れんだいこの保田與重郎論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの保田與重郎論を書きつけておく。

 2012.06.22日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1049  
 投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月29日
 れんだいこの保田與重郎論その1
 「ゆめさめて うつつの花の すさまじさ 何に流しし 泪なりけむ 」(保田與重郎)

 2012.6.29日の首相官邸前デモの繰り返し叫び続ける「再稼働反対」の唱和を聞きながら、このブログを綴る。これから書きつける内容と一見関係ないように見えるが案外繫がっているかも知れない。そんな気がする。これを記すのが本題ではないので割愛する。

 れんだいこが保田與重郎を知ったのは大田龍の時事寸評の書きつけを通してであった。何時頃のことか定かでないが2005年前後のことではなかろうかと思う。確か近代中国の作家・思想家として知る人ぞ知る胡蘭成・氏と並んで日本精神を理解する有益な思想家の一人として紹介されていたと記憶する。しかし、当時のれんだいこには未知不詳の人であり過ぎ、関心を湧かさなかった。それが2012年6月、新渡戸稲造の英文「武士道」の翻訳を終えた余韻の冷めやらぬ中、ふと保田與重郎に関心を持ち始めた。きっかけが何であったのかは分からない思い出せない。

 と書いて気づいたのだが、その頃、早稲田の先輩である藤田勝久氏が卒業式での不敬不唱を宣言する不起立を主とする日の丸、君が代闘争体験記である「板橋高校卒業式事件顛末記」を贈呈して下さった。これを読み、藤田先輩のいわゆる戦闘的良心主義的見地からする「日の丸、君が代闘争」を知ったと同時に、久しぶりに「日の丸、君が代、元号問題」を見つめ直し、その成果を書きつけた。サイトは以下の通りである。

 「日の丸、君が代、元号/考」
 (marxismco/minzokumondaico/
hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm


 この時、恐らく左派的「日の丸、君が代、元号」闘争者が見落としているであろうと考えられる「日の丸、君が代、元号」の悠久の歴史性に言及した。未だ十分でないので、この研究については今後も継続していきたいと思う。この時、そういう国象の源基を為す日本精神に関する興味のアンテナが作動した。このアンテナが保田與重郎を呼び込んだ。こういう経緯があり、初めて保田與重郎と向かい合うことになったと云う次第である。そういう意味で、藤田先輩の「板橋高校卒業式事件顛末記」が「新渡戸稲造の武士道」と保田與重郎の橋渡しをする機縁となったことに感謝申し上げたい。藤田先輩には思いもよらぬことであろうが事実を述べ謝しておきたい。

 さて、保田與重郎とは何者か。れんだいこには何の知識もないので、こういう場合の常法として昔なら百科事典だろうが今はネット検索で間に合わせることにしている。「ウィキペディア保田與重郎」で概要を確認し、他のサイトでその他の情報も取り寄せる。こうして即席の何がしかの知識を得る。まず驚いたことは、保田は相当量以上の文章を遺しており著書を刊行していると云うことであった。全集が出されており何と全40巻、別巻5巻、付録1巻に上る。これだけの分量のものが刊行されるからにはよほどの値打ちがなければ理屈が合わない。そういう人物でありながら、れんだいこが知らなかったぐらいだから他の人も然りだろう、余りにも知られなさ過ぎる。これはとても不自然なことである。これにつき多くの者は疑問だけで終わるだろうが、れんだいこには直ぐに分かる。これには例の情報統制が利いているいるとしか考えられないと。

 ネット検索で、れんだいこのこの謂いを裏付ける文章に出くわしたので転載しておく。

 概要「普通の現代日本人は保田も日本浪曼派も名前すら知らない。他に書き手はいたものの、著作や影響で特記すべきものはない? 要するに保田與重郎の著作とそれが戦中の若者に与えた思想的影響が、十分に確かめられてない。桶谷の『昭和精神史』は本編も戦後篇も保田に捧げられている。他にも保田に触れた文章は多い。だが、桶谷はあくまでも批評家であり、書くものも評論であるために、保田の思想部分(保田が直接読者の魂に訴えた部分)が伝わってきにくい。2002年にミニ・ブームがあったが、かけ声だけ、内実が伴わない。(福田和也は『万葉集の精神』の解説を予定されていたのに書かなかった)」(「史観、詩心、状況―日本浪漫派の思想性を読み解くカギ」)。

 保田與重郎が完全に隠蔽されているのではない。生誕百年を記念して、2010(平成22)年3月12日 「ズバリ!文化批評、生誕100年、保田與重郎の世界」が放映されており、いわば細々とながら命脈を保ってはいるようである。問題は、これほどの人物の言が掻き消されるかの如く表に出てこないことにある。繰り返すが、これはとても不自然なことである。 

 そこで、保田與重郎思想とはどのようなものなのだろうか、これを確認する。実はこれも驚いたのだが、保田は1910(明治43)年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれの人である。れんだいこはハタと膝を叩いた。ここに秘密があるように思われる。桜井市と云えば山の辺の道と三輪そうめん、大神(おおみわ)神社、近くに群立する古墳で有名である。目下は、大神神社付近にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと古代史研究家に注視されているホットな地域である。このことが如何に重要なのかは古代史に精通していなければ分からないであろう。これを少し解説する。

 いわゆる邪馬台国論になるが、邪馬台国の所在(比定)地を廻る諸百説の中で九州説と並んで最有力な大和説は、纏向遺跡があるこの大神神社地域が邪馬台国の女王の都ではないかとしている。当然、九州説の者は認めないのだが、れんだいこも纏向遺跡一帯説を採っている。但し、通説の大和説論者との違いは、通説が邪馬台国を大和王朝の先駆的な前王朝として近親相関的に措定しているのに対して、れんだいこ説は邪馬台国は大和王朝に滅ぼされ痕跡をなくさせられた幻の王朝であるとしている。つまり、同じ大和説でも万世一系説に繫がる説と万世二系説になると云う大きな違いがある。この観点の差は、明治維新から始まる近代天皇制イデオロギーである皇国史観とハーモニーする前者とそれを否定する後者と云う大きな違いとなって現われる。

 それはともかくとして、邪馬台国がこの三輪の地にあろうがなかろうが、大和地方(現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての地域)は、「やまとはくにのまほろば  たたたなずく青垣 山隠れるやまとし うるわし」(古事記)と詠われるほどに四囲を山稜の青垣に囲まれている盆地であり、昔から「敷島の大和の国」とも称されてもいる格別の歴史を持つ神々しい地域である。古代における「ヤマト」地方そのもの、「大和の中の大和」と評される由緒ある聖域の土地柄である。即ち、この地域が古代日本の聖地の一つであったことは論を待たない。この点については九州説論者と云えども否定できまい。

 問題は、三輪の地をして、数多くある古代日本の聖地の一つであると云う捉え方ではなく、三輪の地に邪馬台国があったとしたら、どういうことになるのかである。れんだいこ説によれば、三輪の地は、大和王朝に滅ぼされるまで当時の倭国全域に影響力を及ぼしていた中枢国と考えられる。古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝、記紀後の各史書を始めとする史書より読みとれば、大和王朝以前にヤマトの三輪の地に育まれた政体、文化、伝統、精神こそが今日の日本人の精神の源基をなしているのではなかろうかと考えられる。これを仮に「三輪思想」、その政体を「三輪王朝」と命名することにする。三輪王朝は、当時のもう一つの大国であった出雲王朝と連合しており、この出雲と三輪を両輪とする大連合こそが大和王朝前の日本古代史を刻んでいたと推定できる。

 この時代に既に源基としての日本精神が形成され、大和王朝創建と共に始まる天皇制日本精神はその後であり、出雲王朝-三輪王朝は政権的には滅ぼされたが、思想と風習が生き残ったことにより、その後の日本史は、政体は別として精神論生活論で見れば、大和王朝的天皇制と出雲-三輪思想が並走しつつ二重構造的に今日まで伝播していると考えられる。もっと分かり易く云えば、「出雲―三輪系思想とその伝統、習俗」は大和王朝的天皇制と混ざり合いながらも、地下に潜って生き延び続けたと云うことである。今日に於いても諸外国が日本を高く評価する論拠の殆どが、この「出雲―三輪系思想とその伝統、習俗」に向けられてのものであることも興味深い。従来の日本及び日本人論にはこの点を捉える視点が弱過ぎる。今後は、漠然とした日本及び日本人論ではなく「日本の心のまほろば(古里)としての出雲-三輪思想」の解明に向かうべきだろう。

 今日、日本論を説く場合、この二鼎立の史観で捉えねば真相が見えない。明治維新以降に形成された近代天皇制は、この二鼎立の内の大和王朝的天皇制の方のみを是として史観形成しているところに限界と云うか不正がある。いわゆる皇国史観であるが、皇国史観は日本史を斜交いに構えて不公正的に形成したイデオロギーでしかない。戦後になって自由なる歴史研究が始まった時、本来はこの皇国史観の偏狭性を衝き、堂々たる古代史の見直しに向かうべきであった。この営為を怠り、「出雲―三輪系思想とその伝統、習俗」と云う珠玉の赤子を日本古代史たらいの水と共にまるごと流してしまった。

 この背景には、戦後直後の日本を支配していたGHQの占領政策があった。戦後の歴史家は、GHQの占領政策に基づき、あるいはその範疇で「歴史見直し」したに過ぎない。それは皇国史観を叩く上では多少なりとも「進歩的」なものであったが、「出雲―三輪系思想とその伝統、習俗」の再評価まで洗い流したのは頗(すこぶ)る「反動的」であった。結果的に日本古代史の解明を却って遠ざけてしまった。戦後日本に於ける日本の歴史に対する無知はこれより起因する。してみれば、在野の日本古代史研究者の営為は、これに反発するものであり、その意義は高いと評されるべきであろう。

 もとへ。一口に日本精神と云っても、大和王朝以前に既に形成されて居た日本精神と大和王朝以降に新たに形成された日本精神の二流があると云うことが確認できれば良い。補足しておけば、日本精神は、この二者が鼎立しつつも実際には混合している面もあるので、これを識別するとなると非常に難しい。どこまでが出雲-三輪思想であり、どこからが大和王朝式皇国史観思想なのか、判定不能の様相を帯びている。それはともかく、三輪の地に生まれた保田は、天皇制精神よりもより本源的な、且つ人類史上世にも稀な善政を成功裏に推し進めつつあった、太古よりの出雲-三輪思想を豊潤に嗅ぎながら育った。成人して文芸評論家として一家言を為すようになった保田の思想にこの三輪精神が息づいていることは容易に推理できることである。

 文芸評論家としての保田與重郎に特異性と斬新性が認められるのは、他の文芸評論家が持ち合わせず保田が色濃く保持していた三輪思想によるものではなかろうか、こういうことが予想できる。保田自身、「私の郷里は桜井である」としばしば誇らしくこう書いている。そういう意味で、保田が奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)で生まれ育ったと云うことは大いに注目されねばならないと考える。保田思想を解くカギは三輪にある。この指摘が、れんだいこの保田與重郎論の第一点である。ちなみに、三輪思想をこよなく愛する郷土の代表的知識人は、保田與重郎、樋口清之、森本六爾とのことである。

 付言しておけば、戦闘的良心主義的見地よりする「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の方は、上記の観点に加えて、「日の丸、君が代、元号」が実は三輪王朝の御代からのものであり、大和王朝以降もこれを継承したと云う連綿性があることを知る必要がある。単純に天皇制の象徴とみなす訳には行かない。三輪王朝の政体は跡かたもなく潰されたが、三輪王朝の精神は辛うじて残り、むしろ大和王朝の御代にも継承されたと看做すべきであろう。なぜそういうことになったのか、諸外国の征服史に珍しい現象であり興味深いが、ここでは問わない。しかして、日の丸、君が代、元号に秘められたイズムは、日の丸であればその表象に、君が代であればその歌意に、元号であればその暗喩に注目せねばならない。それらは出雲―三輪王朝の善政をデフォルメ(表現)しており、むしろ皇国史観の対極にあるものである。これを習うことは有益でありこそすれ逆ではない。

 してみれば、「日の丸、君が代、元号問題」闘争の正しき活用は、「日の丸、君が代、元号」を知らしむるところにこそあり、皇国史観的に寄らしむることに反撃すべきではなかろうかと云うことになる。実際には、「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の真意は、文部省の管理教育強権化に抗しているのであって的が外れている訳ではない。それは歴史的に是である、故にれんだいこも支援するが、「日の丸、君が代、元号」を巻き添えにするものではないと考える。文部省の教育の強権管理とは闘えば良い、「日の丸、君が代、元号問題」についてはむしろ知らしめるが良いとする、この両面からの闘争こそ本来期待されており、闘いの構図をこのように構えた時、圧倒的な支持を呼ぶのではなかろうかと思う。その他言及したいところは上記サイトに書きつけておく。

 今後、日本精神の研究を進めようと思うので以下のサイトを構築する。

 「日本の心、日本精神考」
 (kodaishi/nihonseishinco/top.html

 2012.6.29日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1050 
 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 6月30日
 れんだいこの保田與重郎論その2
 れんだいこの保田與重郎論その2は、れんだいこならではの気づきかも知れないが次のことにある。「太古よりの出雲-三輪思想を豊潤に嗅ぎ、その薫陶を表現又は実践した」御方にもう一人の傑物が居る。それは保田與重郎より約百年前に誕生した幕末創始宗教の一つである天理教の開祖・中山みきである。天理教が最大教派として台頭した要因には以下に述べるような十分な根拠があると思っている。

 みきも又、桜井村ではないが三輪神社に徒歩圏の三昧田村(現在の天理市三島村)に生まれ育っている。母方の血筋が同村長尾家の出で、目の前の大和(おおやまと)神社の神主を司り、或いは巫女を出してきた家系であった。記紀神話にも出て来る有名な件(くだ)りであるが大神(おおみわ)神社再建の詔を受けた「大田田根子」の流れを汲む「長尾市」直系の末裔であるとする説もある。その大神神社―大和神社は、伊勢神宮が天照大神を筆頭祭神とするのに対して、古史古伝が大和朝廷以前のヤマトを統治していたと記しているニギハヤヒ命(大和大国魂大神)を祭神として奉蔡している。ニギハヤヒ命は出雲王朝系に列なると考えられる。ちなみに伊勢系の本宮は「神宮」、出雲系の本宮は「大社」、伊勢系の神々は「尊」、出雲系の神々は「命」と書き分けして識別表現されているように思われる。

 教祖みきが出雲-三輪思想との絡みで考察されることは未だないが、既に「天理教教祖中山みき伝」を書き上げているれんだいこ論によると、教祖みきが創始した天理教は出雲-三輪思想を母胎としており、その幕末―明治版の再生であり、出雲-三輪思想をこの時代に適合させた現代版天照大神卑弥呼の再来だったのではなかろうかと拝察させていただいている。

 もとより天理教団にはそのような捉え方はない。本部教理は、この面での考察を意図的故意に割愛しており真実像が見えてこない仕掛けにしているように思われる。ならば他の研究者がすれば良さそうだが、数多くの著書が出されているにも拘わらず、この視点から光を当てたものは未だない。これについては、れんだいこ処女作「検証学生運動」に続く二作目として予定しているので、そこで論じてみたいと思う。

 「天理教教祖中山みきの研究」
 (nakayamamiyuki/

 保田與重郎思想を説き明かすには、天理教教祖中山みきの教理を知ればなお良く分かるように思われる。なぜなら、保田與重郎思想は、出雲-三輪思想は無論のこと、みき思想にも通じていると思えるからである。れんだいこは読んではいないが、1942(昭和17)年、保田與重郎33歳の時、「風景と歴史」を天理時報社から出版している。保田の親天理教性が窺えるのではなかろうか。

 では、みきは教理をどのように説いたのか。結論から云えば、明治維新を経ていわゆる皇国史観が急速に形成されつつあった状況下、これに棹さすように「もっと深い根の教え」として出雲-三輪思想を称揚し、これをみき流に咀嚼焼き直して対置させたところに特徴が認められる。それは、皇国史観批判のみならず、その背後にあって侵潤しようとしている西欧系ネオシオニズムを視野に入れた対抗思想でもあったとも解せられる。

 これをもう少し詳しく論ずれば、みき教理は、皇国史観、西欧系ネオシオニズムを「唐(から)天竺(てんじく)の国の教え」であり、神の名を語りながら神の教えに背く政治主義的な教えに過ぎぬして批判していた。「元の神、実の神」の教えであるみきの教理こそ学ぶべしと云う。その教理は皇国史観と何から何まで対立していた。圧巻は人類創世記をも生み出し、皇国史観の記紀神話に基づく「国生み譚」に対して「泥海古記」(又は「元の理」)と云われる世界に例のない天地創造譚で説き明かしていることであろう。この創世記は、ユダヤ―キリスト教が誇る「聖書」のエホバ神による天地創造譚と伍してひけをとらぬ、且つ神の在り方そのものが悉く対照的な見事なものとなって語られており、人類史に至宝的に寄与している。これを知りたければ次のサイトに記している。

「教義原形=元の理」
nakayamamiyuki/rironco/motonorico/
motonorico.htm


 他にも、明治政府の欧米化に伴う資本主義的経済政策の導入に対しては、「病は気から」、「欲得の執着が諸病の元」、「貧に落ち切れ」等々で教義形成される「財物共有思想」(私有財産制否定思想とも読める)で批判している。文明開化と共に始まりつつあった競争原理の称揚に対しては「人を助けて我が身助かる」に象徴される「神人和楽の助け合い思想」で批判した。身分差別政策に対しても然りで「人類は皆兄弟や」で知られる一列平等論を対置した。男女差別制に対しても、「男松女松に隔てない」と述べ、男女の差は機能が違うだけで本質的に平等で助け合う関係とした。戦争政策に対しては「親の目には皆可愛い我が子」として反戦的な平和思想を説いた。その他その他然りであった。

 これらのみき教理は政治思想ではなく宗教的に表現されているので政治思想学的に評されることはない。しかし、みき教理を政治思想的に評することは十分可能と考える。むしろ思想を生き方に貫通させており、知行合一の陽明学的教えに合致させていろところからすれば、むしろ思想水準をより深めたいるのではなかろうかとさえ思える。文明開化以来の官学学問は未だこの域に達していないと解するべきであろう。その未熟にして狭い官学学問界の方が、天理教的教説を卑下するのはおこがましいと云うべきではなかろうか。これは文明開化的に欧化させられた知識人の偏狭さによる見立てであって、これを世界に誇れば同類も多い訳であるが恥をかくのが落ちだろう。

 もとへ。みき教理は、明治政府が押し進める文明開化と云う名の、国際金融資本帝国主義による欧米主義的近代化と皇国史観の押しつけに対して激しく原理的に争い、「出雲-三輪思想に基づく真に日本的なるもの」の御教えを説き、それ故にというべきか信者が急速に増えていきつつあった。その様は、幕末維新が明治維新化によって捻じ曲げられたのに対し、もう一つの裏の流れとして、捻じ曲げられない幕末維新を継続革命していたとさえ考えられる。いわば幕末創始宗教とは民衆側の幕末維新の流れだったのではなかろうか。

 明治政府はこのことを恐怖して、断固として非合法化し弾圧を開始した。学問の世界では専ら政治運動に対する弾圧の様子のみ説くが、明治政府の弾圧は宗教運動に対する弾圧の方もひけを取らなかった。してみれば両面から考察する学問が望まれていると云うことになりはすまいか。

 教祖みきが拘引されること、78歳の時の収監を「最初のご苦労」として17、8回に及ぶ。最後の拘引は何と御年89歳にして、しかも厳寒の冬であった。みきはこの時、15日間収監され、息絶え絶えで帰還する身となった。その晩節での教弟との問答も興味深い。みきが神人和楽思想の極致として教えていた「神楽づとめ」を励行するよう促し続けたのに対し、応法派の教弟達は政府から禁止されている、既に何人かの高弟が逮捕虐待され死に目に遭っており、必死で模索しつつある公認化の道が遠ざかるとして聞き入れなかった。

 これに対して次のように諭している。「さあさあ月日がありてこの世界あり。世界ありてそれぞれあり。それぞれありて身のうちあり。身のうちありて律あり。律ありても心定めが第一やで。さあさあ実があれば実があるで。実といえば知ろうまい。真実というは、火、水、風。さあさあ実を買うのやで。価を以って実を買うのやで」。そうこうするうちにみきの余命がいよいよ危ぶまれる事態になり、筆頭後継者の真柱が「もはや猶予ならない。よしんば逮捕され命を落としてもかまわないと決意する者のみ覚悟して神楽づとめに向かえ」との心定めが伝えられ、一同が応じ、そのつとめの最中にみきは逝去した。

 簡略ながらこういう経緯を持つみき思想を何の違和感もなく身近で接してきたのが保田與重郎であり、その思想的バックボーンに出雲-三輪思想とみき思想が宿されていると窺うべきではなかろうか。しかして共に護持しているのは日本の古き心、本物の日本精神である。それはどうやら、三輪の地に古くから伝承されている「この地こそ日本のまほろば」として当時の政体、風俗、精神を懐旧する「実の神、元の国」思想であったように思われる。明治維新以降今日まで、「この古き良き日本」が壊され続けている。保田與重郎に何がしかの反骨が認められるとすれば、こう訴える系譜の者であることによると悟らせていただく。

 とりあえず云いたいことは以上である。次に、保田與重郎の人となりを確認しておく。

 2012.6.30日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1052  
 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 6月30日
 れんだいこの保田與重郎論その3
 1910(明治43)年生まれの保田與重郎が青年期壮年期の働き盛りの時代は、満州事変から始まる大東亜戦争前と戦中に当たっていた。この時期、保田は、文芸評論家として日本浪曼派を率いて近代日本文学史に一時代を画した。文明思想家でもあり卓絶した古典思想により一貫して我が国の歩むべき道を語り続けた。その言説が戦前戦中の青年層に大きな影響を与えた。この影響は今日我々が推量するよりはるかに大きく、和辻哲郎の「古寺巡礼」は日本浪曼派世界の一コマに過ぎなかったほどであると解すべきであろう。保田の生涯履歴は次のサイトで確認する。

 「保田與重郎の履歴考」
kodaishi/nihonseishinco/yasudayojyuroco/
rirekico.html


 保田が大東亜戦争の聖戦性を如何ほどに鼓吹したのかどうか分からないが、戦後の1948(昭和23)年、39歳の時、大東亜戦争を正当化したとされ「G項該当者」として公職追放に遭っている。戦後直後に趨勢化した左派的文壇から「最も悪質な右翼文士」として葬られ、不遇の時期を郷里の桜井で過ごし隠遁(いんとん)生活を続ける身となった。こうして戦後のジャーナリズムと知識人から指弾、黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになった。

 保田の真骨頂は、「戦前からの思想の一貫性を守り通した」ことにある。要するに思想がブレなかったと云うことになる。それはそうだろう、三輪精神の上に花開いている保田思想は戦前の皇国史観とは一線を引いたものであったし、戦後のいわゆるアメリカン民主主義思想とも違うものであったからブレる必要もなかった。むしろ常に異端在野で在り続けたと云うのが真実であろう。

 付言しておけば、戦前には保田思想を寵児とする幅があったのに対し、戦後は却って窮屈なものにした。ここに戦前と戦後の違いが見て取れよう。戦後の方が却って窮屈になっている面があると云うことである。何事も戦後民主主義万歳論で評する訳には行かない好例であるように思われる。かくして保田は二度と寵児には成り得なかったが、その旺盛な文筆意欲は休むことなく続いた。そして時代を撃ち続けた。例えば次のように述べている。

 「正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない」。

 この言は、言語こそ民族の生命であるとする観点に立てば容易に首肯できよう。或る意味で、保田は透徹した国體主義者であるやもしれない。この場合の国體とは皇国史観的なものではない。既に述べたようにもっと古くから日本を成り立たせている天皇制以前からの国體を指している。

 1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂」(しんよどう)と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守り続けた。この間、桜井市桜井の神武天皇とされているが正しくはニギハヤヒ(饒速日命)の聖蹟・鳥見山に座す等彌神社に「大孝」の碑を、桜井公園(桜井市谷)に「土舞台」の顕彰碑を、桜井市穴師のカタヤケシでは元横綱・双葉山(時津風理事長)、柏戸、大鵬の両横綱らを招いて天覧相撲発祥の伝統を顕彰する行事を行い、桜井市黒崎の白山神社の境内には万葉集発耀の碑を建てるなど、「わが郷里桜井」を内外に示している。

 注目すべきは戦後に於ける保田の再登場の歴史的意味であろう。閉じ込められてきた保田の出番が何故に廻って来たのか。一見偶然のように思えるが、れんだいこの眼には、角栄の登竜と軌を一にしているように思われる。そう窺うのは、れんだいこだけだろうか。これを確認する。

 1960(昭和35)年、保田51歳の時、「述志新論」を著し、これが復権の兆しになる。同書で、「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」とする戦後民主主義の無国籍型国際主義の通念に棹さしている。

 1963(昭和38)年、新潮に「現代畸人傳」の連載を始め戦後の文壇ジャーナリズムに再登場した。続いて、佐藤春夫監修、自ら編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行している(以下、「刊行する」を略す)。

 1964(昭和39)年、「現代畸人傅」(新潮社)。1965年、「大和長谷寺」。大津の義仲寺再建に尽力し落慶式を主宰する。1965年、「自主獨立の眞精神」、「安易な依存心を排す」を発表する。1966年、「自主獨立の教養」を発表する。1968年、「日本の美術史」(新潮社)。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)。1969年12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)。中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)。1970年、「日本の美とこころ」(読売選書)。1971年、歌集「木丹木母集」(新潮社)等。「保田与重郎選集全6巻」(講談社)。1972年、「日本の文學史」(新潮社)。1973年、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)。1975年、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)。1976年、落柿舎第13世庵主となり「落柿舎守当番」と称する。1978年、「冰魂記」(白川書院)。1979年、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)。

 1981(昭和56)年10月4日、肺癌のため死去する(享年72歳)。

 「保田與重郎の履歴考」
 (kodaishi/nihonseishinco/yasudayojyuroco/
rirekico.html


 角栄の政治履歴は次の通りである。1957(昭和32)年.岸内閣の第一次岸内閣改造に39歳で郵政大臣に就任する(以下、「就任する」を略す)。1959年、自民党副幹事長。1961年、第二次池田勇人内閣で自民党政調会長。1962年、第二次池田内閣改造で大蔵大臣。1965年、佐藤内閣第一次改造で蔵相辞任、自民党幹事長(一期目)。1966年12月、一連の政界黒い霧事件で川島副総裁と共に幹事長を引責辞任。1968年、第二次佐藤内閣改造で自民党幹事長(三期目)。1970年、第三次佐藤内閣で自民党幹事長(四期目)。1971年、第三次佐藤内閣の第一次内閣改造で通産大臣。1972年7月、第64代内閣総理大臣。1974年11月、退陣表明。1976年2月、ロッキード事件勃発。1977年1月、 ロッキード事件丸紅ルート初公判。以降、公判に縛られる。1985年2月、創世会が波紋を広げる中、自宅で脳梗塞で倒れる。1993(平成5)年12月、ロッキード最高裁判決の日を見ることなくこの世を去った(享年75歳)。

 「田中角栄の履歴」
 (kakuei/rireki/rireki.htm

 これを見れば、「戦後に於ける保田の再登場」は角栄の政界での実力者化の道と歩調を合わしているように見える。なぜこれを認めるのかと云うと、角栄も又保田と同じく「日本の心」派だったのではなかろうかと思われるからである。類は友を呼ぶ。政界における角栄の登竜は、文界に於ける「日本の心」派の出番を容易くしたのではなかろうか。

 思えば、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸らに代表される戦後保守系ハト派とは、この「日本の心」派だったのではなかろうか。してみれば、60年安保闘争で岸政権が打倒されて以降から1980年初頭に中曽根政権が誕生するまでの約20年間は、大まかにいえば「日本の心」派が日本政治を御していた稀なる幸せな時代であったことになる。通りで何事も大らかに且つ筋を通しながら日本が奇跡的な発展をし続けた訳である。

 これは逆も言える。角栄がロッキード事件でカニ挟みに遭わされて以降、「日本の心」派は再び冬の季節に入ったのではなかろうかと。以降、戦後保守系タカ派と云う名の国際金融資本帝国主義(現在、これを「国際ユダ邪」又は「国際奥の院」と命名している)の走狗どもが日本政治を牛耳ることになり今日まで至っている。通りで何事もせせこましく且つ言葉に信がおけない裏表あり過ぎの無理筋政治が常態となり、日本を食い物にし続けている訳である。

 もとへ。保田がこれほどの能力者であった割には戦後に於いて戦前ほど評価されず活躍の舞台を与えられなかったのには、こういう政治事情によると拝するしかない。政治と文芸が通底していると云う例証である。

 さて、保田與重郎思想に関するれんだいこの知識は今のところ以上述べただけのものでしかない。この書きつけ時点で保田の直筆本を一冊も読んでいない。その段階でのスケッチ論である。今後、保田與重郎の原文に触れ、思想対話してみたいと思う。

 既に研究者の評として次のように述べられている。
 「保田の作品は、大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」。

 実にそうであろうし、付け加えるとしたら、近代天皇制とそのイデオロギーである皇国史観が打ち出した日本論、日本精神論に対して、それとは違う「もう一つの日本論、日本精神論」を鼓吹していたのではないのか。教祖みきの言を借りれば、「元の神、実の神」の教えに基づく近代天皇制教義とは別の日本論、日本精神論を唱えていたのではなかろうか。

 そういうことからであろう、倫理学者の勝部真長氏は保田を的確にも次のように評している。

 「歴史の地下水を汲み上げる人。地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」。

 もう一つ挙げておく。「鈴木邦男の保田與重郎30回忌〈炫火忌〉に参加しました」は次のように評している。

 「右翼・民族派の青年はもちろん、左翼の青年にも保田の愛読者は多い。左右という政治的違いをこえて日本人の精神、死生観に訴えかけるものが保田の美学にはあった」。

 両説とも、実に然りの炯眼であろう。

 れんだいこのカンテラ時評№1053  
 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 7月 1日
 れんだいこの保田與重郎論その4
 れんだいこの4番目の最後になる保田論は、保田氏の政治論に対する批評となる。次のように評されている。
 「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと、評していた。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」。

 既に見たように三輪思想の薫陶宜しい保田氏からしてみれば、「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと評していた」ことも、「キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた」ことも、「大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」も容易に頷けよう。

 ところで、吉本隆明は、思想形成期に影響を受けた思想家の一人として保田與重郎の名前を挙げているとのことである。してみれば、.吉本隆明は、保田與重郎を通して三輪思想の香りを味わっていたことになる。吉本隆明も興味深い人物であるが、ここでは割愛する。

 偉大な思想家としてもっと評されるべき保田に対して探せば多くの好意的評があるだろうが、政治論に関する限りれんだいこの評は辛くなる。どう云うことかと云うと、マルクス主義を主とする左翼の批判の視点が的確を射ていないと思うからである。これは、保田がマルクス主義に被れていた19歳前後の時の1928(昭和 3)年のご時世に関係しているように思われる。この当時、日本マルクス主義は絶対の正義派であり唯一の真紅の革命派であった。弾圧に次ぐ弾圧にも拘わらず党旗が護り繋がれていった。恐らく、保田は、それを眩(まぶ)しく思っていた筈である。だが他方で、マルクス主義の絶対的教条である天皇制打倒スローガンに対し、三輪思想の薫陶を得ている者として違和感を持ち続け、それ故に是々非々的に関わった筈である。この頃の保田に対して次のように記されている。

 「大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校文科乙類に入学。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れたが、その思想を受け入れることはなかった。しかし、蔵原惟人や中条百合子の作品に対しても、しかるべき評価をしているように、全く無関心であったわけではない。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある」。

 こういう彷徨を見せている保田は、1932(昭和7)年、満州事変勃発6か月後の頃、東大在学中に同人誌「コギト」を創刊し、その中心的な存在として活躍する。1935(昭和10)年、26歳の時、東大美学科美術史学科卒業。卒業後、「日本浪漫派」を創刊、その中心となる。1936(昭和11)年、27歳の時、処女作「日本の橋」を刊行する。この時代、既に日本マルクス主義運動は壊滅させられ、文芸戦線も同様に封殺させられていた。この時期を、プロレタリア文学運動に代替するかの如くに文芸旗を掲げ台頭してきたのが保田らの日本浪漫派であった。次のように評されている。

 「保田與重郎、亀井勝一郎、中谷孝雄、中島栄次郎、緒方隆士、緑川貢、太宰治、壇一雄、山岸外史、芳賀壇、後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄などが参加。終刊近くには50名以上の一大文学運動となる。閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍『文壇の寵兒』となった。『日本浪漫派』を創刊し、マルクス主義的プロレタリア文学運動解体後の日本文学を確立する為に、ドイツ浪漫派の影響のもとに日本古典文学の復興をめざした。伝統主義、反進歩主義、反近代主義の立場から多くの評論を展開した」。

 ここで確認したいことはこのことではない。こういう経過によって、保田の頭脳には、マルクス主義が早期に壊滅させられたことにより却って勃興期の尖鋭的且つ硬直的なマルクス主義のイメージが残り続けていたのではなかろうかと窺うことにある。つまり、文芸評論家として世に出た保田には、いわば古典的なマルクス主義イメージが脳裏に焼きついたまま経緯したのではなかろうかと思われる。このことを確認したい訳である。

 この推理の重要性は、戦後の保田の身の処し方に関係することにある。戦後の保田はいわば座敷牢に閉じ込められた。それは専ら表からはGHQのネオシオニズム的策動によって裏からは日本マルクス主義運動系のイデオロギーによってであった。本来、保田は何ら臆することなく両面に対して闘いを開始すべきだったところ、自ら蟄居で様子見している。正面の敵であるネオシオニズム的策動には抗し難い。それは分かる。だが、裏からの敵、日本マルクス主義運動に対しては堂々と渡り合うことができた筈のところ特段の抵抗が認められない。このことの要因に、既に述べた「古典的なマルクス主義イメージ」が邪魔したのではないかと考えられる。

 戦後日本の日本マルクス主義運動の本家筋に当たる日本共産党が初期の徳球―伊藤律系党中央指揮下のそれであった場合にはまだしも、1955年の六全協後の宮顕―野坂系党中央指揮下の偽物共産党運動が開始されて以降は何の遠慮があっただろうか。推理するのに、保田はこの共産党の変質に対して何の関心も持ちあわさなかった。このことが戦後に於ける日本マルクス主義運動の捻じれに対して正確な理解を妨げ続けることになった。それが保田の日本左派運動批判の舌鋒を的外れにしているのではなかろうか、と窺う。これには、時代的制約もあろう故に保田の責任を問う訳には行かない。そういう意味で、無理からぬと云う割引の気持ちは持っている。しかしながら、「マルクス主義及びその運動の古典的理解」のままに戦後のマルクス主義運動を是認的に理解しつつ批判的な評論をし続けたところに保田の限界があったように思われる。

 つまり、マルクス主義、日本共産党論にせよ、史上に現われたものには裏があると云う面での認識がからきしできていないように思われる。古典的通俗的なマルクス主義理解の上に立って、その錦の御旗を掲げる日本共産党論なる観念を安易に前提して、これを批判している風があり、ここがもの足りない要因になっているように思われる。これは元々が文芸批評家故に仕方ないことかも知れない。尤も、これが解け、かく指摘できるのは、世界広しといえども今のところは、れんだいこぐらいのものかも知れない。

 こういう事情によって思われるが、保田の戦後的復権に於いて評される栄誉は専ら文芸分野に限られることになる。これにより「日本の心」を探る営為は戦前のものより更に精緻になったかも知れない。しかしながら、保田の時評、政治論評は精彩を欠いたものになっているのでなかろうかと窺う。今のところ殆ど読んでいないので遠慮勝ちに評するが当らずとも遠からずであろう。

 なぜなら、保田が我が意を得たりの政治論評をしていたのであれば、れんだいこの眼に止まらなかった訳がないからである。こたび機縁を得て保田を少し知ることができたが、まことにあり余る慧眼の持主である。この慧眼をもってすれば、我々は、吉本隆明のそれ、大田龍のそれに伍する保田與重郎のそれを聞けた筈のところ聞きそびれたのではなかろうか。これが悔やまれる訳である。本稿をもってとりあえずの保田與重郎論の完結とする。

 2012.7.1日 れんだいこ拝


【松岡正剛の保田與重郎「後鳥羽院」】
 「松岡正剛の保田與重郎『後鳥羽院』」を転載させていただく。
 読書というものは侮れない。いつ、何を、どのように読んだかによって、その本の意味が変化する。激変する。読み方によっては記憶にのこらないことさえあるし、渇望感があればたった1冊の数行ずつが体に次々に滲みわたる。とくに偏見をもって読むのは読書の愉しみの大半を奪う。ぼくもずいぶん多くの本を勝手な偏見で反古にしてきたようにおもう。しかし、どんな1冊の書物に対してもベストコンディションで臨むことはなかなか難しい。ましてこちらをサラにして虚心坦懐に臨むのはもっと難しい。こうして、どんな書物にも再会というものが待っていることになる。ぼくが「保田與重郎という日本」を“知った”のは、そのような再会のときだった。

 本書は『日本の橋』や『日本の美術史』とともに読んだ。たしか30歳くらいのときだったとおもう。ところが、正直いって共感するところが少なかった。その文章が深沈しているとも滑翔しているとも、読めなかったのである。すでに学生時代に橋川文三を読んできたせいか、日本浪漫派のイデオロギーとはどういうものかといった“探偵気分”になっていたのがよくなかった。その気分に煩わされた。

 それだけではなかった。保田の文体にもなじめなかった。日本の歴史を縦に横に奥に表に移動しながら思索のミサキガラスのごとく徘徊する文体と、そのたびに紡がれる見解の記述にいちいちイロニーを絡めるやりかたが、どうにも面倒くさかったのだ。これはようするに、保田の襞に分け入る思索にまったくついていけなかったということだった。

 それが42、3歳のときに何かの機会で再読したとき、あまりにその内容が濃く深く、綴れ織のごとくに精妙に綾なされているのにびっくりした。何かの機会というのは胆嚢を切り取った前後という程度のことなのだが、その入院中のおり、保田與重郎とはこんなにも襞の分け目が入り組んだ日本文化の思索者であったかと、あらためて感嘆させられたのである。なんだ保田はこういうことを書いていたのか、そうなのか。

 ついでそこに、万葉・古今・新古今だけではなく島崎藤村や折口信夫がひそんでいたことにもやっと気がつき、それならというので病院を出たあともそのままの気分で『和泉式部抄』や『近代の終焉』や『芭蕉』やらを続けさまに読んでみると、どうもそれだけではない。そこにはやはり保田棋譜としかいいようのない思索文様が現出しているのだった。

 保田は日本人の原記憶を綴っていた。それを神話や伝承にのみ求めずに、歴史の流れの綾なる起伏、いわゆる表象の起伏に探し続けていた。そうだったのか。その原記憶の棋譜ともいうべきを読みこんでいったのか。その棋譜を保田は保田流に盤上に並べなおしてみたかったのだ。

 日本人の記憶といっても日本人一般のことではない。保田自身は自分が綴ることは日本人すべての魂の記憶につながるのだと考えたかったようではあるが、そこに綴られているのは保田に独自に投影された“ある想像民族の綾なす記憶”ともいうべきもの、ぼくの言葉でいえば、それこそアヤの一族ともいうべきものの記憶であり、記譜だった。そう、見えた。

 そこだけは保田の口吻に対するに、ぼくの読み方は別の解釈をした。保田の日本を現実の日本や歴史としての日本などと見ないほうがいい。保田は「アヤの一族による日本」という記譜を読んでいたわけなのだ。

 もちろんのこと、はたしてアヤの一族といったものがいたかどうか、何かを継承してきたかどうかは、わからない。そんなことは上田秋成や半村良の伝奇にのみ生きているもので、まさに想像の民族に託したい蜉蝣のような幻想かもしれない。しかし考えてみれば、ホメロスの物語もニーベルンゲンの物語も、カレワラの詩もカルミナ・ブラーナの章句といったものも、そうした想像の一族に託された記憶であって、それがギリシアやらゲルマンやらの民族記憶に交じってきたものだった。

 そうみれば、たしかに人麻呂の昔日も西行の中世も、また芭蕉近松の近日も、それこそが、いやそのことだけが「日本の心」というものの表象だったともいえるのである。こうして本書において、保田はそのアヤの一族の記憶ともいうべきを後鳥羽院に象徴させたのである。

 本書は、後鳥羽院をつかった“あやとり”である。一人の手がつくるアヤを別の手がうけとって別のアヤにする。それをまた一人がうけて新たなアヤをつくっていく。その“あやとり”だ。それにしてもなぜ、以前はそのようには感じられなかったのかとおもうと、読書の怖しさにうろたえる。わが身の未熟に汗をかくばかり。

 保田與重郎は本書の冒頭にこう書いた、「日本の我等の文藝と精神との歴史を考へる者は、一度この院を通らねばならないといふことを、私は以前から考へてゐた」。

 保田における後鳥羽院は水無瀬の歌のことをいう。保田はこの後鳥羽院に逆上し、かつ沈潜していったアヤの意味を、最初は芭蕉と折口信夫を通して確信したようである。その確信は本書の始め近くにある一文、「承久の決意は土にすてられた一粒の種子であつた」に芽生え、あるいは「承久の乱の遠源は、すべて後鳥羽院の自発的な精神の延長である」に宣言されている。

 何が芽生え、何が始まっていたのかといえば、それは「心ばへの歌」の動向というものである。大伴家持のサロンに誕生し、寛平の歌合に流れこんだ「心ばへの歌」。後鳥羽院はこの「心ぱへの歌」を新古今にこめ、この国の中心に流れているはずの正風を継いだはずだった。しかしその後鳥羽院の魂を、保田は北畠親房すら正当に評価できなかったことに失望した。かくして保田は、日本文芸史上で誤解されてきたとおぼしい後鳥羽院の復活に賭けていく。

 このとき、保田には二つの歌の流れが見えていた。ひとつは「ますらおぶり」の歌である。これは保田の言い方ならヤマトタケルに始まって万葉をへて与謝野鉄幹に及んでいる。もうひとつは大津皇子に代表される「憂結の歌」だった。いわば敗北の歌であり、望憶の歌である。これは家持から西行をへて後鳥羽院にとどいて、「心ばえの歌」というものになった。

 本書はこの「憂結の歌」を「心ばえの歌」に綾取るための一書ではなかったかとおもわれる。そのためには、保田は後鳥羽院の言動のすべて、すなわち西面の武士を設置し、新古今集を構想し、水無瀬殿や二条殿を建て、歌合を催し、31回にわたって熊野に詣で、ついには承久の乱をおこして失敗し、42歳で隠岐に流されて60歳にいたるまで都に変えることを許されなかった後鳥羽院の言動のすべてを、つまりは後鳥羽院の「存在」そのものを、院に継がれてきたはずの「歌」のあらわれと重ねた。そして、それをこそ日本人の心情の原点とした。

 昭和14年の本書初版の序文には次の一文がある。
 著者は本書によつて一つの久しい祈念を訴へるのである。それは我らの父祖の云ひつぎ語りつたへてきた誓ひであつた。久しい間、日本の詩人の心の奥に燃えつづけてきたもののけだかさに、著者は真の日本を思ふのである。

 保田はまさに「吾らの父祖の云ひつぎ語りつたへてきた誓ひ」と書いている。後鳥羽院に継がれてきた「心ばえ」は「誓ひ」になったと書いたわけである。

 しかし、いったいどこにそんな「誓ひ」があるのだろうか。承久の乱に蜂起を促した院宣に書いてある? そんなものはない。では新古今集そのものが「誓ひ」だったとでもいうのだろうか。むろんそんなこともない。そもそも古今伝授や世阿弥の花伝書さえもが、日本の歴史に携わってきた百姓(ひゃくせい)の有為転変からすれば、芥子粒のごときものなのだ。それなのに保田はその「誓ひ」を確信した。

 ここが、保田を読んで保田に溺れないための分岐点になる。保田はこの「誓ひ」を確信し、それをそのまま「ますらおぶり」の系譜とも混在させて、結局はその「誓ひ」を戦前の軍国日本の「国粋的神秘主義」(橋川文三)になだれこませてしまったのである。ここは失敗だ。保田の迷妄である。

 しかし実は、『後鳥羽院』にはそんなことは書いてはいなかったのだ。「憂結の歌」の心が芭蕉にも蕪村にもとどいたと書いたはずなのである。後鳥羽院亡きあとの「承久兵乱記」には「承久三年秋にこそ、もののあはれをとどめけれ」と綴られていたものだが、保田が書きたかった「心ばえ」は「もののあはれ」であって、さまようものだったはずなのだ。

 ぼくが『後鳥羽院』に再会して共鳴できたのは、まさにそこなのである。そして、保田のいう「誓ひ」は、さまようアヤの一族の記憶の裡にのみ継承されているものだったのだ。これ以上、この「後日の保田の過誤」というものには、ここではふれないことにする。いずれ橋川文三の『日本浪漫派序説』のところで言及したい。

 保田與重郎は奈良桜井の素封家に生まれ育った。高校時代に書いたのは世阿弥論、東大美学科で卒業論文に選んだのはヘルダーリン論である。

 昭和7年、22歳、伊藤静雄らと「コギト」をつくり、その創刊号に小説『やぽん・まるち』(日本行進曲)を綴った。すでにドイツ・ロマン派と日本が重なりつつあった。それからまもなくヤマトタケルを謳った『戴冠詩人の御一人者』を発表したときは、一方では『明治の精神』に二人の世界人として内村鑑三と岡倉天心を描いていた。そして名作『日本の橋』を書き、ついで『後鳥羽院』を書いた。29歳である。

 その後、中谷孝雄や亀井勝一郎らと創刊した『日本浪漫派』は膨張に膨張を重ねて、ついには太宰治や檀一雄らを巻きこんで、戦時下の一大潮流をきずいていった。このころの保田はまさに書きまくっている。

 敗戦後、保田は断罪された。そして孤立した。そして昭和30年代にふたたび文章を昇華させていった。以上のすべての保田を論ずるには、21世紀を迎えたばかりの日本人はあまりにも骨法がない。

 本書の読み方について一言。
 本書にはときどき建礼門院右京太夫が出てくる。が、その歌をどのように見るかを今日の日本人はまったくといってよいほど理解できないでいる。また芭蕉がたびたび出てくる。が、その芭蕉と後鳥羽院をつなげる一線を一言で説明できる人は多くない。そうだとするなら、それらのことが伝わってくるだけでも、本書を読む価値がある。

 保田はのちになって「文学の道とは神の教えということである」というような発言をくりかえすようになり、右傾化を強くした。青年を戦争に駆り立てる責任を保田のプロパガンダにとらせようとした戦後の風潮は、その保田に向けられた悪罵であった。

 したがって保田與重郎をすなおに読むということは、いまもって難しいのかもしれない。それはそれでしかたのないことだろう。しかし、三島由紀夫を読むということが三島の言動の思想軸が奈辺にあろうと純粋に成立するのだとするのなら、たとえば「キケロを読む」「フィヒテを読む」「ハイネを読む」「ハイデガーを読む」というように、また「ワーグナーを聞く」「早坂文雄を聞く」というように、あらためて「保田を読む」という読書行為がもっともっと積極的に成立してもいいようにおもわれる。

 参考¶保田與重郎の著作集は、講談社で全集40巻が出ているが、いまは新学社の「保田與重郎文庫」全24冊が入手しやすい。ぼくは南北社の著作集を刊行と同時に読みはじめたが、この著作集は南北社の倒産とともに中断した。保田與重郎論には橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を筆頭にいろいろあるが、その大半が保田批判に満ちている。これをひっくりかえしたのは、桶谷秀昭の『保田與重郎』(新潮社・講談社学術文庫)や『浪漫的滑走』(新潮社)だった。桶谷は、戦時中の若者が保田に惹かれたのは、その日本主義や好戦思想のせいではなく、むしろ「死」を真に意味づけたからだったと解いた。そのほかの保田論に大久保典夫『転向と浪漫主義』、福田和也『保田与重郎と昭和の御代』(文芸春秋)、吉見良三『空ニモ書カン』(淡交社)などがある。
 京都に比して奈良の特殊性を知る上で役に立つと思われる松岡正剛氏の千夜一冊の「和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫)」を転載しておく。
 この二週間ほどのあいだにぼくを通過した二つの感想から、この本を選んだ。ひとつは久々に奈良に行った。コシノジュンコさんに頼まれての仕事であったが、駅を出たとたんに深い古都の呼吸がゆっくり遠近(おちこち)にゆきわたっているのがすぐ伝わってきて、やはりここにはときどき来なくてはいけないと感じた。

 べつに聞きまわったわけではないが、京都の者は奈良にはちょっと言い難い感情のようなものをもっている。古くさい、辺鄙やね、行きにくい、じじむさい、それに、ええ店がない、おいしいもんがない、人がようわからん、そやけど、静かやな、懐かしい、空気がきれい、ただ、好きなとこが決まらへん、もの申してへんからや、侘びというより寂しいな。こういう印象が入り交じっている。ぼくはこのような感情に違和感をもってきたけれど、おそらく京都と奈良のあいだには、いまなお何かが融和していない。

 ぼく自身は奈良で正月をおくるのが好きだったほど、この古都の風情が京都には絶対にないものだという確信があるのだが、さて、これをどう伝えるかとなると案外に難しい。その奥には、そもそも五感に響いている奈良が、修学旅行体験や学生時代の旅の中にうずくまったままになっていて、あまりに「遠いもの」の思い出のようになってしまっていることがあるからなのだろう。
 そんなことを思い出しているうちに、和辻哲郎の『古寺巡礼』を久々に開く気になったのだった。

 もうひとつはこの二週間の数日を、中公文庫に入ることになった『遊学』のゲラ校正にあてていたのだが、何度か「若書き」ということを考えざるをえなかった。ぼくが『遊学』のもととなった「存在と精神の系譜」を『遊』に書いたのは31歳のときである。古今東西の哲学者・科学者・芸術家たち142人を相手に、1日を読書にあて1日を執筆にあてるという日々だった。数カ月にわたったものの、一気に書いたという印象がある。当時、それなりに話題になったものではあったけれど、これを大和書房が大冊として刊行したいと言ってきたときに10年ぶりに読んで、そこに渦巻く渇望感や断定力や速度感に「若書き」を感じ、さあ、これはどうしたものかと思った。

 そこで少々の手を入れたのだが、今度、それをまた今度文庫にするにあたってゲラになったものを読むと、またまた「若書き」を感じてしまった。考えこんでしまうほどだった。文庫の解説を担当してくれた高山宏君によると、その「若書き」の清新なところがいいんだと言ってくれるのだが、どうも本人は変な気分なのである。そこで、文庫化にあたってもまたもともとの文意を活かしたままで加筆訂正をした。これが予想外の難行苦行だったのだ。

 和辻の『古寺巡礼』が出版されたのは大正8年(1919)で、30歳のときである。前年の5月に友人たちと奈良を旅行して、その感想を『思潮』に5回連載したものをまとめた。ぼくが「存在と精神の系譜」を書いたときとまったく同じ年代の執筆なのだ。しかも和辻もまたこの文章の「若書き」が嫌だったようで、何度か手を入れ、結局、昭和21年の全集には書きなおした文章のほうを収録した。われわれはそれを読んでいるわけである。

 ところがあるとき、谷川徹三が元の文章と改訂後の文章とをくらべて、こういう感想を述べた。「たしかに改訂版の方が段ちがいによくなっている。しかし和辻さんが削除した言葉には、感激による誇張があるにせよ、実感の生なましさが素直に出ていて、捨てがたいものがある。と同時に、後に学者として大成した和辻さんが、生来感覚の鋭敏な、感受性の豊かな、さらに感情量の豊かな大きな人であったことを証している点で、学者としての和辻さんの理解に資するものをも含んでいる。学者としての和辻さんは、それに溺れ、それに身を任せることを厳しく拒んだ。しかし、和辻さんの学問を豊饒にしたものが、ほかならぬ、その学者として和辻さんが拒んだものであったことを私は信じざるを得ない」。

 和辻の『古寺巡礼』は名文ではないし、伽藍塔頭や仏像に関する感想も、特段に鋭いというものではない。しかし、そこに漲る感受性といったら、これはたしかに説得力があるし、なんといっても自分の感情を偽っていない。ぼくは旧版は知らないが(ほとんどが知らないはずだが)、察するに、もっとナマ感受性をナマな言葉で書きつけていたのだろう。それはしかし本人には居ても立ってもいられなかったわけである。

 まあ、こういうようなことが重なって、今日の本を和辻の『古寺巡礼』にしたわけである。さっきざっと読み返してみたが、いまではぼくのほうが詳しいことも多く、その感想に教えられることは少なかったけれど、きっとここは「若書き」ではもっと直截で生硬な言いまわしだったのだろうなと感じられるところが多々あって、そういう箇所ばかりに奇妙な感慨をおぼえた。しかしあらためて感じたこともある。それは、古寺仏像をめぐって何かを語るという様式を、和辻が自分でオリジネートしたということである。和辻はイデーとエチカの人である。哲学者としては抽象を好み、感覚はモダン(近代)そのものにある。その和辻が“じしむさい”奈良の古寺仏像を前に、リアルタイムで何かを語る。いや正確にいえば、「そのように語っているような文章」を書いた。これは当時から大評判になったのであるが、このような様式と方法をおもいついたということが、画期的だった。イデーとエチカの思索に耽るモダンの旗手が、古びた奈良で何を感じたか、そのことをどうにかしてでも書いてみようと思ったところが、和辻の発見なのである。なんであれ、新しい様式と方法に挑んだ者こそもっと評価されてよい。歴史はそこに拓いていく。蒸気機関車やウィリアム・クルックスに、桑田佳祐やたらこスパゲッティに、そして、徳富蘇峰や和辻哲郎に。

 和辻はその後も、『風土』と『鎖国』において、それまでだれも気がつかなかった問題を俎上にのせて、ひとつの「型」をつくりあげた。その主旨がその後の知識人にどのように継承されたかではなく(それをやっと継承したのは日本人ではなく、フランス人の風土学者オギュスタン・ベルクだった)、そのような「型」があることを最初に披瀝したことが評価されるのである。和辻は『日本精神史研究』で本居宣長の「もののあはれ」にふれたのであるが、これも宣長以降は誰もふれてこなかった話題だった。九鬼周造は、この和辻の開示があったから、「いき」をめぐる仕事にとりかかる気になれたと言っている。そうした和辻の勇気のなかで、そろそろそのことを議論する者が出てきていいと思っているのは、和辻が「日本精神」を問題にしたことである。

 和辻がそのことを持ち出したのは昭和9年の「日本精神」という論文が最初なのだが、そのなかで、明治中期の日本民族主義の高揚は何だったのかを問うた。日本人の「国民的自覚」はなぜ度しがたい保守主義のイデオロギーになってしまうのかということを問題にし、とくに日本人の衝動性を批判した。そして「日本精神」とは、そういうものではないのではないかという疑問を呈し、自分でひとつの答えを書いてみせたのだ。それは「日本を重層的にとらえることが、むしろ日本人の日本精神を明確にすることになる」というものだった。

 実はこの論旨はかなり不備なもので、いま読むとそれこそ「若書き」ではないかとおもえるのだが、また、この手の議論にありがちの「日本の特殊的性格」を言い出しているのが残念なのだが、それを別にすると、この議論の仕方もその後にずっとつづく日本人論のひとつの「型」をつくったものだった。こういうところが和辻には随所にあったのである。日本人の「町人的性格」を問題にしたのも和辻だった。石田梅岩の心学をとりあげた最初であった。これらの“発見”が、結局は『風土』では日本人のモンスーン性を浮き上がらせ、『鎖国』では誰もが目を伏せて語っていた鎖国に積極的な意味を持たせることになった。

 アインザームカイトというドイツ語がある。孤独のことだが、どちらかというと「ひとりぽっち」のニュアンスがある。漱石の『行人』の主題がこれだった。しかしこのアインザームカイトは世界に向かって「ひとりぽっち」なのであって、世界と無縁な孤独なのではない。和辻哲郎が生涯をかけたのは倫理学だった。『倫理学』全3巻を仕上げた。そこで追求されたのはアインザームカイトにいる人間がどのようにして「構造的契機」をもつかということだった。和辻倫理学の特色は、無知や孤立や絶望そのことを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なのである。これは和辻の『古寺巡礼』にすでに書かれていたことだった。和辻は、奈良は1500年の古都ではないと書いたのだ。むしろ奈良は、何度にもわたる焼亡をへて再建され、再興されたのだと書いた。それでいて古都の趣きを失わなかったのである。京都人たちはこのような奈良をいまなお“発見”できないでいるのかもしれない。


【いず・としひこの保田與重郎「日本浪曼派と時代 日本浪曼派と戦争
 〔いず・としひこ 横浜市立大学教授〕氏の「日本浪曼派と時代 日本浪曼派と戦争 序章 -保田与重郎を中心に」を転載しておく。

 『解釈と鑑賞』1974年1月

 日本は今未曾有の偉大な時期に臨んでゐる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。日本は古の父祖の神話を新しい現前の実在とし有史の理念をその世界史的結構に於て表現しつx行為し始めたのであるo

 「戴冠詩人の御一人者」緒言の冒頭の言葉である。保田与重郎は、おそらくこの「遠征と行軍」は日本の精神と文化の歴史を変革するとともに、「世界の規模に於て世紀の変革となるであらう」といい、現代の文芸批評家の当面の任務は、その『日本』の血統を文芸史によって系譜づけることである」と強く述べた。

 保田はこの緒言を昭和十三年(一九三八)九月に書いた。明治四十三年(一九一〇)四月の生まれだから二十八歳であった。『コギト』は昭和七年(一九三ニ)三月、東大美学科在学中に創刊された。二十二歳の時のことである。そして『日本浪曼派』は昭和十年三月、二十五歳の時に創刊された。『コギト』創刊からの六年半の保田の変貌は驚くべきものがある。保田は自分らの浪曼主義の成立を、満州事変から二・二六事件を経て、日中の全面戦争に突入して行く日本の歴史的激動に結びつけ、「それの成立の動因は、文芸学書にはないところの民族の精神と志をもとにしたものである」(「自然主義文化感覚の否定のために」『近代の終焉』所収、昭16・6)というようないい方で、くり返し回想している。しかしこれらは、到達した地点から出発点を回想しているために、出発点に内包された多くの問題が捨象されたものになっている。私たちは日本浪曼派の出発点の問題を、昭和十三年以後に書かれた保田の文章によって考えるのでなく、直接『コギト』や『日本浪曼派』創刊当時に書かれたものを通してあきらかにする必要がある。そうすることによって、はじめて日本浪曼派の問題は固定観念から解放され、根底から明らかにすることが出来るであろう。そうしてはじめて、日本浪曼派における戦争の意味も、本格的に明らかにすることが出来る。

 『コギト』創刊は「満州事変」勃発六か月後のことである。しかし当時の保田や『コギト』同人たちは、戦争への関心をまったく示していない。むしろ大きな関心は、「満州事変」を契機に、左翼に対する弾圧が強化され、闘争が激化したことに向けられている。国家権力による言論・思想・文化に対する抑圧が露骨になる一方、マルクス主義芸術運動は政治運動化の傾向を強めた。文学は政治にのみこまれていった。まだ学生だった『コギト』創刊当時の保田らは、この苛酷な現実に直面し、自己内部の分裂に苦しみながら、新しい芸術のあり方を求めて、苦悩に満ちた模索を続けた。それは同時に自分自身の生き方の模索であった。肥下恒夫が創刊号(昭7・3)に書いた「手紙」、二号(昭7・4)の「速度と筆」、保田が五号(昭7・7)に書いた「花と形而学と」等は、端的にこうした苦悩を描いている。

 五号の「文学時評」に保田は「文学の不安と貧困」を論じ、「今日の現実情勢のもとに於る文学の貧困に就ては肯定すべき理由はある。さらに進んで、むしろ今日は文学不用の時代ではなからうか」と述べた。「過去の歴史に於ても過渡期といへる時代確かに文学の空白時代は存在した」という保田は、「しかしながらなほその時代に於ても文学はその時代の真実の姿に於て存在した」と述べている。この号の編集後記にも、「われわれは歴史的社会的制約を受てゐる。しかしわれわれは文学する。われわれはこの苦悩中で文学せねばならぬ。軽々に実践し得ぬこの真実を土台としよう。われわれは文学する。われわれはこの苦悩中で文学せねばならぬ。軽々に実践し得ぬこの真実を土台としよう。われわれは今日の人間を特に知識人と書きたい」(傍点原文)と述べた。現代を「文学不用の時代」「文学の空白期」と自覚しながら、この時代にも「文学はその時代の真実の姿に於て存在」することを信じ、それを目ざそうとしたのである。保田は「軽々に実践し得ぬ」苦悩に生きる人間の「真実」を土台に、自分たちの文学をつくりあげようとした。「われわれは今日の人間を特に知識人と書きたい」と述べたとき、そこには現実=実践から疎外された存在としての意識がはっきり示されている。保田がそのような自覚から出発していることは、その後の展開を考える上で大切だと思う。

 この五号に保田は「花と形而上学と」を発表している。「わたし」は「文字通り人々が餓死線を上下してゐる現実を率直に」考えるとき、日常の生活から遠ざかって、ものの考え方を「純潔の一みち」に押し進めなければならなかった。しかし「わたしらの今の気持はまじめになればなるほど辱しめられ」るのであった。「あの少数の大きい情熱に対しては反省を自ら強ひられる圧迫」を感じなければならなかったが、しかも、「その感動を表現することは同時にわたしの終末になる」のであった。保田は「魂の二つの道」について書いている。「自分の生活環境を背負った上で」この二つの道を眺め、「自己の矛盾と分裂」に苦しんだ。論理からいっても、倫理からいっても、同じ一つの道を選ばなければならなかった。しかし「わたしは既に自分の生活を宿命的にさへ」見せられていた。マルクスはきっと富裕だったのだろうと、ある友だちはいった。それに、「わたし」はこの道に「気持にそぐはぬもの」を見てしまうのであった。時には、まったく「非良心的」なことさえあると思うのだった。

 「まことに身を風雨の中に曝してゐる人は偉大です。無条件に偉大です。あんな実践人の情熱の無限の深さを思ふたびに、わたしは文学や理論のアナルキーさへ考へざるを得なかつたのです」。どんな尖鋭な理論もその点で一個の爆弾より空粗である。理論が尖鋭であり得るのは「背後に爆弾があるときだけ」なのである。保田は実践人の偉大さを讃美して、文学や理論の空しさを思う。自分は安全な所にいて、革命を論ずるマルクス主義文学に「非良心的」なものを感じ、「気持にそぐはぬもの」を見る。革命的実践に強い関心を持つと同時に、芸術を志向してやまぬ精神は、ひたすら政治主義的になり、理論によって心情を抑圧する当時のマルクス主義芸術のあり方に対して、自他を欺瞞するものとして批判的にならざるを得なかった。保田にとって芸術はどこまでも自己の心情の忠実な表現でなければならなかった。この身動きならぬ自己内部の分裂を直視し、その悲しみを表現するところから自己の文学を出発させようとした。

 「わたしらは人のするやうに、自分の気持や生活態度を全く省みないで元気よく、俺たちは、など喋られない」「元気よく石油缶を かれぬから、わたしたちは不幸です」と保田は書いている。いつも「わたし」は「濡れた洞窟」の中に窒息させられかけている。しかし、その洞窟を語り、洞窟を歌うのに、美しさと意義を認めざるを得ない。「一層そのことに紅血の要求さへ思ふ」というのである。自分の悲しみを慰めるために、「わたし」は「非現実の花」を求める。「地上の花」は苦しめはするが、慰めてくれることはない。「絶対的な愛など今の時代に」考えることさえできないのである。いつまでも非現実の花ばかり愛していなければならないのは「悲しみ」だけれど、「さりながら自ら求めたものでなく、時代にしむけられた境涯なら止むを得ないと嬉ばねばなりません」と保田は書いている。

 「花と形而上学と」は保田の芸術観を作品として表現したものである。ここには同じ五号の「文学時評」、編集後記と共通する保田の考え方がはっきり見られる。保田の思想は時代に対してまったく受け身である。現実への強い関心はあるが、すでに現実から疎外されているものとして、現実に対するたたかいに赴くことはなく、時代そのものの考察に向かうこともない。閉ざされた自己の世界=洞窟に生きる切ない心情をひたすら表白し、自己を時代の苦悩を一身にになった時代の犠牲者、時代の子として表現する。「時代に強ひられた青春」というのが保田ばかりでなく、日本浪曼派全体の根本にある考え方であった。

 『コギト』の出発点で保田たちが志向したのは、論理的倫理的政治的束縛から自己と文学を救出することであり、文学の核としてパトス、文学の精神を強調することであった。しかし論理的倫理的政治的束縛は、外的な束縛であるだけでなく、同時に内部から彼らをつき動かす内的な情熱であった。それを否定することは自分自身を否定することであり、デカダッスにおちいらなければならなかった。内部の情熱を論理的倫理的政治的に成熟させる余裕もなしに、優勢なマルクス主義の知識体系にからめとられ、自己を見うしなってしまうところにこの時代の悲劇があった。そのような自己喪失からも自己を回復しようとすれば、今度はまた新しい自己喪失におちいる。限りない不安と動揺、懐疑と混乱は避けがたかっこの分裂と解体、自己喪失の苦悩をつきつめながら、この矛盾と苦悩とデカダンスを時代に強いられたものとするところに、日本浪曼派の強烈な自己主張が生まれた。それは時代の矛盾であり、苦悩であり、デカダンスであった。彼らは自己を時代の尖端に立つものとして、強烈に自己を主張した。

 かつて僕らの日本の過去に於て、かやうなはげしい時代の青春を経験した青年の時代の時代はないのだ。この時代に於けるより、人類的良心をさまざまに刺戟された世代はかつてない。この狂爛の時代を、一番傷つきやすい年齢に於て感じ、一番痛みやすい時代の心情を以て生きた人間の文学を、僕らは今後始めねばならぬ。

 『コギト』昭和十年一月号に発表された「後退する意識過剰-『日本浪曼派』について」の一節である。すでに「『日本浪曼派』広告」を『コギト』昭和九年十一月号に掲載し、三月の創刊を目ざして準備を急いでいた。「この時代にまれてきた青春の文学は、日本に始めての青年の文学を生まねばならぬ」「懐疑し遅待し、痛み傷き、ついに美しく残ったもの*みが今後に文学の理想と精神と、さらに気品とを維持する」と保田は書いた。

 『日本浪曼派』はあきらかにひとつの文学運動として創刊された。しかし彼らは前代の文学をはげしく論難否定し、時代性と青年性を強調するだけで、積極的に新しい文学のあり方を示すことはできなかった。むしろ彼らは新しい文学はかくあるべしというようなことを、一般論として論ずることに反対する所からはじめようとした。真実を求める理想は切実だが、そうであればあるほど真実を求めて得られず、混乱と苦悩があるばかりだ。こ理想を求める情熱と、それを求めて得られない切なさだけが真実で、そこから出発する以外にどんな真実もあり得ないことを主張した。

 転向の時代だった。かつて革命的文学を主張したものが、今は転向してリアリズムを説き、そのことで進歩的であり続けようとしている。それは本当の進歩主義なのか。口の上だけの進歩主義ではないか。ありのままの現実を描くというが、本当にそれは可能なのか。結局それは主観ではないのか。真実らしいものと真実、正しそうなことと正しいこととはちがう。いつでもなにかの権威、一般論に頼って、真実らしいこと、正しそうなことを語って、生身の人間の個別の真実をおしころすものは自他を偽る欺瞞者だ。現実はなにひとつ明確でない。解決すべからざる不可解な現実、どうすることも出来ない困難に直面して、途方に暮れたものの呻きと嘆きと憤り、そのいたいたしい悲しみ、この切ない心の真実にこそ美はある。保田は「今日の人間とはかxるものと断定する確信からは文学は生れぬ」(「時評的文学雑誌」『コギト』昭10・3)と述べた。

 群衆は明確を望み、解決を求める。世の進歩主義者なるものは一般論で解決の道を示し、指導者としてふるまう。彼らは「山の上」から降りて来て民衆を指導しようとする。しかし自分たちは「青春の喪失」を強いられたものだ。保田は「青春の喪失とはいひ換へるとヒュマニテイの喪失であり、未来を既存のヒュマニテイで類推出来ぬ意である」(「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」『日本浪曼派』昭10・7)という。真実を求めれば求めるほど、混乱し、分裂し、錯乱する。自分たちは「山の上」ではなくて「群衆の奈落」「人間界の奈落」に住む。デカダンスを強いられており、デカダンスにしか真実を求めることが出来ない。自己の無力と卑小を直視し、自分をつまらぬ人間と自覚する所から文学ははじまる。現実を見うしなう所から、新しく現実は見えてくる。

 いわゆる現実家なるものは現実を見くびっているのではないか。保田は「僕らは一切の現実家のいふ現実とかリアリズムとかをすべて否定する。彼らが口にする進歩を否定する。そのさき彼らを否定する」(「反進歩主義文学論」『日本浪曼派』昭10・5)と述べた。そして「僕の考へる歴史は悲劇と没落が主潮をなし、その中に哀歌と昂奮を発見するにすぎない」(「主題の積極性について」前出)といっている。

 『コギト』や『日本浪曼派』創刊の頃の文章と「戴冠詩人の御一人者」緒言の文章の間には大きな落差がある。これが戦争によってもたらされたものであることはいうまでもない。しかし同時に、この変貌を必然ならしめたものが、日本浪曼派の内部に求められなければならない。この連続と断絶をあきらかにするところに、日本浪曼派における戦争の問題がある。

 私はとりたてて「戴冠詩人の御一人者」緒言を問題とし、その全体をいわなかった。本書には『コギト』昭和八年十一月号に発表された「当麻曼茶羅」から、同昭和十三年二月に発表された「饗宴の芸術と雑遊の芸術」までを含んでおり、そのあとを辿るとき、保田の古典論の展開が見られるのであるが、その最後のものと比べても、この緒言との間には大きな落差がある。今、保田の古典論を検討することが、保田の本質、ひいては保田における戦争の問題を検討する上で必要であるが、今はその余裕がない。ここでは、保田におけるひとつの飛躍がこの緒言を書く直前におこなわれたのであり、その契機となったのが、昭和十三年五月から六月にかけての中国大陸を蒙古にまで赴いた旅行であり、ちゃうどその間に、直接ではないが徐州の戦争にあったことだということを指摘しておくにとどめる。保田はそれを緒言に「去る晩春より初夏にかけて大陸を蒙古に旅した私は、この世界の変革を招ぶ曙の思ひに感動を新しくした」と記している。また「日本浪曼派について」(『浪曼派的文芸批評』所収、昭14・4)に、日本の文芸思想が一様に今日の日本へ目覚めたことについて、この「歴史的転回」を実現したのは、「蘆溝橋に放たれた砲弾のひゞきが敢行したのでもない、それより十月近くを経過した徐州会戦の結果である」と述べている。

 昭和十二年七月の蘆溝橋事件に、保田はほとんどなにも反応を示していない。保田の戦争に対する関心は戦線が拡大し、戦死者が続出するようになって急速に増大する。『コギト』編集後記(昭12・11)には「廿四日より上海戦線が、一さいに前進した。その号外を手にしつ*私は感涙に耐へなかった」と書いている。そして立派な兵士が次々に戦死するのは惜しいことだが、「戦場の勇士の描いた丈夫の歌は、いはば一箇の芸術品としてヽ我らの民族の未来永劫に記録される」のだから、「惜しまれる如くして又一つの光栄である」と書いている。さらに俳優友田恭助の戦死について、出征の時の顔に比べて、戦死直前の写真の顔がいかに美しかったかは驚くばかりであるといい、「上海のクリークに決死の突喚を試みて倒れた、その最後の行動は、舞台で死ぬより、はるかに美しい、彼の体で描かれた詩であり、又歌であらう」と書いている。

 翌十二月の編集後記には、「日軍百万上陸といふ宣言は、実に壮大な事変中の花であった。百万といふ言葉を我々は待つてゐた故に、あの記事には落涙した」と書いている。国民スローガンについて、「天皇陛下万才」だけでよい、今日のような「絶望意識の先行する日」には、「我等の光りはこの伝統の情緒だけが陳べてくれる」として、木口小平について書いている。

 保田は戦争と戦場に生きる兵士の現実はすこしも見ない。戦争は芸術であった。そして戦争における死をひたすら讃美する。あきらかにそれはデカダンスであった。現代を「没落の時代」「文化の廃墟」として、ギリシア・ローマ・天平・推古の古典期にあこがれ、原始の自然を夢みる保田は、現実の幸福を侮蔑し、科学を否定する。保田の純粋への情熱は、生を否定し、死を讃美する。その古代の夢は、古典を出来るだけ歪曲して、ひたすらそこに美しい夢を描き出したのである。古代人の現実などは問題ではなかった。美しい夢だけが大切なのである。いま保田は戦争を芸術として、ひたすら現実の辛苦を無視して、そこに美しい夢を見ようとした。しかしこの時期の保田の戦争に対する関心は、ひたすら戦場における死に向けられ、戦死を出来るだけ美しい言葉で飾った。

 しかし大陸を旅した保田は、なによりも広大な大陸にくりひひろげられる戦争の壮大さ、そこを舞台にくり返された民族興亡の歴史に感動し、この戦争の「世界史的意味」を痛感する。これを契機に保田の考え方は激変する。悲観的、下降的、消極的だったのが、楽天的、上昇的、積極的になる。攻撃的、征服的、侵略的になる。この旅行について書いた『蒙疆』(昭13・12)は、橋川文三(「日本ロマソ派と戦争」(『文学』昭36・5)が指摘するように、戦争の現実についてのまともな記述はまったくない。そこにあるのは昂揚した感情の氾濫であり、「世界交通路の変革」「世界的な日本精神」「新しい世紀のヒュマニズム」等々といった「大なる時代」「浪曼的日本」の夢の開陳であるにすぎない。しかしそこに、この旅行による保田の変化の姿を明瞭に見ることができる。

 保田は日支親善とか文化工作とかを否定する。銃剣だけが「支那」を変える。「支那人」には理念も文化もない。ひたすら「生活力」なのだから、文化工作などは無意味で、武力工作あるのみなのだ。前時代的なヒュマニズムと知識は「虐殺」しなければならない。「今日浪曼的な世紀を初めて経験した日本は、一切の悲観を蹴って飛躍する。例へ征服や侵略を手段としても、なほかつそれは正しく美しいのである。談合によって利益をうるよりも、はるかに美しい果敢の行為は、如何なる時にも人間の精神を変貌する最大の教育となる」という。

 かつて現代に「没落の時代」「文化の廃墟」を見た保田は、この戦争に史上かつて見なかった「浪曼的時代」の到来を見る。かつて虚無と頽廃の芸術に美を見た保田は、今は「日本の世界史的時期を表現する造型」「今日の日本を象徴する如きモニュメンタル」を主張し、「戦勝者の表現」「支配者の芸術」を説く。これはかれが論じた日本の芸術の伝統といかに背反するものであることだろう。かつて呻きと嘆きと憤りの切ない悲しみにのみ真実と美があると主張した保田は、「戦勝の文学」を説き、「如何に日常に辛苦したかを示すといふより、如何に雄大な希望を生き、如何に辛苦を耐へて日常としたかを示す文学である」という。

 蘆溝橋で戦争がはじまった昭和十二年の夏は、「現に人間が未来に向つて行つてゐる大なる行為を報道するといふ自信が文学者としてなかった」という。また「戦勝者の表現」について、「私はやうやく昨今に肯定したにすぎない」と述べている。この保田を激変せしめたものは発展する戦争の現実である。そこに保田における問題があるが、そこには爆弾の前に文学や思想の無力を強調する『コギト』出発以来の発想が一貫している。銃剣が思想を変え文学を変えるのである。そこに自己の真実を強調しながら、現実に対してはまったく無力で、ひたすら時代にふりまわされて、絶望したり昂奮したりするりそれをロマソ主義者は「宿命」とよぶ。かつて時代に強いられて「青春の喪失」をなげいたかれらは、今は「浪曼的時代」に興奮して「時代の讃歌」をうたう。日本主義の理論づけに努力する転向知識人、大陸文学、戦争文学、生産文学等々の国策文学を製作する転向作家の自己喪失と便乗主義を保田は批判し、その絶滅を目ざすというが、そのようなかれの自己の真実とはいったい何なのかが問題である。進歩主義批判や、民族の発見等々に見られる積極的な問題提起を評価すると同時に、やはり主観を絶対化して、現実を侮蔑し、そのことによって現実にのみこまれるロマソ主義の本質を問題にする必要があると思う。


【「れんだいこはまだまだあります(読まなきゃそんそん)」】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60 」の「れんだいこはまだまだあります
(読まなきゃそんそん)
」を転載しておく。
 れんだいこのカンテラ時評778 れんだいこ 2010/08/06 【日本神話譚を知ることの意義考】

 2010.8月、第175臨時国会の質疑応答の漫談を聞きながらふと思った。日本政治はどうやら日本史上初めて新人類によって担(かつ)がれるようになったのではなかろうかと。その目で見れば、この傾向は既に1980年頃より兆しがあり、今やくっきりと新人類オンリー政治になっているのではなかろうかと。ここで云う新人類とは、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣から切り離されている人種と云う意味で使っている。民主党政権になって新人類ぶりが加速しているのではなかろうか。それにより、れんだいこが冒頭の思いを深めたのではなかろうか。

 それは良いことだろうか。れんだいこは否と答える。日本は、偶然か必然かまでは分からないが、世界史上稀に見る優れた言語を生みだしており、万葉集、古史古伝、記紀等々の古代史書を遺し伝えており、国譲り神話譚以来幾多の政変を経ながらも最終的には「和を以って尊し」とする平和的政争能力を保持しており、「上が下を思い、下が上を敬う」一億一心的結合能力、相身互いを旨とする思いやり能力を持っており、地球環境的にも自然との適応能力を持っており云々。要するに、かなり高度な公共福祉尽力型のいわゆる助け合い能力を持つ。この精神と生き方を基盤とする社会秩序は護持成育せしめて行くべきものであり、この伝統と切断されて良い訳がなかろう。

 このところの日本の政治家には、この日本的知性が明らかに欠損している。それは災厄である。そういう連中に牛耳られる国家は破産死滅を余儀なくされる。この道を避けねばなるまい。例えば消費税論議が象徴している。これに与する者は共通して財政危機を唱え、そこからいとも安易に消費税転嫁を声高にしている。その主張は7%論者、10%論者、15%論者、20%論者、25%論者と様々であるが消費税増税こそ政治的使命として正義ぶろうとしている。

 れんだいこは次のように反論したい。財政危機を見据え対処せんとするのは正しい。だがしかし、消費税増税で切り抜けようとする姿勢は余りにも安逸なのではなかろうか。今我々が確認すべきは、国債同様に消費税も中毒なのであり、この中毒からの脱却こそ政治的使命とすべきではないのか。覚せい剤に頼るべきではなく、中毒からの覚醒こそ道筋とすべきではないのか。

 ところが、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣から切り離されている新人類政治家には、こう問う能力そのものがない。諸外国の例を鵜の目鷹の目で見渡し、日本の消費税は低過ぎるなどと勝手に判断し、財政危機解決を大義名分として消費税増税案を吹聴する。それは安易な解決であり、取り返しのつかない日本経済の破綻の道であることをキャッチする能力がない。というより、実際は現代世界を牛耳る国際金融資本の対日施策要請アジェンダであり、これに基づき口をパクパクさせているに過ぎない。こういう安逸政治家が与野党共に大量生産されている現実を直視せねばならないのではなかろうか。

 今となっては、そういう政治家の個々の政策に逐一反論しても一事万事であるからキリがない。これを打開する道があるとするなら、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣を説いて聞かせ、その高度性に自信を持たせ、自力で見識を立て直させる方が遠くて近い道ではなかろうか。れんだいこの口説きをもってしても分別できぬ者には他の者の力も借りよう。それでも治癒しない者は処置なしであり徒労であろう。この場合には、これらの新人類を一掃し、新たに日本史の正統嫡出子を生み出す以外にあるまい。これを口説きと同時並行的にやり遂げることこそ要諦ではなかろうか。

 さて、そういう訳で、れんだいこは、日本神話考を再考したいと思う。戦後教育は、戦前の皇国史観を批判する余りに日本神話譚で伝えられて来た日本古代史そのものをタライごと流してしまった。批判すべきは、日本古代史の皇国史観的歪曲であり、日本古代史に新たな光を当てることが必要であったのに。日本古代史には、日本人或いは日本国家の型が伝えられている。日本史はこの伝統的型を受け継ぎながら時代に対処し危機を乗り越えてきた。この型は1970年代までの日本に伝えられていた。1980年以降急速に放擲され、2010年現在は冒頭で述べた如く無知無頓着な政治家ばかりがこの国を采配している。そういう意味で確かに戦後教育には卑大なる欠陥があったと云うべきだろう。今そのことに気づいた。気づけば半ば解決されたも同然である。

 知れば、日本古代史の面白さ、我々の先祖が並々ならぬ愛着を持って歴史を生き次の世代に伝えてきたことが分かるであろう。今年のお盆は、これを営為しようと思う。「検証学生運動下巻」の次にこれを世に問おうと思う。これを予告とする。

 別章【日本神話の研究】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco
/nihonshinwaco.htm)

 2010.8.6日 れんだいこ拝

 (れんだいこのショートメッセージ)

 先だって「ユダヤ聖書神話」を考察した(「ユダヤ聖書神話考」)。翻って、日本神話を知らないことに気づいた。日本神話は、日本古代の歴史書である旧事記、古事記、日本書紀、各地の風土記、古語拾遺、釈日本紀、古史古伝等々に書き付けられている。ここでは、それらの真偽は問わない。日本国の成り立ちを神話という体裁で遺しているそのことと内容の歴史的意義を高く認めたい。日本神話は、ギリシャ神話、ユダヤ聖書神話と共に、世界で最も詳しい記述を残している。その日本神話を知らないことは不幸である。

 その日本神話は、戦前、不幸な使われ方をした。大東亜戦争の聖戦性を煽る為に「神国日本」の宣揚の為に悪用された。その為、戦後になるや、「日本神話追放」が正義となり、せっかくの遺産である日本神話が排斥され、神話を通じて探る日本精神の道が閉ざされてしまった。このことは、戦前も誤りであるが、戦後も別の誤りの道へ入っていることを意味しているのではなかろうか。むしろ、正しく知ることこそ肝要なのではなかろうか。  

 れんだいこは戦後教育を受けてきた。その良い面も随分あった。お蔭さんで、れんだいこの両親は共に尋常高等小学校しか行けていないのに大学まで行かせて貰えた。それは何にも替え難い親の悦びであった。最近、戦後教育の破綻現象が凄まじい。れんだいこは、1950年代後半からの教師に対する勤務評定政策以来の政府自民党の特に売国タカ派系による管理教育強化の辿り着いた末路であると看做している。

 彼らは学生運動の温床になるとして初期戦後教育が豊穣にしていた社会教育を次第に骨抜きにし、教師の質を劣悪化させ、諸事有害無益方向に舵を取ってきた。戦後教育の内実がかくも無惨になったのは、その政策のなれの果てと看做すべきだろう。その彼らが今、教育基本法改正に乗り出そうとしている。悪くはなっても良くはなるまい。今や、政治反動の波があちこち押し寄せており、止まるところを知らない。日本左派運動はこれに如何に抗すべきかが問われている。

 ところで、そうした戦後文部行政と戦後左派運動は、戦前批判の視点で妙につるんでいる面がある。れんだいこは、ネオ・シオニズム批判の観点を得ることにより、そういう構図が見えてきた。彼らにより、日本神話の歴史的意義と価値が不当に落とし込められており、今や殆どの日本人が日本という国の成り立ちを知らない。否、知らなさ過ぎる。れんだいこはそのことに気づくようになった。

 それは何も、皇国史観に戻れと云うのではない。日本の未来を切り拓くには、日本の国史を知らねばならないと思う故に、今に続く日本型政治の原形ともなっている日本神話にも通じておく必要があるだろうと云いたい。実に、神話時代の政変の特質や影響を今日の日本政治の中に見て取ることは痛快である。このことを云いたい。付言すれば、戦前の皇国史観の恣意的歪曲をも正さねばならないであろう。

 そこで、全くの初学者のれんだいこが、れんだいこにも分かりやすい日本神話を書きつけることにした。「現代日本人の神話忘れを正したい。これがこの本の一つの目的である」(山田宗睦「日本の神話、カラーブックス、1984.7.5日初版」)。恐らく、「ユダヤ聖書神話」の非情冷酷な支配ー被支配「殺るか殺られるか」式とは一味違ういかにも日本的な穏和にして権謀術数渦巻く且つ止めを刺さず和を尊ぶおおらか神話が確認できるであろう。以下、これを確認する。「日本神話の御殿」、「古事記正解」、「古事記の世界」、「古事記物語」等々を参照する。知識が入り次第日々書き改めていくことにする。 

 2006.12.3日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝

 (れんだいこのショートメッセージ)

 いわゆる神話と呼ばれているものは、正しくは「祖国形成神話史」とでも命名されるべきであろう。遥か昔のその国の成り立ちと歩みを神話形式で伝えているものであるが、これが有ると無いとでは民族共同体意識のアイデンティティーの濃さが違う。その点で、我々日本人は、ギリシャ神話やユダヤ神話に何らの遜色ない日本神話を持ち、語り伝えられてきたことを僥倖とすべきだろう。

 その日本神話の特質を求めるならば、これをユダヤ神話と比べた時特に明らかに認められるものが有る。それは、ユダヤ神話の一神教に比べて八百万の多神教であるということである。なお且つ八百万の神々が天地の森羅万象の生命霊に名を付したものであり、自ずとアニミズム的天然自然崇拝を醸し、それは結果的に自然と人間との共生へと導くものである。この点で、ユダヤ神話のエホバ神が、人類の祖アダムとイブに「天地自然を支配せよ」と命じているのと対照的である。

 元々のその辺りの違いからであろうか、ユダヤ神話の国盗り譚は、我々の想像を超えた「殺るか殺られるか」式の薙ぎ倒しを特徴としており、それに権謀術数が加わり凄惨無比なものとなっている。これに対し、日本神話の国盗り譚は、武闘と和議を織り交ぜたものとなっており、血を血で洗うようなものではない。高天原王朝と出雲王朝の国譲り譚はその典型であろう。実に、日本政治史は、国譲り譚的武闘と和議の両面で織り成す歴史の積み重ねである。はるけき今日までそのDNAが連綿と続いている事を窺うべきだろう。

 今この日本史を学ぶことは格別の意義がある。なんとならば、現代日本は、去る日の黒船来航以降次第にネオ・シオニズムに侵食されつつあり、今日では上層部の殆どが連中の息のかかった者達で占められており、このまま行くと国と民族が乗っ取られる運命に有る。この流れが不可逆的に進行中である。これと対決する為には、我々は、精神と政治能力の両面で対峙せねばなるまい。そういう訳で、ネオ・シオニズムの精神を構築しているユダヤ神話との精神界での抗争にも向わねばならない。我々は我々のアイデンティティーを担保しつつ政治能力に於いて丁々発止で伍さねばなるまい。

 そう思えば、戦後教育がつまり戦後日本政治が、日本神話を封殺してきたのは由々しき間違いだったと云うべきだろう。戦前の皇国史観的イデオロギーからの脱却、それからの精神解放という意味がもたらされていたのであるが、本来は、日本神話の偏狭な読み取りで成り立っている皇国史観からの精神解放に向うべきだったのであり、そうなるとむしろ日本神話に精通し出藍することの方が望まれていたと反省すべきだろう。

 戦後左派運動は、この点で、実に矮小な皇国史観排撃運動に堕してしまった。それは日本神話を封殺する運動となった。戦後60数余年、今や殆どの日本人が日本神話を知らない。戦前の者も皇国史観型日本神話しか知らない。こうした無知の利益に預かる者は、ネオ・シオニストではなかったか。彼らは、表から政財官学報の五者機関を牛耳り、裏から左派運動を操り、無知蒙昧を利用して彼らの目指すユダヤ教式祭政一致の統一王朝創出へ首尾よく舵をとってきたのではないのか。彼らが何ゆえにユダヤ教式祭政一致の統一王朝創出へ向おうとするのか。それは、その方向に向うことが、絶えず血生臭さを求めて止まない彼らの経済的利益になる道だからである。

 れんだいこは、以上のような見通しを立て、日本神話の研究に着手した。本サイトでアップした以上の知識は持ちあわさない。本来なら、古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝の原文に目を通し、れんだいこ責による現代文翻訳に向うのが筋であるが、その能力も時間も無い。既成の労作をれんだいこ的に読み取ることで取り敢えずの満足とした。御意の士は、れんだいこの日本神話考を読み素養とせよ。れんだいこはこれにてひとまず筆をおく。

 2006.12.15日 れんだいこ拝

 Re:れんだいこのカンテラ時評240 れんだいこ 2006/12/09 【れんだいこの日本神話考】 

 日本古代史を知るには、日本古代の歴史書である旧事記、古事記、日本書紀、各地の風土記、古語拾遺、古史古伝等々を読まねばならない。但し、それらは時の権力に都合よく改竄されているからして、書かれたものの中から極力真実を見出さねばならない。日本神話考にはそういう困難が伴う。

 そうではあるが、思案するに我々のアイデンティティの確立が今ほど大事な時代はない。そこで、れんだいこなりの日本神話考に向うことにする。もう一つ意味がある。あのユダヤ神話創世記と比較して思案してみたい。まことに日本神話のおおらかさこそ宝ではなかろうか。逆に言えば、ダヤ神話創世記ほどくだらない殺生なものはない。知ってか知らずか、そのユダヤ神話創世記世界観に身も心も捧げる近時の政財官学報人の底浅さを文明的に卑下させよ。本稿にはそういう狙いがある。

 もう一つある。れんだいこは、日本神話をそれなりに読んで見て、戦前の皇国史観は日本神話のご都合主義的読み取りでしかないと思う。日本神話はいびつかされているけれども、それでもなお豊穣である。その豊穣さを見て取らぬままに皇国史観を批判しても内在的な批判にはなり得まい。そういうへなちょこ批判で批判したつもりになっていたのが日本左派運動ではなかろうか。そういう姿勢は万事に繋がっている。そういう姿勢は今日在る如くにしかならないのも道理だ。そういうことも言ってみたかった。

 神話は、歴史上最も遠い時代の逸話ではあるが、妙に生新しい気がするのは、れんだいこだけであろうか。聖武天皇の御世の逸話はこうだ。

 或る時、仁徳天皇は高山に登り、四方の国土を見ていた。食事を用意する炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、今より三年間、国民の税と夫役を免除するようにと言い渡した。こうして、三年の間、民の夫役や税を免除した結果、宮殿は破損し、ことごとく雨漏りするようになった。しかし、天皇は一切修理をせず、器で雨漏りを受け、あるいは雨漏りのしない場所に移るなどしてしのいだ。三年立ったある日、国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。「もう税と夫役を課してもよかろう」。こうして、民は豊かになり、賦役を苦しむことはなかった。その御世は、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と称えられた。

  2006.12.9日 れんだいこ拝

 Re:れんだいこのカンテラ時評239 れんだいこ 2006/12/05
 【小泉ー安倍の売国傀儡政権を打倒せよその2】 

 今時、日本神話を再考するのにどのような意味があるのだろうか。れんだいこは廻り回ってここへ辿り着いた。知れば案外と面白い。もっとも、へそ曲がりの癖があるれんだいこは、神話作者の意図のようには読まない。むしろ、作者が隠蔽した、作り変えた、裏の意味を好んで求めたがる。

 戦前の皇国史観ではっきりしていることは、大和王朝の正義を打ち出し、国譲りされた側の出雲王朝はたまたその他まつろわぬ部族を悪し様に書き過ぎていることである。これを正そうと思う。しかしながら何分浅学非才である。史実をそれなりに知るのにれんだいこの寿命がどこまで追いつくのか心もとない。それでも良い、知らぬよりは。

 目下、政府与党は、教育基本法改正に乗り出そうとしている。いよいよ戦後憲法秩序が最終的に瓦解される局面に達したということであろう。それにしても、政府与党は民主党も含め、どういう愛国心、愛民族心を涵養させようとしているのだろう。やっていることは、売国シオニスタン政治一直線である。その連中が何の顔(かんばせ)有りて愛国心、愛民族心を説いているのだろうか。れんだいこには解せない。

 どうせマジメに説いている訳ではなかろう。なぜなら、愛国心、愛民族心の涵養は、互いの国のそれらをも認めることでなければならないところを、政府与党政治は、現代世界を牛耳る米英ユ同盟の尻馬に乗って「金出す、兵隊出す」でしかない。一体、9.11テロからアフガン戦争、イラク戦争にどれだけ莫大な「金出す、兵隊出す」をしてきたことか。「かかって来い」とジェスチャーして始めたブッシュ戦争が今、風向きが変り貧相顔になっている。小泉ー安倍政権はそれでも何ら政策を変えようとしない。最後までお供しますという政治を続けている。

 こったら政府の下で教育基本法改正してどうなるというのだ。この問いかけこそが闘う姿勢となるべきではなかろうか。お前たちの手では何の改正も、改正ではなく改悪しかできないだろうが、やらせない。れんだいこはそう憤怒している。

 2006.12.5日 れんだいこ拝

 Re:れんだいこのカンテラ時評243 れんだいこ 2006/12/16 【愛国心と大本営景気の相関考】

 日本神話をれんだいこなりに一応渉猟して見て、字面だけをどんなに丹念に追うても真相には近づけないことを知った。むしろ、記録者がどんな裏意味をもたせているのか、隠語でどう語っているのかを詮索しないと解けない。しかし、そうなると、千差万別の日本神話観が生まれそうである。それで良いとも思う。一旦はそうやって精通すべきだろう。その中から、こう理解した方がより適切かという筋道が生まれ、それを何度も練り直して、そこから以前とは違う日本神話観が生まれるのだと思う。それを更に何度も繰り返せばよいのだと思う。俗にこれを弁証法と云う。

 時は今、戦後の教育基本法が初改定され、愛国心を強調される時代に入った。ならばはっきりさせねばなるまい。どういう国造りに向うのか、日本のどのような伝統を尊び継承しようとさせるのかを。それは案外と為政者の手足を縛るものになるだろう。れんだいこは、日本神話考で、戦前の皇国史観が隠蔽した出雲王朝史の重みを指摘した。古代政治史上最大の政変で、今日まではるけき影響を与えていると思われる国譲りの遣り取りの重みを衝いた。この辺りに言及なき天皇制的愛国心の強調は今後は許されない。平成天皇もお望みでは無かろう。信じられない向きの方は、れんだいこの日本神話研究を一旦は学べば良かろう。

 今日本は、安倍首相の采配の下で、中曽根から小泉政権以来の「日本のユダヤ属州化の悲願」へ向けて急ピッチに国づくりが行われようとしている。この流れと新教育基本法的愛国心がどう絡むのか、考えよう見ようによっては興味深いものがある。端的に言える事は、日本は国譲り以前も以来も「談じ合い、練り合い」を重視してきた国柄である。政敵の止めを刺さず、和を以て尊しとしてきた国柄である。小泉式の「イエスかノーか」。従わなければ刺客を送り込み、止めを刺す。よしんば復権させても、耐え難い踏み絵を強要するなどという手法は、歴史的ユダヤ聖書式のそれではあっても、日本式のものではない。日本神話を学べば、そういうことも見えてくるだろう。

 それとも何だろうか。今この国を支配するシオニスタンどもは、日本のそういう国柄をも変えようと使命しているのだろうか。そういえば、富める者を更に富まし、貧する者を更に貧させる格差社会へと強引に向かわせているが、これも意図的政策なのだろうか。いざなぎ景気を凌ぐ大本営景気が云われ続けているが、このままで行くとヘトヘトになるまで云われ続けることになろうが、これも意図的政策なのだろうか。その辺りを考えながら、師走の景気を確かめにうがいでもしに行こう。

 2006.12.16日 れんだいこ拝

 Re:れんだいこのカンテラ時評245 れんだいこ 2006/12/23 【日本神話に於ける二つの国譲り考】

 ここまで日本神話をれんだいこなりに辿って見て、一つの成果を得たと思うのでこれを世間に問うておくことにする。日本神話の最大の特徴は、他の諸民族のそれと比して何ら遜色の無い、否更に優れて精緻な否難解多重とも云える伝説群を記録していることに有る。これを今更知ってどうなるというものでもないが、民族的財産と分別し、知らぬより知っておくべきであろう。あるいは知らなくとも感得しておくべきであろう。そういう気がする。

 寂蓮法師は、出雲大社を次のように詠じている。「やわらぐる光や、空に満ちぬらん。雲に分け入る、ちぎのかたそぎ」。西行法師は、伊勢神宮を次のように詠じている。「何事のおわしますを知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。吉川英治は次のように詠んでいる。「ここは心のふるさとか。そぞろ参れば旅ごころ。うたた童にかえるかな」。

 さて、ここで発表するのは、日本古代史上最大の政変である「国譲り」に関してのれんだいこ見解である。れんだいこは、恐らく史実と思っており、それは二度行われている。一つは、高天原王朝と出雲王朝長との間で行われた「いわゆる大国主の命の国譲り」で、これにより大国主の命は、政治の表舞台から身を引き精神的な宗教界のみに影響力を残すことになった。

 この時の譲りの言葉は、「我々は賢明懸命に国造りを行ってきた。この国の統治権を譲れと云うのなら、どうか良い政治を行っていただきたい。それが条件である」というものであった。高天原王朝は、その申し出を承った。この「言伝(ことづて)引継ぎ」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 れんだいこの観るところ、もう一つの国譲りが有るように思われる。それは、神武天皇東征譚に発するが、天孫族が瀬戸内航路を通って河内へ攻め上り、待ち受ける出雲王朝系ニギハヤヒーナガスネ彦連合と戦い、手痛い敗北を帰し、紀州熊野へ廻り、ここから権謀術数と武運を尽してヤマトへ辿り着く。

 両者は、最後の一大決戦を前にして決戦の道を選ばず大和議により手打ちした。天孫族の神武天皇が即位し、ヤマト王朝を創始したが、ヤマトは大和と漢字訳されるほどに、大きく和して成した王朝であることを表象していた。このことは、ニギハヤヒーナガスネ彦連合下の諸豪族が新王朝下で重用されたことを意味している。この「大和議による手打ち」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 この二回にわたる国譲りに於ける和議こそ日本政治の真骨頂であり、国譲りをそのようにせしめた旧勢力の政治的経済的文化的精神的能力の高さこそ認められるべきであろう。この後の日本史は、天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘により推移していくことになる。以降、王朝政治、貴族政治、武家政治、官僚政治と続き今日の日本へと辿り着いているが、政治的経済的文化的精神的分野に於ける「天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘」こそが演ぜられつつ歴史を創ってきているのではなかろうか。

 問題は、日本史のこの特質の中に、黒船来航以降、もう一つのファクターが入り込んだことである。れんだいこは、それをネオ・シオニズムと命名している。ネオ・シオニズムは正体を隠すことを特徴としており、表向きはキリスト教的に振舞うが、その内実は「シオンの議定書」を総路線とするユダヤ教原理派のネオ・シオニストの教義である。

 この連中こそ、近代史に踊り出てきて、彼らの云う新世界であらん限りの略奪と収奪を恣にして原住民の文明と原住民そのものを抹殺してきた極悪非道の者達である。植民地政策は専らこの連中が敷いた政策であり、それを云うなら資本主義なるものも、この連中が押し付けている主義的体制であろう。近時の著作権云々による知識の利権化も、この連中が押し付けようとしている愚民化政策の一環のものであろう。

 留意すべきは次のことである。日本政治史上のそれまでの天つ神族と国つ神族の抗争は和議と武闘のいずれをも選択し得る余地の有るものであることを特質とするが、ネオ・シオニストの政治学は「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の二者択一のもので、共存的な観点は微塵も無い。あるとすれば、「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の戦略上の過程的なものでしかない。

 日本民族は今、史上初めてそのような相手と交わらねばならない局面に立ち至っている。このことを客観的に了解するのが現代政治学の眼目とならねばならない。その為にも日本史を精通し世界史をも精通しておかねばならない。知識を持たないと、何と戦うのかどう戦うのかの座標軸が定まらない。これを養うのが学問であろうが、現代政治学は何と、こう問わないよう、こう問う方向に向わないよう躾しようとしており、その様は嬌態と云うべきか滑稽である。

 思えば、れんだいこが習ったマルクス主義は、この観点を得るには少しも役立たない。それの役立つ点もあろうから今や大改造し、ネオ・シオニズムの来襲内襲と闘い、自前の民族のより良き国家造りへ向うものにせねば何の訳にも立つまい。旧社共的、現社共的サヨ運動は、人民大衆の不満のガス抜き的運動に終始することで体制に奉仕しており、このままで有り続けるとなるとむしろ有害でしかなかろう。

 新左翼運動の系譜から唯一、旧社共的、現社共的サヨ運動と全く違う人民大衆の抵抗権、革命権を打ち出しつつ、「日本民族存亡の百年の計」を以って現実的政策と運動で共感を獲得していく道を選ぶなら、その能力を証するならここに初めて日本左派運動の再生を生み出すだろう。この道こそが諸民族との共和を生み出し、ひいては国益に叶うだろう。我々の潜在能力にはこれをやり抜く力があるのではなかろうか。以上提言しておく。

 2006.12.23日 れんだいこ拝     kodaishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm  






(私論.私見)