李登輝(りとうき)考

 更新日/2016.09.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、李登輝(りとうき)の人物及び思想を確認する。

 2016.09.30日 れんだいこ拝


李登輝の思想考】
 「李 登輝(り とうき)氏 」。
 2011年3月11日、日本を襲った東日本大震災で、世界最高額となる義援金2億5200万ドルの支援をしたのは、面積は日本の約10分の1、人口は約5分の1、GDPは約9分の1の小国、台湾だった。台湾の高校生の修学旅行先の9割は日本である。年々増加傾向にある。台湾から日本への旅行者数は、2013年221万人、2015年367万人であり、人口が約5分の1であるにも関わらず、日本から台湾への旅行者数163万人(2015年)の倍以上になる。日本の調査会社アウンコンサルティングが2014年に行ったアンケートでは、100人中90人の台湾人が日本を「大好き」、「好き」と答えている。しかし、日本人は、そんな台湾人の気持ちに感謝を示すどころか、何度もないがしろにしてきた過去がある。東日本大震災における台湾支援に対して、当初日本政府は、中国共産党の顔色を窺って、謝礼広告を掲載しなかった。見かねた民間人が行った募金活動「謝謝台湾計画」によって、最終的には無事謝礼広告は掲載された。日本人として生まれ、京都帝国大学で青春時代を送り、ずっと日本を愛し続けてきた李登輝氏の訪日を、同じ理由で長らく拒み続けてきた。それが初めて許された時の理由は、「命の危険があるから人道上仕方がない」という極めて消極的なもので、その行動を「病気治療」目的に厳しく制限し、政治的発言を一切禁じた 。95年に日本が議長国となって大阪でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の総会が開かれた際に、同じ理由で、わざわざ台湾に人を派遣して「李登輝氏が参加しないようにしてほしい」と伝えに行った

 李登輝という世界最高のリーダーは、いかにして生まれたのか。彼を育て、台湾を近代化した偉人たちの歴史、その桁違いのリーダーシップ、日本精神について知る必要がある。日本の台湾統治は、日本の国益のために行ったものであろうが、しかし、統治した国や地域を発展させるという行為は、世界史上類を見ないことであり、結果的に日本統治時代の恩恵が今の台湾にも継続して残っているということは紛れもない事実である。そしてそれが、台湾の人々の今の親日感情に繋がっている。
 原油の99.7%を海外に依存し、穀物・豆類などの食料も輸入に頼っている日本の物資輸送の99%を海運が担っている中で、シーレーン(海上通商路)は日本の生命線です。そして、この日本のシーレーンにおいて最も重要な位置にあるのが、台湾と沖縄なのです。(中国共産党が台湾と沖縄を付け狙う理由もここにあります)
 1988年1月13日、李 登輝(り とうき)氏が、台湾生まれ(本省人)として初めて台湾の総統となり、台湾の歴史を塗り変えた。1996年、最初の国民直接選挙(総統選挙)を導入し自ら総統に選出された。六度にわたる憲法改正により一滴も血を流すことなく台湾は民主化を達成した。彼は『台湾民主化の父』と呼ばれており、その手腕を評価する声は台湾にとどまらず、「ミスター・デモクラシー」、「哲人政治家」、「現存するリーダーの中で、最も人格と見識が高い人物」と世界中から絶賛されている。2014年7月、李 登輝が来日し、衆議院第一議員会館で講演を行った際には、下村博文元文部科学大臣が「空前絶後」と述べたほどの反響があった。ダライ・ラマ法王が講演した時の約2.5倍もの国会議員約300名が一堂に会した
 李 登輝(り とうき)氏

 1923年、台湾生まれ。元台湾総統。農業経済学者。米国コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。京都帝国大学農学部を終戦のため中退。台湾大学に編入・卒業。台湾大学講師、米国アイオワ州立大学大学院を経て、中国農村復興聯合委員会顧問、台湾大学教授。71年、国民党入党、72年、行政院政務委員として入閣。台北市長、台湾省主席などを歴任、84年、蒋経国総統(当時)から副総統に指名される。88年の蒋経国の死去にともない総統に昇格。96年、台湾初の総統直接選挙に当選し就任。2000年、任期満了に伴い総統を退任。2007年、第一回後藤新平賞受賞。

 『台湾の主張』(PHP研究所、第8回山本七平賞受賞)をはじめ、近著には『「武士道」解題-ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫 2006年)・『李登輝実録-台湾民主化への蒋経国との対話』(産経新聞出版 2008年)・『最高指導者の条件』(PHP研究所 2008年)・『李登輝より日本へ贈る言葉』(ウェッジ 2014年)・『新・台湾の主張』(PHP研究所 2015年)・『熱誠憂国 日本人に伝えたいこと』(毎日新聞出版 2016年)ほか著書多数。

 台湾は、1624年にオランダに支配されて以来、数百年にわたって明鄭、清、日本、そして中国国民党という外来政権によって支配された。李登輝は、数百年に及ぶ外来政権による支配を終焉させ、台湾を民主化し、台湾を台湾人の手に取り戻した。台湾人の数百年来の悲願を達成させたことこそが李登輝が成し遂げた偉業の偉業たる所以である。その達成までには想像を絶する困難があった。その最大の困難とは、「中国の法統」を断ち切ることにあった。李登輝の1988年の総統就任時、台湾を統治していたのは蒋介石に始まった国民党政権。彼らの統治時代、43年間もの間、台湾では人権や民主主義が蹂躙され続けていた。憲法は凍結され、世界最長とされる38年間もの戒厳体制が敷かれ、国防・治安などの権限を総統に極度に集中させ、独裁政治が行われ、住民による民主化要求は国家反逆罪として弾圧された。令状なしでの逮捕が認めら深刻な人権侵害をもたらしていた。国会の選挙も凍結され、中国大陸で選出された議員が半世紀近くも居座り続け、彼らのことを「万年議員」、国民大会や立法院、監察院は「万年国会」と呼ばれていた。国民党政権・中華民国政府が「中国の正統政府」を自任し、中国共産党が統治する中国大陸への反攻を目指していたため、台湾を国民党の「軍事基地」とみなしていたからであった。それを正当化するために、彼らは台湾が中華民国領土の一部に過ぎず、中華民国の国会を台湾住民のみによる投票で改選することはできないと主張し、選挙を凍結。人権や民主主義を蹂躙する一方で、形式的には中華民国憲法が施行され続けていることを喧伝していた。実質的には、後に触れる動員戡乱時期臨時条款により、憲法の効力も凍結。これによって生まれた「万年国会」と中華民国憲法による“正統性”と「法統」と呼び、民主化要求を「法統」を犯す「法理独立」だと決めつけ弾圧した。李登輝氏の総統就任時にも、民主改革を求める民意に耳を傾けず、国民党の保守勢力は「法統」で約束された地位を手放そうとしなかった。その問題を解決するため、李登輝は、「その病巣はただ一つ」と見抜いき憲法の改正に着手した。最大の目玉は、「動員攪乱時期臨時条款」を廃止することにあった。これは、台湾と中国は内戦状態(国共内戦)にあるとして、憲法を停止して国家総動員体制を敷くことを可能にしたもので、独裁政治を可能にし、人権が蹂躙されたのも、選挙が凍結され、大陸出身の「万年議員」、「万年国会」が権力の上に居座り続けたのも、これが癌だった。これを廃止するため、自身が第8代総統になるための選挙で支持を依頼した600人の議員全員を説得し、引退させ、1991年、「万年議員」は全員退職し、「万年国会」問題は解決した。さらに94年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙を実施。国民党内では依然として党こそ国であるという「党国」体制がまかり通っていて、個人の下に権力やあらゆる利益を集中させたがる状況にあった悪しき伝統を、100人の党員が反対する中で打ち絶った。さらに総統直接選挙の実現に向けて行動。国民党が提出した間接選挙ではなく、直接選挙を主張し、国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することを賛成多数で決定させた。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定め、1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。

 李登輝の卓越したリーダーシップ、高い精神性。李登輝の偉業とは、周囲の猛烈な抵抗に遭いながら、「法統」を錦の御旗として掲げる国民党の主席として、決して甘んずることなく、台湾人の数百年来にわたる悲願を成し遂げたことにある。台湾人としての強いアイデンティティ。李登輝は、台湾が台湾であるために、さらにもう一歩踏み込んで、台湾を中国の一部とみなす「一つの中国」という思想から台湾を解放するという大仕事に取り組んだ。国民党が自らを正当化する拠り所とした「法統」とは、国民党が生み出したものなどではなく、中国が5千年間もの間続けてきた閉鎖的な帝王政体である、と李登輝氏は言う。本当の意味で、台湾を台湾人の手に取り戻すために、「中国の歴史は、黄帝以降の夏・殷・周から明、清に至るまで、脈々と同じ流れを受け継いできた大中華帝国体制であり、その「一つの中国」という概念の外にある者は、即ち化外の民であり東方と北方の蛮族の国とみなす」思想を持つもう一つの中国、すなわち、中国共産党による束縛から台湾を解放する必要があった。それを国際社会に対して表明したのが、99年に「ドイツの声」の取材に対して氏が語った次の言葉だった。

 当然この発言に対して中国共産党は猛反発をし、「武力解放」や軍事威圧さえちらつかせたが、 台湾を台湾人の手に取り戻すために、怯むことなく本質を貫いた。李登輝が「ミスター・デモクラシー」、「哲人政治家」とも称され、世界中から絶賛される理由がここにある。ここに、注目すべき李登輝氏の発言がある。
 「私はね、二二歳まで日本人だったんですよ、岩里政男という名前でね。私は日本人として、非常に正当な日本教育を受けた。後に中国の教育も受け、アメリカにも学びましたが、私の人生に一番影響を与えたのは、この日本時代の教育だったんです」。(小林よしのり「李登輝 」(2003)の「李登輝学校の教え」pp75)

 つまり李登輝は、「自らを作ったのは日本の教育だ」と言っている。さらに、総統になる上での重要な通過点となった、蒋経国から副総裁に指名された時の理由についても、このように述べている。
 「私の想像ですが、おそらく私の日本人的な部分を評価したのではないでしょうか。私にはどうも日本人的なところがあるらしく、そこが蒋経国の気に入ったようです。責任感が強いし、嘘はつかない。おべっかも使わない。だから国民党員でもなく、国民党等とは無関係だった私を登用したのです」。(李登輝(2014)の「李登輝より日本へ贈る言葉」pp68,69 )。

 李登輝が受けた日本の教育とは一体何だったのか。李登輝氏の「日本人らしさ」の源流はどこから来るものなのか。それを学ぶ上で最も近道なのは、1895年から1945年までの50年間の日本統治時代について学ぶことです。なぜなら、この時代の日本人によって李登輝氏は日本の教育を受け、この時代の日本人に色濃く影響を受けているからである。それを学ぶことは、戦後教育の中で日本人が失ってしまった本物の日本精神を学ぶことにも繋がる。李登輝は、「この50年間をいかに評価すべきなのか?」という問いに対して、このように述べている。

 「この問いにはひと言で結論が出る。日本は台湾を近代化させた。日本統治によって、台湾は伝統的な農業社会から、近代社会に変貌したのである」。(李登輝(2015)の「新・台湾の主張」pp20 )
 50年間の日本統治は、どのように台湾を近代化させたのか? 5人の重要な日本人を確認する。
 1.児玉 源太郎

 1898年、日本の台湾統治3年目、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていた。ここで第4代台湾総督として任命されたのが児玉源太郎。児玉は、就任早々、弱冠42歳の後藤新平を台湾総督府の民政長官に抜擢した。そして台湾の行政機構の大改革を実施。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化すると同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下、1,080人の官吏を罷免した。 約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組んだ。経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を1902年の50万トンから1905年の130万トンへと約2.5倍に激増。台湾総督としての8年間に、西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行した。当時、日本の国家予算が約2億2,000万円という中で、約6,000万円という膨大な事業資金を台湾統治に投入した。

 2.後藤 新平

 後藤新平は、民政長官として台湾で働いた8年7ヶ月、衛生環境の改善に並々ならぬ努力を払い、歴史上類を見ないほどの発展を台湾にもたらした。伝染病などを減らすため、「台湾家屋建築規則」及び「台湾汚物掃除規則」を公布し、都市の衛生環境の改善をした。その2年後、公医費、伝染病予防費、消毒費、井戸地下排水、汚水清掃費、衛生品検査費、水道水費などの各地の衛生経費を地方税で賄われるように制定した。1905年には「大清潔法施行規則」を交付し、3月と9月の年2回全台湾で定期的に大掃除をすることとし、同時につねに各家庭が清潔に保たれているかの抜き打ち検査を実施した。こうした生活環境や医療環境の改善などにより、1905年の年間死亡者数が千人当たり341人だったものが、1912年には20人以下へと激減した。さらに当時の台湾ではアヘン中毒者が蔓延していたが、彼の「阿片漸禁策」により、1900年には16万9千人いたアヘン常習者は1917年には6万2千人に、1928年には2万6千人にまで減少し、その4年後の1932年には500人以下にまで減り、1945年のアヘン根絶を行うきっかけを作った。その結果、台湾人の平均寿命は30歳前後から、終戦時には60歳前後へと驚異的な伸びを見せ、「一世紀にも等しい」と言われるほどの発展を台湾に遂げさせる活躍をした。李登輝は、後藤新平の貢献について「今日の台湾は、後藤新平が築いた基礎の上にある」と述べ、「後藤新平は、私にとって偉大な精神的導きの師である」と語っている。

 3.新渡戸 稲造

 児玉と後藤が台湾農業振興のために三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造。 新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。その後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、欧米諸国及びその他の植民地の製糖設備を調査して歩き、帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、殖産局長心得を学んで帰ると、製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」を児玉と後藤に提出。彼の意見書を基に制定された「糖業奨励規則」によってサトウキビ農家には補助金を支給し、品種改良や灌漑施設の整備など、耕作意欲を刺激する政策が進められた。同時に、機械化された大規模な製糖工場の建設を促し、従来の手作業を主とした製糖作業の機械化を推進し、農業と工業の両面から発展させた。この結果、台湾の製糖業は、1902年の生産高50万トンからわずか3年後の1905年には約2.5倍130万トンに激増。その前後を含めると、1900年に3万トンだった産糖は、40年後の1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。李登輝は、高校時代に新渡戸稲造の著作に出会い、「新渡戸稲造という日本人の偉大さに心底感服したことを覚えています」と述べている。そして、新渡戸の後を追いかけて農業経済学への道を進んだ氏は、さらに「武士道」に感銘を受け、京都大学へ進学。その後の波乱万丈の道のりの中でも、新渡戸の言葉や精神が自らを鼓舞してきたと話し、「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」と公言している。

 台湾糖業博物館。もともとは日本統治時代に三井財閥を中心に日本の財界が設立した台湾製糖株式会社がつくった製糖工場で、当時、台湾最初の最新機械製糖工場。 製糖のプロ・藤木三郎を社長に据え、台湾総督府殖産局長心得に赴任した新渡戸稲造の支援を得て、台湾最大の製糖工場として発展。戦後は、中華民国政府が設立した台湾糖業公司が、1999年まで操業していていた。 この台湾糖業博物館の建物も日本統治時代のものがそのまま残っている。

 4.八田 與一

 台湾で最も愛され、神様のように崇められ、台湾の歴代総統も彼の墓前参拝に訪れるほど恩人として慕われている人物が八田與一。八田の業績は、1930年、当時としては東洋一の先進的なダムと膨大な水路を整備し、不毛の土地を台湾最大の米作地帯に変えたことにある。不毛と呼ばれた嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地でした。 また亜熱帯性気候で一年に2、3回もの収穫を期待できる地域でしたが、河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干上がるありさまだった。八田は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することで、この地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げた。予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の三分の一以上に及ぶ規模。計画の第一にあった烏山頭ダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。黒部ダムの75%に相当し、土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法をわが国で初めて採用。 ダム湖に水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘り、毎秒50トンの水を流し込む。それは、当時最大のトンネルだった東海道線の熱海の丹那トンネルよりも15センチ大きい規模だった。 給排水路の全長は1万6千㎞、万里の長城の6倍、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及び、さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作るというその壮大な計画の実現によって、水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍となった。その業績は台湾の中学校の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されている。

 鳥山頭ダム八田與一記念公園。烏山頭ダムの建設は、現在の金額に換算すると、約5000億円規模にもおよぶ大工事だった。その完成によって100万人もの農民が豊かな生活を送ることができるようになった。このダムの壮大な敷地、美しさ、ここから見える絶景と、八田與一の功績に驚く。そして、台湾で最も愛される日本人の偉業に、心から感動する。当時世界最新の工法を採用して建築されたこのダムを、「烏山頭ダム水利システム」として世界遺産に登録しようとする活動もある。

 5.明石 元二郎

 第7代台湾総督・明石元次郎の在任は1年4ヶ月と極めて短い期間だったが現在にもつながる大きな功績を残した。最初に手掛けたのは水力発電事業の推進と教育制度の確立。水力発電事業に関しては、彼が赴任する前年に水力発電の企画案が日本政府に持ち込まれていたものの、当時の台湾総督府年間予算を超えるあまりに膨大な資金投資にその要請を一蹴されていたものを、見事な政治手腕で日本政府を説得した。 そして完成した大観水力発電所の発電量は1万5千キロワットで、当時の日本国内にもない大がかりな発電所群となり、今でも台湾の水力発電の半分をここで供給している。

 教育制度の確立に関しては、日本人と台湾人の区別を少なく教育を受けられるようにするという、当時革命的だった「台湾教育令」を制度化した。これが後の台湾の発展に大きな力となり、台北師範学校、台南師範学校をはじめ多くの学校を開設し、李登輝氏をはじめ、数多くの台湾リーダーが誕生するきっかけとなった。1945年時点で50年間日本領であった台湾の就学率が92%に達している。400年間もオランダの植民地であったインドネシアの就学率がわずか3%だったことを考えると、明石の功績には目を見張るものがある。そのほかにも司法制度の改革、嘉南銀行の設立、台北高等商業学校の設立、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。没後、彼の墓を建てるために彼を尊敬してやまない台湾人からたちまち多額の寄付金が寄せられ、「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど壮大な200坪もある墓が作られた(現在は別の場所に移されている)。  

 明石元二郎総督墓地。歴代総督19人のうち、明石元二郎の墓だけが台湾にある。明石の在任期間は1年4ヶ月と極めて短い期間だったが、生前より「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と遺していた。台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着いていたその決心が、短期間に数々の偉業を成し遂げさせるも、明石は、在任中、帰省中の福岡にて病気で亡くなります。 この遺言通り明石が埋葬されたのが、現在林森公園となっている日本人墓地。台湾人による多額の寄付もあり、「軍人で皇族を除いて明石氏のような墓を持ったものはない」といわれるほど立派な墓が建てられたそうです。にもかかわらず、戦後、この墓地は大陸から逃れてきた国民党の下級兵士や難民の居住地と化し、バラックが乱立して50年近く放置されたままでした。明石を祀った鳥居は小屋の柱に利用されていた。平成6年(1994年)、陳水扁台北市長(後、総統)が彼らを立ち退きさせ、この地は公園として整備された。明石の墓も、遺族らが見守る中で発掘され、現在その遺骸は三芝郷のキリスト教共同墓地に埋葬されている。現在は公園の中の鳥居の前に三ヶ国語で書かれた碑文が建てられ、明石元二郎の統治があったことが紹介されている。この鳥居がこの場所に戻し、碑文を建てるにあたっても台湾人による大きな尽力があった。

 六氏先生とは、明治28(1895)年の日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがん
がくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことを云う。今でも台湾では教育の鏡とされている。1895年の当時の台湾は、「伝染病の地」とも呼ばれ、日本軍5万の約半数がマラリア、赤痢、コレラなど
の病に冒されている状態であった。さらに日本が台湾を領有した直後ということもあり、治安が悪化し、暴動
が頻発していた。六氏先生は、いつ襲われてもおかしくない状況の中で、「身に武器を持つことなく民衆の中に入っていかなければ、教育というものは出来るものではない。もし我々が襲われて、殉ずることがあっても、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に見せることができる」という言葉を残し、その場に居座った。その後、1896年の元旦に事件が起こった。半日ゲリラが起き、地元の人たちは教師たちに避難を勧めたが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たちは約100名のゲリラに襲われ惨殺された。彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになり、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されている。この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、親日の基礎となった。終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。
 日勝生加賀屋 元支配人 德光重人氏

 1961年、石川県金沢市生まれ。金沢大学教育学部卒業後、株式会社ザ・ビッグスポーツでスポーツクラブの運営を行い、1995年台湾現地法人・鉅運股有限公司の総経理となる。その後、2004年に日勝生加賀屋国際温泉飯店の総経理になる。その後、故郷石川にある加賀屋の台湾進出に向かって展開し始め、2010年12月18日、台湾在住20年以上の德光氏は、並々ならぬ苦労の末に「日勝生加賀屋」をオープンさせた。八田與一技師夫妻を慕い台湾と友好の会世話人(金沢)、財団法人紀年八田與一文化芸術基金会(台湾)、石川県観光親善大使(台湾)、台湾石川県人会 世話人、台湾日本人会理事なども務めている。台湾という異国の地でナンバーワンの座まで上り詰めている。
 ◆ 総統府

 総統府。1919年に建てられ、日本統治50年間で建築された最大の建築物。台湾初のエレベーターが設置された。 台北駅南側の「博愛特区」と呼ばれる地区にあり、このエリアは中央官庁が密集する『台湾の霞ヶ関』とも呼ばれている。台北大空襲で正面左側に爆弾が落とされ、三日三晩焼け続けたが、修復を経て現在に至るまで、台湾総統のオフィスとして利用され、国定古蹟となっている。 日本人が建てた建物であるが、現在も当時の姿を残したまま台湾政府によって使用されており、日本と台湾の結びつきを象徴する建物となっている。

◆ 台湾新幹線

 正式名称は台湾高速鉄道。車輌など日本の新幹線技術(JR東海・JR西日本共同)を投入したため、台湾においても「台湾新幹線」と呼ばれることもよくある。最高速度は時速300キロで、在来線では4時間かかっていた台北(台北市)-左営(高雄市)間の約345キロを最速96分で結び、台湾の交通環境、ライフスタイルを一変したとさえ言われている。さらに、スケジュールは遅れない、車内も綺麗にされているなど、日本の新幹線さながらの運転が行われ、2011年に中国で発生した脱線事故に際しては、台湾高鉄の担当者は取材メディアに対して、「日本と同じシステムを採用したので、あのような事故はありえない」と語ったといいます。 日本の新幹線技術の輸出第1号となった。 

◆ 高雄市役所(高雄市立歴史博物館)

 日本統治時代の1938年に高雄市役所として建てられた建物で、その後高雄市政府となり、現在は高雄唯一の歴史博物館として公開されている。 正面入り口の外壁には今も「菊の模様」が施され日本との深いかかわりがあることを証明している。館内には高雄の歴史を知る資料や台湾の民俗や日本統治時代の写真の展示がしてあります。また、ここは二・二八事件の虐殺が行われた悲劇の現場でもあるため、この事件の写真や展示があり、その苛酷な真実を学ぶことができる。

◆ 高雄神社(高雄市忠烈祠)

 台湾には神社が200社ほどあったと言われている。高雄神社はその中の一つで、1912年に打狗金刀比羅神社の社名で創建され、1920年に能久親王が増祀され、打狗神社に改称された。同年12月、更に高雄神社に改称され、能久親王・大物主命・崇徳天皇を祭神としていた。戦後、神社は日本の象徴ともいえる建造物のため、国民党によって破壊された。 取り壊された後は、高雄市忠烈祠が建てられた。「忠烈祠」には、台湾で戦死した人を祀る施設という意味があり、日本でいうと「靖国神社」と同じような意味合いがある。台湾の忠烈祠の特徴としては、国に命をささげた人々への尊敬と、感謝の気持ちの表れから豪華絢爛な宮殿様式の建物となっていまる。現在は、高雄神社自体はなくなっているが、神社本殿の基礎石や、石段、参道といったものなど取り壊された神社の跡がある。


(私論.私見)
 
 2016.1.10日 れんだいこ拝







(私論.私見)