三島由紀夫の国士活動考

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 2013.08.31日 れんだいこ拝


 「楯の会」会員は10人を1単位として10班で構成される。定員は100名。左翼革命勢力による日本への
間接侵略に対抗することを標榜し、民族派学生を中心として、1968年(昭和43年)10月5日に正式結
成され、1971年(昭和46年)2月28日に解散した。

 「楯の会」の名称は、万葉集防人歌の、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」
(詠み人:今奉部與曾布―いままつりべのよそふ)と、江戸末期の歌人・橘曙覧の、「大皇の 醜の御
楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首に由来する。当初は一期会員・金子弘道の提案によ
る「御楯会(みたてかい)」も候補に上がったが、討議の結果、「楯の会」と決定された。

 経過

 1966年(昭和41年)12月19日、小沢開策から民族派雑誌「論争ジャーナル」の創刊準備をしている青
年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌編集部の万代潔(平泉澄門人明治学院大学卒)が三島宅
を来訪。万代を気に入った三島由紀夫は、同誌を中心とする民族派学生たちと親交を結び、翌年の19
67年
1月5日の「論争ジャーナル」(編集長・中辻和彦(明治学院大学)、副編集長・万代潔)創刊以降、
同誌に無償で寄稿する。一方、同年1月27日には、日本学生同盟(日学同)の持丸博早稲田大学在学
)も、日学同の機関紙「日本学生新聞」寄稿依頼に三島宅を来訪。

 1966年(昭和41年)10月に防衛庁関係者や元陸将藤原岩市などと接触し、自衛隊体験入隊許可の
ための仲介や口利きを求めていた三島由紀夫は、翌年の1967年(昭和42年)4月12日 - 5月27日、単
身で45日間自衛隊体験入隊する。「論争ジャーナル」グループと日学同の学生らも自衛隊体験入隊を
希望する中、三島は民兵組織・「祖国防衛隊」構想を固め、持丸博を通じて、早稲田大学国防部の協
力を要請する。この時期、三島と日学同と「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかしそ
の後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」グループと、反対の立場
を取る日学同との間に亀裂が生じ始めることとなる(のち、祖国防衛隊学生長となった持丸は日学同を
除籍される)。

 1967年(昭和42年)6月19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で三島由紀夫と早稲田大学国防部代表らの
面談が行われ、三島は森田必勝(早大教育学部在学、日学同)と初めて会う。同年7月2日から1週間、
森田ら早大国防部13名と三島による、自衛隊北海道北恵庭駐屯地での体験入隊が行なわれた。同年
11月、三島と「論争ジャーナル」グループとの間で、民兵組織「祖国防衛隊」の試案パンフレット(Japan
National Guard)が作成される。同年12月、パンフレットを読んだ陸上自衛隊調査学校情報教育課長・
山本舜勝と三島は面談し、祖国防衛隊構想に弾みがついていく。持丸博によると、三島は山本と会って
ひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえ
も一緒に会おう」と言ったという[1]

 1968年(昭和43年)2月25日、「論争ジャーナル」事務所で、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博
ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ
以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と記す。三島は本名の“平岡公威”で署名。

 1968年(昭和43年)3月1日 - 30日、持丸を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」グループと早大
生を中心にした20数名の学生らと三島由紀夫による、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地での体験入
隊が行なわれた。これが第1回目の「祖国防衛隊」中核要員候補(一期生)の引率となる。この回には再
び森田必勝も参加した。同月、三島は持丸を通じ、桜田武日本経営者団体連盟代表常任理事)らへ
の接触を始めて、初面談を持つ。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じ
て説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨の書簡を送る。

 1968年(昭和43年)4月上旬、堤清二の厚意により、五十嵐九十九(ドコールの制服もデザインしたと
いう)がデザインした制服徽章は三島自身のデザインに基づく)の完成を祝して、三島由紀夫は「祖国
防衛隊」幹部12名と共に、青梅市の愛宕神社に参拝に赴く。同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、
原岩市
と四者面談する。桜田は前回より理解を示し、「体験入隊同好会」という無難な名称にするように
指示し、中核要員のみを無名称で置き「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した。

 1968年(昭和43年)5月より、山本舜勝一佐の指導による中核要員への訓練開始。集中講義、街頭訓
練などを積む。同年7月25日 - 8月23日、二期生を迎え、富士学校滝ヶ原駐屯地で第2回目の自衛隊体
験入隊が行なわれた。この二期生には小賀正義(神奈川大学工学部在学)、古賀浩靖(神奈川大学
学部
既卒)がいた。その一方、結局は日経連の桜田からの支援協力が中途半端な形で、バカにされた
ことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという。三島
のプライドはひどく傷つく)[2]、三島由紀夫は「祖国防衛隊」の名称を変え、少数先鋭の部隊にすること
を決定する。

 1968年(昭和43年)10月5日虎ノ門国立教育会館にて、「楯の会」の正式結成を記者発表。三島
由紀夫は持丸博を初代・学生長に任命する。会員は主に大学生の中から三島の面接試験で選ばれ、
無給ではあったが、夏・冬、各一着の制服、制帽戦闘服軍靴特殊警棒を支給された。会員資格は
陸上自衛隊で1ヶ月の軍事訓練を受け、その1ヶ月を落伍せずに勤め上げること、会員はその1年後、
再び自衛隊でRefresher Course(リフレッシャー・コース)を受けること、毎年11月3日には国立劇場屋上
にてパレードをおこなうことになっていた。月1回の例会も活動内容の一つであった。会の運営はあくま
で三島個人のポケットマネーで行なった。のち1970年(昭和45年)2月に自民党佐藤栄作から資金援
助を申し出られたこともあったが、三島はこれを断固拒絶した。

 1968年(昭和43年)10月21日、三島由紀夫と楯の会会員らと、山本舜勝と陸上自衛隊調査学校の学
生らは、国際反戦デーの左翼デモ新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リー
ダー
が誰かなどを調査。また、これからの左翼デモにおける自衛隊治安出動の可能性と、その援護、
魁となる斬り込み隊要員・楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化計画を練る。この頃、
森田必勝は山本に、「誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか」と訊ねる。同年12月、三島邸
に楯の会の中核会員と山本らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画も模
索する。三島が山本に、「いつ起つのか」という質問に、山本が、「暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱さ
れたときと、治安出動の際だ」と答えると三島は、「そのときは、あなたのもとで中隊長をやらせていただ
きます」と言ったという[2]

 1969年(昭和44年)2月1日、「論争ジャーナル」側と日学同側との架け橋役であった森田はしだいに「
論争ジャーナル」側(楯の会)に完全に傾き、小川正洋(明治学院大学法学部在学)、野田隆史、田中
健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日学同を正式に脱退。この日学同脱退メンバーは十二社にあ
アパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。同
年2月19日 - 23日、山本舜勝の指導の下、板橋区松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が行われた
。同年3月1日 - 29日、楯の会会員を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地
で行われた。この三期生には小川正洋も加わった。この時、楯の会はヘンリー・スコット・ストークス(
語版
)の取材を受ける。「なぜ楯の会に入ったのか」と問われた森田必勝は、「三島に随いていこうと思
った。三島は天皇とつながっているから」と答えたという[3]。同年4月13日、ヘンリー・スコット・ストーク
スの記事を見たロンドンのテムズ・テレビジョン(英語版)が楯の会の市ヶ谷会館での例会取材のため
来日。訓練の様子を撮影する。同年6月、三島由紀夫と楯の会は、ソ連共産党機関紙「ソヴィエツカヤ
・ロシア(ロシア語版)」から名指しで批判される。

 1969年(昭和44年)5月23日 - 26日、楯の会特別訓練を行う。三島由紀夫はこの頃から、楯の会の7,
8名に居合を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田俊夫、勝又武校、原昭弘、
小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡す。同年6月下旬、山本舜勝と5名の自衛官と、三島らが山の上ホ
テル
で会食。皇居死守の具体的なクーデター計画などについて話し合う。三島は山本に、「すでに決死
隊を作っている」と決断を迫るが、山本は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも
自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と反対する。自衛官らは三島に賛同していたが
、山本の賛同が得られずに終わる[2]。同年7月26日 - 8月23日、楯の会会員を引率した第4回の体験
入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。

 この頃から、楯の会主要古参メンバーの中辻和彦、万代潔らと三島由紀夫との間に、「論争ジャーナ
ル」の資金源(中辻らが田中清玄に資金を求めていたこと)をめぐって齟齬が生じ始め、1969年(昭和
44年)10月3日に中辻、万代ら数名が楯の会を正式退会。持丸博(初代・学生長)も、同年10月12日に
楯の会を退会する。村松剛によると、持丸は、三島の「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証
する」という提案を断ったという[4]。持丸は、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。三島
は山本舜勝に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったとい
[2]。持丸の代わりに森田必勝が学生長となり、「論争ジャーナル」編集部内にあった楯の会事務所も
森田宅に移転した。

 この中辻和彦らの退会問題について、林房雄は、「彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと
同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実で
あったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。(中略)ある“大
先輩”の一人は、『ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連
中みたいな奴らばかりだった』とまで極言した。(中略)『楯の会』はいち早く彼らを除名した。三島君は
村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村
松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記
NやMの光クラブ派は厳しく排除された」のだと述べている。そして、楯の会結成1周年記念パレードの
前々日あたりに、三島は林房雄に、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てく
ださい」と電話してきたという[5]

 1969年(昭和44年)10月21日、三島と楯の会会員は、再び国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反
戦デー闘争
の状況を確認するが、新左翼は警察に簡単に鎮圧され、もはや自衛隊治安出動に乗じた
憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識する。同年10月31日、三島宅で行われた楯の会班
長会議で、森田必勝は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し憲法改正を発議させたらどうか」と提案。こ
れに対し三島は、武器の問題などで実行困難と返答する。

 1969年(昭和44年)11月3日、午後3時から、国立劇場屋上で、楯の会結成一周年パレードを行う。演
奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。藤原岩市陸将、三輪良雄元防衛事務次官が祝辞を述べる。三
島由紀夫は川端康成も招待し、祝辞挨拶を依頼していたが、川端に断られた。同年11月16日、新左翼
を中心とした佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び警察に簡単に鎮圧され自衛隊治安出動は絶
望的となる。同年11月28日、三島宅で、最終的計画案の討議を再び山本舜勝と行うが、山本から具体
策が得られず終わる。同年12月22日、三島と楯の会会員88名は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、落下
降下の予備訓練を行う。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説く。これに基づき、後に、阿部勉
班長とする憲法改正草案研究会(13名)が楯の会内に組織され、以降、毎週水曜に討議が行われた。

 1970年(昭和45年)1月末、三島宅での会食後、「(クーデターを)やりますか!」という三島由紀夫の
問いに対し、山本舜勝は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答する[2]。同年3月1日 - 28日
、楯の会会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われる。この頃
から、森田必勝と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同年4月10日、三
島は小川正洋に「最終行動」に加わる意志があるかどうか打診し、小川は承諾。

 1970年(昭和45年)5月6日、憲法改正草案研究会の資料として、三島由紀夫の『問題提起』第一・「
新憲法における『日本』の欠落」が配布される(同年7月8日には第二・「戦争の放棄」、9月30日には第
三・「非常事態法について」が配布)。これに基づき、研究会メンバーが毎週1回のペースで起草作業を
進める。

 1970年(昭和45年)5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋が集合。楯の会と自衛隊がと
もに武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴える方法を討議する。同年6月2日 - 4日、陸上自衛隊富
士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの体験入隊が行なわれる。同年6月13日、三島、森田、
小賀、小川はホテルオークラ821号室に集合。具体的な決起の計画(自衛隊の弾薬庫を爆破すると脅
すか、あるいは三十二連隊長を拘束するか、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集
結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる計画など)を討議。同年8月下旬、三島ら4名は、古賀浩靖を
仲間に加えることを決定。同年9月2日、森田と小賀に、「生命を貸してくれ」と頼まれた古賀浩靖は、同
志に加えてくれたことを感謝し、同意する(以降の経緯については、三島事件を参照のこと)。

 1970年(昭和45年)9月10日 - 12日、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの
体験入隊が行なわれる。同年10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に
作成した血盟状は(著名した者の多くは去ったので)焼却したいから持って来てほしいと頼む。同年10月
27日、三島は血盟状を、持丸とともに劇団浪曼劇場の庭で焼却する。しかし、このとき持丸は血盟状の
コピーを内密にとっておく。

 1970年(昭和45年)11月24日、三島、小賀、小川、古賀と決起の最終予行演習と、新橋の料亭・末げ
での別れの会食を終え、西新宿の下宿に帰宅した森田必勝は、同居していた楯の会会員の田中
健一に、翌日の楯の会例会が行なわれる市ヶ谷会館で記者・徳岡孝夫伊達宗克に渡すべき封書を
託す。

 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時13分頃、森田必勝、小川正洋、古賀浩靖が同乗し、小賀正
義の運転する41年型白塗りコロナが三島宅に到着。日本刀・関孫六を携えた三島由紀夫を乗せて自
衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。アタッシュケースには、短刀2本、特殊警棒3本、檄文コピー多数、要
求書原本およびコピー2通、辞世の句が書かれた短冊6枚などを収められていた。

 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫は、楯の会学生長・森田必勝、同班
長・小賀正義、同班長・小川正洋、同副班長・古賀浩靖)の4名と共に、市ヶ谷駐屯地・陸上自衛隊
部方面総監部
二階の総監室を訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。総監室に通され、応
接セットにいざなわれた三島は益田兼利東部方面総監(陸将)に、森田ら4名を、一人一人名前を呼ん
で紹介する。三島事件はこの直後に起きた。

 側らにいた森田必勝と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った三島由紀夫は、割腹
決。続いて森田も割腹自決した(詳細は、三島事件を参照のこと)。後日、楯の会残余会員(本事件とは
無関係)に渡された三島の遺書により、楯の会は三島の自決をもって解散となる。

 1971年(昭和46年)2月、憲法改正草案研究会により、原稿用紙200枚に及ぶ「維新法案序」が完成。

 1971年(昭和46年)2月28日西日暮里神道禊大教会で、楯の会解散式に行われた。三島由紀夫
の妻・瑤子夫人の立会いの下、楯の会は正式に解散を宣言する。杉山家(瑤子夫人の実家)は、神道
と関係が深く、神道禊大教会は杉山家と縁があり、解散式の場所となったという。元楯の会メンバー・
伊藤好雄によると、瑤子夫人は神道に関する造詣が深かったという[6]。楯の会の制服は集められ、瑤
子夫人の元に託されたという。三島が楯の会に注ぎ込んだ費用は当時で約二千万円といわれる[7]

 その後、1977年(昭和52年)3月3日に楯の会の残党・伊藤好雄ら2名を含む4人の活動家が経団連襲
撃事件
を起こしている。瑤子夫人が犯人説得にあたったという。

 備考[編集]

 楯の会の会員は5期生が最後だが、思想的理由で入会した民族派学生が多かったのは3期生あたり
までで、4期や5期ともなると『平凡パンチ』のグラビアを見て制服や銃に憧れて入会した者も多かったと
いう。思想的基盤を持たないこれらの会員の中には、三島事件後、楯の会での活動歴が就職に悪影
響を及ぼすことを恐れてただちに退会した者もいたという[8]

 楯の会会員には、「楯の会隊員手帳」と記された黒のビニール表紙の手帳が配布された。縦・11.5×
横・6.9センチ。7頁まで印刷(1頁目は「身分証明書」。2頁目は「三島由紀夫の角印」。3頁目は「三原
則」。4頁目は「特殊警棒所持規定」。5頁目は「楯の会被服貸与規定」。6 頁目は「楯の会規約草案」。
7頁目は「隊歌・起て! 若き紅の獅子たち」)、以下白紙のメモ帳が別丁で付いている。

 隊歌はレコード発売されている。タイトルは手帳記載とやや異なる。

 『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』(EPレコード[9]
1970年(昭和45年)4月29日にクラウンレコードより発売。
作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会。
ジャケット写真:三角に整列した楯の会。
B面は『英霊の声―三島由紀夫作「英霊の聲」より』(作曲・編曲:越部信義。朗読:三島由紀夫。
竜笛:関河真克。演奏:クラウン弦楽四重奏団。題字「英霊の声」(ジャケット):三島由紀夫)[9]

 有名な会員一覧[編集]

東京府東京市四谷区出身。
茨城県水戸市出身。第二班長。
三重県四日市市出身。
北海道滝川市出身。
  • 小賀正義(神奈川大学・三島事件) 二期生
和歌山県有田市出身。
千葉県山武郡出身。
東京都中央区日本橋出身。第六班長。
秋田県仙北郡出身。第五班長。
東京都杉並区出身。
  • 倉持清(早稲田大学) 一期生

 参考文献[編集]

  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  • 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
  • 三島由紀夫 『「楯の会」のこと』(楯の会結成一周年記念パンフレット、1969年11月)『決定版 三島
  • 由紀夫全集第35巻・評論10』pp.720-727(新潮社、2003年)所収
  • 井上豊夫 『果し得ていない約束―三島由紀夫が遺せしもの』(コスモの本、2006年)
  • 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)
  • 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  • 鈴木亜繪美(監修・田村司)『火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡』(柏艪舎、2005年)
  • 伊達宗克編『裁判記録 「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)

 関連項目[編集]

 関連人物[編集]

 脚注[編集]

  1. ^ 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
  2. ^ a b c d e 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸
  3. 社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  4. ^ ヘンリー・スコット・ストークス(英語版)『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版、1998年)
  5. ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  6. ^ 林房雄『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)
  7. ^ 伊藤好雄『召命 隊長三島の決起に取り残されて』
  8. ^ 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
  9. ^ 山平重樹『最後の浪人 阿部勉』pp.85 - 86
  10. ^ a b 『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。

 彼(三島)は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター計画を実行することを決意していた。 計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。 それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。 彼は真の武士であった。 自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとするなら、三島の期待は実現したであろう。 自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。 それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の中で実感していた。 その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。 永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふりしぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったとしても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。 三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。 山本舜勝 元陸上自衛隊調査学校教官班長 「自衛隊 影の部隊――三島由紀夫を殺した真実の告白」より

 三島氏は政治活動で最も大切なのは「金銭の出どころ」だと言っていました。 約百名とはいえ、「楯の会」運動を続けるための費用はすべて三島氏個人が負担しており、外部に寄付を依頼することはありませんでした。 三島氏は大卒の初任給が五万円以下の時代に、年間八百万円もの私財を「楯の会」のために使い、外部に資金援助を一切依頼せず、運動の純粋性を守り通したのでした。三島氏が自ら自衛隊に体験入隊したあと、「祖国防衛隊構想」を財界人に説いて回ったそうですが、資本家たちは一見「天皇主義者」のように見えても、自己の経済的利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそうで、以後、財界の資金援助を受けようとはしませんでした。「楯の会」はたった百名の小さな組織でしたが権力に媚びることなく、既成右翼との接触もなく終わったのは資金の出どころが明確だったおかげだと思います。 三島氏の金銭に対する考え方は清潔で、納税することは国民として当たり前で、「自分の払った税金が自衛隊の戦闘機のタイヤ一本分くらいになっていると思うと嬉しく思うし、税金は安いくらいだと思う」と言っていました。 以前に瑶子夫人からお聞きしたところによると、インドへ旅行した折に大理石の美しいテーブルを見つけ、名前を入れてもらう約束で注文したらしいのですが、奥さんが半額だけ現地で払い、残りは商品が着いてから払えばと勧めたのに、「僕はそんなのは嫌だ」と言って全額を現地で払ったそうです。 注文後、一年ほど商品が着かず、奥さんは心配したそうですが、無事到着し、今も南馬込の三島邸の庭先に置かれていると思います。井上豊夫 「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

 学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の人となりについてこう語っている。「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」。…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。 というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の報せを受けてすぐに筆をとったことになる。〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった 自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が 驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。 候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)…〈一長一短〉があることを断った上で、 三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を 一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。 こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく 市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。 ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、 腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。 (中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を 下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、 駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が 多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、 アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて 政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが ないのである。 私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に 満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。 もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。 三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 杉山隆男 「兵士になれなかった三島由紀夫」より

 生長の家

生長の家(せいちょうのいえ)は、神道・仏教・キリスト教等の教えを汲む新宗教。宗教法人格を持つ。1930年(昭和5年)、谷口雅春により創設された。1930年に谷口雅春によって創始された。公称信者数は212万人(2000年12月31日現在)。内日本には約85万人程度とされる。本部は東京都渋谷区神宮前1-23-30。現在の総裁は、谷口雅春の娘婿・谷口清超の二男・谷口雅宣。2008年10月28日に父・清超が89歳にて逝去したため、立教記念日の2009年3月1日付を以て、谷口雅宣が第3代生長の家総裁に就任した。

 戦後の右翼にとって大きな出来事といえば、17歳の山口二矢による社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件と、盾の会による三島由紀夫事件である。その両方の事件に生長の家の谷口雅春が間接的に関わっているらしい。

 鈴木邦男[スズキクニオ]

 1943(昭和18).8.2日、福島県郡山市生まれ。早稲田大学政治経済学部入学。学生時代は生長の家学生会全国総連合(生学連)に所属し書記長として活躍。1966(昭和41)年、早大学生連盟の議長。1969(昭和44)年、全国学生自治体連絡協議会の初代委員長となる。1970年、産業経済新聞社入社。1972年、三島由紀夫事件契機新右翼団体「一水会」結成して会長となった。平成11年、会長を辞任、顧問に就任する。プロレス評論家。合気道三段。柔道三段。著作に「愛国の昭和」「失敗愛国心」、「遺魂 ― 三島由紀夫と野村秋介の軌跡」(無双舎)、「右翼は言論の敵か」( 筑摩書房 )など。

 森田と親しかった鈴木邦男は、著書「新右翼・民族派の歴史と現在、新増補版」で次のように述べている。

 「日学同の粛清の歴史はすごかった。楯の会に走った人間も、みな除名処分で、森田必勝などは『共産主義者に魂を売った』という理由で除名処分にし、そのことを日本学生新聞にデカデカと載せていた。日学同を裏切る人間は即、敵(共産主義者)を利するものであるという理屈だった。、、、日学同は、、昔のことに頬かむりして、三島事件に便乗した。、、森田の日記まで出版しさらに、毎年三島、森田を追悼する憂国忌までやっている。これでは楯の会ならずとも激怒するのは当然である。、、、、今でも、楯の会の人間や当時の事情を知っている人間は、だから憂国忌には一切参加しない」。





(私論.私見)

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故三島由紀夫氏は、赤尾敏を初め愛国者を貶める為にヤクザ・テキヤを組織し右翼を詐称した連中を「パチンコ右翼」と称した!
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/838.html
投稿者 救国の草莽の志士 日時 2005 年 6 月 07 日 10:54:38: fzrYJ5Wj4Dt36

 

(回答先: 中国の横暴から日本を守る愛国者?かと、思ったら、右翼を詐称する北朝鮮勢力だった。 投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 6 月 07 日 00:31:38)

日本の戦後の右翼は、ユダヤが意図的に日本の愛国者を貶める為に、巣鴨刑務所にいた児玉誉士夫や笹川良一や岸信介を、彼らのエージェントになりフリーメーソンになるのを条件に釈放したと共に、日本のナショナリズムを封印して、一般国民をナショナリズムから切り離す為に、「愛国者」を貶める為に、彼ら出所組みの連中に、わざと社会の屑のヤクザ・テキヤを組織させて右翼を詐称させて、意図的にわざと本当の愛国者から遠ざけた。故三島由紀夫氏は、こうしたエセ右翼の連中を「パチンコ右翼」と称して軽蔑した!この自称右翼の連中は、金で操られて動かされる売国奴であり、ユダヤや統一教会・創価学会ら朝鮮系のエセ宗教団体・山口組・稲川会らの在日系組織暴力団のエージェントとなる。稲川会の石井会長に丸がかえで当選させてもらった在日朝鮮人の人非人・婦女暴行魔の小泉がそのエージェントであるのは言うまでもない。こうした在日朝鮮人が右翼ぶった連中が「靖国神社」を利用して、己れの使命である中国人や韓国人を挑発して「反日運動」に駆り立てる役割を果たすべく、「靖国神社」、「靖国神社」と騒ぐのである。他方、中国では、この朝鮮人が「反日運動」を唱えて何も知らない中国人を扇動しているのが現在の「反日運動」の正体である。複数の事情通の中国人の方々から、「反日運動」を煽って実際に主導しているのはq、中国人ではなく、これら送り込まれた朝鮮人であるとの真相が、小生には入っている。これは、日中間と日韓間を割きその衝突、つまり日米対中国・北朝鮮・韓国の軍事衝突に追い込むというユダヤの大戦略の手先の策動であることは明らかである。本当の「愛国者」は、本当の幕末明治維新の仕掛け人で主人公であった勝海舟とその愛弟子の西郷隆盛・坂本龍馬の主張したアジア主義路線「東洋共有の海局」に沿った「大アジア主義」こそ、取るべき「愛国者」の路線である。この勝海舟とその愛弟子の西郷隆盛・坂本龍馬の主張したアジア主義路線「東洋共有の海局」から宮崎とう天・頭山満の「アジア主義」が生まれ、同じアジア人の中国人孫文の「中国革命」が生まれたのである。こうした日中の提携を何とかして潰して、満州・中国のアジア大陸から日本を追い払い、中国市場を独占したかったのがユダヤであった。日中はそのユダヤの姦計にやすやすと嵌り、中国共産党の仕掛けたろこう橋事件で日中衝突に嵌った。あれ程、石原莞爾が中国本土には入ってはならないと警告していたにも関わらず、である。今、また、ユダヤに所有されているマスコミ初め、愚かな大衆は、エセ在日朝鮮右翼に煽り誘導されて、日華事変の訳70年目の今日、再度、仕組まれた「日中衝突のシナリオ」に嵌め込まれようとしている。「故三島由紀夫氏」の切り落とされた首は、エセ右翼の心胆を寒からしめて、「パチンコ右翼」の正体を天下に曝したのである。「靖国神社」の「神域」に、これらの小泉を初めとした在日朝鮮エセ右翼が、足を一歩たりとも踏み入れることだに、500キロ爆弾とともにユダヤに支配された植民地米国軍の敵機動部隊に突入して散華した新の勇者の英霊達は、許しはするまい。愛国者の日本人よ、中国人よ、目覚めねばならない。この姦計の仕掛け人達こそ、あの英霊達が体当たりしてでも、倒そうとした相手であったことを!