三島由紀夫語録 |
(最新見直し2013.09.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「三島由紀夫語録」を確認しておく。「三島由紀夫の名言、語録」、「壮絶な最後を遂げた三島由紀夫の名言集。」、「作家 三島由紀夫の名言 語録 発言 奇行 クーデター をまとめ」、「」、「」、「」、「」等々を参照する。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るだろう。 |
決意を持続させることのできるのは、習慣という怪物である |
生きるということは、自己が美しいものになることを否定することだ |
なぜ陛下は人間となってしまわれたのか |
日本の敗れたるはよし 農地の改革さられたるはよし 社会主義的改革も行われるがよし(中略)されど、ただ一つ、ただ一つ いかなる強制、いかなる弾圧、いかなる脅迫ありとても陛下は人間(ひと)なり... |
こんな私にだれがしたとでもいいましょうか。何者かがこうさせてしまったのです。私もこんなにはなりたくなかった。 |
何もここで諸君と殴り合う必要はないのだ。だけどもその底の底の底には、許し合わないものは対決しなきゃならん、殺す覚悟で話さなきゃならんという信念がなければ、その人は力がない。 |
人間は悲しいことに、他人の思想を抹殺する方法としては、殺すことしかまだ知らなかった。どんなことをしても、これしかできない。 |
暗殺を非難するのはやさしいが、皆さん暗殺できますか? |
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。 |
人間はどうせダメだと思うと、非常に理想が観念的になるわな。どうせダメだと思う人間の思っているユートピアは恐ろしいよ。 |
日本で言論と称されているものは、あれは暴力。 |
文化を全面的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、エロティシズムを全面的に容認する政体は可能かという問題に接近している。 |
文学においては、自己を弱者と規定すると、とってもやりやすくなるんだよ。 |
人間は、強くてきたないということは許せないんだよ、だいたいね。 |
いったい何が正義なのかという問題になりますと、核兵器から遠いものほど正義になっているんですな。力が弱ければ正義量が増すんですから。男よりも女のほうが正義なんだ。女は男よりも弱いですからね。... |
言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する |
ヴェトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識のうちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。類推とは、他民族の自立感情に対... |
日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。 |
守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。 |
政治の本質は殺すことだ。 |
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。 |
力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。 |
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛正はつきものだと思っております。 |
常に抑圧者の側がヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、戦時中も現在も変わりない。 |
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、という認識に他ならない。 |
日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として石で作られているが、日本のそれは木で作られている。 |
私はテレビジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによって世界史に平和... |
われわれが「文化を守る」というときに想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との二つである。 |
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、いかに陰惨な題材を扱おうとも、その断片化自体によって救われて、プラザの噴水になってしまう。 |
われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものである |
経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、という方向に向かっている。 |
国際政治を支配しているのは、姑息な力の法則であって、その法則の上では力を否定するものは、最終的にみずから国家を否定するほかはないのである。 |
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、 国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばなら... |
暴力と理性とは、お互いにその正当性を奪い合う段階においてこそ同格であるが、暴力は一つの理性的思想を持っていると主張することによって、すなわち理性だけよりも強い |
暴力は暴力自体が悪でもあり、善なのでもない。それは暴力を規定する見地によって善にもなり、悪にもなるのである。 |
戦いはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。生死を賭けた戦いのあとに、判定をくだすものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である。 |
言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の境界線にすぎぬ |
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを持っていない。 |
われわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への過程とは考えない |
われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によって動いてきたことを洞察した。それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。不安、懐疑、嫌悪、憎悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝... |
「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。 |
未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめる |
感傷というものが女性的な特質のように考えられているのは明らかに誤解である。 |
使えない兵器というのは、あるいは力というのは、恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方は使えぬ兵器に対するものと... |
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。 |
動物になるべき時には、ちゃんと動物になれない人間は不潔であります。 |
貞女とは、多くの場合、世間の評判であり、その世間をカサに着た女のヨロイである |
若さはいろんなあやまちを犯すものだが、そうして犯すあやまちは人生に対する礼儀のようなものだ。 |
若さが幸福を求めるなどというのは、衰退である。 |
本当の美とは人を黙らせるものであります。 |
神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のほうがずっと猥褻だ。 |
まことに人生はままならないもので、生きている人間は多かれ少なかれ喜劇的である。 |
権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があった。 |
柔軟性というのは妥協だよ。 |
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。 |
人を必ず傷つける結果になるやさしさの支出には慎重になった。 |
現実というものは、袋小路かと思うと、また妙な具合にひらけてくる。 |
好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもっとも不徳な欲望かもしれない。 |
美というものは、そうだ、何といったらいいか、虫歯のようなものなんだ。それは舌にさわり、 引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。 |
世の中って、真面目にしたことは大抵失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。 |
世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。 |
未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめる |
感傷というものが女性的な特質のように考えられているのは明らかに誤解である。 |
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。 |
動物になるべき時には、ちゃんと動物になれない人間は不潔であります。 |
貞女とは、多くの場合、世間の評判であり、その世間をカサに着た女のヨロイである。 |
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批判である。 |
日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として石で作られているが、日本のそれは木で作られている。 |
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛正はつきものだと思っております。 |
政治の本質は殺すことだ。 |
守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。 |
言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する |
いったい何が正義なのかという問題になりますと、核兵器から遠いものほど正義になっているんですな。力が弱ければ正義量が増すんですから。男よりも女のほうが正義なんだ。女は男よりも弱いですからね。 |
人間は、強くてきたないということは許せないんだよ、だいたいね。 |
文学においては、自己を弱者と規定すると、とってもやりやすくなるんだよ。
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文化を全面的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、エロティシズムを全面的に容認する政体は可能かという問題に接近している。日本で言論と称されているものは、あれは暴力。人間はどうせダメだと思うと、非常に理想が観念的になるわな。どうせダメだと思う人間の思っているユートピアは恐ろしいよ。初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。暗殺を非難するのはやさしいが、皆さん暗殺できますか?
人間は悲しいことに、他人の思想を抹殺する方法としては、殺すことしかまだ知らなかった。どんなことをしても、これしかできない。何もここで諸君と殴り合う必要はないのだ。だけどもその底の底の底には、許し合わないものは対決しなきゃならん、殺す覚悟で話さなきゃならんという信念がなければ、その人は力がない。こんな私にだれがしたとでもいいましょうか。何者かがこうさせてしまったのです。私もこんなにはなりたくなかった。なぜ陛下は人間となってしまわれたのか。生きるということは、自己が美しいものになることを否定することだ。決意を持続させることのできるのは、習慣という怪物である。無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るだろう初恋に勝って人生に失敗するというのは良くある例で、初恋は破れるほうがいいと言う説もある。
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「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」 |
「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」。 |
「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」。太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加して,太宰に対して面と向かっていった言葉。周りの反応。編集者の野原一夫 「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」。太宰本人「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、 やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と解説する。 |
「生き物の中で最も美しいものは、人間。次は馬か猫だろう」 |
「流行から遅れた物を着るのが好きで、おしゃれに個性は必要ない。 同じ物を着てるやつにぶつかると嬉しい」 |
「着物は嫌いで、オレは文士に見えないだろうというのが拘りかな」。ファッションについて |
「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、 腹筋だけにしようと思っているんだ」 |
「腹筋をつまんでごらんなさい」 「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していた |
「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」。小市民的幸福を嫌っていた |
「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」。幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、 幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し40分余りにわたって記者に質問し、 真剣にアドバイスを聴き、メモをとった |
「何故しないの」。映画「黒蜥蜴」。美輪明宏にキスされるシーンのリハーサルで美輪は寸止めしたため「何故もっと長くしてくれないの?」。次のリハーサルで本当にキスをした時、美輪はキスという行為が嫌いであり、この時はとても嫌だったと美輪本人が後に語っている |
「…『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも、『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では、見るもむざんな政治主義に堕している」。水木しげるに辛辣な評 |
「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」。赤塚不二夫を絶賛 |
著名人の評価。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていた。ドナルド・キーン 『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」。ヨーロッパやアメリカなどで紹介、舞台上演も数多く行われた。(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。 |
語学 抜群の英語力を誇り、いくつかの英語でのインタビューやスピーチが残されている。特に武士道などの旧来の日本的価値観について解説したものは非常に明快でわかりやすく、評価も高い。 |
人生は、成熟ないし発展ということが何ら約束されていないところに怖ろしさがある。 |
あなたは歴史に例外があると思った。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思った。 例外なんてありませんよ。この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もいません。 |
退廃した純潔は、世の凡ゆる退廃のうちでも、いちばん悪質の退廃だ。 |
恋愛とは、仏蘭西(フランス)の詩人が言ったように一つの拷問である。 |
私の言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁のきれない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。 |
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している。 |
私は、恋愛が羞恥心の消滅とともに消滅することを信じて疑わない。 |
記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに。 |
衝動によって美しくされ、熱望によって眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものがこの世にあろうか。 |
目に見えるものがたとえ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。 |
秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と付合うこともできない。 |
人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だという考えに達するためには、 年をとらなければならない。 |
たとえば、晩年の三島由紀夫は『私の信条』のなかでこう書いた。「文学者は、英雄たらんがためには、思想か信仰を持たねばならない。そうすれば、小林多喜二のように殺される可能性も出てくる。思想や信仰もなしに、英雄たらんとするのはむずかしい。・・・・・・私には文学者イコール弱虫の卑怯者という考えは、やはりどうしてもイヤなのである」。 晩年にはこう述べている。「私の夢想の果てにあるものは、つねに極端な危機と破局であり、幸福を夢みたことは一度もなかった。私にもっともふさわしい日常生活は日々の世界破滅であり、私がもっとも生きにくく感じ、非日常的に感じるものこそ平和であった」(『太陽と鉄』)。 「私は、死への浪曼的衝動を深く抱きながら、その器として、厳格に古典的な肉体を要求し、ふしぎな運命観から、私の死への浪曼的衝動が実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、つまり肉体的条件が不備のためだったと信じていた。浪曼的な悲壮な死のためには、強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。十八歳のとき、私は夭折にあこがれながら、自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。そして私を戦後へ生きのびさせたものが、実にこのそぐわなさにあったということは、私の浪曼的な矜りを深く傷つけた」(『太陽と鉄』) 「私には、悲劇的な勇敢さや、挫折をものともせぬ突進の意欲や、幻滅をおそれぬ情熱や、時代と共に生き時代と共に死のうとする心意気や、そういうものがまるきり欠けていることを告白する」(『空白の役割』)。 「私は弱いものがきらいである。・・・・・・肉体の弱さに対しては私自身に対すると同様寛容で、逆に異常な肉体的精力に対して反感を催おすほうであるが、心の弱さだけは、ゆるすことができないのである」(『芥川龍之介について』)。 「男はなぜ、壮烈な死によってだけ美と関わるのであろうか」(『太陽と鉄』)、また、「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである」(『葉隠入門』)。 天皇の「人間宣言」による「神の死」後二十年ほど経ってから書いた自殺予言の書『太陽と鉄』では、三島は「神の死」など何ら悲嘆しておらず、「神の復活」もまったく願っていないのであり、ただ「特攻隊の美」を「超エロティックに美と認められる」として、彼らの「壮烈な英雄的行動」をひたすら賛美憧憬し、「悲劇のうちに包括された」彼らを「幸いにも死んだ人たち」としてしきりに羨み(戦時には彼らの悲劇的な死に心底感動し、憧れながら、自分は仮病を使って兵役逃れして生き延びたことで深甚な恥辱や屈辱や自己嫌悪に苛まれたからこそである)。 戦後の三島はこう言っている。「私の理想とした徳は剛毅であった。それ以外の徳は私には価値のないものに思われた」(『アポロの杯』)。 「人から、『あいつは男らしくない』と言われるのは大の不面目」(『私の中の゛男らしさ”の告白』)。 「文体の私に於ける変遷は、感性的なものから知的なものへ、女性的なものから男性的なものへの変化を物語っている。私は今では、愛惜の念を以てしか、女性的な作家を愛さない。そして男性的特徴とは、知性と行動である・・・・・・文体そのものが、私の意志や憧れや、自己改造の試みから出ている」(『自己改造の試み』) 「青年が精神的と考えるあらゆる問題が、より深い意味では、純粋に肉体的な問題にすぎぬという考えは、私が自分の青年時代を経て到達した頑固な確信であって、昨今の心中事件を見ても、この確信を変えることはできない」(『心中論』) 「初恋というものが、全く精神的なものだというのはおかしな議論でして、もし、エロチックなもの――性欲というよりもっと広い意味で言うのですが、何かエロチックなものが、深い動機として潜んでいないならば、こういう心理が生まれるわけはないのであります」(『新恋愛講座』) 「私は男の肉体が決して『存在』として現われることがないということを知らなかった。私の考えでは、それはいかにも『存在』として現われるべきだったのである。従ってそれが、存在に対するおそるべき逆説、存在することを拒否するところの存在形態として、あからさまな姿を現わしたとき、私は怪物にでも出会ったように狼狽し、それを私一人の例外のごとく思い做した」(『太陽と鉄』)。 「そもそも肉の欲望にまったく根ざさぬ恋などというものがありえようか? それは明々白々な背理ではなかろうか? しかしまた思うのである。人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだって、立つ力がないとは言い切れまい、と」。 たとえば同性愛者「私」はこんなことを言う。「私のここまでの叙述があまりに概念的にすぎ抽象的に失していると責める人があるならば、私は正常な人たちの思春期の肖像と外目にはまったくかわらない表象を、くどくどと描写する気になれなかったからだと答える他はない。私の心の恥部を除いたなら、以上は正常な人たちのその一時期と、心の内部までそっくりそのままであり、私はここでは完全に彼らと同じなのである。好奇心も人並であり、人生に対する欲望も人並であり、ただ内省を貪りすぎるせいか引込思案で、何かというとすぐ顔を赤らめ、しかも女にちやほやされるほどの容貌の自信がなく、いきおい書物にばかりかじりついている、多少成績もよい二十前の学生を想像してもらえればよい。そしてその学生がどんな風に女にあこがれ、どんな風に胸をこがし、どんな風に空しく煩悶するかを想像してもらえばよい。これくらい容易な、そして魅力のない想像はあるまい。私がこんな想像をそっくりなぞるような退屈な描写を省いたのは当然である。内気な学生のその甚だ生彩のない一時期、私は全くそれと同じであり、私は絶対に演出家に忠誠を誓ったのである」。 同じ時期にはまたこうも書いている。「人が自分を語ろうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいうはずみに却って赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙っては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の樹を狙うとき必ず彼の体に矢を射込むことができるという秘伝の模倣でもある」(『重症者の兇器』) |
(私論.私見)