「私はいささか驚いた。あの三島由紀夫が天理教に大きな関心を寄せていたのである。三島の伯母のひとりは熱心な天理教信者という。三島は伯母に伴われて天理教の教会本部に参拝したことがあるのだ。『陽気』(昭和36年8月号)の「三島由紀夫―宗教と文学を語る」の中で伯母の人柄に触れるとともに天理教の感想を述べている。梶山氏の文を基に紹介する。「私の伯母という人は、親類中一番幸福な人なのです。明るく朗らかで、物欲というものがない。私はこういう伯母の楽天性を通じて、天理教は非常に明るい宗教だと思うのです。(略)夫は大連の市長をしていたが、亡くなり、終戦となって内地へ引き揚げてきたのです。非常に思い遣りの深い人で、自分のことはほっておいても他人のお世話をせずにおられない・・・。伯母の気持ちは単なるギブ・アンド・テイク式の考えからではないと思う」などと語っている。
また三島は、保田与重郎(1910−1980年)=奈良県桜井市生れで戦後の日本浪漫派の論客=からもかなりの天理教の知識を得ていた。三島は「保田氏が天理教は生活の上で原始的な人間の喜びを実践していると言う。私もそう思うのですが、天理教は他の宗派のように近代人に威圧を加えない。他の宗教は皆現世否定の思想が根本に流れている。現世肯定の上に成り立っている唯一の宗教です。天理教は日本に生れた最も日本的な宗教で、将来に可能性のある明るい宗教だと思う」(木下要約)とも語っているのだ。
ところで三島にとって最後の大作、「豊穣の海」の4部作の場面に円照寺(小説では月修寺)を舞台にしている。私も宇佐博士との共著、「とらわれからの解脱」の中で文学・仏教の欄に三島を取り上げている。「法相宗月修寺の根本経典は、唯識の開祖世親菩薩の『唯識三十頌』云々・・・」と語り、輪廻転生の核になるとの解釈もある阿頼耶識に言及しており、三島の唯識学についての詳しさに驚愕した。当時、私も唯識にかなりの関心を寄せており、唯識学を基に私の先祖を素材に小説「生生流転」を上梓したのだった。梶山氏は三島がこれまで伯母などを通して関心を寄せていた「月修寺」から数キロしか離れていない天理の里に想いを巡らせていたならば諫死という自裁はなかったとみている。
ところで私は誰の著作か、あるいは新聞記事で知ったのか、記憶は定かでないが、確かある著名人が三島がもし、ヨーガに関心を寄せ、実践していたら、あのような出来事は起こらなかったという見解を興味深く読んだ。実に実に、誠に誠に惜しいことではあるが、類稀な天才、三島は豊かな知性と文才、さらには強烈な思想とが相俟って諫死の形を取る宿命にあったのだろうか・・・こればかしは誰にも判らない・・・。だが・・・だが、である・・・。私の正直なところをいうと、三島に(確か同じ年の)梅原先生と2人で今の日本と行く末について激論を闘わせてほしかったと今でも心底から思っている」。
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