【「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」】

 「第36回憂国忌 三島由紀夫の在日論」(2006/11/26)を転載する。

 【民族派の知識箱】

 戦後の日本を否定し続けた三島由紀夫には、時折、深い絶望感も顔をのぞかせる。歪み切った世論形成に不快感を表すことも稀ではなかった。英国の『QUEEN』誌に寄稿した論文には、極めて平易な言葉で不満が語られれている。

 「私は日本の戦後の偽善にあきあきしていた。私は決して平和主義を偽善だと云わないが、日本の平和憲法が左右両方からの政治的口実に使われた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になった国はないと信じている。この国でもっとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼的で、平和主義で、暴力否定論者であることであった」。

 30数年前、三島は思想戦で間接的に我が国が侵略を受けていると認識していた。「私は自然に、軍事上の『間接侵略』という概念に達したのである。間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも日本にとっては)日本という国のIdentityを犯そうとする者と、守ろうとする者の戦いだと解せられる」。

 「三島由紀夫の謎」(2009年9月25日 作成者: 町田)を転載する。

 「私は、現実には絶対にありそうもない出来事をリアリスティックに書く」 ( 『盗賊ノート』 )

 三島由紀夫は、たとえば、金閣寺に放火する若い僧の内面を、彫刻を刻むがごとくに、精緻に巧妙に穿っていく。磯田光一の 『殉教の美学』 。中世の騎士の時代が終わったにもかかわらず、騎士を気取るドン・キ・ホーテは、従者のサンチョ・パンサと二人で 「騎士道を生きる旅」 を続ける。キ・ホーテは、ただの風車を伝説上のドラゴンと間違えて戦うような人で、いわば狂人である。 「騎士道」 などというメンタリティが何の意味をなさない時代になったにもかかわらず、誇大妄想に取り付かれたキ・ホーテは、騎士としてのプライドとロマンを求めながら旅を続ける。そのキ・ホーテを、正気のサンチョ・パンサは、主人の狂気にうんざりしながらも忠実にケアしながら付き従う。だから、この物語は、現実を錯誤して虚しい空騒ぎを続ける “狂人” と、現実を直視する “理性の人” の物語と読めないことはない。そして、多くの人はこの物語の中に、滅び行く中世的ロマンの世界を生きるキ・ホーテと、勃興する近世の合理主義精神を生きるサンチョ・パンサという、時代が交代するときの 「寓話」 を読み込んだという。そんな主従の珍道中を描いた物語を、批評家の磯田光一氏は突然取り上げ、その 「ドン・キ・ホーテこそ三島由紀夫だ!」 と言い放ったのだ。ただし、「キ・ホーテが、風車がドラゴンと間違えたのではなく、風車を風車として、しっかり見抜いて戦ったのだとしたら?」という懐疑を提出したのだ。

 時代錯誤を生きる狂人キ・ホーテは、そこでにわかに今の時代そのものと戦う孤高の戦士という相貌を現してくる。「三島由紀夫という作家は、そのような人間だ」と、磯田光一氏は定義づけたのだ。この磯田氏の語り口に、青天の霹靂ともいう衝撃を受けて、若い私はいたく感動したものだ。
 三島由紀夫の謎 への4件のコメント

 三島が国粋思想へと近づいて行った時期というのは、多くの方がご存知のように、世界的に学生運動が盛り上がりを見せた時期である。それはまた日本人にとっては、今に続く問題、日米安保条約を維持するか否か?という問題を喉元に突きつけられていた時期でもあった。その結果を今、私たちは知っている。


 学生運動は結局失敗に終わり、日米安保条約は締結・延長され、日本はアメリカの軍事力の庇護の下に、「平和国家」の看板を今も掲げ続けている。その看板が、自分一人の力で達成されたのなら確かに立派なものだろう。しかし現実にはそれは“アメリカの軍事力”というスカートの中に大人しくかしこまったことによって達成されたのであり、安保闘争の運動家たちが当時掲げていた激しい危機感、「日本は安保条約を締結することによって明確にアメリカ陣営入りすることになり、ソ連を代表とする東側陣営との戦争に巻き込まれる」という見通しは、とんだ見込み違いだったことが明らかになっている。そう、彼らがあれほどまでに毛嫌いした日米安保条約こそが現在の平和国家日本の根本を支える土台となったのであり、更にまた、当時彼らが盲目的に良きものとした社会主義国家、ソ連、中国、北朝鮮、その政治体制がいかに暴力的な抑圧を伴うものだったのかも、今、明白に白日のもとにさらされている。

 思うのだが、安保闘争を境にして、日本というこの国には、常に奇怪な“ねじれ”と奇怪な“恥ずかしさ”がつきまとっているのではないだろうか。それは、したり顔で平和や民主を語りながら、その理想はアメリカの軍事力によって担保されているという強いねじれであり、更にそのアメリカ様が軍事力を抑止力としてのみ使い、本当に公正に世界の警察官だか司法官だかの役を務めているのならまだ良かったかも知れないが、しかし現実にはアメリカは、自国の利益を恥ずかしいほどむき出しにして各地へ武力進出を続けている。そして我が日本はそれに見て見ぬふりを決め込み、今も無口にかしこまっているしかないというのが残酷な真実だ。自らのこの振る舞いをごまかしながら平和だの市民社会だのと語ることにつきまとう、強い“こっ恥ずかしさ”、強いねじれ。しかし日本も処女の顔をして生きることは出来ず、二つの奇怪な落とし子をこの世に産み落としている。そう、それこそが沖縄基地であり、また、自衛隊であるだろう。三島由紀夫は日本のねじれと日本の恥が生起する60年代という渦のそのまっただ中で、自衛隊という、極限の矛盾、矛盾の落とし子の中へ命を賭けて飛び込んで行ったのだ。


【三島由紀夫の国体論
 書評 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決 文藝春秋」。
 書評 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決  持丸博 佐藤松男 文藝春秋

 1960年代後半、全国の大学では新左翼運動の嵐が吹き荒れ、論壇でも社会運動の場でも保守派は絶対的な少数派だった。しかし、その時代に、三島由紀夫と福田恆存という知の巨人が繰り広げた思想的闘争のドラマは、現在の私たちのレベルを遥かに超えて、日本とは何か、知識人とは何かという根本的な課題を打ち出していたのだ。本書は「盾の会」初代学生委員長として三島を間近に見ていた持丸博と、福田を顧問に当時日本学生文化会議を結成していた佐藤松男の対談を通じて、このドラマを鮮やかに再現している。

 三島・福田対談は、保守思想雑誌の草分けというべき「論争ジャーナル」昭和42年11月号に、当時副編集長だった持丸氏の企画として掲載された。本書はまずこの対談を通じて、福田思想と三島思想の根本に踏み込もうとしている。「天皇制」に対しての福田の論考は、個人と国家の関係に結びつく。「個人のエゴイズムというものは、原則的に国家の名において押さえなければならない。それでは国家のエゴイズムというのは何によって抑えることができるのか。この原理は『天皇制』によってはでてこない」。さらに福田は、「古事記」と「旧約聖書」を比較し、古事記はあくまでこの日本列島の創造を歌っているに過ぎないが、聖書はセム族という一民族の所産でありながら、世界創造を語っていることに触れ「天皇は、日本の民族の国家的エゴイズムの抑制力としてはあっても、他の国家にとっては何ものでもない」と、日本的価値観が果たして普遍性を持ちうるかという厳しい指摘を行っている。本書でも指摘されているように、ロレンスの思想やカトリックに深い影響を受けた福田は、日本を愛しつつも、その思想的限界にも敏感だった。「神道は自然を愛する平和的で普遍的な価値観」などというオポチュニズム的な日本賛美ほど福田にとって軽薄なものは無かったのだ。世界はそのような甘い価値観では通用しないことを福田はリアリストとして知り抜いていたのだ。

 これに対し三島は「僕の言っているのは美的天皇制なのだ。戦前の八紘一宇の天皇制とは違うんだ」、「没我の精神で、僕にとっては国家的エゴイズムを掣肘するファクターだ」と述べている。この点については「文化防衛論」、又決起直前のあるインタビューなどで三島はさらに深く展開しており、そこでは「西欧におけるカトリック信仰のような、日本において、又世界においても普遍宗教となりうるような天皇のあり方を追求しているが、これは三島の福田への回答だったのではないだろうか。三島は、戦後すべての価値観が相対化して行く中、唯一絶対的価値観として存在する可能性を天皇に見出していたのだ。

 しかし、この溝はとうとう埋まらないまま、三島は決起し、福田はこれについては当時沈黙を守り続ける。第4章の「三島事件前後の真相」は、この決起に対してのこれまでの常識や偏見を覆す新事実が語られつくしており、ぜひご一読をお勧めしたい。佐藤松雄が語る三島と学習院時代の友人東文彦とのエピソードは、三島が人間としてどれだけ誠実だったかをよくあらわしている。そして、最近の保守論壇での様々な論考の、事実誤認、語り手の知識不足や精神の弛緩への批判は痛烈極まりない。三島を自衛隊の広告塔として利用してきながら、事件直後には罵倒した保守派政治家の発言は、人間性すら疑わしめるものだ。そして、佐藤松雄が引用している三島事件の約半年前の福田の講演こそ、この決起の最も本質を予見したもののように思える。

 「国家や民族が、自分をぜんぜん支持してくれなくても、それでもいいという自覚が必要である」、「『俺は味方は要らない』という人間だけが一つの目的のために集団を作ることが必要である」。ここには、戦後民主主義を越えた精神のあり方が刻まれている。