三島と美輪明宏の交流考

 (最新見直し2013.09.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島と美輪明宏の交流考」を確認しておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


【三島と美輪明宏の交流考】
 岡山 典弘(おかやま・のりひろ)の「三島と美輪明宏の交流考」。
 歌手・俳優の美輪明宏さんは、三島由紀夫の戯曲『黒蜥蜴』で主演を務めた。2人が初めて出会ったのは、美輪さんがまだ16歳の時だったという。文芸評論家の岡山典弘さんの『三島由紀夫が愛した美女たち』(MdN新書)より、2人の出会いの場面を紹介しよう――。

 生まれ育ったのは“女の地獄”

 三島由紀夫が、その美貌と演技力と歌唱力とを絶賛した現代女形の美輪(丸山)明宏。明宏(旧名・丸山臣吾)は、昭和十年に長崎の丸山遊郭で生まれた。三島由紀夫との年齢差は十歳である。明宏の両親は、丸山遊郭の一画でカフェ「新世界」を経営していた。花街で幼少期をおくった明宏は、“男の天国”が実は“女の地獄”であることを知った。家の隣には、劇場と映画館を兼ねる「南座」があった。明宏は、ここで坂東妻三郎や長谷川一夫の芝居を食い入るように見つめ、『女だけの都』『マタ・ハリ』『椿姫』『モロッコ』『ブロンド・ヴィナス』などの名作に親しんだ。明宏が十歳のとき、長崎に原爆が投下された。「阿鼻叫喚あびきょうかんの交響楽がシンバルやティンパニーの乱打とともに、何十万の悲鳴のコーラスを叫び、この世の果てまで届くよう助けを求めていていました」。

 新聞広告「美少年募集!」

 終戦後、明宏は海星学園に進んだ。海星学園は、オランダ坂の石畳をのぼった丘の上にあった。白亜の校舎の頂からは、聖母マリアの像が長崎の街を見守っていた。「長崎のコバルト色の空や港、中間色の町並みを見下ろす丘の上にある学校の講堂で、ピアノを弾いて歌っていたあの頃が、一番美しい思い出となっています」。しかし明宏は、突如として海星学園を退学して上京する。ティノ・ロッシの「小雨降るみち」に魅了されて、シャンソン歌手になるために国立音楽大学附属高校に転じた。

 ――美少年募集!

 アルバイトを探していた明宏の眼に、新聞広告の文字が飛び込んできた。美少年を集めていたのは、銀座五丁目の「ブランスウィック」である。ところがこの店は、ただの喫茶店ではなかった。

 有楽町の一画にあるルドンといふこの凡庸な喫茶店は、戦後に開店していつかしらその道の人たちの倶楽部になつたが、何も知らない客も連れ立つて入つて来て、珈琲を飲んで、何も知らないまま出て行くのだつた。

 店主は二代前の混血を経た四十格好の小粋な男である。みんながこの商売上手をルディーと呼び慣はしてゐる。(三島由紀夫『禁色』)


 裸体に豹の毛皮を巻き付けて歌い踊る

 「ブランスウィック」は、『禁色きんじき』に登場するゲイバー「ルドン」のモデルとなった店である。当時としては珍しく、一階から二階までガラス張りで、二階には、怪しげな南米風ムードがただよっていた。真紅のビロードのボックスには豹の毛皮がおかれ、ささやかな三階のフロアに通じる金の手摺てすりの階段が設けられていて、夜の帳がおりると、フロアショーが催された。“ケリー”と呼ばれているマスターは、派手な背広を着て、コールマン髭を生やしたラテンの混血系らしい四十男だった。ケリーは、明宏が応募してきたことをとても喜んだ。「明日からきて欲しい。歌手志望なら、フロアで歌ってもいいよ」。

 店には、“バレエさん”というバレエを習っているボーイがいた。バレエさんのフロアショーが終ると、明宏は彼から衣裳を借りた。明宏は、裸体にひょうの毛皮を巻きつけて、頭には金のターバン、手足には鈴という格好で、歌い踊った。

 とし若い踊り子がひとり、妖精めいて浮かびあがった。のびやかな脚にバレエ・シューズを穿き、引緊った胴から腰にかけては紗の布を纏いつけたという大胆な扮装で、真珠母いろの肌が、ひどくなまめかしい。(中井英夫『虚無への供物』)


 「可愛くない子だな」の返しに唖然

 三島は、「ブランスウィック」の上客だった。いつものように編集者を連れてやってきた三島は、新入りの美少年に目をとめた。「おい、丸山。三島先生が君を呼んでるぞ。入店早々、凄いじゃないか」。明宏は、ケリーの言葉を無視した。取巻き連中から「先生、先生」と持上げられている三島を見て、「ふん、何が天才だよ!」と反感を抱いたのである。

 「お願いだから、三島先生の御機嫌をとってくれよ」

 明宏は、しぶしぶ三島のとなりに座った。「なにか飲むか?」。「芸者じゃありませんから、結構です」。「可愛くない子だな」。「ぼくは綺麗だから、可愛くなくてもいいんです」。ナルシストを自認する三島が、この言いぐさには唖然とした。「もうよろしいですか? あんまり見られて穴があく前に帰ります」。明宏はさっと席を立った。須臾しゅゆの間ではあったが、強烈な印象を残した。小生意気で小憎らしくて、妖しいまでの美少年。三島の脳裏には、明宏の姿が鮮やかに刻まれた。

 江戸川乱歩も初対面で贔屓に

 「ブランスウィック」の常連客の一人に江戸川乱歩がいた。男たちが軍服を仕立て直して着ていた時代にあって、乱歩のお洒落は際立っていた。良質の純毛のチェック柄のジャケットを着用して、色は茶系で統一していたという。明宏は、かねてより『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『陰獣』『押絵と旅する男』などの乱歩作品を愛読していた。乱歩に紹介された刹那、明宏は自分が気に入られたことがわかった。「ねえ先生、明智小五郎って、どんな人?」。「腕を切ったら青い血が出るような人だよ」。「まあ、なんて素敵なこと!」。「へえ、そんなことが君わかるの。面白い、じゃあ、君は切ったらどんな色の血が出るんだい?」。「ええ、七色の血がでますよ」。「おお、面白い、珍しいじゃないか。じゃ、切ってみようか。誰か包丁持ってこい!」。興がのった乱歩は、本当に切りかねなかった。「およしなさいまし。切ったらそこから七色の虹が出て、お目がつぶれますよ」。明宏の当意即妙とういそくみょうの口舌に、眼疾を患っていた乱歩は、「両方ともつぶれちゃったら大変だ」と冗談をいった。「君、幾つだい?」、「はい、十六です」、「ほう、十六でその台詞かい。とんでもない面白い子だねえ」・それからの乱歩は、明宏を贔屓ひいきにした。明宏には、芸術家たちをひき寄せる妖しい魅力があった。

 フランス語で歌った「バラ色の人生」

 三島は来店の都度、明宏を指名した。明宏も次第に心を開いていった。三島がブラックジョークでからかえば、明宏はウィットにとんだ生意気な言葉でやり返した。折ふし三島の哄笑が「ブランスウィック」の店内に響いた。三島が来店したとき、歌を聴かせる機会があった。明宏は、二階からの三島の視線を感じながら、フランス語でシャンソンを歌った。曲目は、エディット・ピアフの「バラ色の人生」。明宏は、ピアフのレコードを繰り返し聴いて勉強していた。

 「君は、大物になる」の言葉の重み

 歌い終えた明宏は、二階の三島の席にもどった。三島の様子がいつもと違っていた。悪態をつかれるだろうと予想していたが、三島は神妙な顔つきをしていた。「ぼくの歌、どうでしたか?」。恐るおそる明宏が訊いた。「君は、大物になる」。三島が、明宏を見つめながら答えた。「たった一言でしたけど、それは私にとって千万の言葉より嬉しいものでした」。明宏は、三島の言葉の重みを今に至るまで忘れていない。

 歌手としての運命を拓いた一通の紹介状

 しかし、「ブランスウィック」には永くいられなかった。店の大事な客を、あっさりと袖にしたことが原因だった。「そんなお偉いさんは、うちにはいらない。今すぐに出て行け!」。ケリーが、明宏を睨みつけながら叫んだ。捨てる神あれば、拾う神あり。ケリーに代わって、明宏の前に現れたのが橘かほるだった。元タカラジェンヌの橘かほるは、日本のシャンソン界の草分けの一人である。たまたま明宏は、シャンソンの会でかほるの前座をつとめた。明宏は、艶やかなメイクをほどこして「枯葉」や「ラ・メール」を熱唱した。「あなた、なかなかやるじゃない」。かほるは、類いまれな明宏の資質と才能を見抜いた。「銀座七丁目の『銀巴里』に行って、バンドマスターの原孝太郎さんにこの紹介状を渡しなさい」。かほるが書いてくれた一通の紹介状が、明宏の運命を拓く。

 「銀巴里」は、伝説のシャンソン喫茶である。昭和二十六年の開店当初は、デラックス・キャバレーだった。店内にはダンスホールとラウンジを備えて、大勢のホステスを雇っていた。ステージ上では、原孝太郎率いる六重奏団がアルゼンチン・タンゴを演奏していた。明宏は、毎日「銀巴里」に通って、原の指導を受けた。名伯楽を得て、明宏の歌は急速に上達した。シャンソン、タンゴのほかに、ラテン音楽にまでレパートリーを広げて、十七歳の明宏は、「銀巴里」のステージでプロデビューを果たした。
 岡山 典弘(おかやま・のりひろ)






(私論.私見)