教育と日本国憲法
日本国憲法には、第9条に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とはっきり書いてあります。それを勝手に解釈して、自衛のためならば陸海空軍を持ってもよいとして自衛隊があるのは、憲法そのものが現実に合わず、ザル法になっているということです。また第89条には、公の財産を“私”の経営する公益事業に使用してはならないとなっていますが、私学助成など、いろんな事業に援助が行われています。いまの政府の高校無償化の私学への助成もこれにあたります。こうして、国民の多数が希望すると認められることであれば、国会でさえ、憲法の条項はどうにでも解釈して「法を破る」ことができるという範例が示され、これが常識になりつつあるのです。民主党は憲法15条に抵触する公務員のストライキ権を認めると言い出したりもしました。これでは法秩序を破って平然としている国民が増え、無数の犯罪が昼間、堂々と行われることになるのは、当然のなりゆきです。日本国憲法はもう穴だらけの破れたザルです。一度破棄して、自主独立の憲法を制定する時期に来ているのではないでしょうか。
このような欠陥憲法のもと、極端な“言論の自由”がゆるされており、“学問の自由”がゆるされており、教室で教師が生徒や学生に“言葉の力”を尽くして何を教えても良いことになっているのです。しかも、その教師は日教組傘下の教師であると、その「教師の倫理綱領」に“教師の使命は革命のための有能なる働き手となるように青少年を育成することにある”(昭和26年)と規定されているから、そのような使命を自覚した教師は、言論の自由のもとに、“権力”に反抗する潜在意識(エディプス・コンプレックス)を子どもの心に植えつけるために、(家庭の中では、親は権力の中心者であるから)“親”を批判し、“親”というものはどんなに悪いものであるかと、子供に感ぜしめるような教育をするのです。
例えば、『君たちは親に対して親孝行する義務も責任もないのである。なぜなら、君たちは親に生んでくれと頼んだわけではない。親は自分たちの快楽をむさぼるためにセックスをして、その結果君たちは生まれてきたのである。この生存競争の苦痛多き世界に生まれてきた君たちは、いわば被害者である。親は加害者である。だから親に孝養を尽くすどころか、賠償を要求すべきである。』
まだ完全な批判能力や思考能力のない幼い子供にこのように話せば、彼らは、「親を憎む心」「親に反抗する心」「権力者に抵抗する心」すなわちエディプス・コンプレックスが養われます。こんな教育を受けて学校をでた青年は、社会にでると、権力者または権力機構に容易に反抗して闘う「革命のための有能なる働き手」となることができるのです。「教育権は国民の手にあり、政府は教育の施設を作る権限しかない」というような判決も過去にはあり、そうした教師の「学問の自由」を盾にした教育に政府も国家も為す術もない現状です。もっとも現在の政府は、むしろこのような教育を奨励する側でしょう。
さて、このような教育を施された子供は、その精神にどんな反応が起こるかというと、いままで親を神聖な尊敬すべき人格だと信じて、自分の生まれた根拠または基盤の清らかさに誇りを持って安住していた「生の根拠又は基盤」が突然汚されて、どうしたらよいか途惑うより仕方がない状態に追いやられます。いままできれいな座布団だと思って座っていたのに、今気がついて見ると、その座布団には汚物がいっぱい付いているのです。そして自分の体のお尻も既に汚れている。学校の先生は、自分の“生”の座に汚物をかけたのだ、もうそんな学校へは行きたくない。学校へ行って何を学ぼうというのか。……こうして一般には原因不明とせられている中・高校生の登校拒否が発生するのです。
けがや病気、家庭の事情などなく、学校へ行く妨げになる理由がなにもないのに、学校へ行かない生徒が増えている。非行少年の学校嫌いとも違い、本人は学校へ『行きたい』『行かなければ』と考えているのに、朝起きると頭痛や下痢で、行けない状態になる。だが登校時刻が過ぎると体の具合はケロリとよくなり、日曜、祭日にはうそのように症状が現れない。
これは、その少年が尊敬していた父母を尊敬しないように、親の顔に泥を塗り、自分の“生”の基盤に汚物をふり撒くと同じような教育をした教師に対する少年の潜在意識の抵抗なのです。“そんな教師の顔は見たくない。そんな学校へ行って何を学ぶのか”といっても、家にいても、セックス行為で“汚れた自分”を生み出した父母をはじめ人生がなにもかも汚く見える。だから家庭にいても明るい気持ちになることができない。憂鬱な顔をして机の前に屈み込んで、学校へも行かず、ただ悩んでいるのです。
当たり前なら知能優秀で、学業成績も上位である生徒が、こんな少年になる原因は、人間の存在の根源を醜悪な唯物的なものであると教える教育にあるのです。そして、そのような教育を許している現行の「日本国憲法」にも責任があるのです。
戦後新憲法のもとで、日教組傘下の教師で、学級担任の教師が、人間の出生の原因を醜悪な性本能行為から起こったものであるというような、唯物的人間観を科学教育と称して行なったために、自己の存在を醜悪なものと見ることから来る自己嫌悪から、性格の消極的なものは憂鬱に室内に自己を閉じ込めて為すこともせずただ悩むのです。また積極的な性格のものは、“自己嫌悪”を外界に投影して、外界の一切のものを自暴自棄的に破壊したくなって、自分には何の憎しみも恨みもない大衆破壊を為すべくいろんな事件を起こしたりするのです。
戦後、神話を排斥し、科学的歴史でなければならないとて、国民にとって日本民族の“美しい夢”であった歴史上の美談や神話的建国の歴史を排斥して、「これが本当の現実だ」と言わんばかりに、日本歴史の中の恥部ばかりを探し出して、日本はこんな悪い国だった。日本は侵略国だった。日本の歴史は天皇が国民を搾取するための階級闘争の歴史だった。“奈良の大仏は天皇の権威を示さんがために、農民が猫の手も借りたいほどの多忙の時、農民の労働を搾取してあの巨大な仏像を建立したのだ。あの大仏の眼を見るがよい。その搾取を呪う怨めしさがあらわれているだろう”などという種類の、日本民族の美しい夢であり誇りであるものを傷つける歴史教育をして、これを科学的歴史だなどと教えている教師があるけれども、人間は「心を持つ生物」だから、「事実事実」と瓦礫の中を探し回るよりも、「心のなかに描かれた、日本神国の夢」や「人間はみな命(みこと)であるという夢」を温存することは、「もっと次元の高い」「人間ならではもつことが出来ない」尊い霊的資産を大切に守ることになることを知らねばなりません。
このような霊的資産を破壊して、青少年を瓦礫や泥沼の中に突き落として、これを科学的教育と言うが如きは、“精神の世界”、“心の世界”、“霊の世界”に、肉眼で見える物質的現実よりも、もっと高貴な霊的な資産があるということを知らない“次元の低い人間”のすることなのです。
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