山鹿素行の著作総覧考

 (最新見直し2012.06.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、山鹿素行の著作を確認する。残念ながら原文が殆ど開示されていない。そこで追々にサイトアップしていくことにする。月刊日本が、「新連載 日本こそが中国だと叫んだ山鹿素行 本誌編集長 坪内隆彦」をサイトアップしており、まことにタイムリーな編集であると謹賀したい。

 2012.07.25日 れんだいこ拝


【山鹿素行の著作年譜】

【「武教小学」考】

 1656(明暦2)年、武士道について体系化した兵学書「武教小学」、「武教要録」、「武教全書」などを著し独自の兵法思想を元に山鹿流兵学を完成する。この前後から朱子学に疑問を抱き老荘に近づく。

 「武教小学」では、次のように武士の道徳を厳しく説いている。

 「凡そ、士の言語正しからざれば、その行い必ずみだる。柔弱の言、鄙劣の語もっとも慎むべし」。
 「悪衣悪食を払じ、居の安きを求むるは志士にあらず」。

【「武教本論」、「武教要録」、「武教全書」考】

【「山鹿語類」考】

 1663(寛文3)年、門人などに素行語録集「山鹿語類」を編集させ、刊行される。

 「我、今日この身を顧るに、父祖代々弓馬の家に生れ、朝廷奉公の身たり、彼の耕さず造らず沽(うら)ざるの士たり。士として其の職分なくんばあるべからず、職分あらずして食い用足しめんことは遊民と云ふべしと、一向心を付けて我が身に付いて詳かに省み考ふべし」(山鹿語類 巻第二十一 士道)。

 「威は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず、甚だおごそかにして、人以って畏るべきの形也」。
 「士は一日をもって極みとなす」。

 「大丈夫、ただ今日一日の用を以って極となすべきなり。一日を積みて一月に至り、一月を積みて一年に至り、一年を積みて十年とす。十年あいかさなりて百年たり。一日なお遠し、一時にあり。一時なお長し、一刻にあり。一刻なおあまれり、一分にあり。ここを以っていうときは、千万歳のつとめも一分より出で、一日に極まれり。一分の間をゆるがせにすれば、ついに一日に到り、おわりには一生の懈怠(けたい)ともなれり」。
 現代語訳「大丈夫たる者の士としての心掛けは、ひたすら今日一日の用を務めきることが大切である。そのような日々の一日が一月になり一年となり何十年となり百年となる。そういう一日も一時の積み重ねである。否一時は一刻の積み重ねであり、否一刻も一分の積み重ねであることを思えば、全ては一分より始まり、これが一日になる。つまり一分を大事にするかしないかで一生が決まる。この理を心しておくように諭しおく」。」

【「聖教要録」考】

 1665(寛文5)年、43歳の時、10月、江戸で「聖教要録」(せいきょうようろく)を出版。「山鹿語類」巻33から巻43までの「聖学篇」を抜粋要約したものである。武士道とは何かを説き明かした。本書で、当時の官学である朱子学の「儒教古典の朱子学的解釈」を批判し、「周公孔子の書」に直接依拠し「原典に帰れ!」と述べ、原典復古主義と実践主義とを唱導した。「今日日用事物の上」に立つ学問を求めて古学の要を説き、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明をしている。これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されることになる。本書刊行により、本書は幕府から「不届成ふとどきなる書物」とされ、素行は播磨赤穂に配流された。

 (「聖教要録せいきょうようろく―山鹿素行の儒教理論書―」参照)

 聖教要録小序

 聖人杳(はる)かに遠く、微言漸(ようや)く隠れ、漢唐宋の学者、世を誣(し)ひ惑ひを累(かさ)ぬ。中華既に然り。いわんや本朝をや。先生二千載(さい)の後に勃興し、迹(あと)を本朝に垂れ、周公孔子の道を崇(たっと)び、初めて聖学の綱領を挙ぐ。

 聖教要録上

 聖人
 聖人は知ること至りて心正しく、天地の間通(つう)ぜざることなし。その行や篤(あつ)くして条理あり、その応接や従容として礼に中(あた)る。その国を治め天下を平らかにするや、事物各々其の処を得(う)

 知至る

 人は万物の霊長なり。血気有るの属(たぐい)は、人より知なるは莫(な)し。聖賢は知の至りなり。愚(ぐ)不肖は知の習なり。知の至るは、物に格(いた)るに在り。

 聖学

 聖学は何のぞや。人為(た)るの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人為るの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず。生質(せいしつ)の美、知識の敏(びん)も、道を知らざればその蔽(へい)多し。

 師道

 人は生まれながらにして之(これ)を知る者に非(あら)ず。師に随いて業を稟(う)く。学は必ず聖人を師とするに在り。世世(よよ)聖教の師なく、唯だ文字記問の助のみ。

 立教

 人教えざれば道を知らず。道を知らざれば、乃(すなわ)禽獣(きんじゅう)よりも害あり。民人の異端に陥り、邪説を信じ、鬼魅(きみ)崇(たっと)び、竟(つい)に君を無(な)みし、父を無みする者は、教化(きょうか)行われざればなり。

 読書

 書は古今の事蹟を載(の)するの器なり。読書は余力の為(な)す所なり。急務を措(お)きて書を読み課を立つるは、学を以て読書に在りと為すなり。


 聖教要録中


 中
 中は倚(かたよ)らずして節に中(あた)るの名なり。知者は過ぎ愚者は及ばざるは、中庸の能(よ)く行はれざればなり。中庸をくすれば、則ち喜怒哀楽、及び家国天下の用、皆な節にるべし。中は天下の大本なり。
 道
 道は日用由(よ)当(まさ)に行ふべき所にして、条理有るの名なり。天能(よ)運(めぐ)り、地載(の)せ、人物云為(うんぬん)す。各々その道有りて違(たが)うべからず。
 理

 条理ある。れを理と云う。事物の間、必ず条理あり。条理紊(みだ)るれば、則ち先後(せんご)本末正しからず。性及び天皆理と訓ずるは最も差謬なり。

 徳

 徳は得なり。知至りて内に得(う)る所有るなり。之(これ)を心に得(え)を身に行ふを、徳行と謂(い)ふ。


 聖教要録下
 性
 理気妙合(みょうごう)して、生生無息の底(てい)ありて、く感通知識する者は性なり。人物の生生、天命ならざるなし。故に曰く、天の命ずるを之(こ)れ性と謂う、と。
 道原
 道の大原(たいげん)は、天地に出づ。これを知りこれをくする者は、聖人なり。聖人の道は、天地の如く、為すことなきなり。乾坤(けんこん)は簡易なり。上古の聖人、天地を以て配(はい)と為す。董氏(とうし)所謂(いわゆる)太原は、その語意尤(もっと)も軽し。
 「その言行己れより賢(まさ)れる者は,以て師とすべし」。
 「道は実践があってのものである。日常の中でそれによって行えなければ、道ではない」(66P)。
 「仁が義によって実行でき、義は仁によって成り立つ」(73P)。
 「そうせざるをえないのを誠と言う」(78P)。

 「見ることはよくわかり、聞くことははっきりして、どのようなことが起こっても、それぞれに対する考え方が確固としているから、遭遇する事態を前にくじけることはないのである。これが大丈夫の意地である」(202P)。


【「中朝事実」考】

 1669(寛文9)年、47歳の時、山鹿素行が「中朝事実」(ちゅうちょうじじつ)(全2巻。付録1巻)を著し、尊王思想を説いた。「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指している。万世一系、皇室が連綿と続いている日本は、三種の神器が象徴する智仁勇の三徳において中国よりはるかに優れている、日本こそ世界の中心にある国である、天皇に対する忠義こそ真の忠義であるとする独特の日本主義思想を展開し、日本主義思想家の祖とも称せられる。この日本主義は、当時の学者が、漢学に於いて日本を指して東夷と呼ぶのをそのままに踏襲して東夷と認識していたことに対する強烈なアンチの表明であった。「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。

 これを概略すれば概要次のように述べている。

 意訳概要「日本こそ孔子以前から孔子の教えを実施する道義国家である。『天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也』。日本こそ中つ朝であり即ち中華である。日本書紀に日本を「葦原中國(あしはらのなかつくに)」と記すように日本こそ中国である。皇祖の天照大神(あまてらすおおみかみ)の統治の御心は至誠そのものであり、君子もまた至誠そのものであり、人民も徳に生きる。

 『謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く』。武は、天壌無窮の神勅により、これを用いることで、世を浄化し人道を実現する。武を用いる者即ち武士はみずから進んで人倫の道を歩み、人倫をみだらせる輩がいたら、速(すぐ)に罰して、天下に人倫の正しきを保つべきである。武士は文武の徳治に不備があってはならず、生涯を通じて身を律して生きなければならない。武士は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず。おごそかにして、人々が畏(おそ)るべき者であれ」。

 「中朝事実」は、上皇統と下皇統から成り、それぞれ章構成は次のようになっている。

 上皇統
 天先章(天地自然の生成について論ずる)
 中国章(風土の状況について論ずる)
 皇統章(皇統の万世一系なることについて論ずる)
 神器章(三種の神器について論ずる)
 神教章(教学の本源について論ずる)
 神治章(政治体制の基本について論ずる)
 神知章(人間を知ることの重要性について論ずる)

 下皇統
 聖政章(聖教の道を論ず。政治教化の基本について論ずる)
 礼儀章(礼儀の在り方について論ずる)
 賞罰章(賞罰の公正平明について論ずる)
 武徳章(武の意義について論ずる)
 祭祀章(祭祀の誠心について論ずる)
 化功章(徳化の功について論ずる)(新田編著『中朝事実』12~13頁)。

 中朝事実自序の一節。
 「 恒に蒼海の無窮を観る者は、その大を知らず。常に原野の無畦に居る者は、その廣きを識らず。これ久しうして馴るればなり。豈(あ)に唯海野のみならんや。愚生、中華文明の土に生まれて、未だその美を知らず、専ら外朝の経典を嗜み、嘐嘐(こうこう)として其の人物を慕ふ。何ぞそれ喪志(心)なるや。抑も奇を好むか。将た異を尚ぶか。それ中国の水土は萬邦に卓爾し、而して人物は八紘に精秀なり。故に神明の洋洋たる、聖治の綿綿たる。煥乎たる文物、赫たる武徳、以て天壌に比すべしべきなり。今歳冬十有一月皇統の実事を編し、児童をして誦せしめ、その本を忘れざらしむと云爾。

 龍集巳酉  山鹿高興謹誌」。

 皇統(上)の中國章の一節。
 「皇祖高皇産産霊尊遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊をたてゝ以て葦原中國の主と為んと思す。”謹みて按ずるに、是れが我が國を中國と謂ふわけである」。

  皇統(上)の皇統章の一節。
 「帝が皇極を人皇の始めに建て規模を万世の上に定め給うて、我が国の人が三綱の遺れてならぬ事を明らかに知った。故に皇統が一度(ひとたび)定まって億萬世、これに襲(よ)って変ぜず、天下皆正朔を受けてその時を二つにせず、万国王命を稟(う)けてその俗を異にせず、三綱終に沈淪せず、徳化は塗炭に陥らず、外国の到底企て望み得ることではない。その支那では天子姓を易ふることを殆ど三十で、戎狄が入って王となった者が数世ある。春秋の二百四十余年に臣子がその國君を弑した者二十又五もある。その先後の乱臣賊子に至っては枚挙することができない。朝鮮では箕子(きし)が天命を受けて王となって以後、姓を易ふること四氏、その國を滅して或いは郡県となり、或いは高氏は滅絶することが凡そ二世、彼の李氏は二十八年の間に王を弑する者四度あった。いわんやその先後の乱逆は禽獣の損ない合うと異ならない。

 唯我が中國(なかつくに)は開闢からこのかた人皇に至るまで二百万歳にも近く、人皇から今日まで二千三百歳を過ぎてゐる。しかも天神(あまつかみ)の皇統は違(たが)ふことなく、その間に弑逆の乱は指を屈して数ふる程もない。その上外国の賊は吾が辺藩をも窺ふこともできなかった。後白河帝の後に武家が権力を執って既に五百余年にもなる。その間に利嘴長距が場を壇にしたり、冠猴封豕が火を秋の蓬に縦つ類のないこともないが、それでもなお王室を貴び君臣の儀を存してゐる。これは 天神人皇の知徳が顕象著名であって世を歿するまで忘れられないからである。その過化の功、綱紀の分がこの様に悠久で、このやうに無窮であるといふことは皆至誠から流れ出たからである。三綱が既に立つときはその条目は治政の極致として著われる。凡そ八紘の大なるも、外国の汎きも中州に如くはない。皇綱の化、文武の功、その至徳、何と大きいことではないか」。

 皇統(上)の新教章の一節。
 「或る人は疑うに、支那は我が国に通じないで文化は開けていたに、我が邦は支那に因って開けたとすれば彼は我が国に優っているではないか、と。私が按ずるに、左様ではない。開闢よりこの方、神聖の徳行や明教は兼備しないことはない。漢籍を知らなくても、一介も欠けてはいない。幸いに支那の事に通じ、その長を取って王化を輔けるのは、又我の寛容ではないか。唯独り支那に限らない。凡そ世界の事は詳らかに知って並び蓄え短を考え長を考え、用を待って遺さず使い、事に依って適する者を採ることは我が度量の大きいのである。内外相持して人も物も成就する。己の短を弁護して、外を拒む如きは君子の為すべきところではない。いわんや支那は我が国とその旨が同一で、しかも世を経ること最も久しく、その封域は甚だ広く、その人物衆多にして、政事の損益するところ、参考とするに足りる。これが我が国が世界に冠絶する所以である。後世では勘合は絶えて隣交を修めないけれども、我が国には不足はないことも併せ考えるが良い」。

 神治章では、皇祖天照大神のこの国を統治しようとされたときのみこころについて説いている。天地の恵みは至誠そのものであって君子もまた至誠そのものであり、自ら戒め、徳に向って進むとき、万民すべて安らけく、天下万国すべて平穏に無事なる状態になる。素行は、これこそが「天壌無窮」の神勅の意味であると説く(新田編著『中朝事実』76頁)。 素行の武士道論は建国の神話によって補強される。武徳章で、素行は神代紀の東征の記事に基づいて、威武の神髄を論じているのである。ここでは、道義に裏付けられた武が強調されている。
 「謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く」(新田編著『中朝事実』187頁)。

 山鹿思想を要約すれば、 幕府の公認する儒学、その中でも朱子学を是として、且つそれによる儒教的世界観による中華思想を是とするする風潮に対し、中国は易姓革命による王朝交代を特質とするのに対し、日本は万世一系の天皇が支配し君臣の義が守られている稀有の国であるとして、これを成り立たせる日本思想を称揚し、日本こそが優れた中朝(中華)の国であり、これが歴史的事実であると主張した。儒教の国必ずしも儒教が行われておらず、むしろ、日本こそ最初の人皇・神武天皇以来、万世一系の下で変わることなく継承されており、日本こそが儒教国である。更に、日本こそが中華思想の元国である。万世一系、皇室が連綿と続いている日本は、三種の神器が象徴する智仁勇の三徳において中国よりはるかに優れている、日本こそ世界の中心にある国である、天皇に対する忠義こそ真の忠義であると説いた。 

  中心は日本であるとする独特の日本主義思想を展開し、「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。これを概略すれば、日本こそ孔子以前から孔子の教えを実施する道義国家である。
 「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也。謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く」。

 日本こそ「中つ朝」すなわち「中華」であり、日本書紀を見れば、日本は「葦原中國(あしはらのなかつくに)」と書いてあるように日本こそ中国である。皇祖の天照大神(あまてらすおおみかみ)の統治の御心は「至誠」そのものであり、君子もまた至誠そのものであり、人民も徳に向って生きる。

 ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。

 さらに素行は、武は、「天壌無窮の神勅」によって用いることで、世を浄化し人道を実現する。(「中朝事実」)。武を用いる者、すなわち武士は、みずから進んで人倫の道を歩み、人倫をみだらせるヤカラがいたら、速(すぐ)に罰して、天下に人倫の正しきを保つ。だから、武士は、文武之徳治不備があってはならず、生涯を通じて身を律して生きなければならない、とした。そして武士は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず。おごそかにして、人々が畏(おそ)るべき者であれ、とした。

 この素行思想が後に攘夷、国粋理論となって大きな影響を与えていくことになった。「国学思想」の本元である本居宣長の「玉くしげ・1787年」や「うひ山ふみ・1798年」より百年以前である。


【「武家事紀」考】

 1673(延宝元)年、「武家事紀」を著す。歴史書・武家故実書で全58巻(前集3巻、後集2巻、続集38巻、別集15巻)によって構成されている。武家の歴史を描くことに主力を置いているが、そのために必要な語句などの詳細な解説が付されており、読者である武家の参考にするための事典としての機能も有していた。また、古案(古文書)からの引用も多くなされている点も当時としては画期的であった。前集3巻は皇統要略、武統要略。後集2巻は武朝年譜、君臣正統。続集38巻は譜伝・家臣・御家人・諸家・諸家陪臣・戦略・古案・法令・式目・地理・駅路・地理国図。別集15巻は将礼・武本・武家式・年中行事・国郡制・職掌・臣礼・古実・官営・故実・武芸・雑芸故実。

 「朝廷は禁裏也、辱も天照大御神の御苗裔として、萬々世の垂統たり、此故に武将権を握て、四海の政務武事を司どると云ども、猶朝廷にかはりて萬機の事を管領せしむることわりなり」。

【「配所残筆」考】

 1675(延宝3)年1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。

 「寛文の初め、我等存じ候は、漢・唐・宋・明の学者の書を見候故、合点参らず候哉。直ちに周公孔子の書を見候て、是れを手本に仕る候て学問の筋を正し申すべく存じ、それより不通に、後世の書物をば用ひず,聖人の書迄を昼夜勤め候て、初めて聖学の道筋分明に得心仕り候」」。
 「しからば勇知仁の三は聖人の三徳也。この三徳一つもかけては聖人の道にあらず。今この三徳を以て、本朝と異朝とを、一々そのしるしを立て校量せしむるに、本朝はるかにまされり。誠にまさしく中国といふべき所分明なり」。
 「見ることはよくわかり、聞くことははっきりして、どのようなことが起こっても、それぞれに対する考え方が確固としているから、遭遇する事態を前にくじけることはないのである。これが大丈夫の意地である」。
 「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」。

 「聖教要録・配所残筆」を参照する。
 一、我等が事、以前より異朝の書物を好み、日夜勤め候故、近年新渡の書物は存じ候わず、十ヶ年以前迄異朝より渡り候書物は、大方残らず一覧令(しむ)の候。これによって不覚にも異朝の事を諸事よろしくし存じ、本朝は小国故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出来候得と存じ候。この段は我等ばかりに限らず、古今の学者皆左様に存じ候て、異朝を慕い学び候。近頃初めてこの存じ入り、それ誤なりと知り候。信耳而不信目(耳を信じて目を信ぜず)、棄近而取遠候事(近きを棄てて遠きを取り候の事)、是非に及ばず、寔(まことに)学者の通病に候。詳(つまび)らかに中朝事実に記し候らえども、大概をこゝに記し置き候。

 本朝は 天照大神の御苗裔として、神代より今日迄、その正統一代も違ふ候ふことこれなく、藤原氏補佐の臣まで世々不絶して、摂籙(政)の臣相続候うの事、乱臣賊子の不義不道成る事なく候の故也。これ仁義の正徳甚(はなは)だ厚く成しが故にあらずや。次に神代より人皇十七代迄は、悉く聖徳の人君相続あり。賢聖の才臣補佐し奉り、天地の道を立て、朝廷の政り事、国郡の制を定め、四民の作法、日用、衣食、家宅、冠昏、喪祭の礼に至る迄、各々その中庸を得て、民やすく国平に、万代の規模立ちて、上下の道明らかなるは、これ聡明聖知の天徳に達せるにあらずや。況や勇武の道を以ていわば、三韓をたいらげて、本朝へ貢物(みつぎもの)をあげしめ、高麗をせめてその王城を落し入れ、日本の府を異朝に設けて、武威を四海に輝かす事、上代より近代までしかり。

 本朝の武勇は、異国迄これをおそれ候へども、終に外国より 本朝を攻め取り候事はさて置き、一ヶ所も彼の地奪わるゝ事なし。されば武具、馬具、剣戟の制、兵法、軍法、戦略の品々、彼の国の及ぶ所に非ず。これ勇武の四海に優れるにあらずや。しからば知仁勇の三は聖人の三徳也。この三徳一つもかけては聖人の道にあらず。今この三徳を以て 本朝と異朝とを、一々その印(しるし)を立て校量せしむるに、本朝はるかにまされり。誠にまさしく中国といふべき所分明なり。これ更に私に云うにあらず。天下の公論なり。上古に聖徳太子ひとり異国を貴ばず、本朝の本朝たる事を知れり。しかれども旧記は入鹿が乱に焼失せるにや、惜しい哉、その全書世にあらわれず。
 (現代語訳)

 私たちは以前から外国の書を好み、日夜勉学に励んだので、近年の輸入書は知らないものの、十年以前までに外国から渡来した書物は、残らず一読したといって良い。そのため知らず知らず外国のことなら何でも良いと思い、我が国は小国だから、何事も外国に及ばず、聖人も外国だからこそ出現したと考えた。この様なことは私たちだけに限らず、古今の学者は皆左様に考えて、外国のことを慕い学んでいたのである。近頃初めてこの思い込みが誤りであると知った。伝聞を信じて実際に見ず、身近な物を否定し疎遠なものを採用するということは、やむを得ないとはいえ、まことに学者の通弊である。そこで中朝事実に記しておいたが、そのあらましをここに記しておく。

 我が国の皇室は天照大神の御子孫として、神代から今日まで、その正統の伝授は一代も違うことがなく、藤原氏などの輔佐の臣までも代々連続して、摂政の職を相続してきたのは、君父を損なう者達が不義不道を行うことがなかったからである。これは天皇の仁義の正徳が非常に厚かったからではなかろうか。次に神代から人皇十七代までは、みな聖徳ある人君が位を相続し、賢聖の才を持った臣が輔佐し、天地の道を実現し、中央の朝廷の政治制度や、地方の国郡の制度を定め、民衆の作法・日用・衣食・家宅・冠婚・喪祭の礼に至るまで、それぞれを適切な形にし、その結果民は安らかで国は安定し、万代に継承される枠組みが確立し、上下の秩序が明らかになったのは、天皇の聡明聖知が天徳の域にまで達したからではなかろうか。ましてや勇武の道によって三韓をたいらげ、我が国に貢ぎ物を献上させる様にし、高麗を攻めてその王城を陥れ、日本府を外国に設置して武威を世界に輝かすといったことは、上代から現代までそうである。

 我が国の武勇は、外国がこれを恐れることはあっても、外国が我が国を征服してしまうことはもとより、一ヶ所もむこうに奪われることも無かった。であるから武具・馬具・剣戟の制、兵法・軍法・戦略の品々は、彼の国が及ぶものではない。これは我が国の勇武が世界に冠たるものだからではないか。さて知仁勇の三つは聖人の三徳である。この三徳の内一つが欠けても聖人の道ではない。今この三徳について、我が国と外国とを一つ一つ具体的に比較してみると、我が国がはるかにまさっている。まことに我が国を中国と言うべき事は、はっきりしているのである。これは個人的見解で言っているのではない。天下の公論である。上古に聖徳太子ひとりが外国を尊ばず、我が国の独自性を認識していた。しかし旧記は入鹿の乱の際に焼失したのであろうか、残念なことに、その全書は世に伝えられていない。

 文学博士・紀平正美編纂「配所残筆」(文部省教学局、昭和15年7月2日初版)。
 一、本叢書は、主として我が国古来の典籍中より精神教育上適切なるものを選択してその要点を解説し、広く国民をして日本精神の心解と体得とに資せしむることを以て目的とするものである。
 二、本篇は、国民精神文化研究所員文学博士紀平正美に委嘱し、執筆を煩わしたものである。

 昭和14年3月、教学局

 他に謫居童問、原源発録、神儒一致論【しんじゅいっちろん】、兵法或問、武事記、武教餘録、治教餘録、治平要録、手教餘録、備教要録、百結字類、常用集、雄備集。

 浅見絅斎の『靖献遺言』(一六八四年~八七年)
 山県大弐の『柳子新論』(一七五九年)
 本居宣長の『直毘霊』(一七七一年)
 蒲生君平の『山陵志』(一八〇一年)
 平田篤胤の『霊能真柱』(一八一二年)
 会沢正志斎の『新論』(一八二五年)
 頼山陽の『日本外史』(一八二六年)
 大塩中斎(平八郎)の『洗心洞箚記』(一八三三年)
 藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七年)

 以上の著者は、国学、崎門学、陽明学、古学、水戸学に大別できる。これらの本は、幕末の志士の魂を揺り動かし、明治維新の実現に重要な役割を果たした。右に挙げた書を座右の書としていた。

【参考文献】





(私論.私見)