山鹿素行の履歴考

 更新日/2018(平成30).12.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、山鹿素行の履歴を確認する。「ウィキペディア山鹿素行」、「宮司の論文」、「山鹿素行 庚寅記載録」、「譯註先哲叢談(後編)卷二」その他を参照する。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


山鹿素行(やまが そこう)の履歴1】
 1622(元和8)年8月16日 - 1685(貞享2)年10月23(9.26)日
 江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。
 1622(元和8)年8月16日、奥州陸奥国の会津藩60万石の時の藩主・蒲生下野守忠郷の家老・町野左近邸(福島県会津若松市)で生まれる。現在、町野屋敷跡には「山鹿素行生誕地」と書かれた立派な石碑が建っている。これは、大正15年に建てられたもので、撰文は平戸藩主の血を引く松浦厚(まつらあつし)伯爵が作り、題字は日本帝国海軍の東郷平八郎元帥が揮毫している。

 父の山鹿貞以(さだもち、六右衛門、高以)は、伊勢亀山藩主の関(長門守)一政に仕え、主家の転封に従って、白河(福島県)、川中島(長野県)、亀山(三重県)などを転々としたが、同役同士の刃傷沙汰で某を殺して解雇となり、潜(ひそか)に龜山を出で会津の白河城主・蒲生忠郷家の家老である)町野幸仍(幸和の父)を頼り寄食していた。貞以は町野家で客分として優遇され、幸仍の3万石の封の中から250石を貰って安定した暮しをしていた。母は岡備後守の娘(妙智)。素行はその次男として生まれる。弟は三郎右衛門(平馬)義昌(義行)で後年、平戸藩松浦家に致仕する。素行の名は高興(たかおき)、高祐(たかすけ)、義矩(よしのり)。幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山(因山)のち素行。

 素行と相前後する学者を挙げれば、林羅山が40歳、帰化人の朱舜水が23歳、中江藤樹が15歳、山崎闇斎が5歳、熊沢蕃山が4歳。木下順庵は同年。朱舜水が亡命し来朝した年に生まれている。伊藤仁斎は6歳下、徳川光圀は7歳下、貝原益軒は9歳下。新井白石は36歳下。この年に明国より亡命の禅僧隠元が来朝している。大石良雄は38歳下である。

 幼少時代の素行について、「配所残筆」は次のように記している。

 「六歳より親申し付けて、学仕らせられ候。不器用にて候て、漸(ようや)く八歳の頃に、四書・五経・七書・詩文の書、大方読み覚え候」

(※四書とは、大学、中庸、論語、孟子。五経とは、易経、書経、詩経、春秋、礼記。七書とは、兵法書の孫子、呉子、尉りょう子、司馬法、李衛公問対、六とう、三略)

 1627(寛永4)年、蒲生忠郷の江戸藩邸急死により蒲生家の会津60万石は没収、改易される。会津には伊予松山から加藤嘉明(よしあき)が新たな藩主となって入り、町野幸和は主を失い浪人となる。

 1628(寛永5)年、6歳の時、蒲生家の騒動で失脚した町野幸和に従う父と共に江戸に出る。江戸神田佐久間町に移住する。父は町医を開業する。同年より漢籍を学ぶ。

 1630(寛永7)年、9歳の時、旧亀山藩時代の知人・塚田杢助(老中・稲葉丹後守正勝の家来)の斡旋を経て大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学ぶ。林羅山は、1605(慶長10)年、僅か22歳の時、徳川家康の相談役となり、2代目将軍秀忠、3代目家光に学問を教えたこともある等、徳川幕府御用達の儒学者、政治顧問であった。「配所残筆」は次のように記している。

 「9歳の時、稲葉丹後守殿(老中の正勝)の家来の塚田杢助が父と懇意の間柄であったので、我らを林道春老の弟子と為したいと頼んだ。杢助が序(ついで)の時に、そのことを丹後守殿へ申し上げたところ、幼少にて学問せんとするは奇特なことであると云うので、御城で直接に丹後守殿が林道春へ御頼みくだされた。それでかの杢助が拙者を連れて道春のところへ参った。その時、道春と杢助と永喜(道春の弟)も同座であったが、我らに論語の序文を無点の唐文にて読めと申された。それを我らが読んだところ、更に山谷(山谷集、宋の詩人黄庭堅の詩集)を出して読まされた。永喜の云わるるには、幼少にてかほどにも読み得るとは奇特なり。さりながら田舎学者が教えたものと見えて、訓点のつけ方悪しと。道春も永喜と同様に申され、感心し悦んでくだされた。それで特に親切にしてくだされて、11歳頃までに、以前読んだ書物の読み方の悪しきを訂し、更に無数の本にて読み直した」。

山鹿素行(やまが そこう)の履歴2】

 1632(寛永9)年、11歳の時、小學論語貞觀政要(唐の太宗時代の政治を記したるもの)等を講説する。次のように評されている。

 「論弁殆ど老成の如し」。

 この年の正月、初めて元旦の詩を作って道春に見せたところ、一字だけ改められて、それに序文を書き、幼少のものの作ったものとしては感心なりとの書状を副え、それに和韻した詩を作り下されている。同年、堀尾山城守殿(忠晴、松江城主)の家老の揖斐伊豆に目を掛けられ、山城守殿へ召し出され、そこで書物を読む。伊豆は、山城守に仕えるよう、二百石で抱えると申し出ている。

 1633(寛永10)年、12歳の時、林羅山の許可により、見臺を用いて經を講ず。

 1635(寛永12)年、14歳の時、武家諸法度が制定される。

 この年、伝奏(将軍より天皇への奏上を取り扱う役)の飛鳥大納言(雅宣)が呼び寄せ、和歌を競演する栄誉に預かっている。これが機縁となり、飛鳥大納言、烏丸大納言殿(光広)との親交が始まる。

 1636(寛永13)年、15歳の時、甲州流兵学「甲陽軍鑑」の著者・小幡勘兵衛景憲に甲州流(武田流)兵学を修める。甲州流軍学は、勝利を得る方策は「武略・智略・計策」であり、これを「よき軍法」、その軍法を実際に生かす為に「よき采配」、「よき法度」が必要と説く。武田信玄の軍師・山本勘助を学祖として祀り上げている。この頃、孔子の「大学」の講釈を行ない、評判を得、既に一家をなす。将軍家光にその才を認められ登用の話があったが家光の死去により叶わなかった。

 1637(寛永14)年、16歳の時、江戸町奉行や大目付を勤めていた小幡の弟子の北条氏長に兵学を学ぶ。北条は、小幡兵学に加えて倫理的要素の強い兵法を説いた。呼び名も「兵法」ではなく「士法」としていた。オランダ人から当時の西洋の砲術・攻城法についても聞き出している。他方、天照信仰に傾倒し、日本浪漫主義に傾倒していた。素行は、20歳になるまでに門弟中で上座になって居り、次のように評されている。

 「素行之に從學すること五年、諸弟子その上に出づるものなし」。

 この年、大森信濃守殿(佐久間久七)、黒田信濃守殿(源右衛門)の要望を受け、孟子の講義をしている。蒔田甫庵老人には論語を公儀している。

 1638(寛永15)年、17歳の時、忌部神道の嫡流・廣田坦斎に両部神道の秘伝を伝授され、神道の奥義を究める。忌部神道の廣田坦斎とは、天孫降臨の際に天児屋根命とともに功労のあった忌部太玉命の後裔であり、忌部流の伝「神代巻神亀抄」、「朱注の神代巻」、「忌部流三種大祓」等の著書があり、忌部流根本宗源神道を提唱していた国学者であった。

 1639(寛永16)年、18歳の時、両部習合神道の高野山按察使院光宥らに和学、歌学、神道など様々な学問を学び印可が与えられる。この時、次のように評されている。

 「文に於いては、その能く勤むるを感じ、武に於いては、その能く修るを歎ず。あぁ文事有るに、必ず武備有りと。古人云う、我又云う」。

 この頃より歌学を好み、20歳までに源氏物語き、源語秘訣(源氏物語の秘伝)、伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集、百人一首三部抄、三代集(古今、後撰、拾遺)に至るまで、広田担斎より相伝を受けている。これにより源氏私抄、万葉、枕草紙、三代集の私抄注解などのあらましの撰述を為す。詠歌に志深く、年に千首の和歌を詠むも、「少し考えがあって、その後は顧みないこととした」(「配所残筆」)。

 1642(寛永19)年、21歳の時、小幡景憲から甲州流(武田流)兵学の印可を受け秘奧を伝授される。「門弟中汝の如きは一人もなし」と副え状で称賛される。

 この年、「兵法神武雄備集」を著す。孫子の兵法を中心にして兵法を体系的、学問的に初めてまとめ、江戸で山鹿流軍学を講じる。これを山鹿流兵法と云う。素行は武人として実践的な孔子の教え(聖学)の原点に帰ることを主張し、武士道を政治哲学まで高めた。後に、赤穂浪士の討ち入りが起るが、そ戦略や用兵には山鹿流兵法の影響が強く見られる。幕末期の長州藩の倒幕の戦略は吉田松陰が教えた山鹿流兵法に則ったとも云われている。

 注目すべきは、素行が山鹿流軍学を講じ始めたこの頃、江戸では甲州流の小幡勘兵衛、その一派である北條流の北條氏長、由井正雪、丸橋忠弥らがそれぞれ兵学塾を開講し競っていた筈である。この時勢に於いて、素行が山鹿流兵法で登場したことになる。それぞれがどういう相関、反目関係にあったか興味深い。

 1645(正保2)年、24歳の時、旗本の津軽信英が入門し、のちに甥の信政(陸奥国弘前藩主)がこれに倣った。

 この年、家光の御代、浅野長直が播磨国赤穂に移封する。

 1646(正保3)年、25歳の時、桑名藩主松平定綱(越中守)が入門。この当時から早熟の秀才として諸大名、旗本からの召抱えの誘いが殺到したが、若輩である事を理由にいずれも断っている。一説に幕臣への取り立てを志望していたとも云われるが定かではない。

 1647(正保4)年、26歳の時、桑名藩主・松平定綱(越中守)が素行を招いて兵法を聞く。

 この頃のことと思われるが、素行は、紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ、徳川家康の10男坊)の屋敷で、10歳余年上の由井正雪と出会っている。あえて時候の挨拶以外はいっさいしなかった云々。別の日に頼宣に面会し、「由井正雪は何を考えているかわからない人物だから近づけないほうがいい」と忠告している。頼宣は無視し由井正雪と親交を続け、武装蜂起の際には徳川頼宣の文書が偽造されて使われ、一味との容疑をかけられ、疑いが晴れて地元紀州に戻れたのは10年後となる。

 1648(慶安元)年、27歳の時、赤穂城築城開始する。

 1651(慶安4)年、30歳の時、兵学者・由比正雪の乱。これにつき「由井正雪の乱」に記す。


山鹿素行(やまが そこう)の履歴3】
 1652(承応元)年、家綱の御代、31歳の時、12月8日、播摩国(兵庫県)の初代赤穂藩主・浅野長直(ながなお)の要請により浅野長直邸に至り、君臣の礼を為す。赤穂藩は山鹿素行を禄高一千石の破格の厚待遇で招聘することになった。ちなみに赤穂家老大石家の録は1500石であった。「人生意気に感ず」として応じ、江戸藩邸での兵学教授となる。追って赤穂行きを要請され、その旅の途中で「海道日記」を遺している。赤穂浅野家は、元々水戸の笠間藩からお国変えで転封されて赤穂にきたという経緯があった。素行を大歓迎し藩の教育掛にした。約9年間赤穂藩で文武両道を藩士に教えた。この時、藩主の浅野内匠頭や、赤穂藩国家老・大石内蔵助(くらのすけ、は8歳から17歳)、後の忠臣蔵四十七赤穂義士らに大きな影響を受けたことになる。

 1653(承応2)年、32歳の時、8月、江戸を出て、9月、赤穂着。この年、築城縄張りを行う。「山鹿素行先生日記」によれば、「大守縄張二廓虎口、招僕談之、大守自臨其地、…僕取間縄改直之」とある。「武教全書」(山鹿流兵学の教科書)によれば、概要「四神相応の地形につき、東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形となっている。
 1654(承応3)年、33歳の時、「楠木正成一巻書」が山鹿素行の序文付きで刊行されている。

 1656(明暦2)年、35歳の時、武士道について体系化した兵学書「武教小学」、「武教要録」、「武教全書」などを著し独自の兵法思想を元に山鹿流兵学を完成する。この前後から朱子学に疑問を抱き老荘に近づく。

 1658(万治元)年、37歳の時、禅宗に接し隠元禅師と問答する。 

 1659(万治2)年、38歳の時、大石内蔵助が赤穂の大石邸に生まれる。

 1660(万治3)年、39歳の時、赤穂藩を致仕(ちし)を辞退し職を辞す。赤穂藩に勤めた期間は7年10カ月。再び江戸で講義を始め教育と学問に専念する。この時、古学を提唱する。この間、素行は極めて広範な知識を吸収しつつも、満たされないものを感じていた。「配所残筆」によれば、この頃より、後世の書物ではなく、直接、周公、孔子の書を読み、それを手本として学問の方法を正そうと思った。そして、聖人の書ばかりを日夜読み考えた結果、はじめて聖学の道筋を明らかに得心した。

 1661(寛文元)年、40歳の時、赤穂城完成する。

 1662(寛文2)年、41歳の時、朱子学に疑問を抱き、直接古典に依拠した新しい学問としての聖学、聖教を構想,する。

 1663(寛文3)年、42歳の時、門人などに素行語録集「山鹿語類」を編集させ、刊行する。「農、工、商、といった(身分の)分化がおこったのは当然である。そして武士は耕すこと無しに食し、商売も無しに暮らせていける。(中略)職分が無くて食べてるだけでは遊民だ。だから遊民とならないように心をこらし、努力しなさい」と、戦国の世が終わり無用の長物化していた武士階級に士道を説いた。

 1665(寛文5)年、43歳の時、10月、江戸で「聖教要録」(せいきょうようろく)3巻を出版。「山鹿語類」巻33から巻43までの「聖学篇」を抜粋要約したものである。武士道とは何かを説き明かした。本書で、当時の官学である朱子学の「儒教古典の朱子学的解釈」を憚ることなく批判し、「周公孔子の書」に直接依拠し「原典に帰れ!」と述べ、原典復古主義と実践主義とを唱導した。「今日日用事物の上」に立つ学問を求めて古学の要を説き、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明をしている。これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されることになる。本書刊行により、本書は幕府から「不届成ふとどきなる書物」とされ、素行は播磨赤穂に配流された。

 この年の末頃、父六右衛門逝去のため翌年4月初日まで喪に服す。

 1666(寛文6)年、45歳の時、4月、喪明けと同時に親交のある板倉重矩(内膳正)の老中任命の祝儀に赴いている。9月21日、板倉から「聖教要録」が朱子学の観念論化を批判しているとして、朱子学を信奉する幕府執権保科正之の忌憚に触れている旨を内報される。素行は後日書面で書籍の意図するところを弁明したが、幕閣に強い影響力を持つ保科の独断が通ったため結局聞き入れられなかった。

 10月3日、時の執権にして朱子学(崎門学)信奉者である会津藩主の保科正之は、幕府官学である朱子学批判を咎め、朱子学批判の罪で素行の配流処分を通達する。配流先はかって仕えていた播磨国赤穂藩であった。8日に江戸を出立し24日に赤穂到着するまでの間「東海道記」を遺した。配流は1675(延宝3)年迄の9年間に及ぶ。その間、四書句読大全、謫居童問、中朝事実、武家事紀など大著を完成し、また自伝の配所残筆を著している。

 この時、赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した元禄赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる。吉良邸討入の後には、山鹿流軍学は、「実戦的な軍学」として江戸中期以降の人気を博した。


 1667(寛文8)年、46歳の時、11月、浅野長矩が江戸本邸に生まれる。

 1668(寛文9)年、47歳の時、吉良義央(28歳)が吉良家当主となる。この年、学問論「謫居童問」を著す。

 1669(寛文9)年、48歳の時、山鹿素行が「中朝事実」(ちゅうちょうじじつ)(全2巻。付録1巻)を著し、尊王思想を説いた。「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指している。万世一系、皇室が連綿と続いている日本は、三種の神器が象徴する智仁勇の三徳において中国よりはるかに優れている、日本こそ世界の中心にある国である、天皇に対する忠義こそ真の忠義であると説いた。中心は日本であるとする独特の日本主義思想を展開し、日本主義思想家の祖とも称せられる。「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。

 これを概略すれば、日本こそ孔子以前から孔子の教えを実施する道義国家である。「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」。日本こそ「中つ朝」すなわち「中華」であり、日本書紀を見れば、日本は「葦原中國(あしはらのなかつくに)」と書いてあるように日本こそ中国である。皇祖の天照大神(あまてらすおおみかみ)の統治の御心は「至誠」そのものであり、君子もまた至誠そのものであり、人民も徳に向って生きる。

 さらに素行は、「謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く」と続ける。武は、「天壌無窮の神勅」によって用いることで、世を浄化し人道を実現する。(「中朝事実」)。武を用いる者、すなわち武士は、みずから進んで人倫の道を歩み、人倫をみだらせるヤカラがいたら、速(すぐ)に罰して、天下に人倫の正しきを保つ。だから、武士は、文武之徳治不備があってはならず、生涯を通じて身を律して生きなければならない、とした。そして武士は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず。おごそかにして、人々が畏(おそ)るべき者であれ、とした。 

 1671(寛文11)年、50歳の時、3月、浅野長直(62歳)が隠居し、長男の長友(29歳)が赤穂藩を相続する。

 1672(寛文12)年、51歳の時、7月、浅野長直(63歳)が亡くなる。12月、保科正之さん(62歳)も亡くなる。これにより流罪の処分を解除する動きが出てくる。

 1673(延宝元)年、52歳の時、4月、赤穂藩主の浅野長友(長矩の父)が素行宅を訪れる。この年、大石内蔵助(15歳)が赤穂藩家老職を相続する。大石良雄の父良昭(34歳)が療養中の大坂で亡くなる。良雄の祖父・良欽(56歳)が養父となって、家督を良雄(15歳)に譲りその養育に当たる。

 この年、「武家事紀」を著す。歴史書・武家故実書で全58巻(前集3巻、後集2巻、続集38巻、別集15巻)によって構成されている。武家の歴史を描くことに主力を置いているが、そのために必要な語句などの詳細な解説が付されており、読者である武家の参考にするための事典としての機能も有していた。また、古案(古文書)からの引用も多くなされている点も当時としては画期的であった。前集3巻は皇統要略、武統要略。後集2巻は武朝年譜、君臣正統。続集38巻は譜伝・家臣・御家人・諸家・諸家陪臣・戦略・古案・法令・式目・地理・駅路・地理国図。別集15巻は将礼・武本・武家式・年中行事・国郡制・職掌・臣礼・古実・官営・故実・武芸・雑芸故実。

 1675(延宝3)年、54歳の時、1月、浅野長友が33歳の若さで死に、長男の長矩がわずか9歳で赤穂藩を相続(襲封)する。

 1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。「この世の現実に即さないで、ただ古聖人に忠実なだけでは自己満足するだけで現実離れしていき、結局、この世を捨てて山林に入り鳥獣を友とするしかない。読書を好んで詩文に耽り、著述をしても実用の役には立たない。(その類のものは)余暇にすべきもの」と陽明学的な言い回しをしている。


山鹿素行(やまが そこう)の履歴5】
 この年、54歳の時、山鹿素行、赦免される。

 1677(延宝5)年、56歳の時、1月、大石内蔵助さんの祖父で養父良欽(60歳)が赤穂で亡くなる。内蔵助(19歳)が大石家と祖父の遺産(1500石)を相続し、見習い家老となる。大叔父の良重(59歳)(祖父良欽さんの弟)がその後見役となる。

 7月、赦免され、8月、江戸へ戻る。赤穂滞在は8年9カ月。浅草田原町に住み「積徳堂」と号す。その後の10年間は私塾を開き軍学を教えた。

 晩年も「原源発機(録)」、「治平要録」などを著した。山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、武士階級を擁護した。

 「武士たるものは人倫の道を実践し、農・工・商の模範と成り、三民を教化していかねばならぬ」との理想で武士道精神を啓蒙浄化した。「武教小学」として起居、行住坐臥、衣食住に至るまで細部にわたり教化した。これにより「武士道精神」の根本聖典と成っている。

 1679(延宝7)年、58歳の時、1月、大石内蔵助(21歳)が国家老上席に就任する。

 1680(延宝8)年、59歳の時、5月、4代将軍・家綱が亡くなり、5代将軍に綱吉(35歳)が就任する。後世、犬公方(いぬくぼう)の異名をとる。側用人になった柳沢吉保(23歳)が文治政治を推進し、それまでの文武弓馬の道を改め特に忠孝礼儀を強調し始めた。8月、浅野長矩(14歳)が従五位下・内匠頭に任ぜられる。

 1681(天和元)年、60歳の時、綱吉の御代、8月23日、浅野長矩(15歳)が山鹿素行に入門する。

 1683(天和3)年、62歳の時、2月6日、浅野長矩(17歳)、勅使饗応役を拝命する。3月7日、吉良義央(43歳)、高家肝煎となる。3月25日、浅野長矩が、吉良義央の指南のもと勅使饗応役を勤め、大役を果たす。この時世話をしたのが大石良重(65歳)である。4月9日、あぐり(12歳)が浅野長矩に輿入れする。5月、良重さんが亡くなる。6月23日、浅野長矩が赤穂に初入部する。

 1684(貞享元)年、63歳の時、8月、浅野長矩(18歳)と弟の長広(15歳)が素行(63歳)の兵法の門弟となる。

 この頃、幕府より赤穂藩へ大猷院殿25回忌大赦につき素行赦免の沙汰が届き、7月には蟄居が解かれた。8月、江戸浅草に移住して平戸藩松浦家の援助をうけ、私塾積徳堂を開いて軍学を講じたという。

 1685(貞享2)年8月、黄疸病にかかり、9月26日、淺草田原街の家にて黄疸で死去する(亨年64歳)。法諡を月海院瑚光淨珊居士。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の曹洞宗宗参寺にある。

 この年、徳川綱吉は将軍に就任して5年ほど経過している頃で39歳。松尾芭蕉(ばしょう)は「奥の細」の旅に出る4年前の41歳。。近松門左衛門は32歳。その2年前に竹本義太夫(ぎだゆう)の竹本座が「世継曾我(よつぎそが)」という近松の作品を演じて大好評。近松は浄瑠璃作者としての地位を築いた。大石内蔵助(くらのすけ)良雄(よしお)は26歳。すでに赤穂藩の筆頭家老だった。

 なお、素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。平戸藩では藩学として教えられ、全国の山鹿流兵法を学ぶ者たちが多く平戸を訪れた。平戸城の築城にも山鹿流が目配せしている。


【浄瑠璃坂事件
 1668(寛文8)年、2.19日、宇都宮藩主・奥平忠昌が他界。半月後の3.2日、宇都宮の興禅寺で亡君の法要が営まれ、その席で刃傷事件が発生した。奥平家には「七族、五老」の重臣制度があり、これに基づく二家老制が敷かれていた。七族の代表家老が奥平隼人、五老の代表家老が奥平内蔵冗(くらのじょう)だった。この二人が何かにつけ確執していた。法要日、内蔵冗(くらのじょう)が持病の悪化で法要に遅れたのを、隼人が嗜め罵倒した。二人は10日ほど前にも悶着を起こしていた。亡君の位牌の文字を巡り、内蔵冗には読めたが隼人には読めない文字があり、二人の間で口論があった。この日の法要後、興禅寺の渡り廊下で内蔵冗が隼人に切りつけ、武芸達者の隼人が逆に内蔵冗の肩先から胸にかけて深手を負わせ、その傷が元で亡くなった。自害したという説もある。新藩主の奥平昌能(まさよし)は幕府に事件を届出したが、隼人びいきの内容だった為、喧嘩両成敗とならず内蔵冗の家だけが改易となった。これに、藩士の兵藤玄番(げんば)や夏目外記(げき)らが反発し、続々と藩を飛び出した。この者たちは内蔵冗の遺児・源八(当時11歳)を擁し約40余名に及んだ。新藩主やむなく隼人を浪人にさせ、警護の者をつけ匿った。隼人は、当初は下野国壬生藩に保護され、転々とした後、江戸牛込の浄瑠璃坂上の屋敷に移り住んだ。父の死から4年、源八一味はようやく隼人の潜伏先を探り出した。

 1672(寛文12)年、2.2日明け方近く、討ち入った。一味は隼人の父と弟を討ち取ったが、隼人本人は留守で、二人の首を桶に入れて凱旋した。浄瑠璃坂を下り、外堀にかかる土橋(今の飯田橋交差点付近)に差し掛かろうとしたとき、討ち入りを知った隼人が浪人ら20名を引き連れ、馬上追って来た。大勢の江戸っ子が見守る中での斬り合いとなり乱戦となった。遂に源八が隼人を討ち取った。源八ら3名が時の大老・伊井直澄(彦根藩主)の屋敷に自首した。大老・伊井は、源八らの行動を義挙と判じ、本来なら死罪となるところ、遠投処分となった。その後、三人は赦免され、大老・伊井に召し抱えられる形で彦根藩士となった。他の浪士らも皆な他家に仕官することができた。

山鹿素行の影響】
 その教えは武士社会に大きな影響をあたえることになった。素行の説く「古学派」は、伊藤仁斎や荻生徂徠に受け継がれ、仁斎は京都の町衆の商行為はどうあるべきか、徂徠は幕府政治をどうすべきかといった、より具体的で、実践的な問題に取り組んでいる。

 吉田松陰が山鹿素行を「先師」と呼んで心酔していたのが特に著名である。松陰は、5歳の時、長州藩山鹿流兵学師範吉田大介の養子となり、11歳で藩公(藩主)の前で素行の兵学「武教全書」をよどみなく講義した。1850年、20歳の時、山鹿流兵法後継者の山鹿万助、高名な学者であった葉山左内(鎧軒・がいけん)に学んだ。平戸での滞在は50日ほどに及んでいる。この後、長崎を訪れ、肥後にも行き、同じ山鹿流つながりでのちに池田屋で暗殺される肥後勤王党の大物・宮部鼎蔵とも初めて会っている。このあたりは「西遊日記」として記録が残されている。その松陰から山鹿素行を学んだのが久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎らの松下村塾学徒である。

 明治以降では、県立若松女子高校の西、山鹿町にある。素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれている。乃木希典が「中朝事実」を愛読していたことが知られている。日露戦争の旅順陥落後、乃木将軍は敗将ステッセル将軍に武士道の礼をもって接し、水師営の会見後の別れの挨拶のとき、ステッセル将軍に対して、概要「将軍がロシアへの帰国を望まれるなら、そのように取りはからいましょう。帰国されて身の危険があるならば、日本に滞在され、京都に知恩院という寺があります。そこを宿舎にされてはいかがでしょうか」。ステッセル将軍は乃木将軍に感謝したが、「我が身の上については皇帝の意向に従わなければなりません」と答え。後にステッセル将軍は皇帝に電話したところ、皇帝は将軍に冷たく、勝手にせよと言ったといわれている。その後、10年間投獄された。投獄されたと聞いて乃木将軍は、皇帝に罪を許すように嘆願書を送っている。

 山鹿素行の説いた日本的道義思想は、戦後のGHQによって炎書の憂き目にあい逼塞させられている。但し、いまなお価値を失っておらず、その思想が求められる時代になってきているといえる。

 平泉澄物語日本史(下)」78Pは次のように述べている。
 「山鹿素行に学ぼうとする者は、武教小学と、中朝事実とを読まれるがよい」。

 1940-42年、「山鹿素行全集」全15巻(岩波書店)が出版される。

 1984(昭和59)年正月、日本橋三越本店で産経新聞社主催の「天皇」展が開催された。その展示物の中に乃木大将が献上した本書上下2冊があった。このことが切っ掛けとなり山鹿素行生誕300年を記念し「中朝事実」の復刻出版が実現した。

山鹿素行の武士道論考】
 「日本協議会理事長 多久善郎ブログ」の2014-07-27日付ブログ「武士道の言葉その9、山鹿素行その1」(「祖国と青年」平成25年2月号掲載)
 先師曾て北條安房守の宅へ召し出され、赤穂謫居の命を承けられたる時の事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るべし。(吉田松陰『武教全書講録』)

 幕末の志士吉田松陰は、北方の脅威の実体を探る為に、肥後藩の宮部鼎蔵と共に東北視察の旅に出かけた。二人はそれぞれの藩で、山鹿流の軍学を教える教師の立場にあった。年齢は宮部が十歳上だが、日本の将来を憂える同志として、生涯互いを尊敬しあった。この二人が学問上の「師」と仰いだのが山鹿素行である。


 江戸時代初期に生きた山鹿素行(1622~1685)は、大変な学者で人間コンピューターの様な人である。二十歳位までに当時出ていた殆どの書物を読破し、兵法・儒学・神道・仏教・古典など全ての学問をマスターしたというのだからすさまじい。その上で、武士とは如何にあらねばならないかを体系化した。その様な大天才。将軍家を始め全国の大名から「是非政治顧問に」と引っ張りだこになった。だが、素行は幕府が奨励していた朱子学に異論を唱える。その結果、赤穂藩に追放となった。『聖教要録』事件である。素行は処分される事を覚悟でこの著作の出版に踏み切った。

 それ故幕府から呼び出しがあった時、素行は覚悟を定めて身を浄め、身支度を整えた際、立ったままで遺書を認めた。その上で北條安房守の家に向かった。そこで処分が言い渡された際も素行は「自分は武士たる者の心がけとして、家を出る時にはあとの心残りがない様、常日頃から覚悟している。」と平然と述べた。そして、そのまま赤穂藩邸に預けられたのである。


 吉田松陰は、松下村塾での初講義として山鹿素行『武教全書』を取り上げ、その中で、山鹿素行先生を師と仰ぐ理由を熱く語った。その第一の理由が、この赤穂藩に流され謹慎処分を受けた際の素行先生の身の処し方であり、武士としての日常の覚悟の姿であった。

 先師、満世の俗儒外国を貴み我が邦を賤しむる中に生れ、独り卓然として異説を排し、上古神聖の道を窮め、中朝事実を撰ばれたる深意を考へて知るべし。(吉田松陰『武教全書講録』)

 山鹿素行が赤穂に流されたのは、四十五歳の時だった。それから十年もの間、素行は赤穂の地で過ごす。赤穂藩主浅野長直は以前から素行に師事していたので、赤穂藩は賓客を扱う様に素行の世話を尽した。その際のお世話役が、後に忠臣蔵で有名になる大石内蔵助良雄の従祖父であった。

 ものは考えようだが、大学者の素行が江戸に居続けたなら門弟が毎日押し寄せて、自らの学問的探求や思索はままならなかったのではないだろうか。田舎に流されたおかげで静謐な環境を得て素行は独自の思索を深め、執筆も捗り、多くの名著を著す事が可能となったのである。その代表的なものが『中朝事実』である。この本は後に、乃木大将が殉死する直前に遺書代わりに、当時学習院生だった裕仁親王殿下(昭和天皇)に贈った事で有名である。何が書かれているのだろうか。

 江戸時代の学問は儒学が中心だった。儒学はシナの孔子や孟子を聖人賢人と仰いでいる。それ故、ともすれば、江戸時代の学者の中には「シナこそが聖人君子の国である。それに比べて日本は文化の度合いが低い。シナ人に生れれば良かった」などと考える者まで居た。それに対し素行は「シナを中華・世界の中心の国だと言うが、実際の歴史はどうなんだ。シナでは暴君が跡を絶たないし、革命の連続で後世一度たりとて理想の聖人君子の国など実現していない。孔子や孟子は理想を掲げたが結局は挫折し失意の生涯だった」。
「それに比べて日本の歴史はどうだ。日本書記を繙けば、万世一系の天皇様を中心に仁慈深い政治が連綿と続いているではないか。聖人・賢人が綺羅星の如く輩出されている。聖賢の国・理想の国はシナではなく日本なのだ。仁徳が高くて世界から仰がれる国、即ち『中朝』は、わが日本である。それは、歴史の『事実』が示している。」と考え、実際日本書記に記された記述を元に著したのがこの『中朝事実』だった。

 吉田松陰は言う「素行先生は、世の中の学者達が外国を貴んでわが日本を貶める風潮の中で、ただ一人その様な説を排して、古代から連綿として受け継がれた神聖の道を極められて、中朝事実を撰述されたのである。その深いお考えを知るべきである」と。

 凡そ士の職といふは、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交りて信を厚くし、身の独を慎んで義を専とするにあり。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』) 

 ここから、山鹿素行が著した武士道の中味に入って行こう。まとまった形で著されているのが、『山鹿語類』巻第二十一の「士道」と、巻第二十二~巻第三十二迄の「士談」である。「士談」は「士道」の内容を、古今内外の具体的な史実を紹介して理解が深まる様に語られている。「士道」は次の項目から成っている。

一、本を立つ
①己れの職分を知る 
②道に志す
③其の志す所を勤め行うに在り

二、心術を明かにす
 ①気を養い心を存す
  気を養うを論ず 度量 志気温藉 風度 義理を弁ず命に安んず 清廉 正直剛操
 ②徳を練り才を全くす
  忠孝を励む 仁義に拠る 事物を詳らかにす 博く文を学ぶ
 ③自省 自戒

三、威儀を詳らかにす
 ①敬せずということなかれ
 ②視聴を慎む 
 ③言語を慎む
 ④容貌の動を慎む 
 ⑤飲食の用を節す
 ⑥衣服の制を明かにす 
 ⑦居宅の制を厳にす 
 ⑧器物の用を詳らかにす 
 ⑨総じて体用の威儀を論ず

四、日用を慎む
 ①総じて日用の事を論ず 
 ②一日の用を正す 
 ③財宝授与の節を弁ず
 ④遊会の節を慎む

 素行は冒頭で、士に生れたのだから「士の職分」とは何かを考えろ、と厳しく求める。農民や工人、商人はそれぞれが、物を生産したり作ったり流通させたりして人々の役に立つ仕事をして生きている。しかし、武士は生産活動に従事しなくても暮らしていける。何故なのか。それは、武士には社会的に重要な役割があるからだ。その事をしっかりと考えなくてはならない。それが、ここで紹介している「自分自身を常に顧みて、仕えるべき主人を得て奉公の誠を尽し、同輩や友人には信義を篤くして交わり、己を慎んで常に正義を貫く事を第一義として生きること」である。即ち社会のリーダーとしての道徳的な高みを常に示す事こそが武士の仕事(職分)だというのである。

 行ふと云へども、一生是れをつとめて死而後已にあらざれば、中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)

 武士としての社会的な責任を強く自覚し、わが国の将来を憂えて、天下国家の為己に厳しく生きたのが吉田松陰だった。松陰は幼い頃から山鹿素行の述べる武士としての使命感を叩き込まれて成長したのである。素行は次の様に述べる。自分の職分を自覚したなら、職分をつとめる為の「道」に志すべきである。その為に良き師を求めなくてはならない。もし良き師がみつからないなら、自分の心に問いかけ、聖人賢人が残された書物をひもといて道の在り処を見つければ良い。だが、職分を知って、その道に志しても、勤めてその志す事を行わないならば、言葉だけの志になってしまう。と。

 その次にここで紹介した言葉を述べる。

 「よく行っても、生涯その志を貫いて死して後已む(死ぬ迄やり続ける)の覚悟でなければ、途中で放棄してしまい、志は成し遂げる事が出来ない。それ故、勤め行い続ける不断の努力こそが、武士のまことの勇気なのである」。


 吉田松陰が自らの信條としていたのもこの「死而後已」の四字だった。志を抱いても、それを生涯貫かなければ意味は無い。「百里を行く者は九十を半ばとす」(『戦国策』)との言葉もある様に、九割方やり抜いても、後の一割で気を抜けば失敗に終わる、最後の一割にこそ力を込めてやり抜く胆力が求められるのである。修養に求められるのは、継続する「意志力」である。新渡戸稲造は朝の水行と英文日記を終生続けたという。私は、毎日寝る前に修養書の素読と秀歌の拝誦を自らに課している。広島の井坂信義君はメルマガで「明治天皇御製一日一首」を出しているが既に492号を数えている。

 武士とは、精神的高みに生きる者を言う。退職金が減るので、任期終了間際に早期退職する教員の事が話題になっているが、金の為に教育者としての使命を放棄する晩節を汚す行為である。三島由紀夫氏が『英霊の聲』の中で述べた「ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打は金よりも卑しくなりゆき」との言葉が思い起こされてやまない。教育者には本来、武士の如き高い人格が求められる。だから「教師」と仰がれたのである。




(私論.私見)