諸氏の三島由紀夫論

 (最新見直し2013.08.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの三島由紀夫論」を記しておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


【林房雄の三島由紀夫論】
 」より
 僕は、『英霊の声』 についての文芸時評を、ほとんど全部読んでみたが、みんなあれはイデオロギー小説だと思っているようですが、しかし 『英霊の声』 には、イデオロギーはない。批評家諸君はイデオロギーという言葉をどう解釈しているのか。イデオロギーは普通、社会思想と訳されているが、つまり集団の思想で、個人の自由な思想とは対立する。 『英霊の声』 は思想小説であっても、イデオロギー小説ではない。三島由紀夫という個人の自由な発想の上に成り立っている。イデオロギーは、一つの集団、または党派の立場から絶対化されたものだから、個人の思想をのみこみ、場合によって圧殺するものです。そういう意味のイデオロギーは、『英霊の声』 のなかにはない。三島君の心の中に、『憂国』 や 『十日の菊』 のころから萌芽し成長しつづけた自由な思想がある。その自由な思想が現在の日本という大衆社会化され、平均化され、アメリカナイズされ、占領民主主義化された現状に対して激怒している。神格天皇と人間天皇の問題で戦後の天皇制にまで怒りのしぶきがかかっている。
 ヤスパースは大衆というのは、民族とは違うと言っている。「民族はさまざまな秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は実体的で質的なものであり、共通した雰囲気をもち、この民族の出身の個人は、彼を支える民族の力によっても一つの個性をもっている。・・・・・これに反して、大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承をももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている」。
 大衆社会化時代の大衆を相手には、芸術も文学も生れない。・・・・・人間の精神は自由ですから、僕たちは自由に桃山時代や室町時代や鎌倉時代に旅行すればいいのです。あなたの好きな 『源氏物語』 の時代にも 『万葉』 の時代にも、または、ギリシャの盛時にもルネッサンスの時代にも旅行すればよろしい。そこには大衆社会化時代と無関係な芸術と文学が実在している。歴史は少なくとも千年を単位で見るべきだ。文明の歴史は五千年だと普通言われているでしょう。
三島  なんか、そんなことを考えだしたのは、『葉隠』 のなかに、一芸一能だけに秀でたのは駄目だと書いてある。これは、とても素晴らしい思想だと思った。「芸能に上手といはるる人は、馬鹿風の者なり。これは、ただ一遍に貧着するゆえなり。愚痴ゆえ、余念なくて上手になるなり。何の益にも立たぬものなり」というね。僕は芸術上の質というもののなかにある衰弱というものを、こんなにはっきり書いている文章はないと思う。・・・・・量ということばは悪いのですが、質ということばにある文化主義的な衰弱というものがいやになってきた。いまやはり日本を弱めているのは、文化主義的衰弱ですよ。・・・・・ことばというものは、質とか量とかいう問題を超越した、もっともっと大きなものですね、言霊的なひろがりのあるものだと考えるようになった。
 論語を読んでおもしろかったのは、孔子が、自分のやることには創造はない、創作はない、すべて堯舜の道を、周公の道を祖述して復活するだけだと言っている。あれは強い精神だと思ったね。独創性なんかにこだわっていないから、孔子は古代に友達があって孤独じゃなかった。創造というものは、それ以外にないね。
三島  独創性を信じたやつで、一流の文学者は一人もいませんよ。ヴァレリーも全然独創性なんか否定しているし。
 別の話だが、あなたはいつかフランス文学のことを話して、パリに行ったらうっかりジャン・コクトオをほめるな、サルトルはまあよろしいがと言いましたね。
三島  パリの文壇人たちが言うには、コクトオは利口すぎて真実 (ヴェリテ) がなかった、というのです。
 ヴェリテというのは、英語ではシンセリティーのことでしょうね。フランス人がシンセリティーを作家評価の底においているという話は印象的だった。
三島  そういう点では、林さんはいろんなイデオロギーにぶつかられた。僕はそれほどぶつかっていませんがね、どっちも同じことなんです。ぶつかっても、ぶつからなくても。それでね、つまり僕は、人間が自然に好きなように生きるというのは、論理的一貫性をつくるいちばんのもとになると思うのです。それは 『葉隠』 の、どうせ短い人生だから、好きなことをして暮せという意味はそれだと思うのですよ。自然に好きなことだけやっておれば、絶対人間は論理一貫性を保てるように、神様は作っていると思いますよ。ところがときどき、好きでないことをやるから間違う。
三島  非難なんて覚悟してますけれどもね。好きなことでの受難ならちっともかまわない。しかし、もし自分で、これは違うのではないかなとか、これは、僕の考えではないな思ってやったことで受難したら、人生つまらないでしょう。
林   自分の好きなことをやるというあなたの意味はやりたいことをやるという石原慎太郎君の思想とはちがいますね。君のようなストイックな作家は他にはないですから (笑)。
三島  だからエピキュリアンですよ。エピキュリアンは、いちばんストイックですからね。僕はその意味では、エピキュリアンだと思います。で、エピキュリアンであればですね・・・・・・。
 したいことをしないことによって、ほんとうの楽しみ、または幸福を享受するというのがエピキュリアンの思想ですね。後世は両派を対立させて考えているが、あなたはストイシズムの正統としてのエピキュリアンで・・・・・。
 歴史もそうですってね。近代史学だとか社会学的方法だなどというけれど、歴史の真実はそんなものではつかめない。論理も方法も達しえないところに愛情が作用する。愛情以外に歴史を解釈する方法はない。歴史的人物に惚れることによってその人物を理解できる。
三島  批評もそうですね。批評も絶対そうです。
 好きか嫌いかのどっちかだ。作品批評の客観的規準なんかありませんよ。あれば便利ですがね。あると思っている批評家もいますがね。
三島   でも根本動機は愛情でなければ、真実は・・・・・。
 真実とは人間精神の創造物でしょう。事実は客観的なものです。それに生命を与えるものは、愛情という主観的で神秘的なものだとすれば、不可知論ですね。

【美輪明宏の三島由紀夫論】
 美輪明宏証言「美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫」。
 「日本の美意識でしょうね。日本の美意識のレベルの高さ。三島さんがおっしゃってたことは、あらゆる芸術作品は霊格が高くなければならないとおっしゃってたんですよ。スピリチュアルのね、霊格が高いものでないと本物の芸術とはいえない、と。しかもオリジナリティーですね。たとえばアメリカにも、英国にも、フランスにもイタリアにもドイツにもない、日本だけの文学、そういう美意識。よそとは違う格調の高さとか、ものの見方、表現の仕方。三島さんは古典から出発してますから、歌舞伎や能とかね、そういった、純日本的な美学の基本ができてらしての表現だから…」。

 三島の文章が「美しい」、「品がある」といわれる理由に「大正時代の山の手上流階級の言葉遣い」があった。三島は生涯を通して、古きよき日本の文化・美しい言葉遣いが失われないようにと、美しい日本語を登場人物に語らせ続けた。次の一文がその証左である。
 「私がもし急にいなくなってしまったとしたら、清様、どうなさる?」(春の雪~映画)。

 なぜ三島さんなのかって、三島さんだけでなくてね、本物を求める時代になったんですよ。終戦後、66箇所も絨毯爆撃でやられて、とにかくみんな着る物も住む所も食べるものもない。そうしたらね、礼節とかね、教養とかね、知性とか、そんなこと言ってられなかった。みんなケダモノだったんですよ。そしてやっと戦後60年になって、やっと気がついてきた。大切なものを忘れてた。つまり、謙譲の美徳であるとか、礼儀作法とか、しつけとか、ロマンチシズムとか叙情性とか、そういったものがどこにも無かったわけですよ。文学やなにかも思いつきのね、いいかげんな、人を驚かしてやろうって卑しい魂胆で作られた文学、美術、音楽、そういうものばっかりになったでしょ。でも、一般大衆はそうじゃない。そんなものいらない、代用品はいらない。本物が欲しいのよ。で、振り返ってみたら日本に素晴らしいものがあるじゃないですか。「これなんだよ」って言ったら、ボツボツ始まってきたんですね。ですから、私は一生懸命…三島さんはご迷惑かもしれませんけれど…三島由紀夫、三島由紀夫って叫びつづけて参りましたけど、三島さんだけじゃない、寺山修司も…。そういう日本が世界に誇る本物。かつてジャポニズムっていって世界に尊敬されてた時代ですよね。明治・大正・昭和初期までのそれが日本にあるんですよ。それを、大衆のほうが先回りして欲しがってるんですよ。それがとりもなおさず、三島由紀夫であり、寺山修司であり、ずーっとブームになってきているんですよ。

 日本だけでなく世界からも愛され続けている稀代の天才作家
 
 あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ 。「日本少年」とか「少年倶楽部」で育った時代なんですよね。 少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという 「少年倶楽部」の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。 普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。 それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。 美輪明宏 「ぴんぽんぱん ふたり話」より

 美輪明宏、瀬戸内聴寂 「ぴんぽんぱん ふたり話」より
瀬戸内  「三島さんのことを書いた福島次郎という人がいるじゃないですか。私は、ああいうの嫌いなの。…」。
美輪  「前にも、一人出たんですよ。『週刊読売』で私、対決したことがある。話を聞いてみますと、三島さんが車で迎えに来てくれたとか言うんですね。でも三島さんは、いつも奥さんに運転してもらってたくらいだから、自分では運転できなかった。自動車教習所には行くことは行ったんだけど、実技になって、ワンブロック外を走ったら 胃が痛くなって、ひっくり返ったんだって。(略)それで運転するのは、いつも奥さんだったんですよ。だから、その男の話は根っからの嘘だったの。でも、まあ世間という魔界には根も葉もないことを言うのがいますからね」。
瀬戸内 「…あの小説は、三島さんからもらった手紙を売りに行くところから始まりましたよね。ひどいんですよ。ほんとうにけしからんと思うのね。三島さんのお母さんやお父さんにご飯を御馳走になったり、とっても世話に なってるでしょ。あの男の小説は卑しい。…もう呆れる」。
美輪  「でも、三島さんにも非があるんですよ。だれにでも彼にでも、手紙を出してね。あの人は、まあ呆れるくらいに手紙魔で、何で、こんな人に手紙を出すんだろというようなゴロツキみたいなのにも、丁寧な手紙を出しているんです。そのゴロツキが、おれはこれだけ三島に思われてるんだと、私のところに三島さんの手紙を寄稿したことがあるの。そのことを私が話すと、三島さんの目が泳いだんです。「これは私が始末しておきますからね、よござんすね」と言ったら、素直な子供みたいに「ありがとう」と。そういうドジをあの人はよくやったの。そういう点は ほんとにまあ呆れるほど世間知らずでしたね」。瀬戸内「…人を疑わないのね。おぼっちゃんね。あれだけ小説の中では、人間の悪とか悪意とか、いろいろな権謀術数を書いて、頭の中ではあそこまで理解していた人なのに…」。

【**の三島由紀夫論】
「ハトポッポ批評通信」の
http://www.mag2.com/m/0000206311.html

バックナンバーも公開中です。
http://blog.mag2.com/m/log/0000206311

 獄中における絶望的な状況においてもなお救済を信じる磯部浅一の「癒しがたい楽天主義」。磯部浅一の獄中遺書

 三島はみずからの行動思想の中核にある天皇信仰の根拠を、二・二六事件の首謀者のひとりである磯部浅一の獄中遺書から多少インスパイアされたとぼくは考えています。そこでふたたび『「道義的革命」の論理──磯部一等主計の遺書について』(以下、『「道義的革命」の論理』と略します)に戻って、磯部の獄中遺書についての三島の読解を追っていってみましょう。

 橋川文三と三島の公開論争の内容を論じています。

 道義的革命、すなわち当為(理想)による現存国家の内的・主体的変革という規範から天皇制を逆照射するとき、「文化概念としての天皇」という『文化防衛論』の理念が生みだされます。

 ところで、この「文化概念としての天皇」──「純粋天皇」とか「詩的天皇」とも言われます──という概念。文化的な意味での天皇(詩的天皇)と人間天皇(統治的天皇)とを徹底的に峻別して考えるところに、三島の「政治文書」の中心的なテーマがあります。

 三島は「道義的革命」というみずからの行動の形式を可能にする存立基盤として、天皇制の機構そのものを逆照射してゆきます。ここから三島は、みずからが希求した集団行動を、二・二六を規範とする革命行動へと形式化することを正当化してくれる理念を調達します。そのために書かれた文書が『文化防衛論』です。

 三島由紀夫が自分の文学と行動との関係をもっとも直截に記した著作は『太陽と鉄』(昭和四十年~四十三年発表)です。しかし、よく知られているように、この著作の中には天皇、あるいは天皇制についての言及は、一カ所もありません。三島が天皇について積極的に語り始めるのは、『英霊の声』(昭和四十一年、1966)という短篇小説を発表してからです。

 今回もまず、文学と行動との責任のあり方の違いについての三島の考え方を追ってゆきます。行動における責任と「非情」のあり方を、三島は次の文章の中で、小説が持つ言葉の重みと類比させながら、説明しようとしています。行動において、小説の言葉の重みと比較されるのは、集団行動における「機密」保持の重要性です。

【保田與重郎の三島由紀夫論】
 保田與重郎 「ただ一人」より 
 「戦後文学の作品は沢山あり、さらに沢山つみあげられることだろう。今や大企業である。 しかしついのつまりに、三島由紀夫だけが文学及び文学者として、後の世に伝わってゆくだろう。 彼は紙幣を作っていたのでも、銀行預金通帳の数字を書き加えたのでもないからである。

 私が三島由紀夫氏を初めて知ったのは、彼が学習院中等部の上級生の時だった。 …そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となってからも、何回か訪ねてきた。 ある秋の日、南うけの畳廊下で話していると、彼の呼吸が目に顕ったので、不思議なことに思った。 吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷っているのでもない。長い間不思議に思っていたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知っている者が、彼は喘息だったからではないかと云った。 私はこの齢稚い天才児を、もっと不思議の観念で見ていたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思い、やはり別の印象を残している。日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考える時、偉大なる生の本願を、文人の信実として表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫ただ一人を記録する。 僕らは卑怯な健康よりもデカダンをとる。デカダンの中にあるはるかな未来への輝きと能動も熟知しているのだ。僕らが浪漫主義を主張したことは、悲しみと憤り、歎きと憂いの混淆した境地の主張だった。

 私は日本民族の永遠を信じる。今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、数々のこの世の日々よりも、多くの国民にとってはるかに近いところにいる。今日以後も無数の国民の心に生きるようになったのだ。そういう人々とは、三島由紀夫という高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えている。総監室前バルコニーで太刀に見入っている三島氏の姿は、この国を守りつたえてきたわれらの祖先と神々の、最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらわれたものだった。 しかしこの図の印象は、この世の泪という泪がすべてかれつくしても、なおつきぬほどのかなしさである。豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。 国のため、いのち幸くと願ひたる、 畏きひとや 国の為に、死にたまひたり

 わがこころ なおもすべなし をさな貌  まなかひに顕つを いかにかもせむ  昭和45年11月某日  

 夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり み祖の神の すさび泣くがに   昭和45年11月某日

 すべての国民が悪魔に魂を売り、経済の高度成長と取引をしたように、現世相は一応思えるかもしれぬが、国の正気の脈々としたものが、必ず潜流しているにちがいないと私は思う。 それなくしては日本はなくなり、人類も、理想も、文明も消滅するのである。人類に意志はなくとも、生命の起源に於て、天地との約束はあったと思う。これを神々という御名でよぶことを、私はためらはない。彼がそのわかい晩年で考えた、天皇は文化だという系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、道徳であり、従って節度とか態度、あるいは美観、文芸などの、おしなべての根拠になっている。 三島氏が最後に見ていた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。 武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だった。 そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。

 三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。 そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。私は故人に対し謙虚でありたいからである。 三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などという巷説は、まことににがにがしい。 その振る舞いは創作の場の延長ではなく、まだわかっていないいのちの生まれる混沌の場の現出であった。国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である」。
 伊沢甲子麿 「思い出の三島由紀夫」より
 「三島由紀夫『伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?』 。伊沢甲子麿『保田さんは私の尊敬する人物です。 …戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です』。三島氏は嬉しそうな顔をして『私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました』と言われたのである。これを御縁として、しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ時おり三島氏に会うために通うようになった。私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいるものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(略)それと共に三島氏の要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について、中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った『僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり』という言葉が大好きになったようだった。 また或るとき私が、『三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない』と言うと三島氏は『その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ』と言ってくれたのであった。三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ」。
 三島由紀夫が尊敬していた保田與重郎の三男の直日さんは、学生時代からアラブ支持の活動をしていて、パレスチナ難民へのカンパ活動、難民救済に打ち込んでいたそうです。 そして昭和42年、中東戦争でアラブ側がイスラエルに完敗した数日後に、保田直日さんは睡眠薬を飲み自らの命を断ったとのことです。 三島由紀夫がこのことを知っていたかどうかは不明ですが、保田與重郎の三島への思いは、この息子の死とも重なり、より大きな悼みになったと思われます。

【岡潔の三島由紀夫論】
 岡潔「蘆牙」。岡潔研究会(横山堅二代表)が復刻した『蘆牙』第三号は原号が昭和四十六年四月に奈良で発行されたもの。 同誌は当時、奈良で発行され、同市に住まわれていた天才数学者・岡潔を囲むグループが出していた。岡潔は岩下志麻、笠智衆が主演の映画『秋刀魚』のモデルでもある。このなかで岡潔が三島由紀夫に触れた箇所がある。
 「(岡潔先生曰く)三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、 天皇制が大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやってみせているし、本当に偉い人だと思います 。(編集部が「百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?に対する岡潔の答え)間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。かなり影響はあったと思います」。

【黛敏郎の三島由紀夫論】
 平成2年11月25日 「題名のない音楽会」(ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死  演奏 東京フェスティバルオーケストラ )より
 「三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、短いようでもあります。 二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。そのなかで私はこう言いました。「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉「我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか」 。この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。 日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。 自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった」。

【小林秀雄の三島由紀夫論】
 小林秀雄 「感想」より
 「例へば、右翼といふやうな党派性は、あの人(三島由紀夫)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれるわけでせう。事件を抽象的事件として感受し直知する事が易しくない事から来てゐる。いろいろと事件の講釈をするが、実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。 事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。 さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに離別しようとするところにある。 エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである。 実生活を離れて思想はない。併し、実生活に要求しない様な思想は、動物の頭に宿つてゐるだけである」。

【小室直樹の三島由紀夫論】
 小室直樹 「三島由紀夫と天皇」より
 「近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。 人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。 作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、この世への「見返し」を選んだ。 五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイなものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。 「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。 「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」 神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。

 「定家はみずから神になったのです」。これは何を暗示しているのだろうか。 仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。 亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。 死から、生をみるのである。時間や空間を超えたものだ。 三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない」。

【武田泰淳の三島由紀夫論】
 武田泰淳 「三島の死ののちに」より
 「息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていた土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上がり、 そして舞い下りています。 あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、 私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。 それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教室講座」を発表したとき、私は 「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには 生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。 あなたを恍惚とさせる「美」をおしのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた」。

  武田泰淳 週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより
 「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。(略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、彼に 嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います」。

【芥川瑠璃子の三島由紀夫論】
 芥川瑠璃子 「鮮やかに甦るあの頃」より
 「主人比呂志は一九八一年の秋に逝った。…三島さんと比呂志は、文学座時代の演劇の仕事を通じて、約十二年間のおつき合いがあった。 …後年の「黒蜥蜴」(六三年)は、三島さん脚色、演出は松浦竹夫さんで、比呂志は探偵明智小五郎、女賊は水谷八重子さんだった。 終演後、ロビーで今は亡き顔見知りの方々と談笑されていた三島さんは私を見付け近寄って来られ 「今夜の芥川さんは、六代目(尾上菊五郎)のようでしたよ」と仰言った。 帰宅後主人に伝えると「三島一流の皮肉だよ」と苦笑して云う。その時は解らなかったが、あとで三島さんの評論集「美の襲撃」を読むと比呂志の言葉が理解できた。三島さんが、不世出の名女形として高く評価していた六世中村歌右衛門と、六代目菊五郎についての、比較論めいた文章にぶつかる。 ながい劇団関係のおつき合いともなると、さまざまな出来ごとがあり、三島さんも比呂志も文学座を離れることになった。 …三島さんは比呂志宛に、数多くの署名入りのご著書を贈ってくださり、私も時々借りては読んだ。 「美しい星」(新潮社)の読後、何やら興奮した比呂志は三島さんにお電話した。劇化したい旨の相談だったらしいが、長電話に辟易されたのか断られた様子。 その時は迚も残念そうだったが、常々うちで三島さんのことが話題になったりするとき「三島、あれは天才だよ」は変らなかった。 …後年、三島さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、浪曼劇場で「薔薇と海賊」が再演された。終演後に三島さんが涙を浮べ「海賊だらけになっちゃった」と呟かれたという。 同じ頃、学習院時代の先輩で「赤絵」の同人誌などで親交のあった、早逝された東氏を悼み 「東文彦作品集」(講談社)のために序文を書き、刊行の労をとられたという。一流の皮肉や、あの有名な高笑いのかげに、「三島由紀夫十代書簡集」の頃の面影が浮ぶ。純粋な心情とあたたかさを想う。 三島さん没後、夫人の要請をうけて、主人は病躯を押して「サド侯爵夫人」を演出。 逝く二年前には「道成寺」も演出したが、「源氏供養」は念願のみで終ってしまった。 ――三島さんと主人の過した、さまざまな演劇の世界、時の流れは今も消えず、折々の想念のなかに、いまも鮮やかに甦りをつづけている」。

【淀川長治の三島由紀夫論】
 「三島さんは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人ですね」。三島由紀夫「それは僕の顔が馬面だと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから」。私みたいな者にでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ない本物の人間ですね。もっともっとよい本をいっぱい書いてほしいですね。 あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうね」。

【細江英公の三島由紀夫論】
 「三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の責任として、きちんと後世に伝えておかなければならない。 その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うようなことは、実にもって愚劣なことであるということである」。

【岸田今日子の三島由紀夫論】
 岸田今日子 「わたしの中の三島さん」より
 「三島さんに初めて逢ったのは、一九五一年の夏だったと思う。 小さい頃から行っていた群馬県の高原の村に、吉田健一さんの山小屋もあった。 三島さんはその頃、吉田さんや大岡昇平、福田恆存、中村光夫さん達の「鉢の木会」というグループに入る事になっていて、 夏の一日、吉田さんの家で例会があり、父(岸田国士)の所に十人位で遊びにみえたのだ。 姉とわたしはお茶を運んだりしながら、ユーモア溢れる会話に聴き耳を立てていた。 何といってもイジメの対象は、他の人より一廻りは若い三島さんで、三島さんも又、からかわれるのが嬉しいように、 あの独特の笑い声を挙げていた。 皆、その夜は村のクラブに泊まって翌日帰京なさる中で、三島さんだけは二、三日帰るのを延ばすことになった。 「仕事は夜するから」といって、昼間はわたしたち、夏の遊び仲間やその友人と、目一杯遊んだ。 年長の作家たちとのお付き合いでは満たされないものを、少し年下の大学生や芸術家の卵たちと、体を使って 取り返そうとでもするように。乗馬、ボート、ダンス。 …この村が気に入ったという三島さんは、翌年の夏も一週間ぐらい滞在した。帰りはわたしも一緒だった。 旧軽井沢のパーティーに寄ってそのお家で泊まることになっていた。 ちょっと危ないメンバーだったみたいで、一晩中、わたしの枕元で仕事をしていた三島さんを忘れない。 …その年の秋、わたしは文学座の研究生になった。文芸部に所属していた三島さんは、一年おき位に作品を提供していて、 わたしは文学座にいた十年の間に、外部出演も含めて三島作品七本、潤色と演出それぞれ一本ずつに出演した。 三島さんは稽古場にもよく顔を見せた。 舞台の出来も気になっただろうけれど、その後で若い俳優たちと遊ぶのが楽しみだったように見えたのは、 わたしの勝手な思い込みだろうか。皆、作品については十分敬意を払っていた。 でも運動神経やファッションセンスに関しては、言いたい放題だった。 自虐的な所のある三島さんが、それを喜ぶことを知っていて、一種のおもねりだったと言えるかもしれない。ボディビルやボクシングを始めた時も、遊びのふりをしていたような気がする。何回戦だかの試合に出た時は皆で見に行った。 かなり痛々しかったけれど、いつものように後でさんざん悪口を言ってあげた。三島さんは嬉しそうに、大きな声で笑った。 舞台の初日には女優の楽屋の化粧前にカトレアの花が届けられ、客席と楽屋を往ったり来たりするのも嬉しそうだった。 本公演ではたった一本の演出作品「サロメ」の時は、見違えるように真剣だった。 様式的な舞台を創ろうとして、俳優たちに一せいに左右へと首を廻すように指示した時、わざと反対の方を向く人が一人いて、 あんなに怒った三島さんを見たことがない。いつも血の気のない顔が、死人のように蒼白だった。 映画「からっ風野郎」出演の時、ちょうど仕事で同じ撮影所にいたので、三島さんのセットを覗きに行った。 ビールを抜いてたくさんのコップに注ぐ所で、三島さんは何度もNGを出していた。増村保造監督の「もう一度」の声に、 三島さんはますます緊張してリズムが崩れ、ビールが足りなくなって小道具さんが酒屋に走った。 完成すると三島さんは自宅で試写会を開いた。 さんざん悪口を言われて、やっといつもの自分に戻ったようだった。セットを覗いた話はしなかった。 芥川比呂志さんはじめ、これから一緒にやって行こうと思う若手の俳優たちが、レパートリーに不満を持って、 文学座脱退のことを福田恆存さんに相談しているのは知っていた。 福田さんに誘われたわたしは「三島さんが一緒なら」と言った。 「もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように」と念を押された。 お家に招ばれながら黙っているのは辛かったけれど、お二人は「鉢の木会」以来の親友だからと、自分に言い聞かせた。 京都に撮影で行っていた或る朝、新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。 帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、「新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?」と言われた。 福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。 「『双頭の鷲』は生きられないんだよ」。福田さんと三島さんのことだ。慰めだったろうか。 「そのうち、又、一緒に何かする機会もあるから」と言われて、帝国劇場で『癩王のテラス』を上演する時、 六年ぶりに呼ばれた。王の病気が感染して、焼身自殺する妃の役だった。 御自身も文学座を脱退し、楯の会を作った三島さんは遠い人のようで、あまり話もしなかった。 初日には、やっぱりカトレアが置いてあった。 「精神が滅んでも肉体は滅びない」という逆説に満ちたこの芝居が、三島さんの最後の戯曲になった」。

【橋川文三の三島由紀夫論】
 「私は、研究室で突然三島の死を聞いたとき、どういうわけかすぐに連想したのは、高山彦九郎であり、神風連であり、横山安武であり、相沢三郎などであった。 これらの人々の行動はいずれも常識を越えた「狂」の次元に属するものとされている。 この「狂」の伝統がどのようにして、日本に伝えられているのか、それはまだだれもわからないのではないだろうか。 ただ、すべての「異常」な行動を「良識」によって片づけることは、これまでの日本人の心をよくとらえ切っていない。三島は私の知るところでは非常に「愚直」な人物である。私のいう意味は、幕末の志士たちのいう「頑鈍」の精神であり、私としてはほめ言葉である。私は三島をノーベル賞候補作家というよりも、その意味では、むしろ無名のテロリスト朝日平吾あるいは中岡良一などと同じように考えたい」。

【辻井喬の三島由紀夫論】
 「三島さんの文学には倫理や道徳を侵すことをテーマにした作品が多いことはよく知られています。 その一方で、楯の会の制服を私の会社に注文した時の生真面目な態度にも表れているように、現実の行動においては極めて倫理的、道徳的であったことも、三島さんをよく知る人々の間では、つとに知られていました」。

 (今日の辻井喬の回顧録は、三島由紀夫と石橋湛山の共通思想を考察しながら、 三島が戦後の手続き民主主義の欺瞞に、生命を賭けて反対したことについて触れています。 三島を領土拡大や国粋主義右翼と見るのは、意図的な誤解で、誤りだと述べています)。

【 磯田光一の三島由紀夫論】
 磯田光一 「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
 「(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の “絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、 ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り ぬいていたのである。 三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、 徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、 共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能 以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な 造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家” たらしめるに十分であった。 (中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。 その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に 通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。 (略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、 ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する」。

【 村松剛の三島由紀夫論】
 「ぼくにとっていまでも驚異に思われるのは、三島というひとが、あんなに明敏かつ冷徹な批評家的、懐疑家的な眼と、あんなに度の高い情熱とを、どうして併有することができたか、ということである。 情熱家は、世のなかに少なくはないだろう。しかしあのような最期をとげ得るほどの人物が、ほかにどれだけあるか。 また冷静な合理主義者の数は、多いだろうが、死の最後の瞬間まであれほど冷徹に計算し、実行し得るひとは、稀だろうと思う。 しかも驚くべきことに三島氏はその両者をわが身に併存させていたのだった」。

【 安部公房の三島由紀夫論】
 「自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。 そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。 なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない」。

【 山岸外史の三島由紀夫論】
 「左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気にはならないからである。 そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、所詮人間はおなじなのかも知れない。 しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。 三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、しかし明確な知性をもって、またその美的知性の故に、 その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか」。

【 小高根二郎の三島由紀夫論】
  「善明と由紀夫の黙契」。
 「三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう ……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の 由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と 仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略) 「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と 一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような老成した人生観を述べていた。(引用略) 敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」 という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅――殉難の讃仰なのである。大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略) 「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)。この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る 時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序) 。由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。(中略) 元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、 「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が書けなくなるから止めてくれといったという。 私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆していたか、執筆すべく構想をしていたからだ」。

 エドワード・サイデンステッカー
 「三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。 たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。 いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる」。
 
 ドナルド・リチー 「三島の思い出――最後の真の侍――」より
 「一九七〇年の秋、私たち三島の友人は、いつになく彼と頻繁に顔を合わせた。当時、私は、「仮面の告白」と「潮騒」の翻訳者メレディス・ウェザビーと一緒に住んでいた。そこに、写真家の矢頭保や、時には俳優のヨシ笈田が顔を出した。みんな三島とは旧知の間柄だった。…日本は何処かへ行ってしまった、姿が見えなくなり、消えてしまった、僕はそう思うね、という三島の言葉を私は覚えている。まさか、探し回ってみれば、日本はまだまだいろんなところに残っているはずだよ、と私は笑みを浮かべながら応えた。三島は真顔で首を振った。三島が冗談を言っているのだという思いを捨てきれなかった私は、日本を救う道はあるのかね、と訊ねてみた。「ないね。もはや救いようがない」と三島は言った。その言葉を聞いて、三島が冗談を言っているのではなく、大真面目なのがわかった。私は、三島が、合理主義一辺倒で、精神性を蔑ろにし、ぬるま湯に漬かったような現代日本の姿に嫌悪を催すようになり、秩序の整っていた往時を懐かしんでいるのを知っていた。以前、私がからかって、「楯の会」を三島のボーイスカウトだと発言したとき、三島は笑っていたが、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言った。あなたが社会の秩序を決めることができるというの、と私が訊ねると、三島は厳粛な顔で頷いた。「あなたは誇大妄想狂だ。あなたは天皇を超えた存在だとでも」と私が冗談まじりに言うと、三島はにこりともせずに、「そうなんだ」と言った。

 私が三島に最後に会ったのは、彼の死の二、三週間まえだった。 晩餐に私たち友人を「クレッセント」に招待してくれ、食事中、何回となく西郷隆盛の話題――隆盛の最後の日々や自決の前に隆盛を処断した親友について――にもどっていった。三島が言うには、西郷は自分では革命に失敗したことを知っていた。武士道のあるべき姿を確立しているつもりでいたが、親政府は官僚主義に屈していたのである。次いで、三島は、西郷の行動の美しさ、すべてが失敗に帰し、望みがすべて絶たれたとき、西郷がとった伝統に則った自決の作法の美しさについて滔々と話し始めた。「西郷は最後の真の侍だ」と三島が言ったのを記憶している。だが、こう言いながらも、三島本人は自分こそ最後の侍だということを自覚していた。今にして、私にもそのことは理解できる。たぶん、三島はしゃべりながら、西郷に憧れて自分が企てたことを私たち友人が悟る瞬間を思い描いていたのだろう。そう思うのは、小説家としての三島は、作品の登場人物の人生ばかりか、友人の人生まで操っていたような節があるからだ。…私たちは、三島の人生で演ずる、それぞれの役を振り当てられている。たとえば、ドナルド・キーンは、三島の人生でもっとも重要な外国の文学上のかけがえのない友人であり、文学や翻訳の問題点について議論できる相手だった。私はというと、キーン氏に比べてたいした役割を担ってはいない。私は外国人の傍観者で、三島が噂話をしたり、考えをぶつけたり、胸の内を打ち明けたりする存在だった。さらに、三島の死――彼が亡くなったという事実と自決したということ――に対する私たちの反応においても私たちが演ずる役が決まっていたのである。たぶん私の唯一の台詞は――「いや、違う。最後の侍は三島自身なのだ」。それが三島が私のために考えてくれた台詞かそうでないかはわからないが、三島が真の侍だったことは確かだ。三島は、あるがままの物とそうあらねばならない物とを比較し、世間の無関心にもかかわらず、自分でより良いと考える基準に従って生きる芯の強さを持っていた。三島はまた、その基準に従って、侍本来のやり方で、死ぬ強さをも持ち合わせていた。

 ヘンリー・S・ストークス 「ミシマは偉大だったか」より
 「私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは 最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと 確信していた。(中略) 三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち――その名前をあげる必要はあるまい――を、道化役者のように 見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた ――つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった 深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。 三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。 三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。 三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした――(略) …これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。 しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた 政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。 …三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの 学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していないようだ。 私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について語った言葉から 推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。「あの人たちは 日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に限っていえば、 三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性――国防の問題をトランプ遊びか ポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人はほとんどあるまい。(略) …外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、 日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に 現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。

 マルグリット・ユルスナール
 「奔馬」には、1876年に叛乱を起した武士たちの集団自殺が描かれており、彼らの行動は勲を感奮興起させたものであった。 この血と臓腑の信ずべからざる大氾濫は私たちを恐怖させるとともに、あらゆる勇敢なスペクタクルのように興奮させもする。 この男たちが闘うことを決意する前に行った、あの神道の儀式の簡素な純粋性のようなものが、この目を覆わしむ 流血の光景の上にもまだ漂っていて、叛乱の武士たちを追跡する官軍の兵隊たちも、できるだけゆっくりした足どりで山にのぼって、彼らを静かに死なせてやろうと思うほどなのである。 勲はといえば、彼はその自殺に幾分か失敗する。 しかし三島は、それ自体うかがい知りえぬ肉体的苦痛の領域に天才的な直感をはたらかせて、この叛逆の若者に、彼にとってはあまりに遅く来るであろう昇る日輪の等価物をあたえてやったのだ。 腹に突き立てられた小刀の電撃的な苦痛こそ、火の球の等価物である。それは彼の内部で赤い日輪のような輝きを放射するのである。

 ドナルド・キーン
 三島の天皇崇拝は、彼の存命中ずっと在位していた天皇、裕仁に向けられたものではない。短編「英霊の声」では、二・二六事件の首謀者と昭和二十年の神風特攻隊員の霊が、自分は神ではないと宣言して彼らを裏切った天皇を激しく責める。 天皇の名の下に死んだ者たちは、天皇が普通の人間と同じ弱さを持った人間であることを知っていたが、天皇という資格(キャパシティ)にあって、天皇は神であると確信していた。 もし、天皇が二・二六事件に関わった青年将校を支持し、なかんずく、彼らに自裁を命じたのだとしたら、その行為は、老いて堕落した政治家に囲まれた単なる統治者ではなく、神としてのふるまいだったであろうに。 しかし、神風特攻隊員が天皇を叫びつつ喜びに満たされて死んだ、それからわずか一年も経たずに、自分は神ではないと宣言した時、天皇は彼らの犠牲を哀れで無意味なものにしたのだ。三島は、天皇無謬説を唱えたことがある。無論これは天皇の人間としての能力をさした説ではない。より正確に言えば、天皇は神の資格において、人間の姿をした日本の伝統そのものなのであり、日本民族の経験が保管された唯一無二の宝庫である。天皇を守ることは、三島にとって、日本そのものを守ることだった。このような政治観を日本の右翼と同一視するのは誤りであろう。彼は確信していた。日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、すなわち信念のためには死を辞さぬ若者の覚悟だけだと。

 (川端康成)は、確かにこの受賞(ノーベル文学賞)に値した。 それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。 日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の権威として名声を得たようだった。ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。 この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。 そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。 本当に、そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。 私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

 東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。 私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。 最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。 私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。 その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。

 国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる

 ドナルド・キーン 「私と20世紀のクロニクル」より  ケント・ギルバート氏から篤いメッセージが届きました  
 「なぜ私は三島由紀夫『春の雪』に惹かれたのか?

 大学一年生のときに、教会からの指示で日本へ伝道に行くように言われ、選ぶことも断ることもできないまま日本に渡った。そこで日本語を学び、帰国後は大学で日本文学を学んだ。 モルモン教徒として厳しい戒律の中で生活していたとき、三島由紀夫の「春の雪」と出会い、自由奔放に生きる主人公の姿に感銘して三島由紀夫を読むようになった。 英訳本は知りうる限り全て、後には日本語版で可能な限り読破した。学生時代、三島に関する論文も書いた。 大学時代、最初は英訳本を読んでいたが、だんだん日本語版で読むようになった。 1975年、沖縄海洋博覧会のときにスタッフとして招聘され、再び日本の地を踏む。その頃はある程度自由に日本語を操ることができるようになっていた。 大学に戻って法律大学院(ロースクール)に通っていたが、同時に日本文学学科の日本語教師を兼任していた。 モルモン教は自死を厳しく戒めているが、それは「私の世界」での自死であり、三島由紀夫の死は、モルモン教が規定している自死をはるかに上回る死である。 教徒である私(ケント)自身、三島の死の意味を、今尚考え続けている。 三島の死を考えるとき、天皇の存在を抜きには考えられないのだろうが、「究極の価値」ということなのか、と漠然と感じている。 残念ながら「文化防衛論」をまだ読んでいないので私(ケント)にはまだ天皇の本質的意味を理解できずにいる。 三島由紀夫も、時代の戒律の中で生き続けたが、作品の中では自由に、奔放に人間模様を描いている。人の生き方、存在を、もっともっと三島から学ぶべきことがあるのではないだろうか。 英語の世界(アメリカ)で、最も知名度の高い日本文学者は間違いなく三島由紀夫である。それは、作品の完成度の高さに由来すると思う。 川端文学は、結論がはっきりとしない。遠藤文学はキリスト教を題材にしているが故の評価である。それ以外はほとんど知られていない。 川端よりも三島こそがノーベル文学賞にふさわしい作家であると思っているが、なぜ三島でなく川端だったのかについても疑問に感じている。それを解明したい。

 本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。 シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。 私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。…中略… そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。

 ドナルド・キーンが自死直前の三島から聞いた奇談
 学習院の制服を着た少年がどうしても、と三島に面会を求めてきた。三島は数分だけ、と約束させた上で自宅門前まで出た。 少年は三島に「先生はいつ死ぬのですか?」と問うた。 三島は驚き、言葉を返すことができなかった。 その少年とは清顕だったのだろうか。

【山崎行太郎氏の「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」】
 山崎行太郎氏の2013.9.17日付けブログ保守論壇亡国論』と西尾幹二論」を転載しておく。

 福田恆存には、政治情勢論や社会情勢論を書きながらも、その一方で、同じ一つのテーマを執念深く追究し続け、作品化するという姿勢があった。しかし、西尾にはその姿勢が完全に欠落している。西尾が作品を創造できない理由はそこにある。

 ■「江藤淳的なもの」の喪失

 西尾はニーチェの翻訳者、文藝批評家としてデビューした頃から、本人の自己評価はともかくとして、あまり目立つ存在ではなかった。要するに、一流ではなかった。

 しかし、西尾は現在では、保守論壇の重鎮として華々しく活躍しているように見える。西尾が大きな成お長を遂げ、思想的に成熟したということだろうか。むろん、そうではない。西尾が保守論壇の重鎮的存在として活躍できるほどに、昨今の保守論壇が思想的に劣化したということだ。

 西尾の思想的限界を知るためには、『三島由紀夫の死と私』という著作を読んでみればいい。西尾はそこで、江藤淳を批判している。しかし、ここにこそ、西尾の才能と資質の限界が端的に現れている。

 西部邁も櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始したと言えば、やや大げさになるかもしれない。しかし、ほぼそれに近いことは確実である。本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう。

 本書『保守論壇亡国論』は、昨今の保守論壇批判であると同時に、江藤淳論でもある。江藤淳が自殺し、「江藤淳的なもの」が論壇やジャーナリズムから消えるとほぼ同時に、保守論壇の劣化が始まったのである。

 西尾はある時から突然、江藤淳を批判し始めたが、何故西尾が江藤淳を批判しなければならないのか、私には理解できなかった。一方で、西尾は三島由紀夫を保守論壇の「神」として絶賛していた。ここにも思考の単純化、図式化、二元論化が見られることは言うまでもない。

 『三島由紀夫の死と私』の出版以前から、西尾は講演などで、三島由紀夫を称賛する一方で、江藤淳を批判・罵倒していた。しかし、やはり、講演よりは書物の方が重要である。私はこの本を読むことによって、西尾と江藤淳の資質の違いがわかった。これからそれについて見ていきたい。

 ■小林秀雄と江藤淳の真剣勝負

 自衛隊市ヶ谷駐屯地に押しかけ、バルコニーから檄文をばらまき、自衛隊員に決起を呼びかけ、その後、森田必勝とともに割腹自殺した三島由紀夫については、私も関心を持っており、『小説三島由紀夫事件』という書物も書いた。もちろん、それなりに資料や文献に当たり、詳しく調べた。

 しかし、私は三島由紀夫の「死」について書いた本には、あまり興味が持てない。特に、三島由紀夫の死を賞賛し、絶賛する類の文章や書物には、何か胡散臭いものを感じて、あまり読みたいとは思わない。

 そうした文章や書物の中には、事件の強烈さに圧倒されて、三島由紀夫と自分自身の見分けがつかなくなり、あたかも自分自身が三島由紀夫になったかのように錯覚しているものが少なくない。三島由紀夫と自分自身の区別もできない人に、三島由紀夫の死を批評できるわけがない。「私は三島由紀夫ではない」という自己意識を持たず、あたかも三島由紀夫の真の理解者を気取り、三島由紀夫を「神」のように崇める人に、私は関心がない。したがって、私が読むのは、もっぱらドキュメンタリーのような実録の類である。

 その意味で、私は西尾の『三島由紀夫の死と私』も、あまり読む気になれなかった。が、三島由紀夫の死の賞賛だけではなく、江藤淳への批判・罵倒があったから、そこに批評的刺激を感じて読む気になったのである。

 この『三島由紀夫の死と私』もまた、三島由紀夫の死への賞賛に溢れており、あたかも三島由紀夫の死と思想を理解できるのは自分だけだと錯覚しているような著作である。しかし、そういう称賛・共感は、凡庸なものにすぎない。西尾本人にとっては深刻な問題なのかもしれないが、本人が深刻な態度を取れば取るほど、それに比例して滑稽で喜劇のように見えてくるのが、三島由紀夫事件関係の文章や書物である。

 その一方で、西尾の江藤淳批判にも、良かれ悪しかれ、西尾幹二という人間の本質が現れている。西尾が江藤淳を批判すればするほど、江藤淳との資質、才能、感受性の差が浮き立ってくる。西尾の江藤淳批判は、西尾自身の思想的限界を露呈しており、「亜流思想家の証明」になっていると言える。

 西尾の江藤淳批判の中心は、江藤淳の三島由紀夫事件の評価にある。これは西尾に限らず、江藤淳を批判する保守派が必ずと言っていいほど取り上げるものである。

 西尾の江藤淳批判を見る前に、まず、江藤淳の三島由紀夫事件の評価について見てみよう。これについて最もよく知られているのが、江藤淳と小林秀雄の対談である。

《小林 ……宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によく似た気象を持った人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。

江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。

小林 いや、それは違うでしょう。

江藤 じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。

小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。

江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

小林 いやァ、そんなことをいうけどな。それなら、吉田松陰は病気か。

江藤 吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃありませんか。

小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。

江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども……。

小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。

江藤 僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。》(「歴史について」)

 江藤淳と三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄も江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える。

 当代一流の思想家と思想家、あるいは文学者と文学者の命懸けの一騎討ちのような対談は、一見すると、とてもわかりやすいもののように思える。三島由紀夫の自決を擁護するものと、それを否定するものとの対談。文学や思想とは無縁な、あるいは文学や思想に疎い読者が、この対談をどう受け止めたかは明らかだろう。

 しかし、江藤淳や小林秀雄の内在的論理を理解することは容易ではない。ましてや三島由紀夫の内在的論理は尚更である。

 そもそも、それ以前に、保守論壇の中で、この対談を読んだ者がどれほどいただろうか。この対談に対する批評や解説は、自称専門家のものを含めて、ほとんどが伝聞情報か、又聞きをもとにした受け売りの類ばかりである。

 「三島事件以後」とは、三島由紀夫の良き理解者を気取る者たちが、三島由紀夫を「病気」と切り捨て、三島事件を「ごっこ」にすぎないと批判した江藤淳を批判・罵倒してきた歴史だった。彼らはマスコミやジャーナリズムでわが世の春を謳歌してきたかもしれないが、それにより保守論壇は空洞化し、形骸化していったのである。

 江藤淳は三島由紀夫がまだ生きていた頃にも、「『ごっこ』の世界が終わったとき」という論文を発表し、三島由紀夫と「楯の会」の活動を批判している。江藤淳の三島由紀夫批判、「楯の会」批判は、一貫している。「三島事件」以後も、三島由紀夫批判は微動だにしていない。

 しかし、多くの人たちは、事件の衝撃の大きさに圧倒されて、それまでせせら笑っていた者たちも、三島由紀夫の行動と死を賛美し始めたのである。

 ■「生活と芸術の二元論」とは何か

 それでは『三島由紀夫の死と私』を見ていこう。三島事件について、福田恆存や中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める。あたかも三島由紀夫に成り代わったかのように。私にはそれが滑稽で、かつ喜劇的に感じられるのである。そして、その滑稽かつ喜劇性を自覚できていないところに、西尾の思想的限界がある。いくつか引用してみる。

 《「『ごっこ』の世界が終わったとき」という文章は、江藤淳が間違いなく三島さんをからかうために書いたひどい文章です。(中略)

 なぜ「ごっこ」なのか。時の軍隊つまりは自衛隊が、一作家の私兵を入隊させて訓練させるとは何事か。そう江藤さんは言っているのです。また一方、全共闘は道路をバリケード封鎖し、解放区というものをつくって、交通を遮断し、戦争ごっこをする。警察はそれに対して遠巻きにするだけで、手を出さない。これは何事かというのです。江藤淳のこの言葉は、三島さんにとっては痛いものだったと思う。私は、江藤淳が三島さんを殺したと考えているくらいなのです。》(『三島由紀夫の死と私』)

 《……江藤淳のこの「『ごっこ』の世界が終わったとき」は明らかな生存中の三島さんへの批判です。そして江藤淳は、三島さんが死んだときにも嘲ったのです。それが私には許せなかった。》(同前)

 《江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分ったような、人生の真相はたかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。(中略)

 私にはふとそのことに関連して思い出すことがあります。小林秀雄没後十年に際し、私は江藤淳と『新潮』(平成五年五月号)で対談しました。江藤が小林について相当に否定的なことを言い、正宗白鳥の文学的優位について熱弁を振っていたのが奇異に思えていましたが、ああそうかといま合点がいったのです。江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムにどっぷり浸っていた人でした。三島の悲劇は分らない人には分らないのです。》(同前)

 これらはただ、三島由紀夫の死を批判した江藤淳が許せないというだけの論理である。論理的、批評的なレベルで、江藤淳を論破できているとは言えない。

 西尾は「江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした」などと軽々しく述べているが、江藤淳が晩年『南洲残影』を書いて、「西郷隆盛という思想」を重視し、その後、自ら命を絶ったことを知らないはずはない。それにも関わらず、こんなことを書くとは、西尾こそ「抽象的煩悶などにまったく無縁」ということではないか。

 そもそも、西尾は小林秀雄が「思想と実生活論争」で正宗白鳥を批判した後、晩年に最後の仕事として、「正宗白鳥の作について」という長編の正宗白鳥論を残したことを知っているのか。おそらく知ってはいるが、読んでいないのだろう。もし読んでいれば、こういう文章が書けるはずはない。

 もう少し『三島由紀夫の死と私』の問題点を見てみよう。西尾がここで立脚しているのは、「生活と芸術の二元論」である。これは、日本型私小説を批判し、否定する理論である。西尾は次のように書いている。

 《戦前から戦後へかけて文壇の主流は私小説でしたから、批評家は口を揃えて、自然主義的リアリズムが作家の身辺の出来事に取材した私小説の方法に帰着したのは西洋文学の誤解であり、作家の自我のあり方がいかに西洋のそれとは異なるかを力説してやみませんでした。(中略)

 なぜこんなレベルの告白小説が一躍文壇の主潮派を指導する地位をかち得たのか、分りません。花袋は社会人としての自分の恥をあからさまに書き立て、家長としての面目をあえて無視し、自分の弱点を、これこそが人間の真実だ、とわざと露呈してみせたのです。(中略)

 日本の作家は小説の中に自分とは異なる他者としての主人公を設定することが苦手なのです。ややもすると作家本人と主人公とがぺったり一致し、距離感がない。作家の実生活や実行行為がそのまま芸術表現となっている。作家の芸術家としての自己と社会人としての実生活、いいかえれば「芸術」と「実行」の間に区別がなく、最初から一致してしまっている、といえるでしょう。》(同前)

 そして次のように結論づける。

 《中村光夫や福田恆存といった戦後の批評家がいっせいに問題として取り上げたのが日本の近代文学におけるこの自我の弱さ、「私」の未成熟、芸術家としての特権への甘え、身辺雑記を超えられない世界像の独特な狭隘さ、等々でした。》(同前)

 これは私小説批判、私小説否定論の一つのパターンであり、昔からあるものである。どうやら西尾もこのパターンの信者らしい。しかし、このような素朴な私小説批判で、果して私小説を否定できたと言えるだろうか。私には疑問である。

 この理論によると、三島由紀夫と三島文学はどのような評価になるのか。

 《「生活と芸術の二元論」は私が指摘したからではなく、三島さん本来のテーマであるのを私が取り上げ、あらためて説明に用いたからこそ、ぴったりとこのときの彼の行動と文学の関係の説明にフィットしていたのだといえるでしょう。けれども、自決によって、二元論はついに無効になりました。死ぬことで、生活と芸術は別個の領域ではなく、一元化してしまったからです。》(同前)

 《三島さんは作家の「私」は実生活で死んで、作品の嘘の中で生きなければならないという意味の二元論を尊重していました。実生活と作品世界を直結する日本型私小説の否定理論です。作家の私生活上の自分とは別の創造的な嘘、高度の客観化された虚構の作品世界を理想とする小説の考え方です。ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった、は口癖でした。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた。日本の私小説作家は自堕落な私生活を送ることによって、自分の苦悩を演出し、その反映としての破滅型小説を書く。それはおかしい。三島さんが太宰治を嫌ったのはこのせいです。

 反体制左翼作家も、私生活上の正義と作品の美学とを混同する一元化という点において、三島さんのこの理論からすると私小説作家と同じ自我のあり方だということになるでしょう。そういう彼が、私生活において「楯の会」という反社会的な行動をする。これをどう解したらよいのか。》

 三島由紀夫が割腹・自決したという現実(実生活)から、三島由紀夫の文学や思想を解釈すれば、それは「生活と芸術の一元論」そのものと言うしかない。

 私は、三島由紀夫にとっては、「楯の会」より『三島由紀夫全集』の成功と名誉の方が大事だったのではないか、という疑問が捨てられない。事件当日かその前夜、『豊饒の海』の原稿を完成させ、そこに「完」と書いたのは何故か。三島由紀夫は「実生活」で文字通り死ぬことによって、『三島由紀夫全集』という「作品」の世界に、永遠に生きようとしたのではないだろうか。実際、三島由紀夫の実生活(死)は、その作品の価値を高めることとなった。

 三島由紀夫にとって、最終的には、実生活と作品は無縁ではなかった。作品が実生活から独立していたのでもない。実生活と作品の一致、つまり言行一致、知行合一こそ、三島由紀夫がたどりついた最終地点だった。

 そういう意味で言えば、三島由紀夫こそ典型的な日本型私小説作家だったということになる。小林秀雄も、そして多くの三島崇拝者たちも、そこに感動したのではないのか。西尾の言う、西洋文学的な「芸術と実生活の二元論」などに感動したのではない。

 ■小林秀雄は三島由紀夫をどう評価したか

 西尾は、江藤淳は三島由紀夫の死に批判的であり、それに対して小林秀雄は三島由紀夫の死を肯定的に評価していると考えているようだ。

 しかし、小林秀雄はそれほど単純に三島由紀夫の死を肯定したのか。あるいは、こう言い換えてもいい。小林秀雄は「生活と芸術の二元論」をどう評価していたのか。

 小林秀雄と三島由紀夫は、三島由紀夫が『金閣寺』を書き上げた直後に対談しているが、小林秀雄はそこで、三島由紀夫をかなり辛辣に批評している。

《小林 やっぱり、あれ(『金閣寺』のこと)は、毀誉褒貶こもごも至るというやつだろうなあ。

三島 ……(笑う)

小林 何か、批評っていうことを、しなきゃいけないんですか。雑談でいいんでしょ? まあ、そういうふうなのんきなことにしてもらいましょう。》(「美について」)

《小林 ……だから抒情詩になるわけだよ。無論、作者はそういう意図で書いたんだと思うんだよ。だから抒情的には非常に美しいものが、たくさんあるんだよ。ありすぎるくらいあるね。ぼくはあれを読んでね、率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。

三島 ……(笑う)

小林 つまり、あの人は才能だけだっていうことを言うだろう。何かほかのものがないっていう、そういう才能ね、そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな。きみの才能は非常に過剰でね、一種魔的なものになっているんだよ。ぼくにはそれが魅力だった。あのコンコンとして出てくるイメージの発明さ。他に、君はいらないでしょ、何んにも。」》(同前)

 小林秀雄はここで、三島由紀夫と三島文学を暗に批判している。「何か、批評っていうことを、しなきゃいけないんですか。雑談でいいんでしょ?」と、婉曲な批判であるが故に、かえって手厳しい批判になっている。三島由紀夫も言葉に窮している。つまり、小林秀雄が三島文学の良き理解者だったというのは間違いである。

 この対談からも推察できるように、小林秀雄は実は三島由紀夫の人工的な文学を認めていない。これは、小林秀雄が三島事件直後に展開した三島由紀夫論とはまったく異なるものである。

 小林秀雄は、三島由紀夫が尊重し、そして西尾が固執する「生活と芸術の二元論」を信じていない。小林秀雄が三島事件を評価したのは、そこに「生活と芸術の一元化」を見たからである。小林秀雄の批評的立場は、あくまでも「芸術と実生活の二元論」にこだわる西尾、あるいは中村光夫や福田恆存とは異なるのである。

 そもそも、日本型私小説は、西尾の言うような「自我の弱さ」や「『私』の未成熟」などで説明のつくものではない。

 柄谷行人は私小説について、こう書いている。

 《中村光夫に代表される日本の批評家たちはつねに私小説を標的としてきた。私小説では主人公と作者が同一人物であるという了解が前提されている。このことが作品を自立的な世界たらしめることを不可能にしてきたと、批評家たちは口を揃えていうのである。そして、そのきっかけを作ったのは、田山花袋の『蒲団』(明治四〇年)であったというのが通説である。(中略)

 花袋の『蒲団』によって、日本の小説の方向がねじまげられたという説をかりに認めてもよい。しかし、ねじまげられなかったらどうだったというのか。批評家たちが夢想してきた、日本の小説のありうべき正常な発達は、はたして正常なのか。もし、彼らが範とする西洋の正常さが、それ自体異常だとすればどうなのか。日本の「私小説」の異常さがむしろそこからはじまっているとすればどうなのか。》(『日本近代文学の起源』)

 西尾に柄谷行人ぐらいの深読みを期待するのは無理だろうが、西尾の私小説批判は素朴すぎる。保守思想家でありながら、西欧の文化的価値体系を基準にして日本の近代文学を批判し、裁断していくことは、オリエンタリズム以外の何物でもない。しかし、西尾にはその自覚がない。

 ■三島由紀夫の特攻隊コンプレックス

 私は、文学や思想というものが、西尾の考えるほど単純素朴なものだとは思わない。三島由紀夫の思想を、三島事件からのみ考えることは間違っている。

 三島由紀夫は自決当日にまいた檄文に、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」と書いている。しかし、その立派な、勇ましい思想の背後には、誰にも言えないような「哀しい体験」が隠されていた。

 三島由紀夫の父親、平岡梓が書いた『伜・三島由紀夫』には、三島由紀夫が赤紙を受け取った時のことについて書かれている。

 赤紙を受け取った三島由紀夫と父は、早速、本籍地のある兵庫県に向かった。敗戦を目前にして入隊検査を受けるためである。合格すれば間違いなく、特攻隊の一員として命を落とすことになる。実際、三島の母親はそれを直感し、涙顔で乱れ髪のまま玄関まで出てきて見送ったという。

 平岡梓はこの時の様子を次のように書いている。

 《僕らは検査場のある町に着いて知人の家に一泊することになりましたが、伜は母同様出発時にはちょっと微熱が出ておりましたのが急に高熱になり、医者は飛んで来る、薬だ氷だ、とこの家には大変な御迷惑をかけてしまいました。翌日無理を押して受検に出かけましたが、結果は不合格で、「即日帰郷」となりました。(中略)

 それから別室で軍曹から、「諸君は不幸にして不合格となり、さぞ残念であろう。決して気を落さず今後は銃後にあって常に第一線に在る気魄をもって尽忠報国の誠を忘れてはならない」云々と長々とした訓示を受けました。

 訓示がすむのを今やおそしと待ちかまえていた僕は、すんだ途端に出口の兵隊さんのところに走り寄り、「もうこれで今すぐまっすぐ東京の家に帰っていいのですか」と馬鹿念を押して外に飛び出しました。(中略)

 門を一歩踏み出るや伜の手を取るようにして一目散に駈け出しました。早いこと早いこと、実によく駈けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後から兵隊さんが追い駈けて来て、「さっきのは間違いだった、取消しだ、立派な合格お目出度う」とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったからです。(中略)

 駅に着くと、汽車の入って来るのをやきもきしながら待っておりました。汽車に乗るとやや落着きを取戻し、段々と喜びがこみあげてきてどうにもなりませんでした。》

 これが、若き日の三島由紀夫の姿である。話をいくらか割り引いて考えたとしても、おそらくたいした違いはないだろう。後の三島由紀夫からは想像もできないことだが、三島由紀夫は徴兵検査場から逃げ帰った男なのである。これもまた真実である。思想も文学も、そして政治もまた単純ではない。それがわからなければ、人間存在に迫ることはできない。


 松岡正剛の千夜一冊の三島由紀夫・絹と明察」を転載する。

 今夜はやや變はつた視点から三島由紀夫のことを書いてみやうとおもふ。理由はあとでわかるだらう。導入部として、父と子が一つの小説を同時に読むといふことなど滅多にないだらうと思ふけれど、たまさかさまざまな條件が重なつて、それが実際にぼくの家族におこつたといふことから記してみたい。

 三島由紀夫が『絹と明察』を書きはじめたのは昭和三十九年一月號からである。すでに他日の「千夜千冊」のところに書いたやうに、そのころの横浜山手町のわが家では囘覧雑誌なるものをすこぶる利用してゐて、毎月、婦人誌・経済誌とともに「群像」「文學界」「新潮」などの文芸誌が順次届いてゐた。「文藝」はなかつた。父と母がそれらのうちの何を讀んでゐたのかは知らないのだが、ある夕食時、父が「群像」連載中の三島の『絹と明察』の話題を母に振つた。「あれは近江絹糸の話やで、よう書けてるわ」。母は「そうみたいですな。そやけど、ややこしそうやから‥」と、読んではゐなかつたことを告げた。そこでぼくが割りこんで「讀んでるよ、岡野つて人物がおもしろい」と云った。そのときの父は「ほう、そうか、セイゴオは岡野がおもろしいか。ワシはやっぱり駒澤やな」と云つたきりだつた。

 そのころ父は呉服の仕事から手を引いてゐた。横浜山手町に越してきたのは元町に和服和装の店を出すためだつたのだが、これが大失敗し、ちやうど店を畳んだばかりだつた。品物はまだ手元にあつたので、母が細々と"呉服行商"まがひのことをしてゐたのだが、見栄えが悪いことや風采が上がらないことが大嫌いだつた父は、もはや着物には見向きもせず、芸能プロダクションづくりや横浜中華街の仕事や油壷のマンション建設に手を出さうとしてゐた。

 そんな前後、三島が『午後の曳航』といふ書き下ろし單行本を上梓した。伊勢佐木町の有隣堂でパラパラとその本を見てゐたぼくは、この小説が横浜山手町を舞臺にしてゐることを知つて、ざつと読んだ。「三島がこのへんのことを書いてゐる」と父や母に教えもした。元町のコンフェクショナリイ喜久屋で三島の姿をときどき見かけてゐた以外、とくに三島に關心をもつてゐなかつた筈の父は、かういふこともあつてか、ごくごく興味本位に『絹と明察』を読んだのだらう。それに近江絹糸は父の故郷の長浜とは目と先のご当地企業である。興味がない筈はなかつた。

 これらはぼくが大学一年か二年だつたときの話である。ぼく自身は三島文学には中学時代に『金閣寺』から入つて『潮騒』や『仮面の告白』を読み、暫くして『禁色』のホモセクシャリテイに出会つてギョッと驚ひてからは(といふより何かの見てはいけない秘密を知つたときのやうにまごまごしてからは)、他の作品がやや色褪せて見えてゐた時期だつた。ただ『近代能楽集』だけは気になつてゐた。こんな父と子が頑是なくも他愛もない感想を交はしながら、まつたく同時に『絹と明察』を読んだのだ。世間的にもまことに稀なことだつたらう。

 近江絹糸事件といふのは、昭和二十九年に急成長してゐた繊維メーカーの近江絹糸でおこつた労働争議のことである。彦根の近くに大半が女工の工場があつて、噂ではなんらかの組合加入戦術が外部からもたらされ、組合が勝つたと報道された。争議は「人権スト」とよばれ、マスコミは「戦後の女工哀史」だ、「涙の勝利」だと騒いだ。経営者はそのうち退位した。三島はこの事件に取材して、表向きはいかにも三島得意の物語と見へる作品に仕上げた。

 駒澤紡績の駒澤善次郎は家族主義を標榜するワンマン社長である。業績は急成長し、大手十社に迫るほどの勢ひがある。ライバルの櫻紡績の村川は心穏やかでない。そこで、政財界に顔のきく岡野に頼んで背後から労働争議をおこさせ、駒澤の家族主義の偽善を暴くやうに仕向けた。岡野は若い頃こそハイデガーの哲学やヘルダアリンの詩に惹かれてゐた人物だが、その後はすつかり丗事にまみれ、それでもどこかで自分に嫌氣がさしてゐる。が、その嫌氣を自分以上の虚飾をかこつ連中を少なからず睥睨することで破綻させないやうにしてゐた。実際にも岡野は駒澤に接してみて、その野放図で無自覚な自信過剰に辟易とする。

 やがて争議が進み組合の作戦が圖に當たると、駒澤はマスコミにも不用意な発言をして二進も三進もいかなくなる。会社側は完全敗北した。その直後、駒澤は脳血栓で倒れた。見舞ひに行つた岡野はそのやうになつてもまだ会社と社員を心底信じきつてゐる駒澤の姿を見て、なんとも名状しがたひ悲哀と同情を感じてしまふ。岡野は駒澤の土着的な心情が自分には失はれてゐることに氣がつひた。思ヘばハイデガーやヘルダアリンは「彼の地の土着の心情」をこそ謳つてゐたのだつた。ここは日本である。それを自分は忘れてゐた‥‥。だいたいはこんな筋である。ぼくがこれを読んだときは、ここに書いた程度の話としてそこそこおもしろく読めた。ところが、この作品が意圖したものはそれだけではなかつた。

 題名の『絹と明察』は、絹派としての駒澤とこれを貶めた明察派のドラマといふ対比をあらはしてゐるやうに見へる。しかしそう見るのは、三島の意圖とは違つてゐた。絹としての駒澤は最後になつて明察に達したのである。逆に岡野は絹にとらはれて明察を缺いたのだ。三島自身は自作の意圖をかういうふうに説明してゐる、「絹の代表である駒澤が最後に明察の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹に惹かれて、ここにドンデン返しがおこるんです」。それだけではなく、三島は「この作品はこの五年あまりの僕の総決算だつた」と云つて、さらにこんな説明をした。「書きたかつたのは日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」。

 ずいぶんあとのことになるが、三島が自決してしばらくたつていくつかの三島論を読んだとき、『絹と明察』を評論した者にこのやうな三島の意圖を予見してゐた議論はほとんど見つからなかつた。唯一、野口武彦が『三島由紀夫の世界』で岡野のキヤラタクリゼーションに注目し、三島は『林房雄論』に続いて「本質的原初的な日本人のこころ」を描いてゐたのではないかと指摘してゐたけれど、他はたいてい、愚直な駒澤の描写が秀逸だといふたぐひの批評に終始してゐた。たとへば、「描破された資本家像」(高橋和巳)、「戦後知識人の破綻を書いた」(村松剛)、「人間の愚劣への挑戦」(森川達也)、「愚かな人間を芸術的に浮き彫りにした」(奥野健男)といつたふうに。

 このことは、如何に三島が誤解されてゐるか、それとも如何に三島の文学はわかりにくいかといふことを示してゐるかのどちらかに見えるのだが、さういふことではない。三島は作家としての自覺をした當初から、実はこの『絹と明察』そのものに向かつてゐたと言ふべきなのである。それを最も端的に暗示してゐるのは、三島が『絹と明察』を終へて次に何を書いたのか、何を始めたのかといふことだ。『絹と明察』は昭和三十九年十月に完結し、その翌年から三島が「新潮」で連載にとりくんだのは、残された大作『豊饒の海』ただ一本だつたのである。

 三島が總決算に立ち向かふため、作家の決着として(後でわかつたやうに、人生の決着としても)、その生死の最終仕上げのためのスプリングボオドとしたのが『絹と明察』だつたといふことは、ぼくを驚かせた。三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間のあひだ、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。

 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。

 ともかくも六年間、三島はひたすら「日本及び日本人」だけを問題にしてゐたのである。それなのに文芸批評家たちは、三九歳までの作品からこれらの主題を讀みとらなかつた。文芸批評なんて所詮その程度のものだと云へばそれまでだが、三島が仕込んだもうひとつのテヱゼ「父と子の問題」といふことも文芸評論家たちにほとんど伝つてゐなかつたところを見ると、そもそも三島における「日本及び日本人」が父親像の探求と裏腹の関係にあつたといふことすら、世間にも批評家にも"認知"されてゐなかつたのだらうといふことになる。なぜ、そうなつたのか。

 三島は自分の意圖を隠さない人である。昭和三十九年十一月の「朝日新聞」では、「過去数年間の作品はすべて父親像を描いたものだ」と証かし、『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』といつた作品名まで告げてゐた。細かいことは忘れたが、『喜びの琴』は文学座の委嘱によつて書かれた戯曲で、言論統制時代の近未来を舞臺にしてゐる。主人公は筋金入りの公安係巡査部長の松村で、左翼の仕業とみへた列車転覆事件が調べてみると実は右翼の仕業だつたといふ意外性を描いた。松村が自分自身の思想と行動に裏切られたと思つたとき、天から「喜びの琴」が聞こへてくるといふ幕切れだつた。『剣』のはうは剣道部の学生の死を扱つたもので、三島の『葉隠』解釈をそのまま作品化してゐた。『午後の曳航』は上にも書いたやうに横浜山手町の擬似家族を題材に、中学生の登が慕つてゐた航海士が母と姦淫してゐたことを知つて処刑するといふ話である。

 表にあらはれた筋書きと登場人物は区々(まちまち)だが、いづれも一途な思ひを抱きながら、そのロマン主義的な前途が「裏切られた父性」によつて挫折ないしは逆転してしまふ構図を書いてゐる。が、何としたことなのか、當時はそのメッセヱヂが世間には伝つてゐなかつたのだ。理由はさしあたつて三つしか考へられない。三島の文学がヘタクソだつたか、三島がこの主題を把握しきれてゐなかつたか、文芸界・メディア・世間が三島を読み違へていたか、そのいづれかである。

 三島は焦つたやうだ。『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』のどれもがたいした評価をうけなかつた。ノーベル賞も取り逃がした。『喜びの琴』にいたつては左翼を痛烈に揶揄した台詞に劇團側からクレームが入つて、文学座の上演を見送られた。かなりの屈辱だつたらう。かうして昭和四十年になる。四十歳になつた三島は『憂國』を自作自演したのを皮切りに、これまで文学的に暗示してきたものを行動や随筆や討論にあからさまに吐露しはじめた。船坂弘の道場で剣道の稽古を始め(ぼくはここで初めて三島と会つた)、自衛隊に体験入隊してその心境を『太陽と鉄』に書き、『英霊の声』で天皇に物申し、精鋭の現役学生を集めて「楯の会」を結成した。戯曲では『わが友ヒットラー』を、評論では『文化防衛論』や『葉隠入門』をたてつづけに出すと、一橋や早稲田での左翼学生集会にも積極的に参加した。有名な東大全共闘との闘論(芥正彦との対峙)は自決の一年前である。最後は書き殴つたやうな『行動論入門』で中斎大塩平八郎の陽明学的行動を称揚した。

 こんなわかりやすい露呈はなかつた。意志も思想も理念も行動方針もまるごと見せたのだ。伏せられたのは最後の最後の市ケ谷自衛隊での昭和四十五年十一月二十五日の「決起」だけだつた。しかしそれにもかかはらず、批評家も三島ファンもメディアも世間も、かうした三島の準備の意志行為をほとんど理解しなかつたのである。これは振り返つていへば、文芸的に暗示した「父と子」「日本及び日本人」の問題が理解されなかつたのとまつたく同様の冷たい反応だつたのだ。三島は文学も行動もあきらかに過小評価されたのだ。三島は何かを間違つたのだらうか。それとも三島の仕掛けが効かなかつたのだらうか。だうも、さういふことではないやうに思はれる。

 ここで問題は再び元に戻つていく。いつたいなぜに三島は『絹と明察』で喪失した父親像を描かうとし、駒澤に日本人のプロトタイプを求めたのかといふことだ。

 平岡梓に『伜・三島由紀夫』がある。憂國自決した息子のことを生ひ立ちから自決にいたるまで、父親が赤裸々に囘顧した。ときに辛辣な言葉を放ち、ときに息子に似て世間を振り回して綴つてゐる。いつたい父親が息子のことを書いた文献が世界にどれくらひあるのか知らないが、これは相當に異様な書であつた。一貫した見解がなく右往左往してゐるため、また記述も思ひ出し語り調で動いてゐて、母親の倭文重(しづゑ)にあれこれ尋ねたことも随所に挿入されてゐるため、記述はまことにワインディングする。さういふ意味ではおそらく奇書の一種に入るであらう。いろいろなことが綴られてゐる。祖母に溺愛されて育つたこと、母への思慕が強かつたこと、子供の頃から富士山と大海と夕映えが好きだつたこと、隣の少年が遊んでゐるのを塀の節穴からよく覗いてゐたこと、父親とはつひに表面的な会話しかしなかつたこと‥‥等々。もつと推理をしてほしかつたところも多々あるが、それでもやはり実父と実母が見た目なのである。参考にならないわけはない。あらためて確認されたことも多い。祖母が初孫の三島を父母からとりあげて病床で育てやうとしたことは『仮面の告白』でも有名なくだりになつてゐたのだが、さういふことも"傍証"された。

 しかしぼくがこれを読んで最初に注目したことは、この父親は三島を一度も満足させなかつたであらうといふことだつた。それにもかかはらず祖父・父・三島と三代続いた官僚生活の日々といふものは(三島は東大卒業後に大蔵省に入つた)、つねに三島にのしかかつてゐたといふことだ。ここには「父の不在」があつて、三島には密かに魂胆されてゐただらう「父殺し」といふものが見え隠れする。しかもこの「父の不在」と「父殺し」は、ある時期から"何らかの父"たらんとした三島自身の重圧としてたへず全身にのしかかつてゐただらうといふことだ。

 このことが『午後の曳航』の本物と偽物を揺れ動く「想定された父親」としての航海士を処刑するといふ行為にあらはれ、『絹と明察』の駒澤が最期になつて岡野の幻想的なハイデガー哲学を打倒するといふ顛末になつたのである。いや、もつと実際的には、三島が自分の息子の幼い威一郎から「お父様なんか死んでしまへ」と言はれ、三島が母に「お母様、僕はもう威一郎を諦めました」と言つてゐたといふことなどとも関はつてくる。

 ともかくも三島は三十代後半になつて、これ以上家族としての父や子に何かを実現しやうとするより、本来の民族的な男性の威厳、すなはち「白昼の父たらんとすること」を自ら別途に取り戻すことのはうが餘程重大なことであるといふ決意をしたのである。しかしながらぼくがさらに平岡梓の思ひ出語りで感じたことは、三島が本気で「日本及び日本人」のことを考へるやうになつたのは、青年時代や三十代のことではなくて、まさに『午後の曳航』や『絹と明察』を書いてからのことだといふことだ。

 もちろん藤原定家に憧れ、能や歌舞伎に深い関心を寄せてゐたといふやうな高尚な日本趣味なら、三島ははやくから身につけてゐた。現代短歌にも暗黒舞踏にも詳しかつた。また二・二六事件や白虎隊の青年たちの生き方と死に方に強い羨望をもつてゐたことも、はやくからの氣質であつた。けれどもそれはレイモン・ラディゲやジャン・コクトオやガブリヱル・ダヌンツィオの美意識と不可分の日本青年の美であつて、そこには本格的な「日本及び日本人」の追求はほとんどなかつたのだ。けれども三島は或る時から愈々その必要を痛切に感ぢてしまつたのである。日本の本來に向かはなければならないと決意したのである。それが『絹と明察』の翌年からの異常な行動や計画になる。あるとき三島は、「僕のやることはいくらお母さんでも止めても駄目だから何も言はないでください」と告げてゐた。

 ここで再びぼくの話を挾むことになる。父と子で「群像」の感想を交はしたあと、ぼくはしだいに学生デモや労働者の集会にばかり出るやうになつてゐた。それもベ平連のやうな活動ではなく、できるだけ過激な日々を自分に課さうとしてゐた。さういふ日々が続いたあるとき、ぼくは父と口論することになつたのだ。きつかけは忘れたが(些細なことだつたらう)、そのとき父はかなり声を荒らげ、「おまへなんかベトナムに行つて頭をかち割られてきたらええんや」と言ひ捨て、ぷいと書斎に姿を消したのである。こんな父を見たのは初めてだつた。母にはよく罵りもし手を上げもしてゐたが、ぼくに暴言や暴力を振るふことはなかつた父なのだ。このときの父の顔は、それから二年足らずで豪気な父が黄疸と膵臓癌で痩身となつて急死したこともあつて、ぼくの脳裏から離れることがない。実は今夜の三島についての感想は、この父とぼくとの一夜のことを書いておきたかつたといふことも関はつてゐたのである。父は、三島が『豊饒の海』第二巻「奔馬」を完結した昭和四十二年の三月にこの世を去つたのだつた。

 では話を戻すけれど、三島は空想上の「白昼の父」たらんとすることを、現実の「日本及び日本人」になることと重ねていつたわけである。それがどういふものであつたかは説明するまでもないだらうが、さて、ここで、いささか重要な逆説にかかはる問題がもうひとつあつたのである。それはぼくの見るところ、三島は日本思想を一度も本格的に深めたことがない人だつたのではないかといふことだ。なるほど吉田松陰や山本常朝にひとかたならぬ共感を寄せてはゐたが、その思想を存分に咀嚼してゐたかといふと甚だあやしいし、すでに第九九六夜の『伝習録』のときにも触れておいたのだが、三島は大塩平八郎の行動をこそ把握しきつたであらうものの、陽明学の本懐を十全に理解してゐたとは思へない。

 さういふ氣がするのだ。芸術のことではない。思想そのものの話である。あるひは日本思想のみならず思想を捉へることが苦手だつたのではないかとさへ思はれる。たとへばハイデガー哲学である。また『豊饒の海』の下敷きとなつた仏教の唯識思想である。これに対して定家や世阿弥やワイルドやコクトオの才能や美意識を見抜くことは、他の追随を許さないほど独得の鬼才であつた。けれども三島は日本思想の精髄を解読できなかつたのだ。空海や道元や徂徠や宣長には取り組まなかつたのだ。

 ぼくが見るに、三島の思想で最も充実し、最も独自の高みや深みに達してゐたのは『太陽と鉄』である。あれは誰にも真似できない眞骨頂を根本で放つてゐた。だから三島に思想がないなど云つてゐるのではない。さうではなくて、自身が日本の父なるものを求めて自決を覚悟で檄を飛ばし、日本の軍備の渦中に躍り出やうとするにあたつて、三島が用いた思想はまさに『葉隠』であり松陰であり陽明学だつたのに、三島はそれを一知半解してでも活用しやうとしたのはなぜだつたのかといふことを問ふてゐるのだ。思想など援用しないといふのでもよかつたのかもしれない。三島は戒名に「武」の一字を入れるやうに遺言したほど、最後は「文」を捨てて「武」に入り、文学を揚棄して行動を極上としたのだから、何も半端に日本思想など持ち出さなくともよかつたのである。けれども、それが三島には出来なかつたのだ。

 ふつう、三島の思想は浪漫主義に端緒したと言はれてゐる。浪漫主義といふのは、窮屈で矛盾に満ちた現実に対してその奥にある全体の流れを想定し、その流れに自身の感情を合はせて思索や表現をすることをいふ。したがつて浪漫主義にはどこかペシミズムや逃避がつきまとふ。三島は浪漫主義に惹かれながらも、厭世や逃避をよろこばない。青少年期にギリシア悲劇の洗礼をうけた三島は、たんに現実の代はりに別の函を作つてそこに浪漫を注入してしまふのではなく、現実そのものに立ち向かつて、その矛盾を描ききる方法があることに気がついたにちがひない。浪漫はそれに被せる意匠であればいい。それを徹しさへすれば、ソフォクレスの『オイディブス』がさうであるが、浪漫主義や厭世主義では見え切らない「宿命」が描けることを知つたのである。

 ここまではきつと青年時代にすでに氣付いたことだつたらう。しかしながら、これではまだ表現者に留まるだけである。人一倍自意識の強かつた三島には、たとへどんなに表現がうまく成就したとしても、そこに自分自身の充実がなければならなかつた。いや、充血と云つたほうが三島らしい。かうして察するに、もうひとつの充血装置が新たに作動する必要があつたのである。それを一言で當てるのは容易ではないが、おそらくはニーチェのディオニソスや超人の導入に近いものであつたと見れば、さうは當たらずとも遠からぬのではないか。

 三島が選び切つた充血装置には、むろん幾つかのものがあつた。同性愛もそのひとつだらうし、芝居を書き、芝居を舞臺に乗せるのもそのひとつだつたらう。両方ともこの装置は代理を立てるといふ意味に於いて鏡像的だ。もう少し鏡像から離れるといふ方法もあつた。肉体を鍛へてボディビルをするとか剣道に打ち込むとか自衛隊に体験入隊するといふのは、さういう非鏡像的な充血装置だつたらう。ニーチェは『悲劇の誕生』で「生の充実」にはアポロン型とディオニソス型の意圖があることを指摘した。三島は早くにニーチェに傾倒して、この二つを巧みに駆使することによつて著作をなしてきたのだが、しだいに自分自身のディオニソス性の不足を感ぢたやうだ。そしてその揚句、自身を陽光のやうに眩しいディオニソスの快楽や充血を得る像にすることに異常な関心をもつた。三島はあくまで「ディオニソスとしての悲劇の主人公」でなければならなかつたのである。かくて三島は自在な表現を操つて悲劇を描きつつも(三島文学の大半は悲劇である)、その反面では自身をして、自ら描いたその悲劇を嗤うディオニソスの優位に立つ司祭に仕向けていつたのである。言つておきたかつたのは、このことだ。

 ところで、三島が「偽装」といふことに激しい官能をおぼへてゐたことはよく知られてゐる。その性癖は『仮面の告白』にすでにめらめらと燃えてゐた。しかし、だうして偽装など必要だつたのか。もし三島に充実や充血の自信があるのなら、世間やメディアや批評家が誤解するほどに自身を偽装する必要などなかつた筈である。けれども「楯の会」もそのひとつだが、三島は最期の最期まで、ある意味での偽装をしつづけた。そんな必要はどこにあつたのか。今夜はそのことを付言して、ぼくの三島感想を閉じたいと思ふ。

 三島が偽装を好んだ理由を知るには、偽装は事実よりもずつとアクチュアリティに富んでゐるのだといふロジックを知らなければならない。いつたい偽装とは何かといふと、またまたニーチェを引き合いに出すことになるが(青年三島がニーチェの偽装論を早々に踏襲してゐたからだが)、そもそも言語が偽装であつて、概念をもつといふこと自体が偽装なのである。たとへば空に浮かんでゐる雲には一つとして同じものはない。そこには同一性がない。雲はつねに多様である。それを「雲」といふ言葉や概念をつかへば、それぞれの雲の特徴や細部は失はれてしまふ。事実を指摘できないことになる。だから「雲」と言つてしまふことは「事実」から見れば「誤謬」なのである。しかしながら、そのやうに「雲」と言ふことによつて、われわれは思考における同一性や連続性を得ることができるのでもあつた。

 すなはち言葉や概念を掲げるといふことは、その行為の根源において偽装を許容したといふことなのである。三島は、そして三島文学は、このニーチェ的同一性論の認識の上にこそ成り立つてゐる。その同一性に向かふためには、誤謬や偽装を恐れず、むしろ世界が誤謬や偽装でしかないことを見切るべきなのだといふロジックを有効にする必要があつたのである。ニーチェはこの同一性の維持と高揚のために、かの「永遠回帰」を説いた。そして偽装と誤謬の凱歌を謳つた。三島がそこまでニーチェのロジックに嵌まつてゐたかだうかは知らないが、少なくとも三島にとつては偽装を果たし切ることは三島の思想としての行動だつたらうといふ予想はつく。さうだとすれば、三島の「偽装」は三島をとりまくすべての「事実」を超へるものだつたのだ。ただし、これを付け加へておくべきなのだが、三島がニーチェに傾倒するところはあつても、ニーチェはまつたく三島に似てゐないといふことである。

 これでおおよその見方が成立すると思ふのだが、三島はいはば松陰の思想ではなく松陰らしくなることが、常朝の『葉隠』の解読ではなく鍋島藩の常朝以上であることが、王陽明の『伝習録』を深めるのではなく陽明学に奉じた大塩平八郎その人を超えることのはうが、ずつと重要だつたのである。この行動姿勢の実践に最初は「父と子」が、ついで「日本及び日本人」が重なつたのだ。だから、三島にたとへば「父殺し」に関するフロイドに勝る思想が醸成されてゐなかつたからと云つて、また「日本の思想」について保田與重郎や丸山真男を凌駕する思想の用意がないからと云つて、三島自身にはそんなことで何をも隔靴掻痒させるものはなかつたと思ひたい。ただ、三島に日本思想の深みなどを期待しないはうがいいといふだけだ。

 もうひとつ、老婆心で加へておくが、三島は最後の大作『豊饒の海』でも思想的解決は諮つてはゐなかつた。だいたい『豊饒の海』は「轉生」が主題になつてゐるのだから、それ自体において「父と子」の軛を逃れてゐるし、また主人公を松枝・本多・飯沼といふふうに移すたびに舞臺を奈良からタイまで幅をとつたことによつて、「日本人」の問題に責任をとれないやうにもしてゐた。責任は三島の死だけがとりたかつたのである。 

 今夜はざつとこんな感想を書いてみたかつた。これは三島の文学を解読しやうとしたのではなく、三島の思想の謎解きをしたわけでもない。また本当は『禁色』を起点に聖セバスチャンから稲垣足穂をまぜつつ書いてみたかつたホモセクシャリテイのことも触れないままになつた。
 今夜の感想は、父と子といふ渦中の一光景から見ると、ときに三島の相貌の気味が風通しよく見へることもあるといふ、ただそれだけのことである。ひとつ言ひ忘れたことがある。いつのころかはわからないのだが、いつかしら、ぼくには三島由紀夫に「父」を感じるときが去来するやうになつてゐたといふことだ。

 附記¶参考になるものはいくらでもあるが、最期の謎をめぐるものとしては、やはり父親による報告書ともいうべき平岡梓の『伜・三島由紀夫』(文春文庫)と、最後の「檄」を託された「サンデー毎日」記者徳岡孝夫による『五衰の人』(文春文庫)、川端康成との手紙のやりとりをほぼすべて収めた『川端康成・三島由紀夫往復書簡』(新潮社)は欠かせない。力作の三島論としては、野口のもの以外ではやはり畏友村松剛の『三島由紀夫の世界』(新潮文庫)だろうか。やや変わったものとしては、マルグリット・ユルスナールの『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』(河出文庫)、同性愛にかなり踏みこんだ福島次郎の『剣と寒紅・三島由紀夫』(文芸春秋)、その一日だけを再現した山崎行太郎の『小説三島由紀夫事件』(四谷ラウンド)、猪瀬直樹が祖父の事件にまで溯って書いた評伝『ペルソナ・三島由紀夫伝』(文春文庫)、三島がバルコニーで最期の演説をしたことを近代の表象として浮き彫りにしようとした飯島洋一の『ミシマからオウムへ』(平凡社)などがある。





(私論.私見)