人の心の中核は真情だと云いました。真情と云うのは、一点の濁りのない情ですね。真情と書いて「こころ」と仮名を振ったらいいだろう。大宇宙は物質によって出来ているのではなく真情によって出来ているんです。真情などと云うものは5感では分らない。真情の中には時間も空間もない。こんなものによって出来ているんですね。自分の情と云うものを考えてごらんなさい。その中には時間も空間もありません。時間を、空間を超越したものでなければ真心ではないでしょう。そんなものはないんです。一体人は、どんな風に生い立つのか、一遍これをみたいと思っていたんです。
今から3年位前に私に4番目の孫ができました。それ迄の3人はそうではなかったんですがこの4番目の孫だけは生まれた時から私と同じ家にいる。それで連続的に観察する事が出来ました。こんな事始めてさせて貰ったんですが、それで大分人と云うものが分ったんです。生れて3ヶ月は孫は「懐しさと喜こびの世界」に住んでいた。これが真情の世界です。
「懐しさと喜こびの世界」です。これを詳しく云いますと、外界は見るもの、聞くものみな懐しい。人を見れば人懐しく、音楽を聞けば音楽懐しく、天井を見れば天井が懐しい。で、この、懐しさと云う土地の上に住んでいるんですね。そうすると、この土地から何か変化ある毎に喜こびがほとばしり出る。娘十八は、箸がこけてもおかしいといいますが。あらゆる変化が喜こびに通じる。この懐しさと云う基盤から喜こびがほとばしり出る、その喜こびの中に住んでいる。で、一口に云って「懐しさと喜こびの世界」に住んでいる。これが真情の世界です。これが人の中核です。この中核の心は真情です。
それから3月程経つとその外廓の心が出来る。これが仏教で云っている真如と云う心です。真情と位べますと、真情は全く澄明ですが、少し濁っている様な感じ、それから何か、その季節の赤ん坊を見るには努力が要る。真情の季節の時は無努力でわかるが、努力しなきゃ分らない。だから不透明になって来る。何か固さのようなものが出て来ている。しかしまだ物と心との区別はない。ものもこころも皆こころです。その他仏教が色々いっている、真如という心の特徴を備えている。で、真情の外側の心が真如です。真如は生後1年11ヶ月位までいます。それが過ると又外へ出る、外廓の心が出来て行く。そうすると今度は著しく分りにくくなる。それ迄ごく簡単に分ったのに、孫に付きっきりに付いていなければとても分らないようになる。自分が孫になってしまわなければ孫の心は分らない。そんな風になります。自分が孫になる事によって孫が分るのは妙観察智で分るのだと云うんですが、妙観察智によってでなければとても孫の心がわからない。そんな風になる。それから、著しく心がかたくなる。この時期に至って物と心は区別します。はっきり区別する。これが仏教で云っているアラヤ識と云う心ですね。そして2年5ヶ月位までこの心にいる。そして外へ出る。この2年5ヶ月間が童心の季節です。
仏教に唯識と云うのがあってこれは仏教哲学です。仏教の基礎になっているのが唯識と云う仏教哲学なんです。此の唯識は心を層に分けて説明しています。心の一番奥底は第9識だと云ってる。そしてそれが真如だと云ってる。真如、一番奥には第9識その次が第八識これがアラヤ識だと云ってる。その辺は大体仏教の云ってる通りらしい。あれは実に良く見てます。赤ん坊そうなってる。そこまでが童心の季節です。しかしその第九識のもう一つ奥に第10識、真情というもののあるのを見落してます。これは始めから、知が大事だと云うような考えで見ていったんでは第10識はとても分らんでしょう。
知は濁りであると云うのが日本人の持って生まれた考えですね。濁りだと思って濁りを取れば、情ばかりのものがあるのが分りますが、仏教は知らんのです。第9識から後しか知らん。しかし第9識から後はよく見ています。この唯識は、第8識の上に第七識が有り、この第7識はマナ識と云っている、その心の上に自我が出来ると、こう云っています。童心の季節出たらそう。実際そうらしい。時間・空間と云う風なものが出来始め、自我が段々出来ていくのは童心の季節出てからです。それは前頭葉が出来て行くんですね。そうして唯識は第9識には時間も空間もないと云っている。第10識、第9識には時間も空間もないでしょう。第8識に至って空間が出来る。しかし計量的な、遠さと云うものがある計量的な空間ではない。また時というものも、時と云うものは真如の時既にあると思いますが、時間と云う計量的なものは前頭葉が出来てからです。そん風なものらしい。それから第10識、第9識は時間も空間もない。だから空間を超越している。だから空間のある所に於いて考えるなら所としてあらざるなしだ。そう云ってますがこれもどうもそうらしい。
それから第8識は空間に遍満している、これもどうもそうらしい。仏教は心はかなり良く見ているんです。で、一応信用しているんです。ただ、知がもとだと飽く迄も思ってますから、第10識のあることを見落したんですね。が、あとはその通りです。そうすると西洋人の云う浅い心と云うのは、第7識から後です。第7識の次は第7識の上に第6識、これは意識です。意識と云うのは、前5識・眼・耳・鼻・舌・身と云っていますが、これは5感ですね。5感を統べているのが意識、意識はやはり前頭葉です。それ自体感官だと云っていますが、実際私達意識を通して分る事は分ります。意識を通さないと仲々分らない。だから前頭葉と云う手鏡へ写して、それを見ると自分の無知無能が良く分るからそうしなさいと云っているんですがそれが良く分るのは、前頭葉まで来れば、意識を通すからです。だから仏教はこの意識を感官と呼んでいます。それで第7識の上に意識があって、それから前5識つまり5感がある。それで9識みなですね。それに第10識をつけ加えれば良いのですが。
そうすると、第7識から向うは身体にとじ込められてある心、5感で分ったり、5感で分らなくても意識を通して分る。そう云うこころです。それから奥、第8識、第9識、第10識これは5感では分らないこころ。それから、ここで、この場所で云うならば、空間全体に満ち満ちているこころです。そんな風らしい。
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