毎日新聞社は谷崎潤一郎の小説をのせる時新假名遣を用ひず、本當の假名遣に從つた。これは作者の頑強強情な文人的な良心に壓倒されたものであるが、この事實は新假名遣制定以後、これを守る左翼的壓力を無視した最初の行爲であつて、これにひきつゞいて、毎日新聞は五月二日反共の態度を闡明にし、朝日新聞社と對立した。しかし六月朝鮮事變にひきつゞく國内外情勢に影響され、過半の新聞は、毎日(?れんだいこ注)新聞に追從する結果となつた。
新假名遣は美しくないとか、不用意だとかいふよりも、第一の缺點は正確でないのである。言葉の正確さと、美しさと、ニユーアンスを尊ぶ文學者は、一人としてこれを使用しないことからみてもすぐわかる。
毎日新聞社が谷崎の小説をけいさいするのに、新聞社の申合せを破つてまで作者の氣持を迎へたのは英斷である。齋藤茂吉などが、歌を朝日新聞にのせてゐるのをみるに、新假名遣になつてゐる。これなどは茂吉ほどの人物だから、ことさらに間違へた文法にしてまで新聞如きものにのせる必要もないと思ふ。のせない方がよいと思ふ。彼ほどの文人の場合、それはまことにつまらぬことだ。たかが一新聞にのせるのせないといふだけのことだからだ。
毎日新聞の論説記者の中には、國語に關心をもつてゐる者がゐる。彼は共産黨議員の國會での下卑な言動をとがめたり、放送局の國語に對する不謹愼さを責めたり、新聞の用語の卑俗化を批判してゐる。一々論旨正確で、感覺もよい。その主張を進めて、彼は當然、新假名遣を拒否すべきである。
新假名遣を終戰後の左翼横行時代に、左翼勢力と結託して、強行して了つた文部省吏僚は、かつて戰時中にも、功利主義をふりかざして軍部革新派と結託し、この新假名遣を強行しようとした。當時これをつぶしたのは民間勢力であつたが、敗戰の混亂時に、彼らは左翼と結託してつひに宿望を達したのである。
新假名遣を使用して都合よいのは、新聞など活字を扱ふところ位である。これによつて起る現象は、まづ國語の文法の一貫した正確さが失はれる。文法が正しくなければ、文意は通じない。中頃戰國の世に入つて、國語文法の亂れたのを難波の契冲阿闍梨がまづ出で、相つぐ國學者の努力によつて、漸く文法古にかへり、國語は整然と體系づけられたのである。この文法に從つて、我々は千年前の人のかいたものを正しくよみ、古人が如何に正確に國語をしるしたかを知つたのである。この戰國亂世の時代の隱遁詩人――連歌俳諧師といはれる人々は、この亂世に國語の紊るゝをうれひ、「俳諧の益は俗語を正すにあり」との信條をたて、俗耳に入り易い俳諧を以て諸國を廻遊し、正確な國語を民衆に教へんとした。これが芭蕉時代まで、すべての俳諧師の意識にあつた彼らの生成の信條である。
新假名遣を子供に教へることによつて、古い古典は申すに及ばず、漱石鴎外といつた最近の文人らの作品さへ、すでによみ難い親しみ難いといふ結果をひき起す事實が、すでにいくらか現れてゐる。
戰時中、當時六十前後の老軍人の吾人に述懷したところであるが、「我々は少年時代にボー引きの所謂新假名遣を學んだために、年長じて後も少し表現内容の複雜な本だとよみ難い感がして、結果さういふ面倒なものをよまず易きにつく傾向が多い。つまり外國語は職業上修得してゐるが、肝心の日本の本だと、尊徳や松陰といつても、讀めはせん。だから講談や捕物帳を愛讀してをる。大體にいうてこの年配のものは、和漢の古典をよんでゐないから、知能上でどこか缺けたところがあつて、それがこの大事な時に世の中を動かしてゆくのだから、心配だ」といふやうなことを云うた。新假名遣は末端でない。一般的な勉學心を下降させた時代の象徴である。この老軍人の語つた、そのときの新假名遣は間もなく止まつたのである。
今度の新假名遣も、かういふ現象を起すにちがひないと思ふ。子供には氣の毒だから、本當の假名遣といふものを、同時に教へておくやうな細心さと愛情が、家庭になければならない。家庭にはその心はあるが、時間の餘裕はなく、子供の能力も過剩負擔に耐へない。
新假名遣の強行によつて起ることは、日本の次代は、ある程度廣範圍に、祖先と切りはなされるのである。過去の文物からひき離して左翼的出版物だけをよめるといふやうにしようとしてゐたわけである。これは誰が考へ、どういふ連中が結託したか誰でも知つてゐることだ。
小泉信三は八月十日毎日新聞紙上で「新假名遣を一旦元に歸すべし」と主張してゐる。新假名遣を施行するについて、學士や文人の十分の論議をまたず、一部文部省關係の者らが行つた、專斷的行爲を憤慨してゐるのである。これはその強行當時に諸々で放たれた聲であるが、當時は左翼の言論的暴力をたのみとして、文部省はこれを默殺したのである。(小泉の毎日新聞にのせたこの文章は勿論正しい假名遣に則つて書かれてゐる。)
新假名遣を一應廢止せよといふことは、時宜に適した提唱であつて、吾人はこれをあく迄支持するものである。
言葉の紊れることが、亂世の始りであると、かの北畠親房も論破してゐる。新假名遣は一部文部官僚や文士では山本有三などが結託し、學者文人間の一般的論議をへずに專斷強行した左翼的謀略である。これは今さらいきさつを云ふ迄もなくそれをした連中が最もよく知つてゐることである。
小泉はその文章の中で、露伴が蝸牛庵日記明治四十四年二月二十六日の條下にしるした一文をひいてゐる。「南北朝論一世轟々。……當時學者皆定案(定説)を飜すを以て功名のごとく心得、終に起らずもがなの論をひき起すに至れり。喜田氏(貞吉、歴史家)勝つことを好むに近き性質なれども、さりとて暴戻なんどいふ人柄にあらず、其説蓋し據るところあらん、たゞ先づ之を學界の問題とせずして、教科書に飜案(定説をくつがへすの義)の言を載せたるはよろしからず、教科書は世の定案に從ひてものすべし。異義あるべきやうのことは先づ學界に相爭ひて黒白を決し、全勝を得て後、定説と認めらるゝに至りて、はじめて之を兒童に課すべし」
學者の學説は自由であり、私案も自由であるが、「異義あるべきやうのことは先づ學界に相爭ひて黒白を決し、全勝を得て後、定説と認めらるゝに至りて、はじめて之を兒童に課すべし」といふのは、鐵則である。これに則せぬものは――新假名遣制定の如く――專斷暴擧である。小泉はそれをフアツシヨだと云うてゐる。
露伴は生前新假名遣強行のことをきゝ、それに對して何らの意見も述べなかつたが、たゞ一言、「この第二の東條め」と呟いたと傳へられてゐる。
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