「配所残筆」考 |
(最新見直し2012.06.21日)
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ここで、山鹿素行の著作「配所残筆」を確認する。 2012.07.25日 れんだいこ拝 |
【「配所残筆」考】 | |||||
1675(延宝3)年1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。
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【「配所残筆」原文】
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半紙一通合文一 |
四年以前卯年6月に私儀は御赦免を蒙りて、8月当地へ到着した。同14日、浅野又市郎(後の長矩)の家来大石頼母助と同道にて久世大和守様へ挨拶に参上した。その節両人へ直に仰せらるるには、以前より近づきであった者との出入りは許すが、浪人などを集めることは無用たるべし、住居は何れなりと心任せであると申し渡された。右の御意は今日まで堅く守って居るのである。その時より浅草田原町に借家住まいを為し、今もなおそこに居る。近年は病者となって残念ではあるが、行歩不自由であるが故に、大方はどこへも出ないで居る。当地着以来、以前よりの因縁を思われて、戸田左衛門公(氏包、大垣城主)やその他の御方から医者を遣わされたが、それへも御礼だけ申し上げるのみで、一度も御見廻(まい)も申し上げない。数十年以来、縁あって御目をかけられた御方々へは、自然御目にも掛って居る。これすら四年以来度々参上したことはない。浅野又市郎、松浦肥州公は之は特別な関係ではあるが、これすら少々のことにしていて、常には御目廻い申し上げずに居る。津軽越州公のことは前々より親切に致されて居る因縁にて、私一族の内で一両人御家中に奉公致して居る。只今は拙者の娘(鶴)を御家中へ嫁に遣わして居る。然れば右御三家のことは、主人同意と考え上げて居るのであるから、折々はこの方より御機嫌伺いに参上致しても宜しいこととは思うが、御断り申して、大方は参らないことにして居る。娘も御屋敷の内に居ること故、逢いたいとて参ることも遠慮して居る次第で、少々のことなれば参らずに居るのである。 四年以来縁故のない者には近づきにはならぬ、御大名衆へも新しく御出入りも致さぬ、小身の御方へは、一人も近づきにならぬ。殊更縁故のない家中の衆や浪人等はお断りを致して近づきにはならんで居る。 上野御門主様(輪王寺宮)へは冥加の為に一年に両度は必ずこの方より参上する。久世大和守様、土屋但馬守様(数直、老中となる)へは御機嫌伺いの為に折々参上致すべきなれども御用多きことであるから、わざと引き延ばして居る、当年も年頭の御礼に漸く正月末か二月頃に右御両所へは一度参ったように記憶して居る。道具を人にやると云うような噂があるようであるが、左様なことは少しもない。倅(せがれ)や弟や婿(むこ)どもには、自然古びた道具をくれることはあるが、れっきとした御方へは申すに及ばず、家中の人、浪人、その他の人に道具をくれたようなことは決してない。 拙者が松浦肥州公や津軽越州公の御家中の裁判のことに口入れをし、色々新法を立て、下々の者が迷惑することを申しつけたなどと方々に噂があるよう聞いて居るが、甚だ存じ寄りもないことである。娘が縁づいた際にも、隣家でも之を知らなかったほどに軽く取り扱うておいた。松浦肥州公とは御近所でありながら、縁づいたことを御承知なく、御使者もくだされなかったほどに軽きことであった。然るにこれもその時かくかくの大ぎょうなことを拙者が致したように申し触れしたのであるが、その一ケ条でさえ左様なことを為した覚えはない。只今は世上に拙者の名を売って方々へ兵学の師となるものがあるようにも聞いて居る。書物屋でも拙者の著作と云うて、高値にて方々へ売って居る本があると云うことをも聞いて居る。風聞故に偽りであるかも知れないが、四年以来と云うものは、師となったこともなければ、又書物を他所で出版したと云うこともない。 失礼ながら申し上げる。拙者が四十年以来御思し召しによって御目に懸り居る方々、御歴々方は申すに及ばず、家中の衆、縁故によりて自然に参ったと云う浪人に至るまで、不義不作法を為したと云う者は、今日まで一人も承らない。先年、悪人ども徒党をして罪せられた際も(由井正雪事件)、私方へ出入りするものは申すまでもなく、近づきの人にも、一人もなかった。これは拙者が冥加に叶いし事故と思うて居る。尤も日比は縁故のない浪人等とは、堅く出入りしないように十分に心懸けて居ることである。 拙者ごとは配所にて朽ち果てる覚悟にてありしが、各様の御影故、思いがけない冥加に叶うて、母の存命中に(江戸へ)帰ることができ、母と三年一所に移し、去年母はなくなった。今生の願いが叶うて有り難く存ずる。その後、病人となり、弥々何れも参らぬことにして居る。拙者事は元来凡下のものなるが故に、自然歴々の御方へはこの方ゆのお断り申して御出入りを致さぬことにして居る。それに就いて、酉年の大火(明暦3年正月5日の大火災)以後、高田へ引き込んで居て、大方は出ることがなかったが、その時分とは、只今はなお老衰もしたのであるから、逼塞致し居る次第である。 拙者の如き凡下の者が御公儀の御恩忝しと存するなど申すことが、既に失礼千万とは思うが、天下かくの如く治まり静かにして、その為に又数年静かに勉強することのできたことは、恐れながら天下の恩浅からざることと、有り難く存じまつる。殊更思わざる御赦免を得、江戸へ帰ることのできたのであるから、弥々以て日夜相慎み居るわけである。これが時分に相応しい志であるべきなりと、恐れながら考えて居る。もし戯れにも不義不忠なることを口より申したならば心もそれにうつりて冥加が忽ちに尽きるべし。このことは堅く勤め居るように、倅どもにも平生教戒して居る。されば御公儀様を軽しめたり、御法令を無視したり、御作法を批評したりすることが、仮にもあったとするならば、恐れながら冥罪甚だ重しと常々慎んで居るのである。就中四年以来は拙者を色々御世話くだされし御方々へ御苦労をかけることがあってはならぬ、もし左様なことがあれば、生々世々の迷惑なりと(考え)、不覚悟なること聊かもなきようにと、朝け暮れ心懸け居るので、このことは巳前より御目掛けくださるる方には、よく御存知のことで、今更申すまでもないことであるが、序ながらかくは申し上げる次第である。以上。 10月16日 山鹿甚五左衛門 |
半紙一通合文二 |
拙者事は凡下無徳の者にて、歴々の人様への御前へ出られるほどのものではないのであるが、若輩の時分より御歴々様が御目を掛けられ、御世話にも預かって来た。これは私の徳の然らしむるところなりとは少しも考えて居らぬ。皆天道の冥加に叶いし故の事なりと存じ居るのである。右の通り故に、弥々逼塞し、高田にあっても、御近付きの人々を省き、浅野因州公、松浦肥州公だけには参上するように致して、その外の御方々へは大方に致し居る。然るに思わずも配所を仰せつけられ、十ケ年彼地に参って居た。日々老衰致し、帰ってから四年になる。只今は活きて居ると云うだけの有り様である。今少々は余命あるようなれば、その間何卒義理に相違しないように勤め、そして死にたいと覚悟をして居る。 右の次第、自分と云うものには不似合いのことをかく書付けると云うことは、別て心に迷惑を感じて居ることである。しかしこの事は以前から御目を掛けさせられた方々は皆な御存知のこと、就中松浦肥州公よく御存知の御事である。配所へ参ってからは13年になり、その内に参上申し上げていた御方々は御死去になり、只今は残って居らるる方が少なくなった。されば新しく拙者のことを御聞になされる方々は、一己独身のいたづら者のように思わるるであろうが、それは迷惑のことであるが故に、無益のことのようでもあるが、かくの如きことを書くのであるが、しかし何か事新しく言い立てるようで、如何はしくも存じもする。以上 10月16日 山鹿甚五左衛門 |
半紙一通合文三 |
当(延実6年)5月14日に渡辺源蔵殿が本多下野守(忠平)殿の御饗宴に参られたとかで、拙者の宅へ押しかけて、御見廻いなされたから、御目に掛かった。しかし御立ち寄りの御礼にも参らず、駿府へ(役儀の為に)御立の節に御暇乞にも病気の故に参らなかった。酒井河内守(忠明)様の御内の地内與一兵衛は拙者の弟子筋であり、殊に浅野又市郎殿の家老である外村源左衛門の婿と云う関係の人である。当地へ帰ってよりその源左衛門から度々「近づきになりたし」と申し出たるも、断りて延引致して居る。当5月16日、外村源左衛門が右の與一兵衛と同道にて参ったが、当方よりは礼の為に使をさえ出さないぐらいのことで、一度も見廻いに参ったことはない。この外確かなる縁故の家中衆や与力衆(奉行の配下で同心を指揮する役目の者)などが自然に私の所へ参ることはあるが、縁故なき衆が、新しく近づきになると云うようなことはできないのである。 数年、拙者へ御目を掛けらるるは板倉内膳公、浅野因州公、松浦肥州公である。何れも拙者に対して師恩忘れ難しとのことにて、毎度自筆の恩手紙をくだされて居る。その手紙の一々が今もなお残って居る。然るにその内膳公が、拙者に不届きなることがあると云うように申されたとかの風聞を聴いた。風聞のことであるから、偽りとは思うが、心元なく思うものから、松浦肥州公まで委細申し上げたこともある。右の書付には種々不調法のこともあり、文言の前後もあり、又思わず失礼に当たるような言葉もあって、上々様の御耳障りにもなる所があるかも知れない。恐れながら心元なく存じて居るのである。拙者は十ケ年も蟄居して居り、帰ってからも逼塞して居るので、弥々世上のことにも疎くなって居る。それで書き違えなども所々あることであろう。御覧になったならば、御用捨てくださるるように御取りなしくだされたい。以上 10月 16日 山鹿甚五左衛門 |
板倉内膳公へ法泉寺にて拙者が御無礼申し上げたと申されたと云う風聞を承った。板倉公が御老中になられた時は、拙者の親が病気中であり、やがて、相果てたので、当方より御目見えは申し上げず、忌中忌明の後も、度々御使者をくだされ、毎度丁寧に仰せ下されたけれども、忌明後も拙者が病気になったが故に、御礼に参上もしなかった。翌年4月5日、始めて御礼に参ったが、その節は御他出中で、御目に掛かることができなかった。その後4月29日に拙者の近所の法泉寺へ御出でになり、そこへ参って御目に掛かるようとの仰せであった。尤も他には人がなく、石谷市右衛門だけが参られるのであるから、ゆっくり談しをするように参れとの御自筆の手紙をくだされたのである。それで法泉寺へ伺候した。拙者が参上の後に板倉公が御出でになり、御迎えの為に庭上まで出でたのであった。公が御着座になった後に敷居を隔てて度々御使者をくだされ有り難く存ずる旨を申し上げた。すると仰せられるるには、左様に堅くろしくては、話し合う訳には行かぬ、外所又は多人数の時は特別、今日はいつもの如くに内へ入り、遠慮なく御話し申し上ぐるようにせよと、再三仰せられたので、御心に従い恐れながら御一座へ入った。その時、御同氏石州公(板倉石見守)も御出になって居た。料理が出たので、まづそれを召しあがって御話などあった。板倉公の仰せらるるに、不徳の我らに大役(老中役)を仰せつけられ有り難く思うところであるが、何事も心元なく思う。第一天下の政は何事を専要とするべきかと御尋ねになった。拙者の如き凡下の者が天下の政道はかくあるべしなどと考え合わすことなどないが故に、自分の工夫と云うものはない。古来より聖人の申し置きたることは、天下の政は仁を木として礼を行うだけのことであると様に申し伝えてあると御返事申し上げたが、少々御合点がいかなかったのか、仁は左様でもあろう、礼は大事のものなりと、軽く御挨拶された。 次に仰せられたのは、保科肥後守殿(正之)の学問の筋はどう思うカとのことであった。拙者は保科公に御目に掛かったことがないから、存ぜぬと申し上げたところ、その方の思うところはどうかとの仰せであったから、未だ拝顔をも得ず、ただ風聞のみによって申し上げることは、間違いの多いものであるが故に、申し上げ難しと申し上げたところ、たっての御尋ねであったから、私は申し上げた。ただ風聞のみで申し上げれば、御学問の筋は失礼ながら、私どもの学問と考えて居るものとは相違あるように思うと。すると仰せらるるには、この方もそう思うとのことであった。 次に京都の所司代(守護の役)には誰をやるべきかとの仰せであった。拙者は(誰が問題になって居るのか)承って居ないと申し上げたところ、石谷市右衛門殿が永井伊賀守殿を指して申さるるのだと申された。私は永井公はまだ御年が若いではないかと申し上げたところ、年の老若には及ばぬ、力量次第のことではないかと仰せられた。 次に世間はどんな評判をして居るかとの御尋ねであったから、私は申し上げた。世上の風聞は全然承っていない。世上の風聞と云うものはさして益もないことかと申し上げたところ、仰せらるるには、世上には能ある者も多くあるべければ、それらのものの為す風聞を聴くのは良いことではないかと仰せられた。それで私は御返答申した。御歴々と云う内にさえ、賢人君子と云うべき人は少ない。然れば下々には能者と云う者は大方ないと云うて宜しい。もし能者があるとしても、風聞などは致すまい。風聞するような人は、大方は御大名衆へ出入りする軽い町人風情のことであろう。(世上に賢き者)即ち世才に長けた者のすることでありませうと。公は更にその世才に長けた者の云うことでも良いから、申せとのことであったので、私は申し上げた。恐れながら左様には思いませぬ、世間賢き者は、時代の勢いに従ってよくつとめる者であるが故に、上々様の能く思われることは、能く云い、御憎みになるものをば悪く云う、少しでも秀で居るものを障へ、我が身の立つように工夫する、他人のことをよきように申して、実はそれをそしり悪むのである。かかる者の申すことを御計上げになると云うようなことがあつたならば、それこそ大事のことであると存じ申すと申し上げた。すると、古より堯舜も賤しき者に事を尋ねられたと云うではないかと、公が仰せられたから、私は申し上げた。それは賤しき者の存ずべきことは、賤き者に尋ねると申すことなりと。この問答再三あり、少し御意に入らぬような御挨拶であつたが、私の考え居ることをば申し上げるようにとの仰せであったのであるから、少しく顧みず申し上げたので、それが定めて御無礼のように見えたのであろうと思う。 その後私は申し上げた。只今は方々に寺院があって、路次にも仏体を出して置くのであるから、下々の者でさえ、仏をば知って居る。日本の方々へ孔子堂を立てたならば、人々も又聖人の名を知るようになるであろうと。それには尤もなことなりと仰せられた。 御料理が過ぎて、やがて御立ちになる時、私が申し上げた。恐れながら申し上げることがあります。今度御老中になられたことは、失礼ながら仕合わせの良いことであると存ずる。しかし古より云うてある通り、仕合わせ良きものには、それだけ過失もあるとのことであるから、憚りながら、御慎みを加えられるように御願いをする。就中御威光の良いので、御令息様方へ、世上より御馳走をすると云うようなこともあるから、御勤め第一なりと存じ上げると。これは伯州公(重矩の子の重良、伯耆守)の御勤めが失礼ながら、心元なく思う下心から申し出たのであるが、その御心得はないような御挨拶であって、その方の心入れは十分に思うと仰せられ御慶びになったと云うことである。 その日に二条城の御番から帰った、野間金左衛門殿、猪飼五郎兵衛殿などが、御宅へ御出でになって待って居られると申して来たりしが故に、御帰りになった。それ以後は、公には御目に掛からない。以上のことは石谷市郎右衛門殿が御承知のことである。その後度々御自筆の御手紙や、くだされ物などがあり、石谷市郎右衛門殿へも、切々の御伝言もあり、やがて家の作事ができたならば、その節仰せ下さるる筈であるから、参るべき心組である。寺にて申しあげた種々のことは、今に失念せぬと仰せ下されて居るし、ことに御加増を受けられた時には、自筆の御手紙をくだされ、別て御丁寧な御取り扱いをくだされて居る。御無礼を申し上げて不届きなることと仰せられたとは、ただ風聞のみのことと、今以て左様に考えて居るのである。以上 10月16日 山鹿甚五左衛門 |
【編者前言(解説)】 |
山鹿素行―「武教小学」及び「士道」の著者として、我が国の武士道を学問的に取り扱い、従ってそれが道そのものの純化の一契機となったと云う点よりも、「武教全書」の著者としての素行、即ち大石良雄が山鹿流の陣太鼓を打って、吉良邸へ攻め入ったと云うことが、一般人には良く知られて居る人である。又近時の知識者層には、乃木将軍晩年の愛読書であった「中朝事実」の著者として良く知られて居るであろうが、当時多くの学者即ち漢学者が、彼らが我が国を指して東夷と呼ぶのに盲従し、自ら東夷と称することに甘んじて居た時代に於いて、我が国こそは中朝又は中華と呼ぶべきであると喝破した、その精神に就いては良くは知られて居らないであろう。それで本書に於いては、日本的自覚を高めた素行、即ち一般に日本人としての素行を現わして見たい為に、彼の自叙伝たる「配所残月」を取り出し、それを現代人に読み易いように、現代語に書き改め、その為に候ないし巧みに使用せられ居るところの当時の敬語法をば一切に抜き去るのであるから、原文が本来に持つところの風格ないし精神を失わしめることになったが、これは実に止むを得ないことである。又解し易いように、若干の注解を川えることとする。読むに差し支えなき限り「」を用いて本文の中に、やや長きを要するものは、各節の終りに註することとする。 この書は、後にその理由は明らかにせらるであろう如くに、多少自己弁護的に書かれたものではあるが、その時代相、その人となり、又如何なる修業によって、素行がよく日本人たり得たか、更に又学問とは何ぞやと云う問題を明らかにする為には無二の書であると考える。(彼に葉は更に詳細なる日記がある。「山鹿素行日記」と題して、素行会にて出版せられて居る) それで又本叢書の中にて、彼の学問に対する一般の考えを詳細に述べた「*居童問」をも出さるべきである。 山鹿甚五左衛門、名は高興(幼名貞直)、字は子敬、素行軒と号す。父は貞似、藤原の秀郷の裔と云う。母は岡備後守の女。後水尾天皇の御代、将軍秀忠がその職を家光に譲りし前年、元和8(紀元2282)8月16日夜、奥州会津に生れ、貞亨2年(紀元2345)9月26日、64歳を以て江戸にて没して居る。この間、御代を代わること明正、後光明、後西、霊元の五天皇、将軍は家光、家綱、綱吉の四代。開元は寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延実、天和の十。 素行と相前後する若干の学者を挙げれば、幕府の儒臣としてその名高かりし林羅山は素行には40の兄であり、中江藤樹が15歳、山崎闇斎が5歳、熊沢蕃山が4歳の兄であり、楠公に関係した人として有名なる帰化人朱俊水が23歳の兄であり、木下順庵とは同年である。伊藤仁斎は彼が6歳の時に生まれ、徳川光圀は7歳、貝原越権は9歳の時に生まれている。新井白石よりは36歳の兄で、大石良雄は彼が38歳の時、前記朱俊水が亡命し来りし年に生まれて居る。又明国亡命の禅僧隠元の来りしは明暦3年、彼が36歳の時であって、その翌年万治元年10月16日に天沢寺に於いてその人に参禅した。この「配所残月」を草したのは延実3年1月、赤穂の配所にあって、余命幾ばくもなかるべしと覚った54歳の時である。しかるに計らずも同年許され、7月25日発足、8月11日に江戸に着いて居る。 イ、その時代 心なき人は、我が戦国時代をば直ちに闇黒であったと云うが、実際は決してそうではなかった。原始儒教の真精神は、日本は既に古く之を我がものとなしおり、又インドに発し、支那に発達した即ち当時にあっては全世界的の大物たる大乗仏教も古くは聖徳太子、更に降っては道元、親鸞、日蓮の三人によりて、完全に我がものとせられ、それが通俗一般大衆のものとなって居る。これが実に日本にとりては重要なことである。而して更に支那にありては宋学として発達したところの抽象的理論的の儒教が禅宗と共に鎌倉初期に入って来たので、それをも合わせて消化せんとしたところの思想一般の動きが、いわゆる戦国時代である。更に換言すればこの時代は一層深く個人に徹することであった。即ち武に精進すれば如何なる人であっても機に乗じ変に応じて、一国一城の主ともなることができる。しかしそれらによって統卒せらるるところのものは、既に単なる蒙昧の人々ではない、故にその地位が進むにつれて、その徳なくば、又容易に滅ぼされる。かくて武士たるものも、単なる武ではいかなくなり、修徳の結果、遂には本来の日本人でなくてはならないことになった。 農夫は生活の糧の生産者であるから一般に尊重せられて居る。時に暴君ありて*糺せられることがあっても、それに反抗するだけの力をば保有しつつ、上述の如く仏教の民衆化によりて、よく大道に随順し、祖先の遺風を守って、いよいよ自然と調和することに成功した。之を一般にして云えば殺伐とする戦乱の巷にありて、明日をも知らぬ生活の内に、既に歴史的に修養を積んだ日本人は、深刻に自己を掘り下げなくてはならなかった。かくて今日我らの有する一切の日本的文化の基礎は、かかる時代に特に各個人によりて造り上げられたのであるが、更にそれがこの時代の末期から徳川氏の初期に到りて統一組織せられたもの、これが即ち武士道と言わるるところの日本精神である。 余はこの時代的動きのよき代表をば、信長、秀吉、家康の三人の次々の為人と、それらの人の動きとに於いて見る。峻烈なる性格の信長に継いだ者は才略縦横の秀吉である。身は卑賎より起って、しかも文にも長ずるようになった彼は実に日本的の快男児である。しかしただの快男児だけでは、未だ天下を治めることはできなかった。三河より起り、その国土に因る性格、即ち忍*よく部下の和合を保ち得た家康にして、始めて天下を政治的に統一することができた。家康は静かに信長や秀吉の跡を考え、人材をして各部下にて力を伸びさしめた。それらの人々を個人個人に秀吉の臣下と比較すれば、皆な劣っているが、それらを和合結束せしめた時に、その力は大きかった。又よく名僧知識によって己の徳を樹て、人をも治める方法を得たのである。かくて家康は治国平天下の基礎をば、やや抽象化せられたる朱子学の理論に置き、藤原**の言説に聴き、更に林羅山を儒臣として起用することによって、一般に漢学の再興と云う基を置くことになった。 かくの如くにして、今や武が収まって、文の盛んなるべき時代が来たのであるから、武の代わりに文を以て身を立てんとするの傾向が勃(ぼつ)然として起った。その為に急に多くの儒者が輩出するようになった。進んで元禄となっては、6年2月に5代将軍綱吉は諸侯を集めて自ら「中庸」の講義を為したというほどで、最早文に傾いた時代となる。即ち又かかる時代の産物として、素行をば見なくてはならない。しかもなお留意すべきことは、戦国時代の余波のなお強き間は、何事を為すにも、畢生の努力がそれに払われたと云うことである。古くは之を聖徳太子に見る。近くは明治維新の前後に於いての年少の志士らに之を見る。これらの人々が年少にしてしかも既に一家言を為すを得たと云うようなことは、全く泰平の人に見ることのできないような努力によったのである。それらの人々の時代にありては、今日の如くに学ぶべきものが多くなかったからのことと言うてはならない。量の大小によるのではない。それに通達する質的力量に於いて云うべきである。日本人は既に学問上から云えば如何にも複雑なるものをばよく一如の行に摂して居る。故に素地は十分に出来上がって居るのであるから、努力如何によっては、如何様にも上達し得るものであると心得なくてはならぬ。今日万事の組織がよく定まって、とかもよく通達し得ないのは、全く努力せしめないからである。十分に日本人としての自己を伸張せしむべき機会を与えないからである。 ロ、流罪 三代将軍家光は、豪毅英邁の資を以て、よく諸侯の心胆を寒からしめたとは云え、内外は非常に多事であって、多くの政治家例えば知恵伊豆の如き人々が、それを助けていわゆる武家政治の基礎を固からしめたのである。まず外を見れば、寛永13年(素行年15歳)には満州より起ったいわゆる太宗は、国を清と号し、親征して朝鮮を平定した。更に南戦北馬、寛永元年には明の永明王を獲、2年には清国の統一を為し得た。世界民族の動いた時、我が大和民族も又動いて居た。いわゆる倭こうは支那を恐れしめ、八幡船或いは御朱印船は、既に南洋方面よりインドまでも進出していたのであるが、寛永13年には、遂に外国渡航の禁令を発しなくてはならなかった。即ちこれが日本鎖国主義の始めである。この鎖国主義に就いては、歴史の立場からは種々に論議せられ得るであろうが、ともかく功罪相半ばすとも云うべきであろう。我彼に進出すると同時に、彼も又我に来り、盛んに我が国の金を巻き上げ去った。更に精神的には、国人の知らなかったキリスト教をそれに伴うて持って来た。これは実に由々しき大事であったのである。仏教は最早通俗化され、宗教としてよりは、むしろ理論の内に沈潜したのであるから、キリスト教に接した人々は、通俗人にも又武士の内にも、よくその新味性に幻惑せしめられたもののあることは、あたかも明治初年に於けると同様の状態であった。即ちこの為にも幕府は一層朱子学を本として、精神的統一を計らなくてはならなかったのである。しかもただそれのみではなく、新進の清国には到底当り得ざるを考え、明清の争いには、不干渉主義を持した。その為にも鎖国主義は必要であったのである。しかもこの発令と、キリスト教に対する弾圧とは、遂に島原の乱ともなった。即ちそれはその翌年即ち寛永14年10月に起ったもので、その翌年2月に到って平いだが、それが中々困難事であったのである。 幕政統一の仕事はかくの如くにしてその緒に就いたのであるが、戦国時代を去ること未だ久しからず、殺伐の気風はなお*(や)んでは居ないのみならず、その職を離れたいわゆる浪人なる者が未だ安定していない。即ち徳川幕府に対しての不平不満の士はなお到る所に存在して居るのである。故に内心大志を抱く者、又しからざる朱君への奉公と云う為には、決して武を捨てる訳にはいかないのであるから、一般に士階級の間に喜ばれたものは、当時特に発達したる軍学なるものであった。余は思う。神学と軍学とは共に無用の学問であると。何となれば、前者はただ信仰奉仕の行によりてのみ神を体得し得らるるものに関せず、それを単なる抽象的の理知で解釈せんとするものであるからである。用兵の力は、同様に実践によるべきものである。単なる演習によってのみ得らるべきでない。直ちにそれは自己ないし多くの人々の死活の問題なのである。然るに自ら兵を用いず、治乱興廃の跡をのみ、云わば頭の内で考え、勝敗をば地図の上や兵なくして考え、それをば学的に組織したとて、それが果たして何の用をか為さんやである。 しかし武が収まって文となった時代に於いては、かかるものが正に喜ばれる最上のものであった。それ故に素行も立身出世の為に又軍学を学んで、早くよりその師となる力をも得た。故に聖教の方面と云うよりはむしろこの方面に於いて多くの弟子を得て居る。而して又その内には多くの有力なる諸候あり、その子弟あり、ないしそれらの家臣がある。故に素行は云わば最も危険なる存在であった。素行と等しく才気煥発的の由井正雪は、等しく軍学の師であった。自らを高くするその学力から之を抽象的に考えたならば、彼が天下を取ると云うことも実は容易であったであろう。かくて彼は密かに不平の分子を集めて反乱を企てた。それが慶安4年、素行30歳の時である。 素行はこの時、学は大いに進んで居た。彼は26歳の時、幕府に徴用の内命を受けたほどであるから、自らも又思い上って居た時である。故に数種の方面に於いて、自己の学説の組織を企て、37歳の時には軍学に関しては「武教全書」として、之を纏め且つ浄書を終って居る。更に45歳に至っては「聖教要録」を世に流布せしめたのであるが、これが幕府の忌諱(きい)に触れて、赤穂に流さるることになったのである。今日「聖教要録」なるものを見るに、何ら特別のものではない。儒教をば我がものと為して、それを発表したものに過ぎない。しかしそれが我がものとせられて居ると云うことがいけないのである。幕府は既に朱子学を以て官学として居るのであるから。しかし幕府の恐れたのはむしろ当時素行の日常の生活状態から見て、再び由井正雪の如きことの起り得ることを恐れたからのことである。 ハ、本書の由来 素行は、当時に要求せられたる文武の両面に亘りての学者としての、いわば花形役者であった。正保4年、齢26の時に、時の権勢者松平定綱は彼を招いて兵法を聞いて居る。同時に将軍家光の内命をも受けて居るほどであって、諸候よりは競うて彼を我がものとなさんとした。これに応じて内には麒麟児を生んだと云う父の得意顔があるのであるから、彼自らも又思い上らざるを得なかったであろう。家光薨去(こうきょ)の翌年、即ち承応元年の暮れ、年31歳にして、一旦は浅野家に仕えることになり、翌年には赤穂にも往ったのであるが、用件の済み次第に江戸へ帰って居る。しかし浅野家は特別の任務を彼に与えたのでもないから、専ら著作に従事したが、この間に抽象的にはいよいよ自己をも高める、*(こう)龍長く池中のものにあらずと自任したのであろう、遂に39歳に致仕して居る。かくの如くにして内外の声望一時に高く、弟四郎左衛門は松浦家に聘(へい)せられて重く用いられ、妹婿兼松七郎兵衛は越前大守に仕え、猶子としたる兄の子千介は更に浅野家に仕えると云うような有り様であった。幕府が素行の一挙一動に目を付けたのも、又理由のあることと見なければならぬ。 事実でもあり、又それが面白い伝説にもせられて居るのであるが、素行を赤穂へ護送するに就いて、当局者は大いに心配したのである。即ち彼の門下には多くの血気盛んな若者が居る。又彼に師事する多くの有力なる大名もあるのである。もし事あらば、幕府の威信が傷つけられるのみならず、少なくとも正雪事変ぐらいの事の起ることは覚悟しなくてはならなかった。ここに於いて我らは天の配剤の妙を讃えなくてはならぬ。時は素行の齢が既に45歳であった。即ち不惑を過ぎて将に知命に到ろうとする時であったから、彼は血気の刀をば大和へ転入せしむることを既に知って居る。引例とすることは、いとも長気きことであるが、神武天皇が東征を思し立せ給いしは正に御年45歳であらせられた。我が国を「大和」と書き表わす意義は、之によって予言的に決定せられたと云うも過言ではない。それ故に、彼の護送は至って簡単平易に行われた。しかも罪人とは云え、左程の罪にもあらざれば、浅野家はむしろ師として之を敬うたのである。しかも彼はその間に処して万事をいやしくもせず、自らを持すること甚だ謹厳であり、敬神崇祖の礼を厚くした。即ちこれによりて又自ら多くの人々への感化力ともなり得た。 彼は、この間にあって又多くの述作を為した。「謫居童問」は47歳の時、閑に任せて書き上げた学問論である。その翌年には「中朝実録」(後に事実と改む)を書いて居る。それら一々はここに書き必要がないが、本書「配所残筆」は54歳の時の作であり、その年急に許されて江戸に帰ったのである。 本書はかくの如き間になったものであるから、いわば自己弁明的であり、同時に子孫ないし他をも戒めた書である。宛名になって居る山鹿三郎右衛門とは実弟であって松浦家に仕え、後に家老ともなった人である。岡八郎左衛門とは妹婿である前記兼松七郎兵衛の子であって、素行が猶子と為し、女をめあわせた。後又津軽家に仕え家老となり津軽大学と称した。又この書を委託せられた磯谷平助とは、素行の門人であり、赤穂にも随行していた人である。 徒に、自らを高くする者は、遂には不逞の徒となるか、しからざれば誇大妄想狂者となる。徒に自らを卑くする者は畢竟なすなきの徒輩である。自らを高くしながら、しかも自らを省みてそれを抑える、そこに何かを成し得る力が生ずる。「配所残筆」は素行のこの両面をば最もよく表現したものと為すべきである。素行はこれを書いた年に急に許されることとなって江戸に帰ったのであるが、かくして円熟し得た彼は以前に増して一層の衆望を集めた。まず諸侯としては浅野両家、松浦家、津軽家は始めより因故深く、その他大村家、小笠原家、仁田家、その他多数あり、門弟も又多く集まって来る。彼自らは大いに逼塞して居り、由緒あるものにのみ来ることを許して居ると弁明しては居るが、彼の日記を見ても知らるるように、日々方々へ行かねばならず、来り訪う者も多数あったのである。又彼の門人喜多村源八は彼の女婿となり津軽家に仕えた(後に津軽監物と称し家老となった。素行より早く死んだ)。この勢を見て、老中久世大和守は喜ばない。謹慎し居るべき筈の者が所々徘徊し不謹慎なる行為ありと松浦候*信に向うて語ったと云う。それに就いての弁解書が後に附録の形式になって居る。10月16日と云う日付けのある四文であり、上目の人に提出したものであるから、一層敬語の用法が鄭重であるが、それもここでは全く省かなくてはならない。即ちここでは自叙伝としての「配所残筆」の補遺として見れば良いからである。又この四文を「配所残筆」の附録のようにしたのは、素行のやったことではなく、後人の仕業である。 |
【編者後言(解説)】 |
イ、大望の訓致 素行の日記を見るに夢の記事が時々出て居る。そしてそれが59歳頃よりいよいよ多くなり、晩年になっては、神に関係したものが多くなって居るということは、けだし日頃敬神的行事を怠らなかった為であろう。或いは七福神を夢んだり、社殿の上に自ら登ったり、先手観音の荘厳なる相を拝したり、或いは天主五層楼上に龍あり、その尾を楼上に置き、面をば自分に接して居ると云う如き夢を見て居る。而してそれらの夢をばもし吉なりとする時は、吉日にその夢を聞いて、家僕にまでも御馳走をして居る。この夢開きと云うことは当時一般に行われたことでもあろう。又或る時の夢には将軍より檜垣能をやれとの台命を受けたが、檜垣能の何ものなるやを知らざれども、明日より習うべしと答えて夢醒めた、そして後に人に問うて、始めてそれは能の中の三老女の一で能謡家の大事であることを知ったと云うのがある。 天和2年、素行年61歳の極月24日朝、太閤が天下を自分に与え、且つ之を父に告げよと云いしとの夢を見た。それで自分はこれは吉夢ではない、「我その器にあらず。又その事にあらず。甚だ畏怖すべきことである」として、早く起きこれを反古の裏に書き置くという記事がある。これは甚だ興味あることと思うから、特にこの事を取り上げて一言することとする。 通常、人の覚醒時にありては、いわゆる潜在的となって居る。即ち種々の経験の組織せられたものが基となり居て、それに又現在直接受けるところの内外の刺激をば、対自然、対人、対神等の関係によって組織して居るのである。之を第一人格と云う。然るに病的にか、或いは睡眠によってか、その他種々の条件によって、直接の刺激が杜絶せられる時には、観念の流れは漂蕩奔逸、又それが種々の形態に結成せられる。即ちそれが奇っ怪なる夢となり、それが高まりて自制し得ざるに至れば即ち精神病者となるのである。 今かかる心理学的分析の立場で、素行のこの夢を判ずるに、太閤が天下を与えると云うことをば、まず父に告げよと命ぜられたと云うことは、如何にも平生の彼の孝心の表現であると云わねばならないが、天下を与えられたと云うことは、けだし彼の青年時代の大望大志を、今ここにそのままに表白したものと云うて良いと思う。彼のその当時の生活状態は、決して凡下のものではない。既に前に述べて置いた通り、有力なる多くの大名や又その有能なる臣下は彼にとりては学問上の弟子であり、又彼の一門は皆な有力なる諸候であり、子の万介(藤介)でさえ、親の威光によりて既に重く用いられて居る。かくて日常の来往、精神的には諸侯と同格である。否或る点より云えば、それ以上にも位して居るのである。それで日常の生活は彼をして学者と云う天爵に十分安ぜしめられては居るが、青年時代より持ち続けた大望は、なお潜在的には失われて居ない。それが証拠には、龍を夢んだり、社殿の屋上にまでも上ったり、或いは更に世俗的の立身をも夢んで居る。又前期の如くに、将軍の台命を奉じて檜垣能を更に修行せんともして居るのである。63歳の天和4年4月24日の夢には、正宗の古く錆びたるを得たるに就いて、かかるものは畢竟飾り物に過ぎず、何の実用にもならずと為したることを夢み、醒後聖賢の言説も飾り物なるに於いては、又何の役にも立たず、それの用は畢竟周礼にありとの議論を日記に書いて居る。而してなお之を吉夢として居るのである。然るに太閤の天下を与えたとの夢に就いては、彼はその器にあらず、又その事にあらずと、大いに怖れて以て悪夢として居るのは、甚だ面白いことと云わねばならぬ。 歴史を語るものが、「もし何々であったならば何々であったであろう」と論ずるが如き、いわゆる史論めいたことを言うことは、慎まなくてはならぬが、我が日本歴史に於いての一箇の素行を語る場合に、かく論ずることは許さるべきであると信ずる。即ち素行の素質そのものから云えば、それがこの時代の動きに反応しては、由井正雪の轍を踏むようなことはなかったであろうとは思うが、もし彼をして勢いに乗じてもっと思い上らしめたならば、或いは一箇の反逆児となって、むしろ晩年をして失意の境地に陥らしめたか、或いは然らずとも、彼が日本思想史上有つところの地位は之を得しめなかったであろうとは十分に考えられ得る。 正雪の事を起こしたのは前にも述べて置いた通り、丁度素行の而立の年齢であった。人の己に追従し来るもの、例えば一千人ありとするも、いざ事を挙げる場合に、真に随い来る者はその三分の一にも足らぬであろう。素行はこれらの事をば、既に正雪の場合によってよく知ったであろう。故に彼はいよいよ学問的の努力を為したのである。而して特にこの学問的の努力と云うことは、その時代実に多くの学者が輩出したのであるから、それらとの競争心も手伝うたであろうとも考えられる。しかし彼はどこまでも天下を志すことは忘れて居たのではない。例えば、彼は禅をもやった。しかもそれは一人の事、天下国家に益なきことと為したのは、直接には儒教の治国平天下と云う理想によっての事ではあるが、彼の内心の覇気のおおうべからざるものを見ることができると思う。かくて儒教の真髄を掴んだものが、彼をして「聖教要録」を書かしめた所以であり、しかもそれが為に、彼は罪を得て赤穂に流されることになった。しかもそれが彼を信じて居た父の没した翌年であった。即ち彼はこれによって大なる打撃を受けた。しかもこの大打撃こそ、真に彼たらしめたところの基も大切なるものである。 素行が赤穂にあるや謹厳その身を処した。而してそれの外に表われたのが敬神崇祖と云う日常の行事であったのである。彼は毎月1日と14日、及び父の命日たる22日、ないし時々の御祭事を怠らない。彼の崇神する神は、伊勢と元の氏神たる諏訪と、大峰の三社であり、時には稲荷神をも加えて居る。而してこの祭祀の行事は彼が年をとるに従うていよいよ厳粛に行うたのである。彼は自ら考えた呪文があるが、尤も晩年には常にそれを唱えることは神を穢す所以なりと為し、日を定めて唱えることにした。これが祭事の純なるものである。 素行をしてかく敬神崇祖の念を高からしめたこと、又他の学者にはその例を見ず、否後に大義名分の抽象論が盛んとなっては、却って神道家儒家の非難を受けられし聖徳太子をば特に尊敬したと云うのは、恐らく彼が少時に国学を学んだ結果であろう。今その聖徳太子をここに引き合いに出すならば、太子が憲法17条を定め、その二に、主として当時の氏族閥より出でたる諸弊害を直さんとして、篤敬三実と云われたのが、推古天皇の12年夏4月であった。しかし三実によってまがれるを直さんとするも、仏も法も僧もインドのもの、或いは更に支那に於いて考えられたものであって、未だ日本のものではないのである。換言すれば仏法僧と云うも未だ抽象的の理論である。理論によってまがりを直さんとすることは直成である。「易」に云う「曲成万物不遺」ではない。かくて15年春2月には祭神の詔勅となり、太子自ら衆に先んじて祭りを厳修せられた。けだし祭りは人を化し、「保合大和所以」の日本の第一義の行である。即ちかくして又日本の立場は「易」に言うが如く、化して後に教えるのであって、理論によって教えて後に化せんとする教化ではないのである。 素行の赤穂に配されたことは、彼をして教化の立場より、化教の立場へ転ぜしめた契機となった。彼の晩年は、その故に一層強くこの方面に於いての進境を見る。彼の夢に示すが如くに、一面には青年期に抱いた大望を失うては居ない。故になお俗的の立身出世と云う如き、臭気を去っては居ないのではあるが、他面には彼は更に神仏に接近せしめられて居る。これが赤穂より帰りし後の彼の第一人格である。彼は実際この祭祀の行によって一家族をよく和合せしめて居る。実に羨むべきほど和気あいあいたる家庭であり、又よく一門をして立身出世せしめて居る。更に彼の門に集まる者も又よく和合せしめた。それと同時に、前記正宗の刀を得た夢の場合に、孔子の教も周礼ありて始めて完しとの考えに到らしめた如くに、自身に於いても、よく教化にあらずして、化教たるべき意義を会読したと為すべきであろう。 三尺の童子が論語一巻を暗記し得たとて、それが果たして何の役に立ち得よう。彼の多くの著作も彼のこの第一人格としての力が、いわばそれらに錆或いは箔を置かしめたものに他ならぬ。彼は晩年に於いてもなお「聖教要録」や「武教全書」を講じて居る。これらの書物は既に彼が不惑以後の述作である。知的にはそれ以上の組織はない。しかもそれに一層の権威を与え、門下生ないしそれ以後、更に今日に至るまで、山鹿素行と云う化力たらしめ得たものは、実に日本的の行に徹し得たからのことである。 かって北海道の開拓に急なりし場合に、人格者として高名なりし米国人クラークを招し来りて、時の農学校を司らしめた。彼が帰国に際して、送り来る多くの学生を馬上にて顧み、大声に叫んだ。「若き人々よ。大望者たれ」と。我が国の長き鎖国の夢を破ったこの一語、聴く学生をして実に奮起せしめたのである。しかしそれは鎖国の後であったから、この語に大なる意義あらしめたのであるが、八紘一宇の精神を脈管内に通わしめて居る我ら日本人は、始めより大望者であり、大志の所有者である。殊に日本人としては、スサノウの尊の流れを汲んで居るものである。しかしこの大望大志は、日本的に訓致すべきである。而して日本的と云うは、単なる抽象的の理論によって直成すると云うことでなしに、曲成することによって大和を保合せしむる乾徳(即ち天照大神)に拠ることである。 ロ、学者の通病 日本は忠孝一本の国である。而して孝の訓練道場は家であり、又歴代の詔勅によりて指導せられて、国が忠の訓練道場である。しかもそれは教育勅語、殊にその末尾の御句に示さるるが如く、君民その徳を一にして、以て天壌無窮の皇運を発展進化せしむると云うことである。故にここでは絶対的な帰衣、随順、奉仕あるのみであって、個人より出発して個人に終わるところの一切の宗教や、ないし合理主義的個人主義より出づる一切の合理的理論を超越する。かくてこの内にありては、一切個人主義的の我は解消せしめられ、ただ「分」によるつとめと云う「一如の行」あるのみである。 この一如の行をば、もし理論的に追及せんとするならば、既に古く禅宗がやったように、非常に困難である。しかね日本人は忠孝一本の国として、平生しかも匹夫匹婦がなおそれをよくしつつあるのであって、いわゆる平常心これ道である。しかも平常心これ道の会得は、無門の云うたように、更に参すること参十年にして始めて得られる、否三千年かからなくては、異国人では会得し得ないところのものである。日本は既に儒教の真髄を得た、又大乗仏教をもよく己がものとしてしまった。しかも一切の抽象的理論を棄て、いわゆる「言挙げせぬ」一如の行として、それを摂取した。語の正当な意義に於いてこれほど立派に一切の対立矛盾を止揚し得た人はないのである。しかもそれは平常心に他ならぬ。近頃外国人はよく日本人の威力に驚き、日本人は何故に之を宣伝しないかを怪しむのであるが、宣伝は自己の空なるものの為す仕事である。内容の充実は、一如の行であり、それは行それ自体による化教であること、以上素行の場合に就いて述べた通りである。しかもそれは平常心であって、何ら自分では宣伝すべき特異性のあるものではない。 かく日本の道が平常心であるが故に、水の高きに昇るを却って怪しむが如くに、理論の巧妙なるものは、その新奇の為に、而してそこには本来の髄順性を発動せしめて、直ちに己を忘れて、それに従うと云う風をも生ずるのである。そこに素行のいわゆる「学者の通病」に、何れの時代にも罹る可能性があるのである。最も古くは周国を理想とした儒教に絶対的に随順した。しかも「易」の自然の道を得て、それに落ちついた。次には大乗仏教の妙理に絶対的に帰依した。しかし始めより人と人と相和し、人と自然と相和し、又人と神との調和を知って居る日本人は、奈良朝藤原時代と経過し来り、鎌倉の初期に於いては全く之を一般民衆的のものと為し得た。即ち平常心これ道と為し得た。更に換言すれば、一の「空」概念を説くに「般若経」六百巻を用いないでも、随順行為に於いて自己を空することを知れる日本人には、これ即ち平常心なのである。一「仮」を説くに倶舎や唯識の難しい理論を須いずとも、国家の為に安んじて死んで行く忠に於いて、一生涯の「仮」なることを実地に会得する「中庸」や龍樹の高尚なる理論なくして、よく天の御中主神の威力を実行し、「中」を立て、それを保持して、天壌無窮ならしめる、これが日本人の特色なのである。 もし本来の力量なくして、ただ随順を事とするならば、それは自己の破壊であり、民族の滅亡である。然るに我らは既に漢字を学んで、しかも万葉仮名を作り得た。この力は今もなお流れて居る。即ち新しきものに随順し、それによって自己を一層深く広くなし得た暁に於いては、その獲たるものは最早他のものにあらず、自己本来の面目たることを知る。かくて素行の如き人が、日本人の良き代表者となる。素行より少し遅れるが、いよいよ漢学の流行となっては、表面上それに溺れ、自ら東夷と称して満足した徂徠の如き人と雖も「旧事本紀」の序を書く場合には、後来もし聖人の中国(支那)に起るあらば、必ず我が人と神との区別なきところに発するところの道をこそ、その本と為すであろうと云うて居るのである。 自らを東夷と称し、日本を以て呉の太伯の後なりと考証して喜んで居たような漢学者も多く出て居る。しかも、それと対立して、素行の如き立場、又それが素行との思想的関係如何は、余の未だ取り調べて居ない点であるが、やや年少の水戸の光圀卿の如き思想、ないし儒教の本源に遡らんとする古学覇、それらより得たる知識よりして古神道に入った学者や、又陸王の如き知行合一の立場、而してそれも又日本人には自明の事なるが故に、これらは相共に流れて明治維新と云う一如の行にまで進展した。 明治維新は欧米個人主義の文明に刺激せられたところがあるのであるから、丁度二百年前に素行によりて、「学者の通病」なりといたく警告せられたものが、この場合には又忘却せられて、合理主義的個人主義的の文明文化に幻惑せられ、それに随順することをこれ事とするようになった。しかし最初は自己をよく保有して居たのであるが、明治末期より大正へかけては、本来の面目は全く潜在的のものにまで押し込められてしまったのである。而して合理主義的個人主義より出づるところの抽象的概念を以て、一般の通念と為し終ったのである。しかしこれは一種の精神病的のものである。いわゆる思想問題の如きは、この病気の外面的表現に他ならない。日本精神と云う語はこの間に起こされ、而してそれが今や自己を伸さんとして居るのである。而してこの伸びる所以のものは、己に還ることによって、更に邁進するところの、日本歴史の形式の踏襲に過ぎない。 さらば来るべき日本の形態は如何なるものなるべきか。従来のものは皆な外的刺激により、又それの摂取であったのであるが、今や摂取すべき精神は最早全世界の内になくなったのである。ここに於いて神武天皇創業の大精神が更に新たにせらるべきである。換言すれば八紘一宇の大理想の全世界的実現、これがその形態たるべきことは当然のことである。さればその為に、内に於いて如何なる工作を為すべきか、それと相関して外に向うての発展が如何になさるべきか。即ち全世界全人類の為に負わされたる我ら日本人の使命は、更に重大且つ厳粛なものである。 |
【「配所残筆」をどう読みとるべきか、れんだいこ解説】 |
(私論.私見)