岡潔の履歴考

 (最新見直し2012.07.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、岡潔の履歴を確認する。「ウィキペディア岡潔」、「数学者 岡潔思想研究会」その他を参照する。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


【岡潔(おか きよし)の履歴】(1901年(明治34)年4月19日 - 1978(昭和53)年3月1日)
 日本の数学者。「日本が生んだ数学の天才」と評されている。奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年(昭和15年))。
 戦前篇
 14901(明治34).4.19日、大阪府大阪市で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)である。4歳から紀見村(現:橋本市)の父の実家で育つ。

 1907(明治40).4月、柱本尋常小学校入学。

 1913(大正2).3月 柱本尋常小学校卒業。同年4月、紀美尋常高等小学校高等科へ進む。

 1914(大正3).4月、和歌山県立粉河中学校入学。「春宵十話」その他の著書によれば、県立中学(旧制)に落第、高等小学校に1年通って、二度目に粉河中学に入り、その1年目の代数の平均点は68点であったという。この頃、「クリフォードの定理」を通して数学に興味を持ち始める。

 1919(大正8).3月、和歌山県立粉河中学校卒業。同年9月、第三高等学校理科甲類入学。旧制高校3年の時、アインシュタインが来日し影響を受ける。三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。

 1922(大正11).3月、第三高等学校卒業。同年4月 京都帝国大学理学部入学。

 1923(大正12).3月、二年生進級時に、それまで物理学志望だったのを数学志望に変更する。

 1925(大正14)年、28歳の時、3月、京都帝国大学理学部卒業。同年4月、京都帝国大学理学部講師に就任。

 1927(昭和2).4月、第三高等学校講師兼任。

 1929(昭和4).4月 京都帝国大学理学部助教授に昇進。京都大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている。

 同年、文部省(現:文部科学省)の海外研究員としてフランスに3年間留学し、パリにあるソルボンヌ大学ポアンカレ研究所に通う。この時、生涯の研究テーマとなる多変数解析函数論に出会う。この分野に関する詳しい文献が載せられた本を入手、当時の数学に於いて最重要な課題であるにもかかわらず、中心となる三つの問題が解決されていないことが分かった。こうして、多変数解析函数論を自己の研究課題とすることを決意して帰国した。

 その後の研究の歩みが次のように評されている。
 「多変数解析函数論は手も足も出ないほど難しいものであった。この時の心境を後に、『山にたとえれば、いかにも登りにくそうな山だと分かったので、敢えて登ろうとするようなものであった』と語っている。夜昼関係なく没頭した研究生活を送っていたある日の朝、いつものように椅子に腰を掛けていると、突然目の前にひらめきが起こって問題解決の第一着手である「上空移行の原理」を発見、その後、約20年を費やしてその理論の骨格を一人で完成する。

 1936年から1942年の間に、当面の問題である『クザンの問題』などをすべて解決したが、その先に未解決難題『ハルトークスの逆問題』(『レヴィの問題』ともいう)が待ち受けていた。岡はこれに挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。『Gが正則領域なら、Gは局所的にはある意味で凸である。すなわち擬凸である』。これの逆の命題が『レヴィの問題』で『擬凸なら正則領域か』であり年来の難問題であった。まず2変数の場合に肯定的に解いたが、一般n次元のときには、局所イデアルの概念を導入し、そのうえにたてられた理論により、やはり肯定的に解けることを示した。岡が考案したこの『局所イデアル』(『不定域イデアル』)という概念は、アンリ・カルタン(Henri Cartan、1904-2008)を始めとするフランスの数学者達が生み出した『層の概念』の原型となった。岡の研究は、層という数学の各分野にわたって有効な概念の鉱脈を掘り当てたというべきである。

 又、解析関数に関する『クザンの第2問題』が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする『岡の原理』も著名である。その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、岡潔というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという。ジーゲルやブルバキの主要メンバーであったヴェイユ、カルタンといった世界を代表する数学者らが、後年わざわざ奈良まで岡潔を訪ねている。広中平祐も、多様体特異点の解消問題を制限条件を付けて学会発表した。その時、岡潔が立ち上がり、問題は一般的に制限なしで解かなければ解けないと言った。その後、広中は制限なしで解き、フィールズ賞の成果となる。

 一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何、代数、解析が三位一体となった美しい理論が展開される。現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできる。解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を乗り越えて荒野を開拓し、世界中の数学者が挫折した多変数解析函数論に於ける三つの大問題を一人ですべて解決した人物こそ岡潔である」。

 1932(昭和7)年、31歳の時、フランス留学終え帰国する。3月、広島文理科大学助教授に就任する。

 1935(昭和10).1月、前年の暮れ、多変数解析函数の分野の現状を展望したベンケ、トゥルレン共著の冊子を入手、ここで取りあげられた問題の解決に取り組む。同年9月、数学上の最初の発見があり、これを元に論文ⅠからⅤまで次々に成る(論文Ⅰは1936(昭和11).5月、広島文理科大学紀要に発表)。

 1938(昭和13).1月、病気で広島文理科大学を休職し、郷里に戻り孤高の研究生活に身を投じた。

 1940(昭和15).6月、 広島文理科大学辞職。一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験した。

 1941(昭和16).10月、北海道帝国大学理学部研究補助嘱託として赴任する。札幌市在住の、終生に亘る心腹の友であった中谷宇吉郎と旧交を暖めた。

 1942(昭和17).11月、北海道帝国大学理学部研究補助辞職。後、再び帰郷し、以降、奈良市に住む。郷里で終戦を迎えた。戦争中は数学の研究に閉じこもっていた。

 戦後篇
 1949(昭和24).7月、奈良女子大学理家政学部教授(のち、理学部と家政学部が分離し、理学部教授)。

 1951(昭和26)年、50歳の時、10月、論文Ⅷを発表。同年、日本学士院賞。


 1953(昭和28).10月、論文Ⅸを発表。

 1954(昭和29).4月、京都大学理学部非常勤講師を兼ねる。同年、 朝日文化賞(多変数解析函数に関する研究)。

 1960(昭和35)年、文化勲章。1961(昭和36)年、 橋本市名誉市民。

 1963(昭和37).9月、論文Ⅹを発表。

 1963(昭和38)年、「春宵十話」(毎日新聞社)を刊行し、毎日出版文化賞を受賞。

 「春宵十話」の10の話のタイトル
 
1 人の情緒と教育
2 情緒が頭をつくる
3 数学の思い出
4 数学への踏み切り
5 フランス留学と親友
6 発見の鋭い喜び
7 宗教と数学
8 学を楽しむ
9 情操と智力の光
10 自然に従う

 「計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。数学教育の目的は決して計算にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。数学教育は大自然の純粋直観が人の子の情緒の中心によく射すかどうかに深くかかわっているのであって、計算が早い、遅いなどというのは問題ではない。私たちは計算の機械を作っているのではないのである。数学の教え方としては「よく見きわめて迷う所なく行ない、十分よく調べて結果が正しいことを信じて疑わぬ」ようにさせるのがよい」。
 「数学とは自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つである」。
 「数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である」。
 「昼間は地面に石や棒で書いて考え、夜は子供を連れて谷間でホタルをとっていた。殺すのはかわいそうなので、ホタルをとっては放し、とっては放ししていた。そんな暮らしをしているうちに、突然難問が解けてしまった。これなど気持ちがゆるんでいないと発見できないという例の一つだと思う」。
 「日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ」。
 「 直観から実践へというと、すぐに陽明学のようなものを想定するかもしれないが、ああいうものは中国からきて日本化したのではなく、もともと昔から日本にあったものなのである。(昨今の日本では)善悪の区別もつかなくなってきた。日本で善といえば、見返りも報酬もないもので、少しも打算を伴わないことである。そこに春泥があることを温かみとして沛然と納得するごとく、何事もなかったかのように何かをすること、それがおこなえればそれが善なのだ。それから、これは西洋でも相当におかしくなっているのだが、人を大事にしていない。人を大事にしないと、人とのつながりに疑心暗鬼になっていく。人と人のつながりなど、最初につながりがあると思ったら、そのままどこまでも進むべきなのだ。どこかで疑ったらおしまいなのである」。
 「太平洋戦争が始まったとき、私は日本は滅びると思った。ところが戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。そのかわり死なばもろともと思っていた日本人が我先にと競争をするようになった。私にはこれがどうしても見ていられない。そこで自分の研究室に閉じこもったのだが、これではいけないと思いなおした。国の歴史の緒が切れると、そこに貫かれていた輝く玉たちもばらばらになる。それがなんとしても惜しいのだ」。
 「近ごろは集団として考え、また行動するようしつけているらしいが、これこそ頭をだめにしてしまう近道だと思う。人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人の持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。学生たちに最初から集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは深いことは何一つわからないのだ」。
 「いまはギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。ローマ史を研究するつもりなら現代をながめるだけで十分だと思うんですよ。月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです」。
 「すべて成熟は早すぎるより遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原理だと思う」。
 「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだったこの日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなにたいへんなことかがわかるはずだ。情緒の中心が人間の表玄関であること、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである」。
 「私には日本民族はいま絶滅のふちに立っているようなものとしか思えない。それだけでなく、世界的にみても、人類は葬送行進曲を続けてやめないようにしか見えない。そんな状態でなぜ教育のような迂遠なことを話すのかと思われるかもしれないが、この危険状態から脱するにはよく教育するしかないのである。というだけでなく、日本の危機もまた教育、特に義務教育から来ている」。
 「吉川英治さんの小説は昔から愛読していたが、直接知りあったのは一九六〇年秋、一緒に文化勲章を受けたときで、それから式になり、陛下におじぎをして池田さんに勲章をもらい、帰って来てこんどは荒木さんから勲章を首にかけてもらった。それがすんで別室で陛下と一緒にお昼ごはんをいただいた。皇太子殿下と三笠宮さまも一緒で、お料理はなかなかおいしかった。食事のあと、また別の部屋でコーヒーをいただきながら陛下からご下問があったのだが、私はあがっていたとみえて、陛下が何とおっしゃたか全く覚えていない。ただ、ご質問の語尾の「・・・の」というところが耳に残っただけだった。したがってどうお答えしたかも覚えてないのだが、あとで荒木さんに教えてもらったところでは、私は「数学は生命の燃焼によって作るのです」といったという。そのころ私は学問のオリジナリティーを強調していた時期だったので、その考えをそのまま陛下に申し上げたらしい。それが大変吉川さんの気に入ったらしく、あとで、自分の作中の人物も、ひっきょう生命の燃焼を描こうとしているのだといわれた。これでますます吉川さんの知遇を得ることになったわけである」。

 1964(昭和39).3月、奈良女子大学定年退職 京都大学非常勤講師退職。同年4月 奈良女子大学名誉教授 奈良女子大学非常勤講師。「風蘭」(講談社現代新書)、「紫の火花」(朝日新聞社)、「春風夏雨」(毎日新聞社)を刊行。

 1965(昭和40)年、小林秀雄と「対話 人間の建設」(新潮社)刊行。

 1966(昭和41)年、「月影」(講談社現代新書)、「春の草 私の生い立ち」(日本経済新聞社)刊行。1967(昭和42)年、「春の雲」(講談社現代新書)、「日本のこころ」(講談社)刊行。

 1968(昭和43)年、奈良市名誉市民。「一葉舟」(読売新聞社)、「昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ」(月刊ペン社)、「日本民族」(月刊ペン社)刊行。林房雄と「心の対話」(日本ソノサービスセンター)。

 1969(昭和44).4月 京都産業大学教授。「日本民族」を講義した。晩年の主張は真善美妙を大切にせよというもので、真には知、善には意、美には情が対応し、それらを統括するものとして妙すなわち智が存在すると述べた。一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、根本は情であるべきとも語った。また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切にすることで知を身につけるべきと提唱している。さらに現代日本は自他弁別本能・理性主義・合理主義・物質主義・共産主義などにより汚染されていると警鐘を鳴らし、これらを無明と位置付け、心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで取り除くべきと述べた。岡は仏教を信仰しており、特に弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。

 「葦牙(あしかび)よ萠えあがれ」(心情圏)、「神々の花園」(講談社現代新書)、「曙」(講談社現代新書)刊行。

 「岡潔集第1巻」、「岡潔集第2巻」、「岡潔集第3巻」、「岡潔集第4巻」、「岡潔集第5巻」(学習研究社)が刊行される。
第1巻  春宵十話、宗教について、日本人と直観、日本的情緒、無差別智、私の受けた道義教育、絵画教育について、一番心配なこと、顔と動物性、三河島惨事と教育、義務教育私話、数学を志す人に、数学と芸術、音楽のこと、好きな芸術家、女性を描いた文学者、奈良の良さ、相撲・野球、新春放談、ある想像、中谷宇吉郎さんを思う、吉川英治さんのこと、わが師わが友、春の草(私の生い立ち)、対話・全か無か(岡潔、石原慎太郎)。解題(保田与重郎)、年譜。
第2巻  春風夏雨、片雲、女性と数学、若いおかあさまへのお願い、春の日、冬の日、二つのお願い、伊勢神宮参拝の感想、ある日の授業の回想、ふるさとを行く、科学と人間、夜明けを待つ、対話・昭和維新(松下幸之助、岡潔) 解題(保田与重郎)。
第3巻  紫の火花、情緒、すみれの言葉、春の日射し、こころ、童心の世界、独創とは何か、新義務教育の是正について、創造性の教育、教育と研究の間、かぼちゃの生いたち、数学と大脳と赤ん坊、ロケットと女性美と古都、秋に思う、春の水音、わが座右の書、おかあさんがたに語る、人間のいのち、幼児と脳のはなし、生命の芽、対話・萌え騰るもの(司馬遼太郎、岡潔) 解題(保田与重郎)。
第4巻  一葉舟、科学と仏教、教育を語る、片雲、梅日和、弁栄上人伝、人という不思議な生物、一葉舟、ラテン文化とともに、対話・人にほれる(小林茂、岡潔) 解題(保田与重郎)。
第5巻  講演集 こころと国語、私のみた『正法眼蔵』、教育論序説、二十世紀の奇蹟――光明主義、義務教育について、小我を超える――救いへの唯一の道、「情」というものについて、日本の教育への提言、日本民族のこころ、日本人は自己を見失っている、自己とは何かを『正法眼蔵』にきく、愛国、産業界に訴える、こころの世界、中谷治宇二郎君の思い出、対話・美へのいざない(井上靖、岡潔) 解題(保田与重郎)。

 1972(昭和47)年、「わが人生観」(大和出版販売)刊行。

 1973(昭和48)年、勲一等瑞宝章。

 1978(昭和53).3.1日、享年77歳。従三位。

 作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲『雨のひまわり』を製作するために密着取材をした事があり、著書『人生の自由時間』、『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。藤本によると、岡は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂の和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開 - するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と怒鳴る有様であった。 岡のこの行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。


【岡潔没後の刊行物】
 1984(昭和59)年、「心といのち」(大和出版、解説:松永伍一)刊行される。

 1997(平成9)年、「岡潔 日本の心」(日本図書センター)刊行される。

 2001(平成13).11月、「情緒の教育」(燈影舎)刊行される。 

 2002(平成14).2月、「情緒と創造」(講談社)刊行される。   

 2004(平成16).4月、「日本の国という水槽の水の入れ替え方 憂国の随想集」(成甲書房)刊行される。同年11月、「岡潔/胡蘭成」(新学社)刊行される。

 2008(平成16).2月、「情緒と日本人」(PHP研究所)刊行される


【参考文献】





(私論.私見)