文学博士・紀平正美編纂「配所残筆」(文部省教学局、昭和15年7月2日初版)。
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他に謫居童問、原源発録、神儒一致論【しんじゅいっちろん】、兵法或問、武事記、武教餘録、治教餘録、治平要録、手教餘録、備教要録、百結字類、常用集、雄備集。 |
山鹿素行の著作総覧考 |
(最新見直し2012.06.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、山鹿素行の著作を確認する。残念ながら原文が殆ど開示されていない。そこで追々にサイトアップしていくことにする。月刊日本が、「新連載 日本こそが中国だと叫んだ山鹿素行 本誌編集長 坪内隆彦」をサイトアップしており、まことにタイムリーな編集であると謹賀したい。 2012.07.25日 れんだいこ拝 |
【山鹿素行の著作年譜】 |
【「武教小学」考】 | ||
1656(明暦2)年、武士道について体系化した兵学書「武教小学」、「武教要録」、「武教全書」などを著し独自の兵法思想を元に山鹿流兵学を完成する。この前後から朱子学に疑問を抱き老荘に近づく。
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【「武教本論」、「武教要録」、「武教全書」考】 |
【「山鹿語類」考】 | |||||
1663(寛文3)年、門人などに素行語録集「山鹿語類」を編集させ、刊行される。
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【「聖教要録」考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1665(寛文5)年、43歳の時、10月、江戸で「聖教要録」(せいきょうようろく)を出版。「山鹿語類」巻33から巻43までの「聖学篇」を抜粋要約したものである。武士道とは何かを説き明かした。本書で、当時の官学である朱子学の「儒教古典の朱子学的解釈」を批判し、「周公孔子の書」に直接依拠し「原典に帰れ!」と述べ、原典復古主義と実践主義とを唱導した。「今日日用事物の上」に立つ学問を求めて古学の要を説き、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明をしている。これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されることになる。本書刊行により、本書は幕府から「不届成書物」とされ、素行は播磨赤穂に配流された。
聖教要録上
![]() 聖教要録中
![]() 聖教要録下
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【「中朝事実」考】 | ||||||||
1669(寛文9)年、47歳の時、山鹿素行が「中朝事実」(ちゅうちょうじじつ)(全2巻。付録1巻)を著し、尊王思想を説いた。「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指している。万世一系、皇室が連綿と続いている日本は、三種の神器が象徴する智仁勇の三徳において中国よりはるかに優れている、日本こそ世界の中心にある国である、天皇に対する忠義こそ真の忠義であるとする独特の日本主義思想を展開し、日本主義思想家の祖とも称せられる。この日本主義は、当時の学者が、漢学に於いて日本を指して東夷と呼ぶのをそのままに踏襲して東夷と認識していたことに対する強烈なアンチの表明であった。「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。
「中朝事実」は、上皇統と下皇統から成り、それぞれ章構成は次のようになっている。 上皇統 聖政章(聖教の道を論ず。政治教化の基本について論ずる) 礼儀章(礼儀の在り方について論ずる) 賞罰章(賞罰の公正平明について論ずる) 武徳章(武の意義について論ずる) 祭祀章(祭祀の誠心について論ずる) 化功章(徳化の功について論ずる)(新田編著『中朝事実』12~13頁)。 中朝事実自序の一節。
皇統(上)の中國章の一節。
皇統(上)の皇統章の一節。
皇統(上)の新教章の一節。
神治章では、皇祖天照大神のこの国を統治しようとされたときのみこころについて説いている。天地の恵みは至誠そのものであって君子もまた至誠そのものであり、自ら戒め、徳に向って進むとき、万民すべて安らけく、天下万国すべて平穏に無事なる状態になる。素行は、これこそが「天壌無窮」の神勅の意味であると説く(新田編著『中朝事実』76頁)。 素行の武士道論は建国の神話によって補強される。武徳章で、素行は神代紀の東征の記事に基づいて、威武の神髄を論じているのである。ここでは、道義に裏付けられた武が強調されている。
山鹿思想を要約すれば、 幕府の公認する儒学、その中でも朱子学を是として、且つそれによる儒教的世界観による中華思想を是とするする風潮に対し、中国は易姓革命による王朝交代を特質とするのに対し、日本は万世一系の天皇が支配し君臣の義が守られている稀有の国であるとして、これを成り立たせる日本思想を称揚し、日本こそが優れた中朝(中華)の国であり、これが歴史的事実であると主張した。儒教の国必ずしも儒教が行われておらず、むしろ、日本こそ最初の人皇・神武天皇以来、万世一系の下で変わることなく継承されており、日本こそが儒教国である。更に、日本こそが中華思想の元国である。万世一系、皇室が連綿と続いている日本は、三種の神器が象徴する智仁勇の三徳において中国よりはるかに優れている、日本こそ世界の中心にある国である、天皇に対する忠義こそ真の忠義であると説いた。 中心は日本であるとする独特の日本主義思想を展開し、「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。これを概略すれば、日本こそ孔子以前から孔子の教えを実施する道義国家である。
日本こそ「中つ朝」すなわち「中華」であり、日本書紀を見れば、日本は「葦原中國(あしはらのなかつくに)」と書いてあるように日本こそ中国である。皇祖の天照大神(あまてらすおおみかみ)の統治の御心は「至誠」そのものであり、君子もまた至誠そのものであり、人民も徳に向って生きる。
さらに素行は、武は、「天壌無窮の神勅」によって用いることで、世を浄化し人道を実現する。(「中朝事実」)。武を用いる者、すなわち武士は、みずから進んで人倫の道を歩み、人倫をみだらせるヤカラがいたら、速(すぐ)に罰して、天下に人倫の正しきを保つ。だから、武士は、文武之徳治不備があってはならず、生涯を通じて身を律して生きなければならない、とした。そして武士は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず。おごそかにして、人々が畏(おそ)るべき者であれ、とした。 この素行思想が後に攘夷、国粋理論となって大きな影響を与えていくことになった。「国学思想」の本元である本居宣長の「玉くしげ・1787年」や「うひ山ふみ・1798年」より百年以前である。 |
【「武家事紀」考】 | |
1673(延宝元)年、「武家事紀」を著す。歴史書・武家故実書で全58巻(前集3巻、後集2巻、続集38巻、別集15巻)によって構成されている。武家の歴史を描くことに主力を置いているが、そのために必要な語句などの詳細な解説が付されており、読者である武家の参考にするための事典としての機能も有していた。また、古案(古文書)からの引用も多くなされている点も当時としては画期的であった。前集3巻は皇統要略、武統要略。後集2巻は武朝年譜、君臣正統。続集38巻は譜伝・家臣・御家人・諸家・諸家陪臣・戦略・古案・法令・式目・地理・駅路・地理国図。別集15巻は将礼・武本・武家式・年中行事・国郡制・職掌・臣礼・古実・官営・故実・武芸・雑芸故実。
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【「配所残筆」考】
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1675(延宝3)年1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。
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文学博士・紀平正美編纂「配所残筆」(文部省教学局、昭和15年7月2日初版)。
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他に謫居童問、原源発録、神儒一致論【しんじゅいっちろん】、兵法或問、武事記、武教餘録、治教餘録、治平要録、手教餘録、備教要録、百結字類、常用集、雄備集。 |
浅見絅斎の『靖献遺言』(一六八四年~八七年) 山県大弐の『柳子新論』(一七五九年) 本居宣長の『直毘霊』(一七七一年) 蒲生君平の『山陵志』(一八〇一年) 平田篤胤の『霊能真柱』(一八一二年) 会沢正志斎の『新論』(一八二五年) 頼山陽の『日本外史』(一八二六年) 大塩中斎(平八郎)の『洗心洞箚記』(一八三三年) 藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七年) 以上の著者は、国学、崎門学、陽明学、古学、水戸学に大別できる。これらの本は、幕末の志士の魂を揺り動かし、明治維新の実現に重要な役割を果たした。右に挙げた書を座右の書としていた。 |
【参考文献】 |
(私論.私見)