三島の天皇に対する態度は現人神的なものではなかった。文化防衛論等において披歴しているが、「文化概念としての天皇」という概念を主張し、次のように述べている。
概要「天皇は歴史と文化の伝統の中心にして祭祀国家の長である。そういう日本の文化の中心としての天皇は国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である。文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、文化の真の敵は何かといふ考察を促す。“守る”とはつねに剣の原理である。菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与へられなければならない。(中略)天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務である」。 |
また、伊勢神宮の造営や、歌道における「本歌取り」の法則などを例に挙げ、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)とオリジナルとコピーの関係にはない。天皇は宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在である」とも述べている。
1966(昭和41)年の林房雄との対談では次のように述べている。
「僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ」。 |
「天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる」。 |
三島は、戦後の象徴天皇制に対して、大衆社会化に追随した「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄している。「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼし、民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵している。れんだいこ的には、ここが三島天皇論の限界ではないかと思っている。ここでは詳細には述べないが、れんだいこの天皇制論と真逆になっている。これについては別途言及しようと思う。
興味深いことは、三島が、昭和天皇に対して屈折した評価をしていることである。死の1週間前に行なわれた対談で「ぼくは、むしろ(昭和)天皇個人にたいして反感を持っているんです。ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」と述べており、昭和天皇に対する否定的な感情を披歴している。その観点が二・二六事件三部作の最後を飾る「英霊の聲」に端的に表されている。三島はその作中で、「たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きした上で、「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた」と批判している。
「二度」のケースのその1は、「兄神たちの蹶起の時」即ち誠忠の士であった青年将校の二・二六事件に対し「叛逆の徒」と呼ばわり銃殺の極刑にはずかしめたことを云う。三島は、二・二六事件の蹶起将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の側近でだった幣原喜重郎も批判している。高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について、「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという。
その2が、「われらの死のあと、国の敗れたあとの時」。すなわち、戦後の「人間宣言」により、「神としての天皇のために死んだ」神風特攻隊隊員らの至誠を裏切ったとしている。但し、これについては次のようにも述べている。
「昭和天皇は、『昭和二十一年元旦の詔書』を発せられた後も、『現御神』、『天照大御神の生みの御子』との御自覚は決して失ってはおられなかった。天皇の神聖性は絶対に失われてはいない。
昭和天皇は、昭和三十五年に、『さしのぼる 朝日の光り へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる』と歌われ、同三十四年には 『あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り 結ぶこの朝』
と詠ませられている。この二首の御製は天皇および皇太子は『天照大神の生みの御子』即ち『日の御子』であるという御自覚を歌われているのである。 これらの御製を拝すれば、昭和天皇が『昭和二十一年元旦の詔書』においていわゆる神格を否定され人間宣言をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる」。
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その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想している。1969(昭和44).5.13日におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと敬意を表している。同討論集会で三島は、「天皇を天皇と諸君が一言、言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ(共闘する)のに、言ってくれないから、いつまでたっても“殺す、殺す”といっているだけのことさ」と言い放ち全共闘学生を挑発している。
三島は福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル、1967.11月号に掲載、「若きサムラヒのために」所収)において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また同対談で次のような天皇論を披歴している。
「理想の天皇制とは没我の精神であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターである」、「そこで、天皇とは何ぞや、といふことになるんです。ぼくは、工業化はよろしい。都市化、近代化はよろしい、その点はあくまで現実主義です。しかし、これで日本人は満足してゐるかといふと、どこかでフラストレイトしてゐるものがある。その根本が天皇に到達するといふ考へなんです。フラストトレイションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない、いまから準備していなければならない。(中略)ですから、近代化のずつと向うに天皇があるといふ考へですよ」、「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、―
それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」。 |
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年(昭和40年)頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
なお、磯田光一が三島が亡くなる1ヶ月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと島田雅彦との対談で述べているが、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと指摘されている。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。三島由紀夫は昭和四十一年一月、『豊穣の海』の取材で宮中三殿を見学してゐる。この時、三島と入江の間に何か接点があつたものか。確証ははない。この宮中三殿の見学とその折に会つた内掌典の話は、三島由紀夫の天皇観に小さくない影響を与へたといはれてゐる。
皇位世襲論について、鈴木邦男氏は、楯の会の「憲法研究会」において三島メモが残されており、それによると、「天皇は国体であり、神勅を奉じて祭祀を司り、「国軍の栄誉の源である」という原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かると述べている。鈴木は、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年皇位継承問題が表面化したことから注目を集めているという見解を示し、戦後昭和天皇が側室制度を廃止し、11宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島が予見していたのではないかと推測し、これも昭和天皇への批判を含んでいたのではないかとしている。
実際には、鈴木が主張している「三島が女系天皇を容認していたことを示すメモ」は確認されていない。鈴木が見解の元としている出典の松藤竹二郎の著書「血滾ル
三島由紀夫『憲法改正』」、「日本改正案 三島由紀夫と楯の会」、「三島由紀夫『残された手帳』」にも鈴木説を裏付けるものはない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「非常事態法について」の3章から成る『問題提起』という論文のみである。そこには、天皇の皇位継承の男系・女系については一切触れられていない。
松藤竹二郎は、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に「憲法研究会」で討議案をまとめた中のあくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・阿部勉の提案した「女帝を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている。
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