三島由紀夫の陽明学考

 (最新見直し2013.09.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.08.31日 れんだいこ拝









(私論.私見)

***三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」小考***

 

 前書きー

 まず、この三島氏の「革命哲学としての陽明学」というエッセー(彼自身が後書きでエッセーと述べています)についての小考は三島由紀夫氏自身を私が優れた陽明学者であると感じて作成したものではなく、私を含め世間の人が三島氏と陽明学との接点あるいは距離はいかほどのものか判然としないのでそれを解明する一助として公開するものです。

 著作権の問題が絡んでくるので全文は掲載できません。中間部分にある大塩平八郎・吉田松陰・西郷隆盛に関する部分の考察はしていません。くれぐれも三島氏の文のみを抜き出して公開などされませんように。このエッセーは『行動学入門』文芸春秋・『諸君』などに掲載されていたものです。入手困難な本で、引用を多めにしないと小考自体が成立しないため敢えてテキストを掲載した点についてご意見その他がありましたらご連絡ください。

 

 小考ー

 三島氏は次のように言います。

 行動哲学としての陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られた本になった。別な形で、朱子学が復興しているなどといわれながら、朱子学の一分派ともいわれる陽明学は、ごく一部の愛好者を除いて、その名のみが知られているのが現状である。アメリカでは陽明学を研究している三人の学者がいるそうだが、日本では陽明学の家といわれる二、三の学者の家に伝承されるばかりで、政治家や、現実的な行動家のよって立つべき基本的な哲学としてのメリットは、おおよそ失われたといってよい。
 このことには、現在の老人支配の日本において、ちょうど大正教養主義の洗礼を受けて育った世代が、知的指導層を占めているために(一例をあげれば、志賀直哉氏、武者小路実篤氏のような自樺派や、故小泉信三氏を象徴とする開明派、「心」グループの知的風土とその影響下にある中壮年層の知的指導層)、陽明学がそれらの世代の青年期に、意識的に忌避されたこともあずかっている。
 乃木大将の死とともに終った陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかった。過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなった。というのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、昭和初年にいたって、このように否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の温床となったために、ますます大正知識人に嫌われる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあえて伝えまいとした有害な「黒い秘教」になったのである。
 一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪い去った。北一輝のような日本的革命思想の追究者は、孤立した星であった。マルクシズムが陽明学にとって代り、大正教養主義・ヒューマニズムが朱子学にとって代ったということもできるであろう。朱子学の、なかんずく、荻生徂徠のような外来思想の心酔者は、大正知識人にとってもむしろ親しみやすかった。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だった。国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になった。インテリは触れるべからざるものになったのである。
 今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒しているいくつかの思想的タブーがあり、武士道では『葉隠』、国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがって天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされている。そういうものを何か「いまわしい」ものと考えるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落している。西欧的合理主義の移入者であり代弁者であるところに、自已のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なお日本知識層の気質の底にひそんでいる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまわしいもの、醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つであったのである。
 現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いている。すなわち、西欧化近代化の文明開化主義の明治政府と、その戯画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを批判し、あるいは「教育」する立場に矜(ほこ)りを見つける。マルクシストさえ、近代化の方策の差というのみで、近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児であるという点で、矛盾はない。
 現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派という様相を呈するであろう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあったよりも激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなった現在、菌にも耐性ができて、大ていの薬では利かなくなったのである。
 さて今まではといえば、たとえば丸山真男氏の『日本政治思想史研究』における陽明学の取り扱いにも見られるように、氏はそのかなり大部の著書の中でわずかに一頁のコメンタリーを陽明学に当てているに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学であるとなし、陽明学は朱子学の理の内包していた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失った、と説いている。
 しかしながら陽明学は、明治維新のような革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印していた。陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
 大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの二本の柱にあると思われる。フランス革命はルソーの楽観的な哲学の裏にマルキ・ド・サドの深いニヒリズムを隠し、一方ではジエラル・ド・ネルヴァルが言っているように、多くの見神論者の群れを革命の前駆として輩出しながら、ジャコバン党員ですらスコットランドのフリー・メーソンの本殿へお告げを承りに行ったこともあった。また、二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッガーの準備した能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの『二十世紀の神話』が、ナチスのミスティシズムを形成した。
 革命は行動である。行動は死と隣り合わせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜(とりこ)にならざるを得ないのは人間性の自然である。
 明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によって準備された。本居宜長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがって平田篤胤、さらには林桜園のようなミスティックな神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培った。
 また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といわれる大塩平八郎の乱の背景をなし、大塩の著書『洗心洞箚記(さっき)』は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいうぺき西南戦争の首領西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であった。また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打っており、一度アカデミックなくびきをはずされた朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へおりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあずかるのである。
 主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによって善悪を超越する哲学であるこの陽明学という危険な思想は、丸山氏のいうところの、まさに逆を行って、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派という仮面に隠れながら、その実、もっとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かって進んでいった。その「良知」とは、単に認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入って創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、武士的な行動原理と思われる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもっとも危険な消息を伝えるものであった。
 ところで、現代において陽明学がふり返られるとすれば、どのような見地からであろうか。ここ数年来の大げさな革命的言論と、それについに相伴うことのなかった革命的行動の蹉跌との間には、現代政治と社会、政治理念と行動との間における真っ黒な深淵が暗示されている。われわれは、いまその深淵の上を閉ざす弥縫(びほう)的な「平和」にたぶらかされているが、やがてその深淵は人間精神の上にもっと恐ろしい形で再現することは十分予期されるのである。それは認識と行動とのギャップ、認識と行動とが相纏綿し相疎外するアンビヴァレンツ的関係の始まりであり、政治における無効性と有効性との対立であり、政治的理念が無効性のかなた、およそ銀河系のかなたに追いやられる如く、追いやられていくこちら側に、理念不要の現実政治の退屈きわまる術策と妥協とが横たわり、一度精神の問題に思いをいたすと、人々はこの二つのものの間の目のくらむほどの深淵に直面せざるをえない状況がきているのである。
 ごく手近な例をとっても、全学連運動の帰結は、単に警察力の増強という物理的理由によって、たちまち理論的破綻に瀕していった。全学連運動、いわゆる新左翼の思想の根底には認識と行動との一致、陽明学にいわゆる知行合一のエトスが潜在していると思われるのだが、またそれによってこそ、単なる蒼ざめた認識者としての大学教授達は心底から脅かされたと察せられるのだが、いま警察の規制によって民青的焼香デモに甘んじざるを得ない彼らは、民青に対してただ自分達の認識の差を保持するだけになってしまった。
 しかし、行動に現われない認識が何ものでもないことを主張したのは新左翼自身のはずであるから、もはや行動に現われない認識の形で優劣を競うことは、相手の土俵に入ったも同じである。この矛盾に逢着するとき、かれらが行動の基盤とした能動的なニヒリズムは失われて、そのいわば逆、受動的なオプティミズムに陥らざるを得ないであろう。革命の機会を待望し、ただ待ち、待ちこがれてその機会に向かって周到な準備を重ね、あらゆる妥協を容認し、その方法論においてどのような矛盾撞着(どうちゃく)も平然としてのみ込むような楽天主義は、もはや知行合一とは無縁のものになってしまう。そしてそのとき、新左翼もまた、あれほど憎んだ体制側の政冶の次元と同じ次元に立つことになるのである。
 もちろん、彼らをこのような窮地に陥れたのは警察力の物理的増強のみではない。一つは彼ら自身の内面の問題であり、またその内面に反映していた大衆社会状況の問題でもある。大衆社会状況に処するのに、認識と行動との合致をもって対抗することが、そもそも論理的矛盾であって、大衆社会を巻き込むためには、「大衆社会こそは認識と行動との背反にその存在理由のすべてをもつ」というところに着目しなければならなかった筈である。まさに反陽明幸的な思考方式こそ、平和な時代の大衆社会を成立せしめる最大の基盤であった。なぜなら、大衆社会は道理の感覚によって動くことを求めず、それ自体の物理的法則によって動こうとするからである。
 認識至上主義が、結局、物理的法則に陥らざるをえぬとは、何たる皮肉な状況であろう。大衆社会状況とは、人々が危惧しているように、文化の低俗化の一途を辿るものではない。閑暇が与えられれば、より高いより洗煉された知的快楽が求められるのは当然で、人々の「認識欲」は増すのである。このためには、種々な贅沢な芸術(まがいのもの)や娯楽が用意され、一方では情報化社会の趨勢がこれを満足させる。ニュースも豊富、哲学も豊富、人々は「知る欲求」を満足させることに事欠かないのだ。現代、「あなたはスポーツがお好きですか」ときかれて「はい」と答える人は、大ていの場合「見るスポーツ」を意昧している。「野球が好きです」ということは、おおむね「野球をやること」ではなくて「野球を見ること」を意味している。これほど大衆社会における認識至上主義と、無道徳無制限の好奇心の満足を求める傾向を、明示しているものはない。
 認識至上主義はニュートラルである。また、超道徳的であって無倫理である。しかし、ニュートラルでありえ、無倫理でありえているのは、行動に自已を投入しない以上当然のことであり、行動はいやでも中立性の放棄と倫理的決断を要求する。それがいやだから行動しないという心理は、行動しないから行動を永久に恐れるという次の心理に至って、悪循環に陥る。この悪循環がオートマチックに働いて、その動きが物理的法則を形づくる。そこには認識と行動の乖離(かいり)がはじめから予定されているのであるから、知行合一のような哲学は、はじめから無意識裡に忌避されているのは当然であろう。そして富める大衆社会の政治行動は、決して我身に傷を負わぬという保証の下に、良心的なポーズを満足させる小さな小さな冒険に類するものになるであろう。一寸した薬味の利いた、薄荷のような淡い反体制的な感情が、拡大された中間層の基本的色調になるであろう。
 もはや「道理」は要らない。「道理」はガタピシして、持ち運びのたびに、壁のあちこちに傷をつくる厄介な家具であり、その上ノスタルジーと関わりがあるから、あまりに「主観的」なのである。思い出は要らない。消費経済の時代に歴史や伝統が何だろうか。何でも使い捨てればよいのであり、自分の教養のひけらかしに必要な骨董だけをとっておけばよいのである。そのためには政府は文化財の保護を抜け目なくやってくれており、文化とは安全無類なものになった。多少の難解さは、暇つぶしのパズル遊びのために必要である。しかし、ゆめゆめ、認識と行動をつなごうなどという野望を起さなければよいのである。そういう野望を起さぬ限り、あらゆる文明の産物、生活を快適ならしめるあらゆる新製品は、すべてわがものになるのであり、わざわざ手製爆弾などを不自由な思いをして作らなくてもよいのである。ニヒリズムは不要なのだ。(体裁としてルビは括弧に入れて表示し、傍点は傍線とし、「鴎外」「洗煉」などの旧字は表記されているjisで代用しました。)
 

 三島氏は陽明学の評価・存在意義が時代につれて浮沈変動した事由を説いていますが、表題からも察せられるように陽明学を行動哲学・革命哲学と限定しすぎている嫌いがあります。

 これはエッセイであって、それとして読むべきで次に見る文中に森鴎外についての文学論が見えるのも致し方ないところかもしれませんが、ニーチェ・ハイデッガーなど実存主義哲学者を提示するなど陽明学に関係のない人物を挙げ、それがかえって一般の読者にとって主張の焦点を分かりづらくしています。三島氏は「革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの二本の柱にあると思われる。」といいます。ミスティシズムは神秘主義、ニヒリズムとは既成の権威・価値を否定する思想であり、ニーチェは神を否定することによって彼自身が理想とした、人間がこの虚無を克服しうる高貴な道徳の意義を強調し、その具現者を超人と呼びました。彼の思想がナチスドイツの理論的支柱ともなったことはよく言われるところですが、ニーチェの思想を突きつめようとすればするほどナチスのようなファシズムとほど遠いことは研究者の理解しているところと思われます。

 現在の我々にとって「アポロン」、「ディオニソス」(ともにニーチェ初期から現れる思想概念でニーチェ著『悲劇の誕生』)、「能動的ニヒリズム」(ニーチェ著『権力への意志』)という語は馴染みがないのですが、実は「ニヒリズムの克服」と同様かつての流行語でありニーチェの思想概念です。三島氏が当時の流行概念によって自らの思想を語ったのか、当時の日本がニーチェ著『権力への意志』に記される「ニヒリズムの到来」時期と重なって思われてその語を用いたのか、それともニーチェの思想に信服してこのように言ったのかは更なる研究を待たねばなりませんが、「もはや道理は要らない。道理はガタピシして、持ち運びのたびに、壁のあちこちに傷をつくる厄介な家具であり、その上ノスタルジーと関わりがあるから、あまりに主観的なのである。思い出は要らない。」という文句はニーチェ思想そのままとは言えないものの大いに影響を受けた形跡有りと私には思われます。

 「能動的ニヒリズム」とは、将来的な創造の構想はなくとも既成の古めかしい道徳・価値を否定・破壊し対抗しようとする思想です。ニーチェは次のよう言います。「精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、すなわち、能動的ニヒリズム」(『権力への意志』工藤綏夫『ニーチェ』清水書院の訳より)。この「能動的ニヒリズム」という語によって後にも見られるように陽明学を形容・限定することには賛成しかねます。

 何を根拠に陽明学をニヒリズムとするのかは次に見る文によってはっきりします。太虚という語が虚無と表面上類似しているように見えるからですが、太虚に価値の否定という概念は含まれていません。虚無という語は陽明も用いていますが、現代のニヒリズムの概念とは全く異なります(虚は道家が根本と考えるもの、無は仏教とが根本と考えるものですが、陽明はそれを批判しています。『伝習録』269)。

 ここで、太虚について考えてみます。簡単に言えば「宇宙の根元」です。太虚という語自体はもと老荘思想のもので唐代に仏教的意味合いが付加され後に儒学思想の中に取り入れられたものです。漢代以降、儒学は老荘思想・法家思想の一部を時代の要請もあってうちに取り入れようとしました。これらは当時術語として汎用されていたものが儒学的意味合いを付与されたものもあり、また、後の儒学者がある語を用いたのをその後の儒学者が引用することによって術語として定着して残ったという性格のものもあります。

 太虚という語も儒学的思想と関連づけられ取り入れられたものの一つですが、詳しく言えば張王渠という人物の著書『正蒙』太和篇にある語が朱子に引用され儒学思想の一概念として定着したものです。『伝習録』の中に太虚の語が用いられていますが、いずれも重要概念として扱われているわけではありません。大塩中斎『洗心洞箚記』また太虚については、岩波書店・日本思想体系p636を参照してください。

 以上述べたことからニヒリズムと太虚とを結びつける点やや強引な論の展開をしているように感じられます。しかし、かつて二流・三流の文化評論家が道元とサルトルの類似を他人の論文を引用することによって説いたり、マルクスやマクルーハンはこう言っているなどの自らの判断を他人にゆだねたような論調とは一線を画してはいます。

 全学連(全日本学生自治会総連合の略称。昭和二三年九月、全国の大学の学生自治会の連合組織の機関として結成。学問の自由や、教育機関の徹底的民主化などをうたって、学生運動の中心勢力となった。microsoft bookshelfより)という今では聞き慣れない語に属する言葉を使い論じており二十代三十代の世代の読者には取っつきにくいという印象もありますが致し方ないところです。ただこの当時の社会現象を自身の問題とし考察していたことによって文学者としての三島由紀夫は高踏派然とした思想を弄した人物でもなく、また、理論的に自説を主張しようとしていた点決して直情型な人物ではなかったということがはっきりとします。彼の文学論集ー『三島由紀夫文学論集』講談社の「自己改造の試み」を読みますと、平然と誰々の文体に影響されたと書かれています。そして、

「文体の特徴は、精神や知性の目指す特徴とひとしく、個性的であるよりも普遍的であろうとすることである。」

と言っていますが、このエッセーの文体・論理展開も彼のいう自己改革によって成ったものでしょうか。

 ただ、陽明学が朱子学の一派と世間では考えられていたというくだり、勉強不足のため初耳に属しましたが、これは、日本近代思想の専門家の解明が待たれます。

 

 私はさっき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するということを言った。陽明学の時代にはニヒリズムという言葉はなかったから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に表われている。
 「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚というものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを良知によって弁別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとえば壷が毀されると壷を満たしていた空虚はそのまま太虚に帰するようなものである、といった。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壷すなわち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に遍在する太虚に帰することができるのである。
 その太虚はさっきも言ったように良知の極致と考えられているが、現代風にいえば能動的ニヒリズムの根元と考えてよいだろう。ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまうことは、森鴎外も小説『大塩平八郎』の中でそれとなく皮肉に指摘している。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のようであるが、いったん悟達に達してまた現世へ戻ってきて衆生済度の行動に出なければならぬと教える大乗仏教の教えには、この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されている。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動ともいうことができるのである。
 陽明学をごく簡潔に説明したものとしては、井上哲次郎博士の『王陽明の哲学の心髄骨子』という古い論文がある。この論文を概説すると次のようである。明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこった人であるが、朱子哲学が二元論であったので、これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるいは平等主義的な傾向を与えて陽明学を体系づけた。
 陽明学のいくつかの理論的な柱には、
 一、理気一元説
 二、致良知説
 三、知行合一説
 四、四箇格言
 などがある。
 一、理気一元説。朱子は「理気決してこれ二物」と言って、理気二元論を唱導しているのであるが、王陽明はこれに対し理気一元論を唱えて「理ハ気ノ条理、気ハ理ノ運用、モト二事アルニアラザルナリ」といった。その一元がすなわち良知なのである。
 二、致良知説。良知とは何かというに、倫理学者のいう良心と同じものではなく、むしろ、ウパニシャッドのブラフマンのような唯一無二の宇宙の根本原理である。しかもこれは創造的作用があり、陽明も、「良知ハ是レ造化的ノ精霊、這些(しゃしゃ)ノ精霊、天ヲ生ジ、地ヲ生ジ、鬼ヲ成シ、帝ヲ成ス、皆是レヨリ出ヅ」と言っている。もともと各個人の胸の中には澄みきった鏡のような聖人が住んでいるのに、普通の人はそれに気づかない。この鏡の曇りをとり、これを明らかにすることがすなわち良知であって、『大学』にいう格物致知も、陽明は、この「良知を致す」ことだと解釈するのである。
 三、知行合一説。王陽明はすべてに一元論であるから「知八行ノ初メ、行ハ知ノ成ルナリ」と言っている。「知ッテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」というのは、この知行合一説をもっとも簡潔に表明したものであって、この点が朱子の先知後行とは違っているところである。ここに認識と行動との一致というもっとも自然でまたもっとも厳しい主張が秘められている。陽明学はまた心学ともいわれるように、主観的唯心論的に認めた道徳的真理を、直ちに行動にうつさなければその認識自体が無効になるのである。行動がなければ認識すらない、そして行動に移らなければ認識は完成しない、ここに陽明学のもっともラディカルな思想の拠点がある。
 第四、四箇格言。四言教ともいわれ、陽明学の要点を四つの格言にまとめて言い表わしたものである。格言の第一は「善無ク悪無キハ是レ心ノ体」といい、心の本体というものは絶対的で宇宙の真理であるから、善悪を超越したものだ、というのである。第二に「善アリ悪アルハ是レ意ノ動」と言うのは陽明学における倫理学的な側面であって、善と悪が対立してきたときには必ず意志が動いてくる、また意志が動いてきたときにはすでに善悪の差別が生じてくる、意志がなければ善と悪の対立を道徳的行為にもちきたせることはできない、ということである。第三に「善ヲ知り悪ヲ知ル、是レ良知」というのは、良知が善悪を識別する良心的作用であると言っているわけであるが、良知がいわゆる良心の作用だけにとどまらないことは、前にも述べた通りである。第四の「善ヲ成シ悪ヲ去ル、是レ格物」というのは『大学』の格物致知の解釈であるが、それは単に善を行なうということだけではなく、また悪を退けて善を勧めるということだけでもない。認識それ自体の効用を認めない陽明は、格物ということ自体に万物の理を行動即認識の裡にきわめるということを意味しているのである。
 王陽明の哲学の中には、後代、西洋哲学とも類似するようなさまざまな萌芽があるが、簡単にいえば一元的唯心論であって、朱子哲学の二元的実在論と対立するものである。それは中国でも実際行動の上に大きな効果があったが、日本に移入されてから一層めざましく発展し、中江藤樹、熊沢蕃山を始めとして、林子平、梁川星巌、大塩中斎、佐藤一斎、また西郷南洲、横井小楠、真本和泉守、雲井竜雄、その他明治維新をいろどる幾多の偉大な星を、この思想は生んだ。
 ー以上の如きが、井上哲次郎博士の陽明学に対する概論である。
 そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに立てこもううとする人は、この狂熱を避けて通る。
 もちろん、認識と行動との一致ということを離れて考えてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては古人がすでに二つの道を用意していた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいわゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するという方法である。これは哲学の中の二つの潮流を形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表われとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現われた。
 陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。
 大塩平八郎については、森鴎外に『大塩平八郎』という作品があるが、このすばらしい文章で書かれた中篇の傑作にも、隙間風が吹いていることは否定できない。これは当然の話で、あくまでもアポロン的な鴎外は、大塩平八郎のディオニュソス的な行動に対して十分な感情移入をなしえず、むしろ一揆鎮圧に当った有能な与力坂本鉉之助のほうに視点をおいているのである。鴎外の自分が描く人物に対する共感は、多くはその人間が止むをえざる受身の行動をするときにかぎっている。『阿部一族』は我慢に我慢を重ね、忍耐に忍耐を重ねて爆発した行動によって鴎外に認められたのであり、『堺事件』もまた罪なくして責めを負った若い武士達の切腹に対する同情によって描かれ、『興津弥五右衛門の遺書』における乃木大将への心酔も、同じようなパッシヴな情熱への感情移入によるものであった。
 しかし大塩は違う。大塩の行動は義によって立ったとはいいながら、その蜂起の二つの大目的、腐敗した権力者の打倒と貧民救済とは、二つながら果しえず、むしろすべて逆目に出た。返り忠をした裏切り者がとりたてられ、大坂の無辜(むこ)の市民は暴動によって理不尽な損害を受け、しかも大塩の行動自体は完全な失敗に終ったのである。徒党の一昧は惨憺たる結末をとげ、平八郎親子も火の中で自らの命を絶った。こうした行動の無効性、反社会性について鴎外は批判的なのである。
 

 

 陽明学についてですが、陽明思想を学んだ誰々によって一揆がおこり、明治維新機運醸成に功績があったという一般的理解によってはどうしても、陽明学に対する印象は一方的に偏ってとらえられがちになります。陽明学なかんずく儒学は本来指導者養成の性質を濃く保持するものであって、東洋仏教のように戒律はたててなく全ての人にその精神・項目を完全な形で理解・体得するのを要求はしない性質のものであることも忘れてはならないでしょう。陽明自身、文官でありながら軍人の指揮官として多忙な日々を過ごしたため朱子のような理論的な学説を残せなかったというレッテルを貼られもするのですが、彼の考える世界観・人間の精神に対する理論付けは実に簡潔なのです。現代心理学を凌駕する学説とまでは言いませんが、それなりにかなり穿った人間の精神世界についての論が見て取れます。彼は「知・意・物」という三つの概念によって人間がこの世界で存在し活動する様を要約しています(その一端はHPに載せた論文でおおよそ把握できると思われますので、その構造について贅言をここでは加えません)。 

 しかし、行動を生み出さない知は無意味であるというようなことは、陽明は言っていません。読書によって見識を得ることに対して否定的でもありません。知は普通、即応的・直感的なものと、読書・見聞によってえられたものと区別されますが、良知はいずれをも包括していると陽明は考えているのです。煩瑣な議論・儀礼の細則それ自体が否定されるべきものでなく、議論・細則が優先され心が伴わない形式的に墮した行動をこそ、陽明は非難するのです。知行合一という説は実は陽明の専売特許ではなく、古来からの儒学思想を明確な形で術語にしつらえただけのものです。陽明が言っているように知行合一説をわざわざ公開したねらい(=宗旨=スローガン)は朱子思想の根本を理解せず支離滅裂な言を吐く者、闇雲な行動にでるものに覚醒を促すことにあったのです。陽明は、赤子の心は人間本来の善に向かう状態であるという性善説に立ち人間の本来的な心の有様は善に向かうものと信じ、その本来的な心を発揮することを「致良知」と定義しました。

 実はこの点にこそ陽明思想の弱点というか、異端の徒を醸成しうる原因があったのです。自身の心が良知そのままとうぬぼれ修養を疎かにすれば、餓鬼のわがまま丸出しに近い状態になりましょう。

 三島氏は

 陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。

と言っていますが、彼がいう陽明学とは世間で一般的に印象先行で誤解されているものを指しているのではと疑います。人に非難され見捨てられようと、心中幾度となく反芻・自省し自身が衷心から信じえた考えを表明しようとしたのが陽明自身であって、三島氏が大衆のための自殺が陽明学的行動と明言している点については首を傾げざるをえなかったところです。(私は日本の陽明学にまだ疎いのでこれを機会に、中江藤樹・大塩平八郎のテキスト作成とともに勉強していきたいと思います。因みに、佐藤一斎の『言志四録』の電子テキストの一部はすでに篤志の方によって公開されています。)。

 三島氏は井上哲次郎氏の論文を挙げ陽明思想の概観を得ています。ただ、三島氏が、

 認識それ自体の効用を認めない陽明は、格物ということ自体に万物の理を行動即認識の裡にきわめるということを意味しているのである。

とするのは、今まで述べてきたことから分かるように歪曲化されたものです。陽明自身「事上磨練」という言葉を残していますが、それは、自分の日常の生活のあらゆる場面で自分の行動が天の理に合致しているか時々刻々反省し修養していくことを意味するもので行動のみが全てという意味ではありません。

 因みに佐野公治氏は
 王守仁(陽明)の学説で、実地の体験によって認識を深め、人格を錬成すること。洋の東西古今を問わず、経験的知識を重んずる学説があり、中国では儒家の根強い思想的伝統でもあり、また禅宗にも日常生活そのものが仏道だという考え方がある。事上磨錬はこの伝統に立脚して、王守仁が強調した学説で、観照的、内面的修養を重んずる程朱学的な傾向を批判し、「人は須(すべから)く事上に在りて磨錬し、工夫を倣(な)すべし。乃(すなわ)ち益あらん。若(も)し只(た)だ静を好めば、事に遇ひては便(すなわ)ち乱れ、終に長進すること無からん」と、動的実践的な修養を説いた。これと表裏する学説として知行合一説がある。これらの学説は、守仁の理想社会実現への情熱と相まって、陽明学に実践主義的色彩を与えた。とくにわが国の陽明学徒は、この側面を強調し、人格を社会的実践の中で錬磨しようとする精神主義を生み、事上磨錬を重んじた。」(『中国思想辞典』研文出版)

と解説されています。繰り返すようですが、三島氏が陽明思想を歪曲化して捉えた事情の一端は日本陽明学の特殊な発展にあろうと思われます。

 三島氏は、太虚とニヒリズムとの関連を安易に説いていますが、その思想が発生した土壌と歴史的意味合いが先に述べたように根本的に異なっているため自説に思い通りに引っ張ることはできても客観的な学問的見地からの逸脱を余儀なくされている気がします。

 ここらでわれわれは、そもそもこのような哲学の一番の基盤になった王陽明という人物に帰ってこなければならない。王陽明自身がそもそも知性主義を脱却した人であった。彼は決して書斎派の学者ではなく、波瀾万丈の生涯を送っている。
 王陽明は、ちょうど日本の足利時代の末期に当る明の憲宗の時代に中国の浙江省に生まれた。有名な書聖王羲之の子孫である。十二歳で祖父に従って北の都にいる父のもとに行き、家庭教育の他、塾の先生についても修業した。あるとき王が先生に向かって「人間は何をするのが第一等であるか」と訊いたところ、俗物の先生は「本をよく読んで進士の試験に合格することだ」と答えた。すると、この十二歳の王は「いや、それはおそらく第一等のことではあるまい、本を読んで聖賢を学ぶことこそ第一等のことだろう」と言い返したので、先生は舌をまいて驚いたという。
 十七歳のとき妻をめとったが、その結婚の晩にぶらりと散歩に出かけたまま帰つてこなかった。
 付近の山の中に道士がいるときいて、それを尋ねて夜が明けるまで語りあかしてしまったのである。妻の家では心配して、方々に人を発して探さしたあげく、やっと山の中で王を探し当てたという。
 王は朱子の学説を、心を凝らしていろいろ研究したが、どうしても落ちつかないので、「五溺」という五つの迷境を経験した。第一の溺は「仁侠に溺れる」というもので、いまでいえば東映映画のような侠客の生活にあこがれて、弱きを助け強きを挫いて男の意気を見せようと、深く侠客道に励んだのである。第二の溺は武道に凝り、騎射・兵法に熱中することであった。第三の溺は、詩や文章が大事だと知って一生懸命文章を勉強することであった。第四の溺は透視術や千里眼で、山奥にいてもいま麓から誰が来るかということを言い当てることができるほどになった。そのうちにこれも正しくないと悟って、第五には仏教に凝った。こんなふうに、仁侠道、武道、文章道、占術、仏教とさまざまに迷ったあげく、どれにも満足を得ないまま二十八歳になると、進士試験に及第して役人になった。
 役人になると宦官と衝突して島流しにされた。このときほとんど人の住まぬ荒涼たるところで、一夜思い当ったのが格物致知の解釈である。この、道理を外側の事物に向かって求めるのは誤りであり、聖人の道は自分の中にあるのだという真理は、書物もなく、討論する友達もなく、先生もなく荒涼とした土地にただ独り、考えに考えぬいて、ある晩ハタと思い当ったのだから、大塩と同じような一種の神秘的体験であった。
 やがて三十九のときに都に帰ったが、四十六のときには南方の軍務総督となって賊を平げた。このときに門人に送った手紙に有名な「山中の賊を敗るは易く、心中の賊を敗るは難し」という言葉がある。王は「わが性自ら足る」という悟りから、すべての人が本当の性を認識しなければならぬと考えて、その本当の性から曇りや錆を取るために、あるいは静坐を勧め、あるいは各自体験する他ない、と弟子達に教えたのである。これが後年、「致良知」の説を作る基になる。
 四十八のとき江西省の寧王が叛旗をひるがえして明の天下を奪いにかかったが、王は二十日間のうちにこれをみごとに平定した。ところが王が「賊は平げました」と上奏しても北の朝廷では宦官がこれを信用せず、天子に勧めてご親征ということになった。天子は南京に仮の皇居を定めて一年以上とどまり、宦臣はあらゆる方法をもって王を中傷した。この冤罪が晴れて天子が北の都に帰り、万事ことが収まったのは王の四十九歳のときであった。
 王は五十歳のときに初めて「致良知」という教法を揚げ、良知とは人の心の霊そのものであり、天地の根本精神であり、天地を生み鬼神を生むところの根本霊性であるから、これは自分の体にあっては良知となるのである。良知はわれわれの体に局在しているものではなくて天地の霊そのものである、ということを説き明かした。
 この、五十から五十六まで郷里に帰って、弟子達と修業をつんだ時期が、陽明学が完成された時期である。「良知の他にさらに知なし、知を致す他にさらに学なし」というときの「学」とは、前にもたびたび繰り返したようにただ本を読むことではなくて、体験をもって真理に到達することである。これは、王自身の人生体験から出た結論であった。
 五十六歳の五月には再び討伐の勅令が下り、当時、健康がすぐれなかったにもかかわらず兵をひきいてついに賊をくだし、大乱を鎮定した。しかし、戦をおえて都へ帰る途次に病が重なって、王は世を去った。
 このように、王陽明自身が征伐につぐ征伐の生涯を送り、一方では宦官の中傷讒謗によって人間社会の醜悪な裏面に度々傷つけられつつ、自分の思想にますます磨きをかけて、「真理は自分の中にあり」という神秘的な体験に到達したことが陽明学の起りであった。この道境の中に思想を完成する伝統はいままで述べたように脈々として西郷隆盛に至るまで通じている。詳述しないが、日本では中江藤樹から熊沢蕃山を経て大塩平八郎その他に至るまで、陽明学はさまざまな日本化された形ではありながら、脈々と伝えられてきたのであった。
 この陽明学はおそらく、乃本大将の死に至って、日本の現代史の表面から消えていったように思われる。その後、陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティの基本を形づくることになって、ひそかに潜流し始めたものであろう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれている。そしてその日本人の政治行動自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやった行動のいくつかのめざましい事例がみられるのである。
 何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、その行動の効果がムダであってももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまったくうかがい知られぬような不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
 日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやという問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗って日本に入ってきた一思想であった。そして、日本というアジアの後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が移入されたのは必然的であった。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむような努力が要った。
 転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを問うということによって、日本の知識人に重要な歴史的転機を与えた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の革命思想に正当に貫かれていたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」という問題が、真に展開されていたであろうと思う。
 しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によって、革命思想の日本化肉体化という問題は一時置きざりにされた。即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるという新しい楽天的な、再度の近代化西欧化の代表をつとめるようになったのだ。戦後、このような近代主義がたちまち破綻したのは当然のなりゆきである。
 その後の新左翼の勃興は、こうした混迷、矛盾を経て老朽化していった共産党的革命思想に対するアンチテーゼであったが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化ということについて、風土性の問題から離れざるを得ぬという時代的環境に置かれていった。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき故郷を失った状態にあった。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、一般の大衆の精神的空白と相わたった。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき手がかりを失っていた。すぺては都市的空間の中で、インターナショナリズムの中で、諸外国の学生運動と軌を一にする画一的な精神の自由とタブーの破壊とに向けられた。
 このような精神状況の中では、民族主義はいつもトリッキーな異常な仮面をかぶらねばならなかった。古き民族主義者達は拠点を失って、空疎な民族主義の叫びをあげ、新しい民族主義者達はそれをただ自分らの利用すべき武器として利用するに過ぎなかった。そして革命思想と民族主義とは癒着しながら、また相抵触し、相疎外して、ついにわれわれの真の精神的な拠点から、人人の魂をゆるがすような行動の振幅をひろげるには至らなかった。
 私が陽明学をここに提唱するのは、このような状況下においてである。七〇年は予想されたような波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じような論理が復活するのに役立った。いまや自民党も共産党も同じような次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、目前の事態の処理によって大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、という術策に憂き身をやつすようになった。このような政治行動は、すみずみまでソロバンずくの有効性によって計量され、有効性の判断が政治行動のメリットの唯一の基準になった。すでに自民党がそうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな目的に対する有効性によって判断している。
 それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるいは脱イデオロギーの時代が来たとよんでいる。そして工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るということは、つとに予見されたことであったが、その予見は半ば当り半ば当らなかった。工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によって埋められ、精神の飢えが再び飽満した食欲によって満たされることになった。そして先にも言ったように、人は心の死、魂の死を恐れないようになったのである。
 陽明学が示唆するものは、このような政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である。いったんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもっともきびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側にいるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたように日本の行動家の魂の中でいったん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。もし革命思想がよみがえるとすれば、このような日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむずかしいとするならば、陽明学がその中にもっている論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを用意するかもしれない。
 われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬ってきた。われわれは西洋に対して戦うというときに何をもとにして戦うかを、ついに知らなかった。そして西欧化に最終的に順応したものだけが、日本の近代における覇者となったのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利という理念を揚げたときに、その実力による最終証明となったものは日露戦争であったから、その後の日本は西欧的な戦争を戦うことによって西欧に打ち勝つという固定観念に向かって進んで、第二次大戦の破局に際会した。一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が貿易立国によって進まねばならない島国という特性を有しながらも、アジアの一環に属することによって西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
 精神による抵抗は反体制運動であると否とを間わず、日本の中に浸潤している西欧化の弊害を革正することによってしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのような形で西欧化に妥協するかによって、無限にその政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの陽明学という忘れられた行動哲学にかえることによって、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の闘いの方法を、深く探究しなおす必要があるのではあるまいか。
 

 陽明は三十七歳、龍場の地で『大学』という儒学の経典にある文句「格物致知」の意味について悟得したところがあったと伝えられています。当時陽明はある人物を救おうとして直訴したものの、偽作された時の帝の命によって左遷されました(正義を貫こうとして結局自身が罪を得てしまったところ司馬遷と似ています)。そこでは、政界の悪弊源である影の実権者・宦官(劉瑾)からも命をねらわれたり、また左遷された地の風習から生け贄にされそうになったりと、疫病を患いうる環境でもあるその危険な地で陽明は死を覚悟していたのですが、その極限状態で彼は今まで身につけた学問知識を反芻し何が一番大切なのか、当時出世のための学問となり果てた朱子学も念頭に入れ考え抜いたのでしょう。三島氏はこの悟得を「神秘体験」と捉えていますが、偉人の伝記には誇張も含まれているため三島氏の見解に対する是非の判断は保留とします。

 その「格物致知」の意味を陽明は「自身の行為をただし本来的な知(後に良知と明言される)を発揮すること」だと悟りましたが、朱子の「事物の理をこつこつと究めていくうちに、ある日突然完全に天の理と合致した知が会得され完全な知がものになる」という解釈と大きく異なっているものでした。(朱子のこの「ある日突然」という神秘的とも表現できる言い方自体に私個人は疑問を持ち、『大学』という儒学の経典にある文句「格物致知」の本当の意味はそうではなかろう、かといって陽明の悟得どおりでもないとは思っています。ここではその問題は避け、木村英一『中国哲学の探究』創文社や柳田祐延『「格物致知」論の構図』中国思想史研究第十三号1990の考察を参考してください。)

 さて、後半のこの部分になって三島氏の扱ってきた陽明学は日本化されたそれであることがやっとはっきりとします。そして冒頭の「行動哲学としての陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られた本になった。」とは一見相反した「日本人の行動様式のメンタリティの基本を形づくることになって、ひそかに潜流し始めた」という見解を述べています。ひそかに潜流しているのなら、わざわざ陽明学を提唱する意味がないとも思われますが、末尾に記されるとおり三島氏が陽明学を提唱するのは、西欧化に対する精神的抵抗、精神と政治の対立状況における精神の闘いの方法を得るのに必要だとするからなのでしょう。この主張が現在有効か否かは、各人それぞれの判断によって見解が分かれるところでしょうが、彼が生きた1970以前の日本の状況と今の状況とは可成り違うところがあるのでこの部分を取り出して三島氏の思想を検討することは控えます(私は学生運動を知らない世代です。私が生まれた昭和三十年代の日本は経済的にまだ貧困状態で価値観が混沌としていたと朧気ながら思い出すのですが、三島氏生存当時の時代考証が私にはできかねるのでこの三島氏の思想検討の任にあらず)。

 さて、三島氏が陽明学をニヒリズムと規定するもう一つ理由がこの後半において明らかにされています。彼はニヒリズムを価値の否定という原初的意味で使用しているというより価値観の混沌の中で価値が相対化して意味を失っているという意味に近い概念として使用しているのかもしれないからです。

 陽明学が示唆するものは、このような政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である。いったんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく……

と難解な言い回しをしていますが、精神の空白・飢えと価値観喪失という極限的状況の中にあってこそ精神が鍛え上げられるものであり、陽明学はその忍耐とその後の昇華発展の精神を尊ぶ哲学であると彼は考えていたように思われます。陽明自身にこのような意味に合致する言葉はなく、後に日本化された陽明学を更に三島氏が解釈し直したものと思われます。

 陽明自身、読書をしていて疲れたら更に読書せよというように行動と随伴した精神的な努力・向上を目指すものですが、彼の思想を突きつめようとすればするほど革命思想とは無縁であることに気づきます。

 この読書をしていて疲れたら更に読書せよというのは、『伝習録』十七条に見え

 

 日闕H夫覺紛擾、則靜坐。覺懶看書、則且看書。是亦因病而藥。
 日々の修養で心が落ち着かなくなれば、静座しなさい。本を読んでいて疲れたら、更に本を読みなさい。これも同じく、病に応じて治療する一方法だ。

 

とあって、陽明学初歩・入門の段階で講師からよく承るものです。しかし、これは陽明の門人の心の安定と向上とを願う気持ちから発せられたもので、この条をじっくり読むと、心を鬼にして一つのものに向かえという勤勉のみを奨励したものでないことが分かります。また、現代神経医学・精神医学ではこれを普遍的な精神強化方法として適当とされるか疑問ですし、例えば、体質的に神経過敏で大腸性過敏症候群や胃痛を抱える人もいて、もし、全ての人がそうあるべしという道徳律なり法令が発布された暁には多くの人が先の症状で参ってしまうでしょう。

 陽明の語録を読む場合、『論語』に見えるような説きかたと同じく各人に対して適切な処方を陽明は語ったとして読むべきでしょう。一隅にとらわれると全体を見通せなくなります。

 革命とは、もともと天の命によって政治権力者の交代することをいいます。これは『易経』に基づいた語ですが、現在では産業革命・技術革命等の語が広まっているように画期的な変化という軽い感じで使用されています。三島氏が考察されている大塩平八郎・西郷隆盛各人は果たして自ら当時の政府を転覆させるような革命を意図して行動したのか疑問です。表題にある三島氏の「革命哲学」の範囲は個人の精神の変革という意味であることを信じますが(彼が自決した理由の一端は、最近公開された遺書によって同志に迷惑を掛けたくなかったためとされています)、陽明の思想は、朱子学の末弊を根絶すべく、彼が信じた孔子の原初思想へと回帰させようとしてなされたもので、これも革命という名で括るには不適当に思われます。

 近刊の書物で、陽明思想の専門家である岡田武彦氏は、岡田武彦全集 1『王陽明大伝 一』生涯と思想・岡田武彦・明徳出版社・2002・p24において、

 最初に私から、日本の民族性が陽明学の摂取に適合している事情を述べ、続いて二人の若い米国の学者が意見を陳述した。その中の一人が、陽明学をもって謀叛の哲学であるという意味のことを主張し、大塩中斎の乱や三島由紀夫の行動を引き合いに出してこれを説明した。陽明学に対するこのような見方は、いまに始まったわけではなく、中斎の乱の直後にもそれがあったらしく、当時、京都の春日潜庵が朱子学から陽明学に転じたところ、ある儒者が潜庵に対し、陽明学は不穏な思想を説くものと見られているから信奉しないようにと忠告したという。
 米国の若い学名が、陽明学をもって謀叛の哲学のように述べたのは、当時、まだ三島事件のほとぼりが残っていたせいかも知れない。そこで私は、三島は陽明学のことを説いていたが、必ずしもその真を得たものではないことを説明するとともに、陽明学者として高名を馳せていた中斎が乱を起こしたからといって、それだけで陽明学を謀叛の哲学のように見るのは大なる誤りであると論じ、
 「陽明自身は明朝を顛覆させるほどの大叛乱に際し、義軍を率いて一挙にこれを鎮圧しています。あなたは、大塩中斎が乱を起こしたのを見て、陽明学を謀叛の哲学であるかのように説かれましたが、その論法でいいますと、島原の乱を起こしたのはキリスト教徒ですから、キリスト教は謀叛の宗教ということになりましょう。それで、いいのですか」
と反論した。陽明学に対するこのような誤解は、いまの日本にも多いのではなかろうか。

 

と述べている。

 つまり、謀叛と革命、文官に乏しい実践・行動という問題解決法を、陽明思想の中から無理やり読み取ろうとしたのが、そもそもの誤りなのである。

 

●あとがき

 三島氏の言葉に対して執拗なまでの疑問を呈しましたが、これは有名な文学者であるからその人の説は悉く信頼に値すると考える人がいて、その個人的なエッセーによってある学問領域に対して世間の人が誤った印象を受けることがあるのを危惧してなされたことです。例えば、陽明学について知識が白紙の状態である青年が読まれると、陽明学に対する誤解が一生続くでしょうし、また。本に書かれているから正しいと自らの判断・疑問を投げかけようとしない人も多くいますから。

 決して三島氏を中傷しようとか、その小説の存在理由に対して疑問を投げかけるとかの意図があるわけではありません。ご遺族の方、また三島文学に対して熱心に研究されている方、ご理解のほどをお願いいたします。

 何故、三島氏のエッセーを対象としたのか、それは冒頭に簡単に述べていますが、三島氏を陽明学者と捉える人がおられるからです。私の恩師・中田勝氏も彼は陽明学者かと問われたようですが、そうではないと断言されたそうです。また、山下龍二氏(退職後)に名古屋大学でお会いし、私の三島氏に対する見解を述べたところ、先生も同じ考えであったということで、既に産経新聞の雑誌「世界」でしたか特集を組んで意見を述べていらっしゃったとのことですが、図書館にも保存されてなく拝見できませんでした。この問題は、三島由紀夫研究者が避けては通れない箇所でもあり、十数年以上自分でも明確に結論が出せないものでした。三島氏の詳細について知らない門外漢ですが、何か至らない点がございましたらご教示ください。

 また、私の責任の持てる専門は中国思想関係で、こちらの方により時間をかけねばならないので、三島氏に関する論考は特別なことのない限りこれ以降ないと思われます。この拙稿がもとになって三島由紀夫研究者が新たな発見をなされ・論文等を公にされることを望みます。この拙稿は三島氏引用の部分が多く、解説・論評に終始しているため将来論文として公にする意志はありません(web上の小考としては増補・改訂の予定はしていますが)。たたき台・資料として活用してください。

 最後に、死後五十年の著作権の保護期間の根拠はどこにあるのか不勉強でしたが、この小考を作成する際に妥当なものだ感じられました。ご遺族の方・生前昵懇な関係にあられた方の感情を逆なでするかのようなことを言われるようなことは、例えば我が身の悪口雑言を言いふらされると同じような痛々しい感情を惹起させることになり、また、故人の遺産の価値をないがしろにするような発言はご遺族にとってこの上なく迷惑なものと察します(まして、コピーによって商業的な利益を得ることなど、もってのほか)。

 言論の自由とは言いますが、自由がある反面、相手のことを少しも考えない身勝手なそれは制限されるという性質を持っています。権利の裏側に義務があることと同じです。

 かといって、天下の公道、学問領域に関する反論意見がその間、閉ざされるべきであるというわけではないと思われますので敢えてその学問領域に関する反論意見を公開しましたが、繰り返しご理解のほどお願いいたします。

 最近、三島氏に関する本で「公表権」侵害のため廃刊となったものがあったと聞き及びましたが、上に述べた事情を察してくださるよう、くどいようですがお願いいたします。

 2003 8.2修正更新 市坪昭仁