短期集中連載 秋山大輔「三島由紀夫と石原慎太郎(その1)」
「三島氏の起こした事件は、私がこの欄で扱うべき問題ではないかも知れない。事件の直後申し込まれた記者会見でも、私は、政治家として、この事件の社会的政治的意味についての言及は避け、ただ文学を通じて彼を敬愛した一人の友人として哀悼を語った」(「三島由紀夫への弔辞『週刊現代』昭和四十五年十二月十日号」・『近代作家追悼文集成』第四十二巻所収)。
ここにひとつのパンフレットがある。昭和四十三年四月に東横劇場で上演された「四月名作特別公演」。 三島由紀夫「黒蜥蜴」そして石原慎太郎潤色「若きハイデルベルヒ」である。
「人生に再びはない。青春の哀歓、愛と友情と祖国への忠誠。こんにちは青春。そしてさよなら青春。石原慎太郎
妖気の黒ビロードの上に 純愛のダイヤがきらめく 推理劇。 三島由紀夫」 |
二人の名前が連名で並ぶこのページに二人の関係が透かして読み取れるようである。しかし皮肉な事に「黒蜥蜴」は近年に至るまで繰り返し再演されているが石原戯曲はほとんど再演されていない。「狼生きろ豚は死ね」などかつて日生劇場で演じられた諸作品も現在観ることは難しい。しかしこの頃はお互いが共鳴して新しい時代を構築しつつあった。三島由紀夫と石原慎太郎という若者に絶大な人気を得ていた二枚看板の演目。二人が連名のパンフレットは文学以上の強固な絆で結ばれた関係を象徴しているように思う。
ここで石原と三島由紀夫を強固に結びつけた作品がある。「その夜になって、何となく手持無沙汰になった二人は、食事に帰る合い間他の仲間を三人呼んで代らせた。礼次たちが帰って来る翌日の昼まで、夜っぴて五人の男たちが倦かずに代わる代わる、延べにして二十回以上も、同じことを女に向って繰り返した。仕舞いには女は呼吸をするただの道具のように横たわっているだけだった。男が、終って仲間と代ろうとする間も、女はびくりともせず同じ格好で倒れていた。誰かがそれを横にしたり起したりさせようとしても、女はゆるんだ何か重い荷物のように仰むけに延びたままだった。それでも、時折、女は強く甲高く叫んだり、自分で体を動かそうとしたりして彼らを驚かせた。「こいつあ馬鹿見てえに好きだぜ」。見ていて一人が思わず叫んだ。後が気になってか、礼次たちはひる前に帰って来た。「畜生、五人がかりでやりやがったな」「見ろよ、死んだ魚みてえな顔をしてやがるぜ」 次の部屋を覗き込んだ二人を、殆ど裸で転がったまま、女はぼんやりと見つめただけだった。入り込んで見下す礼次へ、女はふと何故か薄く笑いかけた」(「完全な遊戯」・『石原慎太郎短編全集』所収)。
1970年十一月十八日。作家三島由紀夫は図書新聞の文芸評論家古林尚と人生最後の対談に臨んでいた。そこで石原慎太郎に話題が及んだ。古林は「石原慎太郎が「完全なる遊戯」を出したとき、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、十年か二十年先には問題になるだらう、と書いてゐたやうに記憶していますが・・・・・・。」と三島に問いかける(この対談は録音されている。古林氏は「完全なる遊戯」を「殺人教室」と間違えている)
そこでの三島の答えが愛に満ちた、後輩へのエールである。「あれは今でも新しい小説です。白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いてゐますね。ぼくはよく書いてゐると思ひます。ところが文壇はメチャクチャにけなしたんですね。なにもわからなかったんだと思ひますよ」。文芸評論家の平野謙は「文芸時評」にて「完全なる遊戯」を当時こうぶった切る。「私はこういう作品をマス・コミのセンセーショナリズムに毒された感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている」。どこかで聞いた論評だと思っていたら「太陽の季節」に関する佐藤春夫の発言に極めて、極めて酷似している。
そして平野謙はこう続ける。「私はこの作者の「処刑の部屋」や「北壁」には感銘したものだが、あの無目的な情熱につかれた一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムのワナに落ち込んだ作者の身ぶりだけがのこっているにすぎない」と(「北壁」の帯文を平野謙は書いている)丁寧に過去の作品の対比までも付け加えて攻撃している。
佐古純一郎は「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどである」(「産経新聞」昭和三十二年九月十四日)と痛烈な論評で攻撃を加える。佐古は「文学はこれでいいのか」で当時の文学界に姦通・強姦・近親相姦等が跋扈しているのに触れて、「私はこういう現実はきわめて終末的な人間の症状だと考える。そして人間のモラルとは、そういうことでぐらぐらするようなふたしかなものではないはずである」と率直な意見を述べており、文学的論争を巻き起こした。
文藝評論家山本健吉は「「したいことをするのだ」と言う、太陽族的世代はどうか。石原慎太郎の『太陽の季節』では、兄弟で恋人を売買するところがあり『処刑の部屋』では強姦が書かれている。だがこれらは恋愛とは言えないだろう。」(「最近の恋愛小説」、昭和三十ニ年五月二十七日 読売新聞・『山本健吉全集』所収) そして「文学とモラルとの関係」では山本は「姦通が、風俗・習慣の上からしか悪とされない今日の日本では、真の姦通小説を成立せしめる条件が、欠けていると言えるのである。そのことを、私は佐古氏の批判の対象となった一文でも、三島由紀夫氏の『美徳のよろめき』を例として、暗示しておいたはずだ」と書き、三島由紀夫は「美徳のよろめき」で「よろめき」という言葉を流行させた。
若い男との不倫と性交に悩みながらも体を任せてしまう女性の苦悩を描ききっている。石原慎太郎が「美徳のよろめき論」において、率直な意見を書いているのはあまり知られていない事実である。「この作品は氏の他のどの作品よりも失敗作であると断言出来る。恐らくその失敗は他の作品について多くの評論家が云々し、或いは氏自身が感じたものとは全く異質なものではないだろうか。それは言葉の反乱であり氾濫である」(「美徳のよろめき論」・『孤独なる戴冠』所収)と、正に怖いもの知らずの論調を展開している。
この時代はペンで論争する土壌がきちんとあった。後に三島由紀夫と論争する橋川文三は『三島由紀夫選集』の文を書き、三島の「文化防衛論」で論争をしていたが、本人達は一切顔をあわせなかった。しかし、それが成立していた。しかし、三島由紀夫と石原慎太郎は顔を合わせ、論じ合い、時には紙面でも殴りあった。
三島由紀夫、石原慎太郎は文壇の古い概念を突き破り、ショックを、確実に刻み込んだのである。そして新潮日本文学の「石原慎太郎集」において城山三郎は月報に「永遠の青年」と題して文を寄せている。「戦争文学の話をしていた。日本文学での戦争小説の傑作は何だろうか、という話になった。「短編では、ぼくの『待伏せ』ですね」。彼はにっこり笑って言った。評論家に袋だたきにされた感じの『完全なる遊戯』についても、彼はいまだに、それが彼の最高傑作の一つであり、何十年か後にまで残る傑作であるという信念をくり返す。石原さんは、ナルシストなのであろう。自分の作品まで熱烈に愛するナルシスト。羨ましい作家である」と書いている。
言わば「自己愛」の作家というところか。三島由紀夫は筑摩書房にて出版された「新鋭文学叢書」の「石原慎太郎集」のあとがきに掲載した「石原慎太郎氏の諸作品」にて「完全な遊戯」を褒め称えている。「私は一九五七年秋、送られて来た「新潮」誌上の「完全な遊戯」をニューヨークの旅舎で読んで感動した。しかし間もなく日本へかへつて、この作品に集中した文壇の悪評におどろいた。日本の批評はどうしてかうまで気まぐれなのであるか。
「完全な遊戯」は「太陽の季節」から「処刑の部屋」へと読んできた読者には一つの透明な結晶の成就であつて、それ以外のものではない」と大絶賛である。昔、文壇の異端児扱いされた三島由紀夫は未来ある後輩が新しい作風を生み出し、挑戦しようとする姿にエールを送ったのである。「完全な遊戯」は全体的にプラスティックの如く人工的な世界が跋扈している。登場人物には人間味の欠片もなく、最後に多少恋愛じみた場面があるものの、凄惨で、狂気の世界が淡々と描かれており、これまでの文学では特殊な作風であった。
三島はこう続ける。「感情の皆無がこの作品の機械のやうな正しい呼吸と韻律を成してゐる」と「太陽の季節」以後、石原の作品は裕次郎の映画主演と車の両輪のように噛み合い、興行的に成功を収めるが文壇という分野ではなく石原慎太郎のタレント性が強調され、作家色が薄れ始めていた。そして評論家の猛攻撃が始まる。「しかし石原慎太郎をめぐるジャーナリズムの扱いをみていると、それは中村錦之助や美空ひばりのそれと全く同質になってきている。無論、こういう一種の社会現象はジャーナリズムの触手をいざなうにたるものが内包されてはいる。しかし、私はその原因がどこにあれ、こういう現象はやはり正常ではない、と考える。
中野重治は、石原慎太郎がジャーナリズムになぶり殺しにされてゆくのを見るにしのびない、というような発言をしていたが(新文学日本)、問題は石原個人のことより、それの若い世代全体に与えるあしき影響の方だろう。」「(文芸時評)」と、平野謙は昭和三十一年五月に書いている。「なぶり殺し」という表現も凄まじいが、美空ひばりと中村錦之介(二人とも故人)の二枚看板と同列に持ってくることが当時の慎太郎人気の壮絶さを物語っている。そこに裕次郎人気が加わるが、この時点で文学者として正当に評価されることが困難になったのは否めない。「太陽の季節」は現代のハードボイルド小説の礎を築き、石原氏は推理小説にも手を染めていく。
そして太陽族の映画を観るだけで学校を退学になると言う記事が新聞に踊る。文壇という世界から石原は隔絶されていく。そこで援軍を出したのは三島由紀夫である。三島由紀夫は「完全な遊戯」の帯に推薦文も寄せてる。「ニューヨークにゐたとき日本から来た文芸雑誌を読んで、どの小説もピンと来なかったが、石原氏の「完全な遊戯」の神速のスピード感だけはピッタリ来た。会話のイキのよさ、爽快な無慈悲さ、・・・・・・私は読者が抹香くさい偏見に煩はされずに、この、壮大な滝のやうではないが、シャワーになつて四散した現代的リリシズムを浴びせられるやうにおすすめする。」(「完全な遊戯」帯・新潮社・昭和三十三年3月・『決定版 三島由紀夫全集』三十巻所収)。
石原自身、この作品について昭和四十年の「石原慎太郎文庫2」(河出書房新社)のあとがきで「私の良き理解者である三島由紀夫氏の、文学的援護がなければそのまま抹殺されていたかも知れない。」と偽らざる心境を露呈している。この作品についての再評価の動きはないが、三島由紀夫と石原慎太郎を結びつける上で欠かせない一作になっている。
そして石原は昭和三十三年、十月、『小説新潮』に掲載された「遊戯の終点」にて、競輪のノミ行為に絡むストーリーの中で、正常な女性を犯し、自殺するまでの顛末を書いた。言わば「完全なる遊戯」の姉妹版を残しており、このテーマはお気に入りなのかもしれない。しかしこの時期に「鱶女」を書いており、改めて彼の引き出しの多さには驚かされる。
昭和三十年代前半の石原慎太郎は文壇の風習や、重鎮、評論家と常に対決しなくてはならない状況にいた。それは石原が若者の風俗や、社会情勢を先導しているように見られていたことの表れでもある。
石原は現在でも「完全なる遊戯」を愛してやまない、ご執心な小説のようだ。福田和也との対談でその愛を高らかに宣言している。「石原 「完全なる遊戯」は完全な小説だけれど、あれを書いてから四十年以上の時が流れて、私が想像の世界で描いた事件が現実に頻繁に起こるようになった。」(「月刊 石原慎太郎」平成十四年 マガジン・マガジン)。四十年以上前の小説をここまで熱っぽく語れるのも凄いが、これらの発言を読んで浮き彫りになるのは三島由紀夫の先見の明である。小説としての「完全なる遊戯」はまだしも、三島は「未来小説」と称し、「問題になる」と語る。
人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代の到来を石原の小説から眺めていたのかもしれない。現代の社会情勢。セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行を三島は予見していた、極論かもしれないが、「完全なる遊戯」の評論は、的を得ているのかもしれない。三島由紀夫と石原の自作品に対する思考は極めて対照的である。
雑誌『国文学』五月臨時増刊の「三島文学の背景」と題する対談(昭和四十五年)で文芸評論家の三好行雄が冒頭に「今日はこの雑誌の特集の一環として、三島さんにいろいろお話して頂こうということなんですが、私のほうが準備不足で、なにをお伺いすればよいんだか(略)むしろ、作品と作者の接点のようなものをと、思うんですが」との問いに対する三島の答えは石原と対極的で「ああ、そうですか。ぼくは過去の作品のことを話すのがいやで。・・・・・過去の作品なんて、いわば、排泄物といったら読者に失礼だが、トカゲのしっぽみたいなもので、トカゲのしっぽがちぎれて、向こうに並んでいるみたい。肝心のトカゲにはもう、あとのしっぽが生えているんですからね」と、そっけない。
しかし過去に囚われず(一部焼きまわしと言うか、過去の作品を発展させた作品もあるが)新しい作風の小説や戯曲を生み出した三島と過去の作品を慰撫する石原。作品に対するスタンスが二人は根本的に違うことがよくわかる。
さて「完全なる遊戯」は昭和三十二年十月『新潮』に掲載された。そして四十七年もの月日が流れた。ここで2003年に『日刊現代』のコラム「奇っ怪ニッポン」にて「『テロ容認』石原知事の本当の姿」と題して同じ一橋大学出身の作家で現長野県知事田中康夫が「「完全な遊戯」と題する初期短編集が、何故か今頃になって新潮文庫で再刊されています。紐解くや驚倒、卒倒。だって、知的障害と思(おぼ)しき少女を拉致監禁し、輪姦を始めとする恥辱の限りを尽くした後、海に突き落として殺害する筋立て。いやはや、それだけでも驚愕。のみならず、こうした犯罪こそクールな「純粋行為」だ、と彼は高言しているのですから、開いた口が塞がりません」と噛み付いた。現在でも「完全なる遊戯」の評価はこんなものであまり変化はない。文壇でも再評価の動きはまったくない。三島由紀夫の賛辞が当時、いかに破格だったかが理解できる。
石原慎太郎と三島由紀夫の関係は常人では考えられないほどの深淵があるのではないか。石原には、四つのカードがある。まず文学、政治、裕次郎(芸能関連)そして三島由紀夫である。三島由紀夫は文学とイコールなのであるが、石原は三島由紀夫との思い出を語ることを止めることはないだろう。石原にとって文学の世界を超越した師である三島は政治、芸術を超越した存在である。
石原が三島由紀夫の存在に着目したエピソードがある。映画「純白の夜」(昭和二十六年八月三十一日に松竹で映画化、封切りされる)三島はダンスパーティのシーンに出演しているが野坂昭如は映画を見てもどこにに三島が出ているのかわからなかった。そこで野坂との対談で石原はこう言う。「ハハハ・・・・・・。ぼくもその予告編を見た。予告編のほうが三島さんがはっきりわかって、ああこれが鬼才の顔かと思ったな」(「三島由紀夫へのさようなら」・「石原慎太郎=野坂昭如 『闘論』昭和五十年 文藝春秋社所収)
「私と三島由紀夫氏の出会いは、誰であったか、弟の裕次郎だったろうか、最近世の中に二十歳前から小説を書いて天才ともいわれている三島由紀夫という作家がいると聞かされ、その名もよく覚えきれずにいたが、ある時、町の映画館でみた本編の前の「純白の夜」という作品の予告編で、その原作者である鬼才三島由紀夫が登場して、なにかのパーティのシーンにまだうら若い作者が映っていた。それはいかにも年齢に似合わぬ才気を感じさせるような、ひ弱そうな白皙の青年だった。
しかしまた、当時一番女盛りだった主演女優の小暮実千代よりもなぜか存在感があった」(『三島由紀夫の日蝕』あとがき(余談だが裕次郎にも三島作品についての記述がある。「仮面の告白」についてで「三島由紀夫の『仮面の告白』のなかにも、バスガールのぴたっとした制服に少年が惹かれるくだりがあるけど、中学生くらいの男の子の心理なんてもんは、そうしたものさ」と言及している。確かに読書家としても有名な裕次郎は三島作品を詳しく読んでいるのではないかと思われる。)暗がりの戦後の映画館で少年石原慎太郎は人生を左右する恩人でもあり、ライバル視することになる男の顔を、当時の売れっ子女優、小暮実千代には目もくれず、凝視していた訳である。何処に運命の出会いがあるのかわからない。
歴史に「もしも」はない。しかし、「もしも」、三島の弟が外交官ではなく、石原裕次郎のようなスターであったら歴史の針は大きく変化していたに違いない。しかし「もしも」石原の弟が裕次郎でなければ「太陽の季節」もなく現在もないのだが。
この発言から石原はほとんど三島由紀夫の作品は当時読んでいなかった事が推測できる。その後「禁色」を読み始め、同世代の先輩作家として意識していく。「僕は「禁色」を最初読んだ時、虚飾の凄さとかがすごくおもしろかった。男色の世界なんて全然興味もなかったけど、こういうものが実際にあるのかと思ったな。第一部は『群像』に掲載されていて、本当に次が楽しみでしたね。日本人の日本語による現代文学が、こんなにおもしろいのかなと思って読んだ覚えがある。あれは一種のショックだった」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」
三島由紀夫はスクリーンで観た、言わば映画スターの如き存在であった。いや、作品を読んだ後はそれ以上かもしれない。そして、誤解を恐れずに書くなら三島由紀夫と石原氏との文学に対するスタンスは完全に食い違う。前にも書いたが石原の場合、「小説は好きだったけれど、もの書きになってやろうという気持ちがそれほどあった訳じゃない」と述べているのに対し、三島由紀夫は「小説家として暮らしてゐる今になつてみると、むかし少年時代の私が、何が何でも小説家になりたいと思つてゐたのは、実に奇体な欲望だつたと思ひ当たる。こんな欲望は、決して美しいものでもロマンチックなものでもなく、要するに少年の心がおぼろげに予感し、かつ恐れてゐた、自分自身の存在の社会的不適応によるのであらう」(「私の遍歴時代」)と本気度の違いがわかる。
三島の少年時代からの履歴は省くが、私が着目したのは三島と石原の間に流れるジェネレーション・ギャップである。三島は大戦中、いつ、赤紙で徴兵されるか、わからぬ世相のなかでかねてから憧れていた室町時代の足利義尚について「最後の」作品として執筆していた。(「中世」)七丈書院から昭和十九年に出版した「花さかりの森」も祖父、樺太庁長官であった平岡定太郎の人脈をフル活用して紙を入手してどうにか刊行にこぎつけた本であり、ある意味、青年三島由紀夫の遺作であった。
三島は自身の戦争体験について先にふれた最後の対談で生々しい発言を展開している。「しかし、ぼくだつて、ぼくなりに戦争を見てゐるんですよ。たとえば勤労動員に行つて、仲間が艦載機の機関銃にやられて、魚の血みたいのがいつぱい吹きだしてゐるのを見たり、まあ多少は知つてるんです。そして「平家物語」ほどではないけれども、人間はすぐに死ぬんだ、死ねばどうなるかといふことを認識したんです」。
石原はどうだろうか。「もはや戦後ではない」というスローガンが町を跋扈し、処女小説も『一橋文芸』の穴埋めであり、浅見淵に褒められて「太陽の季節」を書いたら大当たりしてしまったという何とも棚ぼた的なイメージを持ってしまう。無論、彼の処世術が長けていたといえなくもないが、そもそも出発からこの二人は違う。時代からして全く違う。
無論、石原は戦中に生きていたが当時十二歳の少年に何処まで戦死の概念が存在していただろうか。父の死を経験し、出生する若い兵士を身近に見つめていた石原だが、同級生が戦場に送られた三島と自分より年長者が戦場にいた石原とでは「死」、「戦死」に対する概念が異なるのは否めないだろう。
「日ましに戦況利あらずで空襲も頻繁となり、有望な海軍士官候補を温存するためにか警戒警報がなるとすぐに授業中止となってみんな帰宅を命じられそそくさと家に帰った。勿論私たちとすれば警戒警報は大歓迎だった。私は逗子から学校のある藤沢まで通っていたが往復とも大変な混みようで、よく列車の連結器に下駄ばきでぶらさがって通ったものだが、そんなスリルに比べれば東京へ向かうB29をはるか頭上に仰ぎながら帰ることなどさしたる冒険にも思われなかった」(「戦争にいきそこなった子供たち」・『わが人生の時の時』所収)。
私がここで書きたかったのは明らかに異なる両者の戦争へのスタンスである。無論、戦争が身近に存在していたのは紛れもない事実だ。しかし石原は戦争で自分は死なないだろうという前提があった。もし戦争で死ぬとしても第二次大戦が成人になるまで継続していたら、という仮定の話である。石原は「私は戦中派と呼ばれる人々の、最近はどうかは知らないが世代論のさかんだった頃の、ものの考え方が嫌いであった。たしかに戦争は人間にとっての大きな、過酷な体験には違いないが、それが十数年のたった今尚、現実に対応するのにどうしても自分の戦争体験を経て来なくては身動きのとれぬ人間が、自己の体験を誇大悲壮に装った女々しい人間に見えてならなかった」(『石原慎太郎文庫』3あとがき 昭和四十年一月)とストレートな考えを述べている。石原慎太郎は戦後派。三島由紀夫は明らかに戦中派である。考え方の落差はだんだんと露呈していくことになる。
三島由紀夫が文章で石原の商業作家としてのデビュー作「太陽の季節」について最初に書いたのは日記体の評論文、「小説家の休暇」で、昭和三十年の七月六日に学生の小説について触れた最後のくだりで「ところで最近私は、「太陽の季節」といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、書かれてゐたことであつた」と触れていた。ここでは石原慎太郎の名前は登場しない。
三島由紀夫が他人に対して「太陽の季節」に着目した発言は昭和三十年十月にドナルド・キーンに「あれ(太陽の季節)には新しいものがある」と真摯な思いを語った発言ではないかと思われる。その後も三島は慎太郎への注目を継続していた。三島は当時の若い作家にも言及しているが一個人の作家に対して当時、ここまで多く書いている例はほとんどない。この三島の記述に慎太郎は純粋に、そして無邪気なほど喜びをあらわにしている。年齢の近い作家が著作物で「太陽の季節」をまともに評論したのはこの「小説家の休暇」にほかならない。
「石原(略)野坂さんにくらべて、ぼくのほうは三島さんにたいするデリカシーがなかったような気がするんだけれども、ぼくもあの人の保護だけは受けられるような庇護本能みたいなのが、ありましたよ。たとえば、「文學界」に載せたばかりで芥川賞の候補作になった『太陽の季節』について、あの人が『小説家の休暇』というソフィスティケイテッドなエッセイ集を出したときに、中にチラチラッと一、二行出てくるんですよ。それを見てぼくは文學界新人賞をもらったときよりもジーンときた。ついにこの人の目にとまったという感じがあってね」(「三島由紀夫へのさよなら」・「闘論」石原慎太郎=野坂昭如『闘論』昭和五十年文藝春秋社所収)
そして三島は昭和三十一年、四月十六日の東京新聞で石原を擁護する論説を掲載する。題名もずばり「石原慎太郎氏」である。(新聞掲載時の題名は「石原慎太郎―ナマの青春を文壇に提供」) 最初から三島らしい粋な文体で攻めてくる。「赤ッ面の敵役があまり石原氏をボロクソに言ふから、江戸っ子の判官びいきで、ついつい氏の肩を持つやうになるのだが、あれほどボロクソに言はれてなかつたら、却つて私が赤ッ面の役に回つてゐたかもしれない。その點私の言ひ草は相対的であり、また、現象論的であることを御承知ねがひたい。従つて、ひいきとしては、氏の一勝負一勝負が一々気になるが、今まででは「処刑の部屋」が一等いい作品で中にはずいぶん香ばしくないものもある」(旧版『三島由紀夫全集』第二十九巻所収)と石原を擁護している。最強の応援団である。石原は時代と添い寝していた。そして石原は三島由紀夫という援軍を得て時代と手をつないだ。
石原の幸運の始まりは当時の若者の時代感覚と作品が合致したことだ。文壇の若き鬼才、三島由紀夫と文学、風俗、政治と幅広く議論できた。そして海外にも足跡を残し、歴史にも記憶された三島由紀夫の「ナマ」を知る人間として語り続ける権利を得たのである。三島はこう続ける。「氏の人柄のタイプは、文壇ではずいぶん珍種だが、避暑地の良家の子弟の間ではごくふつうのタイプである。たとへば「太陽の季節」の背景をなしてゐる葉山あたりでも、石原氏によく似た青年はたくさん見かける。物の言ひつぷりも典型的なそれで、文壇人種のはうが、よつぽど世間からずれてゐるのである」。そして三島は極めつけのセリフを言う。「氏の獨創は、おそらくさういう生の青春を文壇に提供したことであらう」。三島は「われわれは文学的に料理された青春しか知らない」と書き、自身と石原の違いを最初から認識していたのかもしれない。
三島の青春は軍事色一色で恋愛なんぞとんでもない。セックス描写はない。工場で密かに原稿を書くご時世である。方や、石原は「豊かさの象徴」としての「太陽の季節」を書き上げる。時代と握手していた石原は三島の目にも鮮烈に映ったに違いない。石原のヨット、海、ボクシング、セックス。若者の欲望が心地よく料理された作品は後に「亀裂」に昇華され、「鏡子の家」での素材となる。
そして三島はこの文の後半に石原に釘を刺す。最初から所有していた石原の健康な(実際にはかつては病気がちだったが)肉体に裏打ちされた作品への皮肉のようにも聞こえる。「やつぱり着実に走つて、自分の脚が着実に感ずる疲労だけが、信頼するに足るものだといふことを、スポーツマンの氏はいづれ気づくにちがひない」。 |
短期集中連載 秋山大輔「三島由紀夫と石原慎太郎(その2)」
三島由紀夫と石原慎太郎が始めて対面したのは昭和三十一年二月。銀座六丁目の文芸春秋社の屋上、バルコニーで写真を撮った時だ。この時の写真が残っているが緊張した面持ちの三島に比べ、飄々とした雰囲気の石原のコントラストが面白い。皮の手袋にスーツで決め、眼差しも厳しく緊張感が漂う三島。文壇の寵児の対面は写真で記録され、後世に残ることになる。私は太宰治と三島が対面した事実に匹敵するほどの文壇的事件であると思う。この写真撮影に当時無名の弟裕次郎も同行していた。石原は当時の三島の容姿についてこう回想している。「三島由紀夫氏との最初の出会いの折りも、いわなくてもいいことをいってしまって多分三島さんを傷つけたに違いない。私には子供の頃から古代人に似た一種の偉人嗜好があって、偉い人優れた人は強い人と同じように体の大きな人間に違いないという妙な思いこみがあった。
なので、日頃目を見張る思いでその作品に触れていた三島さんを初めて目にして、その日はスーツだけではなしにその上に着ているトレンチコートまで、渋いウグイス色のパステルカラーでかためた大層金のかかった出で立ちの三島さんが、思いのほか小柄だったのを見て、名乗りあった後、「僕、三島さんてもっと大男かと思ってました」。いったら三島さんがなんともいえぬかおをして笑い飛ばしたのを覚えている」(「三島由紀夫という存在」・『わが人生の時の人々』所収)。
まさに石原氏にとり、歴史的瞬間であり、現存している写真は白黒だがこの文を読むと写真に色が着色されるような感慨を覚える。色まで再現して、文章で書けるほど強烈で鮮明な出来事であったのだろう。昔、スクリーンに居た人物が目の前にいるのだから。
弟、裕次郎は「兄貴、奴の着ていたスーツはずいぶん凝ったもんだぜ。あれあ高いぞ。でも、あんまり似合っちゃいねえよな」とかなり率直な意見を述べている。運命の悪戯か、裕次郎と三島は三島由紀夫人生最後の映画「人斬り」で共演するし、別の場所で一瞬だが再会することになる。石原氏と三島由紀夫の関係は尊敬する先輩であり、保護者であり、甘えられる兄貴だったのではないかという思いを私は最近強く持つ。石原の三島についての発言を聞いていると、死者に対してではなく生きた先輩への「甘え」のように聞こえてならない。「三島さんだから許してくれるだろう」という感情が見え隠れするのだ。
例えば佐野眞一が「俺に政治という玩具を取られたから、三島は自殺したんだ」という石原の発言を挙げているが、これぞ甘えの極地ではないだろうか。誰が、何処までこの発言を本気にするだろうか? 冥界にいる三島へのメッセージに他ならないのではないか? 石原にとって三島は死者では無いのである。未だに張り合う先輩であり、文学者なのである。三島と石原の対話や発言を巡って二人の関係を読み解いてみたいが、対談を熟読すると兄に甘える弟と、「仕方がないな。」と思いながら優しい眼差しを注ぐ兄貴の構図が透けて見えるのだ。
裕次郎が肉親なら、三島は文学的な、いや思想的な兄と言うところか。現在、三島も裕次郎も歴史的な存在だが、石原にとっては歴史上の人物ではなく裕次郎の如く、現在進行形の肉親の感情を抱いているのではないか。三島由紀夫は生きている。石原慎太郎の精神の中に。
石原慎太郎と三島由紀夫は何回か対談をしている。プライベートも含めるとかなりの回数あるだろう。二人のフランクで、気軽な関係を示す対話がある。「七年後の対話」(『風景』昭和三十九年一月号・『孤独なる戴冠』所収)と題する対談で非常に興味深い話をしている。「石原 七年間にいろいろあったのは三島さんのほうじゃないですか。僕は三島由紀夫に関して熱心な読者だけど、七年の間に三島さんの小説は非常につまらなくなって、またこのごろ非常におもしろくなって、何かあったんじゃないですか? 三島 子供が生まれただけだ。なにもないですよ。でもこの七年間って、あなたは知らないけど、まれに見るつまらない時代じゃない? 実につまらない時代だ」。かなり率直で何の遠慮もない発言を展開している。話が逆になるが二人は昭和三十一年に「文学界」にて「新人の季節」で最初の対談している。(これについては後述する)そして二人の年齢差から「七年後の対話」に至る訳だがここで私が抱腹絶倒した対話を引用してみよう。
「石原 夢は僕はないんですよ。それが夢かな。もっとせっぱつまった願いだけどなあ。三島 夢だよ。出てくるよ。あんた、僕にとうとうくれなかったけど「日本零年」あれ「文学界」で読んだところによると、まだ夢ありますよ。でも石原さんは僕より徹底している。僕は先輩には本の贈呈もするけど、石原さんはくれない。石原 これから送ります」。
本当にあの世界の文豪三島の発言なのかと勘ぐってしまうほど極めて人間的で泥臭さもある発言で、ここまで素直に後輩に嫉妬心まで露呈してしまう関係。「政治は抽象的理念に支えられた次元からひいて、それが接触し操作しているこの卑小で複雑な現実という段階まで多様な局面を持ち、それが重なり合うことによって政治という立体的な現実がある筈だ。多くの人間の政治への批判は、そうした多様な段階のいずれかでの冷静な判断を必ず欠いている。それは政治だけではない、人間にとってのすべての事象についていい得ることだ。そして、そうしたある判断の欠如によって人間は容易に自分の方法を見喪いそれに絶望してしまうことが出来る」(「日本零年」)
「日本零年」は原稿用紙千三百枚という、これまでの石原作品で最も長い野心作である。新聞記者、椎名と良子の曲りくねった恋慕と原子動力機関購入を巡る政治的駆け引きが描かれており、政治小説の意味合いが強い。昭和三十六年六月十日出版でこの対談は「風景」昭和三十九年の一月に発表された。ここで判明するのは約二年もの間、尊敬する先輩に「大作」を送っていなかったという事実が判明する。ここまで自由闊達に物が言える間柄も羨ましい限りだ。
石原の「夢」。「日本零年」は石原の政治的意見がふんだんに取り入れられた作品であり、三島は石原慎太郎の夢、「政界進出」を正鵠に見抜いていたのではないだろうか。野坂昭如は石原との対談で興味深い挿話を披露している。「野坂 昭和三十二年の春、銀座の裏で、「俺も若さを売りものにできなくなった。石原慎太郎というやつが出てきちゃって・・・・・・」といって、笑いながら階段をおりてくる三島さんに、ぶつかったことがある。それを見て、ぼくも『太陽の季節』は読んでいたけれども、三島由紀夫がそういうふうに意識するのかと、とても不思議に思いました」。
この対談で三島と石原との肉体的な対比についても触れている。石原は映画「日蝕の夏」に主演し、高峰三枝子と共演するほどの容姿を持っていた。講演旅行も若い女性が群がり、「慎ちゃーん!こっちむいて!」と黄色い声援を浴びせ、正に文壇のアイドルであった。(現在の綿矢りさのストーカー騒動を連想させる)石原の背の高い容姿。三島は背が低いのは紛れもない事実であった。人と写真に写る時も三島は気を使っていた。
野坂はこう続ける。「もっと具体的にいえば、彼自身、文学にどういうふうに愛想づかしをしちゃったのかわからないけれども、政治というおもちゃを弄ぶときになっても、石原慎太郎にどんどん先に行かれてしまう。石原慎太郎が出てこなければ、三島由紀夫はもうちょっと長生きしていたと思うんだ。(笑)」。石原は「いや、そういわれるととても困っちゃうんだけど」と言っているが本人にもその感情はあっただろう。
この野坂発言は先に書いた石原の発言とリンクするのだ。石原登場前は三島が文壇では若手だった。三島の初期の作品「盗賊」では川端康成が序文を寄せている。「三島由紀夫君は現在最年少の作家であると思ふ。芸術の世界では、なにかの分野、なにかの集合で、最も若いといふことは、恵まれた幸ひであり、ありがたい誇りである」と絶賛の言葉を寄せ、若者の未来を祝福している。しかも三島由紀夫は芥川賞、直木賞とも受賞していない(後年芥川賞選考委員となるが)言わば無冠の帝王である。
その後、「金閣寺」で「読売文学賞」等を受賞するが基本的には賞とは無縁とのイメージが強烈にある。賞という概念を超越した作品群が文学史に歴然と起立しているのである。石原と会うまでの三島の経歴は華々しい。「仮面の告白」に始まり、「青の時代」、そして「禁色」、「沈める滝」、「潮騒」と名作を連発し、既に一家を成していた。
三島は戦後では一番「若い」作家で女性にファンが多いのも事実であった。三島と石原の初対談は、「三島 この十年間いろいろ小説を書いてきて、みんな戦後文学の作家たちが佐官級になったわけだ。僕は万年旗手で、いつまで経っても連隊旗手をやっていたのだが、今度連隊旗を渡すのに適当な人が見つかった。石原さんにぼろぼろの旗をわたしたい。それで石原さんの出現を嬉しくおもっている。この人なら旗手適任でしょう」と大絶賛である。しかしその言葉の続きが当時の石原の現状を的確に示している。「この人はエトランジェなんだね。日本では神代の昔から、異邦人を非常に尊敬した。自分の部落民と違う人種がはってくると、稀人で客人であり、非常におもしろがられて、珍しがられた」。
エトランジェ・・・。見知らぬ人という意味の言葉を使っている。かつて自分も異邦人であったと語る三島だが石原慎太郎の作品は己のテリトリーの範囲外であり、「太陽の季節」の如き作風は彼の頭になかった。そしてある意味、三島由紀夫ほど伝統的な作家はいない。
石原は後年、三島との初対面を回想し、自分自身と三島作品の違いをこう分析している。「大体、私と初対面の時にも三島氏はひどく緊張して見えた。などと私がいうのは僭越且つ生意気極まりない話だろうが、今から思えば、文壇にやっと顔を覗けたひょっこと、すでに麗名高い氏とのとり合わせは、実は私自身の自負とは全く違って、氏にとっては、氏がすでに充分な自負自信をもって臨んでいた文壇の中の出来事としてのカテゴリイには属さぬものだったに違いない。」(旧版「三島由紀夫全集三十巻 付録 「緊張の中の三島由紀夫」より)
最初の対談で石原は自身の作家観について述べている。「ちょっと話が戻っちゃうのだけれども、さっき文壇について、小説家についてということですが、僕は所詮小説家と言う人間がきらいだったんです。太宰治みたいにね。あの人が非常に、いわゆる小説家という感じに思えたな」。ここで三島は「なるほどに。」と相槌を打つがこれは石原が本質的に持つ偽らざる作家感ではないだろうか。三島由紀夫が太宰治と邂逅しているのは有名だ。この対談では偶然にも三島が嫌悪する太宰治の名前が登場する。
この対談と大体同じ時分に三島は奥野健男の「太宰治論」の付録「出版だより」昭和三十一年二月にこう書いている。「奥野氏の引用の孫引きになるが、太宰治氏は、「あいつは厭な奴だと、たいへん好きな癖に、わざとさう言ひ変へてゐる場合が多いのでやり切れません」(風の便り)と書いてゐるさうである。これは、彼の人生に対する誤解の最たるものだつた。私はたつた一度、太宰氏に会つたことがある。学生時代、文学青年の友人に誘はれて、太宰氏が大ぜいの青年に囲まれて、何かひろい陰惨な部屋で酒を呑んでゐるところへ私は入つて行つた。私は太宰氏の正面に坐つてゐた。
そして開口一番、僕は太宰さんの小説がきらひなんです」と言つた。氏ははつきり顔色を変へて、「何ッ」と言つた。それからしばらくして、思ひ返したやうに、うつむいて、横を向いたまま、「なあに。あんなことを言つたつて、好きだから来るんだ。好きでなくて、こんなところへ来るもんか」と言つてゐた。亡き太宰氏よ。日本人といふものが、皆が皆、女のやうに、「あなたなんかきらひ」と云つて愛情を表現するとは決まつてゐないのである。」と学生時代に太宰治と邂逅した思い出を書いていた。文面のみ見ると三島と石原氏との太宰感は共通している事になる。
しかし石原氏は否定するだろうが、作品の中で太宰治を連想させる主人公を登場させている。それは昭和三十五年に書かれた「挑戦」である。舞台は昭和二十五年である。主人公の伊崎は戦争中、インドシナ近海で巡洋艦が轟沈し、仲間と漂流する。そして助かる見込みのない友人である沢田の体にナイフを衝きたて、殺めてしまう過去を背負っていた。その伊崎が女性と心中を図るシーンがあるが石原が持つ戦中派の漠然とした喪失感が描かれている。「やがて、女は眼を開いた。つづいているその瞬間を確かめでもするように。抱かれたままゆっくり頭を巡らし、かすかにのけぞるように顔を離すと女は彼を見つめる。応えるようにその視線を伊崎は受けとめた。余奮に顔の色がほてり、女の眼には部屋に来た時以上に輝くものがあった。「死にましょう。死んで」。つぶやくように、がはっきりと女は言った。「ああ」。伊崎は答えていた。女の言葉を彼は先刻と同じ気持で聞いた。が、その後のこの静穏な安息が彼にそれ以上意味のない比較を許さなかった。女の申し出に肯んじることと、そうせずに生きているということとの。諾と答えながら彼の心は一向に高ぶりはしなかった。頷いたことが彼自身には殆ど意味を持たないことしか感じられなかった。」(「挑戦」)
結局、女だけが死に、伊崎は生き残る。この伊崎が持つ絶望的な喪失感は石原自身がイメージした戦中派がもつ精神状態の描写に他ならないのではないだろうか。石原は最近も「生き残りの水兵」など戦争を実体験した者を想定した作品を書いているが、ある種の憧れを文字にしてみたのだろうか。そのイメージの一端に太宰治がいても不思議ではない。
「小説しか書けない人間にはなりたくない」。石原の頭にその当時から政界進出の夢があったのかもしれない。いや、漠然とだが、太宰治の名前が出てくることから、太宰の尊敬した芥川の様に本当の小説家が持つ心の魔境に引きずり込まれるのを回避したいと思った若さゆえの発言かもしれない。作家という職業の他に何が逃げ場を用意する必要があった。ひょっとしたらその選択肢に俳優、映画監督、そして政治家だったのではないか。
次の石原の言葉が、三島由紀夫の未来と石原自身の願望を象徴している。「ということは、要するに小説家というような自意識をもちすぎている人間のような気がしたんですが。それで僕は非常に三島さんに、ぜんぜん小説を書かないまえから魅力を感じていたのだけども、それは小説のほかに、なにかまだやりそうだなという感じです。妙な小説家の意識というようなものを感じない気がしたので」。
三島由紀夫と石原慎太郎の共通点はお互い小説、文学活動のみでは満足せず、映画に出演、そして歌を歌い、議員になるか、ならぬかは、別にして政治にコミットしていく、文学という枠では収まりきらぬ活動を繰り広げてきたことだろう。三島の写真集「薔薇刑」も己の肉体を文字という狭い枠から脱却して表現するためと言えるだろう。二人の人生は紆余曲折しながら何処か接点を持ちつつ交錯していく。
次のこの石原発言は石原自身をストレートに言い得ている。「どうも僕は、いわゆる小説家というのはきらいだな。というか、小説しか書けないような人間・・・・・・」。三島由紀夫は「それはだから、一種の全人意識だね。なんでもできなければ人間嘘だからな。その点、ゲーテは政治家であり、あらゆることができたし、色彩に関する研究もしたしね。しかし芸術もいっしょうけんめいやらなければとてもできることではない。えらい仕事だからね」と返答している。
二人の考えは共通していた。そしてゲーテという固有名詞がでるのも暗示的ではないか。無邪気に話してくる石原氏に対して丁寧に対応する三島だが、この時点でお互いの人生観をすでに熱くぶつけていた。若く迸る言葉の羅列。この最初の対談で二人の人生図は描かれ、それから約十五年。お互いを意識して生きる事になる。
三島は約十五年だが、石原は現在に至るまで歴史的存在となった三島の影を意識することになる。そして昭和三十一年三月十五日に発行された単行本「太陽の季節」の「あとがき」で「僕が自分で小説らしいものが書けたような気がするのは「奪われぬもの」の後半分と、「処刑の部屋」だけである。両方ともにやにや笑いながら書き、書き終つて何にでもなく唯、“ざまあみろ“と思つた。「処刑の部屋」について、お会いした時三島さんは、「あれはタイヘンな小説だねー」、と言つて笑われたが、僕はこれからもうんとタイヘンな、物凄くスピードのあるものを書いてやろうと思う」と最初の単行本で素直な三島への謝辞を述べている。
この対談で交わされた言葉は石原の未来を的確に予言しているように思えてならない。今なお、石原の精神に温存されている対話の一つではないだろうか。石原は家長として生きることを強く意識していた。父潔の死後、母、弟を援護しなければならない。無論、父の会社の人の経済的援助はあったが家族の精神的支柱になろうという意識はかなり強かっただろう。
石原は当時三島に、存在せぬ兄を感じていたに違いない。それに三島は昭和三十一年の十一月一日、ドナルド・キーン訳で「太陽の季節」英訳版について交渉中のことを我がことのように喜びあふれた軽やかな文章で川端康成に書き送っている。「(略)ドナルド・キーン訳で「太陽の季節」を出すべく、石原君と契約交渉中で、キーン氏はこの訳に大へん乗気だ、とありました。そして注釈がついてゐて、「石原は、米国青年層には無害である。それは既にみんななされてしまつたことであるから」とありました」と書き送っており、まるで自分のことのように喜んでいる。自分の弟分の海外進出と新しい日本文学が海外に紹介されることの興奮が文面から伝わってくる。ここにも兄としての温かい眼差しを感じてしまう。
石原は当時、どのように作品を書いていくのか暗中模索の状態であったろうと思う。「太陽の季節」も偶然の産物の如き作品である。しかし石原には確かな文才があった。表現力は絵画の分野でも表れているし、幼い頃に書かれた詩でもその才能は理解できる。若き日の石原は、「過日三島由紀夫氏から、君はいつのまにか二十代の代弁者のようなものにされて、大そう迷惑であろうと言われたが、確かに自分ではそんな意識は毛頭ない。ただ、それぞれ外形こそ違え、我々の世代に共感して生まれつつある新しいものの感じ方、考え方にたいして、僕も又その共感者の一人であるだけだ」(「青春にあるものとして」あとがき)と書いている。
本人は嫌っていたが大宅壮一の造語「太陽族」の生みの親であり、弟裕次郎も銀幕の帝王として離陸することになる。時代を背負う重圧はかなりあり、文壇の寵児三島由紀夫の名前をあえて出すことで己の文学性を誇示しようとしたのである。
三島由紀夫の石原文学論は新しい分野の作品の登場を驚きをもって、文学的というよりは友人的な賛辞に満ちているが、石原慎太郎の三島文学論は冷静だ。石原氏は『文芸』(昭和三十一年十一月)の「三島由紀夫氏の文体」(『孤独なる戴冠』所収)において「三島氏の文学的本質、或いはその文体については今まで実に多くの言が費やされて来た。未だ浅学な僕がまたまたこの場でそうした問題に真向うから取り組もうという気は起こらない」と前置きしながらかなり精緻な三島由紀夫論を展開している。文体は小説家の血であり、肉であり生命そのものだからである。
「三島氏は固い金属の銃身の冷たく光った二連銃を下げて射的場にやって来る。僕らはそれを見て言う。「見かけねえ銃だ」。片方の銃口は反自然主義的な古典的明晰さに通じる造形の美意識、言いかえれば想像力ということ、そしてもう片方は非情な、評論家の分析。氏は射的場の女の頬をつついて巫山戯たり、愛嬌を振りまいたりしない。或いはするかも知れないが馬鹿にしているのだ。女はあとで言うだろう。「お高い人」と。僕らは見とれる。氏は射った。「当った」と叫ぶのは僕らだった」と明快な三島論を書いている。
古典的な風合いを持ちながら、分析を重ね構築された三島由紀夫の作品群を表現してみせたのである。若い石原慎太郎が文壇の評価が定まった三島文学を自分の言葉で書き記そうとする努力の跡が刻まれている。石原は睡眠時間を多く取ることで有名だ。「過日、氏(三島)と対談して意見が一致(新人の季節のことだろう)したことは、氏もまた文学作品については作者の肉体のもつ大きな意味を認めるということだった。これは気づかれぬ、がまた、気づかれなくてはならぬ真理である」と書き、不眠症の人物が書いた作品は張りがないと率直に語った。「創作活動は行動に等しい」と後年の三島の活動に通じる言葉を述べている。そして三島の作品が健康な肉体に支えられている事を書き、後年石原の意見が豹変するボディビルについて言及する。「氏のボディビルについて世評はいろいろ勝手なことを言うが、あれは氏の当然な一つの文学的要求でもあって、いわば氏の美意識を自らの肉体へ還元せんとする一種の文学的造形の試みなのだ」と書き、「氏の文体の持つ魅力は別の言葉で言いかえれば、各筋肉が見事に整ったボディビル的な魅力かも知れない。「沈める滝」の城所昇が女に持った即物的な好奇心の如く冷たい女に彼が感じる魅力、そうしたものの底にある美や愛を石の中に塗り込めて造形する一種残酷冷徹な嗜好こそ、氏が文学に対して持つものであり、それゆえにまた僕らが「潮騒」や「沈める滝」を読んで満足とともに裏切られたものなのだ」と直接的で若気の至りといえなくもないが、かなり、まとまった三島由紀夫論を書いている。
二十代の若者が先輩に対して果敢に挑んだ石原慎太郎、初期評論の傑作である。それに評論以外にも女性誌に二人はしばしば対談した。なんと言っても文壇の二大イケメン・トリオである。片や流行作家、片や流行作家兼裕次郎の兄という取り合わせは大いに受けた。
昭和三十三年四月に二人は『若い女性』で「作家の女性観と結婚観」というお題で対談している。それに石原は昭和三十一年八月に書いた「この一年」という自身の結婚と作家生活がスタートしたメモリアル的な一篇を書いているが、ここでも三島由紀夫の名前が出る。「初対面の三島由紀夫氏に、開口一番「馬鹿だなあ君は、なんで結婚なんかしたんだい」と言われたのは今でも忘れない。
氏がその言葉に籠めた諧謔は良くわかったが、馬鹿であったかどうかは別として、創作と結婚の二つの生活のペースということを良く考えた」(『価値紊乱者の光栄』所収)。石原氏は幼なじみの石田典子と昭和三十年、「太陽の季節」が「文学界」新人賞受賞後の十二月に結婚している。石原は三島由紀夫は昭和三十三年六月に川端康成の媒酌の下、画家、杉山寧氏の娘瑤子と結婚した。結婚に関しては石原氏が先輩ということになる。三島はお見合いで結婚している。ちなみにこの対談では、石原は後年「三島由紀夫が死んで日本がつまらなくなった。」と発言しているがそれを連想させる発言をしている。
この時代の若者の生態を話していた時の何気ない一言である。青年が女性を二十人、ナイト・クラブに誘ったら全員断られたことを面白おかしく話していた。「石原 それはまさか三島さんじゃないでしょう。(笑)三島 僕じゃないよ。僕だってやっぱり断られるだろうけどね。小説に書いてあるように引っかけるのも、難しいらしいですね。・・・・あなた、僕の留守中の話で、何かありませんか。石原 三島さんの留守中は、日本中シンとしていました。(笑)」。三島由紀夫は昭和三十二年にドナルド・キーンの翻訳で「近代能楽集」が出版されるのを契機にクノップ社の招待で七月に渡米していた。「三島さんの留守中」とはそのことを指す。
この対談は文学的な対談ではなく、ざっくばらんに砕けた話に終始している。主題が結婚について。三島は石原に率直に結婚について聞いている。「三島 あなたは結婚したときに、奥さんとなんて言いかわしたの? たとえばこういう場合に、やきもちを妬いてはいけないとか、自分の作品を読んでは困るとか・・・・。石原 僕の女房でも、僕のものを読みますよ。だけどね、読みにくいから途中でやめちゃってる。「筋はあと、どうなんですか」くらい聞くんです。これは非常にいいんだな。三島 それは可愛いやね。ほんとうに可愛い奥さんだナ。僕、見ないうちに惚れちゃった。よろめかしちゃおうかな・・・・。(笑)」という具合で極めて和やかに話している。二人の蜜月である。
前記した「美徳のよろめき」だが、昭和三十二年六月に発表されており、流行語になった「よろめき」を最後に軽く使っているところがにくいところである。女性誌の「うける」ネタの対談は当時の二人がいかに世の女性に人気があったかを如実に物語っている。文学者の括りではなく、ほとんど芸能人に近い感覚で(特に石原だが)見られていた。三島由紀夫は石原の動向を常に意識していた。それは裕次郎とともに時代を築いたオピニオンリーダーとして注目したのではないだろうか。
三島由紀夫の長編「鏡子の家」は「亀裂」の影響を受けたといわれている。「亀裂」は主人公が新進気鋭の学生作家で、拳闘シーンや、山に登り、自殺同然に死ぬ男、セックスなどが縦横無尽に描かれた作品であり、一部の評論家からは批判を受けたが江藤淳は、「三島由紀夫氏の「現代小説は古典たり得るか」を唯一の例外とすれば、この小説は失敗作として葬り去られかけ、このとき石原氏は、いわば最初の作家的危機に際会したわけであるが、注目すべきことは、すでにこの作品に、氏とその「肉体」、あるいは作家とその「現実」との亀裂が、明瞭にあらわれていることであろう。」(「肉体」という思想)・『石原慎太郎論』所収)と擁護した。
三島は「現代小説は古典たり得るか」では堀辰雄の「菜穂子」と連動させて当時の石原の最新小説「亀裂」論じるという面白い試みをしている。これで一冊の本にするのだから石原に対して破格の評論を上梓したのである。三島はこれを外遊前に書き上げた。「「亀裂」の作者の誠実さは、いかなる政治的解釈にも曇らされていない生の現実を信じているところにある。ある事件を報道する新聞記者が、自分の報道している事件の真実を知らず、又それを信じることができないという事例は、現代のもっとも普遍的な悲劇であるが、石原氏はそういう懐疑に与しなかった。どこにあるのかは知れず、彼自身もしかとつかめず、性向やスポーツの或る瞬間にだけつかめたように思われるもの、・・・・・・氏はおそらくそういうものを現実と名附け、その存在を信じることで、新聞記者ではなくて作家の道を選んだのであろう。そして氏の作家としての方法論は、何とかこの生の現実を結晶させ、造型することであり、そのために、このとらえがたいものを何とかして解釈し、抽象的表現まで高めようと試みることであろう。」(「現代小説は古典たり得るか」) そして石原は語る。「自惚れじゃなくて「鏡子の家」は、僕の「亀裂」を意識して、書いたんだと思う」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」。
三島は石原から当時の若者文化の香りを取り入れ、作品の糧としていたのは事実ではないかと思う。福田和也との対談でも石原は語っている。「福田 文学の魂の比喩なんでしょうけども。「鏡子の家」は、自分にとって「仮面の告白」のように本当に大切な作品だったんだけども、誰も評価してくれなかったのだ、と。石原 そうですかね。あの作品は非常にアーティフィシャルな作品だよ。あの小説で三島さんが初めて拾った題材なんか、僕がいろいろ出したものなんだよ。ボクシング、ナイトクラブ、サロンみたいなところへも、僕が最初に三島さんを連れていったんだ。あの頃文士風情には一種のエリート意識があって、拳闘のようなものを忌み嫌い、拳闘場なんか行っちゃいけなかった。あの頃の文士たちには何か変な躊躇があったけど、僕にはそんなのまったくなかったからね。だから三島さんのあの小説には僕が初めて連れて行った舞台がずいぶん出てくると思うね」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」。
三島は後年「鏡子の家」を回想して「小説上の試みも、いろいろやつてみた。細部にこり、コントの味はひを出さうとしたことや、スタティックなスタイルで動的な描写を目ざしたことなど。特にボクシングの描写は、その成功例として自身がある」(「毎日新聞 昭和四十二年一月三日・「鏡子の家」―わたしの好きなわたしの小説」・旧版『三島由紀夫全集』三十二巻所収)。「鏡子の家」は千枚にも及ぶ長編だが、文壇では総スカンを食らった。「亀裂」と同じ運命をたどったのだ。開閉式の勝鬨橋や、舞台上で展開される演劇のようなセリフ回し。サロンのような雅やかな描写は戯曲家三島の面目躍如と言える。
石原は「その「時代」とは何だろう。でもあの頃ようやく奢侈が許され、消費が許されてきた時代を、ああいう風俗にシンボライズして書いたんだろうとは思う」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」)と述べているが、三島が最先端の情報を持っていた石原の行動を参考に作品に反映していたことは想像に難くない。
お互い補完しあっていた関係と言えるかもしれない。「幾度か話し合って、明はこのプロデューサーの三谷に好感が持てた。当初、文学の映画化に期待と執着をもっていた明を頭から笑ったのはこの男だ。「私はね、いつでも原作の『小説』を買うんじゃない、その中の、多くて一章、大抵はその内の数行を買うだけだ」。彼は言っていた。「映画の文学を信用するような奴はスノッブですよ。いや、それ以下だな。殆どの監督を見て御覧なさい。彼等には彼らのシステムがないんだ。彼らにあるのは代々、昔の靴屋の丁稚のように盗んだりわけてもらったりして貯め込んだ技術だけだ。(略)」(「亀裂」)。この文は石原が当時感じていた「生」の意見なのかもしれない。その「生」の時代を三島は克明に日記体小説として残している。「鏡子の家」執筆時の日記が「裸体と衣装」という題名で発表されている。そこで多く語られるは石原慎太郎の活動である。
石原慎太郎は本気で俳優、監督業に専念しようとしたと思われる時期があった。「太陽の季節」が映画化され、「狂った果実」では弟裕次郎が主演で、大ヒットを飛ばす。そして慎太郎は東宝株式会社に入社するが一日で退社。監督を目指すが彼自身には助監督等のステップを踏む気はさらさらなかった。昭和三十一年に「日蝕の夏」で映画主演を果たし、本格的に映画界に乗り出した石原。
そして昭和三十三年には初めてメガホンを取り、第一作監督作品を作り上げる。「若い獣」。石原の短編作を映画化である。「二回目三回目、相手は良く打った。新吾は顔を伏せガードを固めたままブロックしながら相手の疲れた合間に打ち返す程度だった。四回目顔を伏せたままクリンチに入った時、同じ様に頭を下げた相手が少しばかり背が高かった所為で新吾は計らないバッチングで相手の左の眦を切ったのだ。血が非道く流れ五回に相手は視点をすっかり狂わせた。岡崎に怒鳴られ新吾はその傷をねらって右ばかり打った。そうしながら傷をカヴァーするガードの下からもたれるようにしてボディも打った。六回前半のボディのヒットは、全く真正面から相手の胃袋をどやしつけたのだ」(「若い獣」・『石原慎太郎短編全集』所収)。原作、脚本は石原氏、主演は久保明、団令子、そして大物女優、新珠三千代という錚々たる面々で配給元である東宝の意気込みが伝わってくる。 |
短期集中連載 秋山大輔「三島由紀夫と石原慎太郎(完結編)」
三島由紀夫は「裸体と衣装」で感想を書いている。「七月十六日(水)石原慎太郎監督の「若い獣」という映画を見る。この映画が商業的に及第であるということが、氏の努力に対してどういう意味があるのか、私にはわからない。私にはそれがいかにも惜しい、無益な才能の濫費のように思われる」。石原氏は「若い獣」の映画化において彼なりの意見を昭和三十三年に「監督日記」(『婦人公論』)という作品に残している。「ラッシュで感じたことの第二。それは、文学における視覚性と映画におけるそれとは決定的に異るということだ。
私はよく映画的表現の作家と言われる。私の作品には視覚性が強いということだ。私の作品にあるものはシナリオ的とまで言われた。私自身も自分を視覚性の強い作家と思う。であるから、他と比べて映画には適切と考えた」。確かに「太陽の季節」にしても、描写が視覚的でシーンごとの割り振りが上手く、映画向きの小説である。
石原は伊藤整との対談でも「僕の今度の「ヨットと少年」は性というものに目覚めた少年の小説ですが(略)僕は人にいわれてだんだん自分のことがわかってくるのですが、人にシナリオ的な手法だといわれると、そうかなと思つたり、シナリオ的だというよりは、映画的なんだなと感じたりしてるんですが、自分ですぐにスクリーンイメージの時のように、すぐにシーンを考えちゃうんです」(「先輩後輩対談」)。
自作を映画化できるのは自分しかいないという思いが石原にメガフォンを握らせたのである。この「若い獣」は石原自身もレフリー役として出演している作品である。小説家としてデビューして2年弱で自分には他にどの様な可能性があるのか。先輩三島由紀夫の作品や弟裕次郎の活躍を見ながら模索していた時期である。石原氏も監督になる気持ちをこう書いている。「新しいはなはだ予測困難な未知の仕事、というよりは、一種の事件に遭遇した瞬間、誰しもが感じる緊張と同時に、殆ど投げやりなくらいのどうにでもなりやがれといった気持が私の胸というよりは、体中にあった」(「監督日記」)。結果としては興行的にヒットし、石原自身は期待していたことの半分も出来ていないと書いているが、次回作への熱意もある。
しかし三島由紀夫はあえて苦言を書いている。「石原氏は、拳闘のシーンを大いに撮りまくって、それで以て、彼の考える「拳闘的なるもの」、「最も拳闘らしく見えるもの」にまで高めようとしたらしい。それはその限りで成功している。しかしぶざまな人工の血は、主演俳優の顔を、悲劇の主人公には見せず、グロテスクな道化師に見せ、そのおびただしい血糊は、何らの詩情も生まなかった。(中略)石原氏よ。映画なんか作るより詩を書いたほうが、君の本当に表現したいことを表現できると私は信じるのだが・・・・・」(「裸体と衣装」)と後輩に手厳しい意見を述べている。
しかし石原も負けてはいない。「小説家が自作を自ら脚色してみると、文学と映画の表現技術の相違をいやというほど感じさせられるものだ。そのような決定的な相違を、監督は作家以上に知っているだろうか。小説家で映画を観る人は多いが、彼等は他の文学を読むのとほとんど同じ態度でスクリーンにのぞむだろう。しかし、映画監督の中で、いわば自分自身のしっかりした鑑賞方法をもって映画化し、そのほかにも多くの文学作品を鑑賞する人が何人いるだろうか。文学作品を映画化しながらも、映画が常に文学に追従する原因は、案外そんなところにあるはずだ。「金閣寺」の映画化にあたって、三島氏はその製作ノートを担当の監督に渡したと聞く。それが映画に対してどれほど残酷な、タカをくくった挑戦であることか」(「映画博物誌」・『価値紊乱者の光栄』所収)。この言葉で交わされたパンチの応酬は凄まじい。しかし現在の評価では「金閣寺」の映画化、市川崑監督、市川雷蔵主演の「炎上」の評価が高いのは言うまでもないだろう。
石原の発言と少し共通する三島の発言が「裸体と衣装」に残されている。昭和三十三年八月十二日である。「午後、十二時から、妻と、大映本社へ「炎上」の試写を見にゆく。「金閣寺」の映画化である。シナリオの劇的構成にはやや難があるが、この映画は傑作というに躊躇しない。黒白の画面の美しさはすばらしく、全体に重厚沈痛の趣きがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックな美しさを持っている。」と自作を手放しで褒めるのではなく、冷静な鑑定眼をもって評価している。しかし両者に共通して流れている根幹は、映画に自分の意図を完全に表現させることの限界をお互いの体験を持って理解していたことだろう。
石原が三島由紀夫を作家の先輩としてかなり意識していたことを表す文章がある。ちょっとしたことだが江藤淳が石原を「無意識過剰な男」と言った理由がわかるような気がする。「例のサインというやつも苦手である。三島由紀夫氏などはにやにや充分楽しみながら丁寧に書いて渡されるが、僕の場合は根がせっかちな上に、三島先生でなくて「シンチャャン」「シンタロウさん」と来ると、一体俺は作家にみられているのか、いや、こいつらには只のかけ出しの俳優でしかないんだ、と妙な自意識ばかり働いてたちまち気鬱になり、「僕にそんなギムはない」「アラ、お高いわねえ」「ナニオ!」でますます不機嫌となり、救われない」(「この一年」・『価値紊乱者の光栄』所収)と書いている。
そしてサイン絡みで三島に強いコンポレックスを感じさせる発言を三島との対談で投げかけている。「僕は今でもおぼえていますけどね、昔新潮社が署名の会を大丸でやったんですよ。僕は一冊しか本が出ていなかったんですけど、三島さんは何冊もあった。僕が何曜日かに当たったら、三島さん非常に気にして見にきて、おい何冊売れた、おれの方が売れてるぞって、ずいぶん気にしていたけどな。(笑)」(「七年後の対話」・『孤独なる戴冠』所収)。
本当に兄に甘える弟ぶりを発揮している。あの石原氏がここまで自分の本音をぶつけるのは現在ではあまり見られない。政治家で公人だからということではなく、自然に自分の言葉を受け止めてくれる三島への安心感が言わせているのだろう。そして石原は三島の作品に手厳しい評論、意見で果敢に挑んでいる。「美徳のよろめき論」でもそうだが、石原は三島文学を熟読し、常に意識していた。三島の名作と呼ばれている「金閣寺」はあまりお気に召さないらしく、後年もこの意見に変化は無い。「美、美意識、美的世界の体系秩序。現実に於いてそれは我々にとり、いかように見事で、精巧ではあっても、腹立たしい余計なものだ。「我々はそれが無しにも生きられるし、生きなくてはならぬ」と。
例えば、三島由紀夫氏の「金閣寺」、あのいまいましい精巧さ。あのような完成が文学をますます人間から遠ざける。巻頭から巻末まで読者を寄せつけぬ。対立も摩擦も許さぬ倣慢な矜持。最初は感嘆し、読み直す程に僕は腹が立った。それは文学の見事な逃避といえないか。ああした体系秩序は打ち倒し乗り越えなくてはならない」(「文学への素朴な疑問」昭和三十二年五月『新潮』・『孤独なる戴冠』所収)
三島は後世に残る石原論を書いた。しかし、石原は文学、その他で甘えられる存在として三島に時に反抗し、議論した。石原慎太郎にとり、先輩三島由紀夫は「打ち倒し乗り越えなくてはならない」存在であった。
しかし石原は三島に甘えた。それは歴然とした事実として残っている。三島由紀夫との蜜月を感じさせる作品集がある。昭和三十五年に新潮社から刊行された「殺人教室」である。ここでは三島が帯で作品の紹介文を書いているだけでなく、なんと題名の「殺人教室」ではなんと三島由紀夫のパロディーまで登場するのはあまり知られていない。作品は日常に退屈した4人の大学生が、著名人の殺害を考える。「メフィスト」という無音の銃を考案して殺害に及ぶのだがそのくだりであった。「作家五島由紀夫氏は新築の庭園で氏の美容法であるボディビルの練習中、バーベルをさし上げたまま絶命。
一日後、差出人不明の書画が到来し、懇切にも傍点を付した氏の「小説家の休暇」中最も望ましい死について記述された第三十頁の切り抜きが同封されてあった。ちなみにその頁の一行には、そうした死こそ、「幸福な精神の怠惰の全的是認としての死なのである」と記されている」。
そして石原自身も作家として登場する余裕まで見せている。「同じく作家石原慎太郎氏は氏の日課とするヨットによる散策の途中絶命。舵をひいてコックスに坐ったまま氏のヨットはそのままきりなく帆走をつづけ、伊豆大島西南方、三十浬の海上で保安庁の巡視艇によって発見された」。ここまで心許せる間柄というのは普通ではない。三島としても石原のことをかわいい弟のように見守っていたのだろう。だからある程度のことはご愛嬌として認めていたのではないだろうか。その「甘え」は三島の死後も続くのだが。
未公開の三島書簡。ある三島書簡が存在している。「存在している」という事実が一人歩きして実物を目にする機会はない。新潮社から出版されている三島由紀夫全集にも収録されていない幻の書簡である。石原と三島は頻繁に顔を合わせていたことから、推測だがそれほど書簡の数は多くないと思われる。
しかしこの書簡は石原慎太郎が作家から政治家という顔を持つきっかけとなった書簡でかなり重要である。石原が小説で残した文面を紐解いて書簡の内容と影響を考えてみよう。石原慎太郎が政界入りを意識したのは昭和四十一年、ベトナム戦争取材から帰国し、そこで感染した急性肝炎で入院したときだといわれている。この書簡について最初に触れた文章は石原がベトナムから帰国後にベトナムルポ等を集約した『祖国のための白書』である。「妙なもので、三島由紀夫氏から見舞いの手紙を頂き、氏もかつて同じウイルスに冒され、怖しい経験をしたと知らされると、氏が同業であるということでか、他の種の同病者を見つけたよりもほっとしたりする」(「祖国のための白書」)
この時点では石原の政治参加の理由が三島書簡であるとは述べていない。石原が政治参加のきっかけとしての三島書簡について述べるのは三島由紀夫の自決後である。「発病して間もなく三島由紀夫氏から懇篤な手紙をもらった。自分も以前に『潮騒』の取材で無理しすぎて同じ病気にかかったが、実に嫌な病気だった。君の今の心中は察するに余りあるが、しかし一旦病を得たなら敢えてこれを折角の好機ととらえて達観し、ゆっくり天下を考えたらいい、とあった。あの心暖まる一通の手紙が私の心を平明に開いていってくれたのを今でも覚えている。そうだ、これこそ無二の機会と悟って、今まで考えなかったことを考えてみようと自分にいい聞かせるように思った」と書いており、極めつきはこの言葉である。「私が政治を自分の表現の一つとして選んだ後、後にも記すが私と三島氏との間にいろいろなことが派生していったものだが、私を政治に向かって導いていったもの、というよりその水口を開いてくれたのはあの手紙だったともいえる」(「国家なる幻影」)と。
石原自身政治参加と三島由紀夫とを結びつける書簡であると完全に明言している。しかしここで「後にも記す」と書いているのは石原が高坂正尭氏と対談した時に自民党批判した時に三島がそれに対して意見を述べた「石原慎太郎氏への公開状」のことである。三島がどんな気持ちで書簡をしたためたのか知る由もないがこの書簡が後の知事石原慎太郎の原動力になったのは間違いなさそうである。
冥界の三島へ
「三島さんの感性もだんだん変質し、社会的事件におんぶして物を書くようになり、晩年に評価された小説が『宴のあと』や『絹と明察』になっちゃうんだね・・・・・・。自らを観念で構築していった先がボディビルになってしまう。破綻のない肉体は動けないし、塑像みたいにただ立っているぶんには壊れずに済む。観念だけでは把握しえぬもの、例えば輪廻転生を機軸に据えた最後の『豊饒の海』なんて、見るも無残なほど薄っぺらいし、自己模倣に終始しています。僕はあれをとても読めなくて、一週間ほど怪我して謹慎していたときに読んだんですよ。僕は三島さんが好きでしたから、かわいそうで涙が出ました。ここで三島論をやる気はさらさらないけれど、でも頭のいい人で、面白かったよ。三島由紀夫がいない日本は本当につまらなくなったし、僕がいなくなったら、もっと日本はつまらなくなると自惚れていますけど(笑)」(「月刊プレイボーイ」平成十一年八月号」)
佐野眞一の「てっぺん野郎」で、この様な記述があった。城山三郎が朝日ジャーナルに依頼されて「絹と明察」の書評を書いた時のことである。社会小説としても底が浅く、三島作品としても出来が悪い、と書いたところ、石原から電話があり、三島さんがけしからんと怒っているというメッセージを伝えてきた、という場面である。
ただそれだけのエピソードだがそれから三十年後に石原は三島作品にインタビューで率直な意見を言えるようになった。存命時にも意見していたが、現在は相手が故人なだけに三島由紀夫には反論できる機会はない。それに「俺が三島とこういう話をした。」という発言は裏づけがある石原だからこそ重みがある。言わば、作家で三島由紀夫と親交があったと言うだけで一つのステータスになるのだ。
戯曲「サド侯爵夫人」は、海外でも公演され人気の高い戯曲であるし、海外の大学でも日本文学と言えば「ミシマ」が圧倒的な人気だ。しかも盟友ドナルド・キーンはコロンビア大学の名誉教授でキーン宛の書簡はコロンビア大学に保管されている。ミシマの存在は日本を越え、海外までに広がり、世界の財産といえる所までに上り詰めている。
その三島と石原は時には心を開いて、何度も対談している。石原は生の三島由紀夫を知っている・・・・。現在、若い現役作家も、私たちも三島由紀夫の話を聞きたがる。石原慎太郎は三島文学、三島由紀夫の存在自体の語り部としての役割を担わされた様な気がしてならない。石原慎太郎は三島の死後、積極的に著書や、講演で三島とのエピソードを話している。石原は主に三島の政治観や人となりを語ることが多い。三島との最後の対談は作家としてではなく政治家として意見をぶつけていた。昭和四十四年「月刊ペン」における「守るべきものの価値」である。「氏との最後の対談の核は、いわば自分自身の作家としてあるいは社会的な存在としてのレゾンデートルについてであった。文章としては残っていないが対談の冒頭、何を守るためになら自分は死ねるかという要約を氏の方からしてき、入れ札のように二人がそれを紙に書いて示した。私は自由と書き、氏は三種の神器と記した。それがともに文化ということを表象している限り同じ答えといえようが、それから派生して、互いにとってのもっと本質的なものに触れる話となっていった」(「三島由紀夫の日蝕」新潮社)。
「自由」と「三種の神器」では意見が一致するはずもなく、この対談は平行線を描いていて、絡み合う場面はほとんどない。しかし、紙に「守るべきもの」を書き、二人で示す場面は石原文学の中で何度も使われているが、このシーンが初めて真剣にぶつかり合った、石原には印象深い瞬間なのかもしれない。
「石原 三種の神器ってなんですか。
三島 宮中三殿だよ。
石原 またそんなことを言う。
三島 またそんなを言うなんていうんじゃないんだよ。なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムがどんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
石原 そんなもの取られたっていいんです。三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちゃうもの。
三島 ああ、消去されちゃう。おれもいなくていいの。おれなんて大した存在じゃない。
石原 そうですか。それは困ったことだなあ。(笑)ヤケにならなくていいですよ。困ったな。
三島 ヤケじゃないんだ。
石原 三種の神器というのは、ぼくは三島さん自身のことかと思った。
三島 いや、そうじゃない。
石原 やはりぼくは世界のなかに守るものはぼくしかないね。
三島 それは君の自我主義でね、いつか目がさめるでしょうよ。
石原 いや、そんなことはない」
話は平行線を進み、ほとんど文学的な話題がないまま終わる。二人は政治的な考えでは交差することは無かった。お互い仕方が無いことだと理解していたかもしれないが。
石原は三島から誘われた、国立劇場の屋上で挙行された「楯の会」一周年記念の式典を欠席して、三島からなじられる。川端康成も欠席し、三島はかつての知人たちが自身の活動から距離を置き始めていることを肌で感じていた。「「楯の会というのは軍隊ですか」。私が聞き直したら、「民兵だ」と氏はいった。「だとしても、劇場の屋根の上でパレードするというのはやっぱり玩具の兵隊だな」いったら憤然として、「君にはあすこで式をするいわれがわからないのか」。「なんですかそれは」。「あそこからは皇居がみえるからだよ」。氏は胸をそらせていったものだった」(『三島由紀夫の日蝕』新潮社)
昭和四十五年六月での寺山修司との対談で三島は本音を漏らす。「三島 エロスは別にして、ぼくは吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」という言葉が好きなんだ。ぼくはいつも石原慎太郎なんか、精神がわかるわけがないと思ってるんだけど、やつは功業しようと思って政治家になったんだろ。ぼくは忠義をするつもりだから政治家にはならないよ。」(「尚武のこころ・三島由紀夫対談集 日本教文社」)。三島と石原は思想面では合流することもなく、楯の会ともコミットすることは無かった。しかし、十一月に行われた古林との対談では、作家としての石原を最後まで気にかけていたのである。
三島由紀夫との別れは唐突であった。昭和四十五年十一月二十五日。「あの日私は所用でホテルニューオータニの一室にいて秘書からの電話で事件について知らされた。つけて見たテレビで、眺めている間に作家三島由紀夫氏という呼び方が、犯人三島由紀夫に変わっていき、私は車を呼んで市谷の現場に駆けつけた」(「わが人生時の人々」)。
ここから切迫した現場の様子が描かれていく。通常私たちが映像として見れるのは、テレビで放映される自衛隊での三島の演説と自衛隊員がやじる場面である。石原が語るのはその後のストーリーである。(その場所は現在市ヶ谷記念館として保存されている。極東軍事裁判が行われた場所としても有名だ。ちなみに石原は中学生の時に極東軍事裁判を傍聴している)
ここで石原が書くのは現場にいた人間でなければ書けないルポルタージュだ。「何がなんだかわからぬまま、ただあの三島氏が自決して果てたということだけで飛んでいった私を正面玄関で迎えた係員が、こちらの身分が国会議員だったせいかごく簡単に、状況を見たいなら中に案内しましょうかといってくれた。三島氏の死体はまだ検視の済まぬままそのままにされているとも。」(「国家なる幻影」)
石原は自分が議員であるから立ち去ろうとするがその係員から「たった今、川端康成氏がやってきて現場を眺めて帰っていった」と教えてもらう。川端の自殺の一因として現場を見たこともあるのではと語っている。ここで石原は川端とニアミスする。これは石原の人生では非常な意味のある出来事だったのだろう。自分を文学の世界に導いてくれた二人との最後の交わりだからだ。川端の自殺の訳は今もって不明だか、この凄惨で、混乱した現場を見た当事者としては川端の自殺の遠因として考えてしまうことは否めないことだった。この出来事は作家石原慎太郎の分岐点ではないだろうか。
ここで石原はある同じ出来事を「国家なる幻影」と「わが人生の時の人々」で書いている。「門に向かって戻る私に先刻の自衛隊員が所有の拙著を持参して署名を求め、私は立ったまま本の扉に名前を記してやった。」(「国家なる幻影」)。「署名」いわゆるサインだが、ここで最初に書いた言葉を思い出す。「私はサインが嫌いだ」、「三島氏はニヤニヤしながらサインをする」。
もし石原が議員ではなく作家だったら精神的な余裕がなく、署名どころではなかったかもしれない。しかし彼は署名をした。昭和四十三年に石原は参議院議員になり、政治とは離れられぬ関係になる。文学だけではなくもうひとつの道を明確に、己の中で見出せたことが、盟友三島の死を冷静に受け止めさせたのかもしれない。
この後、石原は記者の質問にこう答える。「これは、現代の狂気です。そうとしか私にはいいようがありません」。それから二年後。石原は野坂との対談で冷静にその時を振り返る。「そのとき、いきなりマイクを突きつけられたんで、よくわからないけど、そういう前後関係だとすれば現代の狂気だっていったんですよ。しかし、帰ってよく聞いたらどうも事情が違うみたいなので、計画的なものだったら遺書もあるだろうから、それを見た上で判断しますから、詳しいいきさつが発表されてからにしてください。さっき現場で聞かれて、現代の狂気だといったけれども、どうもそれではすみそうにないから、前言はいちおう取り消しますっていったんです。そうしたら三島信者みたいな連中があとで、あいつはこわがってとり消した、卑怯だとかなんとか・・・・・・。そうじゃないんですよ。 とっても妙な気分だったのは、日本全体があの晩、興奮してたでしょう。ぼくが家に帰ったら、ぼくの家は山の上にあるんだけども、酔っぱらいがそこまできていて、何かわめいたりね。興奮の喧燥が渦巻いているような気配があったなあ。しかし、あの事件の迫力は、それくらいで消えちゃったね」(「闘論」石原慎太郎=野坂昭如、昭和五十年、文藝春秋)。
しかし本当に「それくらいで消えちゃった」のだろうか。石原は三島の死後かなり積極的に三島由紀夫の論者となり、政治思想、文学について発言するようになった。その口火を切ったのがこの野坂昭如との対談であったように思う。なんの重しもなくなり思いのたけを叫ぶようになった。にわかに信じがたかったのが「ぼくは、新聞に載ったあの写真で三島さんの首を見て、とうとう今まで無理にくっついていたものが離れちゃったという感じがしたな」と、恩人に対しての発言とは思えない。石原なりの甘え、レトリック、キャラクターと言えなくもないが、この発言は三島関連の発言として引用されるようになる。
そして三島文学について石原は縦横無尽に論じるようになる。この対談では野坂が「もう三回忌(三島由紀夫)を迎えるというのに、いまだに『豊饒の海』が作品として論じられていない」と言うと石原は「そういえば、ある仏教の専門家が『豊饒の海』を読んで、三島さんは仏法というものを観念でしかわかってないね、といっていたけれども、ぼくもそう思いますね」と辛辣な意見を述べている。そして「わが人生時の人々」では「あの絶筆「豊饒の海」を読み終えて、「ああ、あの三島さんにしてこんなに衰弱して死んでしまったのか」という慨嘆の内に、読み終えた本を手にしながら私は思わず涙していた。」と書き、「豊饒の海」は三島由紀夫の自己模倣であり、「私が思わず流した涙はあの大作の無残なほどの退屈さのせいだった。あの作品を読む限りで、あの三島さんが作家としての内面で驚くほど衰弱してしまっていることに苦労して読み終えた時、私は思わず涙してしまったのだ」。
以前にも書いたが、石原は三島を映画「純白の夜」を見てから「禁色」の連載を楽しみにするようになった。同性愛の美少年と老作家との一種倒錯した物語だが、画家の金子国義も楽しみにしていたほど、話題作だった。それを三島は「ああ、あれはただの外連、外連。あんなものはもう卒業したの」と答え、石原は「でも外連の方が、この頃の観念だけの小説よりも面白いな」とやり取りする様子が、「三島由紀夫の日蝕」で書かれている。そして石原は「豊饒の海」第四章、「天人五衰」の物語の語り部である、本多と青年、安永透の関係を上げて、「禁色」の焼き直しでしかないと語る。
しかし、石原はこうも語る。最初の青年小説家としての三島をいかに敬愛していたのかがわかる。「あるとき、高見順が三島由紀夫の『魔群の通過』という中篇小説をものすごく褒めたことがあって、三島さんに、「うまいね、この小説。お前さんいくつなんだい」「三十です」「その年でこの小説を書くんじゃ、神も仏もないよ」・・・・・。三島さんはじつに愉快そうにカラカラと笑っていたけれども、そのころの三島由紀夫はほんとにすごかったなあ」(「闘論」石原慎太郎=野坂昭如昭和五十年文芸春秋社)。
「私自身も、「金閣寺」のように手のこんだ作品よりもむしろ氏のいくつかの短編に魅きこまれたものだ。体が虚弱に過ぎたせいで戦争にいきそびれた三島さんが、日本が戦に破れ滅びていく予感に満ちていたあの時代に、青春にある者として眺めていた当時の世の中を背景にものした「山羊の首」とか「春子」などといった短編は、崩壊していく国家を背景にしてこその真の頽廃の美学を描いて、ぞっとするほど妖しい作品だ」(「わが人生時の人々)。
石原は晩年の三島作品を非難した。それは非難と言うよりか、初期の三島由紀夫を愛する者として、長生きして作品を書き、意見を言ってもらいたかったという悔しい思いが常に心にあったのだろう。
しかし、何作か後期の三島作品を評価している。まずは「宴のあと」だ。元外務大臣、有田八郎と、料亭の女将の恋慕を題材にして日本で最初のプライバシー裁判となった作品である。
昭和三十四年の東京都知事選で自民党が推薦する東龍太郎に有田は敗れるが、その顛末に題材を取ったとされ、昭和四十年有田の死で和解が成立するまで裁判は続いた。東京都知事の石原としては因縁めいた作品である。「全体にしっとりしていて、存在感があって、珍しくアーティフィシャルな感じがしないんだな。三島さんの小説には、滅多に引き込まれないんだが。うまいな、おもしろいなと思って読んだ。絢爛としたアフォリズムも関係が無くてね」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」。そして三島晩年、最後の短編。昭和四十四年に発表された「蘭陵王」にまで評論は及ぶ。私はこの作品に対してきちんと発言する石原の言葉を初めて読んだ。
石原は、かつて三島の内面を覗いたことがある人間として「蘭陵王」を分析するのである。「最後の短編小説になった「蘭陵王」(一九六九年)は実にいい短編ですよ。三島さんは、自衛隊に行って、肉体の鍛錬、トレーニングをしている。そういうアイデンティティの共有が、あの頃の「楯の会」などの仲間との間にあるわけですよね。剣道やボクシングと違って、試合したら勝たなくてはいけないというようなオブゼッションがなくて、本当に肉体の存在感を分かち合えている。訓練においていかに拙でも、肉体の存在感のリアリティみたいなものを感じていたろうし、共鳴があった。そこに忽然として雅楽の名曲「蘭陵王」を横笛で吹く青年が現れ、聴き終わって受ける感銘が、短編だからこそとても味わい深く、奥深く出ている。あそこに、ちらっと本物の三島由紀夫が見えるんだね」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」。
ここで述べた石原の評は心が籠もった発言である。三島が肉体や、死などの概念を越えて、純粋に三島が耳にした笛の音に石原も三十年以上の時を経て共鳴したのだ。純粋に作品を、石原は論じたのである。石原にとって三島の鍛え抜かれた肉体とは何であろうか。
平成八年に書かれた「肉体の天使」という作品が石原にある。ある名ライダーが引退後に、映画のスタントシーンで全盛期の自分を再現する、肉体の限界に挑戦した物語だが、そこで三島由紀夫を登場させる。「太陽と鉄」の一部を模倣して、それを書いた人物についてこう語っている。「そしてこの今になって私は昔読んだある文章を思い出していた。それは肉体に憧れを抱きつづけ、最後は自分が本物の肉体を持ったと錯覚し、その崩壊を恐れすぎて自分を自分に願った形のままで終わらせようと自殺してしまったある作家が書いた、肉体論の中のアフォリズムめいた一節だった」(「肉体の天使」)。
この一節は石原が三島に対して抱く「死」の真相なのかもしれない。石原は三島がいなくなり、つまらないという。石原は福田との対談で、冥界の三島へ甘えの一言を口にする。「福田 以前、三島さんが亡くなってから、すべてが退屈だとおっしゃっていましたよね。石原 あわせて僕が死ねば、本当に退屈になるだろうと(笑)」(「エンタクシー」平成十六年・「絢爛たる虚構の果ての美―三島由紀夫の逆説」)。そして究極的な本音がこの一節だと私は思いたい。評価されなかった「完全なる遊戯」や自分の作品を世に送り出そうとした恩人と共に時代を歩みたかった男の愛惜が漂う。「このすべて無為のまま閉塞停滞している日本の中で私たちがしょうもなしに味わっている退屈の原因の一つが、今あの三島氏がとうに不在であるということともいえるが故に、私は氏の死に方を咎めぬ訳にはいかない。」(「国家なる幻影」)。(終わり) |