【「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」】 | |
「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」(2006/11/26)を転載する。
|
「三島由紀夫の謎」(2009年9月25日 作成者: 町田)を転載する。
|
【三島由紀夫の国体論考】 | |
「書評 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決 文藝春秋」。
|
三島由紀夫の憲法改正草案考、国体論、戦後体制論 |
(最新見直し2014.06.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、三島由紀夫の憲法改正草案を確認し、これを批判しておく。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
【三島由紀夫の憲法改正草案の構図考】 | ||||||||||||||||||
「三島由紀夫の憲法改正草案」が開示されている。「自決と共に三島由紀夫が憂国の思いを後世に託した憲法改正案」と銘打たれている。1970.11.25日の東京・市谷での決起の日まで三島の身近に居た元「盾の会」の関係者が、30年以上の沈黙を破り産経新聞に改正案などを公開した。件の憲法改正草案は、三島由紀夫が「楯の会」の憲法研究会に作成を指示し、自らも議論に加わってできあがったものである。 楯の会とは、1970年安保改定期に、これに反対する左翼勢力に対抗するため、三島の主導で学生を中心に約100人で結成された民兵組織だった。三島はそのうち13人を憲法研究会のメンバーとして「憲法研究会」を発足させた(班長・阿部勉)。1970年安保に向けて学生運動が激化した1969年12月以降、毎週3時間、計34回にもわたる討議を繰り返した。三島は、『問題提起』第一・「新憲法における『日本』の欠落」(1970.5月配布)、第二・「戦争の放棄」(1970.7月配布)、第三・「非常事態法について」(1970.9月配布)を起草し、これを基本資料として検討を続けた。この改正草案は、日の目を見ることはなかった。三島が割腹自殺したことによる。三島の死後の1971.2月、残された会員らによって研究会による一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」と題された草案がまとめられたが、一部公開されることはあったものの原文は封印されたままだった。楯の会は同月28日に解散した。「維新法案序」と三島由紀夫が執筆した「問題提起」の冊子は大切に保管されてきた。関係者は「改正案は、盾の会会員であった者にとって三島先生の遺書」と言う。ところが今回、当時の楯の会主要メンバーであり、憲法研究会に所属していた本多清・氏が、その全文公開に踏み切った。三島が草案作成に先だって記した直筆の「問題提起」が添えられている。産経新聞の2003(平成15).11.2日号により初めて紹介された。 「三島の死後、盾の会憲法研究会が完成させた「維新法案序」の天皇および国防に関する部分は次の通りである」として以下の内容のものになっている。
三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起』の第二・「戦争の放棄」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月)では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして憲法第9条第2項では、自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「“国家として死ぬ”以外にはない」から、そのため政府はいわゆる緊急避難の解釈理論という「牽強付会の説を立てた」と述べ、それは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大」しているとし、「国家理念を剥奪された日本」は、「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた」と断じている。 また三島は、法的には明らかに違憲である自衛隊の創設は、皮肉にも、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくものである」が、朝鮮戦争やベトナム戦争という難関を突破した1970年以降も、ただ護憲を標榜するだけの政府について、「消極的弥縫策(一時のがれにとりつくろって間に合わせるための方策)にすぎず」、「しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大し」、「平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく」と問題提議を唱えている。 なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上、「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」とし、この条約が「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである」と断じている。 さらに、改憲に当たっては憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては、そのためには「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると断じ、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、「第九条全部を削除」すべしと主張している。 また同論では、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題と、第20条「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考えなければ、日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。憲法9条のみを改正し、日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国その他アジア反共国家と並ぶだけの結果に終ると警告し、正しい日本の体面回復のためには、憲法9条を全部破棄し、その代わりに、日本国軍を設立し憲法に、「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定・明記するべきであると主張している。 また三島は、平和憲法と呼ばれる憲法9条について、「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と、闇市の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と断じた。三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。 |
ここへ来て松藤竹二郎「血滾ル三島由紀夫『憲法改正』」(毎日ワンズ、2006.3)に続いて本田清・著「天皇に捧ぐ憲法改正」(毎日ワンズ、2013.8月初版)が出版されている。安倍政権の憲法改正の動きに合わしている気配があるので一言しておく。三島の改憲論は北一輝以来の日本国体論を照射していることに意味がある。自衛隊合法化式憲法改正論を唱えているが、それは付け足しであり、三島の本意は日本の国家としての自立訴求にこそあったと思われる。それは、現下の日本の国家としての自立を訴求しない上での憲法改正運動とは真逆に位置する。ここに三島の市ヶ谷自衛隊基地での挫折の秘密が宿されている。ここに、かの時、三島が何故に始末されねばならなかったのかの秘密を解くカギがある。 三島がもう少し長生きしていたら、三島はいずれ日本国体論の解明に向かったのではなかろうかと思っている。歴史がその時を与えなかったのが悔やまれるが致し方ない。仮定として、今のれんだいこの「原日本論新日本論」と摺り合わせしたら、三島の国体論、憲法改正論はその内容を大きく変えたと思う。三島は「原日本論新日本論」なき故に、皇国史観的国体論で理論武装するしか道がなく、これが為に無益な暴走に向かったのではないかと思っている。留意すべきは国体論に非があるのではないことである。皇国史観的国体論に非があるのである。この違いを踏まえたい。 れんだいこは今、「三島は強制自決させられた論」を打ち出した。これを無視したままの従来通りの三島自決論の延長線上で、且つ三島の未熟な産物でしかなかった皇国史観的国体論の延長線上で三島が書き付けていた改憲論を吹聴し、それを現下の改憲運動に重ね勢いづけることは許されない。それは、三島の死を「憲法改正を求めて自決した」として賛美すると云う虚構に立っての悪しき政治利用でしかない。冒頭の二書を読んでいないが、発酵過程中であった三島式国体論の真意を廻る検証抜きの単に憲法改正扇動に資する内容に堕していないことを願っている。 |
以下、とりあえず転載しておく。後日整理する。
【「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」】 | |
「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」(2006/11/26)を転載する。
|
「三島由紀夫の謎」(2009年9月25日 作成者: 町田)を転載する。
|
【三島由紀夫の国体論考】 | |
「書評 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決 文藝春秋」。
|
(私論.私見)