「親三島」諸氏の三島作品論

 (最新見直し2013.08.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「親三島諸氏の三島作品論」を記しておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


金閣寺は、この作品において美の象徴であり、しかも戦火によっていつ焼亡するかもしれないという時期、凄まじいまでの美をあらわしている存在である。 主人公は、その終末の予感に陶酔しつつ、金閣寺=美との共生にいいがたい浄福を感じている。 …敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生する。 主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。―この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、 金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。 そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの自殺」の決意にほかならないことも明らかになるであろう。 こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。 「仮面の告白」に遙かに呼応する記念碑的な作品である。 橋川文三

私は作家として三島由紀夫とは何んの接点もなかった。そう言っていいにちがいない。 彼がすぐれた文学者であったことは私にも判っている。なみなみならぬ、ケンランたる才能の持ち主であったことも心得ている。 たとえば、「自決」前年の「蘭陵王」――ああいう作品はなかなか書けるものではない。 しかし、人間には好みというものがある。文学の好みにおいて、私は彼と接点がなかった、そう言えばいいだろう。 (中略) とにかく好みというものがある。私には読んでいるとお尻の下がむずがゆくなって読み通せない作家がある。 いい作家かも知れないが、それを重々判っていても、駄目だ。三島由紀夫にはそんなことはなかった。けっこう読めた。 思想家としての接点はどうか。 …考えてみると、彼はあのころ大学の時計塔にたてこもった「過激派」の学生にいたく共感し、学生は学生で、彼が「自決」したとき、われわれは負けたと言ったものだ。…そこでも私が彼と接点がなかったことは、彼の「自決」後、ある雑誌のインタビューで、私は彼の死についてしゃべった―― そのインタビュー記事の題名は、「私は畳の上で死にたい」。それがすべてを言いあらわしている。 しかし、接点がひとつあった。確実にあったと思う。 私はそのころベトナム反戦運動に精を出していた。 …私はこの「ただの市民」の運動を自分で考えてやり出し、自分でそれなりに力も時間も金も出してやった。そして、小説もとにかく書いていた。 三島も「楯の会」で同じことをしていた。彼は「楯の会」を自分で考えてやり出し、力と時間と金も出し、小説も書きながらやっていた。 それが二人の接点だった。そのころも私はそう思っていたし、今も思っている。 ついでにもうひとつ言っておけば、そうした意味での接点を私が感じとったのは、あとにも先にも、彼ひとりだ。

小田実 「三島由紀夫との接点」から

 私にとって(文学と人生双方にとって)大事なのは「文」「武」もさることながら、「作」と「商」だった。 「作」と「商」なしには、人間は生きて行けない。 ことに古来日本の「商」の中心としてあって来た大阪生まれ、育ちの私にとって重要なのは「商」だ。 私と三島との次元のちがいは、ここにおいても明瞭だろう。 しかし、今、「商」はわが日本においてあまりにはびこりすぎている。 かつて、「文」「武」において大いに三島と共感したかつての若き過激派の学生たちも 今やそのはびこりの中心にいて、したい放題のことをしているように見える。 「文」においても、今や「商」あっての「文」。 私は三島の「文」「武」に賭けた純情をなつかしく思う。 小田実 「アンケート 三島由紀夫と私」より

イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを 企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを あらためてイタリアに紹介することにある。 その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく 英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。 その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。 周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。 予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。 それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。 「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。 冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。 「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。 群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。 他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。 俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が 消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。 拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、 友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。 しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって 生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。 しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。 「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の 結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。 三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。 最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。 タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。 収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と 死ぬことを決意する。 夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。 峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の 青年団に入って使う。 鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、 どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。 ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを 映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。 登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める 作品である。 個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。 古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。 しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には 感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる ところはないと言える。 ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。 原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が 訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な経験となることが確信されるのである。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

作者(三島由紀夫)は作品世界の終わりを自死の日付よりも五年後に延長することで一つの賭けを行っている。(中略)作者と作品は無限にズレ続ける。喩えていうなら、『天人五衰』は三島由紀夫という物語作者の死のあとに 書かれた“小説”である。そのテクストの中にはすでに三島由紀夫は不在なのだ。 透も本多も、「昭和四十五年十一月二十五日」という作品末尾に書かれた日付すなわち作者の死から、さらに 五年も生き長らえねばならない。これは何を意味するのか。 …透は、見る者として本多と類を同じくするが、しかも「精巧な贋物」であり、「純粋な悪」であり、 「能ふかぎり本多に似てゐ」るのだ。本多はそれらを養子にする前から知っている。 見られる者たる清顕や勲や月光姫と明らかに類を異にする透を養子にすることは、作者の死後も作品を 生き長らえさせるための聖化された儀式である。作品は異物によって生き長らえるのだ。というより、それまで 「物語」を見る認識者にすぎず、見る――見られるという関係に安住していた本多が、この最後巻において はじめて、自己にとっての“他者”(であると同時に贋物の同類)に出会ったのだ、と言えばよいのか。 本多の悪しき模造であり不幸な認識者である透は、「自分がまるごとこの世には属してゐないことを確信してゐ」る。「日もすがら夜もすがら、海と船と港とに縛しめられ、ただ見ることが、凝視することが、この部屋の純粋な 狂気にまでなつてゐた」という透はほとんど「狂気」の世界を垣間見ることによってしか、この世と 繋がってはいない。透の故郷は、水平線の彼方にある到達不能のものとしての「狂気」である。 透は故郷喪失者なのだ。だからこそ透には醜女の狂女絹江が必要となる。 …「過度の明晰」、つまり理性から超え出てしまうものとしての「狂気」。 本多の養子となった透は、その到達不能の「狂気」に向けて、養父との闘争を開始する。 しかし、転生の秘密を知らない透は認識者としての闘争には敗れるが、逆にその敗北が透を狂気へと近づける。 清顕の夢日記(夢こそ狂気の原郷である)を読んで服毒自殺をはかり失明した透は、醜女の絹江と結婚したいと 望み、妊娠させ、絹江と同じ世界の住人となる。本多にとって透はすでに他者である。 「黒眼鏡」をかけ、絹江以外には「一語も発しない」透は、認識者本多の眼からのがれ出た「狂気」そのものなのだ。 認識の敗北者透は「狂気」の世界への参入を許されることで、アイロニカルにも、本多に勝ったのである。 本多が贋物であるなら、透は“真の”贋物である。 かくて本多は月修寺へとおもむき、自らの存在の消滅を“知る”のである。 近未来小説『天人五衰』は、作者の死のあとの、透という他者についての物語である。 いや、むしろ「物語」というワクを解体し崩壊させてしまう小説である。透という異物=狂気がそれを 崩壊させるのだ。本多が癌で死んでも、その悪しきドッペルゲンガーたる透はあらゆる場所に出現するだろう。 『天人五衰』の世界はけっして閉じられることなく、三島由紀夫の亡霊はいたるところに現れるにちがいない。 ところで、三島由紀夫の自死を評して、「気が狂ったとしか思えない」と言った某政治家がいたのを想起しよう。 この“良識者”の言説は限りなく陳腐であると同時に、限りなく正しい。認識者本多繁邦から逃げ出すには理性の網目から逃れ出る狂気の力が必要であり、人間はその狂気と 相対することでのみ、自らの存在の限界を踏み超えるのだ。「正しい狂気、といふものがあるのだ」とは 『葉隠入門』の言葉だが、狂気の領域への参入は、「人間」(という概念)を超え出ることである。 フーコーの言葉で言うなら、「人間から真の人間への道程は、狂気の人間を媒介とするのである」(『狂気の歴史』)。 『天人五衰』のエクリチュールは、理性と非理性とのせめぎあいの中で狂気という故郷へ回帰しようと もがいている。そして三島は狂気そのものと化する地点で消滅したのだ。 青海健 「三島由紀夫の帰還」より

われわれ精神科医にとって三島由紀夫ほど魅力的な研究対象は他に例を見ない。 それはまず、三島作品の中には、精神科医が日ごろ臨床で見る精神病理学的な体験が数多く、見事な 洞察力をもって描かれているからである。 精神科医ですら記述が難しいほどの心の綾やメカニズムが、みごとに言葉として造形されている。 例えば、私が三島の最高傑作と考える「金閣寺」には、周知のようにモデルとなった事件・人物が実在するのだが、 鹿苑寺金閣に放火したその学僧・林承賢の精神の病の発症と発展の有り様が、作品には実に緻密に、かつ 正鵠に記述されている。 例えば、林の発病期の、つまり放火決意直前の「妄想気分」などは、荒涼とした日本海の風景に託して、 実に迫真的にイメージ化されている。ここでは、「症状」が、芸術的な「美」に高められているのであり、 作家の腕前には感嘆する他ない。 かつて私は、この「金閣寺」の作者・平岡公威氏と、実在した犯人・林承賢と、それから小説の主人公の三者を 比較対照する年表を作り、その異同を研究したことがある。モデル小説であっても、作者の心の真実が必ず 作品の内容に、特にその主人公の心理に投影されていないはずはないと考えたからであり、その「詩と真実」の 嵌め込み細工を分析することが、作者の「詩の技法」を解明することにもつながると思ったからである。 その研究論文にはあからさまには書かなかったが、平岡氏の心理と、精神分裂病を患った林承賢の心理とは かなり通低するのではないか、と当時の私は直観した。 しかしそれはもちろん、氏が精神分裂病を初期段階でも体験したことがあるという意味ではない。そうではなく、 ポテンシャルとして、体験する可能性があった人ではなかったか、という直観であった。精神分裂病という病気に まったく無縁の人であれば、患者の心理に対するあれほど深い感情移入は不可能ではないか、と思ったのである。 この考えは、次の傑作「鏡子の家」を読み返しても変わらなかった。しかし「鏡子の家」を書いたころは、 「金閣寺」を書いたころに比較すれば、作家の狂気に対するスタンスは大分違っていた。 遠くなっているように思われた。つまり、この作品に描かれている狂気はかなり概念的なものに変化していた。 この程度であれば、精神医学の教科書を読んでいれば、まったくの正気の人でも書けないことはない。
それにしても、三島はなぜ精神医学の教科書や事典にとどまらず、高度に専門的な学術書や論文まで渉猟する 情熱を持っていたのかという疑問は残る。 三島は、精神医学の本ばかりではなく、性科学(特に性倒錯・同性愛・冷感症・窃視症など)、犯罪学(殺人)、 精神分析学の専門書をかなり耽読していた。 いずれにせよ、精神科医の目から見ると、「金閣寺」は作家の精神の軌跡にとって一つの重要な転回点であったろう。 「金閣寺」と「鏡子の家」の創造で、内面の力学に関する仕事の一山を越えた作家は、その後しだいに、 内面から外界へ、精神から身体へ、思索から行動へと、その重心を移して行く。 そして、精神分析学的には「行動化」と呼ばれるその傾向の終点に、あの劇的な割腹自殺が待っていたのである。 何人かの精神科医は、作家の衝撃的な事件に弾かれたように、三島由紀夫の病跡学(パトグラフィ)を書き、 精神分裂病とか、パラノイアとかいう診断を試みた。 しかし、それが的外れの誤診であったことは、今ではほとんど明らかである。 また、「仮面の告白」でデビューした三島の精神診断については、必ずといってよいほど言及される 「同性愛」説にしても限界はある。それは村松剛氏のような、強力な同性愛否定論者がいるからではなく、 平岡公威氏の性嗜好は、両性愛的であったばかりではなく、プラトン的であったからである。 精神分析学者エリック・エリクソンは、「天才的リーダーとは、彼が出会った若者に大きな影響を与え、 彼らをして、それ以前の人生行路とは違う人生への道を歩ませ、その時代にはまだ類い稀なアイデンティティを 若者に与える人物のことだ」と定義した。この定義に従えば、「楯の会」を組織して、多くの若者に 「対抗的同一性」(カウンター・アイデンティティ)という新しいアイデンティティを与えた三島もまた、 単なる同性愛者ではなく、天才的リーダーだった。 そして、三島由紀夫が孤独な天才作家から天才的リーダーへの道へと方向転換したのは、実に内的な病の ポテンシャルを、創造を通じて克服した、あの「金閣寺」創作の時期だった、と見るのが妥当であろう。 福島章 「三島由紀夫と精神医学」より

たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという 根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、 三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、 あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略) 恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、 なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに 滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。 三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略) 三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある 空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい 陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように 鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の 明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明 するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。磯田光一 「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的処女作とも 云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと 励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。 富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。 「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』 というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、 ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ 連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、 私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に 心惹かれていたのかも知れない。併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分 世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。 その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、 ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、 三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略) 私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、 それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に 出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の レジスタンス運動であった。 あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。 「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、 持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、 戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の 世界に定着させようとしていた。(中略) 人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が フィクションになっていた。(中略) 三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的 作家であったことではないか。 (略)その世界的作家としての気宇について云えば、その処女短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい 気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ 時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。 彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、 ひとり、たたかっていたのである。(中略)三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。 (略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」 という戦時中の雑誌、そこに三島君の処女作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、 ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。 林富士馬 「死首の咲顔」より

三島由紀夫は勤勉な作家だった。たとえばそれは、敗戦後の日本が焼け跡から回復して高度成長を実現し、 「東洋の奇跡」と呼ばれる戦後復興をなしとげたことを思わせるようなきまじめでひたむきな勤勉さだった。 (中略)戦後日本の復興期にそのまま重なっている。その意味で三島由紀夫は、作品に見られる反戦後的な 美学や日本の欺瞞に対する批判的な視線にもかかわらず、きわめて戦後日本的な作家である。 そのことにまつわる伝説も多い。 なにより作品を書く時間を大切にしていた三島由紀夫は、知人との会食や宴席などでどんなにお酒が入って 楽しく談笑していたとしても、かならず夜11時までには切りあげて帰宅し、執筆の時間をつくったという。 私小説作家のように怠惰であることをひそかに誇ったり、サラリーマン社会のあわただしさに反感をもったり している日本の文壇の雰囲気から見て、その態度はひときわ異彩を放っている。昼間は官僚として軍医総監という 激務をつとめながら深夜に執筆していた明治期の森鴎外のように、敗戦後の日本に生きた三島由紀夫はおそらく 自分が原稿用紙に記す一字一字が戦後日本をつくりあげていくという使命感をもっていたのである。(中略) そして敗戦から60年以上がすぎて、戦後日本のあり方が風化しつつある21世紀において、次に新しい読み方を 待っているのは三島由紀夫の勤勉さが惜しげもなく注がれた純文学としての短編や長編ではなく、むしろ その余白に生まれて気軽に書かれた娯楽小説ではないだろうか。たとえば1967年に刊行された『夜会服』も、 その一冊である。(中略)

田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」より

道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。―― 『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。 既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり出そうと するところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略) 夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、 ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。――三島由紀夫の文学は、 その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略) 彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。 彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた 苦しみがあるばずだ。 村松剛 「『沈める滝』解説」より

「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。 絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。 この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。 時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。 私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、よく文学のことを質問した。 三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。 当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。 …「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。 思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。 たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。 「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。 ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。 死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。
深夜帰宅した私は電話で話した。 「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。 四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。 電話を切ってから、三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。 いつもは快活に話してさっと切る人が……。 〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。 それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉 三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。 三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に 映画を作ろうと話して下さったことを思い出した。 いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。 藤井浩明 「私の勲章」より





(私論.私見)