三内丸山遺跡考

 (最新見直し2013.02.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、三内丸山遺跡を確認しておくことにする。横尾恒雄氏の「異説古代史(上巻)」その他を参照する。

 2011.8.8日 れんだいこ拝


【三内丸山遺跡】
 三内丸山遺跡は青森市の郊外にある。縄文時代中期の代表的な遺跡で、縄文時代についての認識を塗り替えた。縄文時代は未開野蛮の時代と考えられていたが予想外に高度の文化があったことがわかった。竪穴式住居跡が8百棟あるとかいう。必ずしも原始的ではなく柱が6本のものや2階建てのものも多く,中には大規模なものもある。集落の入り口付近には広い道路の両側に多数の土坑墓が列状に並んでいる。これは成人の墓で,祖先の霊に守られるという信仰によるのだという。なお子供の死体は土器に入れて集落中に埋葬されている。広場があるが、盛り土を繰り返した遺構で使用済み祭器の捨て場と見られる。又生活ごみの捨て場は谷筋にある。三内丸山遺跡では翡翠,黒曜石,琥珀,アスファルト等が量的にまとまって発見されている。本州中部,北海道などの産物である。

 三内丸山は宗教の聖地だったという説がある。宗教的色彩の強い環状配石遺構の下層から土坑墓3基が発見されたことや、翡翠の副葬品を伴う人骨が1体だけ発見されたことは、当時の三内丸山集落に宗教的支配者階級が存在していたことを裏付ける。

 高度の工芸品の発見。集落中で発見された多数のクリの実は野生のものよりはるかに大型で、その遺伝子は良く揃っていて計画的栽培を裏付けている。なお6本の太い栗の柱の遺伝子はバラバラなので野生である。クリが計画的に栽培されていた。クリ以外にもエゴマ,ヒエ,ヒョウタン,豆類の栽培の跡がある。当時の食料の7割はクリ、ヒエなど植物性だったという。ニワトコの栽培の跡がある.発酵物に集まるキンバエが多くいた。酒、発酵ジュースが生産されていたと見られる。

 横尾恒雄氏の「異説古代史(上巻)」の「三内丸山遺跡」を転載しておく。
 2.4 三内丸山遺跡

 (1)青森市の郊外にある三内丸山遺跡は縄文時代中期の代表的な遺跡であるが,縄文時代についての過去の認識を塗り替えたという点で特筆に値する.20年前頃までは,縄文時代は未開野蛮の時代と考えられていたのだが予想外に高度の文化があったことがわかってきたのだ.それを裏付ける証拠は散発的には出ていたのだが,三内丸山遺跡の発掘によってそれらの証拠が再確認されて,ついに定説を全面的に覆すに至ったのだ.

 (2)縄文時代には,特に東北地方で大規模開発が行われ,生態系にも大きな影響を与えた.三内丸山遺跡はその代表的な例である.竪穴式住居跡が8百棟あるとかいう.一口に竪穴式住居跡といっても,必ずしも原始的ではなく,柱が6本のものや,2階建てのものも多く,中には大規模なものもある.6本の太い栗の木の柱根本は有名になったが,元は6本脚の高層神殿だったという見方が有力である.しかし,下に示すように神殿の他に望楼・航路標識(灯のない灯台)という機能も持っていたと考えられる.集落の入り口付近には広い道路の両側に,多数の土坑墓が列状に並んでいる.これは成人の墓で,祖先の霊に守られるという信仰によるのだという.なお子供の死体は土器に入れて集落中に埋葬されている.広場があるが,盛り土を繰り返した遺構で使用済み祭器の捨て場と見られる.又生活ごみの捨て場は谷筋にある. 

 (3)三内丸山遺跡では,翡翠,黒曜石,琥珀,アスファルト等が量的にまとまって発見されている.本州中部,北海道などの産物である.翡翠は半製品も発見されているから,船による広域交易の拠点だったことは確実である.縄文時代前期にはすでに東北地方北部,北海道南部,及び大陸の東北地区との間に活発な物資の交流があったし,文化の交流もあったというから,三内丸山はそういう交易の拠点の一つだったのである.

 三内丸山は宗教の聖地だったという説がある.宗教的色彩の強い環状配石遺構の下層から土坑墓3基が発見されたことや,翡翠の副葬品を伴う人骨が1体だけ発見されたことは,当時の三内丸山集落に宗教的支配者階級が存在していたことを裏付ける.また,高度の工芸品の発見は支配者階級の豊かさを示している.支配者とはいっても弥生時代以後の王とはかなり異なる.宗教的指導者という方が近いかもしれない.しかし,家系的に階級を構成していたと考えられる.いずれにしろ集落内の人員を共通目的のために使用することができた.しかし,宗教の聖地と交易の拠点とは両立可能である.宗教の聖地ならば多数の人間が集まる.これは交易の拠点として有利な条件である.支配者が直接交易をしなくても交易の利益の一部を吸い上げることができるから,支配者にとっても有利である.これは中世の寺と門前町の関係に似ている.

 (4)三内丸山遺跡では広い面積にわたり計画的開発が行われたのである.以前の集落から集団移住したのだという.なぜ集団移住したか.その理由について私は次のように考える.海面上昇によって以前の集落は一部は水没し,また交易の拠点としては不適当になったので,集団移住することにしたのだ.以前の集落の時代から支配者階級は強力で,大規模な計画的開発が可能だった.もちろん交易の拠点としての適性も十分考慮された.以前の集落はおそらく日本海沿岸にあったのだろう.日本海沿岸よりやや涼しく,海が静かな内湾を選んで「遷都」したのである.6本の太い栗の柱はわずかに内側に傾斜していること及び底の粘土の水分が低いことから高さ10m以上の建物の跡と推定されているが,復原された建物は想像の域を出ないようである.

 6本脚の高層神殿はその宗教的価値だけではなく,交易上の利用価値も十分考慮された.灯台的な航路標識は交易の拠点として必要不可欠であるし,望楼は来航船の早期発見に効果的である.古代の航海は目視によった沿岸航路が普通だったので,航海者は目標になる岬や山(独立峰)を神として祭ったというから,航海者の便利な目標というより大きい宗教的意味を持っていたのであろう.

 (5)集落中で発見された多数のクリの実は野生のものよりはるかに大型で,その遺伝子は良く揃っていて,計画的栽培を裏付けている.なお6本の太い栗の柱の遺伝子はバラバラなので野生である.三内丸山遺跡では広い面積にわたり地区別・年代別の花粉調査が行われ,その結果次のようなことがわかった.
@ここでは広い面積の計画的開発が行われたが,とくに幾つかの区画ではクリだけが計画的に栽培されていた.谷筋の林も自然林ではなく2次林だった.
A三内丸山ではクリの栽培は5千2百〜5千百年前に始まり,4450年前に最盛期になり,その後は衰退に向かい,3千8百年前に放棄されたと見られる.人手をかけて管理しないとクリ林は比較的短期間に自然林に戻るのだが,三内丸山遺跡ではクリ林は長期間人為的に維持管理されてきた.この点では後世の里山と類似している.なお周辺には今でもクリ林がある.B谷筋の林も自然林のままではなく,伐採された後2次林になった.その後また自然林に戻っているが,その盛衰はクリとほぼ同様である.クリ以外にもエゴマ,ヒエ,ヒョウタン,豆類の栽培の跡がある.当時の食料の7割は,クリ,ヒエなど植物性だったという.クリの比率は高いがそれでも雑食性の範囲内である.またニワトコの栽培の跡がある.発酵物に集まるキンバエが多くいた.酒が生産されていたと見られる.酒といっても発酵ジュース程度かもしれない. 

 (6)三内丸山遺跡は千5百年の継続後放棄されたのである.なぜ放棄されたか.その理由については諸説があるが,私は次のように考える.第一の理由は寒冷化だ.その結果堅果,特にクリが実らなくなった.計画的栽培によるクリの遺伝子の均一化は,温暖期には野生種より大型で多収量だったが,寒冷期には野生種より冷害に弱かった.その遺伝子は良く揃っていて,計画的栽培を裏付けている.なお6本の太い栗の柱の遺雑食性だったとはいってもクリに対する依存度が大きかった三内丸山では寒冷化の影響は井戸尻より深刻だった.第二の理由は海面下降によって,交易の拠点としての価値を喪失したことである.支配者はおそらく別の適地に再遷都したのだろう.遷都先はより温暖な日本海沿岸だったのだろう.











(私論.私見)