歴史区分考 |
(最新見直し2011.8.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、上古代の歴史区分を確認しておくことにする。横尾恒雄氏の「異説古代史(上巻)」その他を参照する。 2011.8.8日 れんだいこ拝 |
【歴史区分考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本史上の上古代の歴史区分は石器時代、銅器時代、鉄器時代を指標とする。石器時代は旧石器時代、新石器時代に分かれる。木器もこの時代に含まれる。銅器時代、鉄器時代はそれほど明瞭に区分できない。日本では縄文時代、弥生時代、史書歴史時代に区分する。しかしこれらは何だか分かるようで分からない怪しい規定である。 2011.8.8日 れんだいこ拝 |
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縄文文化とは 時間的に最も長く考えた場合、土器の出現(最も古い場合は ≒1万6500年前)から、水田稲作が開始されるまで(早くは ≒3000年前、遅くとも ≒2400年前) 狩猟・採集・漁労・栽培を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や 石器を使い、本格的な定住生活を始めた人々が 残した、日本列島各地における文化群の 総称です。こうした文化が形成された時期を、日本の歴史では縄文時代と 呼びます。
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【縄文時代】 | |||||||||||||||||||
ここでは通説の縄文時代規定に従う。「縄文」と云う名の由来は、明治維新期に米国から来日した生物学者のエドワード・モ-ス(1829-1925)が、東京郊外の大森貝塚で発見した土器に縄目があったことにより名づけられたことに始まる。 縄文時代の年代区分は縄文式土器の形式による編年から始まった.次のように6期に区分される。各期の境界の年代についてはなかなか定説には至らない。縄文時代の遺跡はそれなりに確認できる。青森県蟹田町の大平山元1遺跡から約1万6千5百年前の土器片が多数発見された。この時代の土器は世界最古の文明の痕跡となる。八が岳山麓の井戸尻遺跡、諏訪湖周辺遺跡、三内丸山遺跡が認められる。
貝塚が縄文時代を代表するような遺跡である。当時の生活ごみの捨て場とされるが貝殻が多いので貝塚と命名されている。屈葬人骨をはじめ各種動物,鯨,魚の骨等が確認されている。魚の骨には1m級までのマダイ,サメ,フグ,イワシ,アジ,サバ等があり、当時の漁労の状態を推測させる。貝塚には動物の骨も多いが,主要なのは猪と鹿である。鹿の骨製の大型銛,犬の糞(犬の寄生虫)等が出ることがある。多量の土器も認められる。漆塗りの土器、弓の破片、栽培植物とその実・・・。 縄文時代の食料は木の実である。焼き畑農耕が認められる。稲作農耕も行われていると考えた方が良い。但し、食生活が豊かであったので弥生時代的な稲作農耕が発達しなかったのではなかろうか。主食は、木の実系、雑穀系のものを団子又は麺にして食したのではなかろうかと思われる。それが今日の鍋料理、麺食の起源ではなかろうか。衣服は貫頭衣、あるいは合わせ衣だったのではなかろうかと思われる。 黒曜石は切削工具用材として、また鏃材として必需品。出土した黒曜石から産地がわかる。秋田産の天然アスファルト(鏃の接着剤)は北海道まで流通していた。翡翠は勾玉等に加工されてもっぱら首長層の権威・権力の誇示に使用された。産地は新潟県の糸魚川上流地区に限定されているが流通範囲はほぼ全国に及んでいた。 |
【縄文思想考】 |
縄文時代の縄文人の思想を一概に云うのは難しいが、後の日本神道を生み出した元の思想であると云うぐらいには云えよう。これを文筆にするより、もっと実践的に言葉の言霊で伝えたと思われる。これにより文筆よりもっと生き生きと確実に伝え、その思想は、はるけき今日まで繫がっているのではなかろうか。縄文思想を探るとは、その元一日を訪ねる営為と云うことができよう。そういう訳で、「日本神道考」で行うことにする。 2013.3.15日 れんだいこ拝 |
【古墳時代】 |
【歴史時代】 |
(私論.私見)