三島由紀夫の英霊論

 (最新見直し2013.09.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.08.31日 れんだいこ拝


 三島由紀夫の英霊論

 古林尚(ふるばやし・たかし)氏によって行われた「三島由紀夫 最後のインタビュー:1970年という時代の解読のために」(インタビューとは言っても,語っている分量は同じくらいなので対談の色彩を帯びている)は「図書新聞」1970.11月号に掲載された。この内容は大岡信ほか編「三島由紀夫 群像 日本の作家18」(1990年・小学館)に再録されている。(三島由紀夫「三島由紀夫は語る—最後のインタビュー」)

 このインタビューのなかで,古林はなかなか挑発的に三島を刺激する。

古林

 「[前略] たとえば三島さんが大好きな二・二六事件ですが、三島さんが描けば、まっ白な雪の中で決起がおこることになる。雪は時間がたてば必ずとけてドロドロになるはずなんだけれども、その醜悪になった雪のイメージは、三島さんの視野にけっしてはいってこない。決起将校を描くときにも、その心情だけを独立に取りだして、白い雪の美しさとすりかえてしまう。事件で殺される人間のことなんか、ぜんぜん考えてみようともしていない。どうして,こんなふうになってしまうのか,それが私には理解できないんです。純粋志向もよいけれども、すこしは被害者の側にも目をくばって、そうですね、被害者感覚だけの作品をたまには書いてみたらどうなんですか」。

三島

 「ぼくが,あなたのおっしゃる〈情念の美〉にとり憑かれているのはエロティシズムと関係があるからでしょうね。ジョルジュ・バタイユをぼくが知ったのは昭和三十年ごろですが、ぼくが現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感をもっている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。その言うところは、禁止というものがあり、そこから解放された日常があり、日本民俗学で言えば晴(はれ)と褻(け)というものがあって、そういうもの—晴がなければ褻もないし、褻がなければ晴もないのに、つまり現代生活というものは相対主義のなかで営まれるから、褻だけに、日常性だけになってしまった。そこからは超絶的なものが出てこない。超絶的なものがない限りエロティシズムというものは存在できないんだ。エロティシズムは超絶的なものにふれるときに初めて真価を発揮するんだとバタイユはこう考えているんです」。

 三島は意図的に韜晦な理論を持ち出して相手を眩ましているのではない。三島は語る,「・・・ぼくの内面には美,エロティシズム,死というものが一本の線をなしている。」と。そして,三島は問う。「古林さんのお話をうかがっていると,三島の純白は観念であるが、残酷というものはザッハリッヒ[即物的]だと。こんなふうにあなたはお考えなのですね」。

三島  「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ 勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の 本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、 日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」 。
 「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは 当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。 立憲国家の君主として当然の行為です」 。
三島  「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき 存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。 それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら 変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を 死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』となぜ 侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。 これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」 。
三島  「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、 裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、 首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」 。

 三島由紀夫 「古林尚との対談―最後の言葉」より
 「明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。 あのころの人間は単細胞だから、あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは嫌いなんです。 どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。 それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。 だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。 あの遺稿集(きけわだつみのこえ)は、もちろんほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。 だが、あの時代の青年がいちばん苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と日本との融合だったんですよね。 戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。 そこを突っきって行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。 それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。 そういう考えは、ぼくは許せない」。


 三島由紀夫 「英霊の声」(1966年)より。

 この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が登場し、帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の 死者の声を口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。この作品で三島が言うのは、自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は 神ではないというのは、(逆説的ながら)「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は断じて糾弾される べきだということ、しかし、その糾弾の主体は、もはやどこにもいないということである。 戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。 〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にもラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。 事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉 こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。 そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。 加藤典洋 「その世界普遍性」より 

 だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、 「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。 それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。 彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。 いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。 彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」 とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。 だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。 怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。 『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。 林房雄 「悲しみの琴」より
 「われらはもはや神秘を信じない。 自ら神風となること、自ら神秘となることとは、そういうことだ。 人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。 その具現がわれらの死なのだ。 われらには、死んですべてがわかった。 死んで今や、われらの言葉を禁める力は何一つない。 われらはすべてを言う資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ」。
 「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、 陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」。

 三島由紀夫 「憂国」より。「憂国」は二・二六事件で新婚のため親友達から蹶起に 誘われなかった青年将校が、自分の美を守るために妻と心中といってよい自決をする話である。 「この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた」。新婚生活をこのように書くところに、三島由紀夫という作家の才能を感じる。立松和平 「アンケート 三島由紀夫と私」より

 「豊饒の海」最終巻、「天人五衰」の最後で本多繁邦が、奈良の月修寺の門跡となっている聡子に会うために 車を走らせながら、その夏空の下の景色に目をやったときの感慨……。
 「目の前に光りと感じられてゐるものは、底知れぬほどの闇の陰画なのであらうか。 さう思つたとき本多は、自分の目が又しても事物の背後へ廻らうとしてゐるのを感じた」。

 自決の直前のインタビューに答えて、三島は「十代の思想」への回帰ということを、自らの口で語った。 〈ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。 (中略)十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、 ワーッと出てくるんです〉(「三島由紀夫 最後の言葉」)。

「人はあえていうであろう。特攻隊は、いかなる美名におおわれているとはいえ、強いられた死であった。そして学業半ばに青年たちが、国家権力に強いられて無理やりに死へ追いたてられ、志願とはいいながら、ほとんど強制と同様な方法で、確実な死のきまっている攻撃へかりたてられて行ったのだと・・・・・・。それはたしかにそうである」(『葉隠入門』)。

 「『十日の菊』を書く一年前に、私はすでに二・二六事件外伝ともいうべき『憂国』を書いて、事件から疎外されることによって自刃の道を選ぶほかはなくなる青年将校の側から描いていた。そしてそれは、喜劇でも悲劇でもない、一編の至福の物語であった。(中略)『憂国』の中尉夫妻は、悲境のうちに、自ら知らずして、生の最高の瞬間をとらえ、至福の死を死ぬのであるが、私はかれらの至上の肉体的悦楽と至上の肉体的苦痛が、同一原理の下に統括され、それによって至福の到来を招く状況を、正に、二・二六事件を背景として設定することができた」(『二・二六事件と私』)。

 「人間の生の本能は、生きるか死ぬかという場合に、生に執着することは当然である。ただ人間が美しく生き、美しく死のうとするときには、生に執着することが、いつもその美を裏切るということを覚悟しなければならない」(『葉隠入門』)。
 『英霊の声』では「われらは比島のさる湾に」と語る神風特攻隊の「英霊」を登場させており、晩年には秋山駿との対談で「あれを書いて僕は救われたのです」と言っている。戦時に特攻兵たちと現実的な関わりなど何もなかった三島が(二・二六将校については言わずもがなである)、一面で(とはいえ、実は彼にとってはこれが主眼なのだが)特攻隊の「英霊」の鎮魂歌の意味を帯びた『英霊の声』を「書いて僕は救われたのです」。

「二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだ」(『二・二六事件と私』)。「至福の到来を招く状況を、正に、二・二六事件を背景として設定することができた」。

そんな彼が晩年になると、「たしかに二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながっているらしいのを感じた」などと、強引に「神」や「神の死」を持ち出してきて、己の精神と結びつけようとするのである。「当時十一歳の少年であった」三島に「二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだ」ことなど「おぼろげに」すら「感じられた」わけがあるまい。


【三島由紀夫と河野寿大尉の兄、河野司の問答考】
 「2.26事件は軍服を着た百姓一揆だ」と戦後問われた青年将校末松太平は訴えた。
 「2.26事件」の第一人者となった三島由紀夫は「英霊の聲」を書き上げて「2.26蹶起将校の御霊前に捧げるつもりで書いた作品であります」と河野寿大尉の兄、河野司さんに送っています。「英霊の声」の14ページから、18ページの歌のシーン。河野司が三島由紀夫に言った言葉は次の通り。
 概要「法治国家の元首として、また、軍の大元帥として、国法を破り軍紀を犯したものに対し、断乎とした措置をとることは国の秩序を守り、軍の統帥を正すことである。その処置として、勅命を下し「叛乱部隊の原隊復帰」を命じたのは当然であったと思う。そして『朕自ら近衛師団を率い、鎮圧に当たらん』。ここまでは理解できる。しかし蹶起将校が自決を決意しせめて勅使の派遣をと山下奉文少将が本庄侍従武官長を通じて奏上した時、『自殺するならば勝手に為すべく、勅使など以ての外なり』。これが理解できません。明治天皇は『天下億兆一人もその所を得ざるときは皆朕の罪なれば』。これが日本の天皇の姿ではないだろうか。陛下の赤子が、その犯した罪を死をもって償おうとしている。『そうか、よく判ってくれた』と温かく侍従に『お前行ってよく見届けてやってくれ』と何故に仰せられないのだろうか」。
 こう言った河野司に三島由紀夫は「人間の怒り、憎しみですね、日本の天皇の姿ではありません、悲しいことです」。河野はさらに言葉をはさんだ。「彼らが獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果たして『天皇陛下万歳』を絶叫して死んだでしょうか」との設問に、「君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」と声をつまらせたことが、忘れられない。このヤリトリの後、三島由紀夫は「英霊の声」を書いた。「青年将校の願い」と題して、天皇に「お前たちの精神はよく分かった。朕が必ずお前たちの赤心を生かすから、お前たちは心安く死ね、その方たちはただちに死なねばならぬ」と云わせ、将校たちは神、陛下の御前で白雪を血に染めて自刃する。三島はこれを「至福の死」として、これが青年将校の真意だと・・・・。もしも28日の時点で勅使御差遣の懇願が実現していたら、彼等は「至福の死」を実現できたろう・・・・悔いはつきない・・・・と記している。そして処刑の場面。陛下の「この人間のおん憎しみを背後に戴き」奸臣どもが「叛逆の罪におとし」「暗黒裁判を用意し」「はやばやと極刑が下された」。三島はこの最後の場面を次のようにしめくくる。
 「かくてわれらは十字架に縛され、われらの額と心臓を射ち貫いた銃弾は、叛徒のはずかしめに汚れていた。このときに大元帥陛下の率いたまう皇軍は亡び、このときわが皇国の大義が崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意(からこころ)のナチスかぶれの軍閥は、さえぎるもののない戦争への道をひらいた。われらは陛下が、われらをかくも憎みたまふことを、お咎めする術とてない。しかし反逆の徒とは!叛乱とは!国体を明らかにせんための義軍をば、反乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御慈悲はつゆほどもなかりしか。こは神としてのみ心ならず」。
 そして最後に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と天皇陛下に対する涙で終わる。磯部を代表する青年将校の血涙の遺書の怨念が三島先生にのりうつって、書かせた。





(私論.私見)