三島由紀夫の国士活動考 |
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「ウィキペディア楯の会」。
「楯の会」会員は10人を1単位として10班で構成される。定員は100名。左翼革命勢力による日本への 「楯の会」の名称は、万葉集防人歌の、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」 経過 1966年(昭和41年)12月19日、小沢開策から民族派雑誌「論争ジャーナル」の創刊準備をしている青 1966年(昭和41年)10月に防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触し、自衛隊体験入隊許可の 1967年(昭和42年)6月19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で三島由紀夫と早稲田大学国防部代表らの 1968年(昭和43年)2月25日、「論争ジャーナル」事務所で、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博 1968年(昭和43年)3月1日 - 30日、持丸を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」グループと早大 1968年(昭和43年)4月上旬、堤清二の厚意により、五十嵐九十九(ドコールの制服もデザインしたと 1968年(昭和43年)5月より、山本舜勝一佐の指導による中核要員への訓練開始。集中講義、街頭訓 1968年(昭和43年)10月5日、虎ノ門の国立教育会館にて、「楯の会」の正式結成を記者発表。三島 1968年(昭和43年)10月21日、三島由紀夫と楯の会会員らと、山本舜勝と陸上自衛隊調査学校の学 1969年(昭和44年)2月1日、「論争ジャーナル」側と日学同側との架け橋役であった森田はしだいに「 1969年(昭和44年)5月23日 - 26日、楯の会特別訓練を行う。三島由紀夫はこの頃から、楯の会の7, この頃から、楯の会主要古参メンバーの中辻和彦、万代潔らと三島由紀夫との間に、「論争ジャーナ この中辻和彦らの退会問題について、林房雄は、「彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと 1969年(昭和44年)10月21日、三島と楯の会会員は、再び国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反 1969年(昭和44年)11月3日、午後3時から、国立劇場屋上で、楯の会結成一周年パレードを行う。演 1970年(昭和45年)1月末、三島宅での会食後、「(クーデターを)やりますか!」という三島由紀夫の 1970年(昭和45年)5月6日、憲法改正草案研究会の資料として、三島由紀夫の『問題提起』第一・「 1970年(昭和45年)5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋が集合。楯の会と自衛隊がと 1970年(昭和45年)9月10日 - 12日、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの 1970年(昭和45年)11月24日、三島、小賀、小川、古賀と決起の最終予行演習と、新橋の料亭・末げ 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時13分頃、森田必勝、小川正洋、古賀浩靖が同乗し、小賀正 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫は、楯の会学生長・森田必勝、同班 詳細は「三島事件」を参照 側らにいた森田必勝と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った三島由紀夫は、割腹自 1971年(昭和46年)2月、憲法改正草案研究会により、原稿用紙200枚に及ぶ「維新法案序」が完成。 1971年(昭和46年)2月28日、西日暮里の神道禊大教会で、楯の会解散式に行われた。三島由紀夫 その後、1977年(昭和52年)3月3日に楯の会の残党・伊藤好雄ら2名を含む4人の活動家が経団連襲 備考[編集] 楯の会の会員は5期生が最後だが、思想的理由で入会した民族派学生が多かったのは3期生あたり 楯の会会員には、「楯の会隊員手帳」と記された黒のビニール表紙の手帳が配布された。縦・11.5× 隊歌はレコード発売されている。タイトルは手帳記載とやや異なる。
有名な会員一覧[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
関連人物[編集]脚注[編集]
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彼(三島)は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター計画を実行することを決意していた。 計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。 それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。 彼は真の武士であった。 自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとするなら、三島の期待は実現したであろう。 自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。 それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の中で実感していた。 その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。 永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふりしぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったとしても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。 三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。 山本舜勝 元陸上自衛隊調査学校教官班長 「自衛隊 影の部隊――三島由紀夫を殺した真実の告白」より |
三島氏は政治活動で最も大切なのは「金銭の出どころ」だと言っていました。 約百名とはいえ、「楯の会」運動を続けるための費用はすべて三島氏個人が負担しており、外部に寄付を依頼することはありませんでした。 三島氏は大卒の初任給が五万円以下の時代に、年間八百万円もの私財を「楯の会」のために使い、外部に資金援助を一切依頼せず、運動の純粋性を守り通したのでした。三島氏が自ら自衛隊に体験入隊したあと、「祖国防衛隊構想」を財界人に説いて回ったそうですが、資本家たちは一見「天皇主義者」のように見えても、自己の経済的利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそうで、以後、財界の資金援助を受けようとはしませんでした。「楯の会」はたった百名の小さな組織でしたが権力に媚びることなく、既成右翼との接触もなく終わったのは資金の出どころが明確だったおかげだと思います。 三島氏の金銭に対する考え方は清潔で、納税することは国民として当たり前で、「自分の払った税金が自衛隊の戦闘機のタイヤ一本分くらいになっていると思うと嬉しく思うし、税金は安いくらいだと思う」と言っていました。 以前に瑶子夫人からお聞きしたところによると、インドへ旅行した折に大理石の美しいテーブルを見つけ、名前を入れてもらう約束で注文したらしいのですが、奥さんが半額だけ現地で払い、残りは商品が着いてから払えばと勧めたのに、「僕はそんなのは嫌だ」と言って全額を現地で払ったそうです。 注文後、一年ほど商品が着かず、奥さんは心配したそうですが、無事到着し、今も南馬込の三島邸の庭先に置かれていると思います。井上豊夫 「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より |
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の人となりについてこう語っている。「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」。…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。 というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の報せを受けてすぐに筆をとったことになる。〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった 自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が 驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。 候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)…〈一長一短〉があることを断った上で、 三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を 一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。 こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく 市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。 ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、 腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。 (中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を 下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、 駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が 多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、 アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて 政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが ないのである。 私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に 満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。 もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。 三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 杉山隆男 「兵士になれなかった三島由紀夫」より |
生長の家(せいちょうのいえ)は、神道・仏教・キリスト教等の教えを汲む新宗教。宗教法人格を持つ。1930年(昭和5年)、谷口雅春により創設された。1930年に谷口雅春によって創始された。公称信者数は212万人(2000年12月31日現在)。内日本には約85万人程度とされる。本部は東京都渋谷区神宮前1-23-30。現在の総裁は、谷口雅春の娘婿・谷口清超の二男・谷口雅宣。2008年10月28日に父・清超が89歳にて逝去したため、立教記念日の2009年3月1日付を以て、谷口雅宣が第3代生長の家総裁に就任した。 戦後の右翼にとって大きな出来事といえば、17歳の山口二矢による社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件と、盾の会による三島由紀夫事件である。その両方の事件に生長の家の谷口雅春が間接的に関わっているらしい。 |
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鈴木邦男[スズキクニオ] 1943(昭和18).8.2日、福島県郡山市生まれ。早稲田大学政治経済学部入学。学生時代は生長の家学生会全国総連合(生学連)に所属し書記長として活躍。1966(昭和41)年、早大学生連盟の議長。1969(昭和44)年、全国学生自治体連絡協議会の初代委員長となる。1970年、産業経済新聞社に入社。1972年、三島由紀夫事件を契機に新右翼団体「一水会」を結成して会長となった。平成11年、会長を辞任、顧問に就任する。プロレス評論家。合気道三段。柔道三段。著作に「愛国の昭和」「失敗の愛国心」、「遺魂 ― 三島由紀夫と野村秋介の軌跡」(無双舎)、「右翼は言論の敵か」( 筑摩書房 )など。 森田と親しかった鈴木邦男は、著書「新右翼・民族派の歴史と現在、新増補版」で次のように述べている。
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(私論.私見)
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故三島由紀夫氏は、赤尾敏を初め愛国者を貶める為にヤクザ・テキヤを組織し右翼を詐称した連中を「パチンコ右翼」と称した!
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/838.html
(回答先: 中国の横暴から日本を守る愛国者?かと、思ったら、右翼を詐称する北朝鮮勢力だった。 投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 6 月 07 日 00:31:38)
日本の戦後の右翼は、ユダヤが意図的に日本の愛国者を貶める為に、巣鴨刑務所にいた児玉誉士夫や笹川良一や岸信介を、彼らのエージェントになりフリーメーソンになるのを条件に釈放したと共に、日本のナショナリズムを封印して、一般国民をナショナリズムから切り離す為に、「愛国者」を貶める為に、彼ら出所組みの連中に、わざと社会の屑のヤクザ・テキヤを組織させて右翼を詐称させて、意図的にわざと本当の愛国者から遠ざけた。故三島由紀夫氏は、こうしたエセ右翼の連中を「パチンコ右翼」と称して軽蔑した!この自称右翼の連中は、金で操られて動かされる売国奴であり、ユダヤや統一教会・創価学会ら朝鮮系のエセ宗教団体・山口組・稲川会らの在日系組織暴力団のエージェントとなる。稲川会の石井会長に丸がかえで当選させてもらった在日朝鮮人の人非人・婦女暴行魔の小泉がそのエージェントであるのは言うまでもない。こうした在日朝鮮人が右翼ぶった連中が「靖国神社」を利用して、己れの使命である中国人や韓国人を挑発して「反日運動」に駆り立てる役割を果たすべく、「靖国神社」、「靖国神社」と騒ぐのである。他方、中国では、この朝鮮人が「反日運動」を唱えて何も知らない中国人を扇動しているのが現在の「反日運動」の正体である。複数の事情通の中国人の方々から、「反日運動」を煽って実際に主導しているのはq、中国人ではなく、これら送り込まれた朝鮮人であるとの真相が、小生には入っている。これは、日中間と日韓間を割きその衝突、つまり日米対中国・北朝鮮・韓国の軍事衝突に追い込むというユダヤの大戦略の手先の策動であることは明らかである。本当の「愛国者」は、本当の幕末明治維新の仕掛け人で主人公であった勝海舟とその愛弟子の西郷隆盛・坂本龍馬の主張したアジア主義路線「東洋共有の海局」に沿った「大アジア主義」こそ、取るべき「愛国者」の路線である。この勝海舟とその愛弟子の西郷隆盛・坂本龍馬の主張したアジア主義路線「東洋共有の海局」から宮崎とう天・頭山満の「アジア主義」が生まれ、同じアジア人の中国人孫文の「中国革命」が生まれたのである。こうした日中の提携を何とかして潰して、満州・中国のアジア大陸から日本を追い払い、中国市場を独占したかったのがユダヤであった。日中はそのユダヤの姦計にやすやすと嵌り、中国共産党の仕掛けたろこう橋事件で日中衝突に嵌った。あれ程、石原莞爾が中国本土には入ってはならないと警告していたにも関わらず、である。今、また、ユダヤに所有されているマスコミ初め、愚かな大衆は、エセ在日朝鮮右翼に煽り誘導されて、日華事変の訳70年目の今日、再度、仕組まれた「日中衝突のシナリオ」に嵌め込まれようとしている。「故三島由紀夫氏」の切り落とされた首は、エセ右翼の心胆を寒からしめて、「パチンコ右翼」の正体を天下に曝したのである。「靖国神社」の「神域」に、これらの小泉を初めとした在日朝鮮エセ右翼が、足を一歩たりとも踏み入れることだに、500キロ爆弾とともにユダヤに支配された植民地米国軍の敵機動部隊に突入して散華した新の勇者の英霊達は、許しはするまい。愛国者の日本人よ、中国人よ、目覚めねばならない。この姦計の仕掛け人達こそ、あの英霊達が体当たりしてでも、倒そうとした相手であったことを!