三島事件の核芯有益諸説考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島事件の核心有益諸説考」をものしておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


 「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2012.11.25日付け投稿「追悼 三島由紀夫」を転載しておく。
 今日は三島由紀夫の祥月命日である。市ヶ谷の東部方面益田総監を縛り上げ、関の孫六を振り回し、20分バルコニーで隊員に向けて演説し、天皇陛下万歳三唱、総監室に戻って割腹し、介錯され果てたことになっている。しかしながら真実は闇の中である。

 ところで三島由紀夫といえば、ホモというのが一般に信じられている通説だが、しかし彼と親しかった女友だちや四年間付き合った恋人は、三島由紀夫はヘテロであると証言している。大蔵省をやめた当時、三島には筆一本で家族の生計を支える重圧がかかっていた。『仮面の告白』でホモを匂わしたのは、センセーショナルに売り出す戦略であると。

 祖母と母親に押しつぶされ去勢されかけてはいたが、三島はヘテロなのだ。恋人とも肉体関係があり、結婚してポルトガルへ逃避行したいほど惚れていた。ほかにも複数の女性にちょっかいを出しているようだ。確かに彼の恋愛小説(『潮騒』ではなく『肉体の学校』のような類)を読めば、ヘテロであることは素直に了解できる。

 平凡パンチの担当編集者、椎根和(しいねやまと)によると、当時三島はキムタク並みのアイドルだったという。『光彩陸離』としたオーラを放ち、メデイアから『スーパースター』と呼ばれた、最初の人物だと。若者の人気投票はNo.1。「若者は好きではない」と言いながら、彼ほど若者に優しく真面目に接したメジャーはいないだろう。三島事件ののちにアンケートが取られた。『あなたは三島由紀夫が好きですかきらいですか?その理由は?』 「好きです。理由は死ぬ前日お寿司屋さんに連れて行ってくれて、さあ何でも好きなものをお食べ、と言ってごちそうしてくれたから」とある劇団の貧乏な若者の役者が答えている。

 そして三島ほど、若者の可能性を信じているオジサンもいなかった。死の直前には、「十代のころに受けた精神に回帰している」と述べている。そんな三島の鎮魂にふさわしい歌を探してみた。

 http://www.youtube.com/watch?v=LuXDcn4Rm7g vnyelseaさんがアップロード

 三島が謀殺された可能性について。

 事件直後、朝日新聞は三島の切断された首を掲載した。そもそも切腹とは、敵に首を取られないための自決である。罪人の首を晒しものにする『鳩首』のような辱めは行われない。しかし朝日のやっていることは、まさしく『鳩首』である。これは処刑のアナロジーなのだろうか。

 鬼塚英明氏の一連の著書によると、すべての戦争はヤラセだという。ヤラセのエージェントの一人だったルーズベルト大統領に言わせれば、「すべての政治的出来事に偶然はない。一見偶然のように見えても、それは慎重に練られた結果である」ということらしい。だから我々の歴史認識は、逆に考えるべきかも知れない。

 例えば三島事件は、『占領憲法改正』論が一つの焦点だった。三島にそれを吹き込んだのは、『生長の家』の谷口雅春である。谷口雅春は、出口王仁三郎に絶対服従していた人物だ。終末思想と相俟って、リサイクル活用の機運が高まってきた日月神示も同様だ。「神憑りになって自動書記した」という岡本天明は、出口王仁三郎の寵児である。三島由紀夫は学生時代、友人に連れられてその岡本天明を訪問し、神憑りになって日月神示を自動書記する現場を見ている。これが後の『英霊の聲』の帰神法につながっていく。

 生長の家の谷口雅春は、三島を感化しただけでなく、『楯の会』の世話役として、信者を送り込んでいる。三島の首を切り落としたのは、もう一人の信者である。(後に娘婿に収まっている) 他にも佐藤栄作首相、中曽根官房長長官、益田総監、石原慎太郎、自衛隊幹部・・・有象無象が三島事件に絡んでいる。益田総監は責任を取って退職したが、3年後に死去。

 『楯の会』の学生たちに諜報をレクチャーした山本舜勝は、「クーデターの計画があった」といい、三島はクーデターの許可を米軍に求めていたとも言われている。

 そして今、持丸博が三島復活劇を演じている。かつて『論争ジャーナル』に所属していた持丸博こそは、三島由紀夫を説いて『楯の会』結成へと導いた人物である。自ら学生長に就任するが、事件直前に森田必勝と入れ替わっている。『論争ジャーナル』に資本投資していたのは、天皇の顧問田中清玄だ。その持丸博は今、『占領憲法改正』の田母神俊夫とタッグを組み、『三島神話』の語り部になっている。

 三島事件も占領憲法改正も、国内の動向のように見せかけているが、果たして本当に国内の出来事なのだろうか?日本に主権があるように見せかけているけど、「法案を決定するのは日本人ではない」と中矢伸一がリークしている。CIA研究のエキスパートである桜井晴彦氏は、首相選任も同様だという。ケムトレイルが騒がれているが、日米のトップシークレットが戦後日本を急右旋回させ、朝鮮戦争では731の細菌兵器を使っていることはあまり知られていない。

 改正の機運が高まっている『占領憲法』は、天皇制保持のための日米共同のやっつけ仕事で、極東委員会発足の前日に泥縄で間に合わせたもので、『共謀憲法』というべき代物だということも不問に付されている。サンタナヤは言っている、『真実を記憶しない者は同じことをくり返す』。そして我々はほとんど真実を記憶しないまま、占領憲法改正』のプロパに飛びつこうとしている。

 特攻の出撃の前に、「もしお前が生き残ったら、なぜ我々が爆弾を抱えてこんなことをしなければならなかったのか、その訳をきっと伝えてくれ」と遺言した学徒兵がいる。二年で終わるはずの世界大戦が四年に延長され、天皇制保持のために原爆投下まで降伏が許されず、学徒兵は沖縄の空へ毎日飛び立たねばならなかった。だからこっちは全然違う『桜』だ。
http://www.youtube.com/watch?v=dSJxcPsY4B8 ryushin1945さんがアップロード

 学徒兵は特攻で使い捨てにされただけでなく、戦後は戦犯の罪も被せられた。東京裁判もBC級戦犯裁判も、憲法同様、天皇制保持のための日米共謀である。国民も同調して戦犯の家族を虐待していたという。私は福島原発事故は戊辰戦争のアナロジーで、明治維新の裏を返した暗喩だと思う。明治維新で日本は傀儡国家になり、平成維新で奴隷国家になった。

 この国は福島の被災地の子どもたけではなく、国全体の子どもに対してもオカシイ。不吉な脅し文句とともに、ワクチンや予防接種を強要している。もうすでに受けた予防接種も、『二回目』を受けさせようと必死になっているらしい。こんな『思いやり』は、3.11の前には見られなかった現象だ。

 「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の『要求書」を読み解く」を転載しておく。
 「三島さんは、自衛隊を信頼し、自衛隊に決起を促し、事、志とちがって、死し去ったのだと思っている人が多い。『檄』を一読すれば、なおさらそのように思えるのかも知れない。 しかし、『檄』を拝読すると、そうでないことがわかってくる。こういう読み方のことを、文楽では“本読み”といっている。本読みというのは、今、演劇の方で信じられているような、単なる脚本の読み合わせではない。 行間に盛られた作者の真意を、その片言隻句のなかから、きわめて合理的、且つ、論理的に、その潜在意識における作家の精神の動きに至るまで、読みつくし、読みとろうとする行為が、文楽用語の“本読み”なのである。

 人なみはずれた明敏な洞察力の持ち主が、どうしてまるまる成算のないクーデターなどを思い立つことがあろうか。クーデターの成否は、むつかしい条件がからみあって、その成功不成功の率は五分五分であるにしても、少なくとも五分、あるいはそれに近い成算は、三島さんの胸中にあったものと思う。三島さんのクーデターが失敗し、なすことなくして死の陥穽へ陥っていったところから、三島さんの行動を、自殺のため劇的な道具立てのように言いなす風潮が言論界に強い。体制側も、クーデターという形で不信の匕首をつきつけられたことを認めることによって、体制への批判の糸口をさそい出す愚を犯すよりも、むしろ、事件を変形的な自殺行為と印象づけて、片づけてしまうほうが、はるかに好ましいと考え、その方へ、世論を導くように努めたにちがいない。ちょうど、私の『黒い雪』を、反米から性風俗の問題へと、主題点をすりかえたのど、同じ手口が、ここでも採用されたのである。

 三島さんが十一月二十五日を選んだのは、それが臨時国会の開会日であったこと以外に、その理由を求めることはできない。その日を期して、自衛隊を率いて国会を占拠し、機動隊を排除し、総理以下の国会議員を監禁した上、天皇親政を懇請しようというのが、クーデターというものの本筋に徴して、三島さんの計画だったものと推察される。」(武智鉄二『三島由紀夫・死とその歌舞伎観』涛書房より)

 あの有名な『檄』には『もう待てぬ。自ら冒涜するものを待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために死ぬのだ』と書かれています。演説でも『最後の三十分に、最後の三十分に待っているんだよ・・・』。これって『何を三十分待つ』という意味だと思いますか? 情報操作によって我々はずっと『自衛隊が決起するのをあと三十分待つ』ってそんな風に思わされて来ました。でも違うんです。『三十分待って共に起つ』というのは・・・。

 『要求書』を”本読み”すると答えが見えてきます。

 「午前十一時三十分頃、三島は、総監室前廊下から総監室窓ガラスを破り、窓ごしに三島を説得しようとする吉松陸将補、功力一佐、第三部長川久保一佐らに対し、日本刀を示しながら、『要求書があるから、これをのめば総監の命を助けてやる』といって破れた窓ガラスのところから廊下に要求書を投げた。総監の監禁を解き、その命を救うのを大前提とし、要求を入れるから総監に乱暴するなと吉松副長は三島に申し入れたところ、三島は「攻撃行動、妨害行動をくわえなければ、総監に危害は加えない、十二時までに隊員を集めろ、もし要求を入れなければ、総監を殺害して自決する」。

 要求書の内容

 一、 午前十一時三十分までに全市ヶ谷駐とん地の自衛官を本館前に集合させよ。

 二、 自衛官は三島の演説を清聴せよ。
 (イ)檄の散布
 (ロ)参加学生の名乗り
 (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示

 三、 本件とは無関係の楯の会会員を市ヶ谷会館に召集させる。

 四、 自衛隊はこの間、午後一時十分までの二時間、一切の攻撃を行わないこと、 当方よりも攻撃しない。

 五、 右の条件が順守されて二時間を経過したときは、総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。

 六、 右の条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」。
          (安藤武『三島由紀夫 日録』未知谷より) 

 これを武智鉄二のアドヴァイスに従って“本読み”します。◎『要求書』では自衛隊の決起を促していない。◎『二時間の間、何事もなく待て』が要求の眼目である。◎「当方よりも攻撃しない」の『当方』が最大のキーワード。

 この『当方』とはどういう当方なのでしょうか。私の推理では三島由紀夫たちのことではありません。獲物といっては日本刀と短刀しか持っていない彼らです。 こんな代物でどうして戦闘のプロ集団を攻撃できますか? 恐らく『当方』というのは三島由紀夫が演説している間、国会クーデターを起こす手筈になっている実働部隊、及びクーデターの首謀者を演じていた政府首脳でしょう。

 三島は縛り上げた益田総監に向かって、「自衛隊を集めて演説したい。これから私の言うことを聞いて二時間我慢すれば殺さない」と言っています。(安藤武『三島由紀夫 日録』より)

 二時間のタイムテーブル予定表(推測)

◎午前十一時 天皇臨席のもと第六十五回臨時国会が開会 三島由紀夫たちが市ヶ谷とん地で益田総監に面会

◎ 午前十一時十分 国会でクーデター勃発

◎午前十一時三十分 市ヶ谷で自衛官を集合させ三島が演説

◎午前十一時十分から午後一時十分までの二時間  クーデターが勃発した午前十一時十分から、完遂させる午後一時十分までの二時間の間、自衛隊に一切の攻撃を控えさせる。

◎ 戒厳令下の憲法改正

 こんな感じの流れでしょうか。しかしみなさん御存知の通り、このタイムテーブルは実行されませんでした。

 三島は同道した二人の記者に、「何事もなく終わる場合もある。その時は私は十一時四十分に出てくる」と前もって話して市ヶ谷会館で「楯の会」会員とともに待機してもらっています。つまり100%自決する予定ではなかった、事の成否次第だったということです。だから突入した五人以外に事情を知らせなかったのでしょう。三島は何事もなく出てくることを願う気持ちがあったと思います。知り合いにせっせと遺書を書く一方で、生きたいという気持ちと葛藤していた。「限りある命なら永遠に生きたい」というメモを残し、複数の知り合いに蹶起を予告する手紙を書いています。誰かがストップをかけることを待っていたけど誰も止めなかった。だから自衛隊と共に最後の30分を待っていた。私はそれが偽らざる三島だと思います。

 01. 2013年3月06日 20:59:06 : KKUQv68ch6
 
三島は騙されて殺されたという噂がありますよ。もっと深い陰謀があったという話です。

 三島も坊ちゃんだから土方でもすれば気持ちも変わったと深沢七郎は言ってましたよ。憂国で欧風住宅に住んでたからね。三島は日本が滅びると言って絶望してましたよ。三島全集全巻読んだら少しは気持ちも判りますが、、、、、人は、それぞれの妄想の中で生きていくしかないのでしょう。何を言っても仕方がないものなのかなあ。

 蔓延する放射能より強制被爆させられ、ニューワールドオーダーへの道のりをつける為のtppによって、西郷が言ったように政府や公というものが商業取引所に変わり果てて、先祖から受け継いだ生活や社会道徳を破壊して、日本が無くなってしまうとは、三島が絶望していたとうりになってきましたね。響堂さんも欧米の悪徳会社支配による民営化という騙しの私物化で奴隷として収奪して滅ぼされようとしていると書かれてますね。戦後民主主義を守れというプロパガンダも自由選挙が存在するという錯覚も、全部、白人の盗賊が収奪するための騙しの方便でしたね。三島が戦後民主主義を全然信用してなかったはずだ。野坂も戦後民主主義も自由経済も信用してなかった。欧米が最大搾取するためのガス抜きだからね。大江は赤色湯田の工作員だったという可能性はないの。ノーベル賞はロック賞だし。

 03. ♪ペリマリ♪ 2013年3月07日 12:18:37 : 8qHXTBsVRznh2 : NmFUS8pZVo
>>01さん

 三島が日本の末路を予言できたのは、彼が特別優れた慧眼を持っていたからだけでなく、ロックフェラー三世の代理人だった時期に、そういうアジェンダを知った可能性が否めません。三島はある意味彼らの身内としてメジャーになった作家です。三島の全集を読まれているようですが、昭和40年末までの三島と41年以後の三島は、まったく別人のような言動をしています。三島の周辺に論争ジャーナルの青年たちや、自衛隊幹部が出没するのもこの時期です。つまり三島は最初から『文化防衛論』的立場ではなかった、むしろ最初は日米文化交流という名のロックⅢによる侵略の片棒を担いでいた、その流れが昭和41年で劇的に変わったということが見えて来ます。

 大江についはご指摘される可能性があります。三島が現行天皇批判を始めた時期に、翻訳家が三島を切って大江に乗り換えています。

 >>02さん

 問題提起が全然ズレていませんか。ここでは武智鉄二の檄の本読みではなく、要求書の本読みが主題となっています。檄の本読みからは三島の単独行動しか読み取れませんが、要求書のそれからは三島が単独で決行したのではないこと、なりゆき次第で中止することもあり得たこと、そういう証拠が残されているということ、01さんの云う通り殺された可能性があるということです。

 「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」を転載しておく。
 三島事件の要求書の本読みに引き続き、事件現場の検証をします。これはとりもなおさず最終的な命題、 三島由紀夫は自決したのかor殺されたのか、 という問いについて答えることでもあります。私見では三島は殺されています。 三島事件を解き明かす鍵は、これは国内事件ではないということ、国外事件として考えるべきだということです。

 自衛隊がいかに三島に特別待遇をしてきたか、 あり得ない違憲そのもの訓練内容、対心理戦スペシャリスト山本舜勝の接近など、 自衛隊という『正規軍』が、楯の会を『不正規軍』として育てる経緯には、国ぐるみの謀略どころか、超国家権力の関与を物語って余りあります。だってね自衛隊って、「旧軍の悪いところを見習わないようにネ」なーんて昭和天皇に言われて、「ハハーッ」って平伏しただけで、トップが更迭されるような哀れな集団なんですよ。こんな組織に何ができますか?そこには歴然と日本を売り渡した売国奴集団の雄、京都皇室と秘密破壊工作の痕跡が見られます。『楯の会』の会員は蓋を開けてみれば平泉澄と谷口雅春の門下生、すなわち天皇教カルト教祖の信者たちです。生長の家をオーガナイズさせたのは堀川辰吉郎。堀川辰吉郎こそは出口王仁三郎を官憲の弾圧から庇護し、ワンワールドの宗教の雛形を創るべく指導した人物です。ここからスピンオフしたのが 岡本天明の日月神示であり、岡田茂吉の世界救世教であり、谷口雅春の成長の家です。カルト神示、カルト宗教の陰の総帥が堀川辰吉郎。

 昭和天皇を完全否定する三島由紀夫は、天皇教カルトとは極致にああります。それが証拠に楯の会お披露目パレードの直前に、持丸博が「平泉門下生として三島先生の考えにについていけない」ということを理由の一つに挙げて遁走しています。

 そんなことは初めから分かっていたことであり、理由にも何にもならないどころか、 そもそも三島が『英霊の聲』を書いて物議を醸した1941年の年の瀬に、論争ジャーナル(天皇の指南役田中清玄の肝煎り)の若者たちが、 三島を来訪して協力を求めたこと自体が支離滅裂なのです。

 橋川文三に云わせると『英霊の聲』は昭和天皇への『巨大な怨恨の書』なんですよ。なんで昭和天皇を崇拝している平泉門下生たちが三島と組むんですか。ここらあたりの事情をスルーして三島神話を吹聴しているのが持丸博です。そして持丸博を協賛しているのが桜チャンネルと田母神俊夫。彼らが三島神話を持ち上げるのは一体何のためでしょうか。

 
さて本題に戻って京都皇室と諜報組織の関与についてですが、 蹶起した五人組のうち二人は生長の家の信者です。 前述したように谷口雅春を動かしていたのは京都皇室の堀川辰吉郎。 堀川辰吉郎は三島が『英霊の聲』を書いた数か月後に没していますが、亡くなる前夜まで普段と変わることなく元気だったということですから、三島破滅プロジェクトが始動した時点ではピンシャンしていた訳です。私は堀川辰吉郎が平泉澄と谷口雅春を動かした黒幕ではないかと推測しています。そして殺害したのは門下生たちではなく、おそらく秘密破壊工作部隊でしょう。

 益田総監はこれを裏付けるような証言をしています。実は総監室にはある人物が隠れていたのであると。その人物に「衝立に隠れてすべてを見届けろ」と命じたのだと証言しています。その人物は事件の一分始終を見届けると、廊下から総監室に雪崩れ込んできた人々に紛れて、外へ出て行ったから誰も気が付かなかったと。 この人物について証言したのは益田総監ただ一人です。他の証言者はこれについては一切口を閉じています。自衛官とマスコミにも箝口令が布かれているのでしょう。

 
三島事件の現場写真を掲載したのは朝日新聞です。三島を世界周遊の旅に出してメジャーに押し上げた朝日新聞が、三島の見るも無残な遺体を公開しているというのは非常に意味深で、私はこの行為を三島を処刑した象徴として捉えています。この残虐さはどうでしょう。JFKの公開処刑にも勝るとも劣りません。連中の身内でありながら裏切った者への見せしめなのでしょうか。おそらく三島を殺害した者は日本人ではないでしょう。

 総監室にいた者たちの証言によると、 三島は「ヤーッ」という掛け声とともに腹を切り、 森田が何回も介錯しそこなった三島の首を、 生長の家の会員が一刀のもとに切り落とした・・・ ということになっています。そうやって生き残った者による証言に合せて、三島事件は語られてきました。彼らが口裏を合わせて偽証しているということは、なぜか議論されることなく済ませてきました。しかし私は彼らは偽証しているとはっきり思っています。三島は事件当日市ヶ谷に来てもらった知り合いの記者たちに「何事もなく終わることもある。その時は私は11時40分に出てくるから」だからその時は何も書かないでくれ、と釘を刺しています。 これは一体何を意味しますか?三島事件は三島の単独行動ではないということ、三島が死ぬかどうかは未知数だったことではないですか。世情云われるような『三島美学の完成』とか『行動の美学の終焉』とか、そんなタワケたものでなくもっと実際的なもののために、三島は命を引き換えにしようとしていたのではないですか。

 連中の身内として戦後25年間を享受した総決算として。しかしそれはあくまでクーデター成就と引き換えにです。自決はクーデター成就の責任を取る意味で行うのです。しかしそれでもなお三島は激しく葛藤しています。せっせと遺書を書いたり遺言を作成する一方で、「限りある命なら永遠に生きたい」というメモ書きを残しています。三島の葛藤を傍らで見ていた瑤子夫人は生前、「九州が悪いのよ」という一言だけ残しています。九州というのは熊本の神風連のことでしょう。豊穣の海四部作『奔馬』の取材に訪れています。その結果『英霊の聲』を執筆せずにはいられなかった、と三島本人が書いています。

 両親はどうでしょうか。夫人に比べてものすごく多弁です。両親による三島の回想記を読みましたがため息が出ました。母親の倭文重は自分がいちばん息子のことを理解している、 その証左として事件前に三島がどんどん痩せて憔悴して、歩く後姿もガックリと肩を落としていて、「お母様、僕が何をしてもとめないでくさださい」などとしきりに予告するようなことを云っていた、それで心配で仕方なかったが自分が何をいっても無駄だろうから、見守るしかなかったみたいなことを書いています。でもこれって三島の必死の「お母様、僕を止めてださい」というサインではないのですか。みなさんが愛する人がどんどん憔悴して、こんなことを何回か言ったとしらどうですか。「いいか、止めるなよ、分かったな、止めるんじゃねーぞ」それは「止めてくれよ」と背中で言っているのだと思いませんか。「お母様、止めないでください」なんて何回も言ったら、私だったら「何を止めるなつってんだ、テメー何をしでかすつもりなんだよ」って首を締め上げて聞き出しますよ。それを「何が起こるか心配で」なんて、きれいごといってんじゃねーって涙が出そうですよ・・・三島は殊に母親孝行だからオメーにそんなこた云われたかねーよって、怒るかもしれませんけど・・・

 葬儀で三島の好きだった薔薇を手向けるのに白い薔薇の花束をもって来た弔客に、「あの子が初めてやりたいことをやったんですから赤いバラの花束にしてください」といってのけた母親の矜持を見せる場面にも同じものを感じます。母親の誇りとは子供の幸福ではないのですか。三島が自分の好きなことではなく義務をこなして生きていたのが分かっていたなら、なぜ好きなことをさせてあげなかったのかでしょうか。

 三島にとって小説を書くことは本当に彼の本望だったのでしょうか。私は彼の白鳥の歌ともいうべき天人五衰を読んで、彼は最後の最後にそれを放擲しようとしていたと感じます。その象徴行為として安永徹という堕天使から視力を奪ったと。三島は現実世界から切れた異形の人間であると自分を規定しています。三島は世界と繋がることができない。宇宙を冒涜する手しかもっていない。そういう自分を初めて認めて許したのが『天人五衰』なのではないでしょうか。三島のもう一人の分身である本田の正体を出歯亀として描くことで、名門家門の正体を暴露して徹底的に破壊しています。これが三島にとっての救済と解放でなくて何でしょうか。三島は最後の最後に来て小説を書く労苦を擲ったのだと思います。

 父親の梓に至っては完全に嘘をついていますね。三島は事件の数日前に梓の友人の弁護士に蹶起を知らせる手紙を書いています。友人から父親に蹶起を知らせてもらい、父親に止めてほしかったとしか思えません。あたかも『奔馬』の中に登場する1シーンのように。しかし折あしく友人の弁護士は出張中で、帰京して手紙を見たのは当日の朝。それでも友人はすぐに父親の処に電話しています。だけど『倅 三島由紀夫』にはそんな経緯には一言も触れていません。梓が一人で茶の間で煙草をのんでいるとお昼のニュースで「三島由紀夫・・・」という文字があらわれたので「おやっと思って見入りますと・・・」それで初めて事件を知って驚愕したなんてシラジラしいことを書いています。これって父親が倅の殺害事件の隠蔽に手を貸しているってことじゃないですか?、それに倭文重が乗っかって自己満足の愛を語っているんです。ものすごく悲しいことですがこの両親の本を読んで私はそういう疑惑を抱いています。三島の両親は三島事件の真相をすり替えることに協力していると。

 私は三島事件の真相を次のように推理しています。安藤武『三島由紀夫 日録』を本読み”しながら時系列に添って記します。

◎十一月二十五日日午前十時、益田総監に予定通り伺うことを電話する。「国会クーデターを予定通り十一時に始動、そちらも始めてください」という連絡が入って初めて三島は動き出す手筈になっています。

◎『午前十時六分、伊達宗克と徳岡孝夫両記者に電話。「ご面倒ですが、十一時二市ヶ谷会館においでいただけませんか。そこに楯の会のものがおり、田中か倉田というものがご案内します」』

◎午前十一時、第六十回臨時国会の開会式が参議院本会議にて天皇陛下を迎えて行われる。国会クーデターが始動したと思った三島は蹶起の行動に移ります。私は益田総監が縛り上げられたのはお芝居だと思っています。益田総監は三島を自衛隊に引き入れる工作をしたグループの一人で、初期のころから三島に接触している人物です。私は三島が益田総監を縛り上げるフリをしたのは、益田のためにアリバイ作りをしてあげたのだと考えています。もしくは全然縛っていないかもしれません。なぜなら飯島洋一『三島由紀夫と近代 <三島>から<オウム>へ』平凡社によると益田総監は次のような奇妙な証言をしているというのです。

 以下抜粋します。

 三島の自決までの経緯を書いてきたが、彼の死の意味について考える前に、少し気になることを書いておきたい。それは前出の『三島由紀夫と自衛隊』を読んで、いささか奇妙な箇所があることに気がついたからである。この本の著者たちによると、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった」という。そしてこう続ける。

 「真っ先にづかづかと入って来た三島は、昔陸軍将校が佩剣したものと似た一振りの『軍刀を左手に持ちかえていた。これを見た瞬間、彼の不吉な予感の正体が何であったかをはっきりと知覚した。傍らにいたS副官もその異様を直観した。その副官に落ち着いた声でささやいた。『この部屋を出て行くふりをして、衝立の陰に隠れろ。どんなことがあっても出てきてはいかん』。副官は一瞬総監の指示に驚いたが、その意図は直ちに理解できた。早くも三島たちが総監の机の迄に整列、挨拶にかかったので、副官は三島に目礼してその部屋を立ち去るかの如く、衝立の陰に身をひそめた」

 益田の判断は、「いざというときのために、自分が殺されたときの唯一の事実を知るものとして副官のS三佐を陰に隠し」たのである。そしてことが終わった後、「衝立の陰に潜んでいたS副官は、ドヤドヤと入って来た警察、警務の隊員や報道陣に逆らって、総監室を去った」という。

 私がこの部分を読んで、いささかの奇妙な思いをしたのは、S副官という伏兵が、当日、部屋の中にいたということではない。そうでなく、このことと、『裁判記録 「三島由紀夫事件」』を照らし合わせた時、どうにも納得のゆかない事実に突き当たるのだ。というのも、『裁判記録』では、裁判の法廷に何人かの証言者が出頭していて、その中には益田総監をはじめ、原勇、吉松秀信の顔も見えるが、S副官とされるべき人の名前が見当たらないのである。もしもいたなら、裁判に証人として出廷しなければならないはずである。Sという人物が衝立からずっと現場を見ていたなら、その人は縛られていた増田よりも、ことの次第をよく見ていたはずだからである。しかし、そのSは裁判の記録には見えない。彼が誰かというより、彼がなぜ証言台に立たなかったのかが、私には奇妙でならないのだ。

 以上抜粋。益田総監の証言を“本読み”してください。おそらく彼はこれを命懸けで言っているのです。益田総監はこの後罷免され3年後に死去しています。

 時系列の続きです。

◎午前十一時三十分頃、三島は、総監室前廊下から総監室窓ガラスを破り、窓越しに三島を説得しようとする吉松陸将補、功力一佐、第三部長川久保一佐らに対し、日本刀を示しながら、「要求書があるから、これをのめば総監の命を助けてやる」といって破れた窓ガラスのところから廊下に要求書を投げた。三島は幕僚たちに要求書を出します。「攻撃行動、望外行動をくわえなければ、総監に危害は加えない。十二時までに隊員を集めろ。もし要求を容れなければ、総監を殺害して自決する」。これは脅しで三島はクーデター成就の後に自決する予定はありましたが、益田総監を殺害するつもりは最初からまったくありません。このことは事前に楯の会会員たちに言い含めています。要求書の“本読み”については既述してありますので重複を避けます。そしてスムーズに事は運ばれてバルコニーで演説します。おそらくヤラセの仲間が幕僚たちの中にもいたはずです。

◎午前十一時五十分頃、森田、小川は、要求項目を書いた垂幕二本を総監室前バルコニーからたらし、「檄文」多数を撒布した。三島は(「七生報国」の鉢巻をし、関の孫六の抜き身を持ち)、バルコニーに立つ。三島は、集合した自衛官に向かい演説したが、自衛隊員の野次と怒号と図上のヘリコプターの騒音で演説をしばしば中断した。時の自衛官があんな野次を飛ばせる自由があるとは信じていません。私はサクラが配置されて妨害していたと考えています。

◎「お前ら聞けエ、聞けエ!よく聞け、聞け、聞け、聞けい!よく聞け、よく聞け、よく聞けい、静聴せい!男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。・・・そこでだ、俺は四年間待ったんだよ。俺は四年間待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。・・・そうした自衛隊の・・・最後の三十分に、最後の三十分に・・・待ってるんだよ」。

 三島の「最後の30分に待っているんだよ」というのは何を30分待っているのか。国会占拠→戒厳令発動→憲法改正→ヘリポートにクーデター軍到着→共に蹶起という流れの中の「憲法改正」の知らせが届くまでの、「最後の30分に待っているんだよ」という意味で、憲法が改正される際、昭和天皇の退位というのは三島の中では決定事項です。天皇は京都へ遷り、三島がアンケートに答えた通り、三島の胸中では1970年代に皇居は国民のために解放されるシナリオになっています。

◎「・・・まだ諸君は憲法改正のために立ち上がらないとみきわめがついた。これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」。

 待てど暮らせど援軍は来ません。森田の表情を見てください。これは三島が裏切られつつあることを憤っている表情だと思いませんか。もとより森田必勝は命知らず、この状況に臆しているはずはありません。やがて「これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ・・・」と呟いて天皇陛下万歳を三唱した後、三島は森田とともに総監室に戻ります。


◎午後零時十分頃、総監室に戻り、「二十分間ぐらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」と独り言。総監には「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方がなかったのえす」といって制服を脱ぎ、正座して短刀を両手に持つ。森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を重いとどまらせようとした。

 これは生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証でしょう。三島と森田を迎えたのは益田総監と楯の会会員3名と、『S副官』が象徴する人物、おそらく複数の秘密破壊工作員たち。三島は本当にギョッとしたでしょう。私はこの時点で三島は死ぬ覚悟はなかったと思います。バルコニーで演説して総監室に戻ってすぐ自決するはずはないのです。裏切られたことについて益田総監に問いただしたいはずです。そんな短時間に心の整理をして自決するほど、三島は自決に対して完全な覚悟があったわけではありません。しかし秘密破壊工作員たちは三島を取り押さえて、有無を言わさず『割腹自殺』させ生長の家信者に介錯させます。森田が何回も介錯に失敗したという首の傷は、三島を苦しめるために彼らが行ったものかもしれません。森田がスムーズに三島の介錯をするはずなどないのです。これでは話が違うではないかと三島のために抗議したはずです。その森田必勝も『割腹自決』させられます。後に残った楯の会会員は脅しておけば口を割りませんが、命知らずの森田は脅しなんかに屈することはありません。義憤から決して黙ってはいないでしょう。だから口封じのためには「三島の道連れ」にするしかありません。

 以上が三島事件の現場推理です。

 「だが最近になり奇妙なことを知った。それは、三島から父の友人斎藤直一弁護士に11月22日『事件の決行と覚悟の死を告白した」書簡を送っていたとのことである。その文面には、公私に渡り力添えになった御礼とその言葉がある由。その斎藤氏は、出張先から帰宅の際に飛行機が遅れ、帰宅した日が自決決行日で、すぐ三島宅に電話をしたが既に市ヶ谷へ向かった後であった。死を止めることができなかった。さらに、斎藤氏が電話した相手が父梓だった。謎は謎を深めた。さらに驚くことに斎藤氏宛てのほか、厚誼の人に宛てた二通の書簡が存在するらしい。遂にその二人からも密告は果たされなかった。やがて、その書簡の所有者が闇の底から謎の仮面を取り、封印された紐の結び目を解く日も近づいているのであろう。」(安藤武『三島由紀夫の生涯』より)

 三島由紀夫と森田必勝のために心より冥福を祈ります。  

 古賀浩靖が首を切り落とした、とされている。事実は衝立の後ろに居た人物が三島と森田を押さえつけ、割腹自殺に見せかけて首も切り落とした、ということなのか?

 古賀浩靖の父は生長の家の幹部で後に理事長になっている。古賀浩靖は服役、出所後、生長の家で「下座の行をした人物」として谷口雅治も持ち上げてる、谷口雅治の娘婿になった荒地清超(結婚後は谷口清超)もその後、古賀浩靖を娘婿にしている(後に荒地浩靖) 真相を知るには「荒地浩靖」本人に事実関係を問い正すしかない。


コメント

 古賀浩靖は三島と森田の首を斬り落としたといわれて注目されがちですが、小賀正義の推奨で蹶起の数か月前にメンバーになった添え物みたいなものです。ともに生長の家の信者で古賀はフルコガ君、小賀はチビコガ君と呼ばれています。三島を罠に嵌めるために重要な役割を演じたのは、このチビコガ君の方です。チビコガ君は学生世話役として、三島に影のように付き添っています。学生長の持丸博やフルコガ君の陰に隠れて見逃されていますが、京都皇室や谷口雅春のメッセンジャーボーイをしていた重要人物だと思います。

 保坂正康が楯の会の会員たちの追跡調査をしていますが、三島事件の裁判では裁判長から「将来はどうするか」と尋ねられると、三人とも「自分の生命は、昭和四十五年十一月二十五日で終わった。それ以後のことは考えていない」と答えたそうです。

 また保坂正康は楯の会の元会員にインタビューをしていますが、ある元会員が蹶起メンバーの元会員と話したところ「頭の中で事件を忘れようとしています。いつまで考えているわけにはいかないとも思っているからです。でも、手をみると、思い出してしまう・・・」と答えているそうです。これはフルコガ君の答えだと思います。

 一方、懲役四年の刑を言い渡されてそのまま獄に入り、逃亡、証拠隠滅の恐れはないと三人とも保釈になった時、記者会見を受けたチビコガ君は、「日本人という大きな基盤の上に立ち、当然のことをしたと思っている」と答えています。私はフルコガ君とチビコガ君の答えに厳然たる差を感じます。

 >>03さん

 この場合はクーデターなので法の手続きは踏みません。戒厳令を施行した上での憲法改憲です。つまり2・26青年将校が狙ったことを再現しようとしたのですね。三島は2・26の敗因は宮中を押さえなかったことだと言ってますから、天皇隣席の臨時国会クーデターというのは重要な機会だった訳です。2・26は昭和天皇が仕組んだヤラセであるということはもとより、それが石原莞爾・片倉衷の満州事変コンビの画策によって、『カウンター・クーデター』に持って行かれた委細は三島には分かっていません。直接には東久邇宮、秩父宮が動いて、天皇家のポチ辻政信が暗躍していますが、226事件も三島事件も陰で指令を出していたのは昭和天皇と京都皇室でしょう。そしてそれらを考えるとき国内ではなく国外事件として捉えるべき、という原則ほどこの国の悲劇を物語ることないと思いませんか。

 06. 2013年3月10日 12:04:26 : TSHINKLeXk

 クーデターであれ平常時であれ、法を改正する目的はその施行にある、つまりクーデターの目的は改正した法を全国内で実行・運用することだと思います。クーデターによる議事堂内での書類の改変という虚構が、新教育により議院内閣制民主主義が浸透しそれを信奉している一般市民の実生活に有効的であったとは思えませんし、三島由紀夫に限らず大多数の国民はこの社会状況(戦争体験・新教育)を認識していたと思います。たとえ厳戒令が布かれても、もし2.26事件程度の規模のクーデター軍ならば実効支配出来るのは東京でも限られた範囲でないかと推測されます。つまり、当該クーデターを完遂させる為には、全国内に影響を与える事が出来る巨大な組織(横田幕府が有りますが)でなければ無理であると考えられます。そしてもし、その様な組織がクーデターを実行するとなると、三島由紀夫がわざわざ自衛隊に特攻する必要はないのではないか、と考えた次第です。


【ペリマリ氏の三島事件検証文の自己否定について】
 2013年10月02日、「カルト言論犯罪集団7  続々々 鬼塚英昭と中田安彦による共謀プロパガンダ」。
 ところで『れんだいこ』とかいうブロガーが、ペリマリの三島事件検証の記事について何やら書いていますね。れんだいこが言うには独力で三島事件の核心についてペリマリと同じ結論に達したとか。そうですか、そうですか。でもあれって間違いですから。れんだいこ曰く、「三島は生き急ぎ死に急いだ」。私はまったく逆だと思いますよ。三島の本音はメモに書いた通り、「限りある生ならいつまでも生きたい」であって、100%自決する覚悟を持ったことは一度もないと思います。野坂昭如の指摘した通り『生きる天才』だった。たとえそれが異形であろうと『ジャーナリズムのスポイルド・チャイルド』(三島自身の弁)としての人生を享受していたかったと思います。

 ノーベル賞を逸した失意から国防に足を突っ込んでみたものの、「これで俺の自衛隊に対する夢は消えた」後、『楯の会』を解散して本来のスタンスに戻ろうとしていたと思います。銀座の高級レストランでデイナーを共にした知人(た学習院時代に付き合いのあった特権階級)に、今後の抱負を語っています。「身養生して定家を書く」―実際に書くのは平岡公威ではありませんが―本来の三島由紀夫に戻る。それが偽らざる本音だったと思います。

 鬼塚英昭は著書の中で佐野眞一や広瀬隆などポチ仲間を取り上げることを義務付けられてるようですが、ブロガーの中ではこのれんだいこを取り上げています。鬼塚英昭はインターネットの操作ができないので、ネットの記事はプリントアウトしてもらっているそうです。で、その渡された資料の中にあって心を同じにする存在がれんだいこなんだそうです。そうですか。

(私論.私見) ペリマリ氏の「でもあれって間違いですから」について

 ペリマリ氏はここで、「れんだいこが言うには独力で三島事件の核心についてペリマリと同じ結論に達したとか。そうですか、そうですか。でもあれって間違いですから」と述べている。「でもあれって間違いですから」がキモの部分だが、但しどう間違いなのか全く触れていない。どういう事情があるのか分からないが解せないことである。

【三島由紀夫事件の真相考】
 【講演ノート】三島由紀夫事件の真相その1」(平成24年10月22日)、「【講演ノート】三島事件の真相」その2」(2012-11-17)

 日本郷友連盟顧問 神奈川県郷友会副会長・元陸上自衛隊中央会計隊長・陸将補・寺尾克美(本講演ノートは寺尾克美氏の講演草稿をもとに事務局にて加筆修正して作成したものです。文責:三島由紀夫研究会事務局)
 第1章 事件の概要

 第1節 全般概要

1.自衛隊に働きかけてクーデターを計画
2.当日は「楯の會の訓練優秀会員を表彰したので総監に紹介したい」と、面会方式をとり、一連のシナリオの内でクーデターを呼び掛ける企図
3.突然、面会を居直り総監を監禁しクーデターを強要・総監不同意で逆に諫める
4.総監監禁を重要会議中の数人の幹部が報告を受け救出に行ったが、三島由紀夫の日本刀で阻止され九名が負傷(各論で詳細に説明)
5.幕僚副長との交渉で総監を人質に演説を強要・隊員を集めさせて檄文の垂れ幕を掲げて演説を強行
6.隊員達の怒号で傾注するものはなく、三島由紀夫はクーデター失敗と判断し、シナリオ通り三島由紀夫(日本刀所持)、森田必勝(短刀所持)の2名が割腹自殺
7.「楯の會後継者」生き残った3名(棍棒とか十手所持)は総監を解放し投降
 第2節 クーデター計画の遠因

1.60年安保闘争(岸信介総理負傷・樺美智子死亡)
2.楯の會結成と隊員を自衛隊で体験入隊訓練
 ?「国土防衛隊」(民兵組織)構想
  志願制とし、成年以上の前科のない男子で体格検査・体力検査のうえ採用。経費は国費・地方自治体・国民醵金で各3分の1支出。内閣 総理大臣に直属。
 ?「祖国防衛隊」(部外に秘匿)
 直接間接侵略に備えるだけでなく、関心は軍事力よりも国民の魂にあった。昭和43年7~8月、体験入隊訓練。
 ?「楯の會」
「祖国防衛隊」の名称を「楯の會」と改称。昭和43年10月5日、隊員全員に制服(堤清二氏の西武百貨店で仕立てる)を配る。
  民兵構想が三島部隊に変わった。44年2月、28人の学生と合宿、対ゲリラ訓練。3月には富士学校で楯の會3期生と訓練、5月には対ゲリラ訓練。
 ?『論争ジャーナル』系の7名が楯の會を退会、持丸学生長も辞めて、森田必勝を学生長に任命(昭和44年)。
 第3節 クーデター計画の近因

1.70年安保闘争では治安出動を予想していたが
 ?「10・21国際反戦デー」(昭和44年)が、70年安保闘争最大の山場。
  警視庁機動部隊4,500人を基幹とする32,000人の警察力が投入され、検挙された人数は東京だけで1,221人、自衛隊の治安出動は全く必要がなかった。「楯の會」の出る幕がなかった。
 ?44年10月か11月頃班長が集まり、三島由紀夫が「治安出動もなくなった、楯の會はどうすべきか」と言ったとき、森田必勝が「楯の會と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうか」と提案した。
  三島由紀夫はこのとき賛同しなかった。(小賀正義被告の裁判記録)
 ?昭和45年4月初旬頃三島由紀夫が発案し、森田必勝が参画して計画が進められ、同月10日頃小賀正義、小川正洋らが最後まで行動をともにすることを打診されこれを承諾した。(裁判記録)9月に古賀浩靖を同志に加え決行を11月25日と決定していた。
 ?東部方面総監を人質にする計画が6月の末から第32普通科連隊長に変わり、後に連隊長が当日不在と分かって再び東部方面総監に戻った。
2.ノーベル文学賞候補に(スウェーデンのテレビ局が来て家族まで撮っていった)。
各メディアは三島論の予定原稿を書いていた。しかし川端康成が受賞した(昭和43年)。
 第4節 三島由紀夫の思想・信条・判断

1.思  想
  手段はクーデターにより国会占拠、憲法改正・天皇制復帰。
2.信  条
 ?日本人の心が失われている。
 ?日本人は平和ボケしている。
 ?日本人は経済大国ボケしている。
  日本を滅亡から救うためにはクーデターしかないと判断。
3.判  断
 ?三島由紀夫が蹶起を呼び掛けても動かないことを予知し、不成功を承知の上で死を賭して「魂の叫び」を後生に残すことだった。
  10月19日、4人の若者と共に楯の會制服姿で記念写真を撮った。
 ?ノーベル賞候補として文筆で訴えるよりも、自ら死を選んで訴えた方がインパクトが強烈で効果が遙かに大。クーデター失敗でも効果が期待できると判断した。
 第5節 事件後の評価

1.佐藤栄作総理は「天才と気違いは紙一重」と一蹴し、国民の判断も誘導された。
2.中曽根康弘防衛庁長官は「甚だ迷惑な話だ」と一蹴し、責任は東部方面総監に取らせて一件落着とした。防衛庁長官が責任を取らなかったのは初めて。
3.死者の裁判はなかったので、真相が解明されず「犬死」扱いで成仏できない状態。
4.三島由紀夫研究会では研究され顕彰されていても、国民一般の理解は不十分。
5.彼の信条を無視したので、バブル崩壊・心の教育問題など、社会の混乱が憂慮される昨今の日本。
 第2章 総監と面会から監禁

 ?三島由紀夫は自衛隊に乱入したのか??
 マスコミの報道は自衛隊に「乱入」としているが、売らんがためにセンセイショナルに書き立てているだけである。

 第1節 東部方面総監に面会の経緯

 最初は、第32普通科連隊長宮田朋幸1等陸佐に連絡したが、不在のため急遽東部方面総監益田兼利(ましたかねとし)陸将に変更し面会の予約を取った。総監は計画では第12師団(相馬原)検閲の予定だったが、防衛庁防衛局長の送別会に出席を要請され、検閲を三好秀男幕僚長に代行させて残っていたのである。
 第2節 面会の様子

 11時に三島由紀夫が森田必勝・小川正洋・小賀正義・古賀浩靖の4人を伴って訪れ、自衛隊体験入隊訓練で成績優秀で表彰したのでお目通りに預りたいと、4人を末席の折り畳み椅子に座らせ、三島はソファーで総監と紅茶を飲みながら面談していた。

総監 三島に「その長いものは何ですか?」と尋ねた。
三島 「これは『関の孫六兼元』の銘刀です」
総監 「そんなものを持って、よく入門出来ましたね?」と糺したところ、
三島 「これは美術品で、所持証明がありますから…、ご覧になりますか」
総監 「どれどれ、拝見しましょう」
三島 「波模様の三本杉が特徴です」
総監 「ここに何か付いていますね」(油を垂らしていた)
三島 どれどれと刀を受け取り、「おい、ハンカチ」と言った途端、森田必勝ら4人が一斉に総監に駆け寄りソファーに縛り付けた。(ハンカチが合図だったようだ)
   総監にクーデターの計画を話し、一緒に立っていただきたいと強要した。
総監 「三島さん、早まってはいけません」と諭したが、もはや聞く耳を持たない。
 第3節 総監監禁

 丁度その頃、業務室の秘書がお茶を出す頃合を見ようと秘密の覗き窓(曇りガラスにセロテープを貼っていた)から覗いたところ、衝立の位置が変えられていて中が見えない。ドアも開かず様子がおかしいと、業務室長・原勇1佐に急報した。原1佐は、「三島さんが何故?」と思いながらも、総監室内の異変を確認し、木刀を持って近くの会議室に走った。会議室では行政担当幕僚副長・山崎皎将補、防衛担当幕僚副長・吉松秀信1佐、第1部長(人事)・功刀松男1佐、募集課長・清野不二雄1佐、第1部総括班長・高橋清2佐、第3部長(防衛)・川久保太郎1佐、第3部総括班長・川邊晴夫2佐、会計課長・川名守治1佐、会計課予算班長・寺尾克美3佐、予算班員・松井伊之助3佐の10名が1971年度東部方面隊業務計画予算吻合の審議中であった。このため会議室の入口ドアには内側から鍵がかけられていた。原1佐はドアをガタガタ揺すった。何事かと松井3佐がドアを開けると、原1佐は木刀を持ったまま血相を変えて部屋に飛び込み、総監が監禁されていると報告した。山崎将補は、黒板の予定表で三島由紀夫が来ることを知っていたが、学生を帯同することは知らなかった。事態を呑み込めぬまま、会議室を飛び出し総監室へと向かった。会議室にいた他の幹部達も続いた。(学生達が居直ったか? と咄嗟に思った幹部もいた)。三島由紀夫は楯の會を作り、「警察による治安維持が出来なくなって、自衛隊が治安出動するまでに時間がかかる。この空白を埋める力になりたい」と自衛隊で体験入隊訓練を受けていた。彼ら幹部は、三島由紀夫率いる楯の會にいわば友軍のような感覚を持っていた。誰も敵だとは思っていなかった。
 第3章 総監救出の行動

 正面は内鍵で開かないが、左側の幕僚長室からの入り口と右側の幕僚副長室からの入り口は外鍵である。

 第1節 幕僚長室側正面

 幕僚長室側入り口には、三島由紀夫が日本刀を持ってガードしていた。この正面に駆け寄り入ったのは、会議室の隣部屋にいた第3部防衛班長・中村董正2佐、川邊2佐、防衛班員・笠間寿一2曹、原1佐の4名であった。中村2佐が最初にドアを開けたら、いきなり三島が日本刀を振り上げて阻止した。中村2佐は玩具の刀と思ってそれを掴んだ途端に刀を引かれて、血が天井まで飛んで手のひらが二つに裂かれ退室し、医務室へとなった。それを見た川邊2佐は、嘗て体験入隊訓練で教官として指導したことがあり、お互いに面識があるので話せると思い、「三島さん」と声をかけながら入ったら、額を二太刀斬られ、手で庇ったら腕を二太刀斬られた。これはいかん、三島さんは後ろからは斬りつけないだろうと、背中でドアを押し開けて入ったらまた二太刀肩を斬りつけられた。やむを得ず医務室へとなった。笠間2曹は、斬りつける刀を腕で受け、手首の外側を負傷して退室し、医務室へとなった。剣道5段の業務室長・原1佐は、木刀で立ち向かったが、木刀の先端3寸程斬り落とされ、引き斬りに合わないように切り返しながら退室したので怪我はしなかった。
 第2節 幕僚副長室側正面

 こちらも内鍵がないのでソファーやテーブルでバリケードが築かれ、3名が正面入り口と併せて進入を阻止していた。この正面に駆け寄り入ったのは、山崎将補、清野1佐、高橋2佐、寺尾3佐の4名であった。山崎皎将補の「ドアを破れ」の一声に力を合わせて体当たりするとバリケードは吹っ飛んでドアが開いた。そのとき小川正洋が応接テーブルを入り口に向かって投げつけてきたが、それを交わして入室した。最初に目に入った光景は、益田兼利総監がソファーに縛り付けられ、森田必勝が総監の胸元に短刀を差し付けて、「一歩でも近寄ると刺すぞ」と脅かしていたのと、真向かいの幕僚長室側入り口には、木刀のようなものを振り上げている三島由紀夫の姿が目に入った。小賀正義と古賀浩靖が入り口から総監の周りに集まってきている。高橋2佐は、隣の自室に備えていた木刀を持っていた。他の自衛官は素手であった。私(寺尾3佐)は、この4名のうち一番若手幹部で41歳、素手のままで森田必勝の3メートル手前で睨みあっていた。下手に近寄って総監が刺されてはと考えながら、隙を見計らっていたのである。その時、山崎将補が入ってきて、私と森田が睨み合っている側方から「人質に俺が変わる、総監を解放しろ」と言いながらつかつかと総監のそばまで行った。私はこれは危ないことになったと心配しながら森田と睨み合っていたので、森田は私に気が取られ、山崎将補には気が付かない様子であった。山崎将補は人質のそばまで行って初めて短刀が目に入ったらしかった。山崎将補が後ろから森田を抱きかかえようとする瞬間に、「これは危ない」と私は森田の短刀を持った右腕に飛びつき捻り伏せて短刀を足で踏みつけた。森田が抱え込まれるときに、総監を刺したが胸を外れて右手の方に流れたと思う。森田がもう一度腕を引いたときは、私が腕首をしっかりと捕まえて捻り伏せたのである。縛り付けられた益田総監がこの目の前の光景を一部始終見ていたわけである。総監の右手にかすり傷があったのはこのときの格闘を物語っている。高橋2佐が捻じ伏せられても短刀を放さない森田の右腕を木刀で殴っているとき三島由紀夫がこれに気付き森田を助けにきたが、立ち向かった高橋2佐の木刀には鍔がなかったので、右手の親指が真ん中から切れてぶらさがった。清野1佐は三島由紀夫に「出ろ、出ろ」と日本刀でつつかれて、傍らにあった立て灰皿で防戦しながらバックしていたが、躓いて尻餅をついた。このときなおも日本刀でつつかれ、大腿部を斬られた。私が押さえつけている森田が短刀を放さないので顔面を殴ったが、振り上げた右腕に流れ刀が当たったのか「渡辺綱(わたなべのつな、平安中期の武将)」になる一歩手前の負傷をした。その後三島由紀夫が「出ないと殺すぞ」と言いながら森田を押さえつけている私の背中に三太刀斬りつけた。一太刀、二太刀を浴びても、はじめは木刀で軽く殴られている感じだった。2、3発殴られても短刀さえもぎ取れば、後はゆっくり話ができると思い、もぎ取り続けた。次第に声も力も大きくなり、我慢してとうとうもぎ取った。短刀をもぎ取った瞬間には、「ぶすっと相手の腹を刺したら過剰防衛」「警察が捜しやすいように顔に×印を」「西部劇のようにホールドアップさせてかっこよく綱を切ろうか」「相手は5人、取り戻されたら元の木阿弥」…などの考えが閃いたが、結果は短刀を取って廊下へと飛び出した。この乱闘の間に腕に一太刀、背中に三太刀の重傷を負った。背中の三太刀目は、ばしっと戸板で殴られた感じで、その衝撃でめがねが落ちた。高橋2佐は、一人殺されたと思って飛び出したと話していた。廊下に飛び出し、業務室の澤本3佐がいたので、「ロッカーに入れて施錠」と言って短刀を突き出したら澤本3佐はびっくりして後ずさりした。血相を変えて短刀を突き出したから驚くのは当然で、「悪かったなあ」と刃の方を手前に持ちかえて渡した。(つづく)
 第4章 総監を人質に隊員集合強要・演説・割腹自殺

 第1節 三島由紀夫との交渉

 6人が医務室に運ばれた後は、誰も総監室に入ることができず、総監は人質のまま、「何故こんな事をするのか」と交渉が始まった。三島由紀夫がドアの下から要求文を出した。これが「隊員を集めろ」という。窓ガラスを割って顔を出した途端に関の孫六で額を斬られたのは第1部長(人事部長)功刀松男1佐だった。この交渉に当たったのは防衛担当幕僚副長・吉松秀信1佐と第3部長(防衛部長)川久保太郎1佐であった。放送を聞いて次第に隊員が本館前に集まってくる。血を流しながら医務室に運ばれる負傷者とすれ違ったり、血痕を見たりして集まっている。
 第2節 「楯の會」部隊は市ヶ谷会館で第4機動隊に拘束される

 三島由紀夫は演説を始める前に、市ヶ谷会館で待機させておいた部隊を連れてこいと命じ、広報班の渡辺浩一郎3佐は迎えに走った。時間稼ぎのつもりで「三島先生は制服に着替えてこい、と言っている」と告げたが、待機は戦闘服でなく制服だった。楯の會隊員達は駐屯地に賊が侵入し、三島先生が処理に協力していると信じていたらしい(楯の會隊員待機33名中の1人の言)。そうしているところに機動隊が到着し、隊員全員を市ヶ谷会館敷地内に拘束、3名を逮捕した。
 第3節 「檄文」の垂れ幕を垂らして演説

 三島由紀夫が総監室からバルコニーに出て演説を始めたときは、事件を取材するヘリコプターの騒音と隊員達の怒号で話が聞こえず、また聞く耳を持った者は誰もいなかったようだ。三島由紀夫は5分も経たないで演説を諦めクーデター失敗と判断し、総監室に戻り、シナリオ通りの割腹の儀式が始まった。
 第4節 三島由紀夫と森田必勝の割腹自決

 「三島さん早まるな」と監禁された状態で益田総監が再三諫めるが、三島由紀夫は既に聞く耳を持たなかった。内臓が飛び出すほどの割腹であった。森田必勝が介錯したが、三太刀失敗、古賀浩靖が四太刀目で首を落とした。シナリオ通り、弱冠25歳の早稲田大学教育学部学生、森田必勝が三島の自決に続き割腹、古賀が一太刀で介錯した。(裁判記録)三島の首は後頭部から斜めに切断されたので、枕を添えないと立たなかった。
 第5節 総監解放と投降

 小川正洋、小賀正義、古賀浩靖は総監を解放し、投降した。彼らは、棍棒・十手等を持っていて刃物は持っていなかった。シナリオでは生き残って「楯の會」を継ぐ約束をしていた。事件後裁判が終わった頃、森田必勝の親代わり役である長兄が3人を伴い負傷者の自宅まで「ご迷惑をおかけしました」とお詫びに回った。その後TBSテレビ・関口宏の「THE・プレゼンター」に森田の長兄と私が出演した(1992年12月6日放映、「三島由紀夫事件の克明証言」)。各々1時間半くらいの取材を受けたが、両方の録画を合わせて30分の番組に編集されている。その編集内容を放送前に厳重にチェックした。「YES」「NO」の場面を逆に編集されていたら取り返しがつかない。生放送にくらべ危険性が大きいと感じた。
 第5章 負傷者、自衛隊中央病院に集中入院

 第1節 負傷者9人中6人入院

 益田総監、山崎将補、功刀1佐、清野1佐、中村2佐、川邊2佐、高橋2佐、寺尾3佐、笠間2曹の9人が負傷した。益田総監は森田必勝の短刀で、8人は全員三島由紀夫の銘刀関の孫六兼元で負傷した。清野1佐以下6人は、自衛隊中央病院に入院した。 市ヶ谷駐屯地医務室には外科医師がいなかった。東京女子医大病院と慶応病院には近いが、医官・杉浦健一2佐は、中央病院が丁度外科手術日だったので、手術準備が整っている同病院に緊急患者を全員受け入れるように交渉し、次々と送り込んだ。病院側は報道陣をシャトアウトするため、患者を一室にまとめて収容することにした。
 第2節 寺尾3佐の入院時の様子

 私が背中などを斬られ総監室から出た直後、会計課長・川名守治1佐は、「これは大変だ。医務室へ運べ」と大声で言ったが、近くには何人もいない。「木刀で2、3発殴られたが何も怪我していないですよ。医務室なら自分で行きます」と言って、脱兎のごとく走り出した。1階の会計課の前まで100メートル余り走ってきたとき、会計課総括班長・関根孝3佐が「予算班長、どうしたのですか」と、背中を見て、これは大変とばかりに私を背負って走り出した。20メートルも走ると、関根3佐の首筋の毛穴からは鯨のように塩が吹き出ていた。「何でもない、自分で歩くよ」と言っている頃、川名1佐が追いついて来て、丁度そこに自転車で駆け付けて来た人のハンドルを捉まえ「おい貸せ」と降ろし、私に「乗れ」と言う。私は荷台に乗ったが、川名1佐が「誰か運転を」と言っているので、「自分で行きます」と、そのままハンドルに手を伸ばしてこぎ出した。医務室の入り口にまで着くと、担架が用意されていた。これは、予算班の依田清1尉が先回りして呼び出していたものである。私はそのまま診察台にうつ伏せになった。医官の杉浦健一2佐が「おい、ハサミ」と言っているので、「服なら自分で脱ぎます」と私が言った途端、「黙れ」と一喝された。杉浦2佐は川名1佐に向かって「黙らせないと危ない」と言った。ここには内科医しかいないので、他の病院へ搬送されるらしいが、「出血多量で時間の勝負だ」という話が聞こえてくる。東京女子医大病院や慶応病院が距離的には近いが、手術準備の消毒だけでも30分はかかる。自衛隊中央病院は当日は手術日であり、他の手術を延ばして最優先で受け入れるよう調整したという。「あとは輸送時間が問題だ」「出血多量で五分五分」という電話でのやりとりの声も聞こえてくる。私の背中の傷は根元を縛って止血することができない。胴体にガーゼをあてて包帯でぐるぐる巻きにして圧血していた。アンビュランス(救急車)に運び込まれたら、先客に川邊2佐がいた。身動きもしないので「大丈夫ですか」と声をかけたら、「大丈夫だよ」と答えが返ってきた。薬王寺門を出たところでエンストした。「セルを踏め」と言ったら、運転手は「駄目です。だましだまし使っていたのがもう駄目です」と言う。この車は太平洋戦争で米軍が使ったお古を日米供与という形で貰ったもので、最初は素晴らしく感じたが、更新するだけの予算がないので整備をして使っているポンコツ車なのだ。「ヘリを呼べ」と言ったら、「飛び去った後で、音は聞こえるが無線が通じません」と悲痛な声が返ってきた。「ああ、これまでか」と一瞬思った。そのとき丁度救急車が通りかかった。運転手は道路の真ん中に飛び出し両手を広げて止めると、「これに乗り換えて下さい」と叫んだ。要請を受けて出動中の牛込消防署救急車が、目の前の救急を優先してくれたという。「中央病院への抜け道を教えようか」と言ったら、「安心して下さい、私はこの間まで自衛隊ドライバーで中病には通っていましたから、よく知っています。静かに休んでいて下さい」と言う。不幸中の幸い、運が良かった、これで助かるかもしれない、と再び希望が出てきてほっとした。中央病院への道は長く感じたが、間道を抜けて、渋滞もなくスムースに到着した。2名のナースが玄関まで台車で出迎えていた。
 第3節 入院生活状況

 手術室に入ると手術台にうつ伏せになり、レントゲン写真を2、3枚撮ったあと、アルコールで消毒された。「あっ」と悲鳴を上げた。まるでカチカチ山ボウボウ山のような感じでした。医官・板谷重忠2佐が「悪かった、水、水」と指示し、局部麻酔をして血を拭き取った。「輸血はしないでやってみます」と言う。「23糎、5糎、15糎、3糎、こちらは30糎…」と言っている。傷口を縫っているときに、「何糎というのは何のことですか」と尋ねると、「傷の深さです」「内臓に達していますか?」「大丈夫です、外科だけです」と言われ、もう安心と思った。最後に右腕を縫うときは、医官の動作をよく見ることができた。板谷医官からは「しっかりしていますね。もう安心して下さい」と励まされた。そして板谷医官から「三島さんが今、割腹自殺した」と教えられた。

 手術が終わり、病室に運ばれると5人の仲間患者が既におり、全員が点滴を受け青息吐息でいた。しかし「あなたには点滴は必要ありません」と言われた。私には点滴が要らなくても、みんなのように仰向けで寝ることができない。右腕にはギプスをして腕を吊り、背中に三太刀の大傷、ベッドに腰掛けた状態が一番楽な姿勢だった。間もなく警視庁の事情聴取依頼があった。病院から許可をもらったらしいが、応じられる状態の者は他にいないので、私が対応することになった。マスコミはシャットアウトしてあるそうだが、この事情聴取をシャットアウトするわけにもいかないので応じた。質問の中で「あなたが短刀をもぎ取った相手は誰ですか?」と3人の写真を見せられた。誰とも面識がなかったので、判るはずがない。「体格や顔つきから判断すると古賀浩靖に似ている」と写真を指差した。

 マスコミ対策のために負傷者6人を外科病棟の1室に入室させたらしいが、入り口の名札には、「寺尾」のところだけ赤札になっていた。看護婦長に理由を聞くと、「あなただけが外科の患者で、ほかの方は皆整形外科の患者です。ここは外科病棟ですから」と答えが返ってきた。慌てた様子でとっさの返事をしていたように感じたので、「新聞には重症患者と書かれているが危ないのか」と更に尋ねると、「そういう印ではありません」と答えていたが、後日、やはり注意マークだったことを教えてくれた。

 見舞いの方々が入れ替わり立ち替わり来訪した。運動場は、見舞いに駆け付けた将官の乗用車の駐車場と化していた。長兄寺尾権が病院長から直接説明を聞いて、「命に別条はない」言ってくれたので本当に安心した。東部方面総監部の三好秀男幕僚長は、「寺尾は重傷と言われたが、一番早く2週間で退院できる。君は碁を打っても、麻雀をしても負けないが、三島由紀夫に関の孫六で斬られても、皮と肉だけしか斬らせていない」と大声で言っていた。ほかの5人は点滴を受けているのでばつが悪かった。

 就寝時間になっても、左側を下に横になるだけで、寝返りも何もできない。ギプスをした右腕を食台の上に乗せたまま、左尻1箇所で体重を支えているので、痛くなり、マットの下の簀の子板の枚数が尻で数えられる。空気枕を尻にあててもらったが効き目がない。翌朝簀の子を調べたら板の角を取ってなかった。ほかのベッドは角を丸めてあった。欠陥ベッドだと言ってベッドを取り替えてもらったが、それでも痛くなった尻は急には治らない。横になれないので、昼間はベッドに腰掛け、そこらあたりを歩き回っていた。入院後2週間のうちの大部分は腰を掛けたままで眠っていた。

 こんな状態であったので、ほかの5人の包帯交換は全部見ていた。隣りベッドの中村董正2佐は、刀を掴んだまま引かれたので、左の手の平が2つに裂けて神経が切れており、双方向を切り開いて神経を引き出して繋ぎワイシャツのボタンのようなものを付けて止めてある数個のボタンが見える。こんな手術を数回繰り返せば機能は少しずつ回復するが、1年はかかると言っていた。しかし、2回の手術で打ち切り、6か月で退院したという。このため握力は、たばこの箱を縦には掴めるが、横には持ち上げられない回復の程度で諦めたようだ。

 高橋清2佐は、右手親指が真ん中から半分に切れて落ちそうだったが、繋いでやきとりの串のような金属棒を3本縦に刺し固定していた。「治れば、パチンコができるくらいになりますよ」と言っていた。3か月ほどで退院したが、いつも右手に手袋をしていたようだ。ゴルフは左手で結構上手く続けていると聞いている。

 笠間寿一2曹は向かいのベッドにいて、右手首の甲を神経を引き出して繋ぐために大きくS字型に切り開いていた。彼の得意な筆耕も手首が上手く動かないため、退院後に、肘を動かして書いているのを見たときは痛ましい限りであった。川邊晴夫2佐は、腕、顔、背中を二太刀ずつ斬られたが、額の傷がもとで片方の眉毛が下がって、人相が変わってしまった。清野不二雄1佐は、大腿部の内側を斬られ、大動脈から外れたものの骨も斬られたらしい。5人の方は、筋・骨に及ぶ整形外科の手術を受け、入院期間も2~6か月かかった。私は外科だけで、2週間の緊急入院・緊急退院だったので、不幸中の幸いを感じざるを得なかった。

 手術の縫合を見るとみんな丁寧に細かく縫ってある。私の右腕もきれいに縫合されていたが、背中は3糎ほどの間隔で大雑把な縫い方がされ、しかもやけに凸凹している。この違いを医官に尋ねたら、「背中は見えないところだから最低限にしてあります」と言う。「凸凹しているのは、あなたが走ったから傷口の筋肉が開いているのと、傷が深く傷口が塞がらないので途中で肉を引き寄せて縫ってあります」「走らないで担架で運ばれていればきれいに縫えたんです」と説明を受け初めて納得した。

 第4節 家族の看護と見舞いの対応

 自衛隊中央病院は三宿(世田谷区)にあり、負傷者の家族の方々は毎日看護に通ってきていた。片道1時間以上から2時間程度かかる方が多かった。私は幸いにして道路を隔てた三宿官舎に居たので、大変助かった。ほかの奥様方の話を聞くと、ニュースを見てびっくりして足ががたがた震えるほどだったそうだ。私の親・兄弟もお互いに電話で知らせ合うのに、足が震えてどうしようもなかったと言っていた。

 川名会計課長は、依田清1尉に命じて、「寺尾3佐がちょっと怪我したので中央病院に行きますから、奥様も病院まで行って下さい」と連絡させた。妻の芙美子はそのまま中央病院まで行ったので、ニュースも見ていなかった。病院玄関で待っていると、救急車で運ばれてきた私のしっかりした顔を見て手術の終わるのを待ったので、それほどの不安はなかったようだ。子供の美智子は中学3年で高校受験(新宿・駒場)を控えていたが、小学校3年の俊美は病院に近い東山小学校から帰ってからよく病院に来ては時々病院食を試食していた。私の入院期間は2週間程度で済み、ほかの方々とは比較にならないほど恵まれていた。

 私は横になれないので、2週間は見舞い品の管理当番役で、残った果物を各病棟患者に分けていた。ただひとつ困ったのは、見舞いの御礼の返事が書けなかったことで、急ぐものは妻に代筆を頼んだ。羨ましく思ったことは、中村2佐がただひとりせっせと返事を書いていることだった。みんなが利き手を怪我しているのに、左利きだった中村2佐だけが右手でさらさらと字が書けることに感心した。

 私は2週間目の土曜日に病院から許可をもらって白衣のまま市ヶ谷まで行って、川邊2佐と2人で朝雲新聞社のインタビューに応じたが、退院の手続きが取られていて、まさに緊急入院・緊急退院であった。退院後も自宅療養中は、毎日のように病室を訪れていた。(つづく)






(私論.私見)