「配所残筆」考

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 2012.07.25日 れんだいこ拝


【「配所残筆」考】

 1675(延宝3)年1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。

 
文学博士・紀平正美編纂「配所残筆」(文部省教学局、昭和15年7月2日初版)は次のように記している。。
 
 本叢書は、主として我が国古来の典籍中より精神教育上適切なるものを選択してその要点を解説し、広く国民をして日本精神の心解と体得とに資せしむることを以て目的とするものである。
 本篇は、国民精神文化研究所員文学博士紀平正美に委嘱し、執筆を煩わしたものである。
 昭和14年3月、教学局


【「配所残筆」原文】
 我らことは身分の低きもの、ことさら無徳短才にて、中々歴々の御方々の末席に列し得らるる筈でないのに、幼少の頃より相当の者と思われ、歴々の方々の御取持(御世話)に預かった。これは全く我らの徳義の故とは思わず、天道の冥加に相叶える故なりと思う。それでいよいよ天命をおそれ万事につけ日頃慎んで居る次第である。

 六歳より親の言いつけにより学問をさせられたが、不器用であって、漸く8歳頃までに、四書、五経、七書、詩文の書等、大方を読み覚えることができた。(※四書とは、大学、中庸、論語、孟子。五経とは、易経、書経、詩経、春秋、礼記。七書とは、兵法書の孫子、呉子、尉りょう子、司馬法、李衛公問対、六とう、三略)

 9歳の時、稲葉丹後守殿(老中の正勝)の家来の塚田杢助が父と懇意の間柄であったので、我らを林道春老の弟子と為したいと頼んだ。杢助が序(ついで)の時に、そのことを丹後守殿へ申し上げたところ、幼少にて学問せんとするは奇特なことであると云うので、御城で直接に丹後守殿が林道春へ御頼みくだされた。それでかの杢助が拙者を連れて道春のところへ参った。その時、道春と杢助と永喜(道春の弟)も同座であったが、我らに論語の序文を無点の唐文にて読めと申された。それを我らが読んだところ、更に山谷(山谷集、宋の詩人黄庭堅の詩集)を出して読まされた。永喜の云わるるには、幼少にてかほどにも読み得るとは奇特なり。さりながら田舎学者が教えたものと見えて、訓点のつけ方悪しと。道春も永喜と同様に申され、感心し悦んでくだされた。それで特に親切にしてくだされて、11歳頃までに、以前読んだ書物の読み方の悪しきを訂し、更に無数の本にて読み直した。

 11歳の時初めて元旦の詩を作って、それを道春に見せたところ、一字だけ改められて、それに序文を書き、幼少のものの作ったものとしては感心なりとの書状を副え、それに和韻した詩を作り下された。

 同年、堀尾山城守殿(忠晴、松江城主)の家老の揖斐伊豆が我らに目を掛けられ、山城守殿へ召し出され、そこで書物を読んだ。伊豆は是非とも山城守に仕えるよう、すれば二百石下さると云うことであったが、我らの親が同意しなかった。

 14歳の頃には詩も文も達者に作り得るようになったので、伝奏(将軍より天皇への奏上を取り扱う役)の飛鳥大納言殿(雅宣)がそれを聞かれ、召び寄せられた。そこで即座に詩を作ってお目に掛けたところ、大納言殿は和歌を御読みになり、且つ和韻の詩をも作られた。烏丸大納言殿(光広)それを聞かれて、即座に文章を作り下された。失礼ではあったが、我らも即座に対句を作った。若輩の時分でもあり、殊更即座の事であったから、只今見れば笑い草に過ぎないのであるが、又深く感心せられ、その後両公は御懇意に為し下され、折々は御伺い申し上げ、又詩文の贈答を致した。

 15歳の時、初めて大学の講義をしたが、大勢の聴衆があった。

 16歳の時、大森信濃守殿(佐久間久七)、黒田信濃守殿(源右衛門)の御望みにより孟子の講義をした。蒔田甫庵老人は論語を望まれた。これまた同年講義し、いづれもその翌年までに終った。これまた若輩の時分のこと故、定めて不埒なことばかりであったと思うが、その時分の事は、蒔田権助殿や、富永甚四郎殿らは今以てよく覚えておらるる。

 我ら幼弱より武芸軍法の修行を怠らず、15の時に尾畑勘兵衛殿及び北条安房守殿に逢うて兵学の稽古修行をなした。(※尾畑勘兵衛は、甲州流の軍学者として有名な人。名は景憲) 20歳になるまでに、門弟中で我らが大方上座になってい居たのであるから、北条安房守殿の筆で、尾畑勘兵衛殿が印可状(免許状)をくだされた。

 21歳の時、尾畑勘兵衛殿再び印可状をくだされ、殊更門弟中汝の如きは一人もなしと云う印可の副え状と申すものを我らに与えられた。それの筆者は高野按察(あぜち)院光宥(両部習合神道家である)である。その文に云う、「文に於いては、その能く勤むるを感じ、武に於いては、その能く修るを歎ず。「あぁ文事有るに、必ず武備有りと。古人云う、我又云う」と。我らを称美せられた末句のこの文句は、勘兵衛殿のひたすらに好まれたところのものである。

 17歳の冬、高野按察院光宥法印より、神道の伝授を受けた。神代三巻は勿論神道の秘伝は残らず伝授せられた。その後壮年の頃、広田担斎と云う人、忌部氏嫡流の者であるが、根本宗源の神道を相伝せられた。その節忌部神道の日決は残らず相伝せられ、その書付け証文をくだされた。その中頃より石出帯刀と云う人が(門人として)来たり、我らに了解を得て、共に神書を聴いた。然るに、担斎がやがて死んだので、神書のこと帯刀のことを拙者に頼まれた。帯刀が神書のことで了解のできぬことは皆、拙者によって了解読心ができるようになった。これまたその時の書付け今もなお保存してある。

 同年より歌学を好み、20歳までに源氏物語は残らず聞き、源語秘訣(源氏物語の秘伝)までも相伝を得た。伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集、百人一首三部抄、三代集(古今、後撰、拾遺)に至るまで、広田担斎より相伝を受けた。これにより源氏私抄、万葉、枕草紙、三代集の私抄注解などのあらましの撰述を為した。詠歌に志深く、年に千首の和歌を詠み得たれども、少し考えがあって、その後は顧みないこととした。右広田担斎より歌学に関することも残らず相伝せられた書付けが今もなお保存されている。尤も、職原抄(北畠親房の書)官位の次第、これの講義は道春より残らず聞き、その後にこれも又担斎より具に承りて、なお了解のできぬことは菊亭大納言殿(経季)へ申し上げ、大納言殿は、親筆で一々の口伝の御書付けをくだされた。このことは人々のよく知り居ることである。そこで我らに職原抄を伝授した人々は数多あると云う訳である。

 若年の時より、くで兵右衛門殿、小栗仁右衛門殿の御取り持ちにて紀伊大納言(頼宣)様へ七拾人持ちにて召し出され、御小姓近習の役にせられる御約束になっていて、やがて御目見えの用意をしていた。又内々には岡野権右衛門殿が万事取り持たれたのであるが、阿部豊後守殿(忠秋、時の老中)が拙者のことを聞かれ、尾畑勘兵衛殿、北条安房守殿に御頼みになり、我らを召抱えたしと申された。しかし右大納言様への先約があるので御断り申し上げた。然るに大納言様は、豊後守殿に御抱えありたい意志があることをお聞きになって布施佐五右衛門殿を御使として、兵右衛門及び仁右衛門に仰せらるるには、豊後守殿が御抱えになりたいものを、大納言様へ引取ることは遠慮すべきである、例え御家来筋のものであるにせよ、豊後守殿ほどのものが御所望ならば、それへやって良い、豊後守殿の御用に立つことは御公儀(幕府)の御用なれば、豊後守殿へ召抱えるように為すべしと。このことは更に右の佐五右衛門殿が使者となって勘兵衛殿と安房守殿へも申し遣わさるる筈になって居るとのことであったが、右佐五右衛門殿が最早召抱えられるよう御両所へ約束ができて居ることであるが、如何致すべきやと申し上げたところ、兵右衛門殿も仁右衛門殿もそれは心易いこと、別に差し支えなしと仰せられたとのことである。拙者が考えるに、大納言様が右の如く御遠慮なされた上は、豊後守殿にも御抱えはあるまい、老中家(豊後守)は大納言家には遠慮もあるべきわけであるから、この方より御両家の何れへもお断り申し上げる方がよいと思い、岡野権右衛門と相談の上で、このことはそのままになった。

 右の兵右衛門殿は謙信流の軍法者で、御歴々の人でその弟子になって居るものが多数あるのであるが、しかも我らの弟士になりたいとのことで兵学の御勤めを十分になされて居る。仁右衛門殿は御等に*身の柔道を御伝えくだされ、奥儀まで承って居ると云うほどに、別て御親切に預かって居る。岡野権右衛門殿は我らの若年の時より書物の講義をお聞きになり、残に兵法の弟子に成られたいとのこと、又御一門の中残らず我らに兵学をお聞きになって居るので、御心易く御親切を得て居る。

 右の翌年、加賀松平筑前守殿(利常)が拙者のことを聞かれ、召抱えたしと、町野長門守殿を介して申された。然るに拙者の親は知行千石くださらなくば、出仕することは致さぬと申して、それを留め申した。筑前守殿でも七百石まではくださるるようの御話であると長門守殿が申されたと云うことである。
 正保四年丁亥の秋、大*院様(将軍家光)が北条安房守殿へ築城設計図を仰せ付けられた際、拙者はおこりを病んでいたが、安房守殿は拙宅へ御出でになって、右設計図の御相談があった。それで陰陽の両図を製作した。右図面の書付け、並びに目録まで拙者と相談の上にて書かれた。その書付は残らず拙者の所にある。その節久世和州公(大和守広之)が安房守殿へ御出でになって、お目に懸ったことである。御覚えあるべし。

 拙者25歳の時、松平越中守殿(定綱、桑名城主)が拙者を御召し出になり、学問兵学のことについて御研究御議論があったが、拙者の申し上げることをよく御会読なされ、別けて慶ばれて、拙者の弟士たることの誓状を書かれ、拙者に兵学の御相談をなさるるようになった。右誓状のあった翌日、三輪権右衛門が先だって遣わされた御太刀、馬代、時服(時候に応じた礼服。この三者を送るは、当時の礼儀であった)を持参せられた。追って越中守殿は(弟子入りり)御礼の為に、私宅へ御来臨になり、それ以後は毎度御懇意の詩文など時々御贈答があった。拙者の書いた文章を表具せられて、拙者を御招請の時には、それを座敷へ懸けられた。まことに勿体ないことで、却って迷惑至極なりと度々御断り申し上げた。このことは浅野因州公(因幡守長治)がよく御承知で、常にそのことを話された。越中守殿はその頃60歳になられ、(徳川家の)御一門であり、御譜代の御大名には珍しき学者である。兵法は尾畑殿の印可を得らるるまで御研究になり、東海道筋の第一の御大名である、されば人皆な崇敬して居る方であるのに、その御方が拙者を大いに御信仰なさるのであるから、くだされもののことまで、委しく書付け置いた。このことは今以て家中の人々が皆な知って居らるる。

 同年、丹羽左京大夫殿(光重、二本松城主)が以前より我らに兵法をお聞きになっていたが、兵書のついでに荘子の講義をも望まれたので、折々それの講義をも申し上げた。荒尾平八郎殿や揖斐興左衛門等もお聞きになった。その時分は、我ら老子や荘子の学を好んでいたので講義した訳である。然るに武田道安が明寿院(藤原せいか)に老荘の相伝を受けていた。近代世上に荘子の講義などはなかったので、拙者が荘子を読むと云うことも心もとなきことなれば、一座して聞きたいとのことを浅野因州公へお頼みになった。ここで、因州公は拙者へお尋ねなされたので、右道安と丹羽左京大夫殿の内にて一座し、拙者の荘子の講義を聞かれた。道安が拙者を褒めること一通りではなかったと、このことは後まで因州公がお話になった。道安は医師である、殊更に学問も広く厚いが、明寿院以来にこれほどの者なしと、別で褒めたと云うことであるが故に、書き置くことにした。

 大*院様の御前へ祖心が近く仕えていた時分に、祖心の申さるるには、御序の時に、その方のことをともに申し上げておいた。折々は御上意もあること故に、必ず家中へ奉公に出るようなことはしないようにせよ、松平越中守殿はその力を大切に思うていられるから、その方が御家人(将軍直参)になるようにお取り持ちくださるように、御内意をともに申し上げたところ、それは一段良いことと賛成せられた。そこで表向きは越中守がお取り持ちくださるから、松平伊豆守も又兼てよりその方のことを御存じ故、そして祖心へもそのことを御相談なされることになって居る。そこでまずその旨を酒井日向守(忠能)殿へも仰せ遣わされてあるから、お目に懸り置けとのことであった。それで越中守の御家老三輪権右衛門を連れさせ、日向守殿へ拙者を遣わされ、お目に懸って置いた。その後、越中守殿の申さるるに、酒井法印公(忠勝、大老)へは拙者のことを具(つぶ)さに物語りしておいたから、左様に心得置くべしと。その節空印公が上意により、祖心を下屋敷(別邸)にて御饗応になった時に、拙者を召し出され、御親切にしてくだされた上、越中守殿が拙者に就いての話を細かに為されたとの御挨拶があった。久世和州公(大和守)が又上意にて祖心を御饗応になり、道春が召されて、老子経の講義をした際、和州公の仰せにより、拙者もその末座へ召し出された。後に祖心の申さるるには、このことは皆上意によったものであるから、有り難く思うようにとのことであった。

 卯年(慶安4年、30歳)、2月、御近習の駒井左京殿が、阿部伊勢守を御頼みになって、拙者の弟子となり、兵学をお聞きになりたしとの仰せであったが、幸いに御近所に北条安房守殿が居られることであれば、この方に兵学の御相伝を受けらるる方が宜しかろうと、たって御断り申し上げたのであるが、特別のお考えがあるとのことであったから、御意に任せて参ったところ、非常に御馳走になり、兵書をお聞きになって、早々御登城になった。右京殿と伊勢守との御両所間の御話は拙者はどういうことか承っていないが、脇にて承るところによれば、右京殿が拙者を召寄せられたのは、上意であったとのことである。このことを詳細祖心へ話したところ、それは大方そうであったのであろうから、いよいよ諸事を慎み、家中などへ奉公するようなことは無用なりと思えとのことであった。然るにその後、家光*去なされた。又松平越中守殿もその年12月に御逝去になった。
 翌辰の年、浅野内匠頭(長直、長矩の父)が拙者へ直接に約束為されて、色々御鄭重に為された上、知行千石をあてがわるることになった。拙者は相応の職務を申しつけらるるよう、たって願い上げたところ、いかがお考えになったのか、勤番役とか、他家への便とか、そういう職務向きのことは申しつけられなかった。定めてそれは拙者が不調法ものなるによるのであろう。ただ稽古日を定め置き参上する時に、御馳走に預かる。かく全て浪人分に為し置かれた。

 巳年(承応2)、播州赤穂へ参った時、大阪にて曽我丹波守殿は拙者の兵学の弟士なるが故に、別て御親切に取り扱われ、御馳走せられ、そこに二三日逗留していた。その時分に板倉内膳殿(重矩)が御兼職になって居られたので、丹波守殿へ相談せられて、9月21日、丹波守殿のところで、内膳殿へ終日御面会を申し上げた。翌年5月、江戸へ帰る内膳殿殿非常に饗応あり、道具等をもくだされた。

 内匠頭方に9年仕えていたが、考える子細あって、書付を差上げ、子年、大嶋雲八殿を介して知行をお断り致した。その時も知行を増すから留まり居れよとまで仰せられたのであつたが、加増や利禄を欲して、知行を断った訳でない由を申し上げ、たって断り申し、知行を返納したことである。このことは大嶋雲八殿がよく御存じである。

 知行をお断り申して以後は間(ひま)があって浅野因州公、本多備前守殿などが私宅へ御出でになった時分に、因州公がかく申された。以後は一万石でなくては、何れへも奉公せぬとその方が兼て申したことは如何にも尤もなことと思う。古来、戦国の時代には、陪臣であっても、高い知行を取った者が幾多もある。木村常陸介が5万石の時に、木村惣左衛門が5千石、長谷川藤五郎が8万石の時、島弥左衛門が8千石、丹羽五郎左衛門が12万石であって、江口三郎衛門と坂井興右衛門がその下にあって各1万石づつ取っておった。かようなことは珍しくない。

 結城中納言殿(秀康、家康の子で越前家を立つ)が越前権頭であった時分に、国持の大名にされても、以前と変わって、別に満足と思うこともないが、しかし有り難いと思うことが二ケ条ある。その第一は年来身分が立派になったならば、召抱えたいと思うていた久世但馬をば今度二万石にて召し出した。このことは大名に仰せ付けられた為にその願いが叶うたのであると仰せられたと云うことを、石谷土人(名は貞満)が物語られた。
 さて近来、我らの知って居ることでも、寺沢志摩守殿へ天野源右衛門が八千石で抱えられ、松平越中守殿へ吉村又右衛門が一万石にて抱えられた。この者共は有名な戦場をば一両度は経て居るものである。渡辺睡庵(勘兵衛)が藤堂泉州公(和泉守高虎)へ浪人五万石と云うのでなくば主取りにはならないと申したと、自分の覚書にもそのことを書いている。この者は上の両人よりも戦場にての場数も成功も多く、殊に一騎打ちの戦闘員と云うよりは大勢を指揮すると云うことを心がけたものである。これら両三人とも皆自分の承知して居る人々である。然るにその方は、もし戦闘に生まれたならば、成功は決して右の者らに劣りもすまいが、これは運命であれば、力業ではどうすることもできないことである。

 しかし、第一博学多才と云う点から云えば、今日弘文院(林羅山)を置いては、(汝ほどの者は)他にあるまじく又聖学の要点を発明したと云うことは外国にさえないのであるから、古今を通じてその方一人と云うても良い。我らは12歳から兵学の稽古を為し、畠山殿の弟士になりてその流を極め、上泉流(上泉常陸介秀胤の始めた古流儀)を習うて、上泉治郎左衛門から相伝を受け、その後、尾畑勘兵衛殿の弟子となりて印可まで取った。北条安房守殿は一層心安く日々その教をも受けて居る。然るにその方の御影で、兵学の要点をば始めて得心することができるようになって有り難い仕合わせと思うて居る。それでその方へは別けて誓紙を出して弟子と云うことになったのである。されば兵法のことはその方をば無双のもののように思う。かかる次第なれば五万石をと望んだところで、不似合いとは云われない。その上一万石にて奉公しなくては、主用に立たぬと申すことは誠に当時にありては相応なる望み、尤もの儀と云うべきである。我らに十分の領地がなきが故に(その方を抱えることのできぬは)別して残念と思う。それでその方の一門の内にて一人でも二人でも出したいと思うから同意せよと仰せられた。

 それで私はただ忝(かたじけな)い御意と存するとばかり申し上げて、そのままにしておいたところ、本多備前守殿へ度々仰せられて、たって一人だけでも良いからとて、お世話くだされたので、岡八郎右衛門16歳の時、因州公へ召し出され、過分の知行をくだされ、近習として今なお召し遣われて居るのである。ただ御親切とのみ云うばかりではない。磯部彦右衛門を御使として寄越され、八郎右衛門をば召しだしたことは御満足なりと、却って御礼を受けた。このことは因州公は勿論、松浦肥州公(肥前守*信)本多肥前守殿がよく御記憶のことであろう。松浦肥州公の御事は、以前よりその家中へ弟三郎右衛門が召抱えられて居て、漸次に御取り立てくだされ、御厚志浅からず、毎度大恩を請けて居る。そして拙者の心底をよく御存じになって居ることは、因州公よりも一層厚いのである。

 松浦公、浅野公、本多備前守殿などが御一座の時は、領分が十分であったならば、拙者に一万石や二万石をくださることは何より安きことなりと度々申された。その時、拙者が、申し上げたには御両公様が右の様に思し召さるるのは拙者まことに冥加に叶えるものと思いまつるが、拙者のことを御承知なき方々は定めて途方もなきたわけものと思われるであろう。各様が御崇敬くださるるのを誠と思い、かくの如く高ぶりたることを申し居ると為すであろうと。ともかく因州公は御老年と申し、御学問も只今の御大名の内にこれほどの御方はなく、その上に紀伊守殿や但馬守殿の御家には、諸家に於いて名高きもの大勢を召抱えられ高い知行を受けて居る者もある。大方これらの人々の御話も御聞きになって居ることでもあり、殊更に兵学のことは兼て申された通りであるから、拙者輩がかれこれ批判すべきはずのものではない。松浦公は因州公よりは少々御年若で御自分文学(学問)とてはないが、昼夜書物を聴かれ、文武の諸芸から、儒仏の御勤め怠りなく、その上当代の古老どもを毎度御招請になって、御当家や、上方(京都)衆の近代の物語等、大分に御承知になって居る。近年御家中へ多くの人を高き知行にて差し置かれ、最も能ある者をば御使になって居る。それで中根宗閑とか、石谷土人とかは常に申して居る、家中の作法や、人の遣い方等、若年には珍しき武将なりと。その方々が度々申されることをば、石谷市郎右衛門殿又拙者等も聞いたことである。されば、この両公様のことは、御自分の勤めより始めて御家中や御領内に至るまで、御作法、御裁決、まことに残るところなしと、恐れながら思う次第である。然るに(かかる御方等から)一度や二度左様なことを云われたとて、それは時に応じての御挨拶として置くべきであろうが、度々仰せられることであるから、(一万石ならではと云う)拙者の存念も立つと云う訳で、安堵した訳である。拙者のことを御承知の御方々には(召抱えるだけに)十分なる御身分がなく、御承知くださらぬ方々は、途方もないものと思わるるであろうから、拙者は当分永の浪人と覚悟して居るから、諸事逼塞して居るところ存知て居りますと、その節申し上げておいたことである。

 山口出雲守殿が御出でなって申さるるには、津軽十郎左衛門(越中守)殿の仰せらるるには、津軽越中守(信政)殿は知行高は少ないが、土地広く新田も多いのであるから、禄のことはその方の意のままにするから、このたび初めて領地へ行かるについて、拙者に随行して行くようにと御頼みになったと。それに対して、拙者申し上げた。まず以てそれは忝いことであるが、しかし越州公別て拙者に御目掛けられ候とも、何と云うともまだ御年若で居られる。しかも十郎左衛門や出雲守殿が仰せられることであるにしても、家中の人々、又他の人々が、このことを聴いて、御年若の方へ、よいように申し上げて、かようなことをしたのであろうと、後々まで批評せらると云うようなことがあっては、迷惑の至りであるからご免を蒙りたしと、かくお断り申し上げた訳であった。その後になって、津軽十郎左衛門殿御死去の時に、遺言にして拙者が(越中公へ)参候するようにと申し置かれた。そのことに就いての御底意を慮(おもんばか)り、越中公へは弥々御懇意のほどを忝く思うて、参上して居る次第である。

 村上宗古老が別て拙者に申されたことは、各が承知のことである。宗古老が拙者方へ御出の時に申さるるには、我らは若い時より、ことにつけて師をとり誓紙を出して弟子入りしたことはない。殊更武芸などは、特別に人に習うたことはない。世上に軍法者と云う者多くあり、自ら師となって居るものどもが我らの所へ来て、軍法の話をしても、我らの関心するものは一人もない。これは渡辺*庵と日夜心安く話して居て、古来よりの軍法や弓矢の話をも毎度聞いて居るからであろうと思う。然るに近年その方に逢うて、軍法兵学の話を聞き、それに就いての色々批判論議などをして見るに、毎度耳を驚かすのである。睡庵は方々奉公して歩く人としては、近代稀なる武士と思うが、しかし軍法兵法の議論となれば、その方の前では口もきけぬことであろうと思う。それに就いては、自分は当年53歳で老学甚だ恥じ入る次弟ではあるが、今日始めて誓紙して、その方の兵学の弟士になりたしと、かく申された。

 私が御答え申すには、私事をさほどに思し召さるることは特に忝く存する。古戦の物語や武功ども度々御話を承って、拙者こそ深く有り難く存じて居る次第である。何事によらず相伝と云うようなことは思いもよらぬことであると申したのであるが、たっての御望であったので、その意に任せて誓紙をなされることになった。その時分、林九郎右衛門こと弥三郎と名乗って居られた時で、宗古老とは懇意の間柄であつたから、このことをよく知って居られるであろう。
 寛文6年午10月3日、未の上刻に、北条安房守殿より手紙をよこされた。切紙に自筆で、(略)

 かく返事を認(したた)めて出した。まだ夕飯を済ませていなかったので、食事を心よく済ませ、行水を為し、これは唯事ではあるまいと考えられたので、立ちながら遺書をも認め残しおいた。尤も死罪にでもせらるることならば、公儀へ一通差上げて、相果たつべく考え、これをも書いて、懐中した。このほかに五六ケ所へは簡単な手紙を書いた。わざと老母へはこのたびの事を申しやらず、宗三寺(牛込にある父を葬りし菩提寺)へ参詣し、供人をばできるだけ省き、若党二人だけ召つれ、馬にて房州公の宅へ参った。四日には津軽公へ行く先約のあったことを、同公の門前で思い出したので、明日は参上できないことを、使いをして申し上げしめて、北条殿へ参った。すると門前には人馬が多く集まって居て、今から何れへか出向かう気勢であった。その有り様は、もし拙者が参らなかったならば、すぐに押し寄せて、拙者の宅をば踏みつぶしになさるつもりであるように思われた。私は刀を下の者に渡し、座敷へ上りて笑いながら、何事ができたのですか、御門前には殊のほか人が集まって居ますがと云うて、奥へ通った。暫くして、北条殿が出てこられ、お逢いしたのであるが、
北条殿の言わるるには、入らざる書物(聖教要録のこと)を書いたものであるから、その方は浅野内匠頭の所へ御預けと云うことに(罪が)定められたから、直ちに役地へ参るべきである。それで何にまれ内へ用事があらば申してやるべしと、別て丁寧に申された。

 福島伝兵衛が硯を持って拙者の傍へ参り、申し遺したき事あれば、伝兵衛が御取り次申すべしと言うた。それで私は北条殿に向うて申しあげた。かたじけのう存ずる、しかし平常家を出る時には、跡に心残りのないようにとつとめて来て居るから書付け置いてある、今更申し遺るべきことは何もござりませんと。その内に島田藤十郎殿もお出でなりたれば、北条殿も座敷へ列座せられて、その席へ私を召し出された。それで脇差を置いて、私がその座へ出頭したところ、北条殿、島田殿互に会釈があり、そして
北条殿が仰せ渡さるるには、その方事は不届きなる書物を書いたによって、浅野内匠頭へ御預けなさるることに、御老中から仰せ渡しになったとの事であると。それで私は御返答申し上げた。まず以て御意の趣きかしこく御受け致しますが、しかし、御公儀様に対して不届きなりと仰せらるるが、それは右の書物の何れであるか、承りたいことであると思うと。すると、房州殿は、島田殿の方に向かわれて、甚五左衛門には申しわけもあるならんが、かく仰せ付けのあった以上は、申す訳にも及ばぬことであるとの御言葉であった。それで私は申し上げた。左様の御意見ならばとかくは申しませぬ、そう申して席を立った。御歩行目付(おかさめつけ、目付役に所属する警吏)衆が二人そこに居ってけ、内匠頭の家来を召し出して(拙者を引き渡すことの)命令せらるのに如何にも騒がしき有り様であったから、私は笑って、一礼して出たことである。その際の作法は立派であって残る所なかりしと、(引き渡しを受けた)内匠頭のものどもが、その晩に拙者へ噂を致していた。

 内匠頭の所へ参っても一般の人には誰にも面会はしなかった。浅野因州公より磯部彦右衛門が来られた。それには面会をしても差し支えなしと(内匠頭の)家来どもが申したけれども、その人にも逢うことはしなかった。その節は随分不仕合せのことであり、迷惑至極ではあったが、皆な(表向きの事で仕方ないからそうせられたので)心の底から申されたことは少しもないのであるから、小事にしてすら申し置き、又申し遣わした事ども、一つも忘れては居ない。
九日の未明に当地(江戸)を出発することになって居たが、御公儀よりの仰せには、この者には大勢の弟子や門人があるから、徒党を作って何らかの計画をするやら知れず、されば道中は勿論、江戸出発の時、芝や品川等にて奪い取るという計画もあるかも知れぬから、油断してはならぬとのことであったとの事である。護送の為に付いて居る者も心配して居るのであるから、朝より昼時、又昼休みより夜の泊まりまでは、大小便をもしないように心得て、同月24日の晩に赤穂へ到着した。我らはもとより、一匹夫なり。然るに一人の采配で大勢の者を従えて居るように人々が噂するのであるが、これは不仕合せなる内にも、少しは武士の覚悟ありと云うことになると云うべきか。この段は色々の噂もあったようであるが皆虚説風聞であったと云うことに漸次なって来たので、赤穂に於いてはいと心易く暮らして居る。
 我ら配所と云うことに定められた際、北条殿より呼び出しがあった時、死罪となるか流刑になるか分からなかったから、もし死罪ということにでもなったならば、一通の書付を提出せんと考え、それを懐中して居った。その原稿が今に残って居る。この節は人間の一大事をも相究め、(人生)50年のこと夢の醒めたようになって居た時であったが、いささか心底に取りみだしたことはない。尤も迷惑はした。このことは日頃学問工夫を勤めた故であると、全く存じて居る。人間のことは一生の間にかかることはあるべきことであるから、自分の覚悟のほどを次の如くに記して置いた。

 
蒙(愚、拙者と云う意味に同じ)、二千歳の今に当り、大いに周公孔子の道を明らかにし、なお吾の誤りを天下に糺(ただ)さんと欲して、聖教要録を開板せるところ、当時の俗学腐儒身を修めず、忠孝を勤めず、いわんや天下国家の用などはいささかも之を知らず、故に我が書に於いて一句の論ずべきなく、一言の糺すべきなく或いは権を借りて利を貪り、或いは*を構えて追*せり。世皆之を知らず、専ら人口に任せて虚を構え、実否を正さず、その書を詳らかにせず、その理を究めず、強いて書を嘲り、我を罪す。ここに於いて我始めて我が言の大道にして疑いなきに安んず。天下之を弁ずるなし。それ我を罪する者は周公孔子の道を罪するなり。我は罪すべく、しかも道は罪すべからず、罪人の道を罪する者は、時世の誤りなり。古今天下の公論は遁るべからず。凡そ道を知るの輩、必ず夭災に逢うこと、その先*(先例)尤も多し。乾坤(けんこん)倒覆し、日月光を失う。ただ怨む今世に生まれて、而して時世の誤りを末代に残さんことを、これ臣の罪なり。誠*頓首 山鹿甚五左衛門 10月3日 北条安房守殿

 これは懐中にしただけである。もし死罪にせられたならばと思いしも別条なかりしが故に出さなかった。この文は立ちながら書いて点を付け、懐にしたので、今日取り出し見るに、書きよう宜しからざるものがあるようにも思う。恐れながら日本大小の神祇に誓う、一字も改めたものはない、誠に我らの辞世の一句である。

 我らは以前に知行を断って、内匠頭殿の家を出たのであるが、今度は(その)内匠頭殿へ御預けと云うことになったのである。然るに配所にある間、別して親切にせられ、常に申さるるには、御預けと云うことにならなかったならば、その方は再びこの地へは参らなかったであろう。(幸いなことであるから)内々には随分馳走して遣わすべしと。それに就いて衣服食物家宅に至るまで、種々御丁寧に取り扱われた。大石頼母助(家老、良雄の父)は朝夕入り用の野菜をば、毎日二度づつ送って寄越される。江戸にいた場合もその通りにしてくれた。それで右の事を断ったのであるが、頼母助の申すには、これは全く自分の意志から出たことではなく、内匠頭殿が大切に思わるる拙者故に、かくするのであると申された。尤も配所にある間は(幕府よりの)御預かり人と云うことであるから、それに対して無法なことがあってはならぬと、家中の者にも鄭重にすべしと申しつけられたと。内匠頭が拙者の所へ御出でになっても以前よりかは却って慇懃(鄭重)になされるので、迷惑に感じて居る。
 我らが(思し召しにより)参上し、兵学や学問を御聞きになり、我らの弟士に御成りの方々には、松平越中守殿を始めて、以上申す如く(内匠頭は)別て御崇敬なさるる。そのほか板倉内膳正殿などは、御老中になられても、度々御断り申したのであるが、御承知がない。浅野内匠頭は主人でありながら、上々様へ口切りの茶を献上せられた後に必ず拙者へもくだされ頂戴せしめられて居る。*女殿(長直の嫡子長友)はなおその通りにせられる。その外の御方も、大抵同様、上々様へ献上の口切りの茶をばくだされる。尤も以前御出入りして居た諸侯も、私が参上する時は御送迎になり、御開門をも御命じになるというほどであって、御鄭重なる御取り扱いに却って迷惑するのであるから、毎度御断りをしたのであるが、そうではない、私への礼義とは考えず、兵法の礼義であり、師弟の道なれば、(左様にするのである)と仰せられる。しかし如何にしても勿体ないと、度々御断りした。

 凡下の拙者であり、無徳のものである、ただ御思し召しによって御指南は申し上げては居るが、左程までにせらるるだけの御伝授もできないから、迷惑致すと度々御辞退をしたのであるが、(何れも聴き入れられない)、侍従(の位にある人)四品(四位にある人)諸大夫(五位の人)の御方々に、かくまでにせらるるのは天命恐れ多きことであるから、せめては自分には奢のないよう、日夜の勤めいささかも怠らないようにするのが、この上の我らの慎みなりと、覚悟を定めたが故に、この如く常に子孫どもまで教え戒めおく。

 今年で既に配所に居ること十年である。ただ今は一層天道の御咎めと云うことを考える。病中以外には一日と雖も朝寝はせず、不作法な体裁も致さずに居る。このこと、即ち朝夕為し居ることは、下下の者までよく承知のことであり、就中磯貝平助殿がよく存じて居る。以前よりかくの如く心掛けて来たものであるから、益もないものかも知れぬが、
我らの述作せる書物が千巻ほどあるをもって言うならば、三韓を平げて貢物を献げしめ、高麗を攻めてその王城を陥れ、日本府(任那府)をそこに設けて武威を四海に輝かした。これは上代より近代までそうであった。本朝の武勇はかく異国までも恐れしめたが、終に外国より本朝を攻め取りたることはさて置き、一ケ所たりとも奪われたことはない。されば武具馬具剣戟(げき)の制、兵法軍法の各種、何れも彼の及ぶところではない。これは武勇の四海に冠たるによるのではないか。そもそも智仁勇は聖人の三徳である。この三徳の一つを欠いても聖人の道ではない。今この三徳を以て本朝と異朝とを比較し、一々にその印を立てて考査せんに、本朝はるかにまさって居る。誠に正しく(本朝をば)中国と云うべき理が明らかである。これは更に私言ではない。天下の公論であり、既に上古聖徳太子独り異朝を尊ばず、本朝の本朝たることを知られた。しかし旧記は皆入鹿(蘇我)の乱の際に焼失してしまったのか、惜しいかな、その全書現われない
 学問の筋を云えば、古今共にその類(品)多し。故に儒教仏教神道共に各一理あることである。我らは幼少より壮年に至るまで、専ら程子朱子の思想を研究しのであるから、その頃の著作は皆な程朱学派の思想に止まって居た。中比には老子や荘子を好み、玄の玄なるもの、虚無と云う如き境地をば本なりと考えた。又この時分には別て仏法を尊び、五山(鎌倉の五禅寺、京都の五禅寺)の諸名僧知識にも逢うて参禅し悟道を楽しみ、その為には来朝した隠元禅師へも相見したのである。しかし我らの不器用の為にか、程朱の学をやると持敬静座(敬と云うことの工夫を静坐して考える方法)の工夫に陥ってしまい、かくして得られたる人柄は、つまり沈黙と云うことになるように思われる。

 朱子学よりは老荘や禅の作略は一層活達自由であり、性心(本来の面目)の作用とか、天地一枚になると云うような妙用等、如何にも高明なるように思われる。何事をやるにも本心自性と云うところから出る働きを以てやるのであるから、渋滞がなく、乾坤を打破して一片とすと云う如き、万代不易の一理、如何にも*々(悟、静)洒落なるところのあることは疑いなしと考える。しかしかかることは今日日用事物の上に就いて考えるとどうも会得のできぬ点がある。それは我らの不器用の為でもあろうからと考え、今少しよく会読ができたならばこの疑問も去り、根本のところへ到り得るであろうと思うて、弥々この道を勤めて来た。或いは又日用事物の上のことは甚だ軽いことであるから、左様なものはどうでも良いとも考えられるが、さらばとて、五倫の道に身を置いて、日用事物を処理すると云うことにすれば、それをばどうでもよしとなし置くこともできず、そこに故障が起る。

 樹下や石上に坐禅し、閑居独身の生活を為し、世間の功名と云うことを捨て去れば、成るほど無欲清浄になり、言語にて尽せぬ点もあり、妙用自在と云うこともあるであろうと思う。しかし天下国家四民のことに関しては、それではならぬことは言うに及ばず、小さなことに就いても、それでは世上一般の無学なる者ほどにも合点が往くまい。或いは(儒教の言う如く)仁を体認すれば、一日の間に天下のことが済んでしまうとも考えられ、或いは(仏教の言う如く)慈悲を本とすれば、過去永遠の罪滅ぼしと云う功徳になるとだけ云うのであるが、実はかかる学問は世間と学問とをば別の事と為す所以である。他人は知らず、我らにはかく考えらるる。これでは学問の至極ではあるまい。それで儒者仏者にも尋ねて見、大徳の人と云わるる人にも右のことを尋ね、その人のやり方等を見聞したのであるが、それらは何れも世間とは合わず、皆な事物と別になって居る。神道は本朝の道ではあるが、旧記は分明でなく、ことの一端のみで全体が整うていない。これには定めて天下国家の要法が書いてあったのであろうが、入鹿の乱後旧記絶えてしまったことと思う。かくの如く学問上の不審が起ったので、弥々広く書を読み、古の学者どもの言い置いたところのものをも考えて見たのであるが、不審の箇条は一向解けない。これは我らの料簡が違って居るからのことであろうと思い、数年来この不審の点が分からずに居た。

 
寛文の初め頃、我らの思うには、漢・唐・宋・明の学者の書を見て居ったから、合点がいかなかったのである。直ちに周公孔子の書を見て、これを手本として学問の筋を正し申すべしと。それからは、一般に後世の書物は用いず,ただ聖人の書だけを昼夜に勤め考えて、初めて聖学の道筋分明に心得、聖学の規範を定めたことである。それは例えば紙を真っ直ぐに裁つに当り、如何様に力を込めても、定規と云うものがなく、ただ手に任せて裁つとするならば、正しくはならぬ、又自分だけは(熟練すれば)正しく裁つことができるかも知れぬが、他人にもそうさせることはできない、然るに定規を当てて裁てば、大体例え幼若の者でも先ずその筋目の如くには裁ち得るのである。その間に勿論上手下手ということはある。しかしその筋目だけは一通りできるのである。然れば聖人の道筋と云うのは、その書をよく得心すれば、即ちその定規を知ったことであるが故に、何事によらずその人の学問次第、その道の合点ができる。これ故に聖学の筋には文字も学問も不用なり。それを聞くだけで今日の事を如何にすべきかの得心ができる。工夫だの持敬だの、静坐など、いらないことである。されば、例え言行正しく身を修めて、千言万語を暗記したとするも、それは雑学と云うものであって、聖学の筋ではないと、分明に知り得らるる。

 
又一言反句の間にもこれは聖学の筋目を知って居る人なりと識ることができる。これは定規を以て正しく堪え得るからである。ただ今は見られず聞かれざる事物に関しても、右の学筋より推及すれば、十の内五つ六つは知り得られる。然るに俗学雑学の輩は、十の内三つだけさえも合点がいくまい。このことを我らは確く信じて疑いはない。それで世上の学無なる者に所謂博学なる者が劣って、人にも笑われるようなこてもできるのである。い型なくして鉄砲玉を削り、定規なくして紙を真っ直ぐに裁んとするが故に、労して功なく、常に苦しみて益更になく、学問をすればいよいよ愚かになると、我らは考える。

 学問の筋には種々ある。或いは徳を積んで仁を練り、工夫静座を専らとするものあり、或いは身を修めて人を正し、世を治平にし、功成り名高くなるのがある。或いは書物を好み著述詩文を専らとするものもある。而してこれらの種類にも又各上中下の差もできて様々の心得と云うこととなる。しかし我らの考えでは徳を以て人を感ぜしめ、もの云わずして天下自ら正しく、衣裳を棄て四海平に文徳を修めて敵が自ら感服せしめられると云うようなことは、黄帝や堯舜時代ならいざ知らず、宋代の今日では学び得ないところのことである。これをその型ばかり似せたところで、その験はないことである。それでかく考えるような学者は、その志は如何にも高尚であるが、終いには世に背いて山林に入り、鳥獣を友とすると云うことである。

 又書物を好み、詩文著述をこととすることは、之は学の慰というものであって、日用のことではない。但し文章も学の余分であるから、敢えて嫌うべきではない。故に余力の暇には詩歌文章も棄つべきではない。しかし我らが考える聖学と云うことは、それを以て身を修め人を正し、世を治平にし、功成り名遂げるように致したいものである。かく云う所以は実に我らは今日武士の門に生まれた、身についての五倫の交わりがある。されば自分の心得作法、外に五倫の交わり、(かく)内外共に武士たる上の勤めと云うものがあるからである。その上、武門に就いての仕事がそれぞれ大小種々ある訳である。

 小事に就いて言うならば、衣類食物家の作り方、用具その用方に至るまで、武士には武士の作法があるべきである。殊更武芸の稽古や武具馬具の製作やその用法がある。大にして之を言えば、天下を平に治めること、礼楽の種類、国郡の制、山林河海田畠寺社、四民の公事や訴訟の裁判、政道兵法軍法陣法営法戦法等がある。これらは皆な武将武士たるものの日用の業である。されば武門の学問と云えば、ただ自分のみ修行しても、それぞれに当りてその験なく、功を立てるにあらざれば、聖学の筋ではない。この故に、以上の各に当りて工夫考察が必要であり、それに関しての旧記や故実をも考えなくてはならぬのであるから、それ以外に(特に)工夫黙識静座など致し居る暇のあるべきではない。さればとて又かく限りない種々の業を皆な習い知り尽すべしというのでもない。前にも云う如くに、
聖学の定規、い型を能く知り規矩準縄に入ることができれば、見ることよく通じ、聞くことよく明らかとなり、如何様の業来るとも、その批判や勘え方が明白に知られるのであるから、事物に逢うて屈することなし。これが大丈夫の意志である。誠に心広く体豊なりとも云うべきである。この異議での学が相続する時、知恵日に新たにして、徳自ら高く、仁自ら厚く、勇自ら立って、終には(老子荘子の言う如く)功もなく名もなく無為無妙の地に至るべきである。されば功名より入れて功名もなく、ただ人たるの道を尽すのみである。孝経に言う。身を立て道を行い、名を揚げれば、後世に於いては、孝の終り也と。
 以上、書付け来りし種々のことは、自讃のように聞こえるかも知れぬが、何れも遠慮すべきことでもないから書付けたという点に、我らの覚悟のところがあるのであるから、よくよく心して読むべきである。近年は配所へ参ってから十年となった。凡そものは十年にて変ずるものである。されば今年我らは配所に於いて打ち果てて、最早死期到来と覚悟して居るのである。我らの始終の動静はところどころに書いて置いたが、親切にしてくだされた御方も漸次残り少なくなってくるのであるから、我らの以前からの成り立ち(経歴)、勤め方、並びに学問の心得をばよく耳底へ留め置き、我らの所志の立つようにに勤められんことを切に希望する。最初に書き置きたるが如く、余は天道の冥加に叶うてかくの如くになったのであるが、第一には愚蒙ではあるが、日夜努力精進した故なりと思う。されば各々が自己の才学(の参考)にもなることと思うが故に、その時の話の例え、物語まで残らずここに記し置く。若年の者はかかることまで能く覚え置くことが大切である。(これは)他人に見すべきものでないが故に、文章の前後等ただ筆に任せて書いたのみである。よくよく得心せらるべきである。

 藤助(嫡男)が生長したならば、利禄よき仕合わせを願うと云うようなことは止めて、子孫に至るまで不義無道の言行のないように覚悟するように為されたい。それが我らの生前の大望であり、死後の冥慮であるから、この如く記し置いたのである。磯谷平助にこの書を預け置く。よってかくの如し。以上

 延実第三卯正月十一日  山鹿甚五左衛門高興(花押)

 山鹿三郎右衛門殿 岡八郎左衛門殿

 半紙一通合文一 
 四年以前卯年6月に私儀は御赦免を蒙りて、8月当地へ到着した。同14日、浅野又市郎(後の長矩)の家来大石頼母助と同道にて久世大和守様へ挨拶に参上した。その節両人へ直に仰せらるるには、以前より近づきであった者との出入りは許すが、浪人などを集めることは無用たるべし、住居は何れなりと心任せであると申し渡された。右の御意は今日まで堅く守って居るのである。その時より浅草田原町に借家住まいを為し、今もなおそこに居る。近年は病者となって残念ではあるが、行歩不自由であるが故に、大方はどこへも出ないで居る。当地着以来、以前よりの因縁を思われて、戸田左衛門公(氏包、大垣城主)やその他の御方から医者を遣わされたが、それへも御礼だけ申し上げるのみで、一度も御見廻(まい)も申し上げない。数十年以来、縁あって御目をかけられた御方々へは、自然御目にも掛って居る。これすら四年以来度々参上したことはない。浅野又市郎、松浦肥州公は之は特別な関係ではあるが、これすら少々のことにしていて、常には御目廻い申し上げずに居る。津軽越州公のことは前々より親切に致されて居る因縁にて、私一族の内で一両人御家中に奉公致して居る。只今は拙者の娘(鶴)を御家中へ嫁に遣わして居る。然れば右御三家のことは、主人同意と考え上げて居るのであるから、折々はこの方より御機嫌伺いに参上致しても宜しいこととは思うが、御断り申して、大方は参らないことにして居る。娘も御屋敷の内に居ること故、逢いたいとて参ることも遠慮して居る次第で、少々のことなれば参らずに居るのである。

 四年以来縁故のない者には近づきにはならぬ、御大名衆へも新しく御出入りも致さぬ、小身の御方へは、一人も近づきにならぬ。殊更縁故のない家中の衆や浪人等はお断りを致して近づきにはならんで居る。

 上野御門主様(輪王寺宮)へは冥加の為に一年に両度は必ずこの方より参上する。久世大和守様、土屋但馬守様(数直、老中となる)へは御機嫌伺いの為に折々参上致すべきなれども御用多きことであるから、わざと引き延ばして居る、当年も年頭の御礼に漸く正月末か二月頃に右御両所へは一度参ったように記憶して居る。道具を人にやると云うような噂があるようであるが、左様なことは少しもない。倅(せがれ)や弟や婿(むこ)どもには、自然古びた道具をくれることはあるが、れっきとした御方へは申すに及ばず、家中の人、浪人、その他の人に道具をくれたようなことは決してない。

 拙者が松浦肥州公や津軽越州公の御家中の裁判のことに口入れをし、色々新法を立て、下々の者が迷惑することを申しつけたなどと方々に噂があるよう聞いて居るが、甚だ存じ寄りもないことである。娘が縁づいた際にも、隣家でも之を知らなかったほどに軽く取り扱うておいた。松浦肥州公とは御近所でありながら、縁づいたことを御承知なく、御使者もくだされなかったほどに軽きことであった。然るにこれもその時かくかくの大ぎょうなことを拙者が致したように申し触れしたのであるが、その一ケ条でさえ左様なことを為した覚えはない。只今は世上に拙者の名を売って方々へ兵学の師となるものがあるようにも聞いて居る。書物屋でも拙者の著作と云うて、高値にて方々へ売って居る本があると云うことをも聞いて居る。風聞故に偽りであるかも知れないが、四年以来と云うものは、師となったこともなければ、又書物を他所で出版したと云うこともない。

 失礼ながら申し上げる。拙者が四十年以来御思し召しによって御目に懸り居る方々、御歴々方は申すに及ばず、家中の衆、縁故によりて自然に参ったと云う浪人に至るまで、不義不作法を為したと云う者は、今日まで一人も承らない。先年、悪人ども徒党をして罪せられた際も(由井正雪事件)、私方へ出入りするものは申すまでもなく、近づきの人にも、一人もなかった。これは拙者が冥加に叶いし事故と思うて居る。尤も日比は縁故のない浪人等とは、堅く出入りしないように十分に心懸けて居ることである。

 拙者ごとは配所にて朽ち果てる覚悟にてありしが、各様の御影故、思いがけない冥加に叶うて、母の存命中に(江戸へ)帰ることができ、母と三年一所に移し、去年母はなくなった。今生の願いが叶うて有り難く存ずる。その後、病人となり、弥々何れも参らぬことにして居る。拙者事は元来凡下のものなるが故に、自然歴々の御方へはこの方ゆのお断り申して御出入りを致さぬことにして居る。それに就いて、酉年の大火(明暦3年正月5日の大火災)以後、高田へ引き込んで居て、大方は出ることがなかったが、その時分とは、只今はなお老衰もしたのであるから、逼塞致し居る次第である。

 拙者の如き凡下の者が御公儀の御恩忝しと存するなど申すことが、既に失礼千万とは思うが、天下かくの如く治まり静かにして、その為に又数年静かに勉強することのできたことは、恐れながら天下の恩浅からざることと、有り難く存じまつる。殊更思わざる御赦免を得、江戸へ帰ることのできたのであるから、弥々以て日夜相慎み居るわけである。これが時分に相応しい志であるべきなりと、恐れながら考えて居る。もし戯れにも不義不忠なることを口より申したならば心もそれにうつりて冥加が忽ちに尽きるべし。このことは堅く勤め居るように、倅どもにも平生教戒して居る。されば御公儀様を軽しめたり、御法令を無視したり、御作法を批評したりすることが、仮にもあったとするならば、恐れながら冥罪甚だ重しと常々慎んで居るのである。就中四年以来は拙者を色々御世話くだされし御方々へ御苦労をかけることがあってはならぬ、もし左様なことがあれば、生々世々の迷惑なりと(考え)、不覚悟なること聊かもなきようにと、朝け暮れ心懸け居るので、このことは巳前より御目掛けくださるる方には、よく御存知のことで、今更申すまでもないことであるが、序ながらかくは申し上げる次第である。以上。

 10月16日 山鹿甚五左衛門  
 半紙一通合文二
 拙者事は凡下無徳の者にて、歴々の人様への御前へ出られるほどのものではないのであるが、若輩の時分より御歴々様が御目を掛けられ、御世話にも預かって来た。これは私の徳の然らしむるところなりとは少しも考えて居らぬ。皆天道の冥加に叶いし故の事なりと存じ居るのである。右の通り故に、弥々逼塞し、高田にあっても、御近付きの人々を省き、浅野因州公、松浦肥州公だけには参上するように致して、その外の御方々へは大方に致し居る。然るに思わずも配所を仰せつけられ、十ケ年彼地に参って居た。日々老衰致し、帰ってから四年になる。只今は活きて居ると云うだけの有り様である。今少々は余命あるようなれば、その間何卒義理に相違しないように勤め、そして死にたいと覚悟をして居る。

 右の次第、自分と云うものには不似合いのことをかく書付けると云うことは、別て心に迷惑を感じて居ることである。しかしこの事は以前から御目を掛けさせられた方々は皆な御存知のこと、就中松浦肥州公よく御存知の御事である。配所へ参ってからは13年になり、その内に参上申し上げていた御方々は御死去になり、只今は残って居らるる方が少なくなった。されば新しく拙者のことを御聞になされる方々は、一己独身のいたづら者のように思わるるであろうが、それは迷惑のことであるが故に、無益のことのようでもあるが、かくの如きことを書くのであるが、しかし何か事新しく言い立てるようで、如何はしくも存じもする。以上

 10月16日 山鹿甚五左衛門
 半紙一通合文三
 当(延実6年)5月14日に渡辺源蔵殿が本多下野守(忠平)殿の御饗宴に参られたとかで、拙者の宅へ押しかけて、御見廻いなされたから、御目に掛かった。しかし御立ち寄りの御礼にも参らず、駿府へ(役儀の為に)御立の節に御暇乞にも病気の故に参らなかった。酒井河内守(忠明)様の御内の地内與一兵衛は拙者の弟子筋であり、殊に浅野又市郎殿の家老である外村源左衛門の婿と云う関係の人である。当地へ帰ってよりその源左衛門から度々「近づきになりたし」と申し出たるも、断りて延引致して居る。当5月16日、外村源左衛門が右の與一兵衛と同道にて参ったが、当方よりは礼の為に使をさえ出さないぐらいのことで、一度も見廻いに参ったことはない。この外確かなる縁故の家中衆や与力衆(奉行の配下で同心を指揮する役目の者)などが自然に私の所へ参ることはあるが、縁故なき衆が、新しく近づきになると云うようなことはできないのである。

 数年、拙者へ御目を掛けらるるは板倉内膳公、浅野因州公、松浦肥州公である。何れも拙者に対して師恩忘れ難しとのことにて、毎度自筆の恩手紙をくだされて居る。その手紙の一々が今もなお残って居る。然るにその内膳公が、拙者に不届きなることがあると云うように申されたとかの風聞を聴いた。風聞のことであるから、偽りとは思うが、心元なく思うものから、松浦肥州公まで委細申し上げたこともある。右の書付には種々不調法のこともあり、文言の前後もあり、又思わず失礼に当たるような言葉もあって、上々様の御耳障りにもなる所があるかも知れない。恐れながら心元なく存じて居るのである。拙者は十ケ年も蟄居して居り、帰ってからも逼塞して居るので、弥々世上のことにも疎くなって居る。それで書き違えなども所々あることであろう。御覧になったならば、御用捨てくださるるように御取りなしくだされたい。以上

 10月 16日 山鹿甚五左衛門
 板倉内膳公へ法泉寺にて拙者が御無礼申し上げたと申されたと云う風聞を承った。板倉公が御老中になられた時は、拙者の親が病気中であり、やがて、相果てたので、当方より御目見えは申し上げず、忌中忌明の後も、度々御使者をくだされ、毎度丁寧に仰せ下されたけれども、忌明後も拙者が病気になったが故に、御礼に参上もしなかった。翌年4月5日、始めて御礼に参ったが、その節は御他出中で、御目に掛かることができなかった。その後4月29日に拙者の近所の法泉寺へ御出でになり、そこへ参って御目に掛かるようとの仰せであった。尤も他には人がなく、石谷市右衛門だけが参られるのであるから、ゆっくり談しをするように参れとの御自筆の手紙をくだされたのである。それで法泉寺へ伺候した。拙者が参上の後に板倉公が御出でになり、御迎えの為に庭上まで出でたのであった。公が御着座になった後に敷居を隔てて度々御使者をくだされ有り難く存ずる旨を申し上げた。すると仰せられるるには、左様に堅くろしくては、話し合う訳には行かぬ、外所又は多人数の時は特別、今日はいつもの如くに内へ入り、遠慮なく御話し申し上ぐるようにせよと、再三仰せられたので、御心に従い恐れながら御一座へ入った。その時、御同氏石州公(板倉石見守)も御出になって居た。料理が出たので、まづそれを召しあがって御話などあった。板倉公の仰せらるるに、不徳の我らに大役(老中役)を仰せつけられ有り難く思うところであるが、何事も心元なく思う。第一天下の政は何事を専要とするべきかと御尋ねになった。拙者の如き凡下の者が天下の政道はかくあるべしなどと考え合わすことなどないが故に、自分の工夫と云うものはない。古来より聖人の申し置きたることは、天下の政は仁を木として礼を行うだけのことであると様に申し伝えてあると御返事申し上げたが、少々御合点がいかなかったのか、仁は左様でもあろう、礼は大事のものなりと、軽く御挨拶された。

 次に仰せられたのは、保科肥後守殿(正之)の学問の筋はどう思うカとのことであった。拙者は保科公に御目に掛かったことがないから、存ぜぬと申し上げたところ、その方の思うところはどうかとの仰せであったから、未だ拝顔をも得ず、ただ風聞のみによって申し上げることは、間違いの多いものであるが故に、申し上げ難しと申し上げたところ、たっての御尋ねであったから、私は申し上げた。ただ風聞のみで申し上げれば、御学問の筋は失礼ながら、私どもの学問と考えて居るものとは相違あるように思うと。すると仰せらるるには、この方もそう思うとのことであった。

 次に京都の所司代(守護の役)には誰をやるべきかとの仰せであった。拙者は(誰が問題になって居るのか)承って居ないと申し上げたところ、石谷市右衛門殿が永井伊賀守殿を指して申さるるのだと申された。私は永井公はまだ御年が若いではないかと申し上げたところ、年の老若には及ばぬ、力量次第のことではないかと仰せられた。

 次に世間はどんな評判をして居るかとの御尋ねであったから、私は申し上げた。世上の風聞は全然承っていない。世上の風聞と云うものはさして益もないことかと申し上げたところ、仰せらるるには、世上には能ある者も多くあるべければ、それらのものの為す風聞を聴くのは良いことではないかと仰せられた。それで私は御返答申した。御歴々と云う内にさえ、賢人君子と云うべき人は少ない。然れば下々には能者と云う者は大方ないと云うて宜しい。もし能者があるとしても、風聞などは致すまい。風聞するような人は、大方は御大名衆へ出入りする軽い町人風情のことであろう。(世上に賢き者)即ち世才に長けた者のすることでありませうと。公は更にその世才に長けた者の云うことでも良いから、申せとのことであったので、私は申し上げた。恐れながら左様には思いませぬ、世間賢き者は、時代の勢いに従ってよくつとめる者であるが故に、上々様の能く思われることは、能く云い、御憎みになるものをば悪く云う、少しでも秀で居るものを障へ、我が身の立つように工夫する、他人のことをよきように申して、実はそれをそしり悪むのである。かかる者の申すことを御計上げになると云うようなことがあつたならば、それこそ大事のことであると存じ申すと申し上げた。すると、古より堯舜も賤しき者に事を尋ねられたと云うではないかと、公が仰せられたから、私は申し上げた。それは賤しき者の存ずべきことは、賤き者に尋ねると申すことなりと。この問答再三あり、少し御意に入らぬような御挨拶であつたが、私の考え居ることをば申し上げるようにとの仰せであったのであるから、少しく顧みず申し上げたので、それが定めて御無礼のように見えたのであろうと思う。

 その後私は申し上げた。只今は方々に寺院があって、路次にも仏体を出して置くのであるから、下々の者でさえ、仏をば知って居る。日本の方々へ孔子堂を立てたならば、人々も又聖人の名を知るようになるであろうと。それには尤もなことなりと仰せられた。

 御料理が過ぎて、やがて御立ちになる時、私が申し上げた。恐れながら申し上げることがあります。今度御老中になられたことは、失礼ながら仕合わせの良いことであると存ずる。しかし古より云うてある通り、仕合わせ良きものには、それだけ過失もあるとのことであるから、憚りながら、御慎みを加えられるように御願いをする。就中御威光の良いので、御令息様方へ、世上より御馳走をすると云うようなこともあるから、御勤め第一なりと存じ上げると。これは伯州公(重矩の子の重良、伯耆守)の御勤めが失礼ながら、心元なく思う下心から申し出たのであるが、その御心得はないような御挨拶であって、その方の心入れは十分に思うと仰せられ御慶びになったと云うことである。

 その日に二条城の御番から帰った、野間金左衛門殿、猪飼五郎兵衛殿などが、御宅へ御出でになって待って居られると申して来たりしが故に、御帰りになった。それ以後は、公には御目に掛からない。以上のことは石谷市郎右衛門殿が御承知のことである。その後度々御自筆の御手紙や、くだされ物などがあり、石谷市郎右衛門殿へも、切々の御伝言もあり、やがて家の作事ができたならば、その節仰せ下さるる筈であるから、参るべき心組である。寺にて申しあげた種々のことは、今に失念せぬと仰せ下されて居るし、ことに御加増を受けられた時には、自筆の御手紙をくだされ、別て御丁寧な御取り扱いをくだされて居る。御無礼を申し上げて不届きなることと仰せられたとは、ただ風聞のみのことと、今以て左様に考えて居るのである。以上

 10月16日 山鹿甚五左衛門

【編者前言(解説)】
 山鹿素行―「武教小学」及び「士道」の著者として、我が国の武士道を学問的に取り扱い、従ってそれが道そのものの純化の一契機となったと云う点よりも、「武教全書」の著者としての素行、即ち大石良雄が山鹿流の陣太鼓を打って、吉良邸へ攻め入ったと云うことが、一般人には良く知られて居る人である。又近時の知識者層には、乃木将軍晩年の愛読書であった「中朝事実」の著者として良く知られて居るであろうが、当時多くの学者即ち漢学者が、彼らが我が国を指して東夷と呼ぶのに盲従し、自ら東夷と称することに甘んじて居た時代に於いて、我が国こそは中朝又は中華と呼ぶべきであると喝破した、その精神に就いては良くは知られて居らないであろう。それで本書に於いては、日本的自覚を高めた素行、即ち一般に日本人としての素行を現わして見たい為に、彼の自叙伝たる「配所残月」を取り出し、それを現代人に読み易いように、現代語に書き改め、その為に候ないし巧みに使用せられ居るところの当時の敬語法をば一切に抜き去るのであるから、原文が本来に持つところの風格ないし精神を失わしめることになったが、これは実に止むを得ないことである。又解し易いように、若干の注解を川えることとする。読むに差し支えなき限り「」を用いて本文の中に、やや長きを要するものは、各節の終りに註することとする。

 この書は、後にその理由は明らかにせらるであろう如くに、多少自己弁護的に書かれたものではあるが、その時代相、その人となり、又如何なる修業によって、素行がよく日本人たり得たか、更に又学問とは何ぞやと云う問題を明らかにする為には無二の書であると考える。(彼に葉は更に詳細なる日記がある。「山鹿素行日記」と題して、素行会にて出版せられて居る) それで又本叢書の中にて、彼の学問に対する一般の考えを詳細に述べた「*居童問」をも出さるべきである。

 山鹿甚五左衛門、名は高興(幼名貞直)、字は子敬、素行軒と号す。父は貞似、藤原の秀郷の裔と云う。母は岡備後守の女。後水尾天皇の御代、将軍秀忠がその職を家光に譲りし前年、元和8(紀元2282)8月16日夜、奥州会津に生れ、貞亨2年(紀元2345)9月26日、64歳を以て江戸にて没して居る。この間、御代を代わること明正、後光明、後西、霊元の五天皇、将軍は家光、家綱、綱吉の四代。開元は寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延実、天和の十。

 素行と相前後する若干の学者を挙げれば、幕府の儒臣としてその名高かりし林羅山は素行には40の兄であり、中江藤樹が15歳、山崎闇斎が5歳、熊沢蕃山が4歳の兄であり、楠公に関係した人として有名なる帰化人朱俊水が23歳の兄であり、木下順庵とは同年である。伊藤仁斎は彼が6歳の時に生まれ、徳川光圀は7歳、貝原越権は9歳の時に生まれている。新井白石よりは36歳の兄で、大石良雄は彼が38歳の時、前記朱俊水が亡命し来りし年に生まれて居る。又明国亡命の禅僧隠元の来りしは明暦3年、彼が36歳の時であって、その翌年万治元年10月16日に天沢寺に於いてその人に参禅した。この「配所残月」を草したのは延実3年1月、赤穂の配所にあって、余命幾ばくもなかるべしと覚った54歳の時である。しかるに計らずも同年許され、7月25日発足、8月11日に江戸に着いて居る。

 イ、その時代


 心なき人は、我が戦国時代をば直ちに闇黒であったと云うが、実際は決してそうではなかった。原始儒教の真精神は、日本は既に古く之を我がものとなしおり、又インドに発し、支那に発達した即ち当時にあっては全世界的の大物たる大乗仏教も古くは聖徳太子、更に降っては道元、親鸞、日蓮の三人によりて、完全に我がものとせられ、それが通俗一般大衆のものとなって居る。これが実に日本にとりては重要なことである。而して更に支那にありては宋学として発達したところの抽象的理論的の儒教が禅宗と共に鎌倉初期に入って来たので、それをも合わせて消化せんとしたところの思想一般の動きが、いわゆる戦国時代である。更に換言すればこの時代は一層深く個人に徹することであった。即ち武に精進すれば如何なる人であっても機に乗じ変に応じて、一国一城の主ともなることができる。しかしそれらによって統卒せらるるところのものは、既に単なる蒙昧の人々ではない、故にその地位が進むにつれて、その徳なくば、又容易に滅ぼされる。かくて武士たるものも、単なる武ではいかなくなり、修徳の結果、遂には本来の日本人でなくてはならないことになった。

 農夫は生活の糧の生産者であるから一般に尊重せられて居る。時に暴君ありて*糺せられることがあっても、それに反抗するだけの力をば保有しつつ、上述の如く仏教の民衆化によりて、よく大道に随順し、祖先の遺風を守って、いよいよ自然と調和することに成功した。之を一般にして云えば殺伐とする戦乱の巷にありて、明日をも知らぬ生活の内に、既に歴史的に修養を積んだ日本人は、深刻に自己を掘り下げなくてはならなかった。かくて今日我らの有する一切の日本的文化の基礎は、かかる時代に特に各個人によりて造り上げられたのであるが、更にそれがこの時代の末期から徳川氏の初期に到りて統一組織せられたもの、これが即ち武士道と言わるるところの日本精神である。

 余はこの時代的動きのよき代表をば、信長、秀吉、家康の三人の次々の為人と、それらの人の動きとに於いて見る。峻烈なる性格の信長に継いだ者は才略縦横の秀吉である。身は卑賎より起って、しかも文にも長ずるようになった彼は実に日本的の快男児である。しかしただの快男児だけでは、未だ天下を治めることはできなかった。三河より起り、その国土に因る性格、即ち忍*よく部下の和合を保ち得た家康にして、始めて天下を政治的に統一することができた。家康は静かに信長や秀吉の跡を考え、人材をして各部下にて力を伸びさしめた。それらの人々を個人個人に秀吉の臣下と比較すれば、皆な劣っているが、それらを和合結束せしめた時に、その力は大きかった。又よく名僧知識によって己の徳を樹て、人をも治める方法を得たのである。かくて家康は治国平天下の基礎をば、やや抽象化せられたる朱子学の理論に置き、藤原**の言説に聴き、更に林羅山を儒臣として起用することによって、一般に漢学の再興と云う基を置くことになった。

 かくの如くにして、今や武が収まって、文の盛んなるべき時代が来たのであるから、武の代わりに文を以て身を立てんとするの傾向が勃(ぼつ)然として起った。その為に急に多くの儒者が輩出するようになった。進んで元禄となっては、6年2月に5代将軍綱吉は諸侯を集めて自ら「中庸」の講義を為したというほどで、最早文に傾いた時代となる。即ち又かかる時代の産物として、素行をば見なくてはならない。しかもなお留意すべきことは、戦国時代の余波のなお強き間は、何事を為すにも、畢生の努力がそれに払われたと云うことである。古くは之を聖徳太子に見る。近くは明治維新の前後に於いての年少の志士らに之を見る。これらの人々が年少にしてしかも既に一家言を為すを得たと云うようなことは、全く泰平の人に見ることのできないような努力によったのである。それらの人々の時代にありては、今日の如くに学ぶべきものが多くなかったからのことと言うてはならない。量の大小によるのではない。それに通達する質的力量に於いて云うべきである。日本人は既に学問上から云えば如何にも複雑なるものをばよく一如の行に摂して居る。故に素地は十分に出来上がって居るのであるから、努力如何によっては、如何様にも上達し得るものであると心得なくてはならぬ。今日万事の組織がよく定まって、とかもよく通達し得ないのは、全く努力せしめないからである。十分に日本人としての自己を伸張せしむべき機会を与えないからである。

 ロ、流罪

 三代将軍家光は、豪毅英邁の資を以て、よく諸侯の心胆を寒からしめたとは云え、内外は非常に多事であって、多くの政治家例えば知恵伊豆の如き人々が、それを助けていわゆる武家政治の基礎を固からしめたのである。まず外を見れば、寛永13年(素行年15歳)には満州より起ったいわゆる太宗は、国を清と号し、親征して朝鮮を平定した。更に南戦北馬、寛永元年には明の永明王を獲、2年には清国の統一を為し得た。世界民族の動いた時、我が大和民族も又動いて居た。いわゆる倭こうは支那を恐れしめ、八幡船或いは御朱印船は、既に南洋方面よりインドまでも進出していたのであるが、寛永13年には、遂に外国渡航の禁令を発しなくてはならなかった。即ちこれが日本鎖国主義の始めである。この鎖国主義に就いては、歴史の立場からは種々に論議せられ得るであろうが、ともかく功罪相半ばすとも云うべきであろう。我彼に進出すると同時に、彼も又我に来り、盛んに我が国の金を巻き上げ去った。更に精神的には、国人の知らなかったキリスト教をそれに伴うて持って来た。これは実に由々しき大事であったのである。仏教は最早通俗化され、宗教としてよりは、むしろ理論の内に沈潜したのであるから、キリスト教に接した人々は、通俗人にも又武士の内にも、よくその新味性に幻惑せしめられたもののあることは、あたかも明治初年に於けると同様の状態であった。即ちこの為にも幕府は一層朱子学を本として、精神的統一を計らなくてはならなかったのである。しかもただそれのみではなく、新進の清国には到底当り得ざるを考え、明清の争いには、不干渉主義を持した。その為にも鎖国主義は必要であったのである。しかもこの発令と、キリスト教に対する弾圧とは、遂に島原の乱ともなった。即ちそれはその翌年即ち寛永14年10月に起ったもので、その翌年2月に到って平いだが、それが中々困難事であったのである。

 幕政統一の仕事はかくの如くにしてその緒に就いたのであるが、戦国時代を去ること未だ久しからず、殺伐の気風はなお*(や)んでは居ないのみならず、その職を離れたいわゆる浪人なる者が未だ安定していない。即ち徳川幕府に対しての不平不満の士はなお到る所に存在して居るのである。故に内心大志を抱く者、又しからざる朱君への奉公と云う為には、決して武を捨てる訳にはいかないのであるから、一般に士階級の間に喜ばれたものは、当時特に発達したる軍学なるものであった。余は思う。神学と軍学とは共に無用の学問であると。何となれば、前者はただ信仰奉仕の行によりてのみ神を体得し得らるるものに関せず、それを単なる抽象的の理知で解釈せんとするものであるからである。用兵の力は、同様に実践によるべきものである。単なる演習によってのみ得らるべきでない。直ちにそれは自己ないし多くの人々の死活の問題なのである。然るに自ら兵を用いず、治乱興廃の跡をのみ、云わば頭の内で考え、勝敗をば地図の上や兵なくして考え、それをば学的に組織したとて、それが果たして何の用をか為さんやである。

 しかし武が収まって文となった時代に於いては、かかるものが正に喜ばれる最上のものであった。それ故に素行も立身出世の為に又軍学を学んで、早くよりその師となる力をも得た。故に聖教の方面と云うよりはむしろこの方面に於いて多くの弟子を得て居る。而して又その内には多くの有力なる諸候あり、その子弟あり、ないしそれらの家臣がある。故に素行は云わば最も危険なる存在であった。素行と等しく才気煥発的の由井正雪は、等しく軍学の師であった。自らを高くするその学力から之を抽象的に考えたならば、彼が天下を取ると云うことも実は容易であったであろう。かくて彼は密かに不平の分子を集めて反乱を企てた。それが慶安4年、素行30歳の時である。

 素行はこの時、学は大いに進んで居た。彼は26歳の時、幕府に徴用の内命を受けたほどであるから、自らも又思い上って居た時である。故に数種の方面に於いて、自己の学説の組織を企て、37歳の時には軍学に関しては「武教全書」として、之を纏め且つ浄書を終って居る。更に45歳に至っては「聖教要録」を世に流布せしめたのであるが、これが幕府の忌諱(きい)に触れて、赤穂に流さるることになったのである。今日「聖教要録」なるものを見るに、何ら特別のものではない。儒教をば我がものと為して、それを発表したものに過ぎない。しかしそれが我がものとせられて居ると云うことがいけないのである。幕府は既に朱子学を以て官学として居るのであるから。しかし幕府の恐れたのはむしろ当時素行の日常の生活状態から見て、再び由井正雪の如きことの起り得ることを恐れたからのことである。

 ハ、本書の由来

 素行は、当時に要求せられたる文武の両面に亘りての学者としての、いわば花形役者であった。正保4年、齢26の時に、時の権勢者松平定綱は彼を招いて兵法を聞いて居る。同時に将軍家光の内命をも受けて居るほどであって、諸候よりは競うて彼を我がものとなさんとした。これに応じて内には麒麟児を生んだと云う父の得意顔があるのであるから、彼自らも又思い上らざるを得なかったであろう。家光薨去(こうきょ)の翌年、即ち承応元年の暮れ、年31歳にして、一旦は浅野家に仕えることになり、翌年には赤穂にも往ったのであるが、用件の済み次第に江戸へ帰って居る。しかし浅野家は特別の任務を彼に与えたのでもないから、専ら著作に従事したが、この間に抽象的にはいよいよ自己をも高める、*(こう)龍長く池中のものにあらずと自任したのであろう、遂に39歳に致仕して居る。かくの如くにして内外の声望一時に高く、弟四郎左衛門は松浦家に聘(へい)せられて重く用いられ、妹婿兼松七郎兵衛は越前大守に仕え、猶子としたる兄の子千介は更に浅野家に仕えると云うような有り様であった。幕府が素行の一挙一動に目を付けたのも、又理由のあることと見なければならぬ。

 事実でもあり、又それが面白い伝説にもせられて居るのであるが、素行を赤穂へ護送するに就いて、当局者は大いに心配したのである。即ち彼の門下には多くの血気盛んな若者が居る。又彼に師事する多くの有力なる大名もあるのである。もし事あらば、幕府の威信が傷つけられるのみならず、少なくとも正雪事変ぐらいの事の起ることは覚悟しなくてはならなかった。ここに於いて我らは天の配剤の妙を讃えなくてはならぬ。時は素行の齢が既に45歳であった。即ち不惑を過ぎて将に知命に到ろうとする時であったから、彼は血気の刀をば大和へ転入せしむることを既に知って居る。引例とすることは、いとも長気きことであるが、神武天皇が東征を思し立せ給いしは正に御年45歳であらせられた。我が国を「大和」と書き表わす意義は、之によって予言的に決定せられたと云うも過言ではない。それ故に、彼の護送は至って簡単平易に行われた。しかも罪人とは云え、左程の罪にもあらざれば、浅野家はむしろ師として之を敬うたのである。しかも彼はその間に処して万事をいやしくもせず、自らを持すること甚だ謹厳であり、敬神崇祖の礼を厚くした。即ちこれによりて又自ら多くの人々への感化力ともなり得た。

 彼は、この間にあって又多くの述作を為した。「謫居童問」は47歳の時、閑に任せて書き上げた学問論である。その翌年には「中朝実録」(後に事実と改む)を書いて居る。それら一々はここに書き必要がないが、本書「配所残筆」は54歳の時の作であり、その年急に許されて江戸に帰ったのである。

 本書はかくの如き間になったものであるから、いわば自己弁明的であり、同時に子孫ないし他をも戒めた書である。宛名になって居る山鹿三郎右衛門とは実弟であって松浦家に仕え、後に家老ともなった人である。岡八郎左衛門とは妹婿である前記兼松七郎兵衛の子であって、素行が猶子と為し、女をめあわせた。後又津軽家に仕え家老となり津軽大学と称した。又この書を委託せられた磯谷平助とは、素行の門人であり、赤穂にも随行していた人である。

 徒に、自らを高くする者は、遂には不逞の徒となるか、しからざれば誇大妄想狂者となる。徒に自らを卑くする者は畢竟なすなきの徒輩である。自らを高くしながら、しかも自らを省みてそれを抑える、そこに何かを成し得る力が生ずる。「配所残筆」は素行のこの両面をば最もよく表現したものと為すべきである。素行はこれを書いた年に急に許されることとなって江戸に帰ったのであるが、かくして円熟し得た彼は以前に増して一層の衆望を集めた。まず諸侯としては浅野両家、松浦家、津軽家は始めより因故深く、その他大村家、小笠原家、仁田家、その他多数あり、門弟も又多く集まって来る。彼自らは大いに逼塞して居り、由緒あるものにのみ来ることを許して居ると弁明しては居るが、彼の日記を見ても知らるるように、日々方々へ行かねばならず、来り訪う者も多数あったのである。又彼の門人喜多村源八は彼の女婿となり津軽家に仕えた(後に津軽監物と称し家老となった。素行より早く死んだ)。この勢を見て、老中久世大和守は喜ばない。謹慎し居るべき筈の者が所々徘徊し不謹慎なる行為ありと松浦候*信に向うて語ったと云う。それに就いての弁解書が後に附録の形式になって居る。10月16日と云う日付けのある四文であり、上目の人に提出したものであるから、一層敬語の用法が鄭重であるが、それもここでは全く省かなくてはならない。即ちここでは自叙伝としての「配所残筆」の補遺として見れば良いからである。又この四文を「配所残筆」の附録のようにしたのは、素行のやったことではなく、後人の仕業である。

【編者後言(解説)】
 イ、大望の訓致

 素行の日記を見るに夢の記事が時々出て居る。そしてそれが59歳頃よりいよいよ多くなり、晩年になっては、神に関係したものが多くなって居るということは、けだし日頃敬神的行事を怠らなかった為であろう。或いは七福神を夢んだり、社殿の上に自ら登ったり、先手観音の荘厳なる相を拝したり、或いは天主五層楼上に龍あり、その尾を楼上に置き、面をば自分に接して居ると云う如き夢を見て居る。而してそれらの夢をばもし吉なりとする時は、吉日にその夢を聞いて、家僕にまでも御馳走をして居る。この夢開きと云うことは当時一般に行われたことでもあろう。又或る時の夢には将軍より檜垣能をやれとの台命を受けたが、檜垣能の何ものなるやを知らざれども、明日より習うべしと答えて夢醒めた、そして後に人に問うて、始めてそれは能の中の三老女の一で能謡家の大事であることを知ったと云うのがある。

 天和2年、素行年61歳の極月24日朝、太閤が天下を自分に与え、且つ之を父に告げよと云いしとの夢を見た。それで自分はこれは吉夢ではない、「我その器にあらず。又その事にあらず。甚だ畏怖すべきことである」として、早く起きこれを反古の裏に書き置くという記事がある。これは甚だ興味あることと思うから、特にこの事を取り上げて一言することとする。

 通常、人の覚醒時にありては、いわゆる潜在的となって居る。即ち種々の経験の組織せられたものが基となり居て、それに又現在直接受けるところの内外の刺激をば、対自然、対人、対神等の関係によって組織して居るのである。之を第一人格と云う。然るに病的にか、或いは睡眠によってか、その他種々の条件によって、直接の刺激が杜絶せられる時には、観念の流れは漂蕩奔逸、又それが種々の形態に結成せられる。即ちそれが奇っ怪なる夢となり、それが高まりて自制し得ざるに至れば即ち精神病者となるのである。

 今かかる心理学的分析の立場で、素行のこの夢を判ずるに、太閤が天下を与えると云うことをば、まず父に告げよと命ぜられたと云うことは、如何にも平生の彼の孝心の表現であると云わねばならないが、天下を与えられたと云うことは、けだし彼の青年時代の大望大志を、今ここにそのままに表白したものと云うて良いと思う。彼のその当時の生活状態は、決して凡下のものではない。既に前に述べて置いた通り、有力なる多くの大名や又その有能なる臣下は彼にとりては学問上の弟子であり、又彼の一門は皆な有力なる諸候であり、子の万介(藤介)でさえ、親の威光によりて既に重く用いられて居る。かくて日常の来往、精神的には諸侯と同格である。否或る点より云えば、それ以上にも位して居るのである。それで日常の生活は彼をして学者と云う天爵に十分安ぜしめられては居るが、青年時代より持ち続けた大望は、なお潜在的には失われて居ない。それが証拠には、龍を夢んだり、社殿の屋上にまでも上ったり、或いは更に世俗的の立身をも夢んで居る。又前期の如くに、将軍の台命を奉じて檜垣能を更に修行せんともして居るのである。63歳の天和4年4月24日の夢には、正宗の古く錆びたるを得たるに就いて、かかるものは畢竟飾り物に過ぎず、何の実用にもならずと為したることを夢み、醒後聖賢の言説も飾り物なるに於いては、又何の役にも立たず、それの用は畢竟周礼にありとの議論を日記に書いて居る。而してなお之を吉夢として居るのである。然るに太閤の天下を与えたとの夢に就いては、彼はその器にあらず、又その事にあらずと、大いに怖れて以て悪夢として居るのは、甚だ面白いことと云わねばならぬ。

 歴史を語るものが、「もし何々であったならば何々であったであろう」と論ずるが如き、いわゆる史論めいたことを言うことは、慎まなくてはならぬが、我が日本歴史に於いての一箇の素行を語る場合に、かく論ずることは許さるべきであると信ずる。即ち素行の素質そのものから云えば、それがこの時代の動きに反応しては、由井正雪の轍を踏むようなことはなかったであろうとは思うが、もし彼をして勢いに乗じてもっと思い上らしめたならば、或いは一箇の反逆児となって、むしろ晩年をして失意の境地に陥らしめたか、或いは然らずとも、彼が日本思想史上有つところの地位は之を得しめなかったであろうとは十分に考えられ得る。

 正雪の事を起こしたのは前にも述べて置いた通り、丁度素行の而立の年齢であった。人の己に追従し来るもの、例えば一千人ありとするも、いざ事を挙げる場合に、真に随い来る者はその三分の一にも足らぬであろう。素行はこれらの事をば、既に正雪の場合によってよく知ったであろう。故に彼はいよいよ学問的の努力を為したのである。而して特にこの学問的の努力と云うことは、その時代実に多くの学者が輩出したのであるから、それらとの競争心も手伝うたであろうとも考えられる。しかし彼はどこまでも天下を志すことは忘れて居たのではない。例えば、彼は禅をもやった。しかもそれは一人の事、天下国家に益なきことと為したのは、直接には儒教の治国平天下と云う理想によっての事ではあるが、彼の内心の覇気のおおうべからざるものを見ることができると思う。
かくて儒教の真髄を掴んだものが、彼をして「聖教要録」を書かしめた所以であり、しかもそれが為に、彼は罪を得て赤穂に流されることになった。しかもそれが彼を信じて居た父の没した翌年であった。即ち彼はこれによって大なる打撃を受けた。しかもこの大打撃こそ、真に彼たらしめたところの基も大切なるものである。

 
素行が赤穂にあるや謹厳その身を処した。而してそれの外に表われたのが敬神崇祖と云う日常の行事であったのである。彼は毎月1日と14日、及び父の命日たる22日、ないし時々の御祭事を怠らない。彼の崇神する神は、伊勢と元の氏神たる諏訪と、大峰の三社であり、時には稲荷神をも加えて居る。而してこの祭祀の行事は彼が年をとるに従うていよいよ厳粛に行うたのである。彼は自ら考えた呪文があるが、尤も晩年には常にそれを唱えることは神を穢す所以なりと為し、日を定めて唱えることにした。これが祭事の純なるものである。

 素行をしてかく敬神崇祖の念を高からしめたこと、又他の学者にはその例を見ず、否後に大義名分の抽象論が盛んとなっては、却って神道家儒家の非難を受けられし聖徳太子をば特に尊敬したと云うのは、恐らく彼が少時に国学を学んだ結果であろう。今その聖徳太子をここに引き合いに出すならば、太子が憲法17条を定め、その二に、主として当時の氏族閥より出でたる諸弊害を直さんとして、篤敬三実と云われたのが、推古天皇の12年夏4月であった。しかし三実によってまがれるを直さんとするも、仏も法も僧もインドのもの、或いは更に支那に於いて考えられたものであって、未だ日本のものではないのである。換言すれば仏法僧と云うも未だ抽象的の理論である。理論によってまがりを直さんとすることは直成である。「易」に云う「曲成万物不遺」ではない。かくて15年春2月には祭神の詔勅となり、太子自ら衆に先んじて祭りを厳修せられた。けだし祭りは人を化し、「保合大和所以」の日本の第一義の行である。即ちかくして又日本の立場は「易」に言うが如く、化して後に教えるのであって、理論によって教えて後に化せんとする教化ではないのである。

 素行の赤穂に配されたことは、彼をして教化の立場より、化教の立場へ転ぜしめた契機となった。彼の晩年は、その故に一層強くこの方面に於いての進境を見る。彼の夢に示すが如くに、一面には青年期に抱いた大望を失うては居ない。故になお俗的の立身出世と云う如き、臭気を去っては居ないのではあるが、他面には彼は更に神仏に接近せしめられて居る。これが赤穂より帰りし後の彼の第一人格である。彼は実際この祭祀の行によって一家族をよく和合せしめて居る。実に羨むべきほど和気あいあいたる家庭であり、又よく一門をして立身出世せしめて居る。更に彼の門に集まる者も又よく和合せしめた。それと同時に、前記正宗の刀を得た夢の場合に、孔子の教も周礼ありて始めて完しとの考えに到らしめた如くに、自身に於いても、よく教化にあらずして、化教たるべき意義を会読したと為すべきであろう。

 三尺の童子が論語一巻を暗記し得たとて、それが果たして何の役に立ち得よう。彼の多くの著作も彼のこの第一人格としての力が、いわばそれらに錆或いは箔を置かしめたものに他ならぬ。彼は晩年に於いてもなお「聖教要録」や「武教全書」を講じて居る。これらの書物は既に彼が不惑以後の述作である。知的にはそれ以上の組織はない。しかもそれに一層の権威を与え、門下生ないしそれ以後、更に今日に至るまで、山鹿素行と云う化力たらしめ得たものは、実に日本的の行に徹し得たからのことである。

 かって北海道の開拓に急なりし場合に、人格者として高名なりし米国人クラークを招し来りて、時の農学校を司らしめた。彼が帰国に際して、送り来る多くの学生を馬上にて顧み、大声に叫んだ。「若き人々よ。大望者たれ」と。我が国の長き鎖国の夢を破ったこの一語、聴く学生をして実に奮起せしめたのである。しかしそれは鎖国の後であったから、この語に大なる意義あらしめたのであるが、八紘一宇の精神を脈管内に通わしめて居る我ら日本人は、始めより大望者であり、大志の所有者である。殊に日本人としては、スサノウの尊の流れを汲んで居るものである。しかしこの大望大志は、日本的に訓致すべきである。而して日本的と云うは、単なる抽象的の理論によって直成すると云うことでなしに、曲成することによって大和を保合せしむる乾徳(即ち天照大神)に拠ることである。

 ロ、学者の通病

 日本は忠孝一本の国である。而して孝の訓練道場は家であり、又歴代の詔勅によりて指導せられて、国が忠の訓練道場である。しかもそれは教育勅語、殊にその末尾の御句に示さるるが如く、君民その徳を一にして、以て天壌無窮の皇運を発展進化せしむると云うことである。故にここでは絶対的な帰衣、随順、奉仕あるのみであって、個人より出発して個人に終わるところの一切の宗教や、ないし合理主義的個人主義より出づる一切の合理的理論を超越する。かくてこの内にありては、一切個人主義的の我は解消せしめられ、ただ「分」によるつとめと云う「一如の行」あるのみである。

 この一如の行をば、もし理論的に追及せんとするならば、既に古く禅宗がやったように、非常に困難である。しかね日本人は忠孝一本の国として、平生しかも匹夫匹婦がなおそれをよくしつつあるのであって、いわゆる平常心これ道である。しかも平常心これ道の会得は、無門の云うたように、更に参すること参十年にして始めて得られる、否三千年かからなくては、異国人では会得し得ないところのものである。日本は既に儒教の真髄を得た、又大乗仏教をもよく己がものとしてしまった。しかも一切の抽象的理論を棄て、いわゆる「言挙げせぬ」一如の行として、それを摂取した。語の正当な意義に於いてこれほど立派に一切の対立矛盾を止揚し得た人はないのである。しかもそれは平常心に他ならぬ。近頃外国人はよく日本人の威力に驚き、日本人は何故に之を宣伝しないかを怪しむのであるが、宣伝は自己の空なるものの為す仕事である。内容の充実は、一如の行であり、それは行それ自体による化教であること、以上素行の場合に就いて述べた通りである。しかもそれは平常心であって、何ら自分では宣伝すべき特異性のあるものではない。

 かく日本の道が平常心であるが故に、水の高きに昇るを却って怪しむが如くに、理論の巧妙なるものは、その新奇の為に、而してそこには本来の髄順性を発動せしめて、直ちに己を忘れて、それに従うと云う風をも生ずるのである。そこに素行のいわゆる「学者の通病」に、何れの時代にも罹る可能性があるのである。最も古くは周国を理想とした儒教に絶対的に随順した。しかも「易」の自然の道を得て、それに落ちついた。次には大乗仏教の妙理に絶対的に帰依した。しかし始めより人と人と相和し、人と自然と相和し、又人と神との調和を知って居る日本人は、奈良朝藤原時代と経過し来り、鎌倉の初期に於いては全く之を一般民衆的のものと為し得た。即ち平常心これ道と為し得た。更に換言すれば、一の「空」概念を説くに「般若経」六百巻を用いないでも、随順行為に於いて自己を空することを知れる日本人には、これ即ち平常心なのである。一「仮」を説くに倶舎や唯識の難しい理論を須いずとも、国家の為に安んじて死んで行く忠に於いて、一生涯の「仮」なることを実地に会得する「中庸」や龍樹の高尚なる理論なくして、よく天の御中主神の威力を実行し、「中」を立て、それを保持して、天壌無窮ならしめる、これが日本人の特色なのである。

 もし本来の力量なくして、ただ随順を事とするならば、それは自己の破壊であり、民族の滅亡である。然るに我らは既に漢字を学んで、しかも万葉仮名を作り得た。この力は今もなお流れて居る。即ち新しきものに随順し、それによって自己を一層深く広くなし得た暁に於いては、その獲たるものは最早他のものにあらず、自己本来の面目たることを知る。かくて素行の如き人が、日本人の良き代表者となる。素行より少し遅れるが、いよいよ漢学の流行となっては、表面上それに溺れ、自ら東夷と称して満足した徂徠の如き人と雖も「旧事本紀」の序を書く場合には、後来もし聖人の中国(支那)に起るあらば、必ず我が人と神との区別なきところに発するところの道をこそ、その本と為すであろうと云うて居るのである。

 自らを東夷と称し、日本を以て呉の太伯の後なりと考証して喜んで居たような漢学者も多く出て居る。しかも、それと対立して、素行の如き立場、又それが素行との思想的関係如何は、余の未だ取り調べて居ない点であるが、やや年少の水戸の光圀卿の如き思想、ないし儒教の本源に遡らんとする古学覇、それらより得たる知識よりして古神道に入った学者や、又陸王の如き知行合一の立場、而してそれも又日本人には自明の事なるが故に、これらは相共に流れて明治維新と云う一如の行にまで進展した。

 明治維新は欧米個人主義の文明に刺激せられたところがあるのであるから、丁度二百年前に素行によりて、「学者の通病」なりといたく警告せられたものが、この場合には又忘却せられて、合理主義的個人主義的の文明文化に幻惑せられ、それに随順することをこれ事とするようになった。しかし最初は自己をよく保有して居たのであるが、明治末期より大正へかけては、本来の面目は全く潜在的のものにまで押し込められてしまったのである。而して合理主義的個人主義より出づるところの抽象的概念を以て、一般の通念と為し終ったのである。しかしこれは一種の精神病的のものである。いわゆる思想問題の如きは、この病気の外面的表現に他ならない。日本精神と云う語はこの間に起こされ、而してそれが今や自己を伸さんとして居るのである。而してこの伸びる所以のものは、己に還ることによって、更に邁進するところの、日本歴史の形式の踏襲に過ぎない。

 さらば来るべき日本の形態は如何なるものなるべきか。従来のものは皆な外的刺激により、又それの摂取であったのであるが、今や摂取すべき精神は最早全世界の内になくなったのである。ここに於いて神武天皇創業の大精神が更に新たにせらるべきである。換言すれば八紘一宇の大理想の全世界的実現、これがその形態たるべきことは当然のことである。さればその為に、内に於いて如何なる工作を為すべきか、それと相関して外に向うての発展が如何になさるべきか。即ち全世界全人類の為に負わされたる我ら日本人の使命は、更に重大且つ厳粛なものである。

【「配所残筆」をどう読みとるべきか、れんだいこ解説】





(私論.私見)