三島由紀夫の履歴考(1959年まで編)

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、三島由紀夫の履歴を確認しておく。「ウィキペディア三島由紀夫」、「ウィキペディア三島由紀夫」、サイト「三島由紀夫」の「三島由紀夫本」、「三島由紀夫文学館」、「三島由紀夫の噂 (980)」その他参照。他に川島勝「三島由紀夫」(文芸春秋、平成8年刊)、「定本三島由紀夫書誌」(薔薇十字社、昭和46年刊)、城市郎「三島由紀夫の本」(桃源社、昭和46年刊)、安藤武「三島由紀夫研究文献目録」(私家版)等があるとのこと。「ウィキペディア三島由紀夫」が非常に重たくされている。これは閲覧が規制されていることを意味する。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


【三島由紀夫の履歴考】
 1925(大正14).1.14日 - 1970(昭和45).11.25日。
 三島由紀夫の本名は平岡公威。日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970.11.25日、 自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入事件で割腹自殺を遂げた。
 1925(大正14).1.14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)。公威の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・古市公威から取られた。兄弟は妹・美津子、弟・千之。本籍地は兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)。

 父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。1924(大正13)年、橋倭文重と結婚する。母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三の次女。

 祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方地域)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し、内務省に入省、内務官僚となる。1893(明治26)年、武家の娘である永井なつと結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)。祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。

 作家・永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。

 公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母・倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという。坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。車や鉄砲などの音の出る玩具は御法度で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという。「仮面の告白」は次のように記している。

 「父母は二階に住んでいた。二階で赤ん坊を育てるのは危険だという口実の下に、生れて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた」。
 1930(昭和5).1月、5歳の時、自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。6歳にして俳句を詠み、詩を書いた。

 1931(昭和6).4月、公威は学習院初等科に入学。当時の学習院は華族中心の学校で、 上流家庭の子女のみに入学が許されていた。

 平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたと言われる。学習院入学当時のことを級友だった三谷信が次のように語っている。

 「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 『平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!』と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている」。

 公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関紙「小ざくら」に発表し始める。読書に親しみ、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、印度童話集、及び講談社「少年倶楽部」(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、宍戸左行の「スピード太郎」などを愛読する。


 1933(昭和8).8歳の3年生の時

 詩「冬の夜」を書いている。

 火鉢のそばで猫が眠つてゐる。電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。 おぢいさまが、 「けふはどうも寒くてならんわ」 とおつしやつた。冬至の空はすみのやうにくろい。今は七時だといふのにこんなにくらい。弟が、「こんなに暗らくつちやつまんないや」といつた。

 1934(昭和9).9歳の4年生の時

 12月、肺門リンパ腺を患う。自家中毒や風邪で学校を休みがちであった。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。

 初等科6年の時、校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれ、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという。この年、作文「大内先生を想ふ」を書く。

 三島は、学習院の中等科にあがるころには詩のあまりの完成度の高さから、「盗作ではないのか」と教師の間で話題になるほどだった。この頃のようすを三島は短編小説「詩を書く少年」にこう記しています。

 「詩はまったく楽に、次から次へ、すらすらと出来た。学習院の校名入りの三十ページの雑記帳はすぐ尽きた。どうして詩がこんなに日に二つも三つもできるのだろうと少年は訝った」。

 1936(昭和11)年.11歳の時
 6月、作文「わが国旗」を書く。「わが思春期」は次のように記している。
 「友だちと一緒に学校の門を出てくると、そこで雄犬と雌犬が、あやしげなふるまいをしているのを見ました。変な恰好をしているので、『あれ、何やっているの?』と友だちに聞きますと、彼は事もなげに『さかってるんだよ』と答えました。『さかってるって、なあに?』と聞きますと『さかりってものを知らないのか、ばかだなあ』と友だちは申しました。私はおばあさん子でしたので、うちへ帰って、おばあさんのところへあいさつに行くなり、おばあさんの看護婦のいる前で、『さかりってなあに?』といきなり聞いたのです。すると、おとなたちの顔は、たちまち青ざめて、『そんなこと言ってはいけない』ときびしくしかられてしまったのですが、かくて私には、まだ何のことかわかりませんでした」。

 1937(昭和12)年.12歳の時

 4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の両親のもとより通う。文芸部に入る。
 7月、学習院校内誌「輔仁会雑誌」に随筆『春草抄―初等科時代の思ひ出』を発表。国語教師の岩田九郎に作文の才能を認められ成績も上がる。以後、輔仁会雑誌には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。同年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。初対面の時の公威の印象を坊城は次のように記している。

 「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った。『文芸部の坊城だ』 。彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。『きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた』。 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 『これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである』。 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った」。

 この年、日中戦争が勃発し、日本は戦時下となった。


 1938(昭和13)年、13歳の時

 3月、学内雑誌「輔仁会雑誌」に短篇小説「(酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載され才能を示した。これが三島の活字となった初めての小説らしい小説といわれている。俳句4句。詩「金鈴」(光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場ほか短歌3首)(輔仁會雑誌161号)。
 10月、祖母・夏子に連れられて、初めて歌舞伎(仮名手本忠臣蔵)を観る。また、同月、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて能(三輪)を観る。以後、歌舞伎、能の観劇に夢中になる。


 1939(昭和14)年、14歳の時

 1.18日、祖母・夏子が62歳で死亡。4月、清水文雄が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた。
 9月、第二次世界大戦が始まる。


 この年、次の作品がある。戯曲「路程」、戯曲「東の博士たち」、戯曲「基督降誕記」、戯曲「館」(中断)。小品「九官鳥(森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥)」。


 1940(昭和15)年、15歳の時
 1月、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩「凶ごと」を書く。同月、母・倭文重に連れられ、詩人・川路柳虹を訪問する。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ俳句・詩の師事を受ける。
 2月、俳句雑誌「山梔(くちなし)」に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を「山梔(くちなし)」に投稿する。
 9.27日、日独伊三国同盟。
 10.12日、大政翼賛会結成。
 11月、短編「彩絵硝子(だみえガラス)」を輔仁会雑誌に発表。これを読んだ東文彦から始めて手紙をもらい文通が始まる。徳川義恭とも交友を持ち始める。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短篇「詩を書く少年」に私小説的に描かれ、この頃の詩歌はのち、「三島由紀夫選集1 花ざかりの森」(新潮社、1957年)に「十五歳詩集」として掲載された。


 「詩を書く少年」の一節はこう記している。
 「彼は詩人の薄命に興味を抱いた。詩人は早く死ななくてはならない。夭折するにしても、十五歳の彼はまだ先が長かったから、こんな数学的な安心感から、少年は幸福な気持で夭折について考えた」。

 「詩を書く少年」についてこう語っている。

 「『詩を書く少年』は、いわば私小説である。自分が贋物の詩人である、或いは詩人として贋物であるという意識に目ざめるまで、私ほど幸福だった少年はあるまい」。

 この頃、堀口大学訳「ドルヂェル伯の舞踏会」、レイモン・ラディゲ、オスカー・ワイルド「サロメ」、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、北原白秋、草野心平、丸山薫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、伊東静雄、森鴎外、そして万葉集、古事記、枕草子などを愛読する。この年、他にも次の作品がある。詩歌「小曲集」、詩歌「青城詩抄」がある。

 1941(昭和16)年、16歳の時

 4月、学習院輔仁会雑誌の編集長に選任される。
 7月、川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。
 7月、短編小説「花ざかりの森」を書き上げ清水文雄に提出する。誰もが心の奥底に抱きながらも、言葉として捕らえどころがない「永遠の憧れ」を観念的に描いた作品で高い評価を受けた。感銘を受けた清水は、自らも同人の日本浪曼派系の国文学雑誌「文藝文化」に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など斎藤清衛門下生で構成されていた。蓮田善明が高く評価した。


 このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水文雄によると、筆名の「三島」は、静岡県三島の地名に由来する。9月、修善寺での「文藝文化」編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。そして、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した公威本人が提示した「三島由紀雄」の名に対して、清水が「由紀雄」は重過ぎると助言をし、「三島由紀夫」となった。『花ざかりの森』は「文藝文化」昭和16.9月号から12月号に4回連載された。編集後記で蓮田善明は公威について、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。

 蓮田善明の 昭和16年「文芸文化 編集後記」は次のように記している。

 「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。 それが最もいいと信ずるからである。 若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。 日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の 文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。 この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。 我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。 此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。 併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」。

 この頃から公威は、随筆「惟神之道(かんながらのみち)」などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった。蓮田は終戦直後の1945(昭和20).8月19日に南方にて自決した。なお、蓮田は1943(昭和18).11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。

 10月、父・梓、農林省水産局長になる。
 12.8日(ハワイ時間:12.7日)、日本は真珠湾攻撃で口火を切りイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。11月、評論「王朝心理文学小史」を書き始める。


 この年、他にも次の作品がある。詩歌「抒情詩抄」。


 1942(昭和17)年、17歳の時

 1月、評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出する。

 3.24日、席次2番で中等科を卒業。この時の様子を三谷信 「級友 三島由紀夫」が次のように記している。

 「最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。 …何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。 そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」 と銃剣術の動作をして真剣にいった。 当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。 …そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。 けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。 彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。 そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

 今、卒業式の時の彼を思い出す。 戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。 全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。 彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。 彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。 その動きは真に堂堂としていた。心ひきしまり、すがすがしい動作であった。 あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。 そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。 初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。 …そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。 彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。 …彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。 彼はそのことを確信していた。 そしておそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。 初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。 その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。 春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。 三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う」。

 父・梓、水産局長を勇退。4月、学習院高等科文科乙類(独語)に進む。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は桜井和市、新関良三、野村行一(1957年に東宮大夫在職中に死亡)らがいた。なお、ドナルド・キーンが後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったという。公威は、体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった。教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた。伊東静雄詩集「夏花」、及び王朝文学を愛読。

 4月、詩『大詔』を文藝文化5巻4号に発表。5.20日、翼賛政治会結成。
 5.23日、文芸部委員長に選出される。
 6.5日、ミッドウェー海戦始まる。
 7.1日、同人誌「赤絵」を東文彦、徳川義恭と共に創刊する。装幀は徳川義恭で400部の自費出版。顧問清水文雄。彼らとの友情を深め、特に病身の東とはさらに文通を重ねた。この頃、「文芸文化」の同人と交流を持つ。同人は清水文雄、蓮田善明、栗山理一、池田勉ら。同誌を通じて日本浪漫派の間接的影響を受ける。
 8.26日、祖父・定太郎が79歳で死亡。

 11月、学習院講演依頼のため、清水文雄に連れられて、日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以後、何度か訪問する。公威は伊東静雄や、蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を次々と発表する。「伊勢物語のこと」を著わし、「文藝文化」昭和17年11月号に掲載される。蓮田の「神風連のこころ」も掲載されてた。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた「神風連のこころ」(国民評論社、1942年)の書評である(なお、三島は後年の1966(昭和41)年に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と会っている)。

 この年、他にも次の作品がある。短編「苧菟(おっとう)と瑪耶(まや)」、中編「花ざかりの森の序とその一」、随筆「転載のことば」、詩「馬」、詩「かの花野の露けさ」、書簡「清水文雄先生へ」(文芸文化5巻10号)、短編「みのもの月」、評論「伊勢物語のこと」(文芸文化5巻11号)、日記「芝居日記」。この作品は没後21年の1991(平成3)年に初刊行された。

 この頃と思われるが、長文の評論「保田輿重郎ノート」(副題「日本的美意識の構造試論」)を書き記している。十代の頃から保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に快感を味はつた〉と書いている。

 坊城俊民 「焔の幻影 回想三島由紀夫」がこの頃の三島を次のように記している。
 「『平岡公威(きみたけ)です』 。高からず、低からず、その声が私の気に入った。『文芸部の坊城だ』。彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。 『きみが投稿した詩、『秋二篇』だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた』。私は学習院で使われている二人称『貴様』は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。『これは、文芸部の雑誌‘’雪線‘’だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである』。三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。 三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。三島にわたした文芸部の雑誌『雪線』第三号には、私の小説『鼻と一族』が掲載されており、それは二・二六事件に関した作品であった。この二・二六事件が、後年の三島に大きな影響をもたらしたことは周知の通りであるが、事件の起こった昭和十一年二月には、三島はまだ初等科五年、私は高等科一年であった。(中略)(三島の)感じやすい魂は、事件の背後にあるものを、本能的に読みとったのではあるまいか。それは、三十年後の『天人五衰』に、本多の考えとして書かれている『日本の深い根から生ひ立つたものの暗さ』である。われわれのはるかなるふるさとの、暗いともし火である。それは『春の雪』に結実した‘’優雅‘’であるとともに、『奔馬』における‘’暗い熱血‘’でもあった。 …しかしふたつながら、‘’近代‘’の前に消え失せようとしている、すでに不在の残像かもしれない。 その火影を、三島は十二、三歳の歳、みずからも手の届かない心のおくに、見てしまったのではなかったろうか。『詩を書く少年』の先輩Rは、私である。Rは少年に自分の恋愛を告白する。(中略)私はこの恋愛を『舞』と題する小説に書いた。昭和十六年から十七年にかけてのことである。三島は『舞』が、事実にもとづいて書かれたものであることを百も知っているのに、まったくの虚構としてあつかい、たとえば、『こんな会話はあり得ません』とか、『こんな情景はあり得ません』といった言い方をした。今になって考えると、三島の言葉には省略があった。『われわれ(貴下と私)の文学の世界においては、 こんな会話はあり得ません』という意味であった。三島は『文章読本』で、‘’格調と気品‘’を守るためには、多少の現実性は犠牲にしても、会話における倒置法などは用いない、と記している。ところがそのころの私は、 実際の会話をそのまま写して、得意になっていた。だから三島は、『こんな会話はあり得ません』といったのである。(中略)三島は度し難いと思ったのであろう。手をかえて、この女主人公は下品だとか、野卑だとか言い出した。あるいは、この地の文は、新聞記事のようで個性がない、とか。私はその時気づかなかった。十六歳の三島は、すでに脱皮していたということに。三島はもう『詩を書く少年』ではなかった。清水文雄氏はじめ、『文芸文化』の同人にみとめられ、『小説を書く少年』になっていたのである。Rの中に滑稽なナルシスムを発見した少年は、みずからのナルシスムにも気づいたのである。(中略) こうして、私の恋愛は、ひそかに私が期待していたのとは反対に、三島からも、そうして東からも、何の尊敬も同情も得られなかったばかりか、むしろそのために、私は彼らから見棄られた恰好になった。彼等は、私のかわりに徳川義恭を仲間に入れ、『赤絵』を創刊した。それは私に対する叛旗であり、私の恋愛に対する、彼らの復讐のような気がしたのである。(中略)私から完全に消え去るためには、三島はあまりに高名であった。私はいやでも神輿をかついでいる彼の写真や、ボディ・ビルできたえた肉体のそれを見なければならなかった。(中略)私にはそんな三島が、いたずらに、鬼面人を驚かす貝殻に、つぎからつぎと宿ってみせる、宿かりのように見えたのだった。勿論、三島の真意は、そのような趣味の問題ではなかった。最も不慣れな、不器用な面で、彼は生きようと欲したのである。この血のにじむ‘’生‘’のなかにしか、彼の求める‘’創造‘’はあり得なかった。ある時、末弟俊周がこんなことを言った。『三島さんに会ったらね、俊民さん、お元気、って聞いていたぜ。三島はこのごろ、変な映画を作ってるといって、俊民さん笑っていなさるだろうな、って』 。三島の共通の知人に出会うと、これに似た三島の言葉が、何回か伝えられた。しかし、所詮は戻ることのできない彗星の小さき影として、三島は私のはるかな空に、またたいているにすぎなかった。(中略)かくして二十年の時はながれた。 昭和四十五年正月のある日だった。偶然手にした月遅れの婦人雑誌の新刊書紹介の欄に、『春の雪』の梗概が出ていた。『やった。とうとうやった』と私は思った。私は早速『春の雪』を購入、ひと息に読んだ。『春の雪』の世界は、三島の世界というよりも、私の世界に近かった。登場人物のすべては、あるいは私の肉親であり、親戚であり、あるいはその召使であるような気がした。広大な松枝邸も、鎌倉の別業も、かつてそこに遊んだ記憶があるように思われた。三島が十四、五歳のころ、私は『夜宴』という散文詩を書いた。『今度はぼくに書かせてください』。三島は言った。『坊城伯の夜宴を』。三十年前のこの約束が、今、目の前に果たされたのを、私は見た。三島と私との、二十年に及ぶ空白は、一瞬にして消滅している。三島は少年の日のように、ふたたび私のかたわらにある。奇蹟は、まさに起こったのである。(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めていなければならない。(中略)優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に対する精神の優位を示すものである。(中略)まことの‘優雅‘’は、現代人のいわゆる‘’優雅な生活‘’を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。 (中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、 ひとたびは回帰すべき、この国の‘’深い根‘’が描かれている。‘’優雅‘’が描かれている。だから私は『春の雪』を、 『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。 (中略)『坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います』 。『そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう? あそこは面白かった』 。『あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから 神になったのです』。三島の眼は輝いた。(中略)今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定して いたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、 裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって 不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。 (中略)きみは自決の六日前、最後の手紙を書いてくれた。 『十四、五歳のころが、小生の黄金時代であったと思ひます。実際あのころ、家へかへるとすぐ、『坊城さんの お手紙は来なかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、 その後いきあひません』。(中略)フロベエルの、なつかしい『トロワ・コント』モオパッサンの『メエゾン・テリエ』こうした題名を目にしただけで、 あのころの学習院が、きみとはじめて会ったころの、昭和十年代の学習院が、瞼に浮かんでくる。きみは中等科一年、 ぼくは高等科三年だった。きみが『春の雪』に克明に描いている、天覧台の芝生、お榊壇、血洗の池。(中略) そうして、誰がいつ掃除したのかもわからない、古い寮の一室、すなわち、雑然たる文芸部の部室。(中略)ラディゲもまた、反近代の戦士のひとりに数えられるだろう。伝統の美神の帰依者だった。これら文学の 大先輩達を、われわれはいかに讃美したか。あのころ、きみは十四、五歳。ぼくは二十二、三歳であった」。

 この頃のことと思われるが「わが思春期」は次のように記している。
 「今になって考えると、私は当時の中学生の方が羞恥心が非常に強かったと思います。みなはそういうわい談をしましたが、自分の羞恥心といつも戦わねばなりませんでした。そしてわれわれは新婚旅行のときを想像し、人から聞いた初夜の話を想像しました。ある朗らかな少年が『自分のパンツが突っ張っていたら恥ずかしいだろうな』と言って、顔を赤くしたことがあります。そしてみなもそれを想像して、すっかり赤くなってしまいました」。

「私は別に美少年ではありませんでしたから、異性からの誘惑もなし、自分で自動的に働きかける以外には、そういう思春期というものは、はなばなしく展開しそうもなかったし、またそういう勇気は、自分には一向なかったのであります」。

 「それは半裸のポートレートで、仏像の踊りの写真でした。私にはなぜかその写真が非常にエロチックに思われて、彼女の半裸のからだが、わずかな宝石で飾られた布でおおわれているのを、飽かず眺めたものです。その写真はいつも机の奥深くしまってありました」。


 1943(昭和18)年、18歳の時

 1月、随筆「寿」(文芸文化6巻1号)。「王朝心理文學小史」が学習院図書館第4回懸賞論文に入選する。希望賞品の豪華本「文楽」(光吉夏弥編、筑摩書房刊)を貰う。
 2.24日、学習院輔仁会の総務部総務幹事となる。
 3月、短編「世々に残さん」(文藝文化10月号まで連載)。
 6.6日、輔仁会春季文化大会で、公威の作・演出の戯曲「やがてみ楯と」(2幕4場)が 学習院輔仁会春季文化大会で上演される(当初は翻訳劇を企画したが、山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。
 6月、 富士正晴に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人林富士馬に電話をして三島を連れて行く。その後、林と文学的文通、交際が深まる。この時期、蓮田善明とも顔を会わせる。
 7月、徳川義恭と共に、志賀直哉を訪問。
 8月、富士正晴が「花ざかりの森」の出版の話を蓮田善明に提案する。
 9月頃から、公威は富士正晴を介して、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。
 10.8日、東文彦が23歳の若さで急逝する。公威は弔辞を奉げた(随筆献句「東徤兄を哭す」)。東の死によって「赤絵」は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。
 10月、富士、林と共に、佐藤春夫を訪問。
 10.21日、神宮外苑競技場で、出陣学徒の壮行会。


 この年、他にも次の作品がある。詩「恋供養」、短編「祈りの日記」、随筆「後記」(赤絵2号)。 短編「“Marchen von Mandala”」(後に「曼陀羅物語」と改題)、詩「夜の蝉」、随筆「夢野乃鹿」(学習院輔仁会雜誌169号)。評論「柳桜雑見録」(文芸文化6巻12号)。

 なお、三島自身は、「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と書いている。これに対し、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で面接の)日本勧業銀行の採用試験に失敗しているという反論もあるが、そもそも学習院在学中には他校の受験はできなかったため受験にいたらなかったという説もある。また日本勧業銀行の採用試験についても筆記試験には合格しており、面接で不採用となっている。三島と開成学園については、母方の祖父・(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父・(平岡梓)と、祖母・夏子の実弟・(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・威一郎はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる。

 「平岡公威18歳、徳川義恭への書簡」から
 「西洋へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思います。真の芸術は芸術家の『おのずからなる姿勢』のみから生まれるものでしょう。近頃近代の超克といい、東洋へかえれ、日本へかえれといわれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじっかの便乗者や尻馬にのった連中の、そこここにかもし出している雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思います。我々は日本人である。我々のなかに『日本』がすんでいないはずがない。この信頼によって『おのずから』なる姿勢をお互いに大事にしてまいろうではございませんか。いやなことと申せば今度も空襲がまいりそうですね。こうして書いております夜も折からの警戒警報のメガホンの声がかまびすしい。一体どうなりますことやら。 しかしアメリカのような劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思います。 文学の上では日本は今こそ世界唯一であり、また当然世界第一でありましょう。

 ムッソリーニにはヒットラアより百倍も好意をもっていますので、一しおの哀感をおぼえました。ムッソリーニも亦、ニイチェのように、愚人の海に傷ついた人でありましょう。英雄の悲劇の典型ともいうべきものがみられるようにおもいました。かつて世界の悲劇であったのはフランスでしたが、今度はイタリーになりました。スカラ座もこわれたようですね。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦うべきでありましょう。俗な精神が世界を覆うた時、それは世界の滅亡です。萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当りでにくみ、きらい、さげすみ、蹴とばした気持がわかります。

 国家儀礼と申せば、この間新響へゆきましたら、ただ戦歿勇士に祈念といえばよいものを、ラウド・スピーカアが、 やれ『聖戦完遂の前に一億一心の誓を示して』どうのこうのと御託宣をならべるので、ヒヤリとしたところへ、『祈念』という号令、 トタンにオーケストラが『海行かば』を演奏、――まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのままにて、冒涜も甚だしく、憤懣にたえませんでした。国家儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事というものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思えません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとってもっとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでしょうが、それまで、日本の文学のために戦いぬかねばならぬことが沢山あります。去年の戦果に、国外国内もうこれで大丈夫と皆が思っていた時、学校へ講演に来られた保田與重郎氏は、これからが大事、これからが一番危険な時期だと云われましたが、今にしてしみじみそれがわかります。文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のようにうろついている時ではありません」。

 「十八歳と三十四歳の肖像画」は次のように記している。
 「友人に『君はsterben(死)する覚悟はあるかい?』と訊かれ、私は目の前が暗くなるような気がし、人生がひとつもはじまっていないのに、今死ぬのはたまらない、という感じが痛切にした」。
 「どうせ兵隊にとられて、近いうちに死んでしまうのである。それを想像すると時々快さで身がうずく。でも、よく考えると死は怖いし、辛いことは性に合わず、教練だって小隊長にもなれない器だから、何とか兵役を免れないものかと空想していた」。

 「私の十代」は次のように記している。
 「私の十代は、戦争にはじまり、戦争におわった。一年一年徴兵検査に近づく気味の悪さというものは、今の十代にはわかるまい」。

 1944(昭和19).19歳の時

 1月、評論「古座の玉石~伊東静雄覚書」(文芸文化7巻1号)。
 4月、公威は本籍地・兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取る。発信者は、本籍地・兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二。
 5.16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の『仮面の告白』によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」であったが、結果は合格した。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。


 徴兵検査合格の帰途の5.17日、遺作となるであろう「花ざかりの森」の序文依頼のため、大阪の伊東静雄を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。しかし、伊東は、後に「花ざかりの森」進呈の返礼で、「会う機会が少なすぎた感じがする」と公威に言っている。6月、評論「檀一雄『花筐(はながたみ)~覚書」(まほろば3巻2号・終刊号)。舞鶴海軍機関学校での訓練に参加。
 8月、短編「夜の車」(文芸文化7巻4号・終刊号)。後に「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と改題。翌月上旬にかけ沼津海軍工廠に勤労動員。
 8.4日、学童集団疎開始まる。
 8.23日、女子挺身勤労令、学徒勤労令公布。

 9.9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、宮中に参内し恩賜の銀時計を拝受する。ドイツ大使よりドイツ文学の原書3冊、華族会館から図書数冊を贈られた。

 10.1日、大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨を自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年、このことを三島は父に感謝するようになった。

 10月、詩「彩雲抄」(曼荼羅創刊号)。出版統制の中、「この世の形見」として「花ざかりの森」刊行に奔走。
 10.15日、富士正晴らの尽力により処女短編集「花ざかりの森」(七丈書院、装幀は友人・徳川義恭が担当)が出版された。これが処女出版書となった。三谷信ら友人、知人に本を渡す。11月、上野池之端・雨月荘で出版記念会を催す。

1968(昭和43)年、三島は「花ざかりの森」についてこう書いている。

「何故あんな統制のきびしい時代に、あんな妙な本の出版が許可になったのかわからない。しかし、少くともその一斑は、私の『思想』にあったことは明白である。『花ざかりの森』は、横から見ても縦から見ても、『左翼の本』でなかったことだけはたしかだからである」(「花ざかりの森出版のころ」)。


 「私の遍歴時代」で次の様に述べている。
 「十九歳の私は純情どころではなく、文学的野心については、かなり時局便乗的でもあったことを自認する。『花ざかりの森』初版本の序文などを今読んでみてイヤなのは、その中の自分が全部そうだとはいわないが、何割かの自分に、小さな小さなオポチュニストの影を発見するからである。(中略)しかし、よくまあ、『花ざかりの森』のごとき不急不用の小説集が、すでに空襲のはじまっていた東京で出たものである。どうしても用紙割り当てを確保しなければならないので、私はその申請書に『皇国の文学伝統を護持して』とか何とか、大へんな文句を並べたのをおぼえている」。

 この年、他にも次の作品がある。詩歌「廃墟の朝」。

 当時の三島の心情や園子との交際について「わが思春期」でこう語っている。

 「私は、そのころ満十九でありました。・・・・・・堀辰雄がラディゲについて言っているように、少年の特徴はあくまで羞恥心です。羞恥心が、彼の全生活の根本にひそんでいます。それが多分、思春期の特徴と言っていいでしょう。われわれの十九歳と、今の十九歳をくらべると、現われはまるで違っているように思いますが、根本的には羞恥心は同じであって、やはり、十九歳という年は、羞恥心を免れてはいないものだと思います。それは、狂人に着せる狭窄衣のように、宿命的に身を締めつけているものです」。

 「仮面の告白」で、園子の弾くピアノの音に対する思い入れを次のように告白している。

 「下手なピアノの音を私はきいた。(中略)――きけばきくほど、十八歳の、夢みがちな、しかもまだ自分の美しさをそれと知らない、指先にまだ稚なさの残ったピアノの音である。私はそのおさらいがいつまでもつづけられることをねがった。願事は叶えられた。私の心の中にこのピアノの音はそれから五年後の今日までつづいたのである」。

 1945(昭和20).20歳の時、終戦前

 1.10日、学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員される。群馬県新田郡太田町東矢島寮11寮35号室に入る。総務部配属で事務作業しつつ、「中世」を書き続ける。中河与一の好意により「中世」第1回と第2回の途中までを「文芸世紀」に発表する。

 2.4日、入営通知の電報を受け取る。なお、中島飛行機小泉製作所は2.25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅。多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった。

 2.6日、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けるが、折からかかっていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や「戦後は余生」という感覚)を抱かせることになる。

 「わが思春期」は次のように記している。

 「その赤紙の電報は、たちまち家中をシーンとさせました。もう二日のうちに、私は兵庫の本籍地の軍隊へ入らなければなりませんでした。ところが、何が幸いになるか分りません。私はその晩から、どうもかぜ気味であったのが、だんだん熱が上ってきて、いよいよ入隊という日には、大変な高熱になってしまいました。(中略)・・・・・・ところが、私の症状が、新米の軍医によって誤診されてしまいました。彼は、私のことを肺浸潤だと言うのです。いわゆる軍隊用語の胸膜炎です。私はラッセルが聞こえると言い出されて、ぎょっとしましたが、そのときの正直な気持は、軍隊へ入るよりも、病気になった方がいいという、助かったような気持でした」。

 2.15日、遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する。遺書は、以下のような文面になっている。

 遺書 平岡公威

一、御父上様  御母上様   恩師清水先生ハジメ   學習院並二東京帝國大學   在學中薫陶ヲ受ケタル   諸先生方ノ   御鴻恩ヲ謝シ奉ル

一、學習院同級及諸先輩ノ  友情マタ忘ジ難キモノ有リ 諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー

一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ 御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二績キ一日モ早ク  皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ   

 皇恩ノ万一二報ゼヨ 天皇陛下萬歳

 5.5日、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員される。神奈川県高座郡大和局気付高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第1中隊第2小隊に入る。この頃、和泉式部日記、上田秋成全集、古事記、日本歌謡集成、室町時代小説集などの古典、泉鏡花、イェーツなどを乱読した。また、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、「中世」を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。

 6月、三島は、園子からの手紙による招待を受けて草野家の疎開先の軽井沢に園子に会いに行った。三島は「わが思春期」で当時のエピソードを次のように語っている。

 「私は女ばかりの家族に迎えられた一人の青年として歓迎されました。ただ私の顔色の悪いことが、彼女のおばあさんの注意を引きました。『どこかおからだでも悪いんじゃないの?』と、そのおばあさんはいつもの透き通った、かわいらしい声で言いました。それが無邪気に言われただけに、私はどきりとしました。私が胸膜炎でないことはよくわかっていたにもかかわらず、その言葉は私がおばあさんの試験をパスしなかった一つの証明のように思われるのでした」。
 「隣室から響いてくるピアノの音は、私の友だちの妹でした。彼女は、それまでにも、お茶を運んで部屋へ入ってくることがありましたが、顔をまっかにして、こそこそと逃げるように行ってしまうので、私は彼女の存在に、あまり注意しませんでした。(中略)彼女は、私と友だちとの議論の席には、一切入ってきませんでした。しかし、そのピアノの音を聞いて、私は、彼女が何か、そのピアノの音を私たちに聞かせたがっているのを感じました。かりに彼女の名前を浅子としておきましょう。私は、戦争中の殺伐な空気の中で、そのピアノの音に、いかにも自分の忘れていた、あたたかい、やわらかい、そしてもの静かな女性の世界を感じました。実はそのピアノの音を聞いたときに、私は彼女を愛し始めていたのかもしれません。(中略)私は前の、友だちの姉に対すると同じように、言葉をかけることはおろか、彼女を誘い出すことも、何もすることができませんでした」。

 この時、高原で園子と接吻した。次の様に語っている。
 「私はそれまで、多くの小説で女を誘惑する手段をいろいろ読んでいました。そして、もうそのころは、街には出ていなかったが、古本屋では見つけることのできた、フランスのエロチックな小説を、たくさん読んでいました。その私が、いざ彼女の前へ出ると、やはり口もきけず、なすすべもわからなくなっていました。でも、私は、何とか勇気を持たねばと、自分に言い聞かせるだけのことはできました。・・・・・・皆さんは、スタンダールの『赤と黒』の中の、ジュリアンという人物が、レナール夫人に最初にキスするときに、もう衝動とか愛とかを抜きにして、おそろしい義務観念にかられて、ただ勇気をためすためだけにキスするという心理描写を覚えているでしょう。私は、あれほどに自分のそのころの心理をよく書いたものを知りません。といって私は、その勇気をジュリアンほど大胆に使うことはできませんでした」。

「仮面の告白」で、園子に接吻しようという決意を秘めて草野家の疎開地に赴く部分は次のように告白されている。

 「私は今度も子供らしいみじめな固着観念にさいなまれて汽車に揺られていた。それは園子に接吻するまでは決して某村を離れないぞと考えることだった。しかしながらこれは、人間が自分の欲望がさせる引込思案とたたかうときの矜りにみちた決心とは別物であった。私は盗みにゆくような気がしていた。親分に強いられて、いやいや強盗にゆく気の弱い子分のような気がしていた」。

 戦禍が激しくなる中、短編「エスガイの狩」を戦時下でただひとつ残った文芸誌「文藝」(編集長は野田宇太郎)に寄稿した(文芸2巻5号)。野田宇太郎の斡旋により、このとき初めて原稿科を貰う。東大文化委員の回覧雜誌「東雲(しののめ)」を編集。本名で発表。短編「黒島の王の物語の一場面」(東雲創刊号)。詩「バラアド」、同「もはやイロニイはやめよ」(曼荼羅草稿4輯)。同誌は庄野潤三、島尾敏雄、林富士馬らの同人誌で、以後廃刊。また同人らと佐藤春夫を訪ねる。遺作となることを意識した『岬にての物語』を起稿する。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、川端康成にも献呈されていた。

 7月、詩「オルフェウス」、同「絃歌」、同「夜告げ鳥」、同「饗宴魔」、随筆「後記」(東雲2号)。「東雲」は2号で廃刊される。高座工廠の寮で「岬にての物語」を起稿し、翌月脱稿。戦争末期は主として能楽と近松の世界に親しむ。

 8.6日、広島に原爆投下。
 8.9日、長崎に原爆投下される。


 この年、他にも次の作品がある。短編「菖蒲前」、随筆「平岡公威伝」、小品「別れ」。





(私論.私見)