三島由紀夫と全共闘との討論会考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島由紀夫と全共闘との討論会考」を記しておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


【三島由紀夫著・反革命宣言】
 1969(昭和44).2月、三島由紀夫の「反革命宣言」が「論争ジャーナル」に発表される。同年4.25日、「文化防衛論」(新潮社)に収録される。(「三島由紀夫著・反革命宣言」、「三島由紀夫/反革命宣言」参照)
 われわれはあらゆる革命に反対するものではない。
 われわれは護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。
 われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によって動いてきたことを洞察した。われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。
 なぜわれわれは共産主義に反対するか ? ⅰ天皇の存在と相容れない。ⅱ言論の自由を守るため。
 われわれは日本の美の伝統を体現するものである。
 戦後の日本にとっては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の問題であっても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱う一部の扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。※新潮文庫『裸体の衣装』初版306頁
 敗戦によって現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのように一部民族と国家の相互関係や民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況というものを持たないのである。(略)従って異民族問題をことさら政治的に追及するような戦術は、作られた緊張の匂いがする(略) 左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の変化によって、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり都知事の認可を得て反日教育をほどこしているような北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。彼らはすでに人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなってゐる。そして彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかって、それを革命に利用しようとするほか考えない。たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていってしまふ。

【全共闘と三島由紀夫の討論会】
 1969.5.13日、満員となった東大教養学部900番教室で、主催・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会(代表・木村修)の「全共闘と三島由紀夫の討論会」が開催された。会場には約一千人の学生が集まり、「伝説の討論」として語り継がれている貴重なドキュメントとなった。「われわれはキチガイではない」(文庫版では「目の中の不安」と変更)、「自我と肉体」、「他者の存在とは?」、「自然対人間」、「階級闘争と〈自然〉に帰る闘い」、「ゲームあるいは遊戯における時間と空間」、「持続と関係づけの論理」、「天皇と民衆をつなぐメンタリティ」、「〈過去・現在・未来〉の考え方」、「観念と現実における〈美〉」、「天皇とフリー・セックスと神人分離の思想」、「ものとことばと芸術の限界」、「〈天皇・三島・全共闘〉という名前について」、「われわれはやはり敵対しなければならぬ」の14のテーマにわたり討論が展開し、互いの存在理由を巡って激しく真摯に議論が闘わされた。三島は、「私は諸君の熱情だけは信じる」、「君達が天皇を認めるならば、君達に同意してもいい!」(「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ」)と言い放ち、衝撃を与えている。
 「三島由紀夫氏の日本刀のように鋭く光る知性、数百人の全共闘をたった1人で論破する様は、圧巻。東大全共闘の集会に三島由紀夫さんがゲストで参加した時の貴重な映像。思想的には正反対の全共闘と三島由紀夫さんだが、三島由紀夫さんの人間臭い魅力が、全共闘の若者すら魅了する様子が見てとれる。人間の魅力とは何かを考えさせられる動画だ。8分ちょっとの映像なので、ぜひ通してご覧いただきたい」。

 この対話集会を企画したのは、東大糞災実行委員会という一種のパロディー団体で、この時の記録は「三島由紀夫vs東大全共闘−《美と共同体と東大闘争》」(新潮社、1969.6.25日初版)というタイトルで出版されている。他に「三島由紀夫vs東大全共闘―1969-2000」(藤原書店、2000.9月)、がある。三島由紀夫、芥正彦、木村修、小阪修平、橋爪大三郎、浅利誠、小松美彦が登場する。学生たちのメンバーであった3人の人物と、その討論の聴衆であった2人の人物、そして当時中学生でその出来事の推移を息をつめて見守っている観衆であった人物が、討論が行なわれた日から数えておよそ30年後の1999年6月13日と8月27日の2回にわたって、学生たちのひとりである芥正彦のいる四ッ谷のホモフィクタス スタジオで一堂に会し、あの出来事について語り合い、一冊の書物として出版される。それがこの「三島由紀夫vs東大全共闘 1969-2000」である。「美と共同体と東大闘争」(角川文庫、2007.7.25日初版)がある。ユーチューブ「三島由紀夫vs東大全共闘(長尺版)
で見ることができる。

 「討論 三島由紀夫vs東大全共闘』の断片的要約ノート」が遣り取りの一部を紹介している。
○暴力について
全共闘A  無条件に暴力を否定したりせず、肯定もするのは全共闘と相通じるが、三島には他者がない、そこでは自己の論理は自己のものでしかない。暴力と言うならそのとき他人はどういう位置づけに?
三島  暴力はエロティシズムに根源でつながる。エロティシズムは相手の主体性や意思を封じ込める、相手に意思を認めて振るわれる暴力はその存在にでなしに意思にであり、つまり非エロティックな対立関係での暴力である、それは自分の考える暴力ではない。「…他者というものは我々にとっては、本来どうにでも変形しうるオブジェであるべきだ。…p.22」。
○「解放区」をめぐる論戦の要点
全共闘C

 何故解放区を作るか?我々は外界から一方的に関係付けられてしまう、その関係を逆転するためにあらゆる関係付けを排除した空間を作る。一切の関係を捨象して事物そのものと出会う、そうしたメタレベルから無目的に作為なしに遊戯として一から関係付けを行う、すなわちファーストステップとして事物を武器として使う。

 三島の実践的活動はゲームである。ゲームには目的があり、他志向である。全共闘は遊戯をやっており、ゲームにおけるそれがない。自らの全存在をぶつけるときそこに成立する空間、「解放区」を作るという行為は、主観と所有を放棄した、遊戯としての暴力である。それは形態が即内容であり、内容が即形態、また作られたその空間=歴史の可能性そのものであり、かつ可能性そのものの空間=歴史である。数分間もとうが一週間もとうがその期間を比較することに意味はない。

三島

 解放区を持続させる時間について考えがない、それでは運動は未来へつながらない。それにまず一切の関係付けを排除すると言ったって、無目的にそこで関係付けを行うことはそもそも不可能だろう。またそれは全てに名前のない世界だ。道具を使う、それは時間の持続や目的論、名があることを前提とする。関係付けや時間的プロセスを排除したところに道具の利用は成立しない。

全共闘A

 …さっきからの論の展開の視点というのは…即ち、実在的諸関係がそこにあると。その時に僕らがそこにあるものに対して、その関係性というものに注目して能動主体として働いている場合には、その実在的諸関係そのものから絶対に逃れることはできない。その意味においては実在的諸関係をあえて拒否することが必要なんじゃないか。…それに対しておそらく実在的諸関係の持続性というものを無視しないという点に立って考えるならば、おそらく三島さんと同じところに立っている…。(p.60,61

○「天皇」をめぐる論戦の要点
全共闘H

 三島は自身の考える天皇が非現存であるからこそ、至高の、至禁の美としての天皇が描ける。そもそも究極美とは、全てを超越し、捨象したところにできる空間、観念の中でこそ生きる。しかし三島は時間性とか関係性に拘泥するがゆえに逆に関係性に絡め取られ、本来観念の究極としてあるべき美が腐蝕してゆくという過程が生じる。つまりその美に具体的形態や関係性を与えて現実化しようと足掻いたり、観念と名辞を混同したりする曖昧さから、時間や空間に対する超越性が失われ、美は腐ってゆき、また自身のみっともない行動が生まれる。

三島  自分の天皇観は儒教的天皇観ではない。日本武尊に象徴されるような人神…人間天皇と統治的天皇、神的天皇と文化的天皇、そうしたダブルイメージを持つ二重構造が天皇の本質である。権威や征服者としての、奔放な強者としての神がかった美しさの純粋持続、それこそが自分の天皇観だ。

 
天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる。
全共闘C  三島の言う民衆とは農耕民族であり、その民衆はもはやいない。三島の天皇観は天皇を自己一体化させたいという欲望であり、それはイマージュと自己の、一種の単なるオナニズムだ。三島は過去の歴史に規定された関係性の中でしか生きられず、日本文化に拘泥し、その幻想の中に喜びを感じている。それは日本文化や日本人であるということに負けている、ということだ。自由であることを放棄した、そういう退屈な三島からは何も生まれない。
全共闘H  …ヤマトタケルは、現実の天皇を支えていた関係性に敗れ、殺されることによって、自らを観念として、つまり「白鳥」に象徴される観念性として、超越したと。それを支えるものとして民衆の幻想形態があった…それと現実の天皇…今上陛下に代表される関係性を無媒介にくっつけるところに三島氏の曖昧さ、欠陥がある…。p.98.99
 …天皇というものは観念として自らを超出してゆくものであるがゆえに、名辞は何ら問題にはならない。…観念の絶対性を我が物にしようとするならば、三島氏にとって現実的な道とは…観念を腐食させる関係性の廃絶。…天皇は実体としては解体して、その観念というものは現実の諸個人である僕たちの中に保存されていると、まあそういうふうになると思うのです。…。(p.113)

 全共闘側の討論メンバーのうち、「全共闘A」として映っているのがこの討論会を仕掛けた焚祭委員会代表の木村修、「全共闘C」は後の劇作家で俳優の芥正彦。「全共闘E」は同じく哲学者の小阪修平である。

【れんだいこの本件討論評】

(私論.私見)

 れんだいこが、両者の遣り取りを窺うに、全くくだらない抽象論で終始している。暴力論、解放区論について得るところは何もない。天皇論についても、両者が無内容且つ一知半解な思弁を繰り広げている。一点言及しておく。

 三島は、天皇論について次のように言及している。

 「自分の天皇観は儒教的天皇観ではない。日本武尊に象徴されるような人神…人間天皇と統治的天皇、神的天皇と文化的天皇、そうしたダブルイメージを持つ二重構造が天皇の本質である。権威や征服者としての、奔放な強者としての神がかった美しさの純粋持続、それこそが自分の天皇観だ。天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる」。

 三島がかく立論した以上、この三島式天皇論の是非を問うのが討論であろう。全共闘は、これに何も答えていない。ちなみに、この下りの三島発言の前半部分はあまり意味がない。評すれば、天皇を「日本武尊に象徴されるような人神」としている観点がイマイチである。ザ天皇に「日本武尊に象徴されるような人神」を措定することに疑問がある。続く「人間天皇と統治的天皇、神的天皇と文化的天皇、そうしたダブルイメージを持つ二重構造が天皇の本質である」は良い。但し、こう捉えるのなら、その淵源を出雲王朝時代の大王的命から求めねばならない。このラインから見れば、「日本武尊に象徴されるような人神」と云うのはややピンボケだろう。「権威や征服者としての、奔放な強者としての神がかった美しさの純粋持続、それこそが自分の天皇観だ」の下りは駄弁である。

 続く、「天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である」は卓見である。これを踏まえて、れんだいこならまず、歴史的天皇制と近代的天皇制の相似と異質性を衝き、近代的天皇制が、歴史的天皇制が辛うじて保持していた「神的天皇と文化的天皇制」から見ても値しないことを衝く。尊ぶべきは、日本史上の和的社会性であり、その表象としての天皇制であるはずのところ、近代天皇制がこれにも値しない非を衝く。続く、「それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる」は、三島らしい物言いである。

 この三島節に全共闘はどう対論したか。お話にならないので割愛する。少なくとも、三島式天皇制論から逃げており、全共闘が日本左派運動の伝統的宿アから抜け出し得ておらず、それをカムフラージュする為に思弁的な弁論ですり替えしていることが判明する。転向論と同じケッタイサが見てとれよう。青年期特有の論じ方と思えば許されようが、この本質的な頭の悪さを難解な表現で糊塗しているに過ぎない。

 2009.4.22日 れんだいこ拝


 東大全共闘スターだった人のこと」を転載する。
 最早腐臭が漂っている大新聞に代わって、イラク戦争直後からいつも購読しているのが『日刊ゲンダイ』です。少し前になりますが、その8月30日付の「あの人は今こうしている」という中ほどの紙面の欄で意外な人物を取り上げていました。その人物とは「劇団駒場を主宰した芥正彦さん(65歳)」です。実は私はこの記事で初めて目にした名前でした。同記事最上段の太字のイントロ文は以下のとおりです。東大全共闘活動家として三島由紀夫相手に一歩も引かない論戦を展開し、“天才”とうたわれた劇団駒場の芥正彦さんの「演劇人生の集大成のような」舞台が1日から始まる。芥正彦さんの人となりを知るのに、そのすぐ下の縦の見出しも紹介した方がいいでしょう。全共闘運動が吹き荒れた60年代、東大で「劇団駒場」を主宰して過激な演劇運動を展開。69年には東大全共闘の一員として三島由紀夫を東大に招き、公開討論会に自分の子供を肩車して登場。三島相手に一歩も引かない論戦を展開した。貴公子然とした風貌と鋭い舌鋒で「天才」とうたわれた芥正彦さんだ。今どうしているのか。

 芥正彦(以下敬称略)は知らずとも、三島を東大に招いての公開討論会ならよく知っています。当時だいぶ話題にもなりましたし、その討論会の内容を詳細に再現した本も出版されました。再三述べるとおり、その前年の68年(昭和43年)春に山形の高校を卒業して、就職のため首都圏にやってきました。何かの記事でも述べましたが、そんな私には同時期吹き荒れていた学生運動なるものは、『どうせいいとこのお坊ちゃんたちの道楽だろ』くらいに冷めてみているところがありました。しかし同世代として決して無関心だったわけではありません。だから同討論会を再現した本も求めて、終いまで読了しました。左翼vs右翼という対極の討論。同年5月13日、方や左翼連中は会場となった東大教養学部900教室いっぱいに詰め掛けて、「三島由紀夫をぎゃふんと言わせてやろうぜ」と、てぐすね引いて待ち構えています。方や右翼の時代的急先鋒の三島は徒手空拳で、ただ一人でその場に乗り込んでいったわけです。読む前にまずそのことが「スゲエな」と思いました。おそらく残念ながらその本はとうの昔に処分してしまっています。1回通読しただけですから、その時の討論の詳細などまったく思い出せません。ただかすかな記憶として残っているのは、四面楚歌の敵陣の中で三島は終始冷静緻密な論を展開していたことです。三島ともなると、右翼や左翼としいう枠組みを超えたところでの自在な言説が出来たわけです。それと学生活動家の何人かには、頭脳明晰な三島にしぶとく食らいつくシャープなヤツもいるものだと感心したことを覚えています。『さすが東大は違うわ』と舌を巻いたのです。あるいはその代表格が、今回取り上げられた芥正彦だったのかもしれません。

 この討論会が行われた69年が学生運動のピークでした。この年が明けると間もなくの1月18日には東大安田講堂の攻防戦があり、10月20日の国際反戦デーには新宿騒乱が起こりました。今振り返れば、物情騒然たる世情の中で過ぎた感のする1年でした。そんな学生運動家たちの熱気のようなものは、首都圏ぎりぎりの当市にいてさえ伝わってきました。

 「東大」「駒場」で今でも鮮烈に思い出されるのが、その前年11月の東大駒場祭のポスターです。作成したのは当時東大生だった、橋本治(小説家、評論家)。そのポスターは男性週刊誌『プレイボーイ』などでも取り上げられ、「名文句」が世の注目を集めました。

  とめてくれるな おっかさん
  背中のいちょうが 泣いている
  男東大どこへ行く

 当時大ヒットしていた任侠映画にあやかったものか。高倉健がモデルと思しき後姿の凛々しい男の背中には銀杏をあしらったクリカラモンモンの刺青。そしてこの殺し文句。しかしよく考えてみると、学生運動になんで任侠道なの?となりそうです。

 70年学生運動は何も日本だけの専売特許だったわけではなく、発端は米国発でした。それがヨーロッパなど自由主義諸国に広がり、日本にも飛び火した形です。ただ日本には日本特有の精神風土があり、学生運動家とてどこか任侠道にあい通じるメンタリティがあったということなのでしょうか。そのせいか三島対学生運動家の討論でも、もちろん丁々発止のやり取りながら、何となく互いに共認し合っているような雰囲気も感じられました。

 さて芥正彦は、東大在学中の67年に劇団駒場を主宰し、『太平洋戦争なんて知らないよ』で劇作家・演出家デビューしたといいます。ちょうど状況劇場や黒テントなどのアングラ演劇が誕生した時期で、芥正彦も観客にタバコを投げつけたり、罵倒したりする挑発的な舞台で世間の注目を集めたようです。68年には「天上桟敷」の寺山修司の目に止まり、芥・寺山共同編集で演劇理論誌『地下演劇』を発行し、当時勃興しつつあった暗黒舞踏にも大きな影響を与えたといいます。その煌めくばかりの才知と貴公子然とした風貌と。こういう人物なら若い当時は、「世界はオレのためにある」と確信できてもおかしくはありません。爾来四十幾星霜。一時代の寵児だった芥正彦も既に齢65歳、当時の面影は垣間見えるもののやはり初老の感は否めません。本人いわく、「十数年ほど前に肺気腫を患ってからは酒もたばこもオンナもぷっつりやめ、聖人のような生活を送ってるよ。ハハハ」ということだそうです。

 「」を転載する。

 小阪氏の本によれば、小阪氏は69年に東大焚祭委員会という組織をつくったのだそうである(焚祭は「フンサイ」とも読むのだそうである。つまらない洒落である)。しばらくして小阪氏はそこからも離れていったようであるが、その委員会を継いだ友人の木村修氏から三島由紀夫との討論会をやるからというので参加を要請されたと書いてある。「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(新潮社1969年)の著者名は、三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会(代表 木村修)となっている。ここにでてくる全共闘Aとか全共闘Bとかいう面々の一人は小阪氏なのだろうと思う。

 小阪氏によれば、ここでの《全共闘》の発言は決して東大全共闘の思想を代表するものではないという。それを代表するものは大学院生の組織の全闘連(山本義隆氏など)だという。この討論会?で発言しているのは《全共闘》の一つの極である「自己解放派」なのだそうである。封鎖によって生じた解放区は絶対的な自由の場、既成の関係から解き放された「遊戯」の空間であるというような立場である。

 こういう《自由》の立場は三島由紀夫の場合、「鏡子の家」のような作品で徹底的に追求され、放棄されたのだと思う。何ものも信じないが故にもっとも自由であるというような虚無主義者清一郎の自由は、本当の自由は制約の中にしかないというようなカソリック的な神の思想に負けたのである。「討論・・・」の中で三島も認めているように三島のいう天皇はカソリックなら神と呼ぶであろうものなのである。三島はアンフォルマルな自由には堪えられなくなっていたのである。

 だからこの討論で三島がいっているのは全共闘諸君のいっている自由などというのは虚しいぞ、自由の空間で何でもできるなどというのは生きる手ごたえにはならないのだぞ、歴史と文化的伝統にがんじがらめになったときにかえって本当の自由が手に入るのだぞ、ということである。

 しかし、それもまた理屈ではないか、「討論・・・」で全共闘諸氏がいっているわけのわからない論(「個人のいわば心的な状態において、美のほうへ、つまりあらゆる関係性、時間性、現在性を超越していく方向と、それからとって返して、関係性のほうへ向かう方向とは截然と区別されなければならない)と同じ観念論なのではなのではないだろうか?

 「私は、思想ないし観念、精神というものがどうして敵を見出さない時にこんなに衰弱するものかということを骨身にしみて感じた人間だと思うのです。(中略)私はどうしても自分の敵が欲しいから共産主義というものを拵えたのです。これを敵にすることに決めたんです。(中略)私は自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ」(「学生とのティーチ・イン」(「文化防衛論」新潮社1969年))。

 全共闘氏の言と違ってこれは何をいっているかはよくわかる。しかし、
 われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。(中略)『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、『あとにつづく者』とは、これも亦、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない」(「反革命宣言」、「文化防衛論」)。

 というのは? なぜ「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものが「あとにつづく者あるを信ず」なのであろうか? 「よりよき未来社会」に対立するものとして「前の時代と截然と変った社会」と「永遠に変らない社会」の二つがあるのではないだろうか? 「よりよき未来社会」を目指すのが日本共産党であり、その欺瞞性を指摘して「前の時代と截然と変った社会」を目指したのが全共闘運動(の一部)であり、「永遠の変らない社会」が資本主義社会である。「永遠に変らない社会」は、「鏡子の家」でいわれた「壁」であるのかもしれない。

 鍵は「有効性は問題ではない」である。有効性は問題ではない、というのは政治運動ではない。それは有効性をうたう日本共産党へのアンチである。わたくしは全共闘運動も「有効性は問題ではない」という次元で三島由紀夫と共鳴したのだと思っていた。ところが小阪氏は「思想としての全共闘世代」で、全共闘運動のスタイルが自分のいる場所での闘争であり、ねばり強く闘争を続けるといったものだった、といっている。これは山本義隆氏らの運動のようなものをいっているのであろうか? 少なくとも「討論・・・」で発言している全共闘諸氏にはねばり強くなどという発想があるようには少しも思えない。

 東大安田講堂講堂封鎖解除のとき、籠城した学生たちの誰一人として死ななかったことを三島が嫌悪したことが、ネイスンの「新版・三島由紀夫-ある評伝-」(新潮社2000年)に書かれている。

 「わたくしはあの時、あの事件を傍観していて、あそこに籠城している学生たちは全員死ぬ気でいるのだと思い込んでいた。誰も死ななかったことに驚倒した。ありえないと思った」。

 その頃おこなわれた三島由紀夫と高橋和巳(今では誰も読まなくなったしまった作家!)の対談で、二人とも籠城学生が死ぬ気でいるのだと思っていたということを語っていて、わたくしと同じような感想を持つひとがいるのだなと思ったことを覚えている。

 三島だったか、警視庁に?学生を死なせるな、死なせると彼らが英雄になってしまう、というような忠告をしたということをいっていたようにも思う。封鎖解除に二日もかかったのは死なせない配慮のためである。それを防衛隊長今井澄(わたしの大嫌いな男、こういうことをしたあと社会党の代議士になるなどという人間は最低であると思う)は「一日防衛できたことは勝利である」とかいったのだそうである。馬鹿である。要するに国家は最後までこの運動を大人あつかいしていなかったのである。そしておそらく三島の「盾の会」も大人あつかいしていなかったのである。


 倉橋由美子の「英雄の死」という大変面白い文章がある。三島の死に際して書かれた賛歌である。
 「しかし今度のことでそれ以上に思い知らされたのは、私が男ではなかったということで、いうべきことはそれにつきるかもしれない。三島由紀夫氏がしたことは、女には絶対にできないことなのだった。本当のところをいえば、男のなかにもあれができる男がいるとは考えてもみなかった。これは時勢が変ってあんなことのできる男がいなくなったというような俗見の適応範囲に三島氏をもふくめていたことを意味して、この無知は三島氏に対して恥じて謝すべきことであると同時に、男、あるいは人間について適当に高をくくって、見るべきものを見ていなかったことをまず自分に恥じる必要がある。三島由紀夫氏の日ごろの言動を一種の冗談だとして受けとっていた人は多いはずで私もその一人だった。」(「迷路の旅人」講談社1972年所収) 

 三島由紀夫がまだ東部方面総監室にいたころ、倉橋氏の家に私服刑事がやってきたのだそうである。それは倉橋氏がある新聞のインターヴューに答えて、もし自分が男だったら「盾の会」に入ると答えたためではないかという。もっとも赤軍派による日航機乗っ取り事件の時も刑事の来訪を受けたのだそうで、それは学生たちの自分への支援者リストの中に倉橋氏の名前があったためであるという。その程度には学生たちの運動も三島氏の運動も警察の監視をうけていたわけであるが、ようするにお釈迦様の手のひらの中にいたということである。

 三島事件を三島が死ぬための口実つくりであると評するひとがよくいる。わたくしも全共闘運動をやはり死ぬための口実つくりだと思って見ていたように思う。三島が、家具を買いにいくひとをみると嫌悪を感じるといっていたような、安穏とした日常生活への極端な嫌悪を学生たちもまた共有しているのだと思っていた。だから非日常の空間である“解放区”がなくなるときが死ぬときであると思い定めているのだと思っていた。その点、わたくしは大変な誤解をしていたのかもしれない。本当に、全共闘運動とは、小阪氏のいうような、それぞれの現場で息の長い運動を続けることにより、何かが変っていくことを信じていた未来志向の運動であったのかもしれない(その発想こそが「討論・・・」で三島がもっとも批判したものであったのだが)。しかし、そうなのだろうか? 未来志向と籠城というのがわたくしにはどうしても結びつかない。わたくしには全共闘運動とは「時間よ、止まれ!」という運動であるとしか思えなかった。そして、「時間よ、止まれ!」というのは死という方向にしか向かないと思っていた。わたくしは根本的な誤解をしていたのだろうか?


 2020.8.5日、「三島由紀夫「立派な『近代ゴリラ』になりたい」“伝説の討論会”で魅せた、紳士的でユーモラスな言動とは?」。
 禁酒法の時代に、こっそり営業していたBAR「SPEAKEASY」。2020年の東京の街にも、そんなひそかなBARがありました。月曜から木曜の深夜1時にオープンする“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」。各界の大物ゲストが訪れ、ここでしか話せないトークを展開するとか、しないとか……。 TOKYO FMの番組「TOKYO SPEAKEASY」7月22日(水)のお客様は、現在公開中のドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の豊島圭介監督と刀根鉄太プロデューサー。ここでは映像の力、一触即発の状況で敵対する相手から“笑い”とる三島由紀夫の魅力などについて語りました。

 ▼映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の解説▼

 1969年5月13日に東京大学 駒場キャンパス 900番教室でおこなわれた、作家・三島由紀夫と東大全共闘との“伝説の討論会”を軸に構成したドキュメンタリー映画。2019年に発見された当時の記録映像を修復し、関係者やジャーナリストらの証言を交えて全貌が明らかになる。ナレーションは東出昌大が担当。 (TOKYO FM「TOKYO SPEAKEASY」7月22日(水)放送より)

豊島  討論の書籍(「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」(著)三島由紀夫、東大全共闘)を読んだのですが、映像を観ると(書籍では)半分くらいしか(真意が)伝わっていないことが分かります。書籍には、討論での発言が全部書いてあるのですが。映像の力というか。 例えば、三島由紀夫が討論の冒頭10分くらいの時間をもらって、自己紹介を兼ねて宣戦布告ではないですけど、「君たちと僕には共通点があるんだ。暴力を否定しないところである」みたいな話から始めて、ところどころで笑いを取ってくるんですよね。
刀根  つかみが上手いですよね。例えば、書籍には「自民党の政治家から頼まれて、暴力反対決議というのをやるから署名してくれと」と書かれてあって、ここに「(笑)」がついているんですけど、なんの笑いなのか分からなかったけど(映像を観たら理解できました)。 三島は敵とされている学生側(東大全共闘)からの笑いを、ちゃんと待つんですよね。そして、何とも言えない顔をして「私は生まれてから一度も暴力に反対したことがないから、署名ができませんと返事をした」と続ける。そして、またウケるという。
豊島  その辺が、ちょっと知的なことに対してプライドのある学生の心をくすぐるようなギャグを放り込むので、学生たちもつい笑っちゃうんですよね。 あと、東大全共闘が三島を揶揄するような「近代ゴリラ」と書いたポスターを(構内に)貼って、三島を待ち受けるわけですけど、三島は「『近代ゴリラ』として立派な『近代ゴリラ』になりたい」と言ってまた笑いを取る。 会場で笑いが起きるということは、相手の緊張を解くことでもあるし、自分がより言いたいことを言いやすく、やりたいことをやりやすい環境にさせる。三島は写真集の被写体になり、映画にも出ているような人だからかもしれませんが、自分をどういう状況に置いて、どういう発言をして、どういうふうに振る舞うと、自分が輝くのかということを、ものすごく理解している人だなと、この映像を観て思いました。
刀根  Wikipedia(ウィキペディア)的に言うと、“三島由紀夫の項目”が多すぎるので全体がボヤッとしか分からなくなってしまうのですが、この討論だけを掘っても相当おもしろい。逆に、そうしないと三島が見えてこない。ここだけ掘っても、まだ全然分からないんですけどね。三島は本当に頭が良い。そして魅力的。
豊島  この映画を鑑賞してくださった方々の感想をSNSなどで見るのですが、よく見かけるのが「紳士的な言葉の交わし合いがあって驚いた」と。単純な分け方をすれば、右翼・左翼という敵同士なわけで、もっと相手を罵り合うような討論を想像していたと。 実際にそうですよね。三島は当時44歳、相手は10代後半~20代前半の学生たち。言ったら子どもみたいなものですよ。その人たちを相手に、まずは真摯に人の話を聞き、自分のなかで咀嚼した上で、丁寧に返すって姿を学生たちの前で見せるわけです。学生たちもかなり面食らったのではと思います。
刀根  あの場で少しでも否定的なスタンスで入ったら、本当に殴り合いが起きたかもしれない。それと、三島が討論に行く前、「近代ゴリラ」のポスターを見てニヤリとする写真が残っているじゃないですか?「近代ゴリラ」というフレーズを、わざわざ冒頭の演説で入れて笑いを取って、どんどんみんなに興味を持たせつつ。
豊島  あと、映像で残っていることが素晴らしいと感じたのが、例えば……対立するスタンスの三島由紀夫と芥正彦さん(あくた・まさひこ:東大全共闘主催者として三島由紀夫を招聘。現・劇団ホモフィクタス主宰者)が、議論を交わした後にタバコを交換して火を点け合う姿があったり。
刀根  豊島さん、あの場面が本当に好きですよね。ロマンチストですよ。 豊島:好きですけど、そんなことはない。僕はある種、冷静にあそこを編集していますからね。ロマンチストな人がこれをどう理解するか楽しみだなと思って編集していました。
 2020.8.5日、「「三島由紀夫がいかに生きたのか…」ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」監督&プロデューサー対談」。
 禁酒法の時代に、こっそり営業していたBAR「SPEAKEASY」。2020年の東京の街にも、そんなひそかなBARがありました。月曜から木曜の深夜1時にオープンする“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」。各界の大物ゲストが訪れ、ここでしか話せないトークを展開するとか、しないとか……。

 TOKYO FMの番組「TOKYO SPEAKEASY」7月22日(水)のお客様は、現在公開中のドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の豊島圭介監督と刀根鉄太プロデューサー。ここでは、映画製作前後でイメージが変わった“三島由紀夫”という人物像について語りました。
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 禁酒法の時代に、こっそり営業していたBAR「SPEAKEASY」。2020年の東京の街にも、そんなひそかなBARがありました。月曜から木曜の深夜1時にオープンする“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」。各界の大物ゲストが訪れ、ここでしか話せないトークを展開するとか、しないとか……。 TOKYO FMの番組「TOKYO SPEAKEASY」7月22日(水)のお客様は、現在公開中のドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の豊島圭介監督と刀根鉄太プロデューサー。ここでは、映画製作前後でイメージが変わった“三島由紀夫”という人物像について語りました。

 ▼映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の解説▼
 1969年5月13日に東京大学 駒場キャンパス 900番教室でおこなわれた、作家・三島由紀夫と東大全共闘との“伝説の討論会”を軸に構成したドキュメンタリー映画。2019年に発見された当時の記録映像を修復し、関係者やジャーナリストらの証言を交えて全貌が明らかになる。ナレーションは東出昌大が担当。
豊島  三島由紀夫と聞くと、市ヶ谷駐屯地で自衛官・約1,000人の前で演説をして誰にも聞き入れられず、そのまま「天皇陛下万歳!」と言って「楯の会」のメンバーと一緒に割腹して自死した、“ちょっと奇妙な作家”という印象が強いわけですよ。それで、三島の映像は市ヶ谷の映像の印象しかない。右翼思想に極端に傾いてしまった元文豪みたいなイメージが強かったと思うのですが、この映画を作るにあたって、三島由紀夫のことを調べると、一体どれだけの顔を持つ人間なんだろうと。小説家であり、ノーベル文学賞を川端康成と争ったり。一方でボディービルをして肉体を鍛えたり、写真集の被写体になってみたり、俳優をやってみたり。
刀根  そんな人はいないですもんね。ノーベル文学賞の候補になって、ヤクザ映画の主演もやれば、戯曲も書く。
豊島  三島由紀夫は、青年週刊誌「平凡パンチ」の読者投票「オール日本ミスター・ダンディ」で、三船敏郎や石原慎太郎、加山雄三など名だたる俳優たちを抑えて1位になったことも。そういう、ある種のサブカルチャーとかポップカルチャーの世界でも、ものすごく支持されていたことを僕は知らなかったんです。三島が割腹自殺をした1970年11月25日、当時物心がついていた人たちにとって、三島の死は相当なインパクトだったわけですよね。
刀根  (三島が自死する約1年半前におこなわれた)この討論会でも、実はそれを匂わす発言をしていますが、誰も本当に死ぬとは思っていなかった。
豊島  現場の写真が朝日新聞に載ってしまったり、相当インパクトのあった事件だったわけです。当時を知っている人たちにとって、三島の死は巨大な謎として現れて、どうしても解釈したくなる。三島はなぜ死んだのか、三島をどうやって自分のなかで消化していこうか……と。我々は、その時代を生きていないので、もう少しフラットな目線で見れる。それで、刀根さんが最初に気付いたんですけど「討論会の映像に映る三島が、異様に輝いて見える」「目も爛々としているし、ものすごく生き生きしている」と。そこにフォーカスを当てられないだろうかというのが、刀根さんの最初のプレゼンでした。

 この討論会を描くにあたって、最初は“三島の死は切っても切り離せないことだよな”と思っていたのですが、刀根さんの話を受けて、“三島の死は1,000人が1,000の解釈をして、各々の答えがあるだろう”と。なので、このドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」は、三島はなぜ死んだかを描くドキュメンタリーではなく、三島がいかに生きたのかということにフォーカスしたドキュメンタリーにしていこうと。当時の三島を知っていた「平凡パンチ」編集者・椎根和(しいね・やまと)さんや瀬戸内寂聴さんなどいろんな方々に、いかに三島が生き生きと生きていたかというエピソードを聞きましたね。




(私論.私見)