三島由紀夫儀式殺人説考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島由紀夫儀式殺人説考」をものしておく。これを取り上げない限り三島事件は完結しない。

 「三島事件」、「三島由紀夫氏の切腹の際には斬首がなかったですか?」、「三島由紀夫の生首写真を掲載した新聞と、当時の反響」、「三 島 由 紀 夫 割 腹 余 話」、「狂気の三島由紀夫1時間30分」、「三島の割腹現場写真を掲載したブログ」、「三島事件の『要求書」を読み解く」、「三島事件の核心を推理する」その他を参照する。

 2013.08.31日、2015.02.13日 れんだいこ拝


【三島由紀夫儀式殺人説考】
 三島割腹事件の不審に対してれんだいこ推理とほぼ同じような見解を示している次の一文「三島由紀夫と北朝鮮」(2013/4/9)に出くわしたので転載しておく。関係のあるところのみ抽出する。
 「『本当のところは当事者にしか分らないけど…』と一応の前置きを示してから、…うろ覚えだけど、確か『人間とは抗えば抗うほど、もっともそうなって欲しくないと思う方向へと陥ってゆく』 というような意味のことを三島が言っていたように記憶している。その結果、三島自身が危惧していたとおりの展開となり、彼にとって、もっとも回避したかった結末へと追いやられてしまったというのが、1号さんの見解です。

 
三島事件の核心にあるのは、巷間に言われるような右翼思想や美意識の究極的な発露ではなく内実はまったく逆であって、否応なく自刃(割腹)に追い込まれたというのが事実に近いのだろうと言うのです。ボクには何のことやら皆目、見当もつきませんが、ライブとまではいかなくても、事件当時19歳の大学生だったという1号 さんには、何か感じるものがあったそうなのです。つまり、それは、文学青年ではなく、三島由紀夫の作品に限らず小説というものをまったく読まない指向の … しかもノンポリで軟派なだけの学生だったという1号さんだからこそインスピレーションする何かがあったのでしょうか

 
そのひとつが、新聞に掲載された凄惨な現場写真だったというのです。胴体から切り離された三島由紀夫と森田必勝のふたりの生首をまるで見せしめるかのようにわざわざ並べて置いてある その異様な光景と底知れない違和感に1号さんはただならぬものを感じていたそうなのです。形式上はバルコニーから自衛隊員への決起の呼び掛けに失敗して、クーデターが未遂や未完どころかその端緒さえ開けない現実に失望したうえの覚悟の自決、即(すなわ)ちそれが三島の行動美学であり、「三島美学の完成」 などと世間では論じられていますが、そうでしょうか。

 事象面や結論的に言えば、少なくとも三島美学の完成形としては、クーデターに成功して初めてその責任を取るかたちでの自決とならなくてはならぬはずのものだったのではないでしょうか あくまでも悲願であるクーデター成就との引き換えとして捧げるはずの命だったのです。いくら訴えても響かない自衛官たちに見切りをつけた彼は天皇陛下万歳を三唱した後に、バルコニーから踵(きびす)をかえして総監室に戻るやいなや、直ちに割腹したことになっていますが、あまりにも淡白すぎると思いませんか。聞くところでは、せっせと遺書を書いたり遺言をしたためる一方で、「限りある命なら永遠に生きたい」 という切実なるメモ書きを残しているそうです。おそらくは、そこに陰謀の臭いを嗅ぎわけるような嗅覚の持ち主は極めてマイノリティーに属する人たちでしょうし …
(私論.私見)
 「三島由紀夫と北朝鮮」(2013/4/9)の秀逸なところは、巷間の三島割腹自殺事件に対して、「三島事件の核心にあるのは、巷間に言われるような右翼思想や美意識の究極的な発露ではなく内実はまったく逆であって、否応なく自刃(割腹)に追い込まれたというのが事実に近いのだろう」の推理を紹介しているところである。もう一つは、そういう推理を生む理由として次のように述べている。「そのひとつが新聞に掲載された凄惨な現場写真だったというのです。胴体から切り離された三島由紀夫と森田必勝のふたりの生首をまるで見せしめるかのようにわざわざ並べて置いてある、その異様な光景と底知れない違和感に1号さんはただならぬものを感じていたそうなのです」。「三島と森田の生首を晒す異様さ」を的確に衝いている。次の疑問も秀逸である。「いくら訴えても響かない自衛官たちに見切りをつけた彼は天皇陛下万歳を三唱した後に、バルコニーから踵(きびす)をかえして総監室に戻るやいなや、直ちに割腹したことになっていますが、あまりにも淡白すぎると思いませんか。聞くところでは、せっせと遺書を書いたり遺言をしたためる一方で、「限りある命なら永遠に生きたい」 という切実なるメモ書きを残しているそうです」。

 れんだいこは、「1号さん見解」に全面的に賛同する。「1号さん見解」は、三島割腹自殺事件に対する不審の急所を射る疑問を発信していると思う。ここから導き出されるのは、三島割腹自殺事件は実は三島儀式殺人事件ではないかとする見解である。以下、この推理を固めようと思う。

 れんだいこ推理とほぼ同じような見解を示している次の一文「ペリマリのプラプラ講義」の「三島事件検証32 最終的な事件の真相」(2013.3.9日)に出くわしたので転載しておく。
 今回は予定を変えて三島事件の核心に入ります。8・15事件の玉音奪(デッチ上げ)の検証、 2・26事件の本質(カウンター・クーデター)について、 続きをやろうと思っていましたが、 予定を変えて京都皇室の関与について検証します。これはとりもなおさず最終的な命題、 三島由紀夫は自決したのかor殺されたのか、 という問いについて答えることでもあります。ペリ三郎の推理では三島は殺されています。みなさんに常に念頭に置いてほしいといったこと、 三島事件を解き明かす大前提を覚えていますか? これは国内事件ではなく国外事件として考えてください、 ということです。
 
 自衛隊がいかに三島に特別待遇をしてきたか、 あり得ない違憲そのもの訓練内容、対心理戦スペシャリスト山本舜勝の接近など、 自衛隊という『正規軍』が楯の会を『不正規軍』として育てる経緯は、三島事件が国ぐるみの謀略どころか、 超国家集団の関与を物語って余りあります。だってね自衛隊って「旧軍の悪いところを見習わないようにネ」なーんて昭和天皇に言われて「ハハーッ」って平伏しただけで、トップが更迭されるような哀れな集団なんですよ。こんな組織に何ができますか?

 そこには歴然と日本を売り渡した売国奴集団の雄、京都皇室と秘密破壊工作の痕跡が見られます。『楯の会』の会員は蓋を開けてみれば平泉澄と谷口雅春の門下生、すなわち天皇教カルト教祖の信者たちであることを思い出してください。
生長の家をオーガナイズさせたのは堀川辰吉郎です。堀川辰吉郎こそは出口王仁三郎を官憲の弾圧から庇護し、ワンワールドの宗教の雛形を創るべく指導した人物です。ここからスピンオフしたのが 岡本天明の日月神示であり、岡田茂吉の世界救世教であり、谷口雅春の成長の家です。これらのカルト神示、カルト宗教の陰の総帥が堀川辰吉郎。

 昭和天皇を完全否定する三島由紀夫は、天皇教カルトとは極致にあります。それが証拠に楯の会お披露目パレードの直前に、持丸博が「平泉門下生として三島先生の考えについていけない」ということを理由の一つに挙げて遁走しています。そんなことは初めから分かっていたことであり、理由にも何にもならないどころか、 そもそも三島が『英霊の聲』を書いて物議を醸した1941年の年の瀬に、論争ジャーナル(天皇の指南役田中清玄の肝煎り)の若者たちが、 三島を来訪して協力を求めたこと自体が支離滅裂なのです。 橋川文三に云わせると『英霊の聲』は昭和天皇への『巨大な怨恨の書』なんですよ。なんで昭和天皇を崇拝している平泉門下生たちが三島と組むんですか。ここらあたりの事情をスルーして三島神話を吹聴しているのが持丸博です。そして持丸博を協賛しているのが桜チャンネルと田母神俊夫。彼らが三島神話を持ち上げるのは一体何のためでしょうか。  
 
 さて本題に戻って京都皇室と諜報組織の関与についてですが、
 蹶起した五人組のうち二人は生長の家の信者です。前述したように谷口雅春を動かしていたのは京都皇室の堀川辰吉郎。堀川辰吉郎は三島が『英霊の聲』を書いた数か月後に没していますが、 亡くなる前夜まで普段と変わることなく元気だったということですから、 三島破滅プロジェクトが始動した時点ではピンシャンしていた訳です。ペリ三郎は堀川辰吉郎が平泉澄と谷口雅春を動かした黒幕と推理しています。そして殺害したのは門下生たちではなくおそらく秘密破壊工作部隊でしょう。

 益田総監はこれを裏付けるような証言をしています。実は総監室にはある人物が隠れていたのであると。その人物に「衝立に隠れてすべてを見届けろ」と命じたのだと証言しています。その人物は事件の一分始終を見届けると、廊下から総監室に雪崩れ込んできた人々に紛れて、外へ出て行ったから誰も気が付かなかったと。この人物について証言したのは益田総監ただ一人です。他の証言者はこれについては一切口を閉じています。自衛官とマスコミにも箝口令が布かれているのでしょう。

 三島事件の現場写真を掲載したのは朝日新聞です。三島を世界周遊の旅に出してメジャーに押し上げた朝日新聞が、三島の見るも無残な遺体を公開しているというのは非常に意味深で、私はこの行為を三島を処刑した象徴として捉えています。この残虐さはどうでしょう。JFKの公開処刑にも勝るとも劣りません。 連中の身内でありながら裏切った者への見せしめなのでしょうか。 おそらく三島を殺害した者は日本人ではないでしょう。 

 総監室にいた者たちの証言によると、 三島は「ヤーッ」という掛け声とともに腹を切り、 森田が何回も介錯しそこなった三島の首を、生長の家の会員が一刀のもとに切り落とした・・・ ということになっています。そうやって生き残った者による証言に合せて、 三島事件は語られてきました。彼らが口裏を合わせて偽証しているということは、 なぜか議論されることなく済ませてきました。しかし私は彼らは偽証しているとはっきり思っています。三島は事件当日市ヶ谷に来てもらった知り合いの記者たちに 「何事もなく終わることもある。その時は私は11時40分に出てくるから、だからその時は何も書かないでくれ」 と釘を刺しています。 これは一体何を意味しますか? 三島事件は三島の単独行動ではないということ、三島が死ぬかどうかは未知数だったことではないですか。世情云われるような『三島美学の完成』とか『行動の美学の終焉』とか、そんなタワケたものでなくもっと実際的なもののために、三島は命を引き換えにしようとしていたのではないですか。

 
 連中の身内として戦後25年間を享受した総決算として。しかしそれはあくまでクーデター成就と引き換えにです。自決はクーデター成就の責任を取る意味で行うのです。しかしそれでもなお三島は激しく葛藤しています。せっせと遺書を書いたり遺言を作成する一方で、「限りある命なら永遠に生きたい」というメモ書きを残しています。
 
 三島の葛藤を傍らで見ていた瑤子夫人は生前、「九州が悪いのよ」という一言だけ残しています。九州というのは熊本の神風連のことでしょう。豊穣の海四部作『奔馬』の取材に訪れています。その結果『英霊の聲』を執筆せずにはいられなかった、と三島本人が書いています。両親はどうでしょうか。夫人に比べてものすごく多弁です。 両親による三島の回想記を読みましたがため息が出ました。母親の倭文重は自分がいちばん息子のことを理解している、 その証左として事件前に三島がどんどん痩せて憔悴して、 歩く後姿もガックリと肩を落としていて、 「お母様、僕が何をしてもとめないでくさださい」 などとしきりに予告するようなことを云っていた、 それで心配で仕方なかったが自分が何をいっても無駄だろうから、 見守るしかなかったみたいなことを書いています。でもこれって三島の必死の「お母様、僕を止めてださい」というサインではないのですか。みなさんが愛する人がどんどん憔悴して、こんなことを何回か言ったとしたらどうですか。「いいか、止めるなよ、分かったな、止めるんじゃねーぞ」。それは「止めてくれよ」と背中で言っているのだと思いませんか。「お母様、止めないでください」なんて何回も言ったら、私だったら「何を止めるなつってんだ、テメー何をしでかすつもりなんだよ」って首を締め上げて聞き出しますよ。それを「何が起こるか心配で」なんて、きれいごといってんじゃねーって涙が出そうですよ・・・三島は殊に母親孝行だからオメーにそんなこた云われたかねーよって、怒るかもしれませんけど・・・

 葬儀で三島の好きだった薔薇を手向けるのに白い薔薇の花束をもって来た弔客に、「あの子が初めてやりたいことをやったんですから赤いバラの花束にしてください」といってのけた母親の矜持を見せる場面にも同じものを感じます。母親の誇りとは子供の幸福ではないのですか。 三島が自分の好きなことではなく義務をこなして生きていたのが分かっていたなら、 なぜ好きなことをさせてあげなかったのかでしょうか。

 三島にとって小説を書くことは本当に彼の本望だったのでしょうか。私は彼の白鳥の歌ともいうべき天人五衰を読んで、彼は最後の最後にそれを放擲しようとしていたと感じます。その象徴行為として安永徹という堕天使から視力を奪ったと。三島は現実世界から切れた異形の人間であると自分を規定しています。三島は世界と繋がることができない。宇宙を冒涜する手しかもっていない。三島は見ることによってのみ存在し、かろうじて世界と繋がっているのです。そういう自分を初めて認めて許したのが、『天人五衰』なのではないでしょうか。三島のもう一人の分身である本多の正体を出歯亀として描くことで、名門家門の正体を暴露して徹底的に破壊しています。これが貴種の末裔として育てられた三島にとって解放と救済でなくて何でしょうか。三島は最後の最後に来て小説を書く労苦を擲ったのです。
 
 父親の梓に至っては完全に嘘をついています。三島は事件の数日前に梓の友人の弁護士に蹶起を知らせる手紙を書いています。友人から父親に蹶起を知らせてもらい、父親に止めてほしかったとしか思えません。 あたかも『奔馬』の中に登場する1シーンのように。 しかし折あしく友人の弁護士は出張中で、帰京して手紙を見たのは当日の朝。それでも友人はすぐに父親の処に電話しています。 だけど『倅 三島由紀夫』にはそんな経緯には一言も触れていません。 梓が一人で茶の間で煙草をのんでいるとお昼のニュースで「三島由紀夫・・・」 という文字があらわれたので「おやっと思って見入りますと・・・」。 それで初めて事件を知って驚愕したなんてシラジラしいことを書いています。これって父親が倅の殺害事件の隠蔽に手を貸しているってことじゃないですか?、 それに倭文重が乗っかって自己満足の愛を語っているんです。ものすごく悲しいことですがこの両親の本を読んで私はそういう疑惑を抱いています。三島の両親は三島事件の真相をすり替えることに協力していると。
 
  私ペリ三郎は三島事件の真相を次のように推理しています。安藤武『三島由紀夫 日録』を本読み”しながら時系列に添って記します。
 
◎十一月二十五日日午前十時、益田総監に予定通り伺うことを電話する。「国会クーデターを予定通り十一時に始動、そちらも始めてください」という連絡が入って初めて三島は動き出す手筈になっています。
  
◎『午前十時六分、伊達宗克と徳岡孝夫両記者に電話。「ご面倒ですが、十一時二市ヶ谷会館においでいただけませんか。そこに楯の会のものがおり、田中か倉田というものがご案内します」』
   
◎午前十一時、第六十回臨時国会の開会式が参議院本会議にて天皇陛下を迎えて行われる。
 
 国会クーデターが始動したと思った三島は蹶起の行動に移ります。 私は益田総監が縛り上げられたのはお芝居だと思っています。 益田総監は三島を自衛隊に引き入れる工作をしたグループの一人で、初期のころから三島に接触している人物です。私は三島が益田総監を縛り上げるフリをしたのは、益田のためにアリバイ作りをしてあげたのだと考えています。もしくは全然縛っていないかもしれません。なぜなら飯島洋一『三島由紀夫と近代 <三島>から<オウム>へ』平凡社によると益田総監は次のような奇妙な証言をしているというのです。以下抜粋します。
 
 三島の自決までの経緯を書いてきたが、彼の死の意味について考える前に、少し気になることを書いておきたい。それは前出の『三島由紀夫と自衛隊』を読んで、いささか奇妙な箇所があることに気がついたからである。この本の著者たちによると、「
この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった」という。そしてこう続ける。
 
  「真っ先にづかづかと入って来た三島は、昔陸軍将校が佩剣したものと似た一振りの『軍刀を左手に持ちかえていた。これを見た瞬間、彼の不吉な予感の正体が何であったかをはっきりと知覚した。傍らにいたS副官もその異様を直観した。その副官に落ち着いた声でささやいた。『この部屋を出て行くふりをして、衝立の陰に隠れろ。どんなことがあっても出てきてはいかん』。副官は一瞬総監の指示に驚いたが、その意図は直ちに理解できた。早くも三島たちが総監の机の迄に整列、挨拶にかかったので、副官は三島に目礼してその部屋を立ち去るかの如く、衝立の陰に身をひそめた」。益田の判断は、「いざというときのために、自分が殺されたときの唯一の事実を知るものとして副官のS三佐を陰に隠し」たのである。そしてことが終わった後、「衝立の陰に潜んでいたS副官は、ドヤドヤと入って来た警察、警務の隊員や報道陣に逆らって、総監室を去った」という。
 
 
私がこの部分を読んで、いささかの奇妙な思いをしたのは、S副官という伏兵が、当日、部屋の中にいたということではない。そうでなく、このことと、『裁判記録 「三島由紀夫事件」』を照らし合わせた時、どうにも納得のゆかない事実に突き当たるのだ。というのも、『裁判記録』では、裁判の法廷に何人かの証言者が出頭していて、その中には益田総監をはじめ、原勇、吉松秀信の顔も見えるが、S副官とされるべき人の名前が見当たらないのである。もしもいたなら、裁判に証人として出廷しなければならないはずである。Sという人物が衝立からずっと現場を見ていたなら、その人は縛られていた増田よりも、ことの次第をよく見ていたはずだからである。しかし、そのSは裁判の記録には見えない。彼が誰かというより、彼がなぜ証言台に立たなかったのかが、私には奇妙でならないのだ。

  以上抜粋。
 
  益田総監の証言を“本読み”してください。おそらく彼はこれを命懸けで言っているのです。益田総監はこの後罷免され3年後に死去しています。
 
 ◎午前十一時三十分頃、三島は、総監室前廊下から総監室窓ガラスを破り、窓越しに三島を説得しようとする吉松陸将補、功力一佐、第三部長川久保一佐らに対し、日本刀を示しながら、「要求書があるから、これをのめば総監の命を助けてやる」といって破れた窓ガラスのところから廊下に要求書を投げた。三島は幕僚たちに要求書を出します。「攻撃行動、望外行動をくわえなければ、総監に危害は加えない。十二時までに隊員を集めろ。もし要求を容れなければ、総監を殺害して自決する」。これは脅しで三島はクーデター成就の後に自決する予定はありましたが、益田総監を殺害するつもりは最初からまったくありません。このことは事前に楯の会会員たちに言い含めています。要求書の“本読み”については既述してありますので重複を避けます。そしてスムーズに事は運ばれてバルコニーで演説します。おそらくヤラセの仲間が幕僚たちの中にもいたはずです。
 
 ◎午前十一時五十分頃、森田、小川は、要求項目を書いた垂幕二本を総監室前バルコニーからたらし、「檄文」多数を撒布した。三島は(「七生報国」の鉢巻をし、関の孫六の抜き身を持ち)、バルコニーに立つ。三島は、集合した自衛官に向かい演説したが、自衛隊員の野次と怒号と図上のヘリコプターの騒音で演説をしばしば中断した。時の自衛官があんな野次を飛ばせる自由があるとは信じていません。私はサクラが配置されて妨害していたと考えています。

◎「お前ら聞けエ、聞けエ!よく聞け、聞け、聞け、聞けい!よく聞け、よく聞け、よく聞けい、静聴せい!男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。・・・そこでだ、俺は四年間待ったんだよ。俺は四年間待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。・・・そうした自衛隊の・・・最後の三十分に、最後の三十分に・・・待ってるんだよ」。
  
 三島の「最後の30分に待っているんだよ」というのは何を30分待っているのか。国会占拠→戒厳令発動→憲法改正→ヘリポートにクーデター軍到着→共に蹶起という流れの中の「憲法改正」の知らせが届くまでの「最後の30分に待っているんだよ」という意味で、憲法が改正される際、昭和天皇の退位というのは三島の中では決定事項です。 天皇は京都へ遷り、三島がアンケートに答えた通り、 三島の胸中では1970年代に皇居は国民のために解放されるシナリオになっています。 
 
◎「・・・まだ諸君は憲法改正のために立ち上がらないとみきわめがついた。これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」。
 
  待てど暮らせど援軍は来ません。森田の表情を見てください。 これは三島が裏切られつつあることを憤っている表情だと思いませんか。 もとより森田必勝は命知らず、この状況に臆しているはずはありません。やがて「これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ・・・」と呟いて天皇陛下万歳を三唱した後、三島は森田とともに総監室に戻ります。

◎午後零時十分頃、総監室に戻り、「二十分間ぐらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」と独り言。総監には「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方がなかったのえす」といって制服を脱ぎ、正座して短刀を両手に持つ。森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を重いとどまらせようとした。
 
 これは生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証でしょう。三島と森田を迎えたのは益田総監と楯の会会員3名と、『S副官』が象徴する人物、おそらく複数の秘密破壊工作員たち。三島は本当にギョッとしたでしょう。私はこの時点で三島は死ぬ覚悟はなかったと思います。バルコニーで演説して総監室に戻ってすぐ自決するはずはないのです。裏切られたことについて益田総監に問いただしたいはずです。そんな短時間に心の整理をして自決するほど、三島は自決に対して完全な覚悟があったわけではありません。
 
 しかし秘密破壊工作員たちは三島を取り押さえて、有無を言わさず『割腹自殺』させ生長の家信者に介錯させます。森田が何回も介錯に失敗したという首の傷は、三島を苦しめるために彼らが行ったものかもしれません。森田がスムーズに三島の介錯をするはずなどないのです。これでは話が違うではないかと三島のために抗議したはずです。その森田必勝も『割腹自決』させられます。後に残った楯の会会員は脅しておけば口を割りませんが、命知らずの森田は脅しなんかに屈することはありません。義憤から決して黙ってはいないでしょう。だから口封じのためには「三島の道連れ」にするしかありません。
 
 以上がペリ三郎による三島事件の現場推理です。

 「だが最近になり奇妙なことを知った。それは、三島から父の友人斎藤直一弁護士に11月22日『事件の決行と覚悟の死を告白した」書簡を送っていたとのことである。その文面には、公私に渡り力添えになった御礼とその言葉がある由。その斎藤氏は、出張先から帰宅の際に飛行機が遅れ、帰宅した日が自決決行日で、すぐ三島宅に電話をしたが既に市ヶ谷へ向かった後であった。死を止めることができなかった。さらに、斎藤氏が電話した相手が父梓だった。

 謎は謎を深めた。さらに驚くことに斎藤氏宛てのほか、厚誼の人に宛てた二通の書簡が存在するらしい。遂にその二人からも密告は果たされなかった。やがて、その書簡の所有者が闇の底から謎の仮面を取り、封印された紐の結び目を解く日も近づいているのであろう。」(安藤武『三島由紀夫の生涯』より)
(私論.私見)
 「三島事件検証32 最終的な事件の真相」(2013.3.9日)の秀逸なところを確認しておく。まず「ペリ三郎の推理では三島は殺されています」、「殺害したのは門下生たちではなくおそらく秘密破壊工作部隊でしょう」としているところが秀逸である。「益田総監証言」の「実は総監室にはある人物が隠れていた。その人物に衝立に隠れてすべてを見届けろと命じた」も貴重である。概要「事件の一分始終を見届けると、衝立の陰に潜んでいたS副官は、ドヤドヤと入って来た警察、警務の隊員や報道陣の誰にも気が付かれず総監室を去っている。この人物について証言したのは益田総監ただ一人です。他の証言者はこれについては一切口を閉じています。自衛官とマスコミにも箝口令が布かれているのでしょう」なる情報も貴重である。次のようにも述べている。概要「裁判記録では、裁判の法廷に何人かの証言者が出頭していて、その中には益田総監をはじめ、原勇、吉松秀信の顔も見えるが、S副官とされるべき人の名前が見当たらない。本来なら裁判に証人として出廷しなければならないはずである。Sは、縛られていた益田総監よりも、ことの次第をよく見ていたはずだから無二の証言者足りえる。しかし、そのSの裁判での証言記録は見えない。彼が誰か。彼がなぜ証言台に立たなかったのか。私には奇妙でならない」。

 「三島事件の現場写真を掲載したのは朝日新聞です」、「朝日新聞が三島の見るも無残な遺体を公開しているというのは非常に意味深で、私はこの行為を三島を処刑した象徴として捉えています。この残虐さはどうでしょう。JFKの公開処刑にも勝るとも劣りません。連中の身内でありながら裏切った者への見せしめなのでしょうか。おそらく三島を殺害した者は日本人ではないでしょう」は絶品である。事件に参加した楯の会会員3名盾の生き残り者による現場証言に対して、「彼らが口裏を合わせて偽証している」としている。これも秀逸な見立てである。「三島は事件当日市ヶ谷に来てもらった知り合いの記者たちに『何事もなく終わることもある。その時は私は11時40分に出てくるから』。だからその時は何も書かないでくれと釘を刺しています」なる裏話の紹介も秀逸である。「益田総監の証言を“本読み”してください。おそらく彼はこれを命懸けで言っているのです。益田総監はこの後罷免され3年後に死去しています」も貴重な指摘である。

 れんだいこのカンテラ時評№1174 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月 7日
 三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論

 れんだいこは、三島由紀夫の死因について以下の「三島最後のドキュメント考」三部作で論証した。「その7、割腹事件のれんだいこ推理」、「その7の2、割腹事件のれんだいこ推理補足」、「その8、人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答考」。そこで通説の自決論に疑問を投じた。ブログに対するレスがないのは、既に相当昔の事件故に今更どうでもよいとしているからなのだろうか。あるいは驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 れんだいこは、その昔、日本共産党諸問題のブラックボックスになっている「宮顕リンチ殺人事件」の蓋をあけた。通説が、党内スパイ摘発上の止むを得なかった不慮の死事件であるとしているのに対し、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者畑系の党中央委員小畑を査問致死せしめたものであり、小畑氏の名誉回復こそが急がれている、宮顕こそスパイの頭目であるとして断罪せよとの逆説を投じた。この論考がさほど注目されることなく今日に至っている。それは今日的には人気のない左翼圏の出来事であったことによるのかもしれない。あるいはこれもまた驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 しかし、三島事件となると右翼圏の関心事である。右翼がこれに関心を払わないとすれば、日本と云う国は左翼も右翼も脳死していることになる。そういう者たちの弁明を許せば致し方なかった面もある。なぜなら圧倒的に情報が不足しており、当時に於いては当局仕立ての事件論をもって理解するしか他に方法がなかったからである。故に恥じることはない。故に「宮顕リンチ殺人事件」にせよ「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」にせよ通説に従った者たちを悪しざまに云うつもりはない。

 問題はこれからである。現在では当時にはなかった資料が開示されている。れんだいこはたまたまこれを見つけ、子細に検討し直した。「宮顕リンチ殺人事件」では事件関係者の陳述調書が漏洩され、これを手にしたことが始まりとなった。「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」も然りで、ネット上で「自決ではない論」が開陳されており、これを読んだことが始まりとなった。これらを虚心坦懐に読み、れんだいこが推理した結果、「宮顕リンチ殺人事件」では「宮顕こそがスパイ論」、「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」では「三島は強制自決させられた論」に辿り着いた。

 新資料に従ってこういう見解が出た以上、本来は議論があって然るべきである。何もれんだいこを売り込もうとしているのではない。れんだいこ立論の精査をせねばならないと申し上げている。これの検証を抜いたまま相変わらずの通説論を唱えて平然とするのは知の怠慢だろう。当然、れんだいこ見解の方が間違っている場合もある。その可能性も含めて議論せねばならない。これが知の弁証法と云うものである。世に弁証法を云う者が多いが、云うばかりで未だこの作法が根づいていない。大いに不満である。原発論も然りである。原発稼働論は福島原発事故までは許されても、事件後も相変わらずの安全論、クリーン論、安価論唱え平然としておられるなどは正気ではない。こういう風にすべてに関係している。

 論によっては曖昧で良いものもある。白黒つけねばならないものもある。本件は後者の方である。故に決着つけねばならない。三島事件に於いて、三島の死が自決なのか自決に似せた強制死なのかをはっきりさせねばならない。それが三島事件論ひいては三島論総論に関わる重要なファクターである故に疎かにできないと考える。ここまで述べても無反応だったとしたら勝手にせぇと云わせてもらうしかない。

【三島暗殺説
 「三島由紀夫は暗殺されたのではないか?」を転載する。
 1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地総監室で益田兼利陸将を人質に籠城した三島由紀夫は、楯の会選抜メンバーである森田必勝とともに割腹自殺を図ったとされている。三島由紀夫は本当に割腹自殺を図ったのだろうか。誤解を恐れずに言えば、二人は暗殺されたのではなかったかと疑っているのである。

 (「三島由紀夫割腹余話」(http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html)略)『三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた』という部分は、言い換えれば、三島由紀夫の切腹は益田兼利陸将の死と引換であるということである。三島は大儀に従って自衛隊幕僚幹部を殺害し、その責任として切腹を持ち出している。つまり、三島由紀夫には切腹する条件があったわけだ。実際には、益田兼利陸将は怪我ひとつ負うことはなかった。三島由紀夫と森田必勝は何をもって割腹自殺したのだろうか。

 三島由紀夫は眼下の自衛隊員にクーデターを呼びかける檄文を巻き、正午きっかりに演説を始めた。注目するべきは、三島が要求したのは13時10分までは何が起こっても妨害しないこと、だということだ70分間の時間的余裕がある。演説の予定は30分。40分余っている。三島由紀夫は自衛隊員にクーデターを呼びかけること以外に、何かをしようとしていたはずだ。

 さて、三十分を予定していた演説であるが、報道ヘリの音や自衛隊員の野次に妨害され、三島由紀夫は7分で切り上げることになる。この直後に、三島由紀夫は総監室で割腹自殺を図り、古賀浩靖(荒地浩靖・生長の家の幹部)に介錯され首を刎ねられることになる。要求にあった13時10分まで、大分時間を残していた。三島由紀夫は、残された時間で”何かを成し遂げようとしたところで暗殺された”のではなかったか。

 例えば、それは、益田兼利陸将の殺害行為である。演説を早々に切り上げ、三島由紀夫は人質である益田兼利陸将を殺害する為に総監室に引き上げてきた。その時すでに見張り役の楯の会選抜メンバーと益田兼利陸将との間に取引があったのではないか。
三島由紀夫の割腹自殺を目撃したのは、楯の会選抜メンバー四人(森田必勝を抜けば三人)と益田兼利陸将だけである。口裏を合わせれば、割腹自殺として処理されるだろう。
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三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。略~ 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。略~ 死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。 

森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた。
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三島由紀夫の検視によれば、切腹の傷はへその下4センチの位置で真一文字に13センチ、深さ5センチだったという。切腹の傷は腸がはみ出るほど深く割かれていたという。検死医は「意気込みの凄まじさ」という精神論で説明しているが、はたして自らを腸がはみ出るほどの深さに腹を切り裂くことが可能なのだろうか。さらに言えば、切腹は介錯を前提に考えれば、腹を切る行為はあくまでポーズであって、傷を付ける程度で良いのである。さらに、『右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ』という部分は、どうも後ろから襲撃された事を想定させるものである。森田必勝の検視結果も興味深い。頸部は一刀両断されているものの、腹部には複数の傷があった。介錯人がいるのに自分で何度も腹に刃を突き立てたのだろうか。

 酒鬼薔薇聖斗事件では、被害者の頭部が友が丘中学校の校門に置かれている。両目は繰り抜かれ、口は耳元まで割かれ、まぶたにバツ印。ハロウィンのかぼちゃのごとく、異常な細工が施された頭部は三島由紀夫と同じように公衆にさらされた。
三島由紀夫は組織に見せしめとして暗殺されたのではないか。後に語り継がれることになる壮絶な割腹は、偽装工作されたものではなかったか。三島由紀夫の暗殺を割腹自殺に偽装するのは簡単である。そう考えると、酒鬼薔薇聖斗が頭部を校門に晒した理由も見えてくる。日本国民に見せしめられた三島由紀夫の生首を想起させ、脅威な存在や思想の芽を摘むためである。
 「自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白」(山本 舜勝 (著)、講談社、 2001/06 初版)が出版されている。内容は題名の見かけ倒しで「三島由紀夫を殺した真実」の部分が触れられていない。これは差し替えられたのか著者が自粛したのかのどちらかであろう。考えようによれば、題名そのものに値打ちがあるのかも知れない。
 「【コラム/中日新聞】三島由紀夫自決から40年、三島の死を冷静」。
 「作家の三島由紀夫が自決した直後、現場になった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に入った警視庁の元鑑識課員に話を聞いたことがある。割腹した後、 切り落とされた三島の後頭部には何カ所もの傷があり、切り口はずたずただったという。じゅうたんにも何カ所も切り傷の跡があった。介錯人が切り落とそうとしたけど、うまくできなかったんだなと語ったのが印象に残っている」。

【三島最後のドキュメント考その21、三島死に急ぎの心情考】
 自殺の原因には諸説が挙げられている。その一つとして「生の美学論」がある。月刊誌「中央公論」の編集長であった粕谷一希は、三島が、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったという(なお、三島と荷風とは、系図上では遠戚関係にある)。「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。新潮社の担当編集者だった小島千加子は、「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていたという。この死に急ぎ証言に対する次のような反証的証言もある。「自分の顔と折合いをつけながらだんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう」、「室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる」。

 次に挙げられるのは、「ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲論」である。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して、読売新聞に発表した文章のなかで次の様に述べている。「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」。

 また、「行動学入門」の中で次のように述べている。「法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた」、「会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである」。

 他にも「切腹という行為そのものに対する官能的なフェティシズム論」がある。しかし、このどれもが嘘臭い。なぜなら、これらの論が三島事件を三島自決論で了解しているからである。三島自決論で了解する限りそういう理解の仕方が生まれることになるが、三島被強制自決論に立てば何の意味もない推論と云うことになろう。


【三島最後のドキュメント考その22、三島儀式殺人事件説】
 2015年初頭の「イスラム国」による日本人人質2名(湯川遥菜、後藤健二)に対する晒し首事件が発生し、これがはるか昔の記憶としての三島由紀夫晒し首事件を追憶させ議論を読んでいる。れんだいこは三島事件考をシリーズで書き上げたが、とどめの部分を言及していないので、ここで述べておく。「とどめの部分」とは三島由紀夫、森田必勝の死に方の真相考である。巷間、割腹自殺事件とされているが、真相は儀式殺人事件ではないのか、この観点から読み直ししてみたいと思う。こう考えないと不自然なこと不審なことがあり過ぎ、こう考えると不自然なこと不審なことのシグナルが全て整合的に解けるから不思議である。本稿で成るほどと合点し首肯される方が出て来られれば本望である。

 最初の疑念が「晒し首」に対する違和感である。もし三島らが真に切腹したものであれば、同日夕刊の朝日新聞に「晒し首」写真が掲載されるなどということはあり得ない。そもそも日本武士道に於いては切腹した者の首を晒しものにすることはない。そういう辱めは行わない。刑罰ないしは復讐的意味での「晒し首」はあるが、三島らが巷間云われるような切腹、介錯としての首跳ねの場合、これを刑罰ないしは復讐的意味で理解することは不能である。

 これにつき、国際ユダ屋系秘密結社特有の儀式殺人による処刑執行、その死をさらに辱めるための「晒し首」犯行と考えれば辻褄が合う。 酒鬼薔薇聖斗事件では被害者の頭部が友が丘中学校の校門に置かれ、両目は繰り抜かれ、口は耳元まで割かれ、まぶたにバツ印、頭部はハロウィンのかぼちゃのごとく異常な細工が施されていたが、三島事件と同様に公衆に「晒し首」にしているところが共通している。

 
その現場写真が逸早く朝日新聞社に届けられ、夕刊の都市配布分、早版に掲載されたと云うことは、当時の朝日新聞社と犯行グループが繋がっていたことを証している。その写真は、「胴体から切り離された三島と森田の生首をまるで見せしめるかのようにわざわざ並べて置いてある犯行現場」を写している。この写真は朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」の12.11日号に「特報 三島由紀夫割腹す」として掲載されている。後に、1984(和59)年に発刊された写真週刊誌「フライデー」創刊号にも掲載されている。これを商業新聞、商業雑誌の売らんかな主義によるものと受け取るべきだろうか。そうではなく、犯行側の国際ユダ屋系秘密結社の徹底した愚弄、あるいは何らかの見せしめ的なメッセージと受け取るべきではなかろうか。

 その写真の入手の仕方が臭過ぎるものでしかない。「三島由紀夫の生首がその日の夕刊に掲載されたらしいのですが---その日の内にどうして新聞に掲載することが出来たのでしょうか?」の問いに次のように アンサーされている。興味深いので転載しておく。
 「この首の映っている写真は、朝日新聞のカメラマンが、総監室の外から、内の状況がわからないまま、棒の先にカメラをくくりつけ、ファインダーをのぞかないで、手元でシャッターを押して撮影したと後で報じられた」(「平凡パンチの三島由紀夫」参照)。

 こういう説明で得心できる者は幸いである。普通は子供騙しと云う。こういう子供騙しの弁に大人が騙されてきただけのことである。この説明の致命的欠陥は、犯行現場を総監室としているところにある。事実は、総監室ではない別の陰険な隔離部屋に相違ない。そこで儀式殺人され、用意周到に写真が撮られ、その一報が朝日新聞社に渡されたと窺うべきであろう。

 「増田俊也ブログ」の「次のような説明もある。
 「先に書いた、朝日新聞夕刊早版に掲載された三島由紀夫の割腹現場について、朝日の記者がメールをくれたので御紹介したい。『三島さん生首写真ですが、あれは現場にかけつけたカメラマンがファインダーもなにも見ずに天窓ごしから室内にシャッターを押したらそのうちの1枚に偶然写っていたそうで、暗室で現像し、映像が浮かび上がってきたときは相当驚いたそうです』。報道合戦が激しかった時代のことだ」。

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(私論.私見)
 実にくだらない駄文である。

 三島と森田を儀式殺人せしめた者は誰か。そろそろこれの考察に向かわねばならない。参考になるものとして山本舜勝 (著)「自衛隊『影の部隊』―三島由紀夫を殺した真実の告白」(講談社、2001.6月初版)が出版されている。内容は題名の見かけ倒しで、「三島由紀夫を殺した真実」の部分が触れられていない。これは差し替えられたのか著者が自粛したのかのどちらかであろう。考えようによれば題名そのものに値打ちがあり、三島事件は割腹ではなく殺されたとしている。しかし、その犯人が「自衛隊『影の部隊』」であるのかどうか分からない。そもそも「自衛隊『影の部隊』」が何者かが分からない。何も「自衛隊『影の部隊』」とせずとも良いと思う。確実なのは、国際ユダ邪系秘密結社員の手で儀式殺人されたと云うところであろう。

 これにつき、「【コラム/中日新聞】三島由紀夫自決から40年、三島の死を冷静」が興味深い次のようなことを記している。
 「作家の三島由紀夫が自決した直後、現場になった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に入った警視庁の元鑑識課員に話を聞いたことがある。割腹した後、 切り落とされた三島の後頭部には何カ所もの傷があり、切り口はずたずただったという。じゅうたんにも何カ所も切り傷の跡があった。介錯人が切り落とそうとしたけど、うまくできなかったんだなと語ったのが印象に残っている」。

 この「現場になった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に入った警視庁の元鑑識課員証言」のキモは、「三島の後頭部には何カ所もの傷があり、切り口はずたずただった」である。これを首切りの難しさのセンテンスで理解する必要はない。国際ユダ邪系秘密結社特有の合同刺殺儀式による殺傷と考えられる。

 三島と森田の傷を「死体検視鑑定書考」に即して読むと、「三島の短刀による傷はへソの下4センチぐらいで、左から右へ13センチも真一文字に切っていた。深さは約5センチ。腸が傷口から外へ飛び出していた」、「日本刀での介錯による傷は首のあたりに三か所、右肩に一か所あった」、「森田は腹に10センチの浅い傷があったが出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた」と記している。 東京大学医学部講師・内藤道興氏が検視に立会っており、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話している。これの詳しい検証を省くが、要するに不自然なところが多々確認できる。「右肩に刀がはずれたと見られる11・5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ」とあり、後ろから襲撃された事を想定させる記述がある。森田の検視結果も興味深く、「頸部は一刀両断されているものの腹部には複数の傷」とあり、名介錯人がいるのに自分で何度も腹に刃を突き立てている不自然さが記述されている。首を一刀のもとに切り捨てた「名介錯人」が「剣道有段者の古賀浩靖」とするのは早計である。人の首は剣道有段者程度の者で切れるものではない。結論はこうである。三島は儀式殺人方式で殺されたのではないのか。「壮絶な割腹譚」は、それを隠す為の偽装工作されたものではないのか。

 
それでは何の為に殺されたのかと云うことになる。これを解く鍵は、三島の晩年が次第に日本主義化し、その定向進化が国際ユダ邪と真っ向対決するようになったからではなかろうか。恐らく三島と石原の抜き差しならない対立は、この辺りに関係しているはずである。かくて、三島が巧妙に誘い出され、用意周到なる網が仕掛けられ、儀式殺人された。執行人メンバーに佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)がいるはずである。中曽根、石原、川端康成がどの程度関わったのか分からないが、川端は血まみれの三島の死体と首を確認しており、その後、眠れないと周囲に漏らし始め、「ほら、三島君があそこにいる」と三島の霊を見ているかのような言動をするようになり、三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室でガス管をくわえた形でガス自殺変死している。遺書はない。





(私論.私見)