『解釈と鑑賞』1974年1月
日本は今未曾有の偉大な時期に臨んでゐる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。日本は古の父祖の神話を新しい現前の実在とし有史の理念をその世界史的結構に於て表現しつx行為し始めたのであるo
「戴冠詩人の御一人者」緒言の冒頭の言葉である。保田与重郎は、おそらくこの「遠征と行軍」は日本の精神と文化の歴史を変革するとともに、「世界の規模に於て世紀の変革となるであらう」といい、現代の文芸批評家の当面の任務は、その『日本』の血統を文芸史によって系譜づけることである」と強く述べた。
保田はこの緒言を昭和十三年(一九三八)九月に書いた。明治四十三年(一九一〇)四月の生まれだから二十八歳であった。『コギト』は昭和七年(一九三ニ)三月、東大美学科在学中に創刊された。二十二歳の時のことである。そして『日本浪曼派』は昭和十年三月、二十五歳の時に創刊された。『コギト』創刊からの六年半の保田の変貌は驚くべきものがある。保田は自分らの浪曼主義の成立を、満州事変から二・二六事件を経て、日中の全面戦争に突入して行く日本の歴史的激動に結びつけ、「それの成立の動因は、文芸学書にはないところの民族の精神と志をもとにしたものである」(「自然主義文化感覚の否定のために」『近代の終焉』所収、昭16・6)というようないい方で、くり返し回想している。しかしこれらは、到達した地点から出発点を回想しているために、出発点に内包された多くの問題が捨象されたものになっている。私たちは日本浪曼派の出発点の問題を、昭和十三年以後に書かれた保田の文章によって考えるのでなく、直接『コギト』や『日本浪曼派』創刊当時に書かれたものを通してあきらかにする必要がある。そうすることによって、はじめて日本浪曼派の問題は固定観念から解放され、根底から明らかにすることが出来るであろう。そうしてはじめて、日本浪曼派における戦争の意味も、本格的に明らかにすることが出来る。
『コギト』創刊は「満州事変」勃発六か月後のことである。しかし当時の保田や『コギト』同人たちは、戦争への関心をまったく示していない。むしろ大きな関心は、「満州事変」を契機に、左翼に対する弾圧が強化され、闘争が激化したことに向けられている。国家権力による言論・思想・文化に対する抑圧が露骨になる一方、マルクス主義芸術運動は政治運動化の傾向を強めた。文学は政治にのみこまれていった。まだ学生だった『コギト』創刊当時の保田らは、この苛酷な現実に直面し、自己内部の分裂に苦しみながら、新しい芸術のあり方を求めて、苦悩に満ちた模索を続けた。それは同時に自分自身の生き方の模索であった。肥下恒夫が創刊号(昭7・3)に書いた「手紙」、二号(昭7・4)の「速度と筆」、保田が五号(昭7・7)に書いた「花と形而学と」等は、端的にこうした苦悩を描いている。
五号の「文学時評」に保田は「文学の不安と貧困」を論じ、「今日の現実情勢のもとに於る文学の貧困に就ては肯定すべき理由はある。さらに進んで、むしろ今日は文学不用の時代ではなからうか」と述べた。「過去の歴史に於ても過渡期といへる時代確かに文学の空白時代は存在した」という保田は、「しかしながらなほその時代に於ても文学はその時代の真実の姿に於て存在した」と述べている。この号の編集後記にも、「われわれは歴史的社会的制約を受てゐる。しかしわれわれは文学する。われわれはこの苦悩中で文学せねばならぬ。軽々に実践し得ぬこの真実を土台としよう。われわれは文学する。われわれはこの苦悩中で文学せねばならぬ。軽々に実践し得ぬこの真実を土台としよう。われわれは今日の人間を特に知識人と書きたい」(傍点原文)と述べた。現代を「文学不用の時代」「文学の空白期」と自覚しながら、この時代にも「文学はその時代の真実の姿に於て存在」することを信じ、それを目ざそうとしたのである。保田は「軽々に実践し得ぬ」苦悩に生きる人間の「真実」を土台に、自分たちの文学をつくりあげようとした。「われわれは今日の人間を特に知識人と書きたい」と述べたとき、そこには現実=実践から疎外された存在としての意識がはっきり示されている。保田がそのような自覚から出発していることは、その後の展開を考える上で大切だと思う。
この五号に保田は「花と形而上学と」を発表している。「わたし」は「文字通り人々が餓死線を上下してゐる現実を率直に」考えるとき、日常の生活から遠ざかって、ものの考え方を「純潔の一みち」に押し進めなければならなかった。しかし「わたしらの今の気持はまじめになればなるほど辱しめられ」るのであった。「あの少数の大きい情熱に対しては反省を自ら強ひられる圧迫」を感じなければならなかったが、しかも、「その感動を表現することは同時にわたしの終末になる」のであった。保田は「魂の二つの道」について書いている。「自分の生活環境を背負った上で」この二つの道を眺め、「自己の矛盾と分裂」に苦しんだ。論理からいっても、倫理からいっても、同じ一つの道を選ばなければならなかった。しかし「わたしは既に自分の生活を宿命的にさへ」見せられていた。マルクスはきっと富裕だったのだろうと、ある友だちはいった。それに、「わたし」はこの道に「気持にそぐはぬもの」を見てしまうのであった。時には、まったく「非良心的」なことさえあると思うのだった。
「まことに身を風雨の中に曝してゐる人は偉大です。無条件に偉大です。あんな実践人の情熱の無限の深さを思ふたびに、わたしは文学や理論のアナルキーさへ考へざるを得なかつたのです」。どんな尖鋭な理論もその点で一個の爆弾より空粗である。理論が尖鋭であり得るのは「背後に爆弾があるときだけ」なのである。保田は実践人の偉大さを讃美して、文学や理論の空しさを思う。自分は安全な所にいて、革命を論ずるマルクス主義文学に「非良心的」なものを感じ、「気持にそぐはぬもの」を見る。革命的実践に強い関心を持つと同時に、芸術を志向してやまぬ精神は、ひたすら政治主義的になり、理論によって心情を抑圧する当時のマルクス主義芸術のあり方に対して、自他を欺瞞するものとして批判的にならざるを得なかった。保田にとって芸術はどこまでも自己の心情の忠実な表現でなければならなかった。この身動きならぬ自己内部の分裂を直視し、その悲しみを表現するところから自己の文学を出発させようとした。
「わたしらは人のするやうに、自分の気持や生活態度を全く省みないで元気よく、俺たちは、など喋られない」「元気よく石油缶を かれぬから、わたしたちは不幸です」と保田は書いている。いつも「わたし」は「濡れた洞窟」の中に窒息させられかけている。しかし、その洞窟を語り、洞窟を歌うのに、美しさと意義を認めざるを得ない。「一層そのことに紅血の要求さへ思ふ」というのである。自分の悲しみを慰めるために、「わたし」は「非現実の花」を求める。「地上の花」は苦しめはするが、慰めてくれることはない。「絶対的な愛など今の時代に」考えることさえできないのである。いつまでも非現実の花ばかり愛していなければならないのは「悲しみ」だけれど、「さりながら自ら求めたものでなく、時代にしむけられた境涯なら止むを得ないと嬉ばねばなりません」と保田は書いている。
「花と形而上学と」は保田の芸術観を作品として表現したものである。ここには同じ五号の「文学時評」、編集後記と共通する保田の考え方がはっきり見られる。保田の思想は時代に対してまったく受け身である。現実への強い関心はあるが、すでに現実から疎外されているものとして、現実に対するたたかいに赴くことはなく、時代そのものの考察に向かうこともない。閉ざされた自己の世界=洞窟に生きる切ない心情をひたすら表白し、自己を時代の苦悩を一身にになった時代の犠牲者、時代の子として表現する。「時代に強ひられた青春」というのが保田ばかりでなく、日本浪曼派全体の根本にある考え方であった。
『コギト』の出発点で保田たちが志向したのは、論理的倫理的政治的束縛から自己と文学を救出することであり、文学の核としてパトス、文学の精神を強調することであった。しかし論理的倫理的政治的束縛は、外的な束縛であるだけでなく、同時に内部から彼らをつき動かす内的な情熱であった。それを否定することは自分自身を否定することであり、デカダッスにおちいらなければならなかった。内部の情熱を論理的倫理的政治的に成熟させる余裕もなしに、優勢なマルクス主義の知識体系にからめとられ、自己を見うしなってしまうところにこの時代の悲劇があった。そのような自己喪失からも自己を回復しようとすれば、今度はまた新しい自己喪失におちいる。限りない不安と動揺、懐疑と混乱は避けがたかっこの分裂と解体、自己喪失の苦悩をつきつめながら、この矛盾と苦悩とデカダンスを時代に強いられたものとするところに、日本浪曼派の強烈な自己主張が生まれた。それは時代の矛盾であり、苦悩であり、デカダンスであった。彼らは自己を時代の尖端に立つものとして、強烈に自己を主張した。
かつて僕らの日本の過去に於て、かやうなはげしい時代の青春を経験した青年の時代の時代はないのだ。この時代に於けるより、人類的良心をさまざまに刺戟された世代はかつてない。この狂爛の時代を、一番傷つきやすい年齢に於て感じ、一番痛みやすい時代の心情を以て生きた人間の文学を、僕らは今後始めねばならぬ。
『コギト』昭和十年一月号に発表された「後退する意識過剰-『日本浪曼派』について」の一節である。すでに「『日本浪曼派』広告」を『コギト』昭和九年十一月号に掲載し、三月の創刊を目ざして準備を急いでいた。「この時代にまれてきた青春の文学は、日本に始めての青年の文学を生まねばならぬ」「懐疑し遅待し、痛み傷き、ついに美しく残ったもの*みが今後に文学の理想と精神と、さらに気品とを維持する」と保田は書いた。
『日本浪曼派』はあきらかにひとつの文学運動として創刊された。しかし彼らは前代の文学をはげしく論難否定し、時代性と青年性を強調するだけで、積極的に新しい文学のあり方を示すことはできなかった。むしろ彼らは新しい文学はかくあるべしというようなことを、一般論として論ずることに反対する所からはじめようとした。真実を求める理想は切実だが、そうであればあるほど真実を求めて得られず、混乱と苦悩があるばかりだ。こ理想を求める情熱と、それを求めて得られない切なさだけが真実で、そこから出発する以外にどんな真実もあり得ないことを主張した。
転向の時代だった。かつて革命的文学を主張したものが、今は転向してリアリズムを説き、そのことで進歩的であり続けようとしている。それは本当の進歩主義なのか。口の上だけの進歩主義ではないか。ありのままの現実を描くというが、本当にそれは可能なのか。結局それは主観ではないのか。真実らしいものと真実、正しそうなことと正しいこととはちがう。いつでもなにかの権威、一般論に頼って、真実らしいこと、正しそうなことを語って、生身の人間の個別の真実をおしころすものは自他を偽る欺瞞者だ。現実はなにひとつ明確でない。解決すべからざる不可解な現実、どうすることも出来ない困難に直面して、途方に暮れたものの呻きと嘆きと憤り、そのいたいたしい悲しみ、この切ない心の真実にこそ美はある。保田は「今日の人間とはかxるものと断定する確信からは文学は生れぬ」(「時評的文学雑誌」『コギト』昭10・3)と述べた。
群衆は明確を望み、解決を求める。世の進歩主義者なるものは一般論で解決の道を示し、指導者としてふるまう。彼らは「山の上」から降りて来て民衆を指導しようとする。しかし自分たちは「青春の喪失」を強いられたものだ。保田は「青春の喪失とはいひ換へるとヒュマニテイの喪失であり、未来を既存のヒュマニテイで類推出来ぬ意である」(「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」『日本浪曼派』昭10・7)という。真実を求めれば求めるほど、混乱し、分裂し、錯乱する。自分たちは「山の上」ではなくて「群衆の奈落」「人間界の奈落」に住む。デカダンスを強いられており、デカダンスにしか真実を求めることが出来ない。自己の無力と卑小を直視し、自分をつまらぬ人間と自覚する所から文学ははじまる。現実を見うしなう所から、新しく現実は見えてくる。
いわゆる現実家なるものは現実を見くびっているのではないか。保田は「僕らは一切の現実家のいふ現実とかリアリズムとかをすべて否定する。彼らが口にする進歩を否定する。そのさき彼らを否定する」(「反進歩主義文学論」『日本浪曼派』昭10・5)と述べた。そして「僕の考へる歴史は悲劇と没落が主潮をなし、その中に哀歌と昂奮を発見するにすぎない」(「主題の積極性について」前出)といっている。
『コギト』や『日本浪曼派』創刊の頃の文章と「戴冠詩人の御一人者」緒言の文章の間には大きな落差がある。これが戦争によってもたらされたものであることはいうまでもない。しかし同時に、この変貌を必然ならしめたものが、日本浪曼派の内部に求められなければならない。この連続と断絶をあきらかにするところに、日本浪曼派における戦争の問題がある。
私はとりたてて「戴冠詩人の御一人者」緒言を問題とし、その全体をいわなかった。本書には『コギト』昭和八年十一月号に発表された「当麻曼茶羅」から、同昭和十三年二月に発表された「饗宴の芸術と雑遊の芸術」までを含んでおり、そのあとを辿るとき、保田の古典論の展開が見られるのであるが、その最後のものと比べても、この緒言との間には大きな落差がある。今、保田の古典論を検討することが、保田の本質、ひいては保田における戦争の問題を検討する上で必要であるが、今はその余裕がない。ここでは、保田におけるひとつの飛躍がこの緒言を書く直前におこなわれたのであり、その契機となったのが、昭和十三年五月から六月にかけての中国大陸を蒙古にまで赴いた旅行であり、ちゃうどその間に、直接ではないが徐州の戦争にあったことだということを指摘しておくにとどめる。保田はそれを緒言に「去る晩春より初夏にかけて大陸を蒙古に旅した私は、この世界の変革を招ぶ曙の思ひに感動を新しくした」と記している。また「日本浪曼派について」(『浪曼派的文芸批評』所収、昭14・4)に、日本の文芸思想が一様に今日の日本へ目覚めたことについて、この「歴史的転回」を実現したのは、「蘆溝橋に放たれた砲弾のひゞきが敢行したのでもない、それより十月近くを経過した徐州会戦の結果である」と述べている。
昭和十二年七月の蘆溝橋事件に、保田はほとんどなにも反応を示していない。保田の戦争に対する関心は戦線が拡大し、戦死者が続出するようになって急速に増大する。『コギト』編集後記(昭12・11)には「廿四日より上海戦線が、一さいに前進した。その号外を手にしつ*私は感涙に耐へなかった」と書いている。そして立派な兵士が次々に戦死するのは惜しいことだが、「戦場の勇士の描いた丈夫の歌は、いはば一箇の芸術品としてヽ我らの民族の未来永劫に記録される」のだから、「惜しまれる如くして又一つの光栄である」と書いている。さらに俳優友田恭助の戦死について、出征の時の顔に比べて、戦死直前の写真の顔がいかに美しかったかは驚くばかりであるといい、「上海のクリークに決死の突喚を試みて倒れた、その最後の行動は、舞台で死ぬより、はるかに美しい、彼の体で描かれた詩であり、又歌であらう」と書いている。
翌十二月の編集後記には、「日軍百万上陸といふ宣言は、実に壮大な事変中の花であった。百万といふ言葉を我々は待つてゐた故に、あの記事には落涙した」と書いている。国民スローガンについて、「天皇陛下万才」だけでよい、今日のような「絶望意識の先行する日」には、「我等の光りはこの伝統の情緒だけが陳べてくれる」として、木口小平について書いている。
保田は戦争と戦場に生きる兵士の現実はすこしも見ない。戦争は芸術であった。そして戦争における死をひたすら讃美する。あきらかにそれはデカダンスであった。現代を「没落の時代」「文化の廃墟」として、ギリシア・ローマ・天平・推古の古典期にあこがれ、原始の自然を夢みる保田は、現実の幸福を侮蔑し、科学を否定する。保田の純粋への情熱は、生を否定し、死を讃美する。その古代の夢は、古典を出来るだけ歪曲して、ひたすらそこに美しい夢を描き出したのである。古代人の現実などは問題ではなかった。美しい夢だけが大切なのである。いま保田は戦争を芸術として、ひたすら現実の辛苦を無視して、そこに美しい夢を見ようとした。しかしこの時期の保田の戦争に対する関心は、ひたすら戦場における死に向けられ、戦死を出来るだけ美しい言葉で飾った。
しかし大陸を旅した保田は、なによりも広大な大陸にくりひひろげられる戦争の壮大さ、そこを舞台にくり返された民族興亡の歴史に感動し、この戦争の「世界史的意味」を痛感する。これを契機に保田の考え方は激変する。悲観的、下降的、消極的だったのが、楽天的、上昇的、積極的になる。攻撃的、征服的、侵略的になる。この旅行について書いた『蒙疆』(昭13・12)は、橋川文三(「日本ロマソ派と戦争」(『文学』昭36・5)が指摘するように、戦争の現実についてのまともな記述はまったくない。そこにあるのは昂揚した感情の氾濫であり、「世界交通路の変革」「世界的な日本精神」「新しい世紀のヒュマニズム」等々といった「大なる時代」「浪曼的日本」の夢の開陳であるにすぎない。しかしそこに、この旅行による保田の変化の姿を明瞭に見ることができる。
保田は日支親善とか文化工作とかを否定する。銃剣だけが「支那」を変える。「支那人」には理念も文化もない。ひたすら「生活力」なのだから、文化工作などは無意味で、武力工作あるのみなのだ。前時代的なヒュマニズムと知識は「虐殺」しなければならない。「今日浪曼的な世紀を初めて経験した日本は、一切の悲観を蹴って飛躍する。例へ征服や侵略を手段としても、なほかつそれは正しく美しいのである。談合によって利益をうるよりも、はるかに美しい果敢の行為は、如何なる時にも人間の精神を変貌する最大の教育となる」という。
かつて現代に「没落の時代」「文化の廃墟」を見た保田は、この戦争に史上かつて見なかった「浪曼的時代」の到来を見る。かつて虚無と頽廃の芸術に美を見た保田は、今は「日本の世界史的時期を表現する造型」「今日の日本を象徴する如きモニュメンタル」を主張し、「戦勝者の表現」「支配者の芸術」を説く。これはかれが論じた日本の芸術の伝統といかに背反するものであることだろう。かつて呻きと嘆きと憤りの切ない悲しみにのみ真実と美があると主張した保田は、「戦勝の文学」を説き、「如何に日常に辛苦したかを示すといふより、如何に雄大な希望を生き、如何に辛苦を耐へて日常としたかを示す文学である」という。
蘆溝橋で戦争がはじまった昭和十二年の夏は、「現に人間が未来に向つて行つてゐる大なる行為を報道するといふ自信が文学者としてなかった」という。また「戦勝者の表現」について、「私はやうやく昨今に肯定したにすぎない」と述べている。この保田を激変せしめたものは発展する戦争の現実である。そこに保田における問題があるが、そこには爆弾の前に文学や思想の無力を強調する『コギト』出発以来の発想が一貫している。銃剣が思想を変え文学を変えるのである。そこに自己の真実を強調しながら、現実に対してはまったく無力で、ひたすら時代にふりまわされて、絶望したり昂奮したりするりそれをロマソ主義者は「宿命」とよぶ。かつて時代に強いられて「青春の喪失」をなげいたかれらは、今は「浪曼的時代」に興奮して「時代の讃歌」をうたう。日本主義の理論づけに努力する転向知識人、大陸文学、戦争文学、生産文学等々の国策文学を製作する転向作家の自己喪失と便乗主義を保田は批判し、その絶滅を目ざすというが、そのようなかれの自己の真実とはいったい何なのかが問題である。進歩主義批判や、民族の発見等々に見られる積極的な問題提起を評価すると同時に、やはり主観を絶対化して、現実を侮蔑し、そのことによって現実にのみこまれるロマソ主義の本質を問題にする必要があると思う。