れんだいこの岡潔論、太田竜の岡潔評、植田義弘氏の岡潔論、松岡正剛氏の岡潔論その他

 (最新見直し2013.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの岡潔論、太田竜の岡潔論、その他論者の岡潔論を書きつけておく。

 2012.06.22日 れんだいこ拝


【れんだいこの岡潔論】
 (未執筆)

【太田竜の岡潔論】
 2013.6.1日、れんだいこツイッターに、氏より、岡潔先生のスレが2chと太田竜の時事寸評の岡潔論三点の紹介をいただいた。ここに転載して確認しておく。(読み易いように、れんだいこ文法に則り編集替えした)
 太田龍の時事寸評~岡 潔先生記念文集・「聴雨録」を読む。(週間日本新聞)
 投稿者 中央線 日時 2003 年 2 月 11 日 00:23:23:

 太田龍の時事寸評 平成十五年(二〇〇三年)二月十日(月) (第四百八十三回)
 
 或るお方から、「岡潔先生二十年祭記念・聴雨録ー師弟談話集」(「真情会」発行、平成十年、二百十八頁)と言ふ文集を頂く(15.02.08)。これは昭和四十六年から昭和五十二年までの六年間、岡潔先生の講義と座談の記録集(八篇)、と言ふ。この時期は、幻の遺著の「春雨の曲」執筆と重なる。

 中国(漢文、漢学、漢籍)はダメ。佛教はダメ。西洋は救いやうがないほどダメ。かくして人類は滅びる寸前。日本民族が一致団結して努力する他に、人類が救われる道はない。しかし、日本も、中国(漢学)、佛教、西洋の毒にやられて、このままでは日本人が真っ先に滅びるだらう。と言ふ論旨ですね。「明治以後なんて信用できん・・・」 「よいも悪いも云えたもんじゃない。」 「およそ斯くの如しだ。」(百四十二頁) つまり、最晩年の岡潔先生の評価では、明治以後の日本は、全否定。これでは、昭和四十五年以後(一九七〇年代)の最晩年の岡先生の説に、全面的に共鳴し、同意し、積極的に支持、推進、継承、発展させられる日本人は、殆ど存在し得ない。
    
 岡潔先生は、苗代清太郎先生と同じく、晩年になるにつれてラジカルに成る。「西洋のものはみな間違っている。」(前出六十四頁)と言はれたのでは、岡先生ご出身の日本の(西洋式)数学者でさえ、立つ瀬がない。敬遠。封印。無視。忘れ去る。ないことにしてしまふ。・・・より他ないであらう。これでは、昭和五十三年逝去と同時に急速に、全日本社会が、岡潔を忘却することに成るのも当然だ。

 しかし、これからが本番だ。岡潔先生は 西暦二〇一〇年(平成二十二年)頃、高天原神国日本の第二次国産みが完了する(「春雨の曲」第七次草稿)、と予告された。当寸評子は、岡潔説を一から十まで鵜呑みはにしないが、それにしても、ここに現代日本の最高の思想が表現されて居ることは明らかだ。(了)

 太田龍の時事寸評 岡 潔先生の遺著・「春雨の曲」第八次草稿(未完)を読む。
 投稿者 中央線 日時 2003 年 2 月 08 日 02:06:20:

 太田龍の時事寸評 平成十五年(二〇〇三年)二月七日(金) (第四百八十回)
 
 九州大学の数学者、高瀬正仁さんから岡潔先生の遺著「春雨の曲」第八次草稿(未完)のコピー本も頂く。第七次草稿と同じく、第八次草稿も岡先生の逝去後(一九七八年三月) 五十冊印刷されて、関係者に配布された(一九七八年)、とのこと。一九七七年三月 第七次草稿「春雨の曲・巻の一」脱稿、毎日新聞社に出版依頼。同年十月、これを取り下げる。一九七八年一月 第八次草稿を書き始めるが、まもなく病気。同年三月一日、死去。と言ふわけで、未完のままに終わった第八次草稿。ここでは、仏教の唯識論を踏み台にして、更にそれを超えた境地が展開される。第七次・第八次草稿は、「第一巻」とされて居り、あと七・八年はかけて数巻の大著の完成を構想されたやうだ。しかし、その第一歩のところで岡先生の寿命は尽きた。
  
 岡潔先生は 西洋人は「西洋型根本無明」に取り憑かれて居る。そして、そのやうなものとしての西洋人、西洋文明は人類自滅どころか地球全体を死の惑星へと突き落とすであらう。・・・と予告された。それでは、その「西洋型根本無明」とは何者か。ここでは、説明は省略する。しかし「西洋型根本無明は空気伝染します。」(第八次草稿、三十八頁)。と言はれる。「空気伝染」とは大変だ。

 蒸気船、鉄道、そして今や自動車、航空機、電波に乗って「西洋型根本無明」は、全地球にはびこり、根を張ってしまった。遺憾ながら、苗代国学と同じく岡潔先生の思想もまた、継承されることなく今まさに、死に絶えようとして居る。と言ふ、この危機一髪のところで我々は、しっかりと岡潔先生の遺志を受け止めたい。(了)

 明治憲法も、教育勅語も西洋かぶれの俗論として、全否定する。(岡潔、胡蘭成) [週刊日本新聞]
 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 24 日 02:40:49:YTmYN2QYOSlOI

 (回答先: マイケル・ジョーンズの大著「性的解放と政治的支配、リビドー・ドミナンディ」 [週刊日本新聞] 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 24 日 02:36:30)

 明治憲法も、教育勅語も西洋かぶれの俗論として、神国日本の国体死守の立場から全否定する。(岡潔、胡蘭成)
 http://www.pavc.ne.jp/~ryu/

 太田龍の時事寸評 平成十六年(二〇〇四年)一月十八日(日) (第八百二十七回)

 胡蘭成、岡潔対談(昭和四十三年五月四日、奈良の岡邸にて)、(「鳥語花香」、「風動」紙に二十回連載)。これは、今、日本民族有志が熟読すべき記録であるか、その第四回(「風動」、第9号、昭和四十七年四月十五日)で、胡蘭成先生曰く。「ほんとうは明治憲法も間違ったものです」、と。

 それでは、「教育勅語」はどうか。岡潔先生は、「教育勅語は小我が自分だと教えてしまいました。教育勅語は、あれは人の道。仏教でいう人道。天道にさえなっていない。」とされた。

 佛教の十界論は、(1)佛界 (2)菩薩界 (3)縁覚界 (4)声聞界 (5)天界 (6)人界 (7)修羅界 (8)畜生界 (9)餓鬼界 (10)地獄界この十段階で言えば、佛教は、成佛する教えであるから、人界はその六番目。つまり、佛のさとりから見ればずっと下。天道(天界)にさえ届かない。つまり、教育勅語は天界以上に向上すべく、日本人を教育指導することはしない、と成るであろう。

 昭和四十三年の時点で、胡蘭成、岡潔の両先生は、明治憲法否定論 教育勅語否定論を公言して居られた。それでは、どのような立場で、明治憲法を否定されたのか。それは、明治憲法が西洋イデオロギーに毒されて居る、との理由であろう。のちに、岡潔先生は、いわゆる「五箇条の御誓文」をも、神国日本の国体を破壊するものとして告発し弾劾される。

 この評価は全く正しい。しかし、岡潔先生の生前に、この主張を公然支持する日本人が、果して、一人でも、存在したであろうか。神国日本の国体を死守する立場から、「五箇条の御誓文」を否定し、「明治憲法」を否定し、「教育勅語」を否定する。

 これは、「熊本神風連」の志向の線上に在る。岡潔先生が、最晩年、「熊本神風連」に、強く共鳴されたのも、当然であろう。しかし、それだけではない。岡潔先生は、胡蘭成先生との思想的交流の中で、西洋全否定、の立場に立たれたのである。まさしくここにこそ、今、日本民族有志が学ぶべき、その核心が存在する。(了)

 【「岡潔、胡蘭成」考】

 2593回、2008(平成20)年11月01日

 高瀬正仁著「岡潔-数学の詩人」(岩波新書、2008/10)が出版される。胡蘭成著「日本及び日本人に寄せる」(昭和五十四年一月刊、日月書房)、百八十八頁。「岡(潔)は数学は創造的だが、物理学は何一つ創造したことがないといって、ご本人も数学上の発見の体験を次のように述べている。『研究主体としての研究者が、自分を無にして、一つの法姿になる。研究の対象である自然も一つの法姿である。それに関心を休まずに持ち続ける。ずっと主体の法姿と客体の法姿が融合して一つになって混沌に入る。そしてふと、宇宙の果てまで一つの大円境智が閃いて、中に第三の法姿(研究の解答)が現れる。その時の喜びの光は、天地万物に満ち溢れる。この第三の法姿は創造されたものである。数学は自然にあるものを発見するのではなく新たにものを生み出すのである』」。

 筆者は、七、八年前、文化勲章受章後の岡潔のエッセイ本を集中的に研究したことがある。そのとき既に、岡潔は、完全に世間に忘れられていた。岡のエッセイを残らず見て行くと、そこに、「胡蘭成」と言う、全く未知の人の名前を発見した。そこでこのひとについて検索して行くと、全く何も分からない。苦心して、ようやく、手がかりを見つけ、次々に古本を入手した。そして最終的に、日本語のすべての著作の古本、その他の資料、そして、台湾滞在の一、二年のうちに出現した一人の女性の弟子、朱天文女史が、胡蘭成没後、出版した、「漢文 胡蘭成全集」(全九巻)も台湾で入手した。

 台湾では、早くから、日中戦争末期の上海で胡蘭成と熱烈な恋愛結婚をした張愛玲(チャン・アイリン)の作品が広く読まれ、その関係で、その前夫、胡蘭成についてもある種の関心は持たれていた。更に、この数年、共産中国でも、條件付きで、胡蘭成の若干の作品が再版されている。しかし、日本では、今に至るまで、本格的な胡蘭成評価はなにもない。岡潔については、藤原正彦と言う、絵に描いたような俗物数学者が、自分の「権威」を高めるダシとして岡潔を利用したおかげで、最近は、少々浮上した。

 高瀬正仁さん(いまは、九州大学数学科准教授)は、五、六年前だろうか、年末に私を訪ねて来られ、評伝岡潔全二巻の大著の原稿コピーを頂いた。この原稿を出版する出版社が見つからないと。高瀬さんは、高校生の頃、岡潔先生の本に感動して、数学者たらんと志を立てられ、東大数学部に入ったけれどもその程度の低さに絶望した。大学院は、九州大学に移ったけれども、九大と言わずすべての日本の大学の数学界は、もはや岡潔の高次元の数学とは、全くの無縁である、と。しかし、幸いにも、その後、或出版社から前出の大著、評伝岡潔全二巻は出版された。これは、再版されたようである。

 長い間、「万年助手」の見本のような存在であったらしい高瀬さんがようやく世間に認められるように成りかけ、今回の岩波新書の出版と成った、と。この本は、世界の数学界のごく少数最尖端、天才数学者グループの一人としての岡潔を、描いている。その「天才ぶり」は、胡蘭成が引用した、前出の引用文にも示されている。しかし、ここから岡潔の最晩年の境地まで、道は、はるかである。(了)

 【註】太田龍著「評伝 胡蘭成」(未公刊。学習参考資料として、日本義塾出版部からコピー版が出ている)

【植田義弘氏の岡潔論】
 植田義弘氏の「岡潔博士の憂国の書を読み返す」を転載しておく。
 岡潔博士の憂国の書を読み返す=植田義弘
 http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/312.html
 投稿者 埼京線でそそり立つ 日時 2003 年 2 月 11 日 11:47:02


 (回答先: 太田龍の時事寸評~岡 潔先生記念文集・「聴雨録」を読む。(週間日本新聞) 投稿者 中央線 日時 2003 年 2 月 11 日 00:23:23)

 「岡潔」で検索してみたら以下の文章があった。かなり長いですがいいこと言ってます。

 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/6251/
oka.html

 情緒と幼児教育

 岡潔博士の憂国の書を読み返す=植田義弘

 *引用文の文末の( )内の数字は、文献番号を表しています。

 〈日本への熱い思い〉

  岡潔(おか・きよし)の名を、いまも覚えている人はどれほどいるだろうか。まして著書を読んだことのある人はごく僅かにちがいない。いまは亡き数学者・岡 潔博士(1901~1978)は、30年前の1960年代(昭和37~44年)、戦後の教育のあり方について憂国の書を次々と世に問うたのだが、博士の提 唱した情緒を中心とする教育論が読み継がれることなく、現在に至るまでほとんど復刊されていないことを残念に思わずにはいられない。日本の伝統から大脳生理学までを視野に入れて、独特の表現で情操教育の必要を説いた風変わりな数学者というだけで忘れ去られるのは惜しまれてならない。イジメや不登校、さらには学級崩壊などが蔓延する教育の現状をみるとき、また神戸で起こった中三少年による連続殺傷事件(1997)、栃木県黒磯市の中学一年生による 女性教師刺殺事件(1998)などの原因を見すえるとき、いまこそ岡潔博士の教育論が見直されることを切望するものである。

 私は30代の半ば頃、 岡潔博士の著書を読んで深く感ずるところがあり、止むにやまれぬ気持ちから、先生(と呼ぶことを了解ねがいたい)の最晩年のある日とつぜん奈良市にあるお宅を訪ねたことがある。名も知らぬ若輩の失礼な振舞いにもかかわらず、先生は快く私を居間へ招じ入れ、ひとときの談話を拝聴した。語気を強めて熱弁をふる う先生に対して、口をはさんで質問しようものなら一喝されそうな真剣さに接してタジタジとなった思い出がある。その発想は極端といえる部分があったにせよ、古代から未来にかけて日本への熱い思いをひしひしと感じた強烈な印象が今も残っている。その後、数年ののち新聞で逝去の記事を読み、惜しんでも余りある人を失ったことを悲しんだ。先生の没後、私の知るかぎりでは、1970年以後に再刊された著書はないに等しい。一般の市立図書館にも殆ど蔵書はない。ただ、先生は奈良市の名誉市民であったから、奈良県立図書館には著書が揃っている。その蔵書をいま一度読み返し、教育論に焦点を絞って先生の思想 のエッセンスを解読してみることにしたい。

 『私の人生観』には、昭和の始めパリに留学していた頃の思い出を語りながら、「日本の歩き方」について の次のような一節がある。すこし読んでみよう。『どういう歩き方かとひと口にいうと、日本は危険な方から危険な方へとだんだん歩き続け、その歩みを止めない。それは今日もなお続いているのです』、『そこで私が見るに、この先日本が立ち直るのに、じゅうぶん百年はかかります。それから国内を整備するのにもう百年、残る百年で生物の絶滅を救わなければならない。ところがあと三百年、生物が絶滅せずにどうにか持ちこたえてくれるかどうか、……』(1) 

 このように、地球環境の汚染が殆ど関心を呼んでいなかった当時、すでに百年の計を立てる必要を説き、日本の将来を真剣に憂慮されていたことがわかる。『六十年後の日本』と題する文章は、次のように書き出されている。少し長くなるが引用しておきたい。『私は人というものが何より大切だと思っている。私たちの国というのは、この、人とい う水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。これが国の本体といえる。ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、濁っ た水が流れ込めば、全体が段々に濁っていく。それで、どんな人が生まれるかということと、それをどう育てるかということが、何より重大な問題になる。人という存在の内容が心であり、こころが幼いころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない。ただ、どう育てるかが 問題だといっても、教育でどんな子でも作れるというのではい。本当は人が生まれるのは大自然が人をして生ましめているのであって、各人はそれを自分の子と 思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝わしめているのが教育なのである。それを思い上がって、人造りとか人間形成とかいって、まるで人造人間か何かのように、教育者の欲するとおりの人が作れるように思っているらしいが、無知もはなはだしい。無知無能 であることをすら知らないのではないか。教育は、生まれた子が、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であってそれ以上によくすることはできない。これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。しかし、恐ろしいものだとよく知った上で謙虚に幼な児に向か うならば、やはり教育は大切なことなのである』(2)

 〈数学者としての業績と発想〉

  先生は1901年和歌山県に生まれた。『春宵十話』その他の著書に書かれている先生自身の回想によれば、県立中学(旧制)に落第、高等小学校に1年通って、二度目に粉河中学に入り、その1年目の代数の平均点は68点であったという。旧制高校3年のとき、アインシュタインが来日するというので大騒ぎにな り、その影響で京都大学理学部に入学したが、物理は好きになれなかった。大学3年のとき「ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている」と発言し、級友の失笑を買った。卒業後、1929年からフランスへ留学、その2年後に満州事変が勃発、外国にあって日本への轟々たる非難にさらされた 若き日の先生は日本の将来に暗い影を感じた。のちに、太平洋戦争が始まったとき、その知らせを北海道にいて聞いた先生は、とっさに日本が滅びると思った。 戦争中は数学の研究に閉じこもり、多変数解析函数の研究で世界的権威と認められた。長年にわたり奈良女子大で教鞭をとり、のち名誉教授となり、学士院賞・ 朝日文化賞・文化勲章などを受賞した。

 数学は農業のごとく種をまいて育てるのが仕事ということで、2年ごとにレポート用紙 2千頁ほどに書いた下書きを20頁ほどの論文にまとめて発表しつづけた。先生にとって数学の研究は「発見の鋭い悦び」を味わうことであり、芸術の創造や宗 教的直観にも通じる経験にほかならなかった。先生の奇人ぶりを示す逸話は数々あるが、その一つ──ある日、近くの農家へ鶏卵を買いに出掛けたところ、まだ 鶏が卵を産んでいないと言われ、「それなら卵を産むまでここで待ちましょう」と、その場に坐り込んだ。先生は身なりを構わず、ヨレヨレの背広にいつも雨靴をはいていた。ズボンも脱がず寝床に入って思索を続けるのが常であったという。

 エッセイの筆者として岡潔の名が新聞に載り、単行本が出版されたのは60歳を過ぎてからであり、逝去するまでの10年足らずの間に教育論を主とする著作が次々に発表された。戦後、国 が滅びるという予感は当たらなかったけれども、人の心がすさみ果てた姿をどうしても見ていられなくなり、研究に閉じこもって逃避することもできず、「生き るに生きられず、死ぬに死ねないという気持だった」と回想している。こうした切羽詰まった気持から、先生はペンを取らずにいられなかったのに違いない。

  ところで、先生の著作が没後に復刊されることがないのは、それなりの理由がある。と いうのは、晩年になるにつれて、憂国の情に駆られるあまり極端な発言が目につくようになったからである。例えば、入試競争の弊害を防ぐために、大学は卒業証書を出すことを法律で禁止せよ、と提言している。国語・国字問題のあり方に激怒して上京し、時の政府 官庁に直訴して回り、胃病を悪化させて吐血している。(それ以前から、情感のある漢字を殆ど削除した当用漢字の規制に憤慨していた)坂田文相(当時)に提出した『教育の原理』(3)と題する論文は、とても具体的な政策になりそうもない難解な内容で、政治家には理解不能にちがいない。『大東亜戦争肯定論』の著者・林房雄との対談集『心の対話』(4)の中では「神風攻撃は日本人にしかできない創造行為」という意味の発言がある。その真意は、経済成長を唯一の目標として欲望追求に汚されていく日本の将来を憂慮するあまり、自己犠牲の極致といえる特攻隊員の純粋さの中に、桜の花が散るような美を強調したかったに違いない。しかし、 いかに利害打算を捨てた崇高な行為であっても、正しい目的に向かって遂行されなければ悲劇的な破局に終わるしかない。愛国心とは同胞愛と同義であって、愛国心のもととなる日本民族の歴史を懐かしむ情緒教育が欠けているとの指摘もある。

 じつは先生ほど政治の権謀術数から遠い人はなく、そうした発言の数々は権力の構造に対する無知が言わしめたに違いないのだが、結果として大衆やマスコミの反感を買うことになったのではないかと思う。それでも先生は 「警鐘を乱打した」と自らを振り返っているように、将来を憂慮して発言せずにはいられなかったのであろう。先生の思想に私が関心をもつわけは、私もまた 戦後日本の方向に疑問を抱きつづけてきた者であり、経済発展に背を向けて生きてきたからである。二十八歳で大学に編入学したのは決して就職のためではな く、当時、世界的に学問の主流となっていたパブロフの「条件反射」を基礎とする心理学の唯物的な風潮に疑問を抱き、真実を突き止めたかったからであった。 その後も私は、大学で図書館司書を勤めながら、日本科学哲学会員として意識と脳の関係を模索しつづけ、研究論文を発表したものであった。そして今日に至る まで、最後に信じ得るものは何かを求めつづけている。

 〈『春宵十話』の警告が現実に〉

 初めて刊行された著書『春宵十話』は、毎日新聞に連載された随想をまとめたものだが、その中には次のような一節が見える。
 『戦 後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。たとえば、牛や馬なら生まれ落ちてすぐ歩けるが、人の子は生まれて一年間ぐらいは歩けない。そしてその1年間にこ そ大切なことを準備している。とすれば、成熟が3年も早くなったのは、人の人たるゆえんのこころを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい』、『どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲であることに気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない』(5)

  この30数年前の先生の憂慮は、平成6年の12月、明るみに出た「自殺した中学2年生、いじめ苦の遺書」の事件で現実となった。愛知県の大河内清輝君が同 じ中学の生徒から合計百万円以上もお金をおどし取られたあげくの自殺であった。11人の生徒が関与し、脅し取ったお金で遊んでいたという。グループの一人 が「みんながやったので、見ていて面白かった」と、いじめの実態を白状したという記事もあった。この事件には、人の気持ちに対する「思いやり」のひとかけ らも見られない。その後もいじめ事件が頻発するたびに、先生が念願してやまなかった「きれいな情緒」の発育とは裏腹に、中学生がすでに目先の欲望や衝動に 支配されていることを認めざるを得ない。

 〈情緒の目覚めの季節〉

 岡潔博士の教育論の独創性は、自らの人生経験の内省と二人の幼い孫の発育ぶりの観察に裏打ちされた数学者らしい明晰さにみられる。子どもの内面的な生い立ちには、年齢に応じて「情緒の目覚めの季節」があ り、その季節に適した種を蒔かないと発育しないのは植物の発芽・成長に等しいという。以下『風蘭』の内「教育はどうすればよいのだろう」と『昭和への遺書』に収められた「光の陣備え」と題する教育論の要点を述べれば、道義教育は数え年五つから始めるべきである。人の人たるゆえんは、自他の区別がわかり他 人の感情がわかることにある。その頃から自分だけでなく人を喜ばせることができるようになる。一方、喜怒哀楽の感情を子どもの人権や自由と錯覚して放置す ると、自分本位の衝動的判断しかできない人間に育ってしまう。人らしくない感情・我欲を恥ずかしいと感じるしつけが欠かせない。人の悲しみがわかるのは小 学三、四年生頃からで、人が悲しむような行為をにくむ気持ちが正義心の始まりとなる。とにかく小学生の頃までは、情緒のできあがる時期であることを重視し なければならない。幼い頃からの男女の違いも無視できない。女の子はお人形やままごと遊びに見られるように、坐って空想あるいは情緒の世界に浸るのが好きである。それに比べて、男の子は乗物のおもちゃや棒きれで運動に身を任せるのが好きで、それぞれの特性が歴然としている。 数え年五、六才頃は文字を機械的に覚える時期であり、六つの頃から集団的に遊ぶようになり社会性が芽生える。とともに、知的興味が最初に出てくるので、そ の芽を摘み取らないことが大切である。努力して記憶できるようになるのは小学五年からで、その頃から歴史・地理・理科などを教え始めればよい。但し、小学 校で社会科を教えるのは無茶である。自己批判力ができる前に社会や歴史を批判することを教えるのは、他人がみな悪いと思い込むような冷たい心に育つ恐れが ある。『教育は何よりも人の子の心の底を温かく保つことに留意しなければならぬ。そうしないと、人の子は人もものも愛せなくなってしまうのであ る。人を愛せなければ人でないし、学を愛せなければ学は教えられない。後々創造が起こるのは、そのものを愛するからである。歴史家も日本民族の歴史は日本民族を愛するが故に調べるというのでなければならぬ』(6)

 〈情緒教育の大切さ〉

 先生の思想の核心は「情緒」を中 心とする教育論にある。但し、先生のいう「情緒」という言葉には独特の幅広い意味があり、心の中心的なはたらきを表している。つまり、情緒は知情意の各分野にわたる正常な発達を促すもとになるという。小学校三、四年までの最も大事な教育のあり方として、『情操教育』の中から一節を次に引用すれば、『情緒が人そのものだから、これを十分に清く、豊かに、深く育てなければいけない。しかし、今は、情緒中心に育てるということを忘れている。つまり、感情、本能を抑止することを教えないから、情緒がでてくるはずがないのです。戦後、日本が取り入れたデューイの教育学にそんなものはありはしない。欲情本能を抑えること、そして、情緒を大切に育てるということが大事です。特に、お母さん方は、その情緒を清く豊かに教育することです。そうすれば情緒の現われとして出てくる知情意は、全面にわたって間違いなく発育する。……』(7)

  言い換えれば、先生のいう情緒には本能的自我を抑止した知情意のすべてが含まれていて、利害打算の入らない知は純粋な直観となり、情は心の悦びであり、意は強靱な自由意志を意味している。真善美の価値につながる情緒を重視する教育こそが真の教育であり、その目的は、いかに情緒を濁らせず純粋に育てるかにあることを、先生は強調して止まなかったのである。本能の濁りが混じらない情緒は、太陽の光にも似てあたたかい慈悲の心となる。刹那的な刺激による感覚を悦びと錯覚してはならない。それは次第に刺激を強くしていかないと満足できなくなる肉体的な感情に過ぎないからである。

 なぜ本能的自我を抑止しなければならないかといえば、人間の場合、自我を放置すれば、意識の拡大とともに本能的な欲望も拡大され、止まるところを知らない闘争と破壊をもたらすからだ。所有欲、名誉欲、権力欲、その象徴としての金銭欲の際限のない膨張は、まさに先生のいう「情緒の濁り」に由来している。そうした状況では、意識が欲望 に占領され、純粋な情緒、自由な意志、創造的な思考は育ちようがないのだ。

 先生の言葉によれば、人には「生きようとする盲目的な意志」があり、その本能を先生は仏教の言葉を借りて「無明」(むみょう)と表現している。心理学では情動またはエゴと呼ばれる概念がそれに当たる。先生の「無明」についての見方は次のように要約できる。
  ──自分の無明は見えないし、無明は知性をダメにする。知性が働かない以上は正しく物事を判断することができない。無明はまた本能的な満足を求め、他者を無視して自分の意志を通そうとして行動する。無明を放置すれば、真善美の価値に対して無関心となり無知となる。しかも人間は無明を自分と錯覚し、無明を満足させることを「生きる」ことと錯覚している。無明の恐ろしさに全く警戒を忘れているのが戦後の日本の状況である。無明を生み出す本能が本当の自分ではない。無明を退けて進むところに人間として「生きる」価値がある。純粋な情緒を濁すのも無明にほかならない。──このように先生は力説するのである。

 (8) さらに『自己と情緒』の一節を読んでみれば、『もし人がその自我本能を全然抑止しなかったならば、欲情や本能がその人を支配してしまう。しかも節度がないから、獣類よりも一層悪いものになる。今しているように、自我はお前の主人公だから、大切にして、そのいうとおりにせよ、と教えていると、百八煩 悩や五情五欲がいくらでもはいりこんで、その自我をふくらませるから、際限なく悪いものになり得るわけである』(9)

 戦後、家庭教育や義務教育 が自我本能の抑止を教えなかったことは否定できない。その理由の一つは、憲法の前文において「基本的人権の尊重」がうたわれていることにあると先生は指摘する。法律では欲望や自我本能(無明)を含めたものが人権と解釈されているが、本来はいかなる人もいのちを守る権利を尊重されるという意味であろう。

  ところが現実の社会や家庭では、子どもの人権と自由、個性を大切にするという名のも とに、親は子どもの言うなりに育て、好きなことは何をしてもいい、嫌いなことは我慢できない自分第一の子どもになった。学校では教師の権威と指導力が弱められた。その結果、三十年前に著者が憂慮していたような状況が現出している。99年2月に刊行され反響を呼んだ『学校崩壊』(河上亮一著)には、現場の教 師の目で小中学校の危機的状況が報告されている。普通の生徒が自分のしたいことを抑えられ気分を害した場合、衝動的にいつ何をするかわからない状況に陥っているという。文部省の調査によれば、98年度の小中高校における校内暴力は前年度より25・5%増の約3万件に達している。(読売新聞99・8・14 付)しかも、同じ99年7月下旬の一週間ほどの間に、一流大学を卒業した青年が全日空機をハイジャックして機長を刺殺した事件、二つの大学の医学部学生による集団婦女暴行事件が相次いで報道された。いずれも自分の欲望を達するためには何でもする点で、小中学生がそのまま生長した時の恐るべき姿を予見するよ うな事件である。そうした日本人の姿は、人だけに進化した大脳前頭葉が本来の働きを失って欲望をコントロールできない状態であり、獣類以下の行為といわざ るを得ないであろう。

 あらゆる人権が抑圧されていた戦前・戦中の時代には、自我とともに自由な思考や意志までが圧殺されていたことは事実である。戦後は無明を含む自我が解放されたのは確かだが、法律は最低の規範であって、個人の欲望すべてを尊重し保障することが正当であるはずはない。心を育て るための教育とは、偏差値を重視する能力主義に偏ることなく、真善美の価値が分かる情緒を育てることに第一の目標を置くべきである。義務教育の目的は「道 義的センスを身につけることの一語につきる」そして「道義の根本は人の悲しみがわかるということにある」(10)と先生は言い切っている。よりよい民主主 義の国をつくるためには、国民一人ひとりがより高い情操や道義を身につけることが不可欠なのだ。重ねていえば人権や自由の尊重とは、個人が無責任に何でも したいことをしてもいいというのではない。それでは学校どころか社会の秩序が崩壊するほかはない。

 〈喜怒哀楽とEQの意味〉

  このような教育論に対して、自然な喜怒哀楽の感情を抑圧することは人間の本性を無視 することになるのではないかという反論が予想される。たしかに自我本能や感情の「抑止」という表現は、親や教師による強制的な禁止と受け取られかねない。 フロイドの学説にかかわらず、抑圧されたエネルギーは消えることなく、いつか歪んだかたちで報復するからである。自然な喜怒哀楽の感情を自由に発散することは、心が成長していく過程でむしろ好ましい傾向ではないかと考えるのは当然であろう。もしそれがいけないのであれば、流行歌や演歌も禁止の対象となるか も知れない。ロック音楽やジャズの類も(全部ではないが)本能的なパッションの表現にほかならない。

 じつは、子どもの教育に必要な「抑止」は、決して感情を失うことではなく、よりゆたかな情緒を育むことが目的でなければならない。無表情・無感動・無関心は感性を喪失した状態である。しかし、他者 の感情を無視して自分だけの喜怒哀楽に閉じこもることは、決して美しい情緒とは言えない。さらに、拡大された欲望と結びついて追求される感情的満足は、 種々の闘争・犯罪・葛藤の原因となる。そうした感情と情緒の違いに自ら気づくように教育することが自我本能の抑止にほかならない。喜怒哀楽の 「喜」とは、人とともに喜び、人に喜んでもらうことであり、「怒」は不正や邪悪に対して怒ることであり、「哀」は人の哀しみを感じること、「楽」は人と共 に楽しみ、人に楽しみを与えることであろう。そのとき、同時に自らが最高の感動と湧き上がる情緒を実感することができるであろう。

 数年前になる が、アメリカの翻訳書を通して“EQ”という言葉が反響を呼んだことがある。著者はIQよりEQの方が大切であることを提唱している。EQ? (Emotional Quotient)?の直訳は「情緒指数」である。著者のダニエル・ゴールマンによれば、EQの高い人とは自分の気持ちを自覚し制御できる人、他人の気持 ちを推察し対応できる人、と定義されている。自他の情動を認識し意識化することが自制するための前提とされている。そのためには情動の自己認識、あるいは他者の感情を共感する能力が基本となる。感情を表現することができないのは、自己認識できない状態を意味するという。親が子どもに容赦ない懲罰 を与えて育てるのは真の意味での抑止ではない。その場合、子どもは他者への共感どころか情緒不安定で暴力的な人間を育てる結果となるにちがいない。他者と 理解し合えるコミュニケーション、心のふれ合いがなければEQが高まらないことはいうまでもない。要するに、EQを高める人格的基盤は自制と共感にあるとする点で、EQを重視する考え方は岡潔の情緒教育論と異なるところはない。昨年(1999)11月に出版された沢口俊之(北海道大学医学部教授)著『幼児教育と脳』によれば、EQよりも“PQ” (Personal Quotion)?教育がもっと大事と説かれている。

 〈発見と創造に伴う悦び〉

  情緒教育を重視する根拠として、岡潔博士は大脳生理学の科学的な知見をもとに教育論を進めている。先生が自説の根拠としている脳生理学者・時実利彦氏(故人)の著書によれば、人間だけにある大脳前頭葉は情緒・意欲・直観・創造などの働きをもつソフトウェアの場であり、また時間・空間の意識や個性の座でもあ るという。一方、側頭葉は後頭部の認知機能とともに記憶と理解のための情報処理を行なう領野である。但し、前頭葉のコントロールがなければ、側頭葉だけで は衝動的判断になるという。最近の脳生理学は、右脳と左脳にアナログとデジタルの違いがあることを明らかにして いる。但し、これらの大脳の各領野は、意識を持続するための入力があって初めて活動する「場」であることを確認しておかなければならない。時実氏自身も 「ソフトウェアの場」「個性の座」という表現を使っている。その時実氏もまた岡先生と同様に、戦後日本の教育が側頭葉を中心とする詰め込み主義を重視する あまり、創造性を伸ばす前頭葉の発育を抑える結果となっていることを憂慮していた一人であった。日進月歩といわれる脳の研究は、各種の情動と脳内物質の関係など分子生物学による物質的な現象は解明されたが、大脳新皮質の構造と機能の生理学的知見が初等教育に幅広く応用されていない現状に疑問を呈したくなるのは私だけだろうか。

  先生によれば、一瞬にしてパッと全体がわかる直観(仏教でいう無差別智・真智)による発明・発見は、頭頂葉に働きの座があると仮定されている。しかし、心に「無明」という垢や錆が付いていれば情緒が濁り、純粋な直観が働かなくなることはいうまでもない。例えば大脳前頭葉が動物性本能(私利私欲)に占領され てしまうと、いわば鏡がくもってしまうように自由に使えなくなってしまう、と先生は述べている。自我本能を抑止するのは自由意志であり、自由意志は大脳前 頭葉を発動の場としているからである。情緒を無視した偏差値重視の教育は「物まね指数」にすぎないとの指摘もある。ふたたび『日本的情緒』と題するエッセ イの一節には、『動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよく汲むように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある』(11)

  意識の場に欲望が拡大され侵入すると、本来は無色透明な意識が欲望に色づけされたイメージに変化することは明らかだ。先生が説こうとしているのは、意識を 純粋に保つために、本能の侵入と拡大を抑止するべきであるということにほかならない。また純粋な情緒は純粋な意識(本能と切り離された意識)に伴って生ま れるのであって、本能の満足による快楽と区別しなければならないことも明らかである。この情緒を「心の彩り」「悦び」と表現しているのは、決して本能に伴 う快楽や喜怒哀楽の感情を意味するのではない。

 この「きれいな情緒」の概念について先生は、すみれの花を例えとして説明している。『たとえば、 すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それは じっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。これが情緒と見る見方です。情緒として見たばあい、すみれの花はいいなあと思います』(12) し たがって、情緒は生理的現象として説明できない価値判断の基準である。「生きる」とは心臓の鼓動や脈拍ではなく、情緒が生きている主体である。ましてホル モンなどの生化学物質の分子構造や作用機序がいかに精細に解明されようとも、意識の根元が明らかになったわけではない。脳の細胞から意識が分泌されるわけ ではない。それらの生理現象は「生命に随伴した物質現象にすぎない」と先生も明言している。「きれいだなぁ、いいなぁ」と直観するのは物質ではなく心なのである。また先生のいう「心の悦び」とは、決して本能的な快・不快の感情ではなく、生命の充実感であり、真善美の発見や創造に伴う「悦び」にほかならない。

 〈物質主義に偏した自然科学への疑問〉

 明治以後、自然科学一辺倒になった教育への批判は、最後の著書となった講演集『葦牙よ萌えあがれ』の中にも繰り返して主張されている。自身科学者であった 先生の主張は、決して軽視されるべきではない。つまり、日本は明治維新の頃、西洋の侵略を恐れ、それを防ぐために西洋文明とともに物質主義を取り入れた。 戦後、そのイズムが一層強化されて社会通念となり、教育に反映されて今日に至っている。それ故に、『今日の日本人は、大抵、みな物質主義者です。物質主義者はこんなふうに考えます。はじめに、時間、空間というものがある。その中に、自然というものがある。自然は物質である。その一部分が自分の肉体である。その肉体と機能とが自分である。だから、すべて大切なものは、みな物質によって言い表すことができるのだから、説明も又、物質を基礎にしているところまでゆくのでなければ、完全な説明とはみなすことができない。こんなふうにしか考えられないのです。今日の日本人は、みなそうだと思われるが、物質によって説明しなければ納得しない。でなければ、架空のものとしてしまうようです』、『身辺のことのうち、一番手近かなことからはじめると、私、今、眼を開いています。そしてみなさんが見える。眼をふさげば見えない。眼をふさげば見えないというのは、物質現象です。しかし、眼を開けると見えるというのは、これは生きているから見えるのであって、生命現象です。この眼を開ければ何故見えるのか、ということについて、西洋の学問は何一つ教えてくれていない。西洋の学問のうち、この方面を受け持っているのは、自然科学、さらに詳しくいえば医学です。

 医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです』(13)

  先生の言わんとするところは、いのちの原点を注目せよということである。人のいのちについていえば、母親の胎内で数億年の進化の歴史を繰り返して誕生する胎児のもとは受精した一つの卵子である。その後もオトナに成熟するまで心身が発達していく。自然環境や人為的な環境がいのちを支えていることはいうまでも ない。他の動植物についても同様に、元は一つの種からいのちが発育し、ふたたび種となって受け継がれていく。こうしたいのちの神秘を、一つの種に含まれる 遺伝子という物質のみに還元できるだろうか。じつは人の遺伝子や脳細胞にしても、それらを構成する生化学物質はいのちが働くための道具(場)であり、いのちの随伴現象に他ならない。しかも、いのちの働きは本能の発現に止まらない。

 たしかに真善美を求めるのは脳の神経細胞そのものではない。理想を 実現しようとする意志は、決して体内の生化学物質から生まれるわけではない。純粋な意識に伴う情緒によってのみ真善美の価値がわかるのだ。すべてを物質や 本能に還元する見方は、ゆたかな情緒の発育よりも、よりゆたかで便利な経済生活のみに価値を置き、限りなく拡大された欲望の満足を追い求めるばかりである。因みに、ノーベル賞を受賞した脳生理学者・エックルスとペンフィールドは二人とも、最後には、大脳前頭領は意識がはたらく場ではあっても、意識を生じる原因ではないとする心身二元論を信じるに至っている。

  ここで「わかる」ということにも様々なレベルがあると先生は指摘している。感覚的・形式的にわかることから、意味が理解できる段階を経て、全体の中におけ る個の位置と存在意義がわからなければ、何一つ本当にはわからないという。そのためには無私無欲になって純粋意識のパラダイムを拡大する必要があることはいうまでもない。しかも他の哀しみがわかるには、感覚や知性ではなく他者と同じ情緒を共感できなければならない。前述したように、他者の感情がわかること、すなわち思いやりの情緒こそは道義の基礎であるとするのが先生の思想の核心である。

 さらに生命の本質については、『物質的自然を調べてわかるものは大体無生物までであって、生命のことはとうていわからない』(14)との指摘もある。物質的自然を研究するのが近代科学の特質であり、科学は心と 自然を切り離して分析することから出発している。そうした物質主義に偏った自然観が科学技術の進歩をもたらしたことは事実であるが、その代わり無生物の世界しか分からないという限界を超えることはできない。心身の中に自然が含まれているというのが先生の思想であって、その証拠に、情緒のはたらきである純粋 直観(仏教でいう無差別智)がはたらけば、パッと一瞬でわかるのが情緒の世界であり、同様に「立とう」と思えば全身の数百にのぼる筋肉がとっさに統一的に 働くのが生命の世界であるという。もちろん、そうした運動の過程にはコンピューターのプログラムに類比される精妙な運動神経ネットワークの働きがあること はいうまでもないが、最初にプログラムを組むのは神経細胞や遺伝子(あるいは記憶・演算素子)などの物質ではなく、情緒や自由意志からなる心でなければならない。

 要するに先生のいう「情緒」は、さまざまな欲望(拡大された本能)と混合しない純粋意識と同義であり、その意識に伴う透明な悦びを意味している。つまり、芸術の創造や享受、真理の発見、連帯と共生における悦びの情緒にほかならない。 ところが人の知情意は、意識の時間・空間的拡大とともに、混じり合った欲望もまた無限に膨張し、自由な意識の場であるべき大脳前頭葉を占領してしまう。拡大された欲望(無明)に充満した意識は情緒の濁りとなって止まるところを知らない。その結果が、現代社会に見られる物欲、所有欲、権力欲の亡者であり、 それらを手に入れるための金銭欲の止めどない氾濫となって現れている。

 〈欲望の洪水の底に沈む日本〉

 『日本はいかんせん、今、物質観と小我観との洪水の底に沈んでしまっているのである』(15)。すでに三十年前、『日本の現状』の一節にあるように、先生の嘆きは深刻であった。この現実を変革するにはどうすればいいのか、先生の提言に今こそ耳を傾ける必要を痛感するのは私ひとりではあるまい。『いのち(一)』には次のような文章がある。

 『情緒を、できるだけ清くし、美しくし、深くすることです。なかでも深みをつけていく。これが大事です。真・善・美と、やり方は別れていますが、どの道にせよ、ひっきょうそういうふうにつとめるべきなのです』(16)。この提言はいかにも単純のようだが、先生自身の体験と観察が前提にある。『自己』と題する一文では、幼児期の心理について次のように分析されている。前述 した「情緒の目覚めの季節」の内容と重複するが、再確認する意味で少し引用しておきたい。『人の子をよく見ますと、四月生まれだとして、数え年でいいますが、三つまでは童心の時期であって、自分というものはありません。四つになると全身運動の主体としての自分が出て来ます。五つになると感情、意欲の主体としての自分が出て来ます。そうすると自他の区別がつくようになります。普通、人はこれらの自分を中核にしたものを、自分と思っているようです』(17)。

  しかし、それを本当の自分と錯覚してはならない、と先生は注意している。何故なら、それは「生きようとする盲目的意志」であって、意識の発動による「自由 意志」とは別種の本能だからである。したがって、この幼児期に出てくる自分(自我)を抑止するためのしつけが大切となる。自我を抑止しても意識が失われる わけではない。その証拠に、何かに夢中になって自分を忘れるとき、人は童心にかえる状態になるが、そのときにも本当の自己(仏教でいう真我)に発する意識 が働いているからだ。先生が幼い頃に受けたしつけについて、『自分とは何か』の中に次のような回想がある。『私は祖父から「他人を先にして、自分 を後にせよ」という戒律を受けた。無明本能(自我)を抑止せよというのである。ただこれ一つであるが、数えて五つの時から中学四年の時まで厳しくこれを守 らされた。今の数学者としての私を育てるのに一番役立った教育は何であったかと問われるならば,私は躊躇なく祖父の教育だと答えるだろう』。

 『人生の真の目的は向上でなければならない。小我を自分だと思い違いするから、幸福が目的になるのであって、この幸福なら、日のよく当たる縁側に丸くなって眠っている猫の心の中にも見出せるであろう』(18)。

 現代の日本に、先生の祖父のような子どものしつけをしている親があるとは思えない。逆に「自分を先にして、他人を後にせよ」としつけているのが殆どの親だ といっても過言ではない。このような「個人の幸福」とは、換言すれば「欲望の満足」にほかならない。自他の区別がつく五才以後、何よりも大切なしつけは 「人の感情がわかる」ことであり、「思いやりの心」を育てることにあるというのが先生の情緒教育論の要点といえる。

 昭和一ケタ生まれの私は、たまたま戦争中に全寮制の中学校に入学した。極度に食糧が欠乏している環境での集団生活において、否応なしにエゴの醜さを自覚させられるとともに、互いに乏しい食糧を分け合って、同じ苦難に耐えているという連帯感が芽生えていった。それは自分ひとりの満足とは違った連帯の悦びを知る原体験でもあった。

 〈今こそ健全な心身を育てる情報を〉

  ところが現代の世相は、岡潔博士のいう「情緒の濁り」で充満している。すべては所有欲、名誉欲、権力欲そして金銭欲のなせる業と言わざるを得ない。いまや 日本人の前頭葉は、無色透明な意識が枯渇し、欲望で濁り切っているかにみえる。その上、青少年の情緒を濁らせる情報が氾濫している有様である。つまり、本能を刺激し拡大させる情報ばかりが目につく。体の健康を害する商品は規制されるのが当然だが、心の健康を蝕む情報は、言論・出版の自由という名のもとに殆ど野放しにされている。その原因はマスコミの商業主義にもあるけれども、一つには欲望を肯定することを是認している風潮にも原因がある。

 いまや心の健康とは何かという基準さえ見失われていると言わざるを得ない状況である。10年近くまえ(平成2年)のことになるが、政府八省庁が主導する「情報化 月間」20周年記念として、情報化社会と生活をテーマとする論文公募に私の小論が最優秀賞に選ばれたことがある。その主旨は、からだの健康が食物と密接な関係があるように、心が健全に育つために「心の飲食物としての情報」の大切さを強調したものであった。教育は、まさに子どもの心を育てる情報シ ステムに他ならない。情報は心の成長にとって不可欠の食べものだから、有害であってはならないし偏って与えられてもいけない。とくに人体の70%は水分か ら成っているという事実からみて、心にも水分にあたる情報が十分に満たされなければならない。水に等しい情報とは、自我を抑止して純粋な理性を育む基本的なしつけであり、倫理と礼節にほかならない。また、水は無色透明であり、つねに流動するという意味で、純粋な意識が循環していなければ健康な精神状態とは いえない。きれいな清水のような情報によってきれいな情緒が育つのである。

 さらに、体は鍛練すればするほど強くなり丈夫になるように、強靱な精 神力・忍耐力を育てるには心を鍛えることが大切だ。心の鍛練とは、単に受験のために知識を詰め込んだり、偏差値の高低だけを指標とすることではない。健康体は消化・循環・排泄の機能が活発であるように、健全な精神を育てる教育とは、情報を鵜呑みにするのではなく、物事の価値を見分ける判断力やイメージを呼 び起こす想像力を育てることを意味する。美と醜、真実と欺瞞を判別し、悪に対する抵抗力をつけるには、本当に美しい情緒にあふれた情報を十分に与えること だ。体は腐敗した食品を口に入れた場合、下痢や腹痛の症状を起こして腐敗物を体外へ排泄しようとする。健康体の肝臓には有毒物を解毒する機能がある。しかし、心の食べものとしての情報が有毒か否かは自ら判断するほかはない。だからこそ、真善美の価値がわかる直観、すなわち清水のような意識と情緒が必要なの だ。それは決して快・不快や利害打算の本能的自我ではなく、真善美のなかに心の悦びを感じる理性と感性を育むことにほかならない。

 本能は生きていくためになくてはならない。生きるために生物はすべて本能を与えられている。ただ人間の場合、他の動物にはない意識の場として大脳前頭葉が備わってい る。それ故に意識は時間・空間に拡大され、過去と未来、地球全体に広がるイメージとして無限にソフトウェアを創造することができる。じつは地球意識にめざ めた連帯と共生にこそ本当の悦びがあるのであり、そのためには岡潔博士が憂国の情に駆られて説いたように、人の悦びや悲しみがわかる感性と、自我を抑止し て「他者を先にし、自分を後にする」情緒を育てる教育へ転換するほかに道はない。

 繰り返すようだが、岡潔博士が言わんとするところは、教育の理 想とするべきは真善美の価値がわかる人格を育てることにある。「善」とは欲望や打算に汚れた自我を抑止した行為であり、そのとき純粋意識がはたらいて直観 的に「真」を見出すことができ、あるいは「美」を求めて悦びの情緒を感じ取ることができるのだ。日本の伝統には、芸術や宗教や歴史のなかに美しい情緒が連 綿と流れている。そのような伝統を掘り起こし、未来に受け継いでいくことも大切に違いない。

 以上の論点からみれば、最近の青少年が起こす様々な事件の恐るべき真相が浮かび上がってくる。これらの事件は、初めにふれたように、戦後五十余年の教育の歪みが累積し噴出した結果であることは間違いない。〈了〉

 〔岡潔著・引用文献〕

 『岡潔集』(全五巻・学研版・1969)は巻数のみ記す。
  1.『第一巻』205頁「春の草」より。
  2.『第二巻』141頁「春風夏雨」の内「六十年後の日本」より。
 3.『葦牙よ萌えあがれ』(心情社・1969)内に収録。
 4.『心の対話』(ソノサービスセンター・1968)44頁。
 5.『第一巻』10~11頁「春宵十話」より。
 6.『昭和への遺書』(月刊ペン社・1968)191頁。
 7. 前出書『葦牙よ萌えあがれ』120頁。
 8.『第二巻』20~29頁「春風夏雨」の内「無明」より。
 9.『第二巻』37頁「春風夏雨」の内「自己」より。
 10.『第一巻』81・83頁「私の受けた道義教育」より。
 11.『第一巻』74頁「日本的情緒」より。
 12.『風蘭』27頁「いのち」より(講談社・1964)
 13.前出書『葦牙よ萌えあがれ』12・13頁。
 14.『第四巻』55頁「教育を語る」より。
 15.『心といのち』(大和出版・1968初版)238頁「日本の現状」より。
 16.前出書『心といのち』106頁「いのち(一)」より。
 17.前出書『心といのち』217頁「自己」より。
 18.前出書『心といのち』148・149頁「自分とは何か」より。

 〔引用文献以外の岡潔著作〕(奈良県立図書館蔵書目録による)
*『紫の火花』(朝日新聞社・1964)
*『対話・人間の建設』小林秀雄共著(新潮社・1965)
*『月影』(講談社・1966)
*『日本のこころ』(講談社・1968)
*『日本民族』(月刊ペン社・1969)

 〔参考文献〕
*時実利彦『脳の話』(岩波新書・1962初版)
*河上亮一『学校崩壊』(草思社・1999)
*W.ペンフィールド『脳と心の正体』(塚田・山河訳、法政大学出版局・1987)
*D.ゴールマン『EQ=こころの知能指数』土屋京子訳(講談社・1996)
*沢口俊之『幼児教育と脳』(中公新書・1999)


【松岡正剛の「岡潔春宵十話」】
 「松岡正剛の岡潔の春宵十話」を転載させていただく。
 この『春宵十話』が毎日新聞に連載されていた10日間、高校から大学に入る途中の時期にあたっていたぼくは、九段高校がある飯田橋から中央線・京浜東北線を乗り継いで桜木町に着くと、しばらく横浜をほっつきまわるということをしていた。このことについては第894夜にもちょっとふれたことである。野毛、黄金町、ボートハウス、本牧はこのとき体におぼえた。あるとき、古めかしい開港記念会館の講堂で小林秀雄の講演が開かれていて、そこに入りこんだ(ひょっとしたら文芸春秋の講演会か何かで、そうだとしたら申し込み制で、事前にハガキでも出していたのかもしれない)。

 小林秀雄は驚くべき人物だった。舞台袖から演壇にゆっくり歩いてきてそこに立つや、いま茶碗で冷や酒をぐっと一杯ひっかけてきたんだが、こういうときに冷や酒で喉を潤しながらぼくが喉ごしに考えていることなど、みなさんにはどういうものかおわかりにならないでしょう。いや、茶碗ひとつに人生の主観が動くということがあるということもなかなかわからないでしょう、そんなことを言って、話を始めるのである。

 ぼくは呆気にとられて、この男についてはいつか十全に立ち向かわなければ敵わないと覚悟したものだったのだが、その講演の半ば、みなさんは岡潔という数学者を知っているか、あの人は日本のことがよくわかっている人だ。それは、日本人が何を学習するのがいいかということをよく知っているからだと言った。これはぼくを狂喜させた。毎日新聞の岡潔の連載に言い知れない満足を感じていたからだった。

 岡潔の専門は多変数解析函数論である。京都帝大を出てパリ大学のポアンカレ研究所に通っていたころに、この研究に生涯にわたってかかわろうと決めた。いろいろ研究するうちに、どうも数学は愛嬌がない、急につまらなくなるところがある。理屈を動かしているときに何かが欠けていくという感じがしてきた。それなのに数学にかかわっていること自体はおもしろい。これはどこか自分の考え方のほうを変えなければならないと思い始めた。奈良女子大教授時代のことである。

 こうして「情緒」という問題が浮上した。岡はしだいに自分の数学は「情緒を数学にする」ということだと考えるようになる。いったい情緒とは何か。情緒の中心からどんな数学が出てくるのか。そんなことばかり考えるようになった。この噂を聞きつけた当時毎日新聞奈良支局にいた松村洋が、何度かにわたって岡にエッセイのようなものを書かないかとくどいたのである。ところが岡は、自分は世間とは没交渉しているので、またそれで研究時間がおかしくなるのも困るからと、何度も固辞した。そこを粘っているうちに、そこまでおっしゃるなら口述ならかまいませんということになって、陽の目をみたのが「春宵十話」の新聞連載だった。

 題名は岡がつけたようだが、文章は松村がまとめた。そのせいか、たいそう生き生きしている(寺田寅彦などを例外として、日本の科学者は文章に風味がない)。本書はそれからしばらくたって、岡が他のところにも口述したり書いてみたりしたものを松村が一冊にまとめたもので、まさに春の宵の語り口になっている。その後、岡の随筆はいろいろ出回ることになり、そのつど『紫の火花』(朝日新聞社)、『風蘭』『春の雲』『月影』(講談社)といった風情のある心ニクイ標題がついてはぼくを歓ばせてきたのだが、その印象は最初の『春宵十話』とすんぶん変わらない。最近はこれらを再構成して『情緒と創造』(講談社)という一冊も出ていて、これなら入手しやすいだろうが、やはり『春宵十話』が最初の春の宵の匂いなのである。そういう事情はともかくとして、以下にこの数学者がどんなことを考えていたのかを案内してみる。多少は岡潔っぽく、そして少々は小林秀雄ふうに。

 私はなるべく世間から遠ざかるように暮らしているのだが、その私がこの春の宵に急に何かを話そうと思ったのは、近頃のこの国の有様がひどく心配になって、とうてい話かけずにはいられなくなったからである。太平洋戦争が始まったとき、私は日本は滅びると思った。ところが戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。そのかわり死なばもろともと思っていた日本人が我先にと競争をするようになった。私にはこれがどうしても見ていられない。そこで自分の研究室に閉じこもったのだが、これではいけないと思いなおした。国の歴史の緒が切れると、そこに貫かれていた輝く玉たちもばらばらになる。それがなんとしても惜しいのだ。

 たとえばいま、国も人もあまりに成熟を急ぎすぎている。何事も成熟は早すぎるより遅すぎるのがいいのに決まっているのに、これではとんでもない頓珍漢である。また、どうも直観を大事にしなくなっている。直観というものは直観にはおわらないもので、直観からそのまま実践が出てくることがある。直観から実践へというと、すぐに陽明学のようなものを想定するかもしれないが、ああいうものは中国からきて日本化したのではなく、もともと昔から日本にあったものなのである。

 善悪の区別もつかなくなってきた。日本で善といえば、見返りも報酬もないもので、少しも打算を伴わないことである。そこに春泥があることを温かみとして沛然と納得するごとく、何事もなかったかのように何かをすること、それがおこなえればそれが善なのだ。それから、これは西洋でも相当におかしくなっているのだが、人を大事にしていない。人を大事にしないと、人とのつながりに疑心暗鬼になっていく。人と人のつながりなど、最初につながりがあると思ったら、そのままどこまでも進むべきなのだ。どこかで疑ったらおしまいなのである。なぜ人とつながれないかというと、「ある」ということを考えちがいをしているからなのではないか。それが心にも及んでいる。

 われわれはふだん、自然のほかに心があると思っている。その心はどこにあるかというと、肉体のどこかにあるらしい。脳の中かもしれない。しかし、その脳も肉体である。その肉体は自然の一部だから、それなら心は自然の中にあるということにもなる。私も50歳くらいにはやっとそのように考えられるようになっていた。ところがあるとき、その逆を考えた。心は自然の中にあるのではなくて、自然が心の中にあると思ってもいいのではないか。その後、私はこの考えをいろいろ確かめ、そう考えるほうが正しいのではないかと思い始めた。

 そもそも自然科学は自然の存在を主張することができない。数学は自然数の「1」が何であるかは知らない。数学はそこは不問に付すものなのである。数学の出番はその次あたりからで、自然数のような性質をもったものがあると仮定しても矛盾はおこらないだろうかと問うところから、数学になる。だから、何かが「ある」と思うには数学や科学の力ではなくて、心の力がいる。薔薇やダリヤがそこにあるのは、そう思うからである。春の泥を春の泥だと感じるのは、データによるのではなく、そのように春を受け入れた私があるからなのだ。私には肉体があると感じるのも、そう思ったからである。ただし、この二つの「ある」はその性質がちょっと異なっている。たとえば春が「ある」と思うのと、数が「ある」と思うのとでは、何かがちがっている。ここに、ささやかに冴えた「ある」と、何かをあえて打ち消して「ある」を気がつくという、二つの「ある」が分かれる。

 数学一筋だった私は、最初のうちはあえて打ち消してみてから出てくる「ある」をずいぶん論理的にも勉強してみたが、そのうちにむしろ、なんだかありそうな気がするという「ある」のほうが立派だと思えてきた。なんだかありそうななどというのははなはだ曖昧であるようだが、この曖昧を“心のあいだ”に入れられるかどうかが肝腎のことだったのである。人というのもそういうもので、人とのつながりはあると思う以外につながりは生まれないはずなのだ。春の野のスミレは、ただスミレのように咲けばよいのである。こうして私はそのように感じられる中心には「情緒」こそがあると思うようになった。

 情緒を問題にするにあたって、厄介なのは「自分」ということであろう。日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。仏教では、この「わからない」という知覚の一レベルのことを「無明」(むみょう)というけれど、この無明を連発するようになるようなら、その人もその人が所属する社会も、混乱するか、自分主義の社会になる。たんに「わからない」と言わないで、「無明」に謙虚にむきあって「無明の明」を知るべきだ。

 私は孫をもつようになって、いったいどのように「自分」が発生するのかを観察してみた。生まれて3つくらいになるまでは、自分というものはない。4つになると運動する主体としての自分を少し意識するようになるものの、自他の区別はしていない。それが5つになっていよいよ感情や意欲の主体としての自分を意識し、自他の区別を少しもつようになる。この自他の区別の直前までの状態をとりあえず「童心」ということにしておくと、日本の教育の問題は、このごく初期の「自分の発生」をのちのちまで引っ張ったり、まわりが助長しすぎて、それを「個性」などと勘違いして褒めたたえることにあるようなのである。しかし、そういう自分が発生したのちも童心はどこかにきっとあるはずで、童心というのは、伏せているものがはじけるように出てしまうものなのである。満月を見ているとおのずからこみあげてくる微笑のようなもの、幾つになっても蕾みが膨らむようにはじけて出てくるもの、それが童心である。これがなくては発明も発見もない。

 私はこれまで11の数学論文を書いてきたのだが、そのいずれの場合も、その研究の途中、どこかで夢中に童心状態になっていたことを確認できる。必ず、伏せられていたものが本当に明るみに出てきてくれたのだ。ところがいまの風潮は、都合の悪いことだけを伏せるようになっている。みんな、都合のいいことしか喋らない。いや、それしか喋れない。これはいったいどうしたものか。

 私は犬や猫を飼ってみて、たくさん教えられたことがある。なかでも教えられたのは、や猫にとっては飼い主がそこにいることが大事だということだ。かれらは飼い主を心底、信じている。この確信がすばらしい。これをどうしたら人にもあてはめられるのだろうか。そこに信じられる人がいるということが、立派な「ある」なのだと了解できるようになるにはどうしたらいいか。そこで私は考えたのである。これは「心の紐帯」というもので、それをこそ教育の根底におくべきだということを。そして、この「心の紐帯」を信じられるようにするには、やはり「情緒」をこそ教育すべきであろうということを。もし、このような情緒の教育ができるならば、それが日本の「心の夜明け」というものではないか。

 私は、さっそくこの「紐帯」や「夜明け」の問題に取り組んだ。そして、いくつかの発見をした。たとえば、生後16カ月の孫が手に何かを持とうとするとき、1つのものを持っている場合は、次のものを持たそうとすると、最初のものを手放してしまうことに気がついた。口の中に何かを入れているときも、次のものは最初のものをぷっと吐き出してからでないと、入らない。これは自然数の「1」の練習であると思った。それまで私は順序数と自然数は似たようなものだろうとタカをくくっていたのだが、順序数がわかってから自然数に進めるのだという見当がついてきた。もっと観察していると、自然数の「1」がわかるには実にさまざまな全身での確認をしている。体じゅうを動かして、やっと「1」が手に入るらしい。この瞬間に情緒が動いたのである。まさに童心の発動だ。そうだとすれば、この童心「1」がフルに動いて作動した情緒というものを、なんとか子供になっても青年になっても、また大人になっても、作動できるようにすればいい。

 私は数学をやってきて、独創というものがつねに「知」と「未知」の“あいだ”にだけおこることを知ってきた。この“あいだ”に行くには、第1には「知」をもっと動ける状態にすることと、第2には「未知」を何かで感じられるようにしておくという、この二つのことが必要になる。知を動ける状態にしておくのは学者や研究者や思想家の仕事であろう。一方、未知を感じられるようにしておくというと、そんなこと変じゃないか思われるかもしれないが、いや、そんなことはない。変じゃない。道元や芭蕉はそのことばかりに賭けてきた。「たとへば東君の春に遭ふが如し」と道元は言った。芭蕉は「梅が香にのっと日の出る山路かな」と詠んだ。ここには情緒だけがはたらいて未知に向かい、大自然の春や日の出をすっと掴まえている。こういうことは、いくらだってできるわけなのだ。芸術家や表現者はこのような仕事を研ぎ澄ましてきた。

 しかしときには、この二つの役割は入れ替わるところがあったほうがいい。そのときこそ、新たな情緒が動くことになる。入れ替わりに情緒がはっと動く例としては、寺田寅彦が連句をあげた。たとえば、

   草むらに蛙こはがる夕まぐれ(凡兆)
   蕗の芽とりに行燈(あんどん)ゆりけす(芭蕉)
   道心のおこりは花のつぼむ時(去来)
   能登の七尾の冬は住まうき(凡兆)

 これは俳諧連句にいう「匂ひ」の「移り」というものである。こういうふうに情緒が人を介して動くことを、これからの教育ははたさなければならないのである。

 ざっとこんなふうに岡潔は“情緒の数学”とでもいうものを自在に語ってみせたのだった。むろんもっといろいろのことを書いている。とくに教育については痛烈だ。水道方式が一面的なこと、暗記はダメなのではなくてむしろ中学2年から高校1年までのあいだに集中してやらせたほうがいいこと、義務教育の学科は「こころ」科、「自然」科、「社会」科の3つで十分であること、勉強をしたければアルバイトをやめて貧乏になること、記憶は季節はずれにしては効果がないこと(タイミングを選ぶということ)、多読こそ速読の秘訣であること、そういうことが次々に提案されている。その一方で、情緒をめぐる多くの挿話や発想が語られる。たとえば文化についても、こんな見方からずばりと切りこんでくる。「文化というものは理想がなければ観念の遊戯と区別がつきにくい。この理想は一口にいうと、心の故郷をなつかしむというような情操を欠いてはわからない」。もうひとつ紹介しておく。これは『紫の火花』からである。こういうものだ。

 最近、東京と京都でフランス美術展が開かれたが、テレビでこれを批評していて、ある人の線が力強いとか、ある人の絵は構成が大胆であるとか、ある絵は調和がとれていると言っているのを聞いて、私は呆れてしまった。それでは意志の芸術ばかりを評判しているだけではないか。私がほしい芸術や調和はそんなものではない。いかに小さくても麦は麦、いかに大きくても雑草は雑草であるような、そういうものが見たい。しかしもっというのなら、本当の調和は午後の日差しが深々としていて、名状しがたいようなもののことなのだ。このことがわからずに、芸術はなく、平和というものもわかるはずがない。日本では戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなことはかたちだけのことで、内容がない。調和のあるものこそが平和なのである。

 如何ですか。これが岡潔なのである。その後、岡は小林秀雄と対談をして、なんとも絶妙な「無明の明」をめぐったものだった。まさに名人と達人の会話であった。しかし、これらを名人芸や達人芸としてしまっておくのは、もうやめたほうがいい。われわれは極上のものを足元の春泥の温かみにするときにいよいよさしかかっているというべきなのである。では、明日の春の宵は未詳倶楽部で美輪明宏の“紫の火花”を見るために稽古場に行くことにする。これまた得がたい春宵十話になることだろう。


【国際政治学者・藤井厳喜氏の岡潔論】
 「何故、今、岡潔なのか (藤井厳喜 「月刊日本」2月号)【「明るい憂国の士」投稿】」を転載しておく。
 ここ数年来、岡潔先生の本が再び人々に読まれるようになってきた。小林秀雄との対談『人間の建設』は、新潮社の文庫に入り、版を重ねている。既に、入手が難しくなった本の復刻もなされ、再び、岡潔が注目されるようになってきた。ことに、平成23年3月11日の東日本大震災以降、国難を自覚した多くの人々が、日本再興の指針を求めるベく、岡先生の教えから学ぼうとしているように見受けられる。かつての本の読者が再び旧著を紐解くということもあろうし、岡潔の名前を全く知らなかった若い人々が、岡潔を発見するという事もあるだろう。いずれの場合にしろ、岡先生の本を読み続けてきたものにとっては、歓迎すべきことである。

 外国人による、また日本人の手になる日本文化論や日本人論はあまた存在する。日本が経済的繁栄の頂点にあった時、日本人論が一つのブームであった。自らの本質は何かを忘れてしまった日本人は、その本質を再発見する為に、日本人論に惹かれていったのであろう。現在、日本は停滞と苦難の時期にある。この難関において、自己の本質を極めることなしに、再生を実現することは難しい。そういった心境から、岡潔本に向かう人々の数が、着実に増えているのではないだろうか。

 岡先生は、日本民族の本質を突き詰めて考えられた方である。儒教や仏教や武士道すら超越して、「日本民族とは何か」を考え抜かれた。又、岡先生の生き方とその残した業績自体が、真の日本人の有り様そのものを具現されている。岡先生の生き方を見ることにより、我々は日本人としての生き方を学ぶことが出来るのである。世に蔓延している誤解の1つは、岡先生が日本人を絶賛していたという説である。岡先生は、本来の日本民族を絶賛はしたが、現代の日本人に対しては厳しい叱責の声をあげられた方である。 本来の在り方から離れ、堕落した現代の日本人を最も厳しく叱ったのが岡先生であった。

 又、先生は、日本人の陥りがちな欠点を指摘することも躊躇されなかった。日本人はしばしば、衝動的判断に身を任せることがある。この衝動的判断は、本来の無私の行動と似て非なるものである。「武士道」の中には、この衝動的判断を無私の行動として推奨するようなところがあり、先生はこれを鋭く批判されている。又、日本人は、付和雷同する悪い性癖がある。「和して同ぜず、同じて和せず」という欠点がある。本当に「和を以て貴しと為す」とする心ではなくして、集団心理に押されて付和雷同してしまうのである。

 岡先生は、満州事変以降、日本が自滅の道に陥ってゆくことを当時から見抜かれており、それを何とか押しとどめたいという心境であった。決して、好戦主義者でないのは勿論のこと、戦前の日本の全てを肯定されていたわけでもないのである。「戦後民主主義」を全面肯定するのは愚かなことであるが、同時に、「戦前の日本を全て良し」とするのも同様に誤った考えである。明治維新は、西洋列強からの侵略を免れる為にやった応急工事であり、維新の中にそれ以降、日本を滅亡させてしまうような危険な要素が混入していたことも鋭く指摘されている。岡先生は、日本人を励ますと同時に、叱ってくれた方である。この1点を忘れずに、岡先生の御遺作から学んでゆきたいものである。(国際政治学者・藤井厳喜)





(私論.私見)