山鹿素行の履歴考 |
更新日/2018(平成30).12.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、山鹿素行の履歴を確認する。「ウィキペディア山鹿素行」、「宮司の論文」、「山鹿素行 庚寅記載録」、「譯註先哲叢談(後編)卷二」その他を参照する。 2012.06.21日 れんだいこ拝 |
【山鹿素行(やまが そこう)の履歴1】 | ||
1622(元和8)年8月16日 - 1685(貞享2)年10月23(9.26)日 | ||
江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。 | ||
1622(元和8)年8月16日、奥州陸奥国の会津藩60万石の時の藩主・蒲生下野守忠郷の家老・町野左近邸(福島県会津若松市)で生まれる。現在、町野屋敷跡には「山鹿素行生誕地」と書かれた立派な石碑が建っている。これは、大正15年に建てられたもので、撰文は平戸藩主の血を引く松浦厚(まつらあつし)伯爵が作り、題字は日本帝国海軍の東郷平八郎元帥が揮毫している。 父の山鹿貞以(さだもち、六右衛門、高以)は、伊勢亀山藩主の関(長門守)一政に仕え、主家の転封に従って、白河(福島県)、川中島(長野県)、亀山(三重県)などを転々としたが、同役同士の刃傷沙汰で某を殺して解雇となり、潜(ひそか)に龜山を出で会津の白河城主・蒲生忠郷家の家老である)町野幸仍(幸和の父)を頼り寄食していた。貞以は町野家で客分として優遇され、幸仍の3万石の封の中から250石を貰って安定した暮しをしていた。母は岡備後守の娘(妙智)。素行はその次男として生まれる。弟は三郎右衛門(平馬)義昌(義行)で後年、平戸藩松浦家に致仕する。素行の名は高興(たかおき)、高祐(たかすけ)、義矩(よしのり)。幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山(因山)のち素行。 素行と相前後する学者を挙げれば、林羅山が40歳、帰化人の朱舜水が23歳、中江藤樹が15歳、山崎闇斎が5歳、熊沢蕃山が4歳。木下順庵は同年。朱舜水が亡命し来朝した年に生まれている。伊藤仁斎は6歳下、徳川光圀は7歳下、貝原益軒は9歳下。新井白石は36歳下。この年に明国より亡命の禅僧隠元が来朝している。大石良雄は38歳下である。 幼少時代の素行について、「配所残筆」は次のように記している。
1627(寛永4)年、蒲生忠郷の江戸藩邸急死により蒲生家の会津60万石は没収、改易される。会津には伊予松山から加藤嘉明(よしあき)が新たな藩主となって入り、町野幸和は主を失い浪人となる。
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【山鹿素行(やまが そこう)の履歴2】 | |||
1632(寛永9)年、11歳の時、小學論語貞觀政要(唐の太宗時代の政治を記したるもの)等を講説する。次のように評されている。
この年の正月、初めて元旦の詩を作って道春に見せたところ、一字だけ改められて、それに序文を書き、幼少のものの作ったものとしては感心なりとの書状を副え、それに和韻した詩を作り下されている。同年、堀尾山城守殿(忠晴、松江城主)の家老の揖斐伊豆に目を掛けられ、山城守殿へ召し出され、そこで書物を読む。伊豆は、山城守に仕えるよう、二百石で抱えると申し出ている。 1633(寛永10)年、12歳の時、林羅山の許可により、見臺を用いて經を講ず。
この年、大森信濃守殿(佐久間久七)、黒田信濃守殿(源右衛門)の要望を受け、孟子の講義をしている。蒔田甫庵老人には論語を公儀している。
この頃より歌学を好み、20歳までに源氏物語き、源語秘訣(源氏物語の秘伝)、伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集、百人一首三部抄、三代集(古今、後撰、拾遺)に至るまで、広田担斎より相伝を受けている。これにより源氏私抄、万葉、枕草紙、三代集の私抄注解などのあらましの撰述を為す。詠歌に志深く、年に千首の和歌を詠むも、「少し考えがあって、その後は顧みないこととした」(「配所残筆」)。 1642(寛永19)年、21歳の時、小幡景憲から甲州流(武田流)兵学の印可を受け秘奧を伝授される。「門弟中汝の如きは一人もなし」と副え状で称賛される。 |
【山鹿素行(やまが そこう)の履歴3】 |
1652(承応元)年、家綱の御代、31歳の時、12月8日、播摩国(兵庫県)の初代赤穂藩主・浅野長直(ながなお)の要請により浅野長直邸に至り、君臣の礼を為す。赤穂藩は山鹿素行を禄高一千石の破格の厚待遇で招聘することになった。ちなみに赤穂家老大石家の録は1500石であった。「人生意気に感ず」として応じ、江戸藩邸での兵学教授となる。追って赤穂行きを要請され、その旅の途中で「海道日記」を遺している。赤穂浅野家は、元々水戸の笠間藩からお国変えで転封されて赤穂にきたという経緯があった。素行を大歓迎し藩の教育掛にした。約9年間赤穂藩で文武両道を藩士に教えた。この時、藩主の浅野内匠頭や、赤穂藩国家老・大石内蔵助(くらのすけ、は8歳から17歳)、後の忠臣蔵四十七赤穂義士らに大きな影響を受けたことになる。 1653(承応2)年、32歳の時、8月、江戸を出て、9月、赤穂着。この年、築城縄張りを行う。「山鹿素行先生日記」によれば、「大守縄張二廓虎口、招僕談之、大守自臨其地、…僕取間縄改直之」とある。「武教全書」(山鹿流兵学の教科書)によれば、概要「四神相応の地形につき、東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形となっている。 1654(承応3)年、33歳の時、「楠木正成一巻書」が山鹿素行の序文付きで刊行されている。
1656(明暦2)年、35歳の時、武士道について体系化した兵学書「武教小学」、「武教要録」、「武教全書」などを著し独自の兵法思想を元に山鹿流兵学を完成する。この前後から朱子学に疑問を抱き老荘に近づく。 1658(万治元)年、37歳の時、禅宗に接し隠元禅師と問答する。 1660(万治3)年、39歳の時、赤穂藩を致仕(ちし)を辞退し職を辞す。赤穂藩に勤めた期間は7年10カ月。再び江戸で講義を始め教育と学問に専念する。この時、古学を提唱する。この間、素行は極めて広範な知識を吸収しつつも、満たされないものを感じていた。「配所残筆」によれば、この頃より、後世の書物ではなく、直接、周公、孔子の書を読み、それを手本として学問の方法を正そうと思った。そして、聖人の書ばかりを日夜読み考えた結果、はじめて聖学の道筋を明らかに得心した。 1663(寛文3)年、42歳の時、門人などに素行語録集「山鹿語類」を編集させ、刊行する。「農、工、商、といった(身分の)分化がおこったのは当然である。そして武士は耕すこと無しに食し、商売も無しに暮らせていける。(中略)職分が無くて食べてるだけでは遊民だ。だから遊民とならないように心をこらし、努力しなさい」と、戦国の世が終わり無用の長物化していた武士階級に士道を説いた。 1665(寛文5)年、43歳の時、10月、江戸で「聖教要録」(せいきょうようろく)3巻を出版。「山鹿語類」巻33から巻43までの「聖学篇」を抜粋要約したものである。武士道とは何かを説き明かした。本書で、当時の官学である朱子学の「儒教古典の朱子学的解釈」を憚ることなく批判し、「周公孔子の書」に直接依拠し「原典に帰れ!」と述べ、原典復古主義と実践主義とを唱導した。「今日日用事物の上」に立つ学問を求めて古学の要を説き、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明をしている。これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されることになる。本書刊行により、本書は幕府から「 この年の末頃、父六右衛門逝去のため翌年4月初日まで喪に服す。 1666(寛文6)年、45歳の時、4月、喪明けと同時に親交のある板倉重矩(内膳正)の老中任命の祝儀に赴いている。9月21日、板倉から「聖教要録」が朱子学の観念論化を批判しているとして、朱子学を信奉する幕府執権保科正之の忌憚に触れている旨を内報される。素行は後日書面で書籍の意図するところを弁明したが、幕閣に強い影響力を持つ保科の独断が通ったため結局聞き入れられなかった。 1675(延宝3)年、54歳の時、1月、浅野長友が33歳の若さで死に、長男の長矩がわずか9歳で赤穂藩を相続(襲封)する。 1月、「配所残筆」を著す。 山鹿素行の自伝的著作であり、1巻は、弟の平馬と娘婿の興信にあてた遺書の形式で書かれている。回想録の形で、素行が仏教,老荘さらに儒学(朱子学)に出入し,最後に朱子学を批判していわゆる古学的境地に至り,また聖人の道を基準として日本がもっともすぐれているとする立場に達するまでの思想的遍歴を自ら説明している。日本最初の自叙伝としても重要である。「この世の現実に即さないで、ただ古聖人に忠実なだけでは自己満足するだけで現実離れしていき、結局、この世を捨てて山林に入り鳥獣を友とするしかない。読書を好んで詩文に耽り、著述をしても実用の役には立たない。(その類のものは)余暇にすべきもの」と陽明学的な言い回しをしている。 |
【山鹿素行(やまが そこう)の履歴5】 |
この年、54歳の時、山鹿素行、赦免される。 1677(延宝5)年、56歳の時、1月、大石内蔵助さんの祖父で養父良欽(60歳)が赤穂で亡くなる。内蔵助(19歳)が大石家と祖父の遺産(1500石)を相続し、見習い家老となる。大叔父の良重(59歳)(祖父良欽さんの弟)がその後見役となる。 7月、赦免され、8月、江戸へ戻る。赤穂滞在は8年9カ月。浅草田原町に住み「積徳堂」と号す。その後の10年間は私塾を開き軍学を教えた。 晩年も「原源発機(録)」、「治平要録」などを著した。山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、武士階級を擁護した。 「武士たるものは人倫の道を実践し、農・工・商の模範と成り、三民を教化していかねばならぬ」との理想で武士道精神を啓蒙浄化した。「武教小学」として起居、行住坐臥、衣食住に至るまで細部にわたり教化した。これにより「武士道精神」の根本聖典と成っている。 1680(延宝8)年、59歳の時、5月、4代将軍・家綱が亡くなり、5代将軍に綱吉(35歳)が就任する。後世、犬公方(いぬくぼう)の異名をとる。側用人になった柳沢吉保(23歳)が文治政治を推進し、それまでの文武弓馬の道を改め特に忠孝礼儀を強調し始めた。8月、浅野長矩(14歳)が従五位下・内匠頭に任ぜられる。 1683(天和3)年、62歳の時、2月6日、浅野長矩(17歳)、勅使饗応役を拝命する。3月7日、吉良義央(43歳)、高家肝煎となる。3月25日、浅野長矩が、吉良義央の指南のもと勅使饗応役を勤め、大役を果たす。この時世話をしたのが大石良重(65歳)である。4月9日、あぐり(12歳)が浅野長矩に輿入れする。5月、良重さんが亡くなる。6月23日、浅野長矩が赤穂に初入部する。 1684(貞享元)年、63歳の時、8月、浅野長矩(18歳)と弟の長広(15歳)が素行(63歳)の兵法の門弟となる。 |
なお、素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。平戸藩では藩学として教えられ、全国の山鹿流兵法を学ぶ者たちが多く平戸を訪れた。平戸城の築城にも山鹿流が目配せしている。 |
【浄瑠璃坂事件】 |
1668(寛文8)年、2.19日、宇都宮藩主・奥平忠昌が他界。半月後の3.2日、宇都宮の興禅寺で亡君の法要が営まれ、その席で刃傷事件が発生した。奥平家には「七族、五老」の重臣制度があり、これに基づく二家老制が敷かれていた。七族の代表家老が奥平隼人、五老の代表家老が奥平内蔵冗(くらのじょう)だった。この二人が何かにつけ確執していた。法要日、内蔵冗(くらのじょう)が持病の悪化で法要に遅れたのを、隼人が嗜め罵倒した。二人は10日ほど前にも悶着を起こしていた。亡君の位牌の文字を巡り、内蔵冗には読めたが隼人には読めない文字があり、二人の間で口論があった。この日の法要後、興禅寺の渡り廊下で内蔵冗が隼人に切りつけ、武芸達者の隼人が逆に内蔵冗の肩先から胸にかけて深手を負わせ、その傷が元で亡くなった。自害したという説もある。新藩主の奥平昌能(まさよし)は幕府に事件を届出したが、隼人びいきの内容だった為、喧嘩両成敗とならず内蔵冗の家だけが改易となった。これに、藩士の兵藤玄番(げんば)や夏目外記(げき)らが反発し、続々と藩を飛び出した。この者たちは内蔵冗の遺児・源八(当時11歳)を擁し約40余名に及んだ。新藩主やむなく隼人を浪人にさせ、警護の者をつけ匿った。隼人は、当初は下野国壬生藩に保護され、転々とした後、江戸牛込の浄瑠璃坂上の屋敷に移り住んだ。父の死から4年、源八一味はようやく隼人の潜伏先を探り出した。 1672(寛文12)年、2.2日明け方近く、討ち入った。一味は隼人の父と弟を討ち取ったが、隼人本人は留守で、二人の首を桶に入れて凱旋した。浄瑠璃坂を下り、外堀にかかる土橋(今の飯田橋交差点付近)に差し掛かろうとしたとき、討ち入りを知った隼人が浪人ら20名を引き連れ、馬上追って来た。大勢の江戸っ子が見守る中での斬り合いとなり乱戦となった。遂に源八が隼人を討ち取った。源八ら3名が時の大老・伊井直澄(彦根藩主)の屋敷に自首した。大老・伊井は、源八らの行動を義挙と判じ、本来なら死罪となるところ、遠投処分となった。その後、三人は赦免され、大老・伊井に召し抱えられる形で彦根藩士となった。他の浪士らも皆な他家に仕官することができた。 |
【山鹿素行の影響】 | |
その教えは武士社会に大きな影響をあたえることになった。素行の説く「古学派」は、伊藤仁斎や荻生徂徠に受け継がれ、仁斎は京都の町衆の商行為はどうあるべきか、徂徠は幕府政治をどうすべきかといった、より具体的で、実践的な問題に取り組んでいる。 吉田松陰が山鹿素行を「先師」と呼んで心酔していたのが特に著名である。松陰は、5歳の時、長州藩山鹿流兵学師範吉田大介の養子となり、11歳で藩公(藩主)の前で素行の兵学「武教全書」をよどみなく講義した。1850年、20歳の時、山鹿流兵法後継者の山鹿万助、高名な学者であった葉山左内(鎧軒・がいけん)に学んだ。平戸での滞在は50日ほどに及んでいる。この後、長崎を訪れ、肥後にも行き、同じ山鹿流つながりでのちに池田屋で暗殺される肥後勤王党の大物・宮部鼎蔵とも初めて会っている。このあたりは「西遊日記」として記録が残されている。その松陰から山鹿素行を学んだのが久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎らの松下村塾学徒である。 明治以降では、県立若松女子高校の西、山鹿町にある。素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれている。乃木希典が「中朝事実」を愛読していたことが知られている。日露戦争の旅順陥落後、乃木将軍は敗将ステッセル将軍に武士道の礼をもって接し、水師営の会見後の別れの挨拶のとき、ステッセル将軍に対して、概要「将軍がロシアへの帰国を望まれるなら、そのように取りはからいましょう。帰国されて身の危険があるならば、日本に滞在され、京都に知恩院という寺があります。そこを宿舎にされてはいかがでしょうか」。ステッセル将軍は乃木将軍に感謝したが、「我が身の上については皇帝の意向に従わなければなりません」と答え。後にステッセル将軍は皇帝に電話したところ、皇帝は将軍に冷たく、勝手にせよと言ったといわれている。その後、10年間投獄された。投獄されたと聞いて乃木将軍は、皇帝に罪を許すように嘆願書を送っている。 山鹿素行の説いた日本的道義思想は、戦後のGHQによって炎書の憂き目にあい逼塞させられている。但し、いまなお価値を失っておらず、その思想が求められる時代になってきているといえる。 平泉澄「物語日本史(下)」78Pは次のように述べている。
1940-42年、「山鹿素行全集」全15巻(岩波書店)が出版される。 1984(昭和59)年正月、日本橋三越本店で産経新聞社主催の「天皇」展が開催された。その展示物の中に乃木大将が献上した本書上下2冊があった。このことが切っ掛けとなり山鹿素行生誕300年を記念し「中朝事実」の復刻出版が実現した。 |
【山鹿素行の武士道論考】 | |
「日本協議会理事長 多久善郎ブログ」の2014-07-27日付ブログ「武士道の言葉その9、山鹿素行その1」(「祖国と青年」平成25年2月号掲載)
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(私論.私見)