れんだいこの三島由紀夫論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの三島由紀夫論」を記しておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1168 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日
 れんだいこの三島由紀夫論その1、総評

 2013.8月末頃、ふと三島由紀夫論をものしておきたくなった。れんだいこがこれほど三島に接近したことはない。これまでの絡みでいえば、「金閣寺」を読んだこと、他に「潮騒」とか「仮面の告白」等があることを知っていること、1969年辺りの新聞文化論で三島が「愛することと恋することの違い」を書いており、これにいたく感応したことぐらいが予備知識である。

 何と言っても強烈な印象は、れんだいこの在学中に三島割腹死事件が起こったことだろうか。森田必勝が早大教育学部の人であったので教育学部校舎の前庭に追悼看板が出ていた。当時のれんだいこは民青系の全学連活動に懸命な時期だったので何やら奇異な印象でそれを眺めていたことがある。三島との絡みはこれぐらいのことしかない。そういう訳で、これまでさほど関心を持たなかった。

 ところが、今年2013年の5、6年前、れんだいこがマメに参詣し始めた奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社から登山口に至る参道に三島が訪れたことが表示されており、三島と大神神社の縁を知るに及び「おやっ」と思った。三島の愛国主義が出雲王朝-三輪王朝のラインにまで理解を寄せていたことを知り、あの辺りから三島に対する認識を変えた。その後、れんだいこは「原日本論新日本論」を確立した。以来、このトレースから三島由紀夫論をものしておきたくなった。三島の国体論の原日本域までの接近ぶりを確認したくなった。何かれんだいこに熟するものが生まれ、三島を評し得るようになったのではなかろうかと思う。

 三島由紀夫の論考は既に多くあるが、三島由紀夫論の本質に届いていない気がする。れんだいこが手短かに評すれば、「生き急ぎ死に急いだ」が総評となる。ただこれは外形的な評でしかない。内在的に分析すると、三島に狂気性が見て取れるが、その狂気は何に由来していたのかを詮索せねばなるまい。確かに狂気であるが、その狂気には根拠があるはずである。それを探りたい。

 三島は日本歴史の琴線に触れる何か重要なものを掴みかけており、それに懸想しており、それが何であるかを廻って精神的に格闘し続けていた形跡がある。戦後の体制がそれを活かしておらず、そのはがゆさが嵩じて次第に狂気化したのではなかろうかと云う気がする。そして、1970.11.25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に乱入し、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(享年45歳)。既に「三島最後のドキュメント考」で言及したように強制されたものであるにせよ。

 この時、三島は辞世の句二句を用意していた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」。吉田松陰ばりの辞世の句である。ちなみに松蔭のそれは「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」である。

 三島を論ずるのに、通評は自衛隊乱入事件による割腹自殺の終点から評し、右翼は「自分の死をもって国の行く末を案じた憂国の士」であるとして評価する。左翼は逆に右翼民族派の愚挙として批判する。あるいは三島に「自己過愛性人格障害」を見て取り、この観点から紐解こうとする分析もある。ほぼこの三系からの三島論が為されている。れんだいこは、そういう評では物足りなくなった。れんだいこが漸く獲得した「原日本論新日本論」の観点から三島をトレースすべしと囁く声がする。この観点からすれば、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなしている。

 思うに、三島がれんだいこの説く「原日本論新日本論」で覚醒しておれば、別の生きざまを刻んでいたはずである。三島の右翼民族派としての面貌は、れんだいこにはムヤミヤタラに見える。その憲法改正論、天皇論、自衛隊論は余りにも練れてなさ過ぎる。それと云うのも「原日本論新日本論」観点を持ち合わさなかった故と見る。

 三島が真に掴もうとしていたのは、日本の悠久の歴史に纏わる神州性、これによるところの大和民族の礼賛と護持ではなかったか。この心性をエートスとして様々な政治的衣装を着せ発言し行動してきたが、それらの衣装はことごとく新日本系のもので、三島が掴もうとしていた日本賛美論とは本質的に齟齬していたのではなかったか。三島に必要だったのは原日本論の地平からの理論武装ではなかったか。

 この観点を持たないまま皇国史観的愛国愛民族運動に突入したアンバランスが三島の狂気を生み、それがうまく操られ、最後に非業の死へ至ったのではなかろうか。よしんばそういう死を三島自身が求めたにせよ。れんだいこにはかく見える。以上で三島論の要点を言い切ったが、以下、これをもう少し詳しく検証する。

 補足する。三島が「あしたのジョー」の愛読者であった様子が次のように記述されている。
 「ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、『‘’あしたのジョー‘’を読むために毎週水曜日に買っている』と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった」。

 この記事を読む前から、れんだいこは、三島の生きざまを「あしたのジョーの生き様」になぞらえていた。この記事に出くわして、これが裏付けられたことがことのほかうれしい。そう、三島の生き様は、「あしたのジョー」のように生を燃焼させ、最後は燃え尽きてセコンドに座って白い灰になる生き方を夢としていた。

 これを少し説明すると、三島は戦前的な世であれば即ち世が世なれば日本文学会の芥川龍之介以来の早熟な大御所になり得ていた。ところが大東亜戦争の敗戦とともに世が変わり、いわゆる戦後民主主義の時代となった。この時代、三島は本質的に戦後体制から疎外された。いわゆるアウトサイダーにされていた。それにも構わず、あり余る才能で時代の寵児になり得ていたが、いくらベストセラーを生み、演劇等の様々な分野にまで活躍しようとも、体制の壁からすれば常にアウトサイダーの身でしかなかった。当人の責任でもない及ばざるところのこの屈折が「あしたのジョーの快刀乱麻の生き様」に重なっていたのではなかろうか。そういう気がする。

 2013.9.1日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1169 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月14日
 れんだいこの三島由紀夫論その2、戦後の三島文学のスタンス考

 三島の履歴を通覧して思うのは、三島の紛うことなき日本文学史上に卓越した才能である。僅か10歳有余にして文壇に頭角を現していることに驚かされる。この面からの評価に於いて我々の三島評は足りなさすぎる。多くの人は、これまでのれんだいこがそうであったように三島の活動履歴を知らなさすぎる。

 れんだいこの臭い的には芥川龍之介以来の非凡な文人ではなかったか。人はノーベル賞を受賞した面から川端康成を高く評価しているが、その川端が文学能力を高く認めていたのが三島であることを我々は知らなさすぎる。川端康成がノーベル賞を受賞したからには三島の受賞も当然であるところ、三島文学が持つある種の思想的な危険な臭いが選考を不利にし受賞を逸したのではなかろうかと思われる。三島の神風連論、北一輝論、2.26事件論、ヒットラー論に見せた観点を窺えば、国際ユダ邪主義サイドに立つノーベル賞選考委員が三島を忌避するのは当然である。

 しかしこれは選考側の問題であって断じて三島の責任ではない。三島の責任においては川端康成がノーベル賞を受賞するからには三島にも十分な資格がある。三島在世中には、三島が書けば、その外国翻訳が並行した。これは極めて珍しいのではなかろうか。三島はまさに世界から注視される戦後日本文学界の鬼才、偉才であった。その三島が戦後の世界体制の壁に阻まれノーベル賞受賞を逃しただけのことである。こう窺う必要がある。これを論(あげつら)うのが本ブログのテーマではないので以下を割愛する。補足すれば惜しむらくは西郷隆盛論に向かわなかった三島の政治的感性が悔やまれる。

 ここでは三島の政治的見識を問う。三島の右翼過激主義的な理論と実践はどこからもたらされているのだろうか。結論から言えば要するに三島の戦後の生の営みは、戦後民主主義体制の欺瞞を感じ取り、まだしも戦前の方に相対的な良質さを感じており、それ故にいつもある種の復古趣味に傾斜していたのではなかろうか。戦前日本にあった日本浪漫派への憧れである。三島は日本浪漫派が存在していた時代の超早熟な嫡出子であった。日本浪漫派の系譜で順風満帆の登壇階段を登り詰めつつあった。

 だがしかし運命は急転する。1945(昭和20)年、丁度20歳の時の8.15日に終戦、大東亜戦争が終わった。この時、三島の脳の思惟構造は既にできあがっていた。世が世なれば順調に登龍するはずだったが世の中そうは思う通りにならない。次の時代に訪れた戦後民主主義体制には国粋主義的な浪漫派の座る席はなかった。日本浪漫派のエリートとして自己形成していた三島は戦後体制の浪漫派駆逐構造を嗅ぎ取り嫌悪した。かくて戦後暫くの間、三島は新しい時代と調整する時間を要した。結果的に三島は無気力から脱し、新しい時代に阿ねることを拒否する方向に活路を求めた。これより波乱の人生に立ち向かうことになる。そこから出てきた三島の「時代了解」が「三島その後の行動」の基本になっているのではなかろうか。そういう節々が感じられる。

 三島の履歴を見れば、尋常でない早熟ぶりとありあまる才能が暇を持て余すかのように精力的に書き続けていることが分かる。憑りつかれた様に書き続けていることが分かる。生涯作は凡そ数百作以上になるのではなかろうか。ちなみに新潮社の「三島由紀夫全集」は全42巻である。れんだいこは、これほど「名著の多作」を為した文学者を知らない。しかも小説の短編、長編。戯曲、随筆、評論のみならず演劇、映画等々に役者として出演するなど何でもござれの多芸多才ぶりを発揮している。恐らく無為のできない書かずにおれない質の文筆の才人だったのであろう。併せて何かと話題を振りまくスーパータレントの先駆けだったのではなかろうか。次のように評されている。
 「三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。三島・谷崎・川端は昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある」。

 だがしかし、三島は文学的な面では紛れもない早熟な天才であったが政治の面では素養にかけていた。これが原因でアナクロな政治的主張、その実践に踏み出すことになったと思われる。が、恐らく胸中は常に悶々としていたに相違ないと拝察したい。彼が今、「原日本論新日本論」史観を得るならば、闇雲な政治的乱痴気騒ぎはしなかっただろう。戦前回帰を思念としつつも戦前の中身を「原日本論新日本論」で嗅ぎ分け、皇国史観的な狭隘物を排除するからである。これを獲得しないままの三島が苦吟し彷徨し続けていたことを思わざるを得ない。あるいは三島の階級的立ち位置が好んで皇国史観と親和していたのかも知れない。

 三島の自虐的な死は究極のところ、己の能力を押し込めた、否能力は披歴したがこれを公的に認めない戦後体制に対する最終の抗議死ではなかったか。彼にとっては戦後体制そのものが欺瞞であった。戦後体制に疎まれた三島による戦後体制の欺瞞を衝くパフォーマンスが自衛隊基地突入による悲劇的な死であった。結局、「生き急ぎ死に急いだ」。まさに巨星墜つである。これが結論となる。それは芥川龍之介に見られるような作家的な美学死に染まっていたのかも知れない。しかしこの観点ではお騒がせな死の説明ができないので、やはり主としては政治的義憤死の面から評さねばならないだろう。

 こういう三島の悲劇と喜劇が分からねば三島論は書けない。戦後文壇の旗手にして寵児。思潮を生み出し、その渦の主人公として自負し続けていた。悪い意味ではなく凡そ控え目と云うものを知らない。これにより自ずと渦の中心にいることになる。しかしこれは強いパフォーマンス能力に裏打ちされたものであり凡人が評するところの自己顕示欲とは似て非なるものと云うべきだろう。その三島が何か得体のしれない戦後社会のシステムから弾き飛ばされ、そういう意味で疎外され続けていたと云う面の考察抜きには三島を語れない。

 1969(昭和44).5.13日の満員となった東大教養学部900番教室での全共闘と三島由紀夫の討論会の場で、三島が全共闘的闘い方に共感する旨を表明し、「君達が天皇を認めるならば君達に同意してもいい!」と言い放った裏には、全共闘の解体論理に対するメンタリティーの共有が介在していたのではなかろうか。よし全共闘の面々がどう受けようとも。

 【れんだいこの三島由紀夫論その3、三島文学論、三島亡き後の日本文学の衰退考】
 これより三島文学論を語りたいが、あいにく、れんだいこは余りにも読んでなさすぎるので資格がない。よって有能論者の解説に任したい。ネット上に「三島由紀夫論―イロニーとしての文体―」(梶尾文武)、「三島由紀夫研究会」の秋山大輔氏の短期集中連載「三島由紀夫と石原慎太郎 (その1)、(その2)、(完結編)」がサイトアップされている。他にもそれぞれの評があるのではなかろうかと思う。これらを下敷きに断片を確認しておく。

 三島は、戦時期における愛国主義(パトリオティズム)の文学的拠点ともなった日本浪曼派における「古典回帰」と「文芸復興」の言説運動、とりわけ保田與重郎の思想に深く影響されている。

 戦後の「金閣寺」(1956年)を論ずる。主人公は、言葉の不自由な吃音者として登場している。その意味は体制から疎外された存在であることに意味がある。それはある意味で三島の戦後の似せ姿でもある。

 「軽王子と衣通姫」(1947年)を著わし、「近代文学」派を中心とする戦後文学の隆盛を尻目に、記紀の神話を下敷きにした短篇を書いている。浪曼派の流れのものであるが既に「時代錯誤」の感がある。

 姦通小説としての「美徳のよろめき」。

 「鏡子の家」(1959年)は、1955年前後の日本社会を舞台とし、4人の青年の「青春」の帰趨を描き出している。

 「美しい星」(1962年)は、ケネディ=フルシチョフ時代に現実化した核戦争の危機を背景としている。UFOを目撃し自身を宇宙人として同定した主人公が平和運動に邁進し、別の星から訪れたという人物らと地球の処遇をめぐって論争を闘わせる。

 1950年代後半、ラジオドラマの流行を背景に谷川俊太郎ら新進の現代詩人が詩劇に取り組む一方で、山本健吉が『古典と現代文学』(56年)において能楽を「詩劇」とみなす視点を用意し、武智鉄二らによって古典芸能が現代の前衛演劇として再生されるなど、三島をして『近代能楽集』と題する連作詩劇へと着手せしめるに十分な文脈が用意されていた。

 第二の事件・嶋中事件は深沢七郎『風流夢譚』を掲載した中央公論社の社長宅を襲撃するというものであった。藤田省三・橋川文三らは、事件の当事者となった中公刊行の「思想の科学」誌を舞台に、右翼の政治学史的・精神史的概念化を進めた。こうした状況に対し、『風流夢譚』の推薦者と噂された三島は、二・二六事件の「外伝」である『憂国』(1961年)をもって介入する。この章では、大江『セヴンティーン』と三島『憂国』の分析を中心に、60年代初頭に右翼の表象がいかに文学的に形成されたかを追跡し、1970年に決起した三島が「行動者」となるまでの前史を描き出した。 

 女優・村松英子によると、三島は、「基本としてドメスティック(日常的)な演技を必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。また、荻昌弘との対談でも三島は、「アーサー・シモンズの言葉、『芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ』というのがあるが、これは千古の名言だと思う」と述べ、「日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ」という芸術論を持っていた。


 れんだいこのカンテラ時評№1171 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月21日
 れんだいこの三島由紀夫論その4、保守論壇の再解析考

 れんだいこの三島由紀夫論の最後を、三島論を通じての保守論壇の亀裂とれんだいこによる再解析に向かうことにする。これに恰好の論文が山崎行太郎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」に発表されている。西尾幹二氏の三島論、三島論を廻る江藤淳と小林秀雄の対立に対する西尾見解に対して山崎見解を対置している。

 ブログによれば、西尾氏は著書「三島由紀夫の死と私」その他で、三島を保守論壇の「神」として絶賛する他方で、三島の割腹自殺を否定的に評価する江藤淳批判に精を出している。西部邁も櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始している。「本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう」とのことである。

 三島の割腹自殺の評価を廻って「江藤淳&小林秀雄対談」が為されており両者は激しく火花を散らしている。小林は吉田松陰の処刑死と同様の線で三島の割腹自殺を惜しむ見地を披歴している。他方、江藤は「ごっこに過ぎない」と敢えて無駄な死批判の見地を披歴している。山崎氏はこの対談を次のように評している。
 「江藤淳と三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄も江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える」。

 ところが、西尾氏は「三島事件について、福田恆存や中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める」。「江藤淳&小林秀雄対談」で三島の死を肯定的に評価した小林を良しとし、批判的な見地を披歴した江藤を「三島の死に対する冒涜」としてクズ呼ばわり批判で溜飲を下げている。

 山崎ブログの要点は以上であるが、これに啓発されて、れんだいこ論を投下し介入してみたい。れんだいこは先に2013.9.12日付けの「三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義」を皮切りに数ブログの三島論を発表した。

 そこで、三島最後の真相は云われるところの三島の天晴れな割腹死ではない。当局に拉致監禁されたうえでの強制切腹死事件であり、当の三島は半ば生還し半ば殺されることを覚悟のうえで飛び込み、結果的に死が強制されたものである。それは儀式殺人の感がある処刑であったとの推理を披歴した。(1993年の新右翼一水会の野村秋介氏の朝日新聞東京本社での拳銃自殺?も然りで構図が同じではなかろうか)三島事件をかような見地から推理したのは、れんだいこが初めてではない。れんだいこ推理を呼ぶ先行のものがあり、それを少々精緻に論述したところに値打ちがある。

 さて、こうなると、事件の真相に迫らず、これまでのような「三島の天晴れな割腹死」を賛美する一連の評論が急速に色褪せてこよう。逆に三島の死を批判した江藤の論の方が却って三島の心情を正確に忖度しているのではなかろうかと云うことになる。考えてみれば、江藤の三島事件批判は何もそう慌てて死に急ぐことはあるまいとする見地からの、「三島批判ではない三島の死批判であった」ことに気づかされる。例えてみれば、親が子を叱る時のような慈愛に満ちた、それ故に手厳しい批判だったのではなかろうか。

 と云うことは逆に、西尾の三島の死賛美が、三島を追悼するに名を借りた軽薄なものであり為にする江藤批判に過ぎなったのではないかと云うことになる。西尾の三島思慕の至情がエスカレートしたものであるなら幸いである。どちらであるかは分からない。それと、小林の三島の死賛美は真贋見抜くことで定評のある名評論家にしては少々称賛が早過ぎたのではなかろうかと云うことになる。

 山崎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論と西尾幹二論」から以上の類推が可能になる。そして以下の教訓に至る。いわゆる評論の難しさ、その評論を受け止める難しさを知るが良い。元々高度な能力が問われているのに、人は手前の能力に応じて、あるいは請負の立場からお気に入りの論を選んでいるに過ぎない、と云う習性が見えてくる。

 こたびは三島事件を廻ってのものであるが万事に通用する。今後はくれぐれも上滑りしてはなるまい。何事も事実で検証してから立論せねばならない。これをせぬままの子供騙しに騙されてはなるまい。との言を添えておく。

 2013.9.21日 れんだいこ拝





(私論.私見)