日本文明論

 更新日/2018(平成30).11.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本文明論」をものしておく。こういう考察をする学問があるのかどうか知らないが必要な営為だと思う。れんだいこが挑戦する。

 2014.04.13日 れんだいこ拝


【日本文明論その1】
 日本文明がどのようにして形成、獲得されたのかを愚考する。ここで云う日本文明とは、「日本の心、精神、思想、日本人、及びこれに規定される民族及び国家及び社会の態様総体」を指す。かく視座を据えたい。これを論じておこうと思うきっかけになったのは、最近のこと、とあるスナックでの年少の老舗社長との会話による。彼曰く、「日本は昔から学んで成長して来た国家である。その昔は中国から、最近では西欧から。元々の日本には評価できるほどのものは何もなかった。所詮は二番煎じの国家である」云々。彼は別に悪気(わるぎ)で述べているのではない。そういう日本であると聞かされ、そのことに何ら疑問を沸かさず納得している日本論を述べているに過ぎない。

 私は、これを聞いて次のようにからかった。「**ちゃん。最近お勉強し過ぎてらぁ。そんなことはない。日本には古来からちゃんとした文明があった。世界に冠たるもんだよ。この観点に立たないと幾ら勉強しても無駄になるなぁ」。本当は、「お勉強し過ぎてバカになってるんと違う?」とまで云ってからかいたかった。しかし何せ飲み屋のこと故に喧嘩になっても困るので、顔色窺いながら、そのような返答をした。この問題につきブログ化しておこうと思い立ち、本稿を書き上げる。

 表題を「日本文明論」とする。果たして日本文明は存在するのか、そのようなものは存在しないのか。仮に存在しない論が通説とすれば、そういう通説を許しておいて良いのだろうか、ここを問いたい。私的には、日本文明存在しない論は、そういう風に洗脳され続けている故の謬論に過ぎない。恐らく日ユ同祖論とセットにされて流布され続けている悪論である。以下、成敗しておく。

 れんだいこが関心を寄せつつあるのは、歴史上に日本文明が確認できるが、それがどのようにして発生、形成、獲得されたのかについてである。こういうものは偶然事象の寄せ集めとして自然に継承され伝統化したものと考えるより、何らかの共通合意が生まれ、それが定向進化し続け、或る時より一定の型となったのではなかろうか。れんだいこはそう考え、これの探訪の旅に出たいと思う。但し、この種の先行する研究にお目にかかっていないので、れんだいこの手探りとなる。

 れんだいこの気づきは、日本文明は世界文明史上独特のものであって、それはどうやら「交合、言語、宗教、天皇制」の四種の神器を基にしていると思っている。これを仮に「日本文明の四基」と命名する。これの理解の仕方が高度卓越故に今日まで日本文明が続いてきており、目下は大変な国難下にあるけれども、これを凌げば、世界に有用に貢献できる日本として指導性を発揮できると思っている。

 「日本文明の四基」は、「男女の性の交合」を始発として、これより助け合い的営みとしての夫婦を形成し、これを核として家族が形成され、それが氏族に広がり、やがて地域、国家、社会へと発展する。「言語」とは日本語のことであり、アからンで終る48の音と意味を核とし、はるか昔は図象文字であったが、漢字文明との接触によりこれを取り入れ、結局は漢字、平がな、カタカナ、数字の四種の文字から編成される言語として骨格を完成させ今日に至っているものである。「宗教」とは日本神道のことであり、「日本的性交論」、「日本語論」と結合しながら独特の汎神論的多神教教理を獲得している。今日的には神社を建築し、ご神体を祀り、地域行事の折々に人々を親しく参詣させて絆を結んでいる。

【日本文明論その2】
 以下、「日本文明の四基」を個別的に概論する。最初の「交合」とは、男女の「性の交合」を始発としている。これを逆に云えば、「交合」は、性交観を淵源にしている。日本人の祖先の指導的智者は、男女の性交のうちに単に男女の性交としてのみならず、そこに神の働きをも了解していた。女性器、男性器の造形、性能の不思議、神秘、奇妙を神の叡智の贈り物と考え、そのままに了解していた。それ故に性交を単なる妊娠行為と考えず、神の叡智を知り学び天然自然の摂理を味わい、いわば宇宙と交信する行為とも考えていた。この性交了解の仕方が、「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」の源流、即ち全ての始まりとなっている。私説は、ここに全てが宿り、ここより全てが発生すると了解していたのではなかろうか、と云う仮説を持っている。

 付言しておけば、女性器、男性器の呼称も味わい深い。元の大和言葉での原語は分からないが、日本漢字宛がい以降は女性器を「おまんこ」、男性器を「ちんぽ」と命名している。これを卑猥に受け取る必要はない。「おまんこ」の漢字表記は「御万蔵(庫)」であり、「万づを納め且つ引き出す蔵(庫)」の意となる。即ち「万物の財」と捉え、これを大事にすれば富み、粗末にすれば失う有難きものとの諭しを込めているように思われる。「ちんぽ」の漢字表記は「珍宝」であり、「珍しい宝」の意となる。即ち「宝」と捉え、これを大事にすれば輝き、粗末にすれば輝きを失うとの意を込めて有難きものとの諭しを込めているように思われる。どちらも云いえて妙な味わい深い当て字と云うべきではなかろうか。元々がそういう意味を持つものであるから、日本式「性論」に於いては、仮に遊郭の如く「性」を生業として商品化するにしても、度を過ぎることは宜しからず、振り子はいつもこの原義に戻らなければならないと嗜めを示唆していると云うことになろう。

 更に云えば、女性器、男性器とも何とも表現の及ばない神秘に造形されている。それは良いとか悪いとかの一般的表現で捉えることができない。平常時と性交時で大きく様が変わり、放つ芳香も言語的表現では表現しきれない。見目形も記憶し難く且つ飽きがこないように細工されているようにさえ思える。その印象も然りで印象的で且つ同時に印象として残らず、興味を覚えて何度も確認したくなるような造形になっているようにさえ思える。

 もとへ。この性交観により様々な説き分けが可能になる。当然、妊娠も、直接的には男女の性交によってもたらされるものではあるが間接的には人間技ではなく神技として為される「神の授かり」であり、故に出産によって生まれ出てきた子供は「子宝」となり、子供の多い家庭は「子宝に恵まれる」となる。この「恵み」の背後には「神のお働き」があると考えている。子供を「神より授けられた」とするこの了解の仕方により子供が大事に育てられることになる。その子育ても、直接的には父母が担うが、親族が力添えし、大きく見れば「村」(今日的には「社会」)で育てるという類的共同性を踏まえている。

 「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」は元々に於いて格段に性交を重視し、神聖と淫靡の両面をそのままに窺い賞賛すると云う型を持つのではあるまいか。「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」に於いては性交の神聖と淫靡を即時的に両面に於いて了解、享受する。神聖と淫靡は個別的に認め追求することはできるが、いわば並存的有機的共同的に把握されている。これが「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」に基づく性思想、性観なのではあるまいか。これをさほどには思弁的に追求しない。どちらかと云えば実践的に了解する。そういう作法としているようにも思われる。

 これはどういう意味を持つか。近頃の近現代史に特徴的な性を物化、商品化して捉える性思想、性観と鋭く対照的なものになっており、「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」的な性思想、性観に軍配を上げ、この道に戻すべきではなかろうか、との問いになる。ここに意味がある。これはいつか言いたかったことである。れんだいこが還暦過ぎの今日に至る人生経験から獲得した知恵の一つである。

 こういう重要性を持つ「性交」の型が日本神話で教示されている。凡そ次のように説かれている。「日本神話その2の国土、諸神創生譚その1、イザナギの命とイザナミの交合(まぐわい)譚」を転載する。
 「神々は相談し、一番若いイザナギの命とイザナミの命に国土形成を命じた。この時、天の沼矛(ぬぼこ)が渡され、二人の神様が大空に架かる天地を結ぶ天の浮き橋の上から矛を下界へとさしおろし、海水をかき回すとコオロコオロと音が立ち固まりが出来始め、抜いた矛の先からしたたり落ちた滴(しずく)により一つの島ができた。その島は、オノゴロ島と呼ばれた。二人はそこに天降ってまず大きな柱を建て、二人の神が住まう御殿を建てた。柱は天の御柱、御殿は八尋殿(やひろでん)と名付けられた。

 イザナギとイザナミは双方を見比べ云った。
イザナギ  「イザナミよ、そなたの体はどうなっている?」。
イザナミ  「私の体は、成り成りて成り合わざるところが一つところございます」。
イザナギ  「私には成り成りて成り余れるところが一つところある」。
 「私の成り余れるところを、あなたの成り合わざるところを挿しふさぐよう按配良く出来ているように思うが、そなたはどう思う」。
イザナミ  「私も同じ思いです」。
イザナギ  「ならばそうしよう。そなたは天の柱を右から回り、私は左から回り、めぐり逢ったところで交わろう」。

 二人の命は、大きな柱の周りを回り出会った時、次のように掛け合いした。

イザナミ  「あなにやし、えおとこ」(あぁなんて素敵なお方なのでせう)。
イザナギ  「あなにやし、えおとめ」(あぁなんて可愛らしい姫なんだろう)。

 この後二人は結ばれた。日本書紀には、「陰神先ず喜び言を発ぐ」とある。最初は骨のないヒル子が生まれたので葦舟に乗せて流した。次に生まれた子供も形が定まらず、その子供の名は淡島と名づけられた。

 高天原の神々に相談したところ、占いは、「女性が先に言葉をかけたのがよくない。イザナギが最初に声をかけよ。もう一度やり直すがよい」とのことであった。二人は天の柱に戻り、同じように柱をまわり、今度はイザナギから先に声を掛けた。
イザナギ  「そなたはなんて可愛らしい姫なんだろう」。
イザナミ  「あなたはなんて素敵なお方なんでせう」。

 この後二人は再度結ばれた」。


 この日本神話によれば、イザナギとイザナミの男女神が対として「性の交合」をするところから国産みが始まる。これを要約すれば「男女の性の交合より産みが始まる」としていることになる。常識的に当たり前であるが、世界の創造神話上は珍しいそのままズバリの描写をしていることになる。このことに驚かされ且つ感心させられる。神話も含めて日本式学問はかくも実証的と窺がうべきではなかろうか。

 イザナギとイザナミの原語解析をすると、イザは南島祖語で「最初の」という意味を持つ。ナはノであり、ギは男、ミは女を意味する。これによると、イザナギとイザナミは初男、初女ということになる。「イザナギの命とイザナミの交合(まぐわい)譚」を何気なく聞き過ごしがちであるが実は、この神話はいかにも日本的であることが洞察されねばならない。それは、国土形成の始発を男女二神の対等助け合い的な交合(まぐわい)によって記述していることにある。ユダヤ―キリスト教界の聖書に於ける天地創造譚にはこのような記述はない。キリスト教聖書となると、教祖イエスの母マリアの処女懐妊譚で箔付けしている。これに対し、日本神話では交合(まぐわい)から始まることを示し、且つ、あからさまあけっぴろげに性交を記述している。この二つの性格が日本神話の真骨頂であることを読み取らねばならない。してみれば、日本神話譚で育つ日本人は交合(まぐわい)を聖俗両面から受け入れ、意識に於いても遺伝的に継承伝播させて来ていることになる。

 ちなみに、「イザナギの命とイザナミの交ぐわいによる天地創造譚」は記紀のみならず出雲王朝系の史書であるホツマ伝えにもより詳しく記されている。と云うことは、この神話が出雲王朝神話であることを示している。

 かく性交を重視する「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想」を踏まえ、これを教義化すると淫し邪教の批判が浴びせらる。しかし淫し邪教批判の側こそ無知と云うことになるのではなかろうか。「日本文明、日本の心、日本精神、日本思想、日本人」を踏まえた性交観教義は神聖と淫しの両面を踏まえているとすれば、その内の淫しの面をのみ特化させて批判していることになり正当な評論とはいえまい。むしろ神聖と淫しの両面を踏まえた教義こそ瞠目すべきではなかろうか。世の批判者にお粗末な思いをするのは、れんだいこだけだろうか。いわゆる近現代的インテリの愚昧を確認する思いである。


 2014.04.13日 れんだいこ拝






(私論.私見)