三島由紀夫の履歴考(1959年まで編) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、三島由紀夫の履歴を確認しておく。「ウィキペディア三島由紀夫」、「ウィキペディア三島由紀夫」、サイト「三島由紀夫」の「三島由紀夫本」、「三島由紀夫文学館」、「三島由紀夫の噂 (980)」その他参照。他に川島勝「三島由紀夫」(文芸春秋、平成8年刊)、「定本三島由紀夫書誌」(薔薇十字社、昭和46年刊)、城市郎「三島由紀夫の本」(桃源社、昭和46年刊)、安藤武「三島由紀夫研究文献目録」(私家版)等があるとのこと。「ウィキペディア三島由紀夫」が非常に重たくされている。これは閲覧が規制されていることを意味する。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
【三島由紀夫の履歴考】 | |
1925(大正14).1.14日 - 1970(昭和45).11.25日。 三島由紀夫の本名は平岡公威。日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970.11.25日、 自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入事件で割腹自殺を遂げた。 |
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1925(大正14).1.14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。本名は平岡公威(ひらおか
きみたけ)。公威の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・古市公威から取られた。兄弟は妹・美津子、弟・千之。本籍地は兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。1924(大正13)年、橋倭文重と結婚する。母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三の次女。 祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方地域)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し、内務省に入省、内務官僚となる。1893(明治26)年、武家の娘である永井なつと結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)。祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。 作家・永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。
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1930(昭和5).1月、5歳の時、自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。6歳にして俳句を詠み、詩を書いた。 | |
1931(昭和6).4月、公威は学習院初等科に入学。当時の学習院は華族中心の学校で、 上流家庭の子女のみに入学が許されていた。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関紙「小ざくら」に発表し始める。読書に親しみ、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、印度童話集、及び講談社「少年倶楽部」(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、宍戸左行の「スピード太郎」などを愛読する。 |
1933(昭和8).8歳の3年生の時 | |
詩「冬の夜」を書いている。
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1934(昭和9).9歳の4年生の時 | |
12月、肺門リンパ腺を患う。自家中毒や風邪で学校を休みがちであった。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。
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1936(昭和11)年.11歳の時 | |
6月、作文「わが国旗」を書く。「わが思春期」は次のように記している。
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1937(昭和12)年.12歳の時 | |
4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の両親のもとより通う。文芸部に入る。
この年、日中戦争が勃発し、日本は戦時下となった。 |
1938(昭和13)年、13歳の時 |
3月、学内雑誌「輔仁会雑誌」に短篇小説「(酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載され才能を示した。これが三島の活字となった初めての小説らしい小説といわれている。俳句4句。詩「金鈴」(光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場ほか短歌3首)(輔仁會雑誌161号)。 |
1939(昭和14)年、14歳の時 |
1.18日、祖母・夏子が62歳で死亡。4月、清水文雄が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた。 |
1940(昭和15)年、15歳の時 | ||
1月、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩「凶ごと」を書く。同月、母・倭文重に連れられ、詩人・川路柳虹を訪問する。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ俳句・詩の師事を受ける。 2月、俳句雑誌「山梔(くちなし)」に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を「山梔(くちなし)」に投稿する。 9.27日、日独伊三国同盟。 10.12日、大政翼賛会結成。 11月、短編「彩絵硝子(だみえガラス)」を輔仁会雑誌に発表。これを読んだ東文彦から始めて手紙をもらい文通が始まる。徳川義恭とも交友を持ち始める。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短篇「詩を書く少年」に私小説的に描かれ、この頃の詩歌はのち、「三島由紀夫選集1 花ざかりの森」(新潮社、1957年)に「十五歳詩集」として掲載された。 「詩を書く少年」の一節はこう記している。
「詩を書く少年」についてこう語っている。
この頃、堀口大学訳「ドルヂェル伯の舞踏会」、レイモン・ラディゲ、オスカー・ワイルド「サロメ」、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、北原白秋、草野心平、丸山薫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、伊東静雄、森鴎外、そして万葉集、古事記、枕草子などを愛読する。この年、他にも次の作品がある。詩歌「小曲集」、詩歌「青城詩抄」がある。 |
1941(昭和16)年、16歳の時 | |
4月、学習院輔仁会雑誌の編集長に選任される。
この頃から公威は、随筆「惟神之道(かんながらのみち)」などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった。蓮田は終戦直後の1945(昭和20).8月19日に南方にて自決した。なお、蓮田は1943(昭和18).11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、
よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。 |
1942(昭和17)年、17歳の時 | ||||
1月、評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出する。
父・梓、水産局長を勇退。4月、学習院高等科文科乙類(独語)に進む。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は桜井和市、新関良三、野村行一(1957年に東宮大夫在職中に死亡)らがいた。なお、ドナルド・キーンが後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったという。公威は、体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった。教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた。伊東静雄詩集「夏花」、及び王朝文学を愛読。 4月、詩『大詔』を文藝文化5巻4号に発表。5.20日、翼賛政治会結成。 11月、学習院講演依頼のため、清水文雄に連れられて、日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以後、何度か訪問する。公威は伊東静雄や、蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を次々と発表する。「伊勢物語のこと」を著わし、「文藝文化」昭和17年11月号に掲載される。蓮田の「神風連のこころ」も掲載されてた。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた「神風連のこころ」(国民評論社、1942年)の書評である(なお、三島は後年の1966(昭和41)年に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と会っている)。 |
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坊城俊民 「焔の幻影 回想三島由紀夫」がこの頃の三島を次のように記している。
この頃のことと思われるが「わが思春期」は次のように記している。
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1943(昭和18)年、18歳の時 | ||||
1月、随筆「寿」(文芸文化6巻1号)。「王朝心理文學小史」が学習院図書館第4回懸賞論文に入選する。希望賞品の豪華本「文楽」(光吉夏弥編、筑摩書房刊)を貰う。 |
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「平岡公威18歳、徳川義恭への書簡」から
「十八歳と三十四歳の肖像画」は次のように記している。
「私の十代」は次のように記している。
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1944(昭和19).19歳の時 | ||||
1月、評論「古座の玉石~伊東静雄覚書」(文芸文化7巻1号)。 9.9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、宮中に参内し恩賜の銀時計を拝受する。ドイツ大使よりドイツ文学の原書3冊、華族会館から図書数冊を贈られた。 1968(昭和43)年、三島は「花ざかりの森」についてこう書いている。
「私の遍歴時代」で次の様に述べている。
この年、他にも次の作品がある。詩歌「廃墟の朝」。
「仮面の告白」で、園子の弾くピアノの音に対する思い入れを次のように告白している。
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1945(昭和20).20歳の時、終戦前 | ||||||
1.10日、学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員される。群馬県新田郡太田町東矢島寮11寮35号室に入る。総務部配属で事務作業しつつ、「中世」を書き続ける。中河与一の好意により「中世」第1回と第2回の途中までを「文芸世紀」に発表する。
2.15日、遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する。遺書は、以下のような文面になっている。
5.5日、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員される。神奈川県高座郡大和局気付高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第1中隊第2小隊に入る。この頃、和泉式部日記、上田秋成全集、古事記、日本歌謡集成、室町時代小説集などの古典、泉鏡花、イェーツなどを乱読した。また、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、「中世」を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。
この時、高原で園子と接吻した。次の様に語っている。
「仮面の告白」で、園子に接吻しようという決意を秘めて草野家の疎開地に赴く部分は次のように告白されている。
戦禍が激しくなる中、短編「エスガイの狩」を戦時下でただひとつ残った文芸誌「文藝」(編集長は野田宇太郎)に寄稿した(文芸2巻5号)。野田宇太郎の斡旋により、このとき初めて原稿科を貰う。東大文化委員の回覧雜誌「東雲(しののめ)」を編集。本名で発表。短編「黒島の王の物語の一場面」(東雲創刊号)。詩「バラアド」、同「もはやイロニイはやめよ」(曼荼羅草稿4輯)。同誌は庄野潤三、島尾敏雄、林富士馬らの同人誌で、以後廃刊。また同人らと佐藤春夫を訪ねる。遺作となることを意識した『岬にての物語』を起稿する。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、川端康成にも献呈されていた。 7月、詩「オルフェウス」、同「絃歌」、同「夜告げ鳥」、同「饗宴魔」、随筆「後記」(東雲2号)。「東雲」は2号で廃刊される。高座工廠の寮で「岬にての物語」を起稿し、翌月脱稿。戦争末期は主として能楽と近松の世界に親しむ。 |
(私論.私見)