序文 岡潔先生は“多変数解析函数について”という表題の下に十篇の論文を公表された。そのサブタイトル、公表年次およびそのぺ一ジ数は次の通りである。
(岩波書店)
多変数解析函数について
- 有理函数に関する凸状域 (1936)pp.11
- 正則域 (1937)pp.15
- Cousinの第2問題 (1939)pp.13
- 正則域と有理凸状域 (1941)pp.5
- Cauchyの積分 (1941)pp.9
- 擬凸状領域 (1942)pp.38
- 或る算術的概念について (1950)pp.35
- 基本補題 (1951)pp.31
- 内分岐点を持たない有限領域 (1953)pp.77
- 擬凸状領域を生成する新しい仕方 (1962)pp.11
レジュメを除けば、岡先生の公表論文はこれで全部である。以下に紹介するのは、これらの全論文の日本語訳である。
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1 残された資料等によると、これらの研究は1935年から始まっている。それで最初に、それ以前の岡先生の軌跡 を簡単に振り返っておこう。
岡先生(1901-1978)は1925年に京都大学理学部を卒業されたが、その頃から先生はB.Riemannに強く傾倒しておられた。それはRiemannのエスプリが、未知なる事実の発見のみに止まらず、数学的自然の創造をめざしていることに共鳴されたためであろう。そのため「計算や論理は数学ではない」とまで主張されるような数学観を早くから持っておられた。そのような思想的背景の下で、1927年頃からG.Juliaの論文「Mémoires
sur la permutabilité des fractions rationnelles(1922)」に触発されて、後に“有理函数と可換な代数函数”という表題の付けられた研究が始められた。それは1929年からのフランス留学中にも続けられ、一応の完成をみて、フランス語でタイプによる清書までされたにもかかわらず、公表されなかった。3
そのような研究 が数学の核心に迫るものとは思えなくなったためである。
もともと岡先生の留学は、「日本に居ては数学上の成すべき仕事を探り当てるのは困難である」と考えての事であったが、その地で探り出された研究分野は多変数函数論であった。「E.Goursat, Cours d'Analyse Mathématique 第2巻」の中程に書かれているこの分野の数十頁程の紹介に触れ、“霧ながら大きな町にいでにけり(移竹)”と思われたのがきっかけであったとのことである。なお、「1変数から多変数に移るには、空間の拡がりから来る心理的な障壁があったが、それをJuliaの論文「Sur
les familles de fonctions analytiques de plusieurs svariables(1926)」を持ち歩くことで乗り越えた」と聞いている。
その後、在仏中にこの分野での二つの研究成果を得て、1932年に帰国され、広島大学に赴任された。その研究は完成すれば200頁にも及ぶ 論文 になる筈であったが、その執筆中にBehnke-Thullenの著書「Theorie
der Funktionen mehrerer komplexer Veranderlichen(1934)」が出版されたため、それも途中で打ち切られ4、レジュメ「Note
sur les familles de fonctions anaIytiques multiformes etc」だけを1934年に広島大学の紀要に公表して、1935年の1月2日からこの本に取り組まれたのである。
この本は、その序文に“教科書と百科全書の中間”と書かれているように、100頁余りの小冊子ながら、当時までのこの分野の研究成果が、大部分証明抜きで、網羅されている。それを、ときには大阪大学の図書館まで原論文を見に行ったりしながら、二カ月程で読了されたとき、岡先生の脳裏には多変数函数論の全貌と、そこにおける主問題、すなわちHartogsの逆問題、およびそれにまつわる諸問題、すなわちCousinの問題とRungeの問題が、それらの相互関係と共に鮮明に描き出された。
もう少し付言すると、先生は在仏中、すでにCousinの論文とJuliaの論文は読んでおられたので、多変数函数論を生涯の研究分野と決心されたときには、そこにHartogsの逆問題が主問題として残されていることが主な動機であったと思われる。しかしこの問題に取り組むためには、多変数函数論の“全貌”をとらえることが不可欠であった。そう思えば、Behnke-Tullenの著書が出版された途端に書きかけの論文を中断された心情もよく理解できる。
2 岡先生の研究の主問題は解析函数の自然存在域を見極める事であったが、その流れの全体を辿ると、第1主題は “上空移行の原理” 5であり、第2主題は “第2融合法”6であることが分かる。その第1主題は第 I 論文に素朴な形で提示された後、第 II 論文などのバリエーションを伴って 発展 し、第VIII論文で完成する。7
それにつれてHartogsの逆問題も、第2主題が始めて現われる第VI論文の、複素2次元空間における、有限で単葉な領域の場合から、第IX論文の、一般次元の空間における有限で不分岐な多葉領域の場合にまで一般化された。しかし第VII論文および第VIII論文は内分岐領域を目指したものであったにも拘らず、その揚合の主問題は未解決のまま残された。途中、第IV論文において、多変数の正則域は、1変数のときとは異なり、一般には有理凸状でないことが解明されている。第III論文はそのための
準備である。
ところで、岡先生の研究は、山頂を目指す類のものではなく、峠を超えようとしたものであった。いつか「この問題にこれほど時間がかかるとは思っていなかった」と言われたことがある。峠の向こうに花園を開くことを夢見ておられたのである。なお、第X論文はその方向のものといえる。
3 「数学は認識の学問である」と言う岡先生の言葉がある。数学上の”命題”は数学的自然における或る“事実”の粗雑な言語表現に過ぎない。従ってその命題が指し示す”事実”の如実な認識には無関心なままで、言葉の論理的な繋がりだけを追って、その“命題”の証明に矛盾のないことを確認するだけでは数学が分かったことにはならない。もっとも岡先生の論文はそのような読み方ができないように書かれている。
先生はかって「死蔵されている知識は無い方がよい」と言われたことがある。役に立たないだけではなく、邪魔になるというのである。実際、知っている言葉に出会うと、それだけで分かったような気になり、その言葉の指し示す事実の深い認識を妨げる。
先生の論文は、三つの論文
1.P.Cousin,Sur les fonctions de n variables complexes,Acta
Math.Bd.19(1895)
2.G.Julia,Sur les familles de fonctions analytiques de
plusieurs varixiables, Acta Math.Bd.47(1926)
3.H.Cartan und P.Thullen,
Regularitäts und Konvergenzbereichen, Math. Annalen Bd.106(1932)
さえ読んでおけば 理解できる。実際、これらの論文で解明されている数学的自然を正しく認識していさえすれば、岡先生の論文が、世間で言われているような、難解なものではないことが分かるであろう。
4 岡先生の論文が執筆されてからすでに半世紀以上が過ぎ去ったが、その間に数学の言葉使いや論文の書き方がかなり変化した。それでこの翻訳に際しては、原論文に忠実であることよりも、理解のし易さに重点を置いた。例え疑義が生じてもフランス語の原論文またはそれの忠実な
英語訳10が容易に手に入る。術語の訳はなるべく現代一般に使用されている言葉を選んだが、そうし難いものには適当な訳語を当て、最初の一回だけ括弧内に原語を示した。
各論文に2種類の訳注と解題を付けた。一つの訳注は短いもので、[訳注*]として、本文中に挿入し、他の一つは本文に訳注番号だけを挿入して、その内容は論文の最後に纏めて書いた。これらは共に原論文の説明不足を補ったものであるが、目障りになることを恐れている。解題は岡先生から断片的に聞いたその論文に纏わる事柄を綴り合わせたものである。これによって、先生の研究の仕方や、各論文の主定理の発見に至る過程を少しでも感じ取って頂ければ幸いである。
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