保田與重郎の文芸論その1

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、保田與重郎の履歴を確認する。「ウィキペディア保田與重郎」、「保田與重郎略歴」 その他を参照する。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


【「日本の橋」】
 「日本の橋」より転載する。
 「思へば、日本の古社寺の建築が今日のことばで建築と呼ぶさへ、私は何かあはれまれるのである。日本の橋の自然と人工の関係を思ふとき、人工さへもほのかにし、努めて自然の相たらしめようとした、そのへだてにあつた果無い反省と徒労な自虐の淡いゆきずりの代りに、羅馬人の橋は遙かに雄大な人工のみに成立する精神である」。
 「東海道の田子浦の近くを汽車が通るとき、私は車窓から一つの小さい石の橋を見たことがある。橋柱には小さいアーチがいくつかあつた。勿論古いものである筈もなく、或ひは混凝土コンクリートづくりのやうにも思はれた。海岸に近く、狭い平地の中にあつて、その橋が小さいだけにはつきりとれた周囲に位置を占めてゐるさまが、眺めてゐて無性になつかしく思はれた。東海道を上下する度に、その暫くの時間に見える橋は数年来の楽しみとなつた。この数年の間、年毎に少くとも数回はここを往復して関西にゆき東京にきた。その度に思ひ出してゐつゝ、いつも見落すことの方が多い。めつたに人も通つてゐない。そのあたりの道さへ人の歩いてゐることなどつひに一度も見たことがない。いつか橋を考へてゐるなら、その瞬間にこんな橋を思ひ出す、それはまことに日本のどこにもある哀つぽい橋であつた」。

【「やぽん・まるち」】
 「やぽん・まるち」といふ、初期の頃に書かれた短いエッセイだ。この名エッセイは次のやうな一文で締めくゝられてゐる。
 「上野のあつけない陥落は昼頃だつた。あひ変らずに喪心して皷をうちつゞけてゐた、『まるち』の作者は、自分の周囲を殺到してゆく無数の人馬の声と足音を夢心地の中で感じた。しかし彼は夢中でなほも『やぽん・まるち』の曲を陰々と惻々と、街も山内も、すべてを覆ふ人馬の響や、鉄砲の音よりも強い音階で奏しつゞけてゐた──彼にとつて、それは薩摩側の勝ち矜つた鬨の声よりも高くたうたうと上野の山を流れてゆく様に思はれてゐた」。

【「美の擁護」】
 「美の擁護」より転載する(「保田與重郎 美の擁護 実業之日本社 昭和16年9月6日」)。
 「さうして日本の詩心の表現が、一等純粋の形で行つたテロリズムがどういふ美しい形であつたかは、維新前後の史実によつて知るがよい。日本の詩心は、かういふ点で大そう現れ方が異なつてゐる。あり方も異なつてゐる。我国の芸術は、征服とか威嚇をうちに入れないのである。芸術としては北京の天壇などまさに征服芸術の典型である。ドイツ的体系もさういふものの一つである。我が国では文明や芸能は、自分の優秀性や偉大さを見せかける必要がなかつたので示威芸術は、宮廷に於て不要であつた。たゞかういふありがたい自然な理念が、我国の将来のためにどういふ機能を発揮するだらうかといふことを、私は事変が始まつた頃から何回も筆にしてきたのである。私は国粋芸術を云う批評家であり、又国の文学者であるから、かういふ点で責任を感じてゐたのである。例へば今日の政治的の必要に軽率に迎合して、日本に伝はつてきた芸能の心もちをすつかり抹殺するやうなことがあつてはならないといふことが、昨今ではすでに文学者の杞憂とのみ思へないと私には考へられるのである。(108P)」。。

【「日本の伝統」】
 「日本の伝統1」を転載しておく(「日本の伝統1」、「日本の伝統2」、「保田與重郎氏の『日本の伝統』」)。 

 寛容と偏狭

 胡蘭成先生は、大東亜戦後の長い間、日本に亡命されていて、そのあいだの観察から、日本人は寛容だと申されました。これは『小学』の教えが行われていたからです。歴史的にみたこの日本人の寛容と、いまふつうに言っている国際観念の寛容とは違います。日本には、むかし、儒教や仏教が入って来ましたが、何でも、来たものを平気で取り容れるというのが日本人の考え方や態度で、偏狭な態度はとらなかった。仏教が入って来たら仏像をつくり寺を建てる。この平気でということは、非常に大事なことで、何ゆえ平気だったかということです。これは「模倣が得意だった」というような、言葉の言いかえでは、問題の解決となりません。
 支那人は、物事に対して大陸的で寛大であるといっていますが、文化や思想の歴史を見ますと、日本の方が、外来のものに対しては大様(おおよう)なのです。八世紀の初め、日本では天平時代、支那では唐の時代ですが、唐の都の長安には、ヨーロッパや西南アジアから、いろいろな文物が入っています。芸術品とか工芸品が来ています。それらが、唐から日本にも入って来ました。聖武天皇が御使用になったそれらの輸入品を、天皇崩御のあと光明皇后が、東大寺に奉納され、それが現在、正倉院にそっくりそのまま残り伝わっています。正倉院だけでなく、東大寺の倉庫にも若干残っています。法隆寺にも、いろいろなものが伝わり残っています。法隆寺の文物は、天平時代よりまだ古い聖徳太子の時代のものもあると思います。
 それらを見ますと、七、八世紀時代の西域からペルシャあたりの、一流品の優れた文物なのです。一流のものだけを日本にもって来たのか、また、日本人が選別して一流品のみしか受け容れなかったのか、この二つのうちのいずれかです。どちらにしても、一流品一番よいものを、当時の日本人が知っていた、手にしていたということ、これは間違いありません。
 千二百年前の品で、こわれやすく焼けやすいものが、地上の木造倉庫で保管され、いまに至るまでそっくり完全な姿で残っているのは、世界中で正倉院の他にありません。地中の廃墟や墓の中から出土したものは、ずいぶん古いものもありますが、正倉院のように、たくさんの貴重品が、収蔵された日のまま伝わった例はどこにもありません。千二百年の年月のうちには、戦いにあけくれた乱世もあったのですが、盗難強奪もなく、火災もなく、無事に伝わってきたのです。これは、日本の国柄(国体)というものを考える上で大事なことであります。正倉院は勅封といって、毎年天皇陛下の御使いが来て中をしらべ、また封をします。こうして千二百年へてきたのです。正倉院の所蔵品は、当時の日本人が、その頃の世界で一番すぐれたものを選別し、大事に残したことの一つの証拠です。現在の日本でも、外来物を喜んで積極的に取り容れるところは、むかしと同じですが、選別という点では天平時代の先祖と違い、駄目な点が多いのは恥ずかしいことであります。
 支那の知識階級は、思想の面では実に偏狭で、儒教が盛んな時代には、儒教以外のものは認めません。仏教も許容しない。唐の都の長安には、外国の人も品も沢山ありましたが、外来の思想は容れませんでした。ここは我国とちがうところです。このような支那の知識人の中でも、少しの例外があります。老子に心をよせた人々で、この人々を「黄老の仲間」といいます。この黄老の人達は、日本の芸術家や詩人に近い気風をもっていました。
 日本人は、ものを受け容れて自分を失うことがないのです。自分を失うひとは、外のものを受け容れることはできません。他を容れることのできる人は、自分を失わない人であります。近い時代の例では、明治維新の西郷隆盛です。隆盛は何でも受け容れた英雄ですが、自分を絶対失わない人でした。受け容れるというより、自然に化す。自分も風景も一つ、自分も他人も一つ、山も川も天地万物が一つであります。あの偉大な明治維新をつくった人々のうちで一番偉い西郷さんは、このような人でした。この人は「相安相忘」の見本のような大人物です。ものを取り容れるというのと、自然に化すというのとは、現象的に似ていますが、自然に化すのが、より高い境地といえます。
 小学(寺子屋で最初に習うもの)の教え「灑掃、応対、揖譲、進退」

 「応対」と「進退」は、人とつきあう時の直接の心得であります。行儀作法の教えです。私の尊敬している支那の学者の胡蘭成(こらんせい)先生が言われたのですが、「『相安相忘』ということばがある。人と人とが相対している時の、最高の状態はこれだ。」と。人と人とが、親しく話をしている。お互いに気を許している。もう互いに相手が他人だということを忘れる。つまり相手と自分とが一体となるのです。相手のために自分は尽くそうとか、相手が自分のために働いてくれるなどということを考えるのは、まだ「応対」の入口なのです。「相忘」の忘がむずかしい。自分は自分を忘れているけれども、自分は全部心を許しているけれども、相手はどうかなと思ったら駄目なのです。そのように思わないようになるのが修養です。この修養は非常にむずかしい。

 いまの世間では、ふつう相手を疑うことだけが、世渡りの秘訣となっています。日本のみではなく世界中がそうです。とくに政治の世界がひどい。国際政治などは互いに不信です。しかし、国民は互いに不信ではありません。民衆が相互に背信でしたら、町も村も成りたちませんし、会社も成立しません。

 民衆は、政治家やジャーナリスト、評論家の想像するより、健全で素朴で、そして仕事に真剣に、地についた生活をしているのです。政治家やジャーナリズムの煽動に躍っているのは、甘ったれで幼稚で、浮ついた生活をしている、ごく一部の政治的大衆です。歴史上どの時代にも、こういう政治的大衆がいて、デマゴーグのお先棒をかついで、はしゃぎ廻っていました。しかし、時がたつと、沫のように、デマゴーグもお先棒も消えてしまうのがその運命ですから、この連中の存在や言説は、あまり気にする必要はありません。「灑掃、応対、揖譲、進退」は『小学』として、これは子供のときに教わるのです。これを了えて『大学』となります。
 「灑掃」(さいそう、れいそう)「揖譲」(しゅうじょう)
 
 『小学』の教え「灑掃」と「揖譲」は、人とつきあう時の、こちらの形を教えたものです。共同生活、即ち村とか社会を成り立たせてゆく、初歩の心得を言っているのです。灑は水をそそいできれいにすること、掃ははらいきよめること。灑掃はサイソウと読みますが、私はサイソウという字音を好かないので、灑の字のサンズイを取り除いて麗掃(レイソウ)と読んでいます。これは磨いて美しくする、柱や板を空ふきするようなことであります。揖譲は礼を正しくする、謙虚ということです。
 日本人は、掃除ということを大事にしました。仕事をする時には、まず身の回りをきれいにしたものです。きれいにしますと、自然と気持ちがよくなり、自ずからよい仕事ができます。以前は、職人の家に弟子入りすると、一、二年は掃除のようなことばかりやらされたものです。心掛けのよい子供は、その間に親方の仕事ぶりや仕事に対する心構えなど根本のものを、知らず知らずのうちに身につけたものでした。
 仕事をしている人というのは、仕事を楽しんでいる人です。仕事と金もうけは別で、このけじめは大切です。家屋でも日用品でも、今のものは悪い、昔のものは強くて使いよく永持ちすると言われるのは、子や孫の代まで使えるようにと考えて作ったからです。そういうものを作り、そのものをそういうように使うことを「冥加がよい」と言い、使い捨てにするようなものを作り、そのように使うことを「勿体ない」と言ったのです。
 木製品ならば、木地の美しさをみがいて出す。もののうちらにある美しさを磨き出すというのが、日本の暮らし方でした。戦後アメリカ兵が来て、床柱にまでペンキを塗ることを教え、その頃の人たちの間で、何にでも科学塗料を塗るようになりましたが、最近ではだんだんその軽薄さがわかってきて、木地の美しさに心ひかれるようになってきました。「灑」は支那のことばでは、水を注いでふき掃除をすることですが、日本では木造の建物が主ですので、空ふきを繰り返し、木肌の奥底からにじみ出る光沢(つや)をよろこびます。この光沢は、ニスのような化学塗料のうわべの光沢とちがって、木のうちから出てくる、奥行きのある落着いた輝きで、人の心にしみじみとした豊かさを与えてくれます。
 神と人
 
 因果の関係について、東洋と西洋では、その考え方が非常に違うのです。それは、いまの西洋が歴史とその文明が浅いという点からもきているのです。東洋では、文明を持続するということ、中途で切れたと思うと、これを復活しその生命力を増大しよう、このように考えた。それを、例えば、絵画の例でいいますと、ヨーロッパの絵画は、だいたい現象的なもの写実的なものが多かった。手法にしても遠近法などといって、見た眼の正確さを求めるようなところに非常に興味をもったものでした。
 その点、東洋では、眼に見る現象は、仮象である、仮の姿だ、真実は別にあるというような考え方がつよい。そういう上で「気韻生動」といったことを大事にしました。「気」というのは空気の気、「韻」というのはものの音ですが、眼に見えるものは仮象で、その底の真実を描きたいと考えたのです。
 東洋の画人が追求した、見えない空気と光、聞こえない音とは、現実の形象や音韻の中にあるけだかく神々しいものであり、それらの本質をさぐって、それが生きて動いているように描こうとした。東洋のひとは、生命にその神秘なものをまず感じて、それに憧れたと言えます。絵画の上でのヨーロッパと東洋のちがいは、ごく僅かの、紙一重のようにも見えるのですが、この僅かとみえる相違が非常に大きなへだたりです。
 東洋では、因縁とか偶然という考え方を極めて尊びますが、我々祖先はまた、人との出会いを、大事に見るという上から、人と人とのつき合いに、つつしみの心をもちました。「初心を尊ぶという、ことばの意味には、こういうこともふくまれているわけです。自分たちが毎日のどかに暮らしている村、それは先祖が守り育ててきてくれたのだ、そしてみんなが、こうして生きてゆけるこの村を、さらに少しでもよくして、つぎの代へ伝えていこうという気持ちが、古い時代に於いては、人と人とのつき合いの下地となっていたのです。
 「灑掃、応対、揖譲、進退」この言葉は、儒教の方の教えで、むかしの寺子屋時代から、日本の子供が一番初めに教わったことです。これを『小学』の教えと言っていました。人と人との関係が一番大事であることを、その第一歩として、具体的実践のうえで教えたものです。昔は『小学』という言葉で、人生にとって一番大切なことを教えたのです。
 ヨーロッパでは、「罪の子」である人間が神に仕えること、即ち人間は神の僕だ、神の奴隷だと教えます。しかし昔の日本では、自分の中にも神さまがおられる。人にも神さまがおられる、人間に神と同じものをみるということを、子供の時から教えたのです。俗に幼児は神さまと同じだと言ってきたものです。ヨーロッパのように神に仕えるのではなく、人と人とが相会うよろこび、つき合う楽しさから始まるのです。その年の新米を神と一緒に飲食するのが、わが国の祭だったのです。新米で酒をかもし、飯にして、神と共に食事するわけです。
 親しみ

 「袖振れあうも他生の縁」と言いますが、何ごともなく、ゆき合いに袖を振れあったというだけで、ふっと人なつかしい気持ちになる。喜びとか親しみをふと感じ、何の意味もないが、すれ違った時の気持ちだけで、人生の生き甲斐を覚えるというような経験があるものです。それが旅をしているような時だと、その人のことを、暮らしや、身辺まで想像してゆくと、疲れが少しとれるようなこともある。この心持ちは、人が人である証拠のような、心のうちにうまれる親しみの情の最もなまなものです。

 この親しみは根源的なものです。根源的なものは説明できないもので、また説明のしようがないのですが、どうしてもそういうものを、納得できる形で説明してほしい――この気持はいつの時代にもあったのですが、こういう要望への説明が「他生の縁」などという概念をもってきたのです。説明できない根源のいのちの姿を、別の人工のことばの組み合わせで説明できると思うのは「さかしら心」です。本当の日本人の気持ちを押しつめてゆけば、そういう「さかしら心」はなくなる、これが日本の古典国学の学者の考え方だといえます。

 今の流行の剣豪小説などでは、武士が裾を振れあったといって、刀を抜き切りあう、あの考え方は、日本人の好きな思想ではありません。その思想は人を権力で支配する覇道だからです。袖振れあうも他生の縁などと言い、何のかかわりもない人とのすれ違いにさえ、言い知れぬ親しみを感じるのは、王道-天子の道です。誰でもこういう気持ちで今生(こんじょう)に生きることは出来るのです。

 いままで全然知らなかった者どうしが、偶然に会って、友達になったときに、その親しみの気分がたかぶり、その気持をどう表現したらよいか、もうわからない。万葉集時代の人が、こういう時に、これ以上はもう死ぬよりほかない、というような意味の歌をつくりました。親しき以上の自分の気持を表そうと思ったら、生きている状態では不可能なので、死ぬよりほかしようがないという気持ちは、今生の自分のいのちという形が、まだ形にならない、いのちがまだ混沌としていた状態を思っているように解釈できます。この日本人の思想は、ものの考え方としては、もっともな考え方でして、いまのヨーロッパの人達には、多分理解できない思想でありましょう。昔の支那の詩人たちにはわかりましょう。万葉の歌人は知っていましたし、平安朝の女の人たちも、このような歌をつくっています。親しみや喜び、そうした情操を、飾らずに、理屈をつけずに表現してきたのが、古事記や万葉集から一貫している日本の文学思想であります。

 外来思想の仏教の場合でも、こうした日本人の気持ちを取り容れました。取り容れないと民衆は信仰しません。法然上人や親鸞聖人の他力の教えには、日本人古来の気持ちや情操が取り容れられています。浄土宗とか浄土真宗とかいう、宗教教団の組織ができると、そうした肝心のものは、よほど薄れるか、なくなってしまうこともあります。
 民族の融合

 長安の都には、世界中の品物は集まってきましたが、思想という面については、外来の思想や宗教を容れませんでした。この昔の支那人の態度は、それ以後も続いています。支那の歴史では、大陸の各地から、中原に出てきた民族が全国を領し、諸多の民族を支配しました。この諸民族が一つの支那人として融和したことがないのです。支那全土にはいくつの民族があるのか、ずいぶん多くありますが、その数はわかりません。「中国」というのはいまの国号で、六十年前は「清国」といいました。「清国」の前は「明国」と国名が変わり、支配した民族も、清国は満州人、明国の前の「元国」は蒙古人というように、国名も民族もちがうので、これらの歴史をくるめて言う時は、私は「支那」というのです。国際的のチャイナという語に近い呼び方をしています。

 
日本は、遠く海を渡って、いくつかの民族が各方面から来ているはずなのですが、いつとはなしに全部融合して、もともと一民族であったと言ってもよいぐらいに融けあってしまっています。桃山時代や江戸時代に、明国や朝鮮から来た人々は、家柄として出身が知られていますが、それ以前はすっかり同化しています。平安時代のはじめの朝廷に仕えた朝鮮出身の貴族の数は、国史の記録に出ていますが、後には日本人として完全に同化しています。

 鎌倉時代、蒙古人に攻められて、漢人の宋国が滅んだとき、宋の人で日本に逃れてきて、ある者は日本の援助によって、もう一度、漢民族の帝国を復興させようとしました。当時、禅宗の坊さんなども多くやって来ています。彼らは日本の有力者に、寺を建ててもらい、そのうち日本の風土と人の中に入りこみ融けこんでしまいました。

 日本の国の生命は長くつづいているのに、いつもわかい国であるのは、このような、他を受け容れてついに同化してしまう能力があるということもひとつの原因です。我国の神話で、この国をつくられた神様は、この国を稚(わか)い国、小さい国につくるとおっしゃっている。小さい国は大きくなり、稚い国が成長する。初めから完成した大国をつくるというのではない。この国つくりの神話は、他民族にはない特異な神話です。

 同化ということは我国の特徴の一つで、東北地方に残った蝦夷は、平安時代の初め九世紀にはもう同化されています。それより百年以上前の奈良時代、関東地方に住んでいた百姓たちのことばや感情や、生活や神道の祭儀など、都のあった近畿地方の人々の習俗と変わらぬものです。万葉集の東歌をみるとこれがわかります。関東地方の百姓のおよめさんが、都の貴族の人々よりも、ユーモアのある歌をつくっている例もあります。ユーモアのある歌をつくれるというのは、作者が人生や生活に自信とゆとりがあるということなのです。東国の人は風雅(みやび)の上で、都人に劣らぬと、むかしの国学者は感嘆しています。こういう、文化の状態は実に不思議な事象ですが、はっきりした歴史的事実です。

 日本は、現在、一億一千万余の人口があり、世界の総人口の約四十分の一を占めていますが、その一億一千万の人口がひとつの民族で構成されているのは、他に類例がありません。イギリスは、日本と同じぐらいの広さの狭い国土ですが、民族的には融和していない。その信仰が一つでない。キリスト教の中のカトリックとプロテスタントに分かれて、その宗派の間の争いが四百年来つづいて現在も激しい闘争が行われています。信仰の違いが争いをおこし、それが長く激しくつづけられるということは、われわれ日本人は、歴史上で理解できないことですが、世界では、インドとパキスタンの争い、アラブとイスラエルもその例であるように、現実に存在しているのです。

 
日本でも、仏教は多くの宗派に分かれています。また、本願寺が東と西にわかれているように、同じ宗派の中でも分かれていますが、その分かれる根拠となったものが、異なる民俗信仰というようなものではない。また、その間に激しい争いも対立も起こらない。日本の場合は、神道というものが根底にあって、その上へ、様々のものが建つという形をとったのです。この神道は特別に規定する必要のない土台です。つまり、日本の固有の神道が、寛容のものだったのです。

 いまの日本は、国内が分かれて対立しているように言われていますが、それは一部のジャーナリストや政治的人々が、ことさらそう言っているようなところがありまして、実際、ふつうの国民どうしの間では、思想上での対立や、まして憎しみは殆どないというのが事実です。だいたい、政治的にものを考えるというようなことは、文明の観念からいうと、程度の低いものです。程度が低いという判断は、日本でも支那でも、最も教養の高い人々の持った考え方で、特に支那の一番精神的な教養階級の人々は、そうした考え方を声高く主張したものです。
 外来文化の摂取
 
 日本が明治維新を完成して近代国家を建設しようとしたとき、手はじめに、ヨーロッパやアメリカへ習いに行きました。有名なのは、明治4年の維新政府の中心であった岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らを欧米に派遣した使節団ですが、この人らの外、ずいぶん多くの政府要人や民間人が渡航しています。

 支那は、その当時、満洲民族の清朝が支配して帝国をつくっていました。そして、一八世紀の中頃の乾隆皇帝の時代が、支那の歴史のうちでも版図がひろく、また繁栄したときで、例えば国土は現在の支那より広い。モンゴールも台湾もその支配下に入り、ビルマ、タイ、インドシナ半島もその属国でした。

 しかし、一九世紀の中頃、日本の幕末の頃になりますと、欧米各国から戦争をしかけられて敗け、租借という形で領土をとられていきました。
 ところが、明治二七、八年の日清戦争に敗けてから、日本は早く西洋の制度文物を摂取したので、国土が小さくてもあれ迄に強くなったと気付き、清国の政府の留学生を募集するのですが、応募の学生が出てこないのです。二十何人ぐらいしか集まらない。
 しかし、日本では、維新直後に外国に勉強に行っている者が、何百人とあった。なかには女の人も行っている。政府で特別に奨励したわけでもない。それでも行ったのです。西洋に勉強にゆくということは、幕末の頃からその傾向がありました。外国への渡航禁止の厳しい法律があって、それを犯すと死罪にされることになっていたのですが、渡航したのです。維新政府をつくった、いわゆる勤王討幕の人のなかには、幕末のころに、上海に渡ったり、欧米にゆき、その文明状態や、近代国家の仕組みを、学んできた人も多かったのです。外国船を打ち払うと言いながら、幕府を倒す武器を入手するために、外国と貿易した武士もいました。

 維新政府ができると、それまで、外国勢の打ち払いを唱えていた人々が、率先して開国に転じ、文明開化政策ををかかげ、富国強兵、殖産興業を国是として、欧米諸国から国を守り、支那やアジア諸国の二の舞となることを防ごうとしたのです。そして、明治五年には、義務教育の学制をしいて、学校制度をつくるのです。
 孫文と日本人
 支那の清朝を倒して、中華民国をつくったのが、孫文という人です。この孫文さんの革命を、多くの日本人が助けました。大正一三年、孫文さんが日本にやって来、それが最後の日本訪問となったのですが、この時、神戸へ立ちより、山田純三郎さんという人の家を訪ねました。純三郎さんの兄さんの山田良成さんは、明治二三年、孫文が初めて革命の兵を挙げて、清朝の軍と戦って敗れた恵州事件に参加して戦死しました。革命軍の死者は全部で四名で、山田さんはその一人、日本人として支那革命犠牲者の最初の人となられました。
 純三郎さんは、孫文が、多くの日本人同志の中でも、おおいに信頼していた一人でありました。孫文がこの純三郎さんの子供の名付け親となって「華生」と命名しました。この子は支那で生まれたのです。「華生は大きくなっただろうな、一ぺん見たいな」と孫文さんが言われました。孫文は、もう少し人情味があってもよいと思うほど、私的な話はせぬ人で、全て公的なことばかりで暮らしている人だった。いままで一度も、そんな子供のことを言わぬ人だったのに、と山田さんは、その時、思ったそうです。あとから考えると、この折の訪日が最後で、もう華生とも会えないという予感があったのではないかと、山田さんは述懐していられます。
 そこで、山田さんは、「子供は学校へ入ってから一度も休んだことがないので、華生を休ませることができない」と答えられました。これを聞いた孫文は、感動します。うしろにいる奥さんをふり返って、「おい、慶齢、これが日本の今日ある故因だ。これを学ばねばいかぬ」日本人は学校へ行き、学問をすることを非常に大事にする。日本が短い年月の間に近代国家や文明を築きあげたもとになったのは、これなのだ。支那もこのもとのものを学ばねばならぬと言ったのです。

 私は、華生さんを孫文さんに会わしておいた方がよかったのではないかとも考えますが、山田さんはこう考えたのです。子供も学校を休みたくなかったのかもしれません。孫文さんは、支那だけの偉人ではなく、二十世紀の世界を見渡しても、最も立派な偉人の一人で、そう度々出現するような人ではありません。したがって、こういう人と会える機会は、ふつう、人の一生を通じても、殆どないと言えます。山田さんも立派な人です。偉い人や立派な人と出会ったことで、その人が立派な人になるとは言えませんが、立派になった人は必ず、立派な人や偉い人に出会い、その感化を受けています。明治大正時代の学校の義務教育は、いまとちがって自覚のある先生が多く、従って、国民も尊敬していました。社会に出て成長した人で、小学校の先生を一番尊敬しているという人は、大正時代から昭和の戦前には少なくありませんでした。
 先祖の恩恵
 
 日本人は、ずっと古い昔から、未知のもの珍しいものを取り容れることが好きだったのですが、しかし、歴史的に見ますと、それがために自分自身を失ったということはないのです。ある時期にゆきすぎると、それをもとにもどすような力を、民族としてもっていたのです。維新初期の人の中にも、西洋文化を取り容れても、日本本来のものを失ってはいかぬと警告しています。また、ヨーロッパ文化に日本が侵害されて、日本人であることを忘れてしまった世相を嘆いて、過激な行動をした人もありましたが、あとになってみると本筋を失っていなかった。
 日本人全体として、生活にも思想にも、現実の変化に適応して、しかも本来のものを喪失しないという根柢のものがあったのです。日本人の生命が幾千年もつづき、民族として衰えず、民族の気分として、いつも若々しかったという事実から考えますと、自己の根本を逞しく育てるために、外来のものをどしどし栄養として摂取し同化するという素質があったのです。無意識のうちに、そういう素質が働くのです。これは、そういう素質に生んでくれた先祖の恩恵です。
 本来のものがしっかりしていれば、外のものは、できる限り多く、取り容れる方がよい。健康な体の人は、好き嫌いなくいろいろの食物を多くる。それがまた健康の元になるのと同じです。それで、本来のものがしっかりしていないところでは、外のものを取り容れることも出来ないとも言えます。
 国のなかにも、本来のものをしっかり守っている人と、外のものをどんどん取り容れる人との両方が存在してよいわけです。また、人の一生のうちでも、どちらかが主となる時期があるものです。だいたい、老人は前者の人が多く、若者は後者の範囲に入る人が多いのが普通です。
 私は老人の仲間ですから、年寄りのものの考え方をしたいのです。年ををとっても若い者の考え方をしなければいかぬと言いますが、この意見は私はとりません。老人は老人の考え方をしてくれぬと、歴史は続きませんし、民族は進長しません。若い人の真似をするのは簡単ですが、年寄りの真似をするのはたいへんむずかしい。むかしの年寄り、私たちの祖父の年寄りの真似をしたいと思うのですが、非常にむずかしいのです。今は年齢を重ねても、立派な年寄りになれない。特に都会地ではそうです。以前は見事な年寄りが沢山いました。ふんだんに味のある言葉がきかれたものです。
  山科の農夫 

 二百年ほど前に出た「近世畸人伝」伴蒿蹊という人が書いた本があります。その中に、山科の百性の話が出ています。京都の山科、昔の東海道ですが、その街道のそばの田で、親子が田仕事をしていた。東海道ですから、旅人がひんぱんに往来します。その旅人の一人が、荷物を落として行ったのです。息子がそれに気付いて、旅人を追っかけ、荷物を渡してやった。この荷物には大金が入っていたのです。ふつうには、息子の善行とするところです。ところが、父親は息子を叱責しました。まず第一に、一生懸命に農事をしていたら、旅人が通ろうと、荷物を落とそうと目に入らないはずだ。落としたものが目に入ったというのは、仕事を怠けていた証拠である、というのが第一の理由です。第二には、人が荷物を落とした、それを拾うという気が起こるのがいけない。落としたから拾ってやろうというのは、そのものに関心があるからである。関心があるということは、欲心があるからで、いけないというのです。

 この議論は、他人がどうあろうと、放っておけというのではありません。第二の言い分のほうが大切です。これは儒者の政治観の問題なのです。まず、仕事を怠けるということ、仕事になり切っていたら、他のことに目も心もゆかぬというのです。次に、何となくほしいという気持ちがあるから、拾って追いかけたりする。これは仕事を怠けることよりも悪い。世の中が乱れる根本の原因は、こういう心の隙から始まるものだと言うのです。

 この百生は変人にちがいないが、言っている理屈は深い学問で、それは儒者の考え方の一つの根柢にあったものを、百姓が言ったのです。当時京都では、「心学」という、町の学問がはやっていた。石田梅巌というような人がいて、神道と儒教と仏教の教えを、都合よくとりまぜて、人としてふみ行うべき道を、平俗なことばで語って、町家の人に教えていたのです。この山科の一人の百性の話から、その頃の上方の一般の教養状態を考えることもできます。

 支那の上古、聖人が国を治められた時は、道にものが落ちていても、拾うものがなかった。そんな状態が政治の理想であると儒者は言ってきたのです。この山科の農夫の行いについて、京都の儒者の間でした議論が畸人伝にのっています。息子がなしたところは、落とし主にとっては、親切で大へん有り難いことではないか、というようなわけで、父親の叱責の是非については、結論がでなかったようすが書いてあります。現在の我々にもこの結論は、現実問題としてはむずかしいことです。

 芭蕉の嵯峨日記

 芭蕉は落柿舎に滞在した元禄四年四月十八日から五月四日までの日記「嵯峨日記」を書いています。この「嵯峨日記」は、芭蕉が書いた散文の中で最高のものです。有名な「奥の細道」とか「甲子吟行」など沢山ありますが、それらには、文章を作られたところがあります。文章の飾りがあっても、また、あることが、非常によいのですが、「嵯峨日記」には、文を作る意気込みのようなものが全然ないのです。それでいて、大へん調子の高いもので、感情の激したところもあります。また、哀切な情緒が漂っています。芭蕉の文章は無双のものです。心のままが書かれていると評してもよいと思います。すぐれた小説として読むこともできます。私は芭蕉翁の文章の中で最も尊重愛惜しています。日本の文学の歴史の中でも、最もすぐれた大切なものであります。


 この「嵯峨日記」は、今日一般に使われている四百字詰の原稿用紙にして、十枚たらずです。古来、文章上の古今の名作といわれるもので、短い文章はいくらでもあります。支那でも、唐や宋の一流の文人や詩人の書いた文章で、千古の名文として伝えられたものも、みな実に短い、原稿用紙にして何枚にもならぬようなものです。

 短い文章の中に深い意味を表現することが、日本文学でした。いまの小説や評論は、長さで競争しています。芭蕉が一言一句で言ったことで、いくら長く書いても、表現できないことがあります。万葉集の歌を十倍の長さで説明しても、その心を表しきれません。歌そのものを読むことが大事で、いくら万葉集についての知識を知っても、負担になるというだけです。万葉集の歌を心の糧とせねば何にもならないのです。


 今日では、万葉集とは、いつごろできて、だれが作ったか、これこれの説がある。また注釈には、これこれがある。この歌の解釈や鑑賞のし方はこうで、作者はこういう人々である……などといったことを教える。これは試験ということがあることもその理由ですが、そんなことを知っているということは、教養でも文化でもありません。万葉の心を知っている人が、教養のある人です。よい先生に会えば、そういう事を見定めてくれるのです。今日は、味わうこと学ぶことを教えないで、知識だけを、詰込み教育しています。それは試験制度が悪いのみでなく、試験を実施する人々がより悪いからです。

 また、小説は読まず、小説家の研究をしているのが、今日の大学などの風潮です。しかし、読んで楽しくない小説を、無理に読むのも意味のないことです。これからの若い人に勧めるものでは、佐藤春夫先生の若い時代の短い小説にはよいものがあります。短篇のほうが読むのに楽です。時間に暇があって退屈な時に、長いものを読めばよいのです。外国の近代文学の名作古典というものは、みんな一九世紀の作家で、十人ぐらいしかありません。若い学生の時に読んでおくべきです。そういう小説を若い時に読んでおくと、一生の得となります。
 東大寺大仏再建

 いま、奈良で大仏殿の瓦のふき替えをしています。(安田氏は昭和56年に逝去されているので、それ以前の話です。)奈良の大仏さんは、天平時代に聖武天皇がつくられてから、戦火で二度焼けました。一度は平重衡(たいらのしげひら)が焼きましたが、大仏さんは御首が落ち、胴から下はところどころ焼け損じて残りました。それで、山田道安という大和の大名が、この落ちた御首をつないだのです。山田道安は絵画の方では、戦国時代の終わり頃の有力な人です。御首をつなぐというにしても、どんな技術だったか、たいへんなことだったでしょう。そのあと、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も修復するという気持ちはあったようですが、果しませんでした。秀吉のとき、弟の大和大納言豊臣秀長が奉行し、そのときに鋳造した左手の腕部に銘が残っているそうです。

 秀長はすぐれた人で、学問にも通じ、日本文化の上でも大切な事業を行い、人柄も温和で人に慕われていたといいますが、不幸にして、秀吉よりも七年前に亡くなりました。それにしても、豊臣の兄弟が、あの時代の田舎の百姓出身で、高い文化感覚と教養の素地を持っていたのが不思議です。秀吉は、天皇様のご落胤だという流言は、秀吉の生存中からあって、秀吉はそれを否定も肯定もしなかったというのですが、秀長などの人柄や教養が品よく高尚な事業をしたので、こんな話を聞いて、ひょっとしたらと思った人もあるのでしょう。

 山田道安が大仏さまの御首をつないでから百年あまりの間は、大仏殿の建物はなく露座のままでした。徳川の五代将軍の頃に、東大寺の公慶(こうけい)上人という大へんな坊さんがいて、大仏さまの完全な修復と大仏殿の再建を発願して、この二つを完成するのです。まず、大仏さまの修復には五年ほどかかり、元禄五年三月八日から四月八日まで、開眼供養を行いました。道安のした修理法を手本にして、鋳造しなおしたといいます。江戸幕府の援助はなく、将軍の綱吉やその母の桂昌院は個人的な寄進をしています。この大仏開眼のときに、公慶上人の発行された、大きい木版一枚刷の絵図の題には、「東大寺大仏殿開眼供養之図」とあります。大仏殿開眼とあります。仮殿を建てたのです。

 いまの大仏殿の建物は、大仏開眼から一七年のちの宝永六年(1709年)に完成しました。大仏鋳造の初めからすると二十二年かかったことになります。公慶上人は永年の労苦のせいか、完成の四年前に亡くなり、そのあと上人の門人らが、その志をつぎました。

 大仏殿再建のときは、幕府は十万両助成し、諸大名にも寄進を命じました。記録によりますと、大仏殿再建の費用は十二万千余両といわれていますが、米の値段で換算すると、いまの金で五、六十億円になりましょうか、この外に膨大な寄進があったのです。柱が六十本、用材は二万六千余本、瓦は一三万三千余枚、釘・金輪類は二八万七千余本、人足・大工等は延四六万余人といいます。これら用材用品の大部分は全国の人々が寄進したのです。難波(大阪)の港に着く船の積荷の中には、東大寺行きという荷札のついた荷物がのっている。だれが出したのかわからないが、船頭さんが預かり、船賃は無料です。荷揚げすると、誰彼となくその荷物を運ぶ。奈良へ奈良へと荷物は移動する。

 道行く人は、自分自身の力に応じて持てばよい。頼む人も頼まれる人もありません。重い物、軽い物。力の弱い者は、小さい荷物を一丁(百メートル)を運んでもよい。だいたいの力の限り運ぶものです。力つきたらそこへおいておけばよいのです。どこの誰が寄進したのか、いつ誰が運んだのかもわからない。それでよい。子供なんかも喜んで手に手に運んだでしょう。それで、生駒の一三峠から南の山道、河内から大和へ入る道は、東大寺行きの荷物で、つながりうずまったといいます。

 近山から大きい木材を出すような時は、村から村へわたしました。村中で奉仕するのです。世界一の奈良の大仏と大仏殿ができたのには、このような無数の人々の協力があったのです。こうした事情は、千二百年前の天平の建立のときも、八百年前の再建の時も、この元禄の三度目の建立のときと、同じことがあったと思われます。人々は大仏さんのできることを喜んで、それに奉仕したのです。大きい建造物を見て、これは、強大な権力者が、力と富と民衆を駆使して建てた、使われた人民は憎しみさえいだいた、というような考え方は、全てが正しい見方ではありません。

 この頃の高等学校や中学校の先生の中には、大仏殿へ修学旅行の生徒をつれてきて、この東大寺は奴隷経済の産物であると教えています。いまの大仏殿が元禄の頃、公慶上人が建てたいきさつも知らないのです。また、我国の天平時代は奴隷制度の時代ではありません。奴隷制度は、日本にも支那にもありません。ここが東洋と西洋の歴史の違うところの一つです。

 我国には、ギリシャやローマ時代の奴隷や、近世ヨーロッパやアメリカで売買したアフリカ奴隷に類した物は存在しません。奴隷が経済の基礎をなしたことはないのです。奈良朝時代の日本経済のもとをなしたのは、大御宝という「公民」で、これは米をつくる農民です。衣食住は自力で作るのが公民の資格です。また、これが自主独立の思想の土台です。この自分で作る、とくに米を自分で作り、酒を自身でかもすという生活の基本は、貴族も皇族も公民と殆ど同じでした。現在でも、いまの天皇陛下は、宮城の中の田で、御自身で米を作られます。御自身で作られた米で新嘗祭をなされるのです。この御自身で米を作られるということは、わが国の建国の大本の、最も大事な御仕事で、このことは、高天原からこの国土へ降ってこられる時、天上の神々から依頼されてこられたのです。わが国の神話ではそうなっているのです。

 だから、昔の人は、米作りは神さまの仕事をしているのだ、神と人とが助けあってする仕事だ、というように考えていました。この米を作る者をオオミタカラと呼び、その他の職業のものを、当時は賤民と言いました。これは、人の尊卑の分け方ではなく、今なら統計上の用語だったのです。

 我々の学校の頃の歴史では、公慶上人のことや、東大寺行きと荷札をつけた荷物を道においておくと、次々にそれが奈良に運ばれ、大仏殿が建ったのだというようなことを教えるのが歴史でした。自分の村に入って来た寺行きの木は、早く次の村へ送り出さんといかん、しかし、木が大きすぎて、手に負えん、村人が困り切っているところへ、隣り村から何十頭の牛が手助けにやって来て、村中がどっと歓声で湧いた。

 このようなことを教えた歴史教育は、道徳教育であり、公民教育でもあります。分割せず、一つの物語で教えたのです。この教え方は、非常に古くからの我国の伝統の教え方で、きく人の想像力や感情を誘発しようとするものです。これは一種の創造教育です。創造教育は、生徒の力や方法をひき出すもので、結論や方法を押しつけるものではありません。

 権力や経済の移り変わりだけを、いま多くの人々は、歴史と思っていますが、私は、こういう歴史には興味もなく関心もありません。大仏殿の元禄再建の話の中に、山科の老農夫の思想と、関連するものがあるということを知ってもらいたかったのであります。
 沈黙と弁説

 昔の日本人は、人生五十年と言いました。織田信長は、桶狭間に出陣するときに、『人生わずか五十年、下天のうちに比ぶれば、夢まぼろしの如くなり』と謡って、大嵐の中を疾風のように馬を飛ばした、という有名な逸話があります。この時代の武士は、その思想や人生観からいいますと、立派な武士道といった思想を、まだもっていません。百年くらいあとの大石良雄の時代になりますと、山鹿素行というような偉い先生の学問がおこなわれたりして、その考え方や心がまえに典型的な武士道が現れます。戦国時代の武士は、だいたい、思想というようなものはなにもない。ところが、何かしら別の、感情のなまのもの、無垢なものをもっています。日本人としての気概気風です。それは、どうしてできたかといいますと、日本の風景、山河自然がつくったものだと思います。


 信長は乱暴な人ですが、この出陣のときは、まことに颯爽としています。外国の武将はこうした時、部下の軍隊に演説をしています。ギリシャ、ローマの英雄から十九世紀のナポレオンまで、英雄の演説集が残っています。日本の英雄は演説も雄弁もありません。日本の英雄はだれも演説しません。古の日本武尊が演説された記述はなく、大事なときに傑作の歌は残しておられます。木曽義仲も源義経も豊臣秀吉も演説しません。

 西郷隆盛が明治十年、西南の役に鹿児島を出発するときに、出陣の演説をしていません。西南十万の若者は、西郷さんという英雄を慕って集まってくるのです。何も知らないものを徴発して集めてきたのであったら、演説をして出兵の主旨などを知らしめ、また元気づけをする必要がありますが、自分から進んで生命を捨てに来た人達だから、今さら何を言う必要もなかったのでしょう。近い時代のどこをみても、こんな英雄は見あたりません。わが国は、ひとつの民族の集まりですので、互いの民俗、習慣、思想などはほとんど同じですから、相互の無言の信頼にたよって、言葉を費やさねば意志が疎通しない、というようなことにこだわらなかったようです。

 戦後、自分の意見を口にしないのは、馬鹿か腹黒い見本のように言われ、かん高い声をはり上げてどなりたてる者が民主主義者でかしこい人だと言います。外国人がそう思うのは、国を構成する民族の違いや、日本の歴史を知らない、あさはかな考えです。聖徳太子が演説をされたということは日本書紀にはありません。太子の時代は、国際情勢から言っても、国内状態から言っても、現在よりも難儀な時代です。太子の雄弁の記録はありませんが、一時に十人の言う事を聞かれたという逸話はあります。太子の時代につづく大化の改新まえの時代も、日本の国がどうなるかという点で、人間の知恵では先の見とおせないときですが、この時代を打開された中大兄皇子にしても、また藤原鎌足のような人でも演説をしていません。そのとき、国の大方針をきめる朝廷の会議が3日も続けて開かれています。この会議で何をどう議論したかというような記事は書紀には一行もありません。

 蘇我の山田石川麻呂の論だけが誌されています。その時のただ一つの真理を言ったのです。この人は大化の改新第一の人物でした。会議というようなものは、政治家の会議であろうと、役人の会議であろうと、先生の職員会議であろうと、あとから考えると、時間と労力のむだづかいで、ろくな議論などない。ですから、記録に残しても何の益もないと考えたのでしょう。石川麻呂は、「日本の国は、昔から、神の教えのままを、しきたりにやってきた国だから、昔の式を信じましょう。」と言い、その通り決まったと、記録されています。

【「国語の普及運動について」】
 「国語の普及運動について」を転載する。
 「新しい日本の勢力と一帯となる範囲の民衆に対して、国語を普及させるために、話しことばという考え方が、実行されるらしくなった。はなしことばの習得によって、彼らは日常の用を足すであろう。ある程度生活の安定をもち又文明生活の向上にも資しうると思う。しかし彼らの学んだことばが、それ以上の精神へのみちを完全に閉ざされているということは、私には一つの悲惨と思われる。彼らの学んだ文章は、日本語の範囲で知識人の文章でなく、官吏の文章でない。又神のことばでもない。つまり日本の文章の中枢と隔離された特殊なものである。そのことばは日本の文化をひらく鍵とならない。これが戦後の国語改革に利用されたのではないだろうか? 愕然とする」。

 「祖國」昭和二十五年十月號/『保田與重郎全集第二十七卷』(講談社)の「新假名遣を停止せよ」を転載しておく(「祖國正論」より)。

 毎日新聞社は谷崎潤一郎の小説をのせる時新假名遣を用ひず、本當の假名遣に從つた。これは作者の頑強強情な文人的な良心に壓倒されたものであるが、この事實は新假名遣制定以後、これを守る左翼的壓力を無視した最初の行爲であつて、これにひきつゞいて、毎日新聞は五月二日反共の態度を闡明にし、朝日新聞社と對立した。しかし六月朝鮮事變にひきつゞく國内外情勢に影響され、過半の新聞は、毎日(?れんだいこ注)新聞に追從する結果となつた。

 新假名遣は美しくないとか、不用意だとかいふよりも、第一の缺點は正確でないのである。言葉の正確さと、美しさと、ニユーアンスを尊ぶ文學者は、一人としてこれを使用しないことからみてもすぐわかる。

 毎日新聞社が谷崎の小説をけいさいするのに、新聞社の申合せを破つてまで作者の氣持を迎へたのは英斷である。齋藤茂吉などが、歌を朝日新聞にのせてゐるのをみるに、新假名遣になつてゐる。これなどは茂吉ほどの人物だから、ことさらに間違へた文法にしてまで新聞如きものにのせる必要もないと思ふ。のせない方がよいと思ふ。彼ほどの文人の場合、それはまことにつまらぬことだ。たかが一新聞にのせるのせないといふだけのことだからだ。

 毎日新聞の論説記者の中には、國語に關心をもつてゐる者がゐる。彼は共産黨議員の國會での下卑な言動をとがめたり、放送局の國語に對する不謹愼さを責めたり、新聞の用語の卑俗化を批判してゐる。一々論旨正確で、感覺もよい。その主張を進めて、彼は當然、新假名遣を拒否すべきである。

 新假名遣を終戰後の左翼横行時代に、左翼勢力と結託して、強行して了つた文部省吏僚は、かつて戰時中にも、功利主義をふりかざして軍部革新派と結託し、この新假名遣を強行しようとした。當時これをつぶしたのは民間勢力であつたが、敗戰の混亂時に、彼らは左翼と結託してつひに宿望を達したのである。

 新假名遣を使用して都合よいのは、新聞など活字を扱ふところ位である。これによつて起る現象は、まづ國語の文法の一貫した正確さが失はれる。文法が正しくなければ、文意は通じない。中頃戰國の世に入つて、國語文法の亂れたのを難波の契冲阿闍梨がまづ出で、相つぐ國學者の努力によつて、漸く文法古にかへり、國語は整然と體系づけられたのである。この文法に從つて、我々は千年前の人のかいたものを正しくよみ、古人が如何に正確に國語をしるしたかを知つたのである。この戰國亂世の時代の隱遁詩人――連歌俳諧師といはれる人々は、この亂世に國語の紊るゝをうれひ、「俳諧の益は俗語を正すにあり」との信條をたて、俗耳に入り易い俳諧を以て諸國を廻遊し、正確な國語を民衆に教へんとした。これが芭蕉時代まで、すべての俳諧師の意識にあつた彼らの生成の信條である。

 新假名遣を子供に教へることによつて、古い古典は申すに及ばず、漱石鴎外といつた最近の文人らの作品さへ、すでによみ難い親しみ難いといふ結果をひき起す事實が、すでにいくらか現れてゐる。

 戰時中、當時六十前後の老軍人の吾人に述懷したところであるが、「我々は少年時代にボー引きの所謂新假名遣を學んだために、年長じて後も少し表現内容の複雜な本だとよみ難い感がして、結果さういふ面倒なものをよまず易きにつく傾向が多い。つまり外國語は職業上修得してゐるが、肝心の日本の本だと、尊徳や松陰といつても、讀めはせん。だから講談や捕物帳を愛讀してをる。大體にいうてこの年配のものは、和漢の古典をよんでゐないから、知能上でどこか缺けたところがあつて、それがこの大事な時に世の中を動かしてゆくのだから、心配だ」といふやうなことを云うた。新假名遣は末端でない。一般的な勉學心を下降させた時代の象徴である。この老軍人の語つた、そのときの新假名遣は間もなく止まつたのである。

 今度の新假名遣も、かういふ現象を起すにちがひないと思ふ。子供には氣の毒だから、本當の假名遣といふものを、同時に教へておくやうな細心さと愛情が、家庭になければならない。家庭にはその心はあるが、時間の餘裕はなく、子供の能力も過剩負擔に耐へない。

 新假名遣の強行によつて起ることは、日本の次代は、ある程度廣範圍に、祖先と切りはなされるのである。過去の文物からひき離して左翼的出版物だけをよめるといふやうにしようとしてゐたわけである。これは誰が考へ、どういふ連中が結託したか誰でも知つてゐることだ。

 小泉信三は八月十日毎日新聞紙上で「新假名遣を一旦元に歸すべし」と主張してゐる。新假名遣を施行するについて、學士や文人の十分の論議をまたず、一部文部省關係の者らが行つた、專斷的行爲を憤慨してゐるのである。これはその強行當時に諸々で放たれた聲であるが、當時は左翼の言論的暴力をたのみとして、文部省はこれを默殺したのである。(小泉の毎日新聞にのせたこの文章は勿論正しい假名遣に則つて書かれてゐる。)

 新假名遣を一應廢止せよといふことは、時宜に適した提唱であつて、吾人はこれをあく迄支持するものである。

 言葉の紊れることが、亂世の始りであると、かの北畠親房も論破してゐる。新假名遣は一部文部官僚や文士では山本有三などが結託し、學者文人間の一般的論議をへずに專斷強行した左翼的謀略である。これは今さらいきさつを云ふ迄もなくそれをした連中が最もよく知つてゐることである。

 小泉はその文章の中で、露伴が蝸牛庵日記明治四十四年二月二十六日の條下にしるした一文をひいてゐる。「南北朝論一世轟々。……當時學者皆定案(定説)を飜すを以て功名のごとく心得、終に起らずもがなの論をひき起すに至れり。喜田氏(貞吉、歴史家)勝つことを好むに近き性質なれども、さりとて暴戻なんどいふ人柄にあらず、其説蓋し據るところあらん、たゞ先づ之を學界の問題とせずして、教科書に飜案(定説をくつがへすの義)の言を載せたるはよろしからず、教科書は世の定案に從ひてものすべし。異義あるべきやうのことは先づ學界に相爭ひて黒白を決し、全勝を得て後、定説と認めらるゝに至りて、はじめて之を兒童に課すべし」

 學者の學説は自由であり、私案も自由であるが、「異義あるべきやうのことは先づ學界に相爭ひて黒白を決し、全勝を得て後、定説と認めらるゝに至りて、はじめて之を兒童に課すべし」といふのは、鐵則である。これに則せぬものは――新假名遣制定の如く――專斷暴擧である。小泉はそれをフアツシヨだと云うてゐる。

 露伴は生前新假名遣強行のことをきゝ、それに對して何らの意見も述べなかつたが、たゞ一言、「この第二の東條め」と呟いたと傳へられてゐる。


 「祖國」昭和二十五年十二月號/『保田與重郎全集第二十七卷』(講談社)の「新假名遣は自主的に停止すべし」を転載しておく。

 戰後の文部省は、左翼の暴力の示威によつて、民間學者を入れると稱して歴史科を「唯物史觀」にゆだね、一方新假名遣を採用した。さうしてこのゆき方を「民主主義」と稱した。しかし民主主義の本義は、それの生れる生活機構をつくり、その共同利益を享ける住民の合議によつて、ことを自主的に解決するにある。その間一國一民族の傳統と習俗とモラルはこれを一片の政治論や政策論によつて左右すべきものでない。それが權力「獨裁」と異る「民主主義」の立まへだ。

 新假名遣の缺點は、第一に正確でないことである。第二に古典と傳統のモラルにつながらないことである。第三に美しくないことである。この故に正統的に日本文學に志をむけてきた文學者は、誰一人としてこれを採用してゐない。谷崎潤一郎の如きはこれを採用する新聞紙に執筆を拒絶してゐる。

 文學者のみならず、多くの文學と美に關心をもつ學者も亦、新假名遣を拒否してゐる。日本民族が永續する限り、必ず正統假名遣は永續するのである。これは日本を一貫する言葉の天造のおきてだからである。だから國語を學的に考へる立場に於ては、新假名遣がなくなることは、太陽を見る如き事實である。新假名遣の實施は、「政治的」なものである。

 我々は誤つた文法で、日本民族の永遠に傳へる詩文學をしるすことはしない。後代の校訂者を患すことは、彼らのために勞力の無駄だからである。

 この国字國語問題は、外國から來た多くの學者文人、それに教育技術者も問題にしたところである。しかしその中で我々が尊重するのは、學者文人の説である。教育技術者は、どこの國でも同じであつて、彼らは學者文人の範圍にとゞかぬ政治的存在である。

 しかし國語國字問題といつた、一民族の永い久しい傳統と、習俗と、モラルに即したものは、政治政策的に決定すべきものでない。さういふ民主主義は世界中にないのである。来れは政治問題でなく、學問上の檢討を經ねばならぬ問題である。(ユネスコもさう考へてゐる)

 英國からきたブランデンといふ詩人と、フランスから來たグルツセといふ美術考古學者は、國語を簡單にしようとする考へ方は惡い考へ方だと批判してゐる。この二人はこの五年間にきた外國人の中で、學者文人といへる二人きりの人である。

 グルツセはさういふ問題は日本人がきめたらよい問題だと云つてゐる。その説に對し、ブランデンは、「それにちがひないが、美しいものがなくなつてゆくのを、じつと見てゐるといふことは惡いことだ」と、積極的な意見をのべてゐる。(これは米國人グレン・シヨーが示唆して斷言させたのである。)ブランデンは、保守的で謙虚な詩人と思はれる。

 今日の世界の有識者の關心は、新しいものを作ることより、すぐれた古いものが失しなはれたり、破壞されてゆくことを防衞する方に多くむいてゐる。新しい建設といふ掛聲は破壞と喪失しか結果しなかつた。これは二十世紀の文明の事實である。日本の五年間を見れば、その標本のやうなものだ。

 三千年の歴史をたゞ一みちに「くに」をなしてくらしてきた民族の生活とモラルは、八百年、六百年の歴史しかもたぬものに容易に理解できない。まして三百年二百年の國家の歴史しかもたぬ市民に理解できる筈がない。

 これは觀察者が善意であるといふことと無關係である。むしろ善意が負擔となる。古い老大國の習俗の禮儀として、相手の善意に對しては極めて弱いといふ性格をもつてゐるからである。

 新假名遣は他人の忠告をまたず、自主的に停止すべきものである。それは一民族の當然の處置であり、恥辱を重ねぬ所以である。


 「日本の心」より転載する。
 五十音図の美学/保田与重郎・中川与一
保田  漢字制限や新かなで統一するのは、あいまいに物を考へる場合はいいんですけども、ちよつと正確に考へようとすると困るんです。新聞ニュースなんかはどうでもいいですが。
中河  つまり新かなにすると、考へ方までもみんなルーズになつてくるんですよね。それが困るんだ。
保田  それから教へること自体がルーズになるでせう。教へる方に凝つたらいいんですけれども、教へ方を楽にして、習ふ方を楽にしてやるんだといふ。
中河  それで高校へ行くとこんどは旧仮名といふか正仮名を教へるわけだ。つまり二重になつてくるわけです。だからえらい煩雑なことになつてるんですよ、結果的に。それから一番あれの悪いことは、子供と親とのものの考へ方を切り離してしまつたんだな。そのことが非常にまづいんだ。一例で言ふと、小学校の子供はみな、お母さんやお父さんのそれまちがつてゐる、とかう言ふんだな。さうすると親の方もまちがつてるのかと思つて自分達はもう時代おくれだからと、考へる。これはつまり世代の断絶をますます拡げるんですね。それがいろんなところへ出てくるんです。あの政策はアメリカのしたことだと思ふんだが、じつに巧妙に、民族を世代によつて切り離しちやつたわけですね。戦後と戦前とを完全に切り離した。あれはおそろしいことだと思ふんですよ。つまり戦後の若い人は、教育の面でうまく伝統から切り離されたんです。戦後いろいろな騒動が起きたりするのもこのせゐでせうね。早くいへば植民地になつちやつたんだね。
保田  さう考へるとたいへんなことですね。たしかに親と子の間がすつぽり切れてますね。これを回復するのはさらにたいへんですね。
中河  ところが親の方は、自分は古いからまちがつてるんだと、かう思つてるんです。
保田  さうです。正しい字を教へたら子供が試験に通らんことになりますね。これは断絶してるんです。一番底辺のところでね。もつともつと混乱がおこつた方がいいのと違ひますか。
中河  混乱が起これば必ずひきかへす。
保田  混乱が起きないと物を考へないのです。だから大学だつて行くところまで行く方がいいんだな。伊東静雄といふ詩人がをるでせう。教へ方がうまいといふのです。大阪の住吉中学で先生してをつたんですがね。かなづかひなんかも伊東先生に習つたらそれこそ簡単に覚えられるといふんです。京大に潁原退蔵といふ先生がをられました。あの人が伊東さんを京大に引つぱりたいのですわ。秀才だつたさうです。伊東を中学の先生にしてをくのがちよつと気づまりだつたんでせうね。潁原さんがわれわれにそんなことをおつしやる。ところが伊東の方は大学へ行くのはいやだと言ふんです。中学生(旧制)をうまく教へて入試に合格させるやうにしてやるのが自分の願ひだといつて、大学へ来いといふのを断つたさうです。
中河  今の国語教育は、子供が迷惑ですよ。二通りの字を習ふんですから。今の辞書を見ると新かなと旧かなの両方出てきてるんです。それでちつとも便利ぢやないんだ。みんな二重の勉強をしなければならない。それで学生の方もちつとも真剣にならん。第一新かなにしてみてもみんなチグハグなんだ。同じかなでも読売と毎日と朝日ではみんな使ひ方がちがふんです。むちやですわ。国語がいかに乱れてゐるかといふことだな。
保田  私らの叔父が、戦争になるちよつと前、少将で陸軍にをりましたがね、こんな話したんです。明治時代にも一ぺんかなづかひが変はつたことがあつたさうです。それで"せう"といふのを"しよー"と棒を引いたりね。
中河  さうさう、僕も棒の経験ありますよ。
保田  自分らは、さういふ時に本を習つた人間だといふんですね。それで古典を読むのが不得手でほんとの学問ができてない。お前らはこのことをよう考へておいてくれ、われわれの仲間は「神皇正統記」なんか読んでも、途中でしんどくてやめるといふやうなものの多い年代だといふんです。本当の日本を知らん連中が、陸軍の将官といふ年代にをるのだ。これが今日の非常時に最も心配なことや、といふんですわ。戦争のおこるすぐ前のことです。
中河  あれは森鴎外が主張して、やつと正かなに直したんでせう。それを山田孝雄さんなどが完璧なところまでもつていつた。
保田  一時さういふ、今みたいな時があつたんですな。それで戦争をはじめたのは、そのをかしな教育をうけた連中が中心だつた。日本の古典なんかも読まなかつた人たち……。
中河  危険なことですね。
保田  その時分の者は、国語の力がなかつたといふのです。日本が非常に危険なとこへさしかかつた時に、さういふ、日本人としての教養が一番低下した時代の人間が一番上にをるんだから、これは心配だと、かういふんですよ。お前ら若い者はよつぽどしつかりしてくれないと日本は危いといつてね。陸軍にをつた叔父で、ほかのことでは何ひとつ感心したことないのですけれど、この心配だけは今も感心してゐます。今になつて思ふと、第一に大事なことだつたと思ふんですね。
中河  ほんとだな。
保田  ところが、こんな話ほかの誰からも聞いたことないのです。
中河  平泉澄さんの書いてるのは読んだけど、日本の国語は実にすばらしいといふんですよね。五十音図、ああいふすばらしいものをこしらへたのはいかなる天才であるか。実に不思議といふよりない。その大成せられた偉観美容が、古今集や源氏物語や伊勢物語となつて国語の基準になつたといふんです。それをむざむざ幼稚な考へで破壊しようとする……。
保田  幕末一般の人々が文法の整然とした秩序を自覚した時、言葉は神のつくつたものといふ自覚が起こるのです。
中河  たいへんなことだよ、実際……。
保田  あの整然とした秩序、それが明治維新の一番の根底となるのですね。ところがここまでくるのにどのくらゐかかつたかといふと、国語純化運動は信長の時代から始まつてゐるのです。
中河  やつぱり一応の基本をつくつて復古をやつたのは契沖、宣長ぐらゐかな。
保田  ええ、宣長がつくつたんです。吉田松陰先生が獄中で一生懸命だつたのが文法の学問ですものね。当時の人々の考へではこれこそ人為であり神の秩序だ、神国の信念といふことだ。五十音図にをさまるのです。人間の頭で考へられんことがあるといふわけですね。この論理はなかなか精密で面倒です。文法は単純ですが、文法にびつくりした人々の考へ方は、宣長の場合でも簡単にはいへません。
中河  あの戦後の国語改革は、とにかくそいつを一気にこはしたんでせう。いつだつたか「英雄は山間から出づ」と原稿に書いたら、新仮名で「英雄は山間から出ず」とやられて意味が全然反対になつて困つた。
保田  やつぱり守るといふ精神を持つてないといかんです。日本書紀でもむかしの読み方で読むと実に美しい文学です。その読み方の伝へを守らず、漢文で書いてるからと漢文で読むと、文学でなくなる。あの頃の読み方で読んで初めて文章として光るんですよ。朝廷で続けられた初期の講読はこの読み方を伝へることだつたのです。
中河  とにかく本当に大切なものが次第に失はれてしまふんだからな。それで大学の騒動が起こり、教授などもばかにされて、学生に頭を下げてゐる。見られたもんぢやない。
保田  全く先生の方が情ない。言語道断だ。しかし、混乱が行くところまで行くと、また元のバランスがかへつてくるんです。この頃は若い人でも古典を読むのがふえたといひます。

【岩波文化批判】
 「文化の転換期、文化運動について、岩波文化批判」を転載する。
 「文芸や文化の具体的な問題に於ては、それは自然主義的な文化観と、岩波ヂヤーナリズムの文化の感覚を、現代の教養から放遂することである。それらは今日ではすでに、文化を持つことを他に示す化粧品化したことによって、最後的状態に入っているけれど、そういう化粧法が退廃した教養の末期症状の化粧法にすぎぬということを、我々は今日の若い人につたへる必要がある。今日生命ある思想というものは、何とか思想の展開とか何哲学の概論といった形で語られはせぬのである。(略)岩波ヂヤーナリズムの作った思想的作文など少しも語らないのである。(略)本というものは、単なる文化的化粧品の一種ではないのである。(中略)電車の中で脚を組んで、岩波新書などいう雑書を膝の上においている若い事務員に、精神的訓練を痛打せぬ限り、日本文化を毒している自由主義といったことの百万遍をとなえても所詮仕方ない。そういう教養姿態が、一等低級なダンディズムであり、又知識の化粧法としてすでに世界的に最も愚劣なものであるということを教えることが、もはや責任をもった批評家の任務でなければならない。(中略)化粧品のように、表面を塗りつくろうだけでけっして自分の心の中に分け入らない。行動と直結する思想は生まない。言葉で理解してそれで足りるとする教養、砂を噛むような思想。知の権威主義を自ら作り出して、その中で評価システムを作る。浪漫派の真逆で、何も行動しない」。





(私論.私見)