と命の在り様に讃嘆感謝の念を惜しまぬ文章から成っている。保田が悦び、信をおいた人たちの列伝に託して、人間の生成に思いを致した本書は、愛惜の情あふるる畸人傳と言えよう」(「0501040・日本・文学・保田與重郎:現代畸人傳/保田與重郎」)。 |
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1965(昭和40)年、56歳の時、「大和長谷寺」を刊行。大津の義仲寺再建に尽力し、落慶式を主宰する。 |
1965.8.1日付け教育日本新聞に「自主獨立の眞精神」掲載される。 |
同年9.11日付け教育日本新聞に「安易な依存心を排す」掲載される。 |
1966(昭和41)年、57歳の時、1966.9.2日付け教育日本新聞に「自主獨立の教養」掲載される。 |
1968(昭和43)年、59歳の時、「日本の美術史」(新潮社)を刊行する。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)が刊行される。 |
1969(昭和44)年、60歳の時、12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)等を刊行する。次のように評されている。
「昭和四十四年十二月、至文堂から刊行された本書は、「国文学解釈と鑑賞」の昭和四十二年四月号から二十六回に亘って連載された稿を一本としたものである。大阪高校の級友たちと始めた同人誌の後身ともいうべき「コギト」に拠って、本格的な執筆活動を開始した保田は、昭和十年に至って中谷孝雄、亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」を創刊する。同誌は後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄、太宰治なども参加するに及んで一大文学運動の観すら呈した。本書は戦争を挟んで三十年後に、当時の交友や文学者の消息、文学界の事情などを回想した書である。併し単なる文学史の資料や時代の証言の類とは趣きを異にし、自らのめざした文芸の質を振り返って確認しようとした確信的なメモアールと云うべきであろう。
」(「日本浪曼派の時代 (保田与重郎文庫)」)。 |
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中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)刊行する。 |
1970(昭和45)年、61歳の時、「日本の美とこころ」(読売選書)を刊行する。 |
1971(昭和46)年、62歳の時、歌集「木丹木母集」(新潮社)等を刊行する。「保田与重郎選集 全6巻」(講談社)が刊行される。 |
1972(昭和47)年、63歳の時、「日本の文學史」(新潮社)等を刊行する。次のように紹介されている。
「『私は日本の美術史をかきすすんで、近古近世に及んだ時、わが執心の本意をいふのに、文学史でなければならぬと感じたのである』と序説に誌される通り、昭和47年5月に刊行された本書は、『日本の美術史』の筆を擱いてから、1年半後の昭和44年初夏に稿を起している。保田の生涯にわたる文業が、畢竟するところ日本文芸の源流と血統を顕彰し、讃仰感謝することにあったとすれば、即ち本書はその総仕上げと称しうる著作である。西欧文芸学とは無縁の筆致をもって、文芸の恢弘と伝承に殉じた文人たちを敬慕しつつ、古人を懐しみ古心に立ち返ろうとした本書は、通常の文学史とは根底から異った述志と祈念の書というべきであろう」(「日本の文学史 (保田与重郎文庫)」)。 |
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1973(昭和48)年、64歳の時、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)を刊行する。 |
1975(昭和50)年、66歳の時、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)を刊行する。 |
1976(昭和51)年、67歳の時、落柿舎第13世庵主となり、「落柿舎守当番」と称する。 |
1978(昭和53)年、69歳の時、「冰魂記」(白川書院、のち恒文社)を刊行する。 |
1979(昭和54)年、70歳の時、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)を刊行する。 |
1981(昭和56)年10.4日、72歳の時、肺癌のため死去。 |
保田の死後の追悼の動きは次の通り。
わが万葉集 新潮社 1982.10
「炫火頌(カギロイシヨウ) 歌集」、棟方志功画(講談社文庫、1982)
「日本史新論」(新潮社) 1984.10
「保田與重郎全集 全40巻別巻5」(講談社、 1985-89)(全巻解説・谷崎昭男)
書蹟集『身余堂書帖』講談社 1989年 上記別巻
保田與重郎文庫 全32巻 新学社 1999-2003
保田與重郎文芸論集 川村二郎編 1999.1 講談社文芸文庫 |