宇宙史地球史考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2009.12.22日、新たに日本及び日本人の起源考を作ることにした。千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」、横尾恒雄「異説古代史 (上巻)」、「日本人の起源と系統について」その他を参照する。

 2009.12.22日 れんだいこ拝


【原日本人考】
 ここで、日本人の起源を訪ねることにする。但し、構え的には、人類の起源が解明できない以上、跡付けることもできないとすべきだろう。この問題に取り組む学問には歴史学(人類学、文化学、文献学、考古学、神社伝承学)、言語学、天文学、生物学(古生物学、分子生物学、DNA考古学)、地球科学等がある。これに、「別章【歴史研究手法考】」で触れているが、年代測定法としての放射性炭素(C14 )分析による年代特定、さらにその手法改良により約六万年前迄測定可能とされるAMS分析法、年輪年代法等も加わって、より精緻に考証されるようになった。コンピュータによる画像解析の手法を駆使して古代人の墓碑の解読もすすみ、歴史人物の在世年代が特定されている。

 日本人の起源探訪を山に例えれば、これら諸科学の裾野から登山するのに似ている。依然として頂上には至らない。但し、次の程度には解明が進んでいる。即ち、生命の起源そのものを訪ねれば、2004年12月に放映されたNHKの「地球大進化四十六億年の歴史」によると、元は藻類かアミーバのような生物から鰭をもつ魚へ、そして手のある両生類に、さらに地上に生活するようになった獣へと進化を繰り返して猿へと辿り着いている。今日の人類の遠祖は大型類人猿と呼ばれるチンパンジー、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、ゴリラ、オランウータンの四種であると考えられる。凡そ600万年前、この中のあるグループが人類の祖先となったと推定されている。人類学上、現代人(新人類、ホモ・サピエンス)のルーツは15~20万年前よりとされている。その故地はアフリカとされつつある。この説に従うと、4~3万年前、日本人の祖先となる集団が日本列島へ最初にやって来たと推理するところとなる。この時期には海面低下の影響で陸地が拡大し、日本列島周辺の海岸線は現在とはずいぶん異なっていたという。日本列島の一部では、大陸と陸続きになったり、大陸との間の海峡が非常に狭くなったりしていたと云う。但し、全く別系理論になるが、ムー大陸論による太平洋沖からのプレート移動論もあり確定はできない。

 新人類はその後世界各地に分散してニグロイド(黒人)、コーカサイド(白人)、モンゴロイド(黄色人)へ分化したとされている。この分類によれば、現代日本人はモンゴロイド(黄色人)になる。これにより「日本人の先祖は人類学的にモンゴロイド人と呼ばれている」。その日本人は、同じモンゴロイドながら先住系と後続系の二種に分かれる。「ミクロに見れば数種類の南方系モンゴロイドと数種類の北方系モンゴロイドとから成るという複雑なものになる」。この両系のモンゴロイドの混血が進み日本人の祖となったと考えられている。どの地点から日本人となるのか分からないが、仮に原日本人と命名すれば、原日本人は今日のアイヌ人、琉球人とDNAが近いと云われている。なお且つ、ベーリング海峡が陸続きの頃、原日本人がアメリカ大陸に渡り、後にインカ,アステカやマヤの文明を築いた痕跡が認められている。「6千年前のアンデスのミーラのミトコンドリアDNAは北海道アイヌのものとほとんど一致する」とも云われている。

 文化人類学的時代区分によれば、人類史は旧石器時代から始まる。人類が旧石器を作り始めた約250万年前から新石器を作り始めた約1万年前までの時代を云う。但し、人類が誕生した約600万年前から250万年前の期間も含めることがある。地質学上の第四期洪積世に相当する。一般的に、旧石器時代は旧大陸の旧石器文化に基づく考古学区分により、前期(下部)、中期(中部)、後期(上部)の三期に分けられている。日本列島では、現在のところ確かな旧石器文化は約4~3万年前頃の後期段階しか確認されていない。この時代、日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは良くわかってない。私たちの祖先・倭(和)人の姿をはっきりと見ることができるのは縄文時代からという。

 原日本人は歴史文献学的には倭人として登場する。以下、れんだいこならではの「一言もの申す」をしておきたい。倭人を縄文系と弥生系に分類されるのが普通であるが、的確な表現とは思えない。そもそも「縄文弥生識別」は、縄文的なるもの、弥生的なるものの文化、習俗の違いを時代規定にまで被せていることになるが誤解の元であろう。縄文人は縄文時代の生活スタイルだけではなく、弥生時代にも弥生人と並存して共に日本列島に生息している訳で、あるいは混血も進む訳であろうから、縄文的なるもの、弥生的なるものなる文化、習俗の違いを以て縄文時代、弥生時代と識別するのは如何なものだろうか。

 他の歴史区分との比較で云えば、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語のどれかをもって時代名としている。これに倣えば、縄文時代、弥生時代なる識別は不当とすべきではなかろうか。但し、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語によっては識別ができないので仮に縄文時代、弥生時代としているのであろう。しかしながら誤規定である。正しくは、原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の識別が相応しい。その文化、習俗の違いとして原日本(上古代日本)は縄文的であり、新日本(古代日本)は弥生的であると認識すべきではなかろうか。繰り返すが、これを縄文時代、弥生時代として識別すると、弥生時代下の原日本(上古代日本)人の縄文的棲息が見落とされてしまう。

 れんだいこが、このことに何故拘るのか。それは、魏志倭人伝に登場する倭人論に繫がるからである。魏志倭人伝に記されている倭人の習俗は明らかに原日本(上古代日本)の姿である。魏志倭人伝は紀元3世紀頃の日本をスケッチしているが、日本の縄文、弥生時代の規定で云えば弥生時代である。その弥生時代に縄文的な原日本(上古代日本)の政権と風俗が活写されていることになる。これはどうも具合が悪いし、そういう規定では正しい認識ができなくなる。これが縄文時代、弥生時代規定の間違いの為せる罪技である。故に早急に縄文時代、弥生時代なる識別を改めなければならない。

 こう認識することによって、日本古代史を原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の規定にせねばならないことになる。但し、新日本と規定すると、その後の日本は更なる新日本なのだからややこしくなる。そういう訳で、上古代日本、古代日本とすべきと云うことになる。もっと的確な造語ができればそれに越したことはない。

 千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」は次のように記している。
 「東北地方の岩手県花巻市では、3万年も昔といわれる石器時代の遺跡が発見されている。縄文文化が色濃く名残りをとどめている。現代科学の粋たるスペースシャトルの外壁は高温にも耐えるセラミックス(陶器)で出来ているが、このセラミックスは、岩手県、津軽、東北地域の遮光式縄文土器(炭素セラミック)の成分を参考にしてNASAで再開発されたものである。このことは、縄文時代文明の高度性を示唆している。北海道函館市で9000年前の漆器(うるしを塗った器)が発見されている。世界最古の漆器といわれている」。

 「最新・日本古代史年表」を参照する。

年 代 時 代  社 会 ・ 文 化 ・ 遺 跡 
 旧石器時代
170万年前 前期 日本オオカミの先祖?京都昭島市で日本オオカミの先祖とみられる動物の化石が発見された。
?万年前 日本列島に人(原人)が住み始める。
60万年前 上高森遺跡。平成7年10月、「石器発見の神様」と呼ばれている藤村新一氏により宮城県築館町で「約60万年前の日本最古の旧石器を発見」。現時点における原人が残した最古の遺跡となっている。
13万年前 ナウマンゾウ(40万年前~3万年前に生存)の化石などが多数発見。馬場壇A遺跡(宮城県古川市)、中峰C遺跡(宮城県大和町)
10万年前 中期 袖原3遺跡(山形県花沢市)、中島山遺跡(宮城県色麻町)。10万年前、山脈を挟んだ異なる場所の2つの石器が同じ原石から作られていたことが判明。
3万5千年前 辻田遺跡(北九州市)。
3万年前 座散乱木遺跡(宮城県)。
立切遺跡(鹿児島県中種子町)。大量の石器、炉跡が発見された。調理用焼き石の礫群、焼土遺構、建物や杭らしい柱跡が出土。
2万5千年前 後期 シベリアでマンモスのほぼ全身を発見。
  広島大新キャンパス遺跡(広島県東広島市)中期~後期。住居遺構6棟、平地式住居の発見。鹿児島姶良カルデラ噴火,火山灰は東北にまで及ぶ。翠鳥園遺跡(大阪府羽曳野市)新人のサヌカイト製石器製作跡。
  最終氷河期ピーク,海面が百数十メートル退行。
1万6千年前  白滝遺跡(北海道)。黒曜石の石器原産地遺跡。シベリアに運ばれたことも判明。120万点出土。
1万4000年前 草創期 青森で発見の土器が世界最古と判明。青森県蟹田町にある縄文草創期の大平山元遺跡で見つかった土器片が1万6500年前に作られたものであることが明らかになった。
  鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か?
  「港川人骨」(沖縄県具志頭村港川)。1万数千年前の化石人骨数体分が採集。「港川人」は、「柳江人」(中国広西省出土;約4万年前の化石人骨)とよく似ている。
B.C.9000 栫ノ原(カコイノハラ)遺跡(鹿児島県加世田市)、奥ノ仁田(オクノニタ)遺跡(鹿児島県西之表市) (約1万2千年前)定住生活の跡(丸ノミ型磨製石斧,石皿、磨石、石鏃などが発見された。)有肩石斧の原始的形態のものが出土する。
 縄文時代
B.C.7000 早期 上野原遺跡(鹿児島県)。日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。西日本には殆どないとされていた縄文遺跡だが、鹿児島県から日本最古の縄文集落が発見された。三内丸山遺跡に続いて古代史を塗り替えた。弥生式土器に似た土器まで発見され「縄文も西からか?」と騒がれている。
鬼界カルデラ噴火。中野B遺跡(北海道函館市)500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
B.C.6000 漆の使用始まる。木工技術が発達し、各地で丸木船が作られる。気候が温暖化し海水面が上昇,海が内陸に入り現在の日本列島の形状が形成される。(縄文海進)
B.C.5000 前期 三内丸山遺跡(青森県)5千5百~4千年前まで約1,500年間営まれた大規模な集落跡。従来の縄文観をことごとく書き換えた有名な縄文遺跡。
  北黄金貝塚。(北海道伊達市)(約5000年前)意図的に壊された石皿やすり石を含む石敷きの作業場、池、水汲みの際の足場などの「水場遺構」が発見される。祭祀遺構の可能性も? 鯨骨製の「刀」も出土した。
B.C.4000 中期 富山・桜町遺跡(富山県小矢部市)。建築部材が大量に出土。「わたりあご仕口」と呼ばれる木組み跡の柱があった。同じ手法が、後世奈良の法隆寺の建物にも使われている。
B.C.3000 各地で大規模な縄文集落成立。新潟・長者ケ原遺跡。 富山・不動堂遺跡。石川・チカモリ遺跡。奥三面遺跡群(新潟県朝日村)。縄文期に「2000年集落」。新潟県朝日村三面地区のダム予定地で発掘調査が進む奥三面遺跡群に少なくとも2000年続いた縄文時代後―晩期の文化が存在していたことが、9日(98年10月)までに明らかとなった。これまで最長とされた縄文前―中期の三内丸山遺跡(青森市)の約1500年間を上回る。国内最古の「舗装道路」跡などが出土しているものの、同遺跡群はダムの完成に伴って水没することになっており、惜しむ声が強い。 
B.C.2000 後期 土偶・仮面・石刀などの祭祀が隆盛。
B.C.1000 晩期 九州北部に水耕稲作が伝わる。佐賀県・菜畑遺跡。日本最古の水耕稲作。稲作以外に、野菜の栽培、家畜の飼育も行っていた。
 弥生時代
B.C.300 前期 鉄器使用始まる。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)。
  倭、百余国に別れ分立。楽浪郡と通交。
  北九州に稲作定着し環濠でムラを囲む。福岡・板付遺跡。
B.C.200 北九州各地に王国。吉武・高木遺跡(早良王国:福岡市)。野方遺跡(福岡市)。平原遺跡(伊都王国:福岡県前原市)。
  中期 青銅器の製作始まる。原の辻遺跡(長崎県)日本最小の銅鐸が出土(滋賀・下鈎遺跡)。 内外2重の環濠をめぐらした25平方㎞におよぶ集落・港湾遺跡。日本最小の小銅鐸(どうたく)が滋賀県栗太郡栗東町の下鈎(しもまがり)遺跡で見つかった。通常の銅鐸を忠実に再現しており、関係者は「古代の銅製品の使用や製造の変化を知る上で貴重な資料」と注目している。弥生時代中期の集落の環濠(ごう)と推測される溝から見つかり、弥生時代中期後半から後期ごろ(紀元前2―後3世紀)の製造とみられる。
  福岡県甘木市・平塚川添遺跡。6重の環濠をめぐらした大集落遺跡。楼閣を持った祭事建物も出現。壱岐の「原の辻遺跡」とともに北九州三大環濠遺跡。吉野ヶ里を発掘した佐賀県文化財課の高島忠平氏談。「こんど北九州で何か出るとすれば甘木・朝倉地方だと思ってました」。
A.D.1紀元後 池上曽根遺跡 環濠集落。 (大阪符)。近畿最大の掘立柱建物と一本刳り抜き井戸が出現。
  弥生集落、全国で営まれる。大塚・歳勝土遺跡(横浜市)。綾羅木・郷遺跡(下関市)。田能遺跡(尼崎市)。加茂岩倉・神庭荒神谷遺跡(島根県斐川町、加茂街)。唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)。立岩遺跡(飯塚市)。登呂遺跡(静岡市)。名古屋・見晴台遺跡。山口・土井が浜遺跡。 福岡・金隈遺跡。
  小田原で弥生時代中期の大集落を確認。98年3月7日、同市中里にある繊維工場跡地の発掘調査で、弥生時代中期中葉(紀元前2世紀)の大集落跡が確認された。調査地から61の竪穴住居跡や500を超える土坑などが見つかった。また小田原ではこれまで発見例のない瀬戸内海系の土器も出土した。中里遺跡は、酒匂川河口から2キロ上流。工場跡地に大型店舗が進出するため、98年3月から発掘調査していた。集落跡は東西、南北ともに250メートル。この遺跡から南東に300メートルほど離れた場所からは、1993年の調査で、49基の方形周溝墓が見つかっている。今回の発掘と合わせ、この地域の周辺に本格的な大規模集落があったと推測されるという。
  弥生時代のおにぎり出現。杉谷チャノバタケ遺跡(石川県鹿西町)紀元前後の弥生中期末の住居跡から見つかった。日本最古の調理・加工された炭化米の塊。チマキ、魔よけの説もある。
  青銅器、九州で盛んに製造される。各地で工房跡。須玖・岡本遺跡群(福岡県春日市)
57 奴国王漢の光武帝より金印を賜る。
  妻木晩田遺跡(鳥取県大江町・淀江町)。現在、日本最大の弥生遺跡。山陰に新たな王国か。
200 後期 倭国内乱が続く。戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土する。


 「地球最古の人類は、原初日本人」その他参照。転載元「日本と地球の命運
 地球最初の先住民は、約4億年前に創造主らによって創世された原初日本人である。地球最古の人類は日本人だった。日本人は約5億年前に地球に発生した。マヤ人は、日本人より後れて約4億年前に地球上に現れた。マヤ人はイグアナの遺伝子を受け継ぐレプティリアン・ヒューマノイドである。 無数に繰り返された地球の天変地異で日本人の繁殖は乱されたが生き残って、今日に至っている。
  
 南アフリカ西トランスヴァール州で約28億-26億年前の葉蝋石鉱脈から人工構造物が発見されて、クラークスドルフ市博物館に展示されている。それは約4cmのやや扁平な金属の球体で、赤道部分に等間隔な3本の溝がある弱磁性体である。それは、ガラスケースの中に置かれていて、年間1-2回反時計方向に自転している。表面に1箇所葉蝋石のかけらが付着していて分かる(南山宏「オーパーツの謎」二見書房)。これは、日本人より古い最古の地球原住民ユージンが造ったものである。地球最古の人間文明は、約36億年前のユージン文明だった。ユージンは地球の天変地異で絶滅したので、生き延びた子孫はいない。 だから、地球最古の、今日まで生き延びた人類は、日本人である。
  
 モンゴール人は日本人の子孫である。地球最初の先住民日本人が北周りで今のアラスカから今の北米大陸へ、さらに今の中南米へ移動して文化と遺伝子を伝えた。北米インディアンの文化や、米国で今も残っている日本語の多くの地名がそれを実証している。参考書:吉田信啓「岩刻文字(ペトログラフ)の黙示録―超古代、日本語が地球共通語だった!」(徳間書店)。同「神字日文解(かんなひふみのかい)―ペトログラフが書き換える日本古代史 (改訂新版・中央アート出版社(99.03)。 
 
 南米のタワインティスーユ文明も超古代日本文明の枝葉である。コジャスーユ(ボリビア)の原住民も、ワンカール(ラミロ・レイナガ=霊長)も超古代日本人の子孫である。太田龍「時事寸評」掲載のワンカールの顔写真がそれを実証している。

 令和5年6月26日、藤田 泰太郎(京都大学農学博士)「古の日本(倭)の歴史
(最新版)公開」
 日本列島原住民が生息した時代を「上古代日本」として、これを
確認する。世界史的歴史区分として旧石器時代、新石器時代、青
銅器時代、鉄器時代とする識別が標準になっている。「上古代日
本」をこれに当てはめれば、旧石器時代が縄文時代、新石器時代
が弥生時代となる。それぞれ早期、前期、中期、晩期に分かれる。
弥生時代以降は有史時代に入る。
 旧石器時代(「上古代日本史」縄文時代)は人類発生史に被っている。
約600万年前、類人猿と区別される最初の人類となる
猿人が誕生し、13
0万年前頃まで生存していたとされている。これを詳しく
追うことを本稿で
は割愛する。
 石器時代は、絶滅動物の存在と打製石器を使っていた時代の旧石器時
代と現生動物の存在と磨製石器を使うようになった時代の新石器時代と
の二つに分けられる。旧石器時代は前期旧石器時代(260万年前~30万
年前)、中期旧石器時代(30万年前~3万年前)と後期旧石器時代(3万年
前~1.6万年前)に分かれる。
 日本列島には前期旧石器時代の原人・旧人の骨や遺跡は見つからず、
中期旧石器時代の砂原遺跡(出雲市)が最古(約12万年前)である。
 それに続くのが金取遺跡(遠野市)(8-9万年前)であり、石器(ハンドアッ
クスのような両面加工石等)や木炭粒が出土している。
 これらの遺跡は、旧人あるいは原人の残存者の活動の跡と見なされる。
新人と思われる山下町洞人(沖縄、約3万2000年前の子供の大腿骨と脛骨
)が国内最古級人骨の出土している。
 国内最古の全身骨格人骨(白保人)が出土した(約2万7000前、石垣島)。
 3万年前の中期旧石器時代に断続的に日本列島に侵入してくる。
 約2万年前、後期旧石器時代の遺跡は列島に広く分布し、神取遺跡(北
杜市)からは台形石器と局部磨製石斧が出土した。
 港川人(1万7千年前の人骨、沖縄)や浜北人(1万6千年前の人骨、静岡)
が出土、何れも新人の人骨化石と考えられている。
 縄文時代(1.6万年前~2.8千年前)

 大平山元Ⅰ遺跡から1.6万年前の世界最古級の「無紋土器」、石鏃の出
土をもって縄文時代の始期とする。「上古代日本史」の縄文時代は、1万年
以上継続した持続可能な「森と水の文明」(狩猟、採取/栽培と漁撈)であり
世界に冠たるない内実を示している。この縄文文明が日本文化の基層と
なっている。
(1) 縄文時代草創期(1.6万年前~1万年前)
 1.3万年前、古バイカル人(D2(D1a2a))はクサビ型細石刃を携え、樺太経
由で東日本に南下、東日本縄文人の基層となる。この頃、古華北人
(D2(D1a2a))が半円錐形石核を西日本に伝え、西日本縄文人と称される。
以下、草創期の出土物を列挙する。
 佐世保市の泉福寺洞窟から、約1.3万年前の豆粒文土器と約1.2万年前
の隆線文土器。
 神取遺跡(山梨)から隆起線文土器。
 鳥浜貝塚(福井)出土の漆の枝は世界最古の約 1.2万年前のものである。
 浦入遺跡(舞鶴市)から網漁に用いられた最古の打欠石錘。
 粥見井尻遺跡(松阪市)や相谷熊原遺跡(東近江市)から最古級の土偶(
通称縄文のビーナス)出土。
 (2) 縄文時代早期(1万年前~7千年前)

 縄文文化が定着する時代で伊豆諸島を一つの起点とするかなり広範囲
な黒曜石などの海洋交易や漁撈の跡が認められる。早期の出土品を列挙
する。
 浦入遺跡(舞鶴市)から桜皮巻き弓。
 垣ノ島遺跡(函館市)から幼子の足形や手形をつけて焼いた足形付土版
や世界最古級の漆工芸品。
 雷下遺跡(市川市)から日本最古の丸木舟。
 夏島貝塚(横須賀市、最古級の貝塚)から撚糸文系土器や貝殻条痕文
系土器が出土、沖合への漁撈活動を示す。
 栃原岩陰遺跡(北相木村)から人骨、ニホンオオカミの骨、精巧な骨製の
釣針や縫い針。
 横尾貝塚(大分市)から姫島産黒曜石の大型石核や剥片、石材など、流
通の拠点。
 上野原遺跡(霧島市、最古級の大規模な定住集落跡)から、貝文土器出
土(貝文文化)。
 早期の終結時(7.3千年前)に鬼界カルデラ噴火があり、南九州・四国は
アカホヤ火山灰に覆われ、貝文文化は消滅など、そこの縄文社会は壊滅
した。
 (3)  縄文時代前期(7千年前~5.5千年前)

 この頃、西北九州と南朝鮮にかけての漁撈文化が栄えた。各地で沿岸漁
業や交易が盛んになった。また、当時の南朝鮮に、縄文時代草創期の列
島各地の隆起線文土器に酷似した朝鮮隆線文土器が現れ、その後櫛目
文土器が現れた。
 遼寧省の興隆窪文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ査海遺跡(7,000年前)
の墓地から、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。玉匕(ぎょくひ)や玉
斧などの玉製品が出土した。これらの興隆窪文化由来の玉は、桑野遺跡、
鳥浜貝塚、清水上遺跡、浦入遺跡など日本海側の遺跡を中心に、全国に
分布している。
 前期は気候が温暖化し始め、西日本には照葉樹林文化が東日本には
ナラ林文化が流入してきた。
 鳥浜貝塚からは、スギ材の丸木舟、浦入遺跡からは最古級の外洋航海
用丸木舟、赤色漆塗り櫛、小型弓や櫂などが出土した。
 朝寝鼻貝塚(岡山市)からは日本最古の稲(熱帯ジャポニカ)のプラント
オパールが見つかった。

 三内丸山遺跡(青森市)からは、大規模集落跡、住居群、倉庫群、シンボ
ル的な3層の掘立柱建物、板状土偶などが出土し、栗栽培、エゴマ、ヒョウ
タン、ゴボウ、マメなどの栽培跡が見出された。

 千居遺跡(富士宮市)からは、富士信仰のためのストーンサークル、阿久
遺跡(諏訪郡原村)からもストーンサークルが見つかる。
 里浜貝塚(東松島市)は最大規模の貝塚で、そこの出土品から生業カレ
ンダーが組まれた。
 栗山川流域遺跡群(千葉県多古町)からはムクノキの外洋丸木舟が。
 真脇遺跡(石川県能登町、世界最古のイルカ漁の捕鯨基地)から、船の
櫂、磐笛が出土している。
 縄文時代(とくに前期と中期)には、西日本地区(照葉樹林帯)の各地と
中国江南地区の各地は、それぞれ互いに交流していたと考えられる。熱帯
ジャポニカは長江下流域から渡来した。
 (4) 縄文時代中期(5.5千年~4.5千年前)

 縄文早期の1万年前氷河期が終り世界の気候は温暖化し、7千年前の縄
文前期始めから気温が上がり、前期の終了時から中期の始めに最も気温
が高くなる、いわゆる縄文海侵が最高に達した。この現在より気温の高くな
った時期をプシンサーマル期と呼ぶ。縄文時代後期に入ると気候が冷涼化
し始め、縄文時代晩期(弥生時代草創期)になると現在より気候が低い寒
冷化期を迎えた。従って、プシンサーマル期の縄文時代中期始めが縄文
文化の最盛期と捉えられる。

 気候が温暖化して青森市の三内丸山遺跡が最盛期を迎える。この遺跡
の堀立柱建物の建築には殷尺に関連しているといわれる縄文尺が用いら
れていた。

 馬高遺跡(長岡市)や野首遺跡(十日町市)で縄文土器の円熟期を代表
する火焔型や王冠型土器が出土する。また土偶も最盛期を迎え装飾性が
高くなる。出土品は多岐にわたり、耳飾、石棒、ヒスイ製玉類、配石遺構な
どが見つかる。
 一の沢遺跡(笛吹市)からは太鼓に用いられた有孔鍔付土器、人面装飾
付土器、埋甕、笛吹ヒスイの装身具、土偶の「いっちゃん」などが出土。
 国宝「縄文のビーナス」が長野県棚畑遺跡から、国宝「縄文の女神」が山
形県西ノ前遺跡から出土。茅野市の尖石遺跡からは列石、黒曜石の交易
、焼畑農耕の跡などが見られる。

 縄文時代前期に続き岡山県の姫笹原遺跡からイネのプラントオパールが
見つかっている。これらのイネのプラントオパールの形状から品種は熱帯
ジャポニカと考えられ、焼畑を代表とする粗放な稲作であろう。
 (5) 縄文時代後期(4.5千年~3.5千年前)

 プシンサーマル期が終わり気候の冷涼化が始まる。この冷涼化により
かなりの東日本縄文人の西日本への移住が始まる。後期末(3.6千年前)
には殷王朝が成立している。
 三重県の丹生池ノ谷遺跡、天白遺跡や森添遺跡から辰砂による朱彩土
器や朱が付いた磨石・石皿など出土。
 二子山石器製作遺跡(熊本)は石切り場・石器工房で、扁平打製石斧出
土。
 智頭枕田遺跡(鳥取)から突帯文土器、大矢遺跡(天草市)からはオサン
リ型結合釣針、土偶、岩偶が出土。
 大湯環状列石(秋田)のうちストーンサークルは万座と野中遺跡にあり、
万座の方が日本で最大の日時計状組石である。
 忍路環状列石(小樽市)(ストーンサークル)に隣接する忍路土場遺跡の
巨大木柱は、環状列石とも関連する祭祀的な道具であろう。
 蜆塚遺跡(浜松市)には円環状平地式の住居跡があり、首飾りや貝製腕
輪を身につけた人骨、勾玉や土器、鉄鏃が出土。

 真脇遺跡(能登町)には環状木柱列(ウッドサークル)あり、巨大な彫刻柱
、土偶、埋葬人骨、日本最古の仮面が出土。
 チカモリ遺跡(金沢市)では掘立柱の環状木柱列が発掘された。稲(熱帯
ジャポニカ)、アワ、ソバ、大豆などの栽培に基づく生活文化、さらに神道の
基盤となる精神文化もまた、江南から持ち込まれたと考えられる。さらには
、渇鉄鉱などからの始原的な製鉄が始まったと思われる。尚、上代日本語
となる古日本語(日本基語)は、南朝鮮と西日本一帯で縄文時代後期に成
立したと思われ、少なくとも、水田稲作農耕技術の到来以前に既に成立し
ていたと思われる。
 (6) 縄文時代晩期(3.3千年前~2.8千年前)

 縄文時代晩期は、水田稲作の開始を始めとする弥生時代早期(3.0千年
前~2.8千年前)と終期を同じくするが、始期が300年早い。晩期になると気
候が一層寒冷化する。この寒冷化は世界的規模で起こり、ゲルマンやアー
リア民族が南下し、圧迫された民族の逃避や文明の崩壊が見られた。中国
や朝鮮でも畑作牧畜民(中原の漢民族)の南下が始まり、晩期の始めに殷
が滅び周が起こり、晩期の終期には周が滅び中国は春秋時代に入った。
日本では東日本縄文人(原アイヌ人、蝦夷)の西日本への移住が起った。
この移住により東日本と西日本の縄文人の一体化が進んだ。中国での漢
民族の南下は江南人を圧迫し周辺地域に逃避させ、一部は朝鮮半島南部
や西北九州や西部日本海沿岸に達した。この避難民が南朝鮮や日本に水
田稲作をもたらした。
 晩期に入ると気候の寒冷化により東日本縄文人が西日本に移住したた
め東日本縄文文化は衰退に向かった。しかし、この衰退にもかかわらず
繁栄を続けていたのが、東北北部から北海道西南部を中心とする、原アイ
ヌを主体とする縄文文化の極めて高度に成熟した亀ヶ岡文化が出現した。
晩期の主な遺跡・出土品は次の通りである。
 菜畑遺跡(唐津市)から水田用の温帯ジャポニカ種の直播きの最古の水
稲耕作跡、山の寺式土器出土。

 板付遺跡(福岡市)からは最初期の環濠集落と水稲耕作跡と夜臼式土器
出土。南溝手遺跡(総社市)からはイネのプラントオパール、最古級の籾痕
のある土器、石鍬や石包丁が出土。
 原山支石墓群(島原市、原山ドルメン)は、国内の支石墓遺跡としては最
古最大級のものである。
 大石遺跡(豊後大野市)から大規模な建物址、黒色磨研土器、打製石斧
(耕具)や横刃型石器(収穫具)出土。
 伊川津貝塚(いかわづ)(田原市)からは、スガイ・アサリなどの主鹹貝塚
、抗争の痕跡を遺す人骨、抜歯した人骨、甕棺、土偶、耳飾、石刀、石棒、
石冠、勾玉、骨角器など出土。亀ヶ岡文化の亀ヶ岡遺跡(つがる市、集落遺
跡)で著名な遮光器土偶が出土。
 山王囲遺跡(さんのうがこい)(栗原市)からは、土製耳飾りやペンダント、
編布(本州初の発見)、籃胎漆器・櫛・腕輪・耳飾り・紐状製品、ヌマガイの
貝殻に漆を塗った貝器が出土。
 日本列島には前期旧石器時代の原人・旧人の骨や遺跡は見つからず、
中期旧石器時代の砂原遺跡(出雲市)が最古(約12万年前)でそれに続く
のが金取遺跡(遠野市)(8-9万年前)であり、石器(ハンドアックスのような
両面加工石等)や木炭粒が出土している。これらの遺跡は年代的に新人(
ホモサピエンス)の活動の跡とは思えず、旧人(デニソワ人か)あるいは原
人の残存者の痕跡と見なされる。列島において新人の活動が本格化する
ようになるのは、3万年前に始まる後期旧石器時代になってからである。
日本では旧石器時代に続く新石器時代を縄文時代と呼ぶが、縄文時代は
世界最古級土器(縄文土器)が作られた1.6万年前を契機とし草創期に入
る。この縄文文化は、1万年以上継続した持続可能な「森と水の文明」(狩
猟、採取/栽培と漁撈)として世界に冠たる文明である。
 
 縄文時代前期・中期には汎地球的に気候が温暖化して、三内丸山遺跡
に代表されるような高度な縄文文化が花開いた。当時の本州、九州、四国
、南朝鮮は江南と同じく、照葉樹林帯にあり江南の農耕文化の影響を強く
受けた。雑穀類や豆類の栽培が始まり、西日本では熱帯ジャポニカの畑作
も始まった。また、後世の神道に通じる精神文化もこのころに醸成された。
しかし、縄文時代後期からの汎地球的な気候の冷涼化により世界的な狩
猟・畑作民の南下が始まった。日本列島でも冷涼化により東日本の食糧事
情が悪化し、東日本縄文人の南下が始まり、東西の縄文人の均一化が進
んだ。この頃、均一化した高度な縄文文化を基盤とし、日本語の原型、古日
本語(日本基語)が西日本と南朝鮮(核は北西九州か)で形成された。
 アイヌ人

 縄文時代草創期1.3万年前、古バイカル人(Y染色体型D1a2a)がクサビ
形細石刃石器を携え、バイカル湖畔より、樺太経由で南下、北海道・東日
本に侵入し、東日本縄文人(原アイヌ人)になる。古華北人は数万年前か
ら断続的に列島に侵入していたが、1.3万年前、西日本に半円錐形細石刃
石器を持ち込み、西日本縄文人となる。縄文文化の主たる担い手は、東
日本縄文人であった。気候の冷涼化が始まる縄文後期・晩期に東日本縄
文人が南下し、西日本縄文人と混ざる。さらに、古墳時代、飛鳥・奈良時
代の後の平安・鎌倉時代に、北方の諸民族が混雑したオホーツク人が北
海道に侵入、日本人(東日本縄文人(原アイヌ人))と混ざりアイヌ民族とよ
ばれるようになる。ちなみに、この時代に東日本縄文人(原アイヌ人)には
なかったミトコンドリアのハプログループYがオホーツク人によってもたらさ
れた。従って、現在のアイヌ人が北海道の原住民だとはいえない。
 琉球人

 3~4万年前に、古華南人(Y染色体型C1a1?)が南シナ海の海岸線を
北上し、台湾から沖縄に至ったと思われる。しかし、この沖縄の古華南人
は旧石器時代後期には衰退したと思われ、新石器時代の始まる7,000年
前頃まで沖縄には新人の活動の痕跡が殆ど無くなる。しかしながら、縄文
時代早期と前期の境に起こった鬼界カルデラ噴火(7,000年前)の避難民
(西日本縄文人、Y染色体型D1a2a)が、沖縄に渡って琉球人の先祖とな
った。かくて、沖縄はちょうど7,000年前頃に新石器時代の始期である貝塚
時代に入った。さらに南九州の倭人(D1a2a)が弥生時代以降に沖縄に
移住することにより、現在の琉球人が成立した。
 弥生時代(早期・前期・中期)

 縄文時代を通じて、照葉樹林帯の西日本と南朝鮮(南韓)には同じ照葉
樹林帯の江南からの陸稲等の穀類(水稲、きび、あわは、弥生時代早期
(縄文時代晩期)以降に栽培)、豆類やイモ類の栽培が伝わった。西日本
での陸稲は熱帯ジャポニカ(赤味を帯びた籾、赤飯)であった。江南からソ
バ、豆などの栽培技術や神道の基層となる精神文化の長期にわたる持続
的な流入があった。弥生時代には、南朝鮮の倭人(西日本縄文人)の帰来
があった。また、江南人、華北人や朝鮮人(高句麗系)の渡来があったが、
縄文時代に確立した日本文化の基層、古日本語やY染色体型に大きく影
響するほどの多人数の渡来はなかった。
 1. 弥生時代早期(先I期)(BC1000年~BC800年)

 縄文時代前期には岡山ブロックで陸稲熱帯ジャポニカの直播による焼
畑を代表とする粗放な稲作が始まった。縄文中期にはこの粗放な稲作が
有明海ブロックにもみられた。弥生時代は温帯ジャポニカの水田稲作の
開始をもって始期とする。従って、紀元前1000年頃の菜畑遺跡(唐津市)
や曲り田遺跡(糸島市)からの水田跡の発掘をもって弥生時代早期の始
まりとする。この遺跡からは縄文時代晩期の突帯文土器も出土している
ように、弥生時代早期と縄文晩期が重複している。
 弥生早期の始期は縄文晩期の始期より300年遅いが終期は同じである
。この段階の水田稲作は南朝鮮から持ち込まれたものと見られるが、当時
の南朝鮮は漢民族などの北方民族(華北人)の本格的な南下の前で、倭
人(西日本縄文人)が多数を占めていた。その南朝鮮に山東半島を経由し
水田稲作技術をもった江南よりの避難民が入り、南朝鮮で水田稲作が始
まった。その技術が主として南朝鮮の倭人により北九州に持ち込まれたと
思われる。ちなみに曲り田遺跡の近く新町遺跡の支石墓(朝鮮半島南西
部に多く見られる墓形式)には縄文人が埋葬されていた。この突帯文土器
段階の水田稲作は、松菊里型竪穴住居に居住して営まれていた。この住
居を囲む環壕は、内蒙古由来と思われ、華北人の朝鮮半島南下によりも
たらされた。この突帯文土器を伴う水田稲作は西日本に広がった。
 中国では弥生早期の始めに殷が滅び周が興ったが、早期の終わりに犬
戒の侵入により周が滅び春秋時代が始まる。
 2.弥生時代前期(I期)(BC800年~BC400年)

 春秋時代に入ると西戒(犬戒を含む)の中原への侵入が著しくなり、漢
民族もまた東南に移り始める。これら華北の民(燕など)は朝鮮半島西岸
をも南下した。漢民族は江南の東夷を圧迫するようになる。江南の流民
は山東半島から南朝鮮に移ったが、流民の一部は西北九州や日本海西
部沿岸に直接辿り着くようになる。土井が浜人は淮河辺りから渡来か。
この流民が江南の水田稲作技術を直接倭にもたらしたと思われる。こうし
て、菜畑・曲り田段階に続く、板付遺跡に代表される新たな水田稲作段階
に入る。そこで新来の温帯ジャポニカと縄文以来の熱帯ジャポニカとが混
雑し、耐寒性の温帯ジャポニカ(早生種)が産れた。この耐寒性の稲が遠
賀川式土器を伴い西日本一帯に急速に拡大し、さらに日本海沿いに青森
にまで達した。また、この耐寒種は海人により逆に南朝鮮に持ち込まれた
と思われる。この時期、江南から伝わったのは、土笛、環濠集落、石包丁
(一部)、高床倉庫や神道体系などである。南朝鮮には見られない甕棺も
また長江中・下流域から直接北九州に伝わったと思われる。甕棺は弥生
中期に専ら北九州で盛んに使用された。甕棺から銅剣・銅戈・石剣・石戈
の切っ先が出土することが多い。農耕社会の成熟に伴い弥生の争いが始
まる。近畿地方では木棺埋葬地の周囲を区画し、土盛りした墳丘を築く墓
(方形周溝墓)が登場した。
 中国は春秋時代から戦国時代に入る。鉄製農具も使用されるようになる
。この時期、燕の民が朝鮮半島さらに列島に鉄器を持ち込んだと思われる
。春秋時代末に滅亡した呉の遺民や流民は九州や瀬戸内に渡来、一部は
青銅器や鉄器を伴っていたと思われる。尚、BC473年の呉の滅亡時、呉太
伯子孫の呉王夫差(呉の最後の王)の子「忌」は、東シナ海に出て、菊池
川河口付近(現熊本県玉名市)に着き、菊池川を遡って現在の菊池市近辺
に定住したと云う(『松野連系図』参照)。北九州の奴国の嫡流は呉太白の
血流を引いていると思われ、また、奴国の墓制は甕棺墓であった。
 3.弥生時代中期(Ⅱ-Ⅳ期)(BC400年~AD50年)

 弥生中期初頭には水田稲作が日本全域に広がった。この余剰農産物の
生産は弥生社会に身分・階級制をもたらし、土地や水を求める戦いが始ま
った。この戦いは弥生前期から始まっていたが、中期に入ると急に増加し
始める。その証拠は石鏃や銅鏃や鉄鏃は、縄文時代の狩りに使用された
石鏃より大型化して、人の殺傷に適したものになったことである。このよう
に弥生時代中期には、激しい争いが始まり、「国」という小さな政治的まと
まりが生まれた。続いて「国」と「国」の間にさらに激しい争いが始まり、さら
に大きなまとまりであるブロックが生まれた。
 弥生中期に形成された種々の祭器の分布域は各ブロックの形成・配置に
重要な示唆をあたる。北部九州では、銅矛と銅戈、瀬戸内海東部沿岸では
平型銅剣、畿内と東海では銅鐸、出雲地方ではこの地方を特有の中細形
銅剣や銅鐸が祭器として使用された。尚、弥生時代中期の戦いはブロック
内部の争いであり、ブロックを超えた広域戦争は考えにくいことが次のこと
から類推される。すなわち、戦闘用石鏃は、大きさ、厚さ、形、成形、材質
などが、それぞれのブロックごとに特色をもっている。石鏃の材料のサヌカ
イトでも産出地によって石質の違いがあるので、石鏃を拾ったとき、どのブ
ロックの石鏃かを識別できる。またブロック別につくられた石鏃は入り混じ
っては出土しない。
 春秋・戦国の動乱による流民が倭に青銅器・鉄器などをもたらした。また
、燕と倭との交易路は確立していて鉄器などがもたらされたと言われる。ま
た、半島の南東部(辰韓と弁韓)、北九州沿岸および山陰(出雲と丹後)は
、漢により設置された楽浪郡の製鉄を中心に広域経済圏を形成し交易が
行われていた。
 さらに、紀元前1世紀になると南朝鮮の倭人の一部が、華北人や朝鮮人
(高句麗系)に圧迫され列島に帰来した。彼らも中国や朝鮮の文物をもた
らしたと思われる。とはいえ、当時の南朝鮮はなお倭人が多数を占め、南
朝鮮は倭の勢力圏といえるような状況を作っていたと考える。
 
 ・中期前葉(Ⅱ期)(BC400年~BC250年)

 越が滅亡し、銅鐸の原形と思われる銅鼓などの青銅器や鉄器が持ち込
まれる。さらに首長集団が九州北部に渡来、青銅器の本格的な流入と鉄
器使用が始まる。一方、大国主は、出雲の玉造、銅精錬、砂鉄からの原初
的な野ダタラ製鉄を背景にして、日本海沿岸に銅、鉄、玉の文化圏を形成
し、さらに渇鉄鋼からの製鉄に長ける多一族と協力し、西日本各地に進出
し青銅器(聞く銅鐸)、鉄器と玉の出雲を中心とするネットワークを構築し始
めた。このネットワークの中核の国を出雲古国と称する。
・中期中葉(Ⅲ期)(BC250年~BC100年)
 呉の遺民は呉太伯子孫と称し、筑前に奴国を建てたと考える。奴国では
埋葬に甕棺を用い、また中広形あるいは中細形の矛・戈を祭器に使用し
たと思われる。燕が朝鮮半島に進出し南朝鮮に真番郡を置く。しかし、斉
に続き燕も秦により滅ぼされ、秦が中国を統一した。列島への青銅器・鉄
器の流入がさらに盛んになる。北九州では甕棺が最盛期に入る。徐福が
不老不死の薬を求めて出航、列島に到達か。日本各地(特に武蔵、氷川神
社周辺)に徐福伝説あり、各地の大国主と集合したと考える。秦が滅び漢
が建国される。漢により衛氏朝鮮が滅ぼされ、楽浪郡が設置される。倭国
には大型の鉄製錬所はなく、弁韓、辰韓、筑紫、出雲や丹後の倭人は鉄鉱
石を楽浪郡に供給していた。楽浪郡からの舶載の鋳造鉄器は通貨の代用
品であり、緞造鉄器の原料となる半製品である。ちなみに、中期前葉の鋳
造鉄斧の出土地は、北九州が圧倒的に多いが、中期後葉になると中国地
方や近畿北部での出土が多くなる。
・中期後葉(Ⅳ期)(BC100年~AD50年)

 大国主は日本各地に進出し、出雲を中心とする玉、青銅器「聞く銅鐸」と
鉄器のネットワーク(大国主の国、出雲古国)を完成させた。出雲、摂津、
大和で「聞く銅鐸」の製造が盛んで、摂津の東奈良遺跡から銅鐸鋳型出土
。唐古・鍵遺跡でも銅鐸製造盛ん、また翡翠入りの渇鉄鉱が出土。
 倭は百余国に分かれ楽浪郡に朝献する。漢の楽浪郡の設置や高句麗
の建国などにより南朝鮮の倭人が圧迫され、一部は北九州や日本海沿岸
に帰来。

 BC57年、新羅王室が始まった。
 漢が崩壊し新が起こる。さらに新が滅び、後漢が興る。
 スサノオの出雲侵攻により、出雲古国が崩壊し出雲の青銅器祭祀(銅剣
、聞く銅鐸)が大量に埋納される(加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡)。(これ以降
、出雲では銅鐸などの青銅器祭器を使わなくなる) 
 大国主の銅鐸を主とした青銅器と鉄器のネットワークの拠点が出雲より
近江に遷る(浦安の国へか)。
-弥生時代中期の遺跡群-
<環濠集落・甕棺・楽浪系土器・中国の銭貨>
・吉野ヶ里遺跡(環濠集落、厳重な防護施設、墳丘墓や甕棺)
・原の辻遺跡(中国鏡、戦国式銅剣、貸泉(新の銭貨)、トンボ玉、鋳造製
品、無文土器、楽浪系土器、板状鉄など出土)
・三雲南小路遺跡(楽浪系土器、石製の硯すずり等出土)
<大型環濠集落・方形周溝墓・戦いの跡>
・下之郷遺跡(大規模多重環濠集落、戦の跡、方形周溝墓)
・朝日遺跡(環濠集落遺跡、強固な防御施設、方形周溝墓)
・池上・曽根遺跡(環濠大集落遺跡、巨大丸太くりぬき井戸、方形周溝墓
、鉄製品の工房、高床式大型建物、ヒスイ製勾玉、朱塗りの高坏、石包丁
等出土)
 方形周溝墳が近畿より各地に広がり中期後葉には北九州に達する。
<銅鐸・銅製品>
・東奈良遺跡(大規模環濠集落の遺跡、銅鐸の鋳型(聞く銅鐸)出土、銅
鐸・銅製品工場)
・唐古・鍵遺跡(環濠集落遺跡、青銅器鋳造炉など工房の跡地、ヒスイや
土器などの集散地、銅鐸の主要な製造地、多層式の楼閣)
<鉄製品・ガラス>
・扇谷遺跡(高地性大環濠、鉄斧などの鉄製品やガラス玉等出土、対岸
の途中ヶ丘遺跡とは相関関係)
・奈具岡遺跡(水晶や緑色凝灰岩の玉作工房跡、鉄錐、大量の鉄片等出
土)
 1. 弥生時代後期(Ⅴ期)(50年~200年)
 a. 邪馬台(ヤマト)国成立前史


 記紀の内容は、神話部分(神代)と史実に基づいて記されたという天皇
の時代(人代)とに分けることができる。日本書紀には、「イザナギ・イザナ
ミ時代に3国(浦安(うらやす)の国、細戈の千足る国(くわしほこのちだるく
に)、磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに))があり、大国主(大己貴)
は「玉牆の内つ国」(美称、大己貴の国)を建て、饒速日命(ニギハヤヒ)は
「虛空見つ日本(倭)国」を建てた」とある。後漢書東夷伝によれば、「57年
、倭の奴国王が後漢の光武帝に使いを送り金印を賜る」との事積から始
まる。
 「107年、倭国王師升が朝貢し、生口160人を献上した」。
 「桓帝・霊帝の治世の間(146 - 189年)、倭国は大いに乱れ、互いに攻め
合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、鬼神
道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた」。
 『魏志倭人伝』には、「女王国ではもともと男子を王としていたが70~80
年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一
人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という」とある。 
 大国主は、弥生時代中期後半には出雲古国を中心し西日本全域にわた
る、玉、銅と鉄の青銅器を祭器とする国々のネットワークを構築していた。
紀元前後に伽耶出自の素戔嗚尊(スサノオ、須佐乃袁)が筑紫さらに出雲
に侵攻した。この時、銅鐸「聞く銅鐸」などの祭器の大量埋納があった(加
茂岩倉・荒神谷遺跡)。大国主はネットワークの拠点を出雲より近江に遷
す。出雲王朝の支配権は大国主系の出雲人に移り、その後4世紀半ばま
で連綿と繁栄した。帥升(スイショウ)はスサノオの後継者か。  
 紀元前1世紀の近江には大国主のネットワークを構成する支国として浦
安の国があった。紀元1世紀末頃には、近江を核とし近畿・東海一円を束
ねる大己貴の国(玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに))が建てられた。
玉牆の内つ国は、『魏志倭人伝』に「もともと男子を王としていたが70~80
年を経て倭国が相争う状況となった」とある「男子を王とする国」で、その国
都は近江の伊勢遺跡と考えられ、巨大な「見る銅鐸」を祭器にしたと思わ
れる。玉牆の内つ国は2世紀末まで続くが倭国大乱での大国主の敗退に
より瓦解した。この瓦解により多数の「見る銅鐸」が三上山麓の大岩山中
腹に埋納された。
 前漢の楽浪郡の設置に伴い、紀元前2世紀始めの頃には、伽耶(任那の
前身) 、筑紫、出雲と但馬・丹波を覆う、広大な経済ネットワークが成立し
ていた。
 神功皇后はアメノヒボコの6世孫で、アメノヒボコが倭国大乱の頃来倭し
たと考えると系図上妥当である。また、後漢「中平」(184-190年)と紀年銘
の鉄剣が和珥(和邇)氏にわたる。卑弥呼は大国主の血筋を引く和邇氏
の巫女で倭国大乱を鎮めた。尚、倭国大乱の前に、スサノオ(あるいはそ
の子孫)が支配する伊都国が奴国を圧倒したと思われ、奴国の嫡流の和
邇氏は丹後(あるいは若狭)から近江に遷ったと思われる。
 『海部氏勘注系図』によると、ホアカリの3世孫の倭宿禰が大和進出を果
たしたとある。天皇系図と勘注系図を比較すると、天皇系図の第4代懿徳
天皇から第9代開化天皇までの系図とホアカリの3世孫倭宿禰から10世孫
乎縫命まで(2代挿入)の系図がお互いに対応付けられる。従って、ホアカ
リは世代的に天皇系図の第1代神武天皇に当たる。皇統の系譜で日向三
代が作為的に挿入されたと思われるので、ニニギが神武に当たる。ニニギ
の兄のホアカリ(彦火明)は新羅王家第4代脱解王で、第8代阿達羅尼師
今の皇子(アメノヒボコ、第9代)は第6代孝安天皇の御代に来倭したことに
なる。孝安天皇の同母兄に和邇氏祖の天足彦国押人命がいる。
 b. 倭面土(ヤマト)国の東遷と邪馬台(ヤマト)国(虚空見つ倭国(そらみ
つやまとのくに))の成立


 饒速日(ニギハヤヒ)により石見から三次経由(スサノオルート)で吉備に
遷った。2世紀半ば、ニギハヤヒの東征(ヤマト国の東遷)の頃、近畿・中国
・四国と中部地方西部を巻き込む倭国大乱が起った。この争いは、玉牆の
内つ国を構成する近畿と中部地方西部の国々と吉備を中心とする瀬戸内
海沿岸の国々との間の大規模な内乱である。大国主が率い少彦名(スク
ナビコナ)が加勢。ニギハヤヒが瀬戸内海勢力をまとめ。天日槍(アメノヒ
ボコ)。三島神。アメノヒボコは、新羅より来倭して伯耆・因幡を侵し、但馬
に達した。その後、当時吉備勢力の支配下にあったと思われる播磨を南下
し、新たな日本海から瀬戸内に至る「鉄の道」を構築し、淡路島の五斗長
垣内遺跡を中心に、鉄製の武器を供給した。瀬戸内海を東征し、摂津から
大和川添いを遡り、桜井を拠点に大和と葛城を平定した。この大和侵攻で
は和邇氏も協働している。その後、北上(木津川・宇治川を経由か)し、近
江に侵攻した。ニギハヤヒと大国主は、近江湖南の伊勢遺跡にいたと思わ
れる和邇氏の巫女で大国主の血筋の卑弥呼を共立し、纏向遺跡に遷した
。ここに大和を核とし中国・四国・近畿に広がる邪馬台(ヤマト)国が成立し
た。日本書記で、ニギハヤヒが称した「虚空見つ倭国」がこの邪馬台国に
当たる。倭国大乱での敗退の結果、大国主は近江湖南より伊吹山を仰ぎ
見る湖東・湖北に後退したが、近江東北部・美濃・尾張を中心とする玉牆
の内つ国(大己貴の国)の後継国を建てた。スクナビコナはこの大乱で敗
死したと思われる。大和を掌握したニギハヤヒ。
孝霊天皇の養女、倭迹
迹日百襲姫命。ニギハヤヒは物部氏の祖であり、古来からの武器・武具庫
である石上神宮を造営した。
 アメノヒボコは大乱の後、近江を経由して最終的に但馬に落ち着いた。
 最近(2016年)、滋賀県の彦根市で纏向遺跡に次ぐ規模の邪馬台国時
代の稲部遺跡が発掘された。
 2. 邪馬台国 (2世紀末~3世紀末)

 邪馬台国の卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が巫女として大型の銅鏡を用いた祭祀
を執り行った。孝元天皇(孝霊天皇皇子)が実際の政務を担当した。魏志倭人伝に
帯方郡から邪馬台国への旅程が記されている。筑紫の不弥国までのルートは確定
している。「倭人伝」の編者・陳寿。水行20日で投馬国(出雲国(出雲王朝、出雲東
部が中心))に着く。次の水行10日で若狭(小浜湾)に着く。その後、小浜市神宮寺
の「お水送り」のルートを取って琵琶湖経由で宇治川・木津川を経て、大和・纏向に
向かう。このルートが水上交通が一般的であった当時としては一番蓋然性がある。
 邪馬台国の都の纏向(遺跡)は、後世の藤原京に匹敵する広がりを見せる。この
遺跡は、玉牆の内つ国(大己貴の国)の都で交通の要衝であった伊勢遺跡に比肩
しうる要衝の地に位置する。従って、纏向は邪馬台国時代の政治の中核であるの
みならず、当時の経済拠点の一つでもあった。(大和は辰砂(水銀朱)の産地)その
証しは、各地から運び込まれた外来系土器の量の多さに示される。(外来系土器
の出土数は全体の15~30%に達する) また、大和では産しない染料として使わ
れる紅花が出土する。

 吉備勢力が邪馬台国成立に重要な役割を果たしたことは次のことから推察でき
る。吉備型甕が発展した庄内式土器(纏向の卑弥呼の時代の標識土器、九州北
部まで拡散)が纏向遺跡から出土すること、吉備の楯築や宮山の弥生墳丘墓か
ら出土する特殊基台が纏向遺跡の古墳から出土すること、さらにこれらの弥生墳
丘墓から出土する弧帯文石(毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石)の
文様が纏向遺跡から出土する弧文円板のものに酷似していることなどが上げられ
る。
 また、「孝霊伝承」と云われる孝霊天皇とその皇子(吉備津彦)を主人公とした一
群の伝承があり、吉備国から南北に延ばした線上に沿って分布している。尚、倭迹
迹日百襲姫命は吉備津彦の同母姉とされている。さらに、天羽々斬剣(布都御魂
剣、十握剣)(スサノオが八岐大蛇を退治した剣)は吉備の石上布都魂神社にあっ
たが、ニギハヤヒの東征で携行され、後に物部氏の総氏神の石上神宮に遷され、
布都斯魂剣と呼ばれ祀られている。

 邪馬台国は瀬戸内海沿岸諸国、因幡、但馬、丹後、播磨、摂津、山城、若狭、
近江(湖南・湖西)、大和および紀伊を含む。大国主は、近江(湖東・湖北)から
美濃さらに東山道、東海道や北陸道に広がり、大和、葛城や紀伊にも残存勢力)
を建てる。倭国は、邪馬台国と任那・伊都国連合とから成る。任那・伊都国連合と
は任那(伽耶諸国)と伊都国を中心とする九州北部諸国とを併せて成立していた
国家連合である。(任那は対馬に起こり、南朝鮮の倭人居住域を領した) 邪馬台
国成立後、ニギハヤヒ勢力は中・四国全域を支配下におき、さらに任那・伊都国
連合を勢力下においた。伊都国は穴門を支配し、瀬戸内海への出入りを監視して
いた。邪馬台国は、伊都国に一大率を常駐させ、北部九州と南朝鮮の行政・外交
的を支配していた。
 大国主の玉牆の内つ国では、巨大な「見る銅鐸」を祭器にしていた。近江の伊勢
遺跡の近くの三上山の山麓の大岩山古墳群(野洲市)から24個の大型銅鐸が出土
した。これらは2世紀末の邪馬台国建国時、すなわち倭国大乱の終焉時に、近江
湖南にニギハヤヒ勢力が侵入し、伊勢遺跡が解体されたときに埋納されたと思わ
れる。邪馬台国は銅鐸に代わって、銅鏡を祭器にした。2世紀前半までの漢鏡(内
行花文鏡など)の出土数が、九州に圧倒的に多いのに対し、2世紀後半からは九
州で減少し、九州より東での出土数と分布域が急速に増大する。
 また、卑弥呼は魏と交流する前の3世紀初め、公孫氏から独占的に入手した画
文帯神獣鏡を支配下の首長に分配したが、その分布は畿内に集中していた。北部
九州の玄界灘沿岸や、狗奴国に属すると想定される濃尾平野にはほとんど分布し
ていない。
 卑弥呼は魏に使い(難升米・都市牛利ら)をおくった。魏は卑弥呼に「親魏倭王」
の金印綬を授けた。銅鏡(三角縁神獣鏡か)100枚を賜り、威信材として邪馬台国
を構成する国々に配布した。その後、この鏡を倭国内で生産するようになり、邪馬
台国後のヤマト王権が安定するにつれ、三角縁神獣鏡の分布範囲は列島全域に
飛躍的に拡大した。

 邪馬台国の中核の大和では箸墓古墳に至る前方後円墳の発展がみられた。前
方後円墳には、三角縁神獣鏡が副葬されることが多い。一方、狗奴国では近江北
部を発祥の地と思われる前方後方墳が広がった。また、S字甕が近江東北部をふ
くむ狗奴国全域に広がっている。
 3.邪馬台国の終焉

 卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が死去したのは249年の若干前と梁書は
伝える。宮内庁が箸墓に倭迹迹日百襲姫が葬られたとしている。台与は
、大国主系の近江の豊郷の出身と思われ、日子(彦)坐王(開化天皇皇子
)の妃となった息長水依姫であろう。台与は掖邪狗らを魏に送る。また、台
与は西晋(晋)に使いを送る(266年)。 

 神武軍は、吉野から宇陀に侵攻し大和へ侵入し、大国主系のナガスネ
ヒコ軍と激突する。この闘いで、物部氏を率いるウマ
シマジ(ニギハヤヒの
子)がナガスネヒコを裏切り謀殺する。このため、ナガ
スネヒコ軍は一気に
崩れ、神武軍の大和侵入が成功する。和邇氏を取り
込み、大和の大国主
勢力を一掃し、さらに葛城に向かい、賀茂氏を山城に
追い落し、高倉下(
ニギハヤヒの子の天香久山)を尾張に行かせた。
 また、
出雲勢力を挟撃するため、ウマシマジを石見に派遣し物部神社を
創建し、
また天香久山を越後に行かせ弥彦神社を建てた。鎮魂祭は、皇
居のほか
、物部氏ゆかりの石上神宮、物部神社、弥彦神社で執り行われ
るが、この
鎮魂祭は大国主を中心とする出雲勢力の鎮魂を図ったもので
あろう。この
出雲の国譲り(葦原中国平定)で最も功績のあったのは、中
臣氏の祭神
の建御雷で、それに続くのが経津主神とされ、それぞれ鹿島
神社と香取神
社の軍神となっている。建御雷は春日大社の祭神ともされ、
飛鳥時代に
権勢を振るった藤原氏(中臣氏の後継氏族)の出雲の国譲り
での活躍を
顕示する目的で創作されたものであろう。

 邪馬台国が終焉することでヤマト王権王朝が始まる。この頃、瀬戸内海
勢力と日本海勢力を束ねる日子坐王との間に政
権抗争があり、垂仁朝の
頃、瀬戸内海勢力が政権をほぼ掌握したと思われる
。狗奴国の滅亡はヤ
マト王権が倭国全域を平定したことを意味する。日
本書紀によれば、成務
天皇は「国群に造長(国造のこと)を立て」たとい
う。つまり、成務天皇の御
代に列島の地域行政組織に「国」と「県」が設置
されたのであり、国土統治
の観点での大きな治績である。
 前1世紀~4世紀の日本(倭)の歴史

 弥生時代中期の紀元前2世紀の倭国には、海神族の雄国の「奴国」、戦
国時代のBC344年に滅亡した越の遺民の血脈を引くという「出雲古国」さら
に出雲の流れを汲み農・産業の雄国の近江を中心とする「浦安の国」の3
大国が存在した。このうちの「出雲古国」が、大国主(大穴持)の支配した、
鉄、銅、玉のネットワークの中心の国である。
 紀元前108年、前漢により楽浪郡が設置された。楽浪郡の製鉄所は、当
時の倭国にはない大規模製鉄の技術を持っていた。楽浪郡の鋳造鉄器
は通貨代用品であり、緞造鉄器の原料となる半製品である。海神族の出
雲の大国主は、楽浪郡の鋳造鉄器を得るための鉄、銅と玉の交易ネット
ワーク(出雲古国を中心に、伽耶、筑紫、出雲、丹後・近江を覆う)を発展
させた。楽浪郡の鋳造鉄器を含む交易品は、洛東江の水運を利用して伽
耶北部の大伽耶(高霊加羅、大邱南の伊西国を含む)に集積されたと考
えられる。これら鋳造鉄器等の交易品は、洛東江を南下すると大加羅(金
海加羅、金官国)に至り、筑紫に運搬される。一方、大伽耶に集積した交
易品は、斯蘆国(後の金城、慶州)の外港から出雲や丹後に向かう。紀元
前後の大伽耶の素戔嗚(スサノオ)の筑前進出により伊都国が建国され、
さらに出雲侵攻により、出雲古国は壊滅、大国主は敗死した。このため、
大国主のネットワークの中心が出雲から近江へと遷り(アジスキタカヒコネ
らの東遷)、近江を核とする浦安の国を継ぐ、玉牆の内つ国(大己貴の国)
が建てられた。尚、出雲古国の滅んだ出雲には、スサノオと高天原から派
遣されたアメノホヒにより出雲王朝が建てられた。その後、出雲王朝の支
配権は天津族より大国主一族の出雲残留者の出雲人に移ったが、この王
朝は崇神朝まで連綿と栄えた。
 上図は天孫族の系譜を示している。天孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄は彦火
明命(ホアカリ)である。記紀の神武-開化天皇(1-9代)の系図と『海
部氏勘注系図』の彦火明-乎縫命 (1-11)の系図とを整合性をもたせて
並列させることができる。日本書紀の天皇系図の紀年に宝賀・貝田推論
を適用すると崇神即位は西暦315年となる。(瓊瓊杵から神武の系譜(日向
三代)は作為的に挿入されたと考えると、瓊瓊杵と神武が同世代人あるい
は同人格となる。) 神武から開化まで9代、また彦火明命から乎縫命まで
11代となる。両方の代の数の平均を取ると10代で、一代を四半世紀(25年
)とすると瓊瓊杵(神武)および彦火明の即位は西暦65年となる。この年代
は、金官国初代首露王(即位42年)や第4代新羅王脱解王(即位57年)と
同年代である。尚、『新撰姓氏録』は、新羅の祖(昔氏の祖、脱解王)は稲
飯命(神武の兄)だとしている。かくて、稲飯(脱解)が彦火明に当たるとす
ると、その弟の神武は瓊瓊杵に当たる。すなわち、瓊瓊杵(神武)と首露王
は同一人格で、彦火明(稲飯)と脱解王もまた同一人格となる。伽耶の伝説
『釈利貞伝』によれば「正見母主には悩窒青裔と悩窒朱日の二人の息子
があり、悩窒青裔は金官国の初代首露王になり、悩窒朱日は大伽耶の王
(脱解王)となった」とのことである。正見母主は、高木神の娘の栲幡千千
姫(万幡豊秋津師比売命)であるとすると、天孫(瓊瓊杵と彦火明)は伽耶
の出自となりそれぞれ伊都国と丹後国に降臨したことになる。以上より、天
孫降臨の年代は1世紀半ばと結論する。

 神武東征とは天津族による倭国平定譚である。1世紀半ばの神武東征は
多氏を伴った三島神の東征とみる。神武から始まる天皇系図の2、3代の
綏靖と安寧は、浦安の国の支国の王であろう。彦火明は1世紀半ばに丹後
国に降臨した。2世紀初め、3世孫の倭宿禰が東征(ホアカリの東征)し、
近江の玉牆の内つ国(大己貴の国)の支国である葛城王朝を建てた(倭宿
禰は4代懿徳に当たる)。2世紀後半、吉備や筑前で力を蓄えた素戔嗚の
息子、饒速日(ニギハヤヒ)の子孫は、アメノヒボコ(天之日矛、天日槍、
第8代新羅王阿達羅王の王子)を伴い東征し、倭国大乱を引き起こした。
ニギハヤは、大国主と共に卑弥呼を共立して大和に邪馬台(ヤマト)国を建
てた。ニギハヤヒは孝霊天皇(邪馬台国始祖)と同一人格であり、卑弥呼は
孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命であろう。倭国大乱により、大国主の
建てた玉牆の内つ国(大己貴の国)は、邪馬台国(西日本)と狗奴国(東日
本)に分裂した。玉牆の内つ国(大己貴の国)を継いだ狗奴国は成務朝に
滅んだと思われる。

 神武から開化までが前ヤマト政権で、(神武―安寧が大国主の浦安の国
の支国、懿徳―孝安が玉牆の内つ国の支国、孝霊-開化がニギハヤヒの
邪馬台国)の系譜を辿る。崇神は、久米人、隼人等を同伴して大和に入り
邪馬台国を引き継いだ。崇神朝以降がヤマト王権となる(崇神王朝、三輪
王朝)。崇神即位は西暦315年。尚、開化朝に北近畿を束ねる日子坐王の
近江王朝が成立したが、崇神勢力との抗争に敗れ衰退した。尚、日子坐王
の妻の息長水依姫が台与ではないかと推察している。
 瓊瓊杵(ニニギ)はウガヤフキアエズ朝(ウガヤ朝)を建てた。ニニギから
神武に至る「日向三代」から始まるウガヤ朝の系譜は、伊都国王の系譜に
当たり、3世紀末には崇神(ミマキイリビコイニエ)に至る。4世紀末、仲哀天
皇・神功皇后によりウガヤ朝を継いだ九州王国(?)が滅ぼされた。神功皇
后は八幡神(応神)と住吉神と共に大和へ帰還した。この応神東征により、
素戔嗚の直系の息長氏がヤマト王権を掌握する(応神王朝、河内王朝)。
応神即位は西暦390年(宝賀・貝田推論)。
 2.古墳時代中期(4世紀末から5世紀、応神天皇~武烈天皇) 

 応神王朝が樹立された(宝賀・貝田推論によると、応神即位は390年)。
応神東征とは、河内の物部氏や中臣氏と結託した大山祇神やスサノオの
流れを汲む息長氏出自の応神天皇の宇佐神宮からの東征である。成務
朝の倭国の平定および応神東征により、倭国は隆盛期を迎え、倭国軍が
強力な武力を背景に南朝鮮に進出するとともに、壮大な前方後円墳の建
造を含む大土木事業が活発化する。また半島や中国との交流も日本海経
路ではなく主として瀬戸内海経路をとるようになる。最大級の前方後円墳
は、河内の古市・百舌鳥古墳群の誉田御廟山(応神陵)、大仙(仁徳陵)
や上石津ミンザイ(履中陵)で、その当時地方の有力豪族(吉備、日向や
毛野)も巨大な前方後円墳を築造した。 
 5世紀半ばに、允恭天皇(即位;441年)は、氏姓の乱れは国家の混乱を
招く原因になりかねないと考え、氏・姓の氏姓制度を整えた。この允恭の
施策によって、貴族・百姓の身分的序列化が成し遂げられた。5世紀末に
は、倭国の勢力下にある南朝鮮の栄山江流域に前方後円墳群が造られ
た。また、古墳の石室が竪穴式から横穴式に変遷する。古墳時代後期(6
世紀)になると古墳の規模は縮小へと向かった。
 応神天皇の母の神功皇后の「三韓征伐」のように、応神王朝になる頃か
ら倭国軍の朝鮮半島進出が盛んになった。それに伴って半島からの渡来
人が目立ってきた。応神朝には、百済より和邇吉師(王仁)が渡来し、『論
語』と『千字文』をもたらす。また、葛城襲津彦や倭軍の精鋭の助けにより
新羅の妨害を排し、弓月君(秦氏の先祖)の民が百済より渡来した。この
頃、海部(あまべ)、山部などの土木技術者も渡来した。これら渡来人の助
けで大堤や巨大古墳を築くなどの大型の土木工事が行われた。仁徳朝
(即位:414年)には、大阪湾沿岸部の河内平野一帯で、池・水道・堤など
の大規模な治水工事が行われた。また、難波の堀江の開削を行って、現
在の高麗橋付近に難波津が開かれ、当時の瀬戸内海物流の一大拠点と
なった。
 5世紀後半につくられた倭製の土師器、青銅器、巴形銅器あるいは滑石
の祭器が、伽耶と称される南朝鮮の慶尚南道や全羅南道の墳墓や集落
遺跡から発見されている。一方、倭においても、伽耶製の陶質土器や筒形
銅器、さらに鉄艇と呼ぶ半島製の鉄製の短冊形の鉄素材の出土量が急
増している。さらに、応神王朝では、従来の古墳に埋められた埴輪などの
素焼きの土師器に加えて、ろくろを使い成形し高温で焼く須恵器が造られ
始めた。
 大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が前方後円墳分布域の北端
と南端にまで運ばれている。また、牧畜が一般化し、平郡氏が王権の馬の
管理に携わった。
 倭の5王と雄略天皇(即位;465年)

 応神王朝の倭の五王とは、宋書倭国伝などに記された、中国南朝に遣
使した倭王「讃、珍、済、興、武」(「梁書」では讃=賛、珍=彌)を指す。こ
の5人が歴代天皇の誰にあたるかを記記から推定すると、済=允恭天皇、
興=安康天皇、武=雄略天皇と考えられる。しかし、讃、珍については、
讃=応神天皇または仁徳天皇あるいは履中天皇、珍=仁徳天皇または
反正天皇など諸説がある。以下、倭の五王の外交年表。
 413年、讃 東晋・安帝に貢物を献ずる(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)。
 421年、讃 宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭
国王 (『宋書』夷蛮伝)。
 425年、讃  司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる (『宋書』夷
蛮伝)。
 430年、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる (『宋書』文帝紀)。
438年、倭王讃 没し、弟珍 立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
正式の任命を求める (『宋書』夷蛮伝)。
 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする (『宋書』文帝紀)。
 443年 済  宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる (『宋書』夷蛮伝
)。
 451年、済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事」を加号される (『宋書』倭国伝)。
 7月、安東大将軍に進号する(『宋書』文帝紀)。
 462年、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする (『宋書』孝
武帝紀、倭国伝)。
 477年、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那
・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する (『宋書』夷蛮
伝)。
 478年、武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武
を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭
王」とする (『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)。
 479年、南斉の高帝の王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将
軍)に進号 (『南斉書』倭国伝)。
 502年、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する (
『梁書』武帝紀)。
 讃(履中天皇か)、珍(反正天皇か)や武(雄略天皇)は、自らを「使持節
都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国
王」と称し、宋の皇帝に正式に任命を求めている。皇帝は、百済だけは倭
国の支配下であると認めず、他の南朝鮮は倭国の領域であることを認め
ている。このことは、南朝鮮は縄文時代前期から倭人(西日本縄文人)が
住み、倭の勢力下にあったが、百済だけは後年、漢や魏の強い影響下に
あったことを、倭王のみならず南朝の皇帝もまた認識していたからだと考え
る。
​  5世紀後半の応神王朝の政変は雄略天皇(倭王武)の登場と関係する
と思われる。雄略天皇は、平群氏、大伴氏や物部氏の力を背景にした軍
事力で専制王権を確立した。天皇の次の狙いは、連合的に結び付いてい
た地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。葛城、吉備などの
諸豪族を制圧したことが『記紀』から伺える。西都原古墳群(宮崎県)では、
5世紀前半になって女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳のような盟主墳が出現
するが、これら盟主墳は5世紀後半以降途絶える。河内の王家と密接な関
係のあった淀川水系有力首長系譜(大阪三島の安威川、長岡や南山城の
久世系譜)が、5世紀前半に盟主墳を築き全盛期を迎えるが5世紀後半に
はこれらの系譜は断絶する。この政変により、新たな系譜が巨大な前方
後円墳を築き始める。熊本県菊池川流域の江田船山古墳の系譜、埼玉県
の稲荷山古墳の系譜、群馬県の保渡田古墳群の系譜などである。とりわ
け、江田船山古墳と稲荷山古墳からは獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、
雄略天皇)の文字を刻んだ鉄剣が出土している。なかでも、稲荷山古墳か
らの鉄剣には、古墳の被葬者オワケの7代前はオオヒコノミコトと記されて
おり、大彦命は崇神朝の四道将軍の一人である。雄略天皇の武威が関東
・九州におよんでいたと推定される。その後の武烈天皇は、大伴金村に命
じて恋敵の平群鮪を殺害し、その父真鳥の館に火を放って焼き殺してしま
う。ここに平群氏は討滅される。
 対外的には、462年、倭軍が新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死
してしまい敗走した。
 475年、高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌年、雄略大王は任那から久
麻那利の地を百済に与えて復興させた。この他、呉国(宋)から手工業者・
漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦
氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励した。
 479年、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王
に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた
安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。このように、雄略朝で
は、倭国は百済と協力し、新羅に当たりまた高句麗の圧迫に対抗した。
 1.古墳時代後期(6世紀、継体天皇~崇峻天皇)

 継体天皇は応神天皇の5世孫であり、父は彦主人王である。近江国高
嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である
越前国高向で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治し
ていた。506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴
金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが協議して、越前にいた男大迹王
にお迎えを出した。男大迹王は心中疑いを抱き、河内馬飼首荒籠に使い
を出し、大連大臣らの本意を確かめてから即位の決心をした。翌年、河内
国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とし
た。継体は、即位19年後の526年、ようやく大倭(後の大和国)に都を定め
ることができた。(百済本記を基にして継体紀から年号が定まる。また、
継体天皇は直接に以降の皇統に繋がることが確認されている。)
 継体天皇6年(512年)、大伴金村は、高句麗によって国土の北半分を奪
われた百済からの要求を入れて任那4県を割譲し、百済と結んで高句麗、
新羅に対抗しようとしたが、かえって任那の離反、新羅の侵攻を招いた。
 527年、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた
南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知
った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害
を要請した。磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と
朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込
み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した。継体天皇は大伴金村・物部麁
鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、麁鹿火が将軍に任命
された。
 528年、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し
、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。
 その後531年、継体天皇は皇子(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日
に崩御した。『百済本記』では、天皇と皇子が同時に亡くなったとし、政変
で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。継体陵と
される今城塚古墳からの出土と思われる阿蘇ピンク石(当時石棺に使用)
が発見されている。
 大伴金村は、安閑、宣化、欽明天皇の時代にも大連として権勢を保ち、
屯倉の設置などに励んだ。しかし、欽明天皇の代に入ると天皇と血縁関係
を結んだ蘇我稲目が台頭し、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇
元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾
輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を
受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は
衰退した。
 
 雄略朝以来、倭は百済と同盟関係にあり、高句麗の南下と高句麗の
影響を受けた新羅の侵攻に対抗してきた。
 512年、倭国は任那4県を百済に割譲した。
 513年、百済より五経博士が渡来、
 538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。古墳石室も竪穴式石室に
代わって、朝鮮風の横穴式石室が主流となった。
 554年、聖名王が新羅で戦死する。
 562年には任那が新羅によって滅亡させられる。かくして、古来(縄文時
代前期)より維持してきた南朝鮮の倭国の領土をすべて失うことになる。
このことは、任那・伊都国連合の出自と思われる崇神・応神天皇を掲げる
皇統にとり由々しき事態であり、ヤマト王権は、任那滅亡以来、度々任那
の回復を図るがことごとく失敗した。
 6世紀半ばに大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対
(排仏)派の物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我
稲目が争った(崇仏論争)。
 552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴
らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたと
ころ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の祟
りを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、
疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃
やし、仏像は難波に流し捨てたという。
 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀
っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇
に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流
し捨てる。用明天皇即位後も両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪
族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし(衣摺の戦い)、寺院の建立も盛んに
行われるようになった。これ以後、邪馬台国以来権力を振るった、さしもの
物部氏も権勢に陰りがみられるようになり、蘇我氏の全盛が始まる。戦い
後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。
 この間、581年には、中国は文帝により長い分裂の時代を終えて再び統
一され、国号を隋とし中央集権体制をひいた。崇峻天皇は傀儡で政治の
実権は馬子が持ち、これに不満な天皇は馬子と対立した。
 592年、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食
炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である
 2.飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭、推古天皇~元明天皇)

 推古天皇を中心とした三頭政治(聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、
蘇我馬子と共に天皇を補佐)が始まり、天皇を中心とした中央集権体制を
目指した。
 593年、太子は四天王寺を建立する。
 594年、仏教興隆の詔を発した。
 595年、高句麗の僧慧慈が渡来した。馬子は日本最初の本格的な伽藍
配置をもつ飛鳥寺を建立する。
 598年、隋が高句麗に侵攻。
 600年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。
 601年、太子は斑鳩宮を造営した。
 602年、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫
に2万5千の軍衆を集めたが、来目皇子の死去のため、遠征は中止となっ
た。
 603年、冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用
し、天皇の中央集権を強める目的であった。
 604年、十七条憲法を制定した。
 607年、小野妹子と鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の
使者である裴世清が訪れた。
 607年、太子は法隆寺を建立する。
 612年、隋の煬帝、高句麗に遠征するも敗退。
 618年、李淵が隋の煬帝を殺害し、唐を建国。
 620年、太子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。
 622年、斑鳩宮で倒れ、そのまま逝去。皇極の御代になると、蘇我氏の
専横が目立つようになる。蘇我蝦夷は入鹿を勝手に大臣にする。
 642年、百済が新羅の諸城を攻める。
 643年、新羅が唐に援軍を請う。同年、入鹿は蘇我氏と対立してきた
聖徳太子の子、山背大兄王を斑鳩に襲撃した。王は、自分の挙兵によ
って戦が起き、人々が死ぬのは忍びないとして、自害。この事件により
蘇我氏の権勢はますます高まり、蝦夷の横暴と若い入鹿の強硬な政治
姿勢に次第に朝廷の中で孤立を深めていった。
 645年、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する(乙巳の
変)。蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅亡。
 翌646年、皇子は難波の宮で改新の詔を宣する(大化の改新)。薄葬令
、品部廃止の詔が出される。
 646年、冠位19階を制定する。
 653年、遣唐使を送る。中大兄皇子、幸徳らを難波宮に残し、飛鳥に移る

 658年、唐が高句麗へ派兵。
 660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。
 661年、中大兄皇子が称制す。
 663年、百済復興を目指し、新羅軍を撃破すべく2万7千の軍を派遣する
も、唐軍に白村江の戦で大敗する(百済の役)。
 664年、冠位26階を制定.兵士・民部・家部の制「甲氏の宣」を施行。唐
の使者郭務悰が来日。対馬、壱岐、筑紫に防人を配置し、筑紫に水城を
築き、唐・新羅の来襲に備える。
 667年、中大兄皇子、大津の宮に遷都。唐・新羅が高句麗へ侵攻。
 668年、天智が即位。高句麗が滅亡する。
 670年、全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。
 671年、近江令を施行.太政官制開始。天智天皇没する。
 672年、古代日本最大の内乱である壬申の乱が起る。天智天皇の太子
・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方
に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が朝
廷軍に勝利し大友皇子が自殺という、類稀な内乱であった。
 翌673年、天武は飛鳥浄御原宮で即位し、唐に対抗できる国家体制の
確立を図る。
 681年、飛鳥浄御原令の編纂を開始し、草壁皇子を皇太子とする。
 681年、 『帝紀』『旧辞』などの筆録・編集開始(『日本書記』)の詔。「禁
式92条」の制定。日本および天皇の称号を用いる。藤原不比等、天武・
草壁を補佐。
 684年、天武が後の藤原京を巡行、八色の姓の制定。
 685年、四十八階冠位制を施行。
 686年、天武が没する。
 689年、草壁皇子が没する。
 690年、持統が即位する。飛鳥浄御原管制を施行。戸令により、庚寅年
籍を作る。
 694年、藤原京へ遷都。
 696年、高市皇子が没する。
 697年、持統が譲位し、文武が即位。
 701年、大宝律令を施行。
 703年、持統が没する。
 707年、藤原不比等の官僚として活躍を認め200戸の封土を与える。文
武が没し、元明が即位。
 710年、平城京に遷都。
 712年、太朝臣安萬侶が『古事記』を献上。
 713年、諸国に『風土記』の編纂を命じる。
 714年、首皇子が立太子になる。
 715年、元明が譲位して、元正が即位。
 718年、養老律令が完成。
 720年、舎人親王らが『日本書記』を奏上。藤原不比等没する。
 721年、元明が没する。
 724年、元正が譲位し、聖武が即位する。
 3.飛鳥・白鳳文化の開化と日本の国家体制の確立 と都城の建設

 倭国は百済と同盟関係を組み、高句麗の南下とその影響を受けた新羅
の侵攻に当たり、512年には百済に任那4県を割譲した。
 538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。
 554年、聖名王が新羅で戦死する。
 562年には任那が新羅によって滅亡させられる。
 658年、唐が高句麗へ派兵。
 660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。
 667年、唐・新羅が高句麗へ侵攻。
 668年、高句麗が滅亡する。

 任那、百済さらに高句麗の滅亡により、五月雨的に南朝鮮の倭人の帰
来、仏僧・知識人・工人が倭国に避難、渡来した。かくて、推古朝を頂点と
して大和を中心に仏教文化の飛鳥文化が開花した。飛鳥文化の時期は、
一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を
通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受けた、国際性豊か
な文化でもある。多くの大寺院が建立され、仏教文化の最初の興隆期で
あった。それに続く、白鳳文化とは、645年(大化元年)の大化の改新から
710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文
化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表されるものである。なお、
白鳳とは『日本書紀』に現れない元号(逸元号などという)の一つである(し
かし『続日本紀』には白鳳が記されている)。天武天皇の頃には使用された
と考えられており、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
 ヤマト王権は大化の改新以降、強大な唐に対抗できる国家体制を確立
しようとした。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本におけ
る古代国家の基本法を、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令で初めて国家体
制を敷いた重要な時期と重なっている。
 681年、天武は日本書記の編纂開始の詔を出し、日本および天皇の
称号を用いた。ヤマト王権は、国家的自立と自負を表明するため、‘日の
御子’の治める国にふさわしく‘日本’という国号を立てたか。天武朝で
は新しい国家の首都である藤原京の造営が始まったが、この宮が日本で
最初の都市といえる。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の
遷宮が行われていた慣例から3代の天皇(持統・文武・元明)に続けて使
用された宮となったことが大きな特徴としてあげられる。政治機構の拡充
とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するため
に必要だったと考えられる。藤原京は宮を中心に据え条坊を備えた最初の
宮都建設となった。藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707
年に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。
唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造され、710年に遷都された

 712年、『古事記』、太朝臣安萬侶によって献上さる。
 720年、舎人親王らにより日本の正史である日本書記が奏上される。
 近江商人の里(五個荘)。優麗な三上山を対岸に眺められる湖族
の浦(堅田)。明治時代に三上山の麓の大岩山古墳から国内最大
級の銅鐸が多数見つかる。20世紀末、守山市で弥生時代後期の
伊勢遺跡という我が国最大級の大規模遺跡がみつかった。2016年
、彦根市で大規模集落跡の稲部(いなべ)遺跡が見つかった。これ
らの古墳や遺跡は、近江が『古の日本(倭)の歴史』の主な舞台だ
ったことを示唆する。
弥生時代の倭国の主人公は大国主であり、2
世紀初めに近畿を中心とする大己貴の国(玉牆の内つ国)を建てた
。2世紀半ばの饒速日の東征、さらに3世紀初めの邪馬台国建国。
饒速日の国と大国主の玉牆の内つ国。3世紀末の神武東征により
邪馬台国内の大国主勢力が一掃され、大和にヤマト王権が建てら
れた。この倭の歴史の構築で、『記紀』では殆ど無視されている近江
の古代史を浮かび上がらせた。




(私論.私見)