赤穂浪士討ち入り事件考

 更新日/2018(平成30).12.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2012.06.21日 れんだいこ拝


赤穂浪士討ち入り事件
 1675(延宝3)年、浅野長矩(1667-1701.3.14)が、父長友の遺領5万3000石余を継ぐ。

 1687(貞享4)年、綱吉の御代、1月28日、最初の「生類憐れみの令」を発布する。

 1688(元禄元)年、綱吉の御代、11月12日、柳沢保明、側用人となる。

 1693(元禄6)年、綱吉の御代、12月22日、備中松山藩の水谷勝美改易に際し、浅野長矩が受城使を拝命する。以降、備中国松山城を守衛する。

 1694(元禄7)年、綱吉の御代、2月11日、中山安兵衛(25歳)が高田馬場で決闘する。

 1701(元禄14)年、綱吉の御代、1月28日、吉良義央(61歳)、年頭の賀使として御所に参内する。2月4日、浅野長矩、勅使饗応役を拝命する。3月11日、勅使・院使、江戸に到着する。3月12日、勅使・院使、将軍綱吉に拝謁する。

 この間、指導役の吉良義央(1641.9.2-1702.12.15)と対立する。義央は江戸前期の高家で義冬の子。母は酒井忠勝の弟忠吉の女。幼名三郎,通称左近。上野介。法名実山。1653年(承応2)幕府に出仕、従四位下侍従、従四位上左少将に任じられた。1668(寛文8)年、家督と高家肝煎を継ぐ。1701(元禄14)年、勅使江戸下向の接待を廻る刃傷沙汰後、高家役の辞退を願い隠居した。義央は尊大な気風と悪評高いが、領地三河国吉良地方(愛知県西尾市付近)では富好新田の開発や黄金堤の築堤など水利事業を行った名君との評価もある。

 3月14日、勅使饗応の席で、赤穂藩主/浅野長矩(35歳)内匠頭が、江戸城中松之廊下で、吉良義央に刃傷する。長矩は即日切腹に処せられた。城地没収に際し、播磨国赤穂藩浅野氏の家老/大石内蔵助(大石良雄)(1659-1703.2.4)が家中を統括して浅野家再興をめざしたが,浅野家は取り潰された。これが赤穂事件に発展する。大石内蔵助の幼名は喜内、通称内蔵助。知行高1500石。山鹿素行に軍学を、伊藤仁斎に漢学を学んだとされる。

 3月26日、吉良義央が役職辞任する。8月19日、吉良義央が呉服橋門内から本所一ツ目へ屋敷替え。

 旧臣たちは,当初御家の再興を期待する穏健派と即時主君の怨みを晴らすべしとする急進派とが対立したが、急進派の勢威が勝り討入りとなった。


 11月10日、大石内蔵助ら江戸の芝の前川忠太夫宅で会合、仇討ちを来年3月と決める。12月12日、吉良義央、隠居。養子左兵衛義周、家督相続。

 1702(元禄15)年、綱吉の御代、12月14日、江戸の町が雪化粧に浸される中、播磨国旧赤穂藩の浪士(赤穂浪士)47名が吉良邸に討入り、吉良義央を討ち取る。この時、山鹿流の陣太鼓を打って攻め入ったと伝聞されている。

 12月15日、赤穂浪士、大名4家にお預け。大石内蔵助は、幕命により熊本藩下屋敷に預けられた。

 12月23日、幕府で評定が行われる。浪士らの行動が義にかなったものか否か、とりわけ主君への忠誠という武士意識と幕法への違反の相剋をめぐって儒学者を中心に論争の的となった。赤穂事件は赤穂の浪士らが幕府の方針に反した犯罪者か義士かで,当時から論争になった。

 1703(元禄16)年、綱吉の御代、2.4日、赤穂四十六士が、徒党を組み幕府高官を殺害したとの理由で切腹させられた。吉良義周は信濃高島に配流。

【仮名手本忠臣蔵 
 事件後、「仮名手本忠臣蔵」など演劇・文学の題材になった。人形浄瑠璃。時代物。11段。2世竹田出雲・並木千柳(宗輔)・三好松洛合作。1748年(寛延元)8月大坂竹本座初演。1702年(元禄15)の赤穂浪士の吉良邸討入事件を脚色。47年(延享4)に京都中村粂太郎座上演の「大矢数四十七本」で沢村宗十郎の大岸宮内(大石内蔵助)が大当りをとったことに刺激されて作ったという。赤穂浪士物の集大成で,本作の影響下に数多くの忠臣蔵物が作られた。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」とともに3大名作と称される。歌舞伎には初演の年の12月大坂角の芝居に移され,翌年江戸三座で競演。以来,上演のたびに客が大入りになる作品といわれ,歌舞伎独特の演技や演出が工夫されて,今日に至る。

【浄瑠璃坂事件
 1668(寛文8)年、2.19日、宇都宮藩主・奥平忠昌が他界。半月後の3.2日、宇都宮の興禅寺で亡君の法要が営まれ、その席で刃傷事件が発生した。奥平家には「七族、五老」の重臣制度があり、これに基づく二家老制が敷かれていた。七族の代表家老が奥平隼人、五老の代表家老が奥平内蔵冗(くらのじょう)だった。この二人が何かにつけ確執していた。法要日、内蔵冗(くらのじょう)が持病の悪化で法要に遅れたのを、隼人が嗜め罵倒した。二人は10日ほど前にも悶着を起こしていた。亡君の位牌の文字を巡り、内蔵冗には読めたが隼人には読めない文字があり、二人の間で口論があった。この日の法要後、興禅寺の渡り廊下で内蔵冗が隼人に切りつけ、武芸達者の隼人が逆に内蔵冗の肩先から胸にかけて深手を負わせ、その傷が元で亡くなった。自害したという説もある。新藩主の奥平昌能(まさよし)は幕府に事件を届出したが、隼人びいきの内容だった為、喧嘩両成敗とならず内蔵冗の家だけが改易となった。これに、藩士の兵藤玄番(げんば)や夏目外記(げき)らが反発し、続々と藩を飛び出した。この者たちは内蔵冗の遺児・源八(当時11歳)を擁し約40余名に及んだ。新藩主やむなく隼人を浪人にさせ、警護の者をつけ匿った。隼人は、当初は下野国壬生藩に保護され、転々とした後、江戸牛込の浄瑠璃坂上の屋敷に移り住んだ。父の死から4年、源八一味はようやく隼人の潜伏先を探り出した。

 1672(寛文12)年、2.2日明け方近く、討ち入った。一味は隼人の父と弟を討ち取ったが、隼人本人は留守で、二人の首を桶に入れて凱旋した。浄瑠璃坂を下り、外堀にかかる土橋(今の飯田橋交差点付近)に差し掛かろうとしたとき、討ち入りを知った隼人が浪人ら20名を引き連れ、馬上追って来た。大勢の江戸っ子が見守る中での斬り合いとなり乱戦となった。遂に源八が隼人を討ち取った。源八ら3名が時の大老・伊井直澄(彦根藩主)の屋敷に自首した。大老・伊井は、源八らの行動を義挙と判じ、本来なら死罪となるところ、遠投処分となった。その後、三人は赦免され、大老・伊井に召し抱えられる形で彦根藩士となった。他の浪士らも皆な他家に仕官することができた。





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