岡潔の教育論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).4.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、岡潔の教育論を確認する。「阿修羅Ψ空耳の丘Ψ24 」の「岡潔博士の憂国の書を読み返す=植田義弘」、「情緒と幼児教育」その他を参照する。岡潔は、1960年代(昭和37〜44年)、戦後の教育のあり方について憂国の書を次々と世に問うた。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


 「阿修羅Ψ空耳の丘Ψ24 」の「岡潔博士の憂国の書を読み返す=植田義弘」は次のように述べている。

 岡潔博士の教育論の独創性は、自らの人生経験の内省と二人の幼い孫の発育ぶりの観察に裏打ちされた数学者らしい明晰さにみられる。子どもの内面的な生い立ちには、年齢に応じて「情緒の目覚めの季節」があり、その季節に適した種を蒔かないと発育しないのは植物の発芽・成長に等しいという。

 以下『風蘭』の内「教育はどうすればよいのだろう」と『昭和への遺書』に収められた「光の陣備え」と題する教育論の要点を述べれば、道義教育は数え年五つから始めるべきである。人の人たるゆえんは、自他の区別がわかり他人の感情がわかることにある。その頃から自分だけでなく人を喜ばせることができるようになる。一方、喜怒哀楽の感情を子どもの人権や自由と錯覚して放置すると、自分本位の衝動的判断しかできない人間に育ってしまう。人らしくない感情・我欲を恥ずかしいと感じるしつけが欠かせない。

 人の悲しみがわかるのは小学三、四年生頃からで、人が悲しむような行為をにくむ気持ちが正義心の始まりとなる。とにかく小学生の頃までは、情緒のできあがる時期であることを重視しなければならない。幼い頃からの男女の違いも無視できない。女の子はお人形やままごと遊びに見られるように、坐って空想あるいは情緒の世界に浸るのが好きである。それに比べて、男の子は乗物のおもちゃや棒きれで運動に身を任せるのが好きで、それぞれの特性が歴然としている。

 数え年五、六才頃は文字を機械的に覚える時期であり、六つの頃から集団的に遊ぶようになり社会性が芽生える。とともに、知的興味が最初に出てくるので、その芽を摘み取らないことが大切である。努力して記憶できるようになるのは小学五年からで、その頃から歴史・地理・理科などを教え始めればよい。但し、小学校で社会科を教えるのは無茶である。自己批判力ができる前に社会や歴史を批判することを教えるのは、他人がみな悪いと思い込むような冷たい心に育つ恐れがある。

 『教育は何よりも人の子の心の底を温かく保つことに留意しなければならぬ。そうしないと、人の子は人もものも愛せなくなってしまうのである。人を愛せなければ人でないし、学を愛せなければ学は教えられない。後々創造が起こるのは、そのものを愛するからである。歴史家も日本民族の歴史は日本民族を愛するが故に調べるというのでなければならぬ』(.『昭和への遺書』、月刊ペン社・1968)191頁)。
 『情緒が人そのものだから、これを十分に清く、豊かに、深く育てなければいけない。しかし、今は、情緒中心に育てるということを忘れている。つまり、感情、本能を抑止することを教えないから、情緒がでてくるはずがないのです。戦後、日本が取り入れたデューイの教育学にそんなものはありはしない。欲情本能を抑えること、そして、情緒を大切に育てるということが大事です。特に、お母さん方は、その情緒を清く豊かに教育することです。そうすれば情緒の現われとして出てくる知情意は、全面にわたって間違いなく発育する。……』(『情操教育』)8.『第二巻』20〜29頁「春風夏雨」の内「無明」より。
 『もし人がその自我本能を全然抑止しなかったならば、欲情や本能がその人を支配してしまう。しかも節度がないから、獣類よりも一層悪いものになる。今しているように、自我はお前の主人公だから、大切にして、そのいうとおりにせよ、と教えていると、百八煩悩や五情五欲がいくらでもはいりこんで、その自我をふくらませるから、際限なく悪いものになり得るわけである』9.『第二巻』37頁「春風夏雨」の内「自己」より。

 先生の言葉によれば、人には「生きようとする盲目的な意志」があり、その本能を先生は仏教の言葉を借りて「無明」(むみょう)と表現している。心理学では情動またはエゴと呼ばれる概念がそれに当たる。先生の「無明」についての見方は次のように要約できる。
 ──自分の無明は見えないし、無明は知性をダメにする。知性が働かない以上は正しく物事を判断することができない。無明はまた本能的な満足を求め、他者を無視して自分の意志を通そうとして行動する。無明を放置すれば、真善美の価値に対して無関心となり無知となる。しかも人間は無明を自分と錯覚し、無明を満足させることを「生きる」ことと錯覚している。無明の恐ろしさに全く警戒を忘れているのが戦後の日本の状況である。無明を生み出す本能が本当の自分ではない。無明を退けて進むところに人間として「生きる」価値がある。純粋な情緒を濁すのも無明にほかならない。
 『動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよく汲むように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある』(11)11.『第一巻』74頁「日本的情緒」より。

 『今日の日本人は、大抵、みな物質主義者です。物質主義者はこんなふうに考えます。はじめに、時間、空間というものがある。その中に、自然というものがある。自然は物質である。その一部分が自分の肉体である。その肉体と機能とが自分である。だから、すべて大切なものは、みな物質によって言い表すことができるのだから、説明も又、物質を基礎にしているところまでゆくのでなければ、完全な説明とはみなすことができない。こんなふうにしか考えられないのです。今日の日本人は、みなそうだと思われるが、物質によって説明しなければ納得しない。でなければ、架空のものとしてしまうようです』『身辺のことのうち、一番手近かなことからはじめると、私、今、眼を開いています。そしてみなさんが見える。眼をふさげば見えない。眼をふさげば見えないというのは、物質現象です。しかし、眼を開けると見えるというのは、これは生きているから見えるのであって、生命現象です。この眼を開ければ何故見えるのか、ということについて、西洋の学問は何一つ教えてくれていない。西洋の学問のうち、この方面を受け持っているのは、自然科学、さらに詳しくいえば医学です。医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです』(13)13.前出書『葦牙よ萌えあがれ』12・13頁。

 『心といのち』(大和出版・1968初版)は次のように記している。
 『日本はいかんせん、今、物質観と小我観との洪水の底に沈んでしまっているのである』(同書「日本の現状」)。
 『情緒を、できるだけ清くし、美しくし、深くすることです。なかでも深みをつけていく。これが大事です。真・善・美と、やり方は別れていますが、どの道にせよ、ひっきょうそういうふうにつとめるべきなのです』(同書『心といのち』)。
 『人の子をよく見ますと、四月生まれだとして、数え年でいいますが、三つまでは童心の時期であって、自分というものはありません。四つになると全身運動の主体としての自分が出て来ます。五つになると感情、意欲の主体としての自分が出て来ます。そうすると自他の区別がつくようになります。普通、人はこれらの自分を中核にしたものを、自分と思っているようです』(同書「自己」)。
 『私は祖父から「他人を先にして、自分を後にせよ」という戒律を受けた。無明本能(自我)を抑止せよというのである。ただこれ一つであるが、数えて五つの時から中学四年の時まで厳しくこれを守らされた。今の数学者としての私を育てるのに一番役立った教育は何であったかと問われるならば,私は躊躇なく祖父の教育だと答えるだろう』『人生の真の目的は向上でなければならない。小我を自分だと思い違いするから、幸福が目的になるのであって、この幸福なら、日のよく当たる縁側に丸くなって眠っている猫の心の中にも見出せるであろう』(同書「自分とは何か」)。

 〈今こそ健全な心身を育てる情報を〉

 純粋な意識が循環していなければ健康な精神状態とはいえない。きれいな清水のような情報によってきれいな情緒が育つのである。さらに、体は鍛練すればするほど強くなり丈夫になるように、強靱な精神力・忍耐力を育てるには心を鍛えることが大切だ。心の鍛練とは、単に受験のために知識を詰め込んだり、偏差値の高低だけを指標とすることではない。健康体は消化・循環・排泄の機能が活発であるように、健全な精神を育てる教育とは、情報を鵜呑みにするのではなく、物事の価値を見分ける判断力やイメージを呼び起こす想像力を育てることを意味する。美と醜、真実と欺瞞を判別し、悪に対する抵抗力をつけるには、本当に美しい情緒にあふれた情報を十分に与えることだ。体は腐敗した食品を口に入れた場合、下痢や腹痛の症状を起こして腐敗物を体外へ排泄しようとする。健康体の肝臓には有毒物を解毒する機能がある。しかし、心の食べものとしての情報が有毒か否かは自ら判断するほかはない。だからこそ、真善美の価値がわかる直観、すなわち清水のような意識と情緒が必要なのだ。それは決して快・不快や利害打算の本能的自我ではなく、真善美のなかに心の悦びを感じる理性と感性を育むことにほかならない。

 
本能は生きていくためになくてはならない。生きるために生物はすべて本能を与えられている。ただ人間の場合、他の動物にはない意識の場として大脳前頭葉が備わっている。それ故に意識は時間・空間に拡大され、過去と未来、地球全体に広がるイメージとして無限にソフトウェアを創造することができる。じつは地球意識にめざめた連帯と共生にこそ本当の悦びがあるのであり、そのためには岡潔博士が憂国の情に駆られて説いたように、人の悦びや悲しみがわかる感性と、自我を抑止して「他者を先にし、自分を後にする」情緒を育てる教育へ転換するほかに道はない。

 繰り返すようだが、岡潔博士が言わんとするところは、教育の理想とするべきは真善美の価値がわかる人格を育てることにある。「善」とは欲望や打算に汚れた自我を抑止した行為であり、そのとき純粋意識がはたらいて直観的に「真」を見出すことができ、あるいは「美」を求めて悦びの情緒を感じ取ることができるのだ。日本の伝統には、芸術や宗教や歴史のなかに美しい情緒が連綿と流れている。そのような伝統を掘り起こし、未来に受け継いでいくことも大切に違いない。以上の論点からみれば、最近の青少年が起こす様々な事件の恐るべき真相が浮かび上がってくる。これらの事件は、初めにふれたように、戦後五十余年の教育の歪みが累積し噴出した結果であることは間違いない。〈了〉

 「岡潔の教育はどうすればいいのだろう、親のしつけ(躾)」を転載する。
 14年まえ、この奈良女子大に勤め始めたころ、男・女性がずいぶんちがっているということに気づいて、どう教えればよいかについてよく研究しました。10年ぐらいまえになるでしょうか。それと同時に、子どものおいたちが、人の子の内面的なおいたちが、ひじょうにおもしろいものだということがわかってきたのです。それで、そのころ数年、小さな子どもをよく観察しました。乳母車に乗った四つの女の子が、「嫣然と笑う」のに驚いたのもそのころです。また、六つぐらいのときは、男・女性をあまり問わずに寄って遊ぶようですが、六つの女の子が、はっきりうそ泣きをして見せるのを見て、六歳にして女性はすでに俳優的天才を表すのか、と感心したのもそのころです。人は、男・女性に関するさまざまなことを、さまざまな経験によって知るのではなく、情緒的に、すでに知りつくしていることを、単に経験によって、具体的に知るだけのことなのです。教育者は、こういうことを充分よく見て、しかるのち共学教育をするならするでやっていただきたい。三つまでは、大自然にまかせきりにして、それを傍観しているより仕方がないのですが、四つからは、すこし大自然の教育に助力し始めたほうがよいと思うのです。それができるから、したほうがよいと思うのです。
 助力はどのようにしてするか。

 時実利彦さんの『脳の話』というのが岩波新書で出ていますが、それによると大脳というのは脳幹部もはいるのです。大脳の表面は、だいたい専門にこまかく分けられてしまっている。しかし、大脳の働きのうちで、総合的な働きが大事である。それで、共通の広場がなくては困る。こういう見方から、共通の広場が重要になってくるのです。これは、大脳前頭葉と、大脳側頭葉との二つになります。二つといっても、側頭葉は左右に分かれていますが、だいたい同じことをつかさどり、また連絡もついています。この前頭葉と側頭葉とはどういう総合的な働きをしているかというと、側頭葉は記憶・判断をつかさどり、前頭葉は側頭葉に命令すること、および感情・意欲・創造をつかさどるのです。この記憶もですが、とくに判断が問題になります。わたし自身は、大脳前頭葉の命令なしに、側頭葉だけで判断したという例は見当たらない。しかし、時実さんの本にこう書いてあるのだからできるのでしょうし、また、じっさいいまの学生はそれをやっています。

 ところで、大脳前頭葉は、これを取り去っても人は死にません。しかし、取り去ると人は衝動的生活しかできなくなります。それで、大脳前頭葉の命令なしに、側頭葉だけでする判断を衝動的判断といいます。この衝動的判断というのは、一つの行為です。この行為は、のちに述べますが、古人のよくいった修羅の行為です。この行為それ自体が修羅の行為であって、人のすべきことではないのです。

 ところが、この衝動的判断は、四つになるとすでに出ます。そこで、著しく悪いものだけは、取らなければいけない。ことに、憎しみに基づく衝動的判断、これは絶対に取らなければいけません。それから四つの後半にもなれば、ねたみ──このねたむという行為は衝動的判断です。これはかなり普遍的で、そして悪質なものです。とくに女の子に多いのではないかと思います。これは取らなければいけない。つまり、そういった衝動的判断が出たら、それを抑止することを、その子の大脳前頭葉にさせなければいけない。大脳前頭葉は側頭葉に命令することができます。ですから、側頭葉だけの判断を抑止することができます。この抑止するという働きは、衝動の抑止だけではありません。それはのちに述べます。

 抑止するという働きが、大脳前頭葉の固有の働きです。この力が強くなればよい。力が強くなるということが大事なのです。それには、もっとも悪質なものを選んで、それを抑止することを躾ければよろしい。で、四つでは衝動的判断のうち、悪質なものを抑止することを躾けなければいけない。生まれてからだいたい四つになるまでは母親の受け持ちですが、四つのころは、父母共同の受け持ち、そして五つから七つぐらいまでは、父の受け持ちです。はっきりこう仕分けなければいけないというのではありませんが、そうすることが望ましいと思うのです。とくに、三つまでの子に母が欠けているということは、その子にとってひじょうに不幸なことだと思います。できるだけをれを補うことを、くふうしなければいけないでしょう。

 
四つの躾は申しましたが、五つはどうするか。五つになると自他の区別がわかります。自分をさきにし人をあとにする、というような衝動・感情・欲望、これらをみなおさえなければいけない。一口にいえばそうです。ぜひおさえなければならない衝動を抑止することは、すでに四つから始めていますが、五つからは、これを全体におよぼすのです。感情・欲望については、これらのうち人らしくないものは抑止します。

 では、人らしくないものにどういうものがあるかというと、これは古人のいった六道を取り入れるのが便利です。六道には四悪道があり、これは修羅・畜生・餓鬼・地獄の四道です。衝動的判断をおさえると、だいたい修羅へは行かなくなります。で、残りは畜生・餓鬼・地獄です。慈悲心が著しく欠けると畜生道へ行きます。だから無慈悲な感情・欲望の著しいものはおさえなければいけない。肉欲・我欲をほしいままにすると、これは餓鬼道へ行くのです。だから、肉欲・我欲といったような欲望を恥ずかしいと思うようにしむけなければいけない。そして恥ずかしい感情・欲望を抑止するように、躾けなければいけない。物質現象以外になにもないと思うのは、堕地獄の因です。それから、残忍性も堕地獄の因です。小さい子に、物質現象以外になにもない、というような考えは出てくるはずはない。しかし、残忍性は厳重に取り除いてしまわなければなりません。物質現象以外になにもないというのは、徹底した物質主義という意味ですが、長すぎますから、以下物質主義といいます。親たちは、なるたけ物質主義的考えをもたないように、また聞かせないように、そしてその反対のものは聞かせるように、そういう雰囲気をかもす注意をしなければいけないでしょう。


 五つでは、衝動はだいたい全面的に抑止できるでしょうが、感情・欲望の抑止は、じゅうぶんうまくはいきません。そこで、感情・欲望のうちの、とくにいけないもの、著しく人らしくないもので、その子になるほどとわかるようなものを選び、なるたけ納得させて、それを抑止させるように躾けるのがよろしい。要するに、こういったものを抑止する力が強くなれば、それでなんでもみな抑止するようになるのです。

 子どもがいけないと気づくためには、恥ずかしいと思う心(内心を照らす日の光)と、慈悲心(内心を照らす月の光)との二つを、できるだけ養わせるのがよろしい。これは、六つ、七つとだんだん余計にやってほしいのです。そうすれば、だんだん余計に、この恥ずかしいという心、つまり羞恥心も育てられます。また、慈悲心も育ちます。衝動的判断は、全面的に抑止するように、だんだんしていくとともに、父親は、男の子には人生の理想というものを、女の子には憧れというものを、少しずつ話してやるとよいと思います。女性には、心の悦びというものがよくわかるようにする。男性ならば、人の志気というものをもたせるようにします。花にたとえるならば「色香も深き紅梅の」というのは、これは心の悦びでしょう。これは女性にだんだんもたせるようにします。梅の匂い、花のかおりですが、それは男性の志気に相当するものでしょう。憧れと理想とです。これを父親がすこしずつ与えてやるとよいと思います。父親がないばあいには、えてしてこれが欠けがちですが、母親がこの教育をやらなければならないわけです。こういうことが躾(しつけ)です。


 (発信者の感想)

 最近の犯罪傾向をみると、つくづく岡潔博士が40年以前に幼児教育の要点として明示された「親の躾」の完全な欠如が遠因になっていることに思い至るのです。昨年、小学校に乱入して十数人もの小学生を殺傷した犯人・詫間某被告の場合、衝動的判断と残忍性の極端な実例といわざるを得ないのです。彼が前もって乱入する準備計画をしていたとしても、思いついた計画そのものが衝動的判断に違いないのです。まさに地獄そのものの残忍な行為と言わざるを得ないのです。精神医学者の岸田秀氏は、人間を「本能が壊れてしまった生きもの」と定義していますが、他の動物が本能のままに、生きるため以外の殺傷行為をしないのに対して、人間は心の自由があるだけに、平気で動物以下の行為をする危険性を持っているのです。それが畜生道より堕落した餓鬼道、さらに悪い地獄道に他なりません。その堕地獄の世界から脱出して人間らしい情緒を取り戻すために、一人でも多くの人々に、岡潔先先生のエッセイを読ん頂き たいと願わずにはいられません。
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 岡潔講演録、おはなし(抜粋)1972.11月」を転載する。

 人の心の中核は真情だと云いました。真情と云うのは、一点の濁りのない情ですね。真情と書いて「こころ」と仮名を振ったらいいだろう。大宇宙は物質によって出来ているのではなく真情によって出来ているんです。真情などと云うものは5感では分らない。真情の中には時間も空間もない。こんなものによって出来ているんですね。自分の情と云うものを考えてごらんなさい。その中には時間も空間もありません。時間を、空間を超越したものでなければ真心ではないでしょう。そんなものはないんです。一体人は、どんな風に生い立つのか、一遍これをみたいと思っていたんです。

 今から3年位前に私に4番目の孫ができました。それ迄の3人はそうではなかったんですがこの4番目の孫だけは生まれた時から私と同じ家にいる。それで連続的に観察する事が出来ました。こんな事始めてさせて貰ったんですが、それで大分人と云うものが分ったんです。生れて3ヶ月は孫は「懐しさと喜こびの世界」に住んでいた。これが真情の世界です。

 「懐しさと喜こびの世界」です。これを詳しく云いますと、外界は見るもの、聞くものみな懐しい。人を見れば人懐しく、音楽を聞けば音楽懐しく、天井を見れば天井が懐しい。で、この、懐しさと云う土地の上に住んでいるんですね。そうすると、この土地から何か変化ある毎に喜こびがほとばしり出る。娘十八は、箸がこけてもおかしいといいますが。あらゆる変化が喜こびに通じる。この懐しさと云う基盤から喜こびがほとばしり出る、その喜こびの中に住んでいる。で、一口に云って「懐しさと喜こびの世界」に住んでいる。これが真情の世界です。これが人の中核です。この中核の心は真情です。

 それから3月程経つとその外廓の心が出来る。これが仏教で云っている真如と云う心です。真情と位べますと、真情は全く澄明ですが、少し濁っている様な感じ、それから何か、その季節の赤ん坊を見るには努力が要る。真情の季節の時は無努力でわかるが、努力しなきゃ分らない。だから不透明になって来る。何か固さのようなものが出て来ている。しかしまだ物と心との区別はない。ものもこころも皆こころです。その他仏教が色々いっている、真如という心の特徴を備えている。で、真情の外側の心が真如です。真如は生後1年11ヶ月位までいます。それが過ると又外へ出る、外廓の心が出来て行く。そうすると今度は著しく分りにくくなる。それ迄ごく簡単に分ったのに、孫に付きっきりに付いていなければとても分らないようになる。自分が孫になってしまわなければ孫の心は分らない。そんな風になります。自分が孫になる事によって孫が分るのは妙観察智で分るのだと云うんですが、妙観察智によってでなければとても孫の心がわからない。そんな風になる。それから、著しく心がかたくなる。この時期に至って物と心は区別します。はっきり区別する。これが仏教で云っているアラヤ識と云う心ですね。そして2年5ヶ月位までこの心にいる。そして外へ出る。この2年5ヶ月間が童心の季節です。

 仏教に唯識と云うのがあってこれは仏教哲学です。仏教の基礎になっているのが唯識と云う仏教哲学なんです。此の唯識は心を層に分けて説明しています。心の一番奥底は第9識だと云ってる。そしてそれが真如だと云ってる。真如、一番奥には第9識その次が第八識これがアラヤ識だと云ってる。その辺は大体仏教の云ってる通りらしい。あれは実に良く見てます。赤ん坊そうなってる。そこまでが童心の季節です。しかしその第九識のもう一つ奥に第10識、真情というもののあるのを見落してます。これは始めから、知が大事だと云うような考えで見ていったんでは第10識はとても分らんでしょう。

 知は濁りであると云うのが日本人の持って生まれた考えですね。濁りだと思って濁りを取れば、情ばかりのものがあるのが分りますが、仏教は知らんのです。第9識から後しか知らん。しかし第9識から後はよく見ています。この唯識は、第8識の上に第七識が有り、この第7識はマナ識と云っている、その心の上に自我が出来ると、こう云っています。童心の季節出たらそう。実際そうらしい。時間・空間と云う風なものが出来始め、自我が段々出来ていくのは童心の季節出てからです。それは前頭葉が出来て行くんですね。そうして唯識は第9識には時間も空間もないと云っている。第10識、第9識には時間も空間もないでしょう。第8識に至って空間が出来る。しかし計量的な、遠さと云うものがある計量的な空間ではない。また時というものも、時と云うものは真如の時既にあると思いますが、時間と云う計量的なものは前頭葉が出来てからです。そん風なものらしい。それから第10識、第9識は時間も空間もない。だから空間を超越している。だから空間のある所に於いて考えるなら所としてあらざるなしだ。そう云ってますがこれもどうもそうらしい。

 それから第8識は空間に遍満している、これもどうもそうらしい。仏教は心はかなり良く見ているんです。で、一応信用しているんです。ただ、知がもとだと飽く迄も思ってますから、第10識のあることを見落したんですね。が、あとはその通りです。そうすると西洋人の云う浅い心と云うのは、第7識から後です。第7識の次は第7識の上に第6識、これは意識です。意識と云うのは、前5識・眼・耳・鼻・舌・身と云っていますが、これは5感ですね。5感を統べているのが意識、意識はやはり前頭葉です。それ自体感官だと云っていますが、実際私達意識を通して分る事は分ります。意識を通さないと仲々分らない。だから前頭葉と云う手鏡へ写して、それを見ると自分の無知無能が良く分るからそうしなさいと云っているんですがそれが良く分るのは、前頭葉まで来れば、意識を通すからです。だから仏教はこの意識を感官と呼んでいます。それで第7識の上に意識があって、それから前5識つまり5感がある。それで9識みなですね。それに第10識をつけ加えれば良いのですが。

 そうすると、第7識から向うは身体にとじ込められてある心、5感で分ったり、5感で分らなくても意識を通して分る。そう云うこころです。それから奥、第8識、第9識、第10識これは5感では分らないこころ。それから、ここで、この場所で云うならば、空間全体に満ち満ちているこころです。そんな風らしい。


 「岡潔の「情の世界」(抜粋)1972年4月」を転載する。

 情が自分だと日本人は無意識的にわかっている。意識的にはわかっていない。しかし、ものをちゃんとわかる為には、意識的にも無意識的にもわかり、両方しなきゃ不充分でしょう。この時人に出来ることは、意識的にわかってない人を意識的にわかるようには出来る。しかし、無意識的にわかっていない人を無意識的にわかるようには出来ない。これはやりようがない。だからアジアの中で日本だけが、情が自分であるということを無意識的にわかっているというのは、この土地の人々だけに、神々が長い間教育したとでも考えなければ、考えようがない。ともかく、これはそういう言葉で云って一向にさしつかえのない、注目すべき現象です。無意識的にわかっているのでなければ、急にどうにもならない。日本人はそれが無意識的にわかっている。

 世界の文明というのは、文明以前、人の住める文明じゃない。こんなもの、放っておいたら仕方がない。その為には情を自分だと教えるより仕方がないんだけど、その時、無意識的にも情を自分だと思えるようになるまで本物じゃない。まあ、当分の間は、意識的に情が自分だと思えるようにすることです。その為には、無意識的には情は自分だとすでに思っている日本人に、意識的に情は自分だと教えてやることです。

 ここでそんなふうにするつもりで、神々は日本人を長い間教育してきたんでしょう。そして今、もう意識的にもそれを知れとし始めているんでしょう。

 もうここで人がやらなきゃならんのだけど、それは日本人の誰かが、どうせ人が意識的に気付きはじめるでしょう。最初に気付いて、云ったり書いたりする人が出るわけですが、誰が云ったり書いたりするかということは関係のないことです。日本人がそれを意識的に知る時期に来ているんでしょう。そうすることによって、神々は人類の滅亡を当分くい止めるつもりでしょう。

 滅亡の危機が去るのは、欧米人が情が自分であるということを無意識的に知るようにならなきゃ去らないでしょうから、長い年月がかかるでしょうけど、そういうふうな計画なんだと思います。


 『私の人生観』には、昭和の始めパリに留学していた頃の思い出を語りながら、「日本の歩き方」についての次のような一節がある。すこし読んでみよう。
 『どういう歩き方かとひと口にいうと、日本は危険な方から危険な方へとだんだん歩き続け、その歩みを止めない。それは今日もなお続いているのです』
 『そこで私が見るに、この先日本が立ち直るのに、じゅうぶん百年はかかります。それから国内を整備するのにもう百年、残る百年で生物の絶滅を救わなければならない。ところがあと三百年、生物が絶滅せずにどうにか持ちこたえてくれるかどうか、……』

 『六十年後の日本』
  『私は人というものが何より大切だと思っている。私たちの国というのは、この、人とい う水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。これが国の本体といえる。ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、濁った水が流れ込めば、全体が段々に濁っていく。それで、どんな人が生まれるかということと、それをどう育てるかということが、何より重大な問題になる。人という存在の内容が心であり、こころが幼いころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない。
 ただ、どう育てるかが問題だといっても、教育でどんな子でも作れるというのではい。本当は人が生まれるのは大自然が人をして生ましめているのであって、各人はそれを自分の子と思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝わしめているのが教育なのである。それを思い上がって、人造りとか人間形成とかいって、まるで人造人間か何かのように、教育者の欲するとおりの人が作れるように思っているらしいが、無知もはなはだしい。無知無能であることをすら知らないのではないか。
 教育は、生まれた子が、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であってそれ以上によくすることはできない。これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。しかし、恐ろしいものだとよく知った上で謙虚に幼な児に向かうならば、やはり教育は大切なことなのである』。 

 初めて刊行された著書『春宵十話』は、毎日新聞に連載された随想をまとめたものだが、その中には次のような一節が見える。
 『戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。たとえば、牛や馬なら生まれ落ちてすぐ歩けるが、人の子は生まれて一年間ぐらいは歩けない。そしてその1年間にこそ大切なことを準備している。とすれば、成熟が3年も早くなったのは、人の人たるゆえんのこころを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい』

 『どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲であることに気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない』(『第一巻』10〜11頁「春宵十話」)。









(私論.私見)