原日本人考その1、原日本人の出自考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2009.12.22日、新たに日本及び日本人の起源考を作ることにした。千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」、横尾恒雄「異説古代史 (上巻)」、「日本人の起源と系統について」その他を参照する。 2009.12.22日 れんだいこ拝 |
日本列島にたどりついた古代たちは本当に海を渡れたのか? その謎に挑む壮大なプロジェクトを実現した海部陽介氏。 古代の日本人は、陸続きだった大陸から歩いてやってきたのではなく、何らかの手段で海を越え、日本列島へたどり着いたーーもしこれが事実であれば、当時の人たちの知識や技術で航海が可能だったのか? その謎に挑むべく命がけの実験航海実験を敢行した東京大学総合研究博物館教授の海部陽介氏。クラウドファンディングで計6000万円もの資金を調達し、実現した「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を通して見えてきた日本人誕生の物語と「祖先たちの本当の姿」を著書『サピエンス日本上陸』にて詳述している。 本稿では海部氏がプロジェクトを通して見た「日本人の実像」について聞いた(聞き手:『Voice』編集部)。 本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号、海部陽介氏の「挑戦心は人類の根本的要素」より一部抜粋・編集したものです。 海を渡ってきた人類を再現する――3万年前の人類の大航海を徹底調査し、人類学者自らが日本上陸を再現。その全貌が描かれた『サピエンス日本上陸』が話題になっています。人類がいかにして日本へと辿り着いたのかについて、疑問をもったきっかけは何ですか。 【海部】多くの化石が眠る沖縄は、人類学者の聖地です。私も沖縄で人骨を採掘し、調査していました。あるとき、「そもそも、この骨の人たちはどうやってこの島に来たのだろうか」という根本的な疑問が湧いてきました。 世界史の教科書には、アフリカやヨーロッパに住むネアンデルタール人やクロマニョン人のことが載っています。でも、その時期に日本に誰がいたかは知られていない。ヨーロッパから人類学の知識を輸入して伝えているだけで、自分たちの手で日本の歴史を検証していなかったともいえます。 そこで、日本列島で人類がどのような歴史を織りなしてきたのかを調査しようと決めました。 ――過去にそのような研究は進んでいなかったのでしょうか。 【海部】研究自体はされていましたが、「最初の日本列島人は大陸から徒歩ではなく、海を越えてやってきた」という事実とその重要性は見過ごされていました。日本列島がまさか人類史の大きな挑戦の舞台のひとつだったなんて、想像していなかった。 ある時期を境に、長いあいだ海を越えられなかった人類がオーストラリアに舟で渡ったという事実は世界で知られています。じつは日本でも、3万八千年前にそういった展開が起こっていたわけです。 コンパスやGPSが無くとも自然のサインを読み解いて生き抜いた――今回のプロジェクトでは、台湾ルートから上陸をめざしましたね。 【海部】大陸から日本列島に入るには、朝鮮半島、北海道、台湾の3つのルートがありますが、渡航の難易度がもっとも高いのは台湾―沖縄(与那国島)ルートです。 台湾と沖縄の境には黒潮が流れていて操船が困難なうえ、島は水平線の先にあるため船上からはみえません。命の保障もないのに、安全な地を離れてみえない島をめざす。当時の人にとっては、とてつもない冒険だったといえるでしょう。 台湾―沖縄間の航海の難しさは、地図を見ればある程度想像はつくものの、そこで研究を終わりにしたくなかった。人類はどんな舟できたのか、航海はどれだけ大変だったのかを確かめてみたかったのです。 ――当時の舟に使われた「素材」の検証から始められていますね。 【海部】旧石器時代の遺跡に当時の舟は残っていませんが、さまざまな根拠から草、竹、丸木のどれかだろうと候補を絞りました。3万年前の最初の日本列島人は、そのどれかの舟で海を渡ったはずです。 そこで、それぞれの舟を試すことにしました。始めてみて、「海に出るためには、まず山に行かなければならない」と気づきました。現在のように波止場に行けば舟があるわけでないので、まず山で材料を調達するところから始まるわけです。 竹筏(たけいかだ)舟を造るときも、竹であればどれでもいいと思っていましたが、お世話になった台湾の長老から「何歳の竹じゃなければダメだ」と教わりました。どの素材が舟を造るのに一番適しているのか、人類は経験から知識を蓄えたのでしょう。 また舟の上では、星の位置や波・風の流れをみて、方向を確認します。ひとつの教えられたセオリーに則ればいいのではなく、その場その場で変わる状況に合わせて、どのサインを使うかを選択していく。 先人たちはコンパスやGPSがなくても、自然のなかにあるサインを読みとって立派に生き抜くことができた。こんなにも高度な能力をわれわれの先祖はもっていたのです。 過去の人類を見下しても、美化してもいけない――人類は技術を発達させ生きてきましたが、自然を利用して生きる力は次第に失われているのかもしれません。それでも私たちは進化しているといえるでしょうか。 【海部】要は「適応」です。よく人びとは遠い先祖に2つのイメージを抱きます。ひとつには「石器しかもっていない可哀そうな人たち」と見下してしまうか、「昔の人たちは心が美しくて、現代の人は堕落している」と崇めてしまうかのどちらかです。 でも、いずれも誤りだと思います。ただ生まれてきた時代が違って、見るものや経験するものが異なっているだけで、結局、人間の中身は変わっていない。言い換えれば、人類は状況に合わせて変化ができる生き物なわけです。 それを可能にするのは、どれだけ「強い気持ち」をもっているかにかかっています。 ――「強い気持ち」ですか。 【海部】新型コロナ禍に対しても、働き方やライフスタイルの変化を迫られれば、順応できるのが人間です。9月入学も、「マイナス点があるからできない」ではなく、「マイナス点はあるが全部潰して、絶対に実現しよう」と本気になれば、私たちにできないはずがありません。 ――なぜかつての人類には、危険を省みず未踏の島をめざそうという気持ちが芽生えたのでしょうか。 【海部】やはり「新しい世界をみてみたい」という好奇心が彼らを突き動かしたのでしょう。 台湾から沖縄への渡航は、無理矢理追い出されたとか、そこに行かざるを得なかったという理由で行くようなルートとはとても思えない。 大陸から逃げたかったのなら、わざわざ舟を造らず、陸続きのどこかに行けばいいだけです。旧石器時代の彼らは、よほど挑戦してみたかったのでしょうね。 私はそんな先祖に対し、テクノロジーを進歩させる現在の人類の姿をみます。空を飛ぼうと飛行機をつくったり、酸素もない宇宙に行ってみたり、新しいことに挑戦して社会をどんどん変えていく。その気持ちは3万年前から始まっていました。 ――人間には、未知のものを明かしたいという「DNA」が刻み込まれているのかもしれません。そうした力は「神様が人類に授けたのでは?」とすら感じてしまいます。 【海部】「好奇心や挑戦心は人間らしさの根本的要素」という意味では、そうなのかもしれません。子孫を残し続けるという行為のなかで、未知のものを解明する必要はないし、芸術や音楽も生物学的には要りません。 しかし、人間だけが“生存に不必要なこと“に熱中する能力を授けられている。こういった本能は、人類が未知の島をめざしたことにも繋がっていると感じるのです。 日本人が本当に「保守的」だったら海を越えるようなことはしない ――航海に挑戦するなかで、海を渡ってきた日本人特有の性質を垣間みることはありましたか。 【海部】凄い祖先たちがいたという実感はありますが、当時の世界で彼らだけが凄かったというつもりはありません。また、生まれ育ちが人格や信条を形成するといいますが、国民性とは、時代がつくり上げたイメージという面があります。
たとえば、「日本人は保守的だ」というイメージがありますが、私は違和感を覚えますね。本当に保守的だったら、私たちの先祖は海を越えて島を開拓したりしません。
時代と社会によって意識は変わっていくものだと思いますが、国民性があたかも永久不滅だと思い込んでいる。私はその固定概念を壊したい。人間は変わられると考えているからです。
――どの時代に遡るかで、日本人の定義も変わるでしょうからね。 【海部】日本人の先祖が、現代の中国や朝鮮半島からやってきた事実を、不愉快に思う方もいるようです。
しかし、人類の起源を遡れば、すべてがアフリカに行き着く。争いは動物界の常であり、人間においても対立のない世界を実現するのは困難だとは思います。
しかし、われわれは他の動物たちとは違って、「同じ先祖をもつ仲間」という事実を認識することができる。そのうえで異なる国の価値観やアイデアを「多様性」として認め合った先に、革新的な価値が生まれるのではないでしょうか。
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日本人のDNAが、中国人や朝鮮人のDNAと全く一致しない別物である。 |
【原日本人考】 |
ここで、日本人の起源を訪ねることにする。但し、構え的には、人類の起源が解明できない以上、跡付けることもできないとすべきだろう。この問題に取り組む学問には歴史学(人類学、文化学、文献学、考古学、神社伝承学)、言語学、天文学、生物学(古生物学、分子生物学、DNA考古学)、地球科学等がある。これに、「別章【歴史研究手法考】」で触れているが、年代測定法としての放射性炭素(C14 )分析による年代特定、さらにその手法改良により約六万年前迄測定可能とされるAMS分析法、年輪年代法等も加わって、より精緻に考証されるようになった。コンピュータによる画像解析の手法を駆使して古代人の墓碑の解読もすすみ、歴史人物の在世年代が特定されている。 日本人の起源探訪を山に例えれば、これら諸科学の裾野から登山するのに似ている。依然として頂上には至らない。但し、次の程度には解明が進んでいる。即ち、生命の起源そのものを訪ねれば、2004年12月に放映されたのNHKの「地球大進化四十六億年の歴史」によると、元は藻類かアミーバのような生物から鰭をもつ魚へ、そして手のある両生類に、さらに地上に生活するようになった獣へと進化を繰り返して猿へと辿り着いている。今日の人類の遠祖は大型類人猿と呼ばれるチンパンジー、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、ゴリラ、オランウータンの四種であると考えられる。凡そ600万年前、この中のあるグループが人類の祖先となったと推定されている。人類学上、現代人(新人類、ホモ・サピエンス)のルーツは15~20万年前よりとされている。その故地はアフリカとされつつある。4~3万年前、日本人の祖先となる集団が日本列島へ最初にやって来たと考えられている。この時期には海面低下の影響で陸地が拡大し、日本列島周辺の海岸線は現在とはずいぶん異なっていたという。日本列島の一部では、大陸と陸続きになったり、大陸との間の海峡が非常に狭くなったりしていたと云う。但し、ムー大陸論による太平洋沖からのプレート移動論もあり確定はできない。 新人類はその後世界各地に分散してニグロイド(黒人)、コーカサイド(白人)、モンゴロイド(黄色人)へ分化したとされている。この分類によれば、現代日本人はモンゴロイド(黄色人)になる。これにより「日本人の先祖は人類学的にモンゴロイド人と呼ばれている」。その日本人は、同じモンゴロイドながら先住系と後続系の二種に分かれる。「ミクロに見れば数種類の南方系モンゴロイドと数種類の北方系モンゴロイドとから成るという複雑なものになる」。この両系のモンゴロイドの混血が進み日本人の祖となったと考えられている。どの地点から日本人となるのか分からないが、仮に原日本人と命名すれば、原日本人は今日のアイヌ人、琉球人とDNAが近いと云われている。なお且つ、ベーリング海峡が陸続きの頃、原日本人がアメリカ大陸に渡り、後にインカ,アステカやマヤの文明を築いた。「6千年前のアンデスのミーラのミトコンドリアDNAは北海道アイヌのものとほとんど一致する」とも云われている。 文化人類学的時代区分によれば、人類史は旧石器時代から始まる。人類が旧石器を作り始めた約250万年前から新石器を作り始めた約1万年前までの時代を云う。但し、人類が誕生した約600万年前から250万年前の期間も含めることがある。地質学上の第四期洪積世に相当する。一般的に、旧石器時代は旧大陸の旧石器文化に基づく考古学区分により、前期(下部)、中期(中部)、後期(上部)の三期に分けられている。日本列島では、現在のところ確かな旧石器文化は約4~3万年前頃の後期段階しか確認されていない。この時代、日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは良くわかってない。私たちの祖先・倭(和)人の姿をはっきりと見ることができるのは縄文時代からという。 原日本人は歴史文献学的には倭人として登場する。以下、れんだいこならではの「一言もの申す」をしておきたい。倭人を縄文系と弥生系に分類されるが普通であるが、的確な表現とは思えない。そもそも「縄文弥生識別」は、縄文的なるもの、弥生的なるものの文化、習俗の違いを時代規定にまで被せていることになるが誤解の元であろう。縄文人は縄文時代の生活スタイルだけではなく、弥生時代にも弥生人と並存して共に日本列島に生息している訳で、あるいは混血も進む訳であろうから、縄文的なるもの、弥生的なるものなる文化、習俗の違いを以て縄文時代、弥生時代と識別するのは如何なものだろうか。 他の歴史区分との比較で云えば、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語のどれかをもって時代名としている。これに倣えば、縄文時代、弥生時代なる識別は不当とすべきではなかろうか。但し、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語によっては識別ができないので仮に縄文時代、弥生時代としているのであろう。しかしながら誤規定である。正しくは、原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の識別が相応しい。その文化、習俗の違いとして原日本(上古代日本)は縄文的であり、新日本(古代日本)は弥生的であると認識すべきではなかろうか。繰り返すが、これを縄文時代、弥生時代として識別すると、弥生時代下の原日本(上古代日本)人の縄文的棲息が見落とされてしまう。 れんだいこが、このことに何故拘るのか。それは、魏志倭人伝に登場する倭人論に繫がるからである。魏志倭人伝に記されている倭人の習俗は明らかに原日本(上古代日本)の姿である。魏志倭人伝は紀元3世紀頃の日本をスケッチしているが、日本の縄文、弥生時代の規定で云えば弥生時代である。その弥生時代に縄文的な原日本(上古代日本)の政権と風俗が活写されていることになる。これはどうも具合が悪いし、そういう規定では正しい認識ができなくなる。これが縄文時代、弥生時代規定の間違いの為せる罪技である。故に早急に縄文時代、弥生時代なる識別を改めなければならない。 こう認識することによって、日本古代史を原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の規定にせねばならないことになる。但し、新日本と規定すると、その後の日本は更なる新日本なのだからややこしくなる。そういう訳で、上古代日本、古代日本とすべきと云うことになる。もっと的確な造語ができればそれに越したことはない。 |
千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」は次のように記している。
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「最新・日本古代史年表」を参照する。
年 代 | 時 代 | 社 会 ・ 文 化 ・ 遺 跡 |
旧石器時代 | ||
170万年前 | 前期 | 日本オオカミの先祖?京都昭島市で日本オオカミの先祖とみられる動物の化石が発見された。 |
?万年前 | 日本列島に人(原人)が住み始める。 | |
60万年前 | 上高森遺跡。平成7年10月、「石器発見の神様」と呼ばれている藤村新一氏により宮城県築館町で「約60万年前の日本最古の旧石器を発見」。現時点における原人が残した最古の遺跡となっている。 | |
13万年前 | ナウマンゾウ(40万年前~3万年前に生存)の化石などが多数発見。馬場壇A遺跡(宮城県古川市)、中峰C遺跡(宮城県大和町) | |
10万年前 | 中期 | 袖原3遺跡(山形県花沢市)、中島山遺跡(宮城県色麻町)。10万年前、山脈を挟んだ異なる場所の2つの石器が同じ原石から作られていたことが判明。 |
3万5千年前 | 辻田遺跡(北九州市)。 | |
3万年前 | 座散乱木遺跡(宮城県)。 | |
立切遺跡(鹿児島県中種子町)。大量の石器、炉跡が発見された。調理用焼き石の礫群、焼土遺構、建物や杭らしい柱跡が出土。 | ||
2万5千年前 | 後期 | シベリアでマンモスのほぼ全身を発見。 |
広島大新キャンパス遺跡(広島県東広島市)中期~後期。住居遺構6棟、平地式住居の発見。鹿児島姶良カルデラ噴火,火山灰は東北にまで及ぶ。翠鳥園遺跡(大阪府羽曳野市)新人のサヌカイト製石器製作跡。 | ||
最終氷河期ピーク,海面が百数十メートル退行。 | ||
1万6千年前 | 白滝遺跡(北海道)。黒曜石の石器原産地遺跡。シベリアに運ばれたことも判明。120万点出土。 | |
1万4000年前 | 草創期 | 青森で発見の土器が世界最古と判明。青森県蟹田町にある縄文草創期の大平山元遺跡で見つかった土器片が1万6500年前に作られたものであることが明らかになった。 |
鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か? | ||
「港川人骨」(沖縄県具志頭村港川)。1万数千年前の化石人骨数体分が採集。「港川人」は、「柳江人」(中国広西省出土;約4万年前の化石人骨)とよく似ている。 | ||
B.C.9000 | 栫ノ原(カコイノハラ)遺跡(鹿児島県加世田市)、奥ノ仁田(オクノニタ)遺跡(鹿児島県西之表市) (約1万2千年前)定住生活の跡(丸ノミ型磨製石斧,石皿、磨石、石鏃などが発見された。)有肩石斧の原始的形態のものが出土する。 | |
縄文時代 | ||
B.C.7000 | 早期 | 上野原遺跡(鹿児島県)。日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。西日本には殆どないとされていた縄文遺跡だが、鹿児島県から日本最古の縄文集落が発見された。三内丸山遺跡に続いて古代史を塗り替えた。弥生式土器に似た土器まで発見され「縄文も西からか?」と騒がれている。 |
鬼界カルデラ噴火。中野B遺跡(北海道函館市)500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。 | ||
B.C.6000 | 漆の使用始まる。木工技術が発達し、各地で丸木船が作られる。気候が温暖化し海水面が上昇,海が内陸に入り現在の日本列島の形状が形成される。(縄文海進) | |
B.C.5000 | 前期 | 三内丸山遺跡(青森県)5千5百~4千年前まで約1,500年間営まれた大規模な集落跡。従来の縄文観をことごとく書き換えた有名な縄文遺跡。 |
北黄金貝塚。(北海道伊達市)(約5000年前)意図的に壊された石皿やすり石を含む石敷きの作業場、池、水汲みの際の足場などの「水場遺構」が発見される。祭祀遺構の可能性も? 鯨骨製の「刀」も出土した。 | ||
B.C.4000 | 中期 | 富山・桜町遺跡(富山県小矢部市)。建築部材が大量に出土。「わたりあご仕口」と呼ばれる木組み跡の柱があった。同じ手法が、後世奈良の法隆寺の建物にも使われている。 |
B.C.3000 | 各地で大規模な縄文集落成立。新潟・長者ケ原遺跡。 富山・不動堂遺跡。石川・チカモリ遺跡。奥三面遺跡群(新潟県朝日村)。縄文期に「2000年集落」。新潟県朝日村三面地区のダム予定地で発掘調査が進む奥三面遺跡群に少なくとも2000年続いた縄文時代後―晩期の文化が存在していたことが、9日(98年10月)までに明らかとなった。これまで最長とされた縄文前―中期の三内丸山遺跡(青森市)の約1500年間を上回る。国内最古の「舗装道路」跡などが出土しているものの、同遺跡群はダムの完成に伴って水没することになっており、惜しむ声が強い。 | |
B.C.2000 | 後期 | 土偶・仮面・石刀などの祭祀が隆盛。 |
B.C.1000 | 晩期 | 九州北部に水耕稲作が伝わる。佐賀県・菜畑遺跡。日本最古の水耕稲作。稲作以外に、野菜の栽培、家畜の飼育も行っていた。 |
弥生時代 | ||
B.C.300 | 前期 | 鉄器使用始まる。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)。 |
倭、百余国に別れ分立。楽浪郡と通交。 | ||
北九州に稲作定着し環濠でムラを囲む。福岡・板付遺跡。 | ||
B.C.200 | 北九州各地に王国。吉武・高木遺跡(早良王国:福岡市)。野方遺跡(福岡市)。平原遺跡(伊都王国:福岡県前原市)。 | |
中期 | 青銅器の製作始まる。原の辻遺跡(長崎県)日本最小の銅鐸が出土(滋賀・下鈎遺跡)。 内外2重の環濠をめぐらした25平方㎞におよぶ集落・港湾遺跡。日本最小の小銅鐸(どうたく)が滋賀県栗太郡栗東町の下鈎(しもまがり)遺跡で見つかった。通常の銅鐸を忠実に再現しており、関係者は「古代の銅製品の使用や製造の変化を知る上で貴重な資料」と注目している。弥生時代中期の集落の環濠(ごう)と推測される溝から見つかり、弥生時代中期後半から後期ごろ(紀元前2―後3世紀)の製造とみられる。 | |
福岡県甘木市・平塚川添遺跡。6重の環濠をめぐらした大集落遺跡。楼閣を持った祭事建物も出現。壱岐の「原の辻遺跡」とともに北九州三大環濠遺跡。吉野ヶ里を発掘した佐賀県文化財課の高島忠平氏談。「こんど北九州で何か出るとすれば甘木・朝倉地方だと思ってました」。 | ||
A.D.1紀元後 | 池上曽根遺跡 環濠集落。 (大阪符)。近畿最大の掘立柱建物と一本刳り抜き井戸が出現。 | |
弥生集落、全国で営まれる。大塚・歳勝土遺跡(横浜市)。綾羅木・郷遺跡(下関市)。田能遺跡(尼崎市)。加茂岩倉・神庭荒神谷遺跡(島根県斐川町、加茂街)。唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)。立岩遺跡(飯塚市)。登呂遺跡(静岡市)。名古屋・見晴台遺跡。山口・土井が浜遺跡。 福岡・金隈遺跡。 | ||
小田原で弥生時代中期の大集落を確認。98年3月7日、同市中里にある繊維工場跡地の発掘調査で、弥生時代中期中葉(紀元前2世紀)の大集落跡が確認された。調査地から61の竪穴住居跡や500を超える土坑などが見つかった。また小田原ではこれまで発見例のない瀬戸内海系の土器も出土した。中里遺跡は、酒匂川河口から2キロ上流。工場跡地に大型店舗が進出するため、98年3月から発掘調査していた。集落跡は東西、南北ともに250メートル。この遺跡から南東に300メートルほど離れた場所からは、1993年の調査で、49基の方形周溝墓が見つかっている。今回の発掘と合わせ、この地域の周辺に本格的な大規模集落があったと推測されるという。 | ||
弥生時代のおにぎり出現。杉谷チャノバタケ遺跡(石川県鹿西町)紀元前後の弥生中期末の住居跡から見つかった。日本最古の調理・加工された炭化米の塊。チマキ、魔よけの説もある。 | ||
青銅器、九州で盛んに製造される。各地で工房跡。須玖・岡本遺跡群(福岡県春日市) | ||
57 | 奴国王漢の光武帝より金印を賜る。 | |
妻木晩田遺跡(鳥取県大江町・淀江町)。現在、日本最大の弥生遺跡。山陰に新たな王国か。 | ||
200 | 後期 | 倭国内乱が続く。戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土する。 |
れんだいこのカンテラ時評№1289 投稿者:れんだいこ 投稿日:2016年10月21日 |
日本土着民考 2016.10.18日午前9時30分頃、沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設工事が進むN1表ゲート前で、これに抗議する市民が対峙し、大阪府警から派遣された20代の男性機動隊員(巡査部長、29歳)が、この反対運動に参加していた芥川賞作家の目取真俊氏に対して、フェンス越しにかなり強いヤクザ口調で、「触るな、くそ。触るな、こら。どこつかんどんじゃ、ぼけ。黙れ、土人(どじん)」と発言。別の機動隊員(男性巡査長、26歳)が「黙れ、シナ人」と発言。これが、「機動隊員による沖縄人に対してのヘイト用語発言事件」になり詮議されている。 10.19日、沖縄県の翁長知事が、県庁で「言語道断で到底許されない」と強く非難した。安倍政権の菅官房長官も同日の記者会見で、「警察官が不適切な発言を行ったことは大変残念だ」と語った。10.20日、警察庁の坂口正芳長官は定例の記者会見で「機動隊員の発言は不適切で、極めて遺憾だ」、「今後このような事案の絶無を期すとともに、適切な警備を行うよう指導を徹底していきたい」と語った。 ところが、機動隊員派遣お膝元の松井大阪府知事が、10.19日、自身のツイッターで、「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労いコメントし、翌日のぶら下がり会見でも「相手もむちゃくちゃ言っている。売り言葉に買い言葉。鬼畜生のように隊員個人を叩くのはどうか」と述べ、改めて隊員を擁護した。翁長知事が大阪府知事のコメントに激怒!、「沖縄県民への配慮が足りないのではないのか」と強く批判して物議を呼ぶオマケまでついた。 以下、この「土人発言」に対して、れんだいこ式に解析評論しておく。案外と重要な問題が宿されていると窺うからである。この「土人」表現が、極めて癖のある且つ歴史性のある且つ国際ユダ邪問題に密接不可分なものであると思うからである。表現の自由を極力広く取って構えようとするれんだいこは、本件を、ヘイト用語使用による非難ではなく、原理的に粉砕してみたいと思う。御意の士が現れんことを願う。件の機動隊員の目に触れんことを願う。 一般に、「土人」という言葉は、「未開原住民」的ニュアンスで蔑視的に使われている。典型的な例はアメリカンインディアンであろう。戦後日本生まれの子供は、私がその一人であるが、嫌と云うほど西部劇を見せられ、抵抗するインディアン撃退劇を正義の出来事の如くに脳裏に焼きつけられた。この時、無意識下で洗脳、即ち「先進国の白人が原住民を退治し馴致することは正義であるとする」史観を流し込まれたように思う。これによって正視し得ていたのではなかろうか。これを仮に「先進文明国史観」と命名する。 この史観によって、紀元16世紀頃より世界植民地分割征服戦争が始まった。この戦争を背後で主導していたのが国際ユダ邪と仮命名されているところのユダ邪系国際金融資本、及びこれに合体するところのネオシオニズム系ユダ邪教、そのタルムード教、ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教等々の勢力だった。これが近代世界史の流れである。 この波は日本にも及んでいた。早くは日本史上で戦国時代と云われる16世紀に関わっている。ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教のイエズス会系宣教師がトップバッターとして鹿児島に上陸し、手に聖書、口で反逆、背に鉄砲、軍艦を従えて来襲してきた。歴史教科書はこう記さないが、元帝国のそれがハード、イエズス会のそれがソフトと云う違いはあるが共に「来襲」とみなすべきだろう。 歴史的には、この時の日本政治の政権を担った織田、豊臣、徳川の三家の舵取りが極めて有能で、外交的にも軍事的にも日本侵略を許さず撃退することに成功し鎖国へと結実した。鎖国後、国際ユダ邪に対する警戒心を緩めることになったが、致し方なかった面もあろう。歴史教科書はこう見立てないが、それは現行の歴史教科書が国際ユダ邪ナイズされているからである。 日本史上、次の来襲が江戸時代幕末の黒船来航である。この時、天下が激論し、尊皇攘夷か国際ユダ邪受容かを廻って激論した。結果的に、織田、豊臣、徳川の三家政治のようには撃退できず、幕末維新から明治維新へと流れ込んで行った。但し、この明治維新は、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移して行くことになった。この三派連合が次第に溶解し、国際ユダ邪派のワンサイド政権へと化していくのがその後の日本史である。この流れが時に揺り戻しはあるものの2016年の今日まで続いている。かく日本史の流れを確認しておきたい。 さて、件の土人発言であるが、例の機動隊員が、沖縄人に対し、「この土人めが」と発言した時の真意を問題としたい。彼の土人発言は、上記分析に照らせば、余りにも文明開化開国派が盲従する国際ユダ邪派の「先進文明国史観」をそのまま受容し過ぎていないだろうか。国際ユダ邪派にとっては、国際ユダ邪派以外の世界の諸民族は牛馬犬猫の類のゴイムなる存在であり、煮て食われようが焼いて食われようが、その者たちをそのように扱うのが神から選民された国際ユダ邪派の義務であり権利であるとする。この目線上に土人が居り、殺戮しようが陵辱しようが馴致しようが我々の自由と云うまことに得手勝手好都合な論理構造式を引き下げている。 れんだいこ史観は、国際ユダ邪派に殲滅され、あるいは馴致された原住民、即ち土人が未開野蛮であったと判定しない。今日の如くの核兵器、原発、その他化学生成物による地球汚染の時代にあっては、概ね自然と共生しつつ原始的に生活していた生態の方が寧ろ本質的に賢かったのではなかろうかとさえ思えてくる。衣食住が自然素材で自然と共生してきた彼らの文明の方が高等だった気がしないでもない。国際ユダ邪派の狡知は、いわゆる「賢こバカ」ではないかと思えてくる。 こう考える私からすれば、例の機動隊員の「土人発言」が「先進文明国史観」に毒づけられた卑しい史観に基づいての暴言であるのは自明である。国際ユダ邪の目から見れば彼もまた土人の側であるのに、いずれブーメラン的に我が身に突き刺さってくるのに土人批判に興じて悦に入っている。お粗末と云うか思想愚人である。ここまでをその1とする。本稿はここまでとしたい。 |
れんだいこのカンテラ時評№1290 投稿者:れんだいこ 投稿日:2016年10月22日 |
日本土着民考<その2 先のブログまでが前半である。ここからもう一つの観点から掘り下げてみたい。近代日本史が、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移し、次第に文明開化開国派ワンサイド政権へと化して行ったにせよ、世界の諸植民地のように国際ユダ邪来襲にひとたまりもなく殲滅されなかったところに日本の偉大さがある。むしろ一時的には一度も二度も跳ね除けた歴史を持つ。世界史的に見て、今この栄誉にあるのは日本、ベトナム、キューバの例があるのみではなかろうか。大和民族のこの能力をもっと称えるべきと思う。「大和民族のこの能力」に沖縄人が関係している。このことを共に悦び重視したい。これはどういう意味だろうか。以下、これに答える。 れんだいこ史観によると、日本の大昔は「元百余国」と云われるような日本列島津々浦々に棲み分けする部族国家だった。この部族国家が次第に束ねられ、緩やかながらも結合する部族連合国家となったのが出雲王朝御代だった。他所では神無月、出雲では神有り月となる旧暦10月、各地の部族王が出雲に集まり合議政治する慣わしを確立していた。会議後、各地の文化、技芸を披露し称えあった。今日に伝わる「お国自慢」の伝統はこの時以来のものである。時代的には起源前後、更に下って邪馬台国の紀元3世紀頃まで続いた。文明的には弥生時代であるが、後の渡来系大和王朝時代と区別する為に、この時代までを敢えて仮に「縄文日本」(又は「原日本」)と命名しておく。 この「縄文日本」時代、いわゆるアイヌ人が羽振りを効かせていた。このアイヌ人が知る人ぞ知る日本式美男美女の系統である。記紀に登場する三輪の長脛(すね)族はその代表で、名の通り脛の長い美丈夫の王家族だったように思われる。ちなみに、アイヌ人と琉球人のルーツが同じもしくは近いことがDNA解析で判明している。人だけでなく犬もそうとのことである。日本列島には、このアイヌ人のほかにも様々の人種が生息していたと思われ、これらを合わせて縄文人と云う。 「縄文日本」の人たちの特徴は割合と混血を好むところにあったように思われる。その様は「より選れた遺伝子」を求めての交合であり、それが王族間の場合には同時に部族同盟を意味していたように思われる。以降、この混血を通して原日本人が生成されて行くことになる。この頃の「縄文日本」の版図を現在の日本地図に当て嵌めれば、北は北海道から南は沖縄まで、即ち今日の日本の如くの範囲で「縄文日本文明」を創造し共生的に満喫していたように推定できる。 邪馬台国時代の紀元3世紀頃、外来外航族が渡来し、王権の簒奪を図った為、内乱状態に陥った。結果的に「縄文日本」が滅ぼされ、大和王朝に向かうのがその後の日本史である。記紀の記す出雲の国譲り譚、魏志倭人伝の記す邪馬台国滅亡譚はこの辺りの消息を語っていると思料したい。 こうして大和王朝になる。この時よりの日本を、それまでの「縄文日本」と識別する為に「弥生日本」(「新日本」)と命名できようが、「縄文日本」の時代が既に弥生時代なので、「縄文日本」の呼称はあり得ても、「弥生日本」と云う表現は適切を欠くように思われるので使用しない。「新日本」も同様に後世は常に「新日本」になるので使いづらい。よって、これよりは初期大和王朝御代、奈良朝御代、平安朝御代云々で良いと思う。 問題は、この「大和王朝」の呼称の不思議性である。何故に漢字で「大和」と書くのか。何故にこれを「ヤマト」と訓読みするのか。この問題に対する正面からの然るべき考察を知らない。これに、れんだいこが挑む。れんだいこ史観によれば、「大和」は正に的確に付与された当て字訳と読む。即ち、出雲王朝を国譲りさせ、邪馬台国を滅亡させる渦中は、記紀神話に記されている如くの苦心惨憺たる茨の道の建国となった。それまでの為政者であった出雲王朝派、邪馬台国派の能力が高く、その権威が強靭で、抵抗が止まなかった。両者疲弊の色が濃くなり妥協するしかなくなった。双方徹底抗戦派はあったものの、それぞれの主流派が最終的に大同団結和睦の道を択び新王朝を創出した。この過程を総括して最も的確であろう言葉として「大和」を案出し、新王朝名に充てたのではなかろうか。 それだけではない。「大和」の読みは、漢音であろうが訓読みであろうが「ヤマト」とは読めない。それを「ヤマト」と訓読みすることを諒とした。これにも叡智が働いている。即ち、大同団結和睦の時の約定で、新王朝が前政権の邪馬台国の国名を継承し、漢字で「大和」と書いて「ヤマト」と読むことを諒とした。即ち、新政権は、前任統治者の国名を排除して新しい国名を案出して新国家声明するのが世界史的通例のところ、前任統治者の国名を継承し、そのことで政権の連綿性、正統性を付与する道を選択した。 それは、前任国家の出雲王朝、続く邪馬台国の治世能力、文化伝統能力が高かった為と考えられる。国名としての「大和」、その読みとしての「ヤマト」にはこういう裏歴史事情がある。天照大御神の継承も同様と思われる。天照大御神は外来外航族の祖神ではなく元々「縄文日本」の祖神にして最高神であり、国名同様に権威を継承し利用したものと思われる。 これらの一部始終が「大払い祝詞」(おおはらいのりと)に詠われており代々受け継がれて今日に至っている。これこそが日本国体憲法である。続く憲法が明治維新の際に発布された「五箇条のご誓文」である。「大払いの祝詞」、「五箇条のご誓文」軽視すべからずの理の所以がここにあり、日本国憲法論を論議する際には必須のもの足りえている。これに照らして見れば、近時の憲法改正論の中身が何と空疎なことか。 別章【大祓いのりと考】 (kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/ noritoco/noritoco.htm) もとへ。大和王朝建国時に日本史の特異性、不思議がある。要するに、外来外航種族が「縄文日本」征服の為に来襲したものの、ワンサイド支配にはならず、旧王朝との大同団結和睦によって辛うじて王権を簒奪することができたと云う珍事が記録されている。和睦であるから当然、旧王朝派の取り込みが特徴となる。これにより旧王朝御代の言語、政治宗教としての神道、礼儀作法、生活習慣、風俗等々がそのまま横滑りで受容されることになった。これが皇統譜の連綿性に関わっており、前王朝と新王朝が継続した道を遺したと云う意味で、これに従う限り万世一系は真実と云うことになる。とはいえ、新王朝は、以降、外来派と旧王朝派の協調と確執を繰り返しながら悲喜劇の歴史を綿々とさせて行くことになる。この辺りは記紀その他史書の記す通りのところである。 件(くだん)の機動隊員は、日本史のこの香気を嗅いで匂うべきである。どうせ上官からご都合主義的なアンチョコ歴史を教えられ、その気にさせられているだけのことだろうから、今からでも遅くない本当の日本史を学び直せ。どこでどう学べばよいのか分からないだろうから言っておくが、れんだいこサイトを何から何まで丹念に読めば良いオホンエヘン。ここまでをその2とする。 |
れんだいこのカンテラ時評№1291 投稿者:れんだいこ 投稿日:2016年10月23日 |
日本土着民考その3 我が日本史の特性をこう了解する時、大阪府警機動隊員の「土人発言」が如何に残薄なものであるのか透けて見えてこよう。「土人発言」は、国際ユダ邪派の「先進文明国史観」に導かれるとき侮蔑的に用いられるが、日本史の特性に照らすとき、「土人」は「土着民」と言い換えられ、さらに「縄文原日本人」ともなり、その優秀さ故に真逆な光芒を放つことになる。それが証拠に、現代日本に至る言語としての日本語、統治の仕組み、文化伝統、生活様式等々は、この「縄文日本」時代に創造生成されている。大和王朝以降、今日までの日本史は、外航派と「縄文日本」派が一方で相和し協力提携、他方で反発拮抗しながら高度な文明を築いてきたところに特徴がある。このことに思いを馳せねばなるまい。 こういう深層の真相の歴史を学ぶことが学びであり、かく学べば学ぶほど賢くなる。逆に「土人発言」に見られるような受け売りは脳死学問である。故に学べば学ぶほど脳が痴呆化する。最近はそういうインテリが多い。著作権網がこれに援交しており痴呆症肥大に一役買っている。今や日本支配体制を構成する政財官学報司警軍の八者機関の上層部はこういう連中の巣窟と化している。長年の秘密結社儀式活動の悪影響で精神と知能が破壊されている。件の機動隊員は、そういう連中によって仕掛けられている学問を鵜呑みにせず、「土人、シナ人」発言につき「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」などと下手な言い訳せずに、早くれんだいこ史観から学びユダ邪学の汚染から脱け出してくれんことを願う。 なお、いわゆる公人論に言及しておく。公務員は公けの為に資する義務と責任を負っているとすべきであるが、その公務員が、日本国民に対して、「土人、シナ人」呼び捨てにするのは聞き捨てならない。そうすると何か、お前は、国際ユダ邪に資する為に雇われていることを承知し、日本国民に対し「土人、シナ人」と呼び捨てにすることを当然と居直るつもりであるか。今や自衛隊と警察はそのように隊員教育し、隊員はそれを鵜呑みにしてしまっているのだろうか。東京の石原慎太郎、大阪の松井一郎ならともかくも、そこまで国際ユダ邪に丸め込まれて義理立てすることはあるまいに。 それはともかく東京維新の石原、大阪維新の松井がこれほど国際ユダ邪盲従であることを思えば、明治維新なるものの国際ユダ邪盲従性をも吟味すべきではなかろうか。即ち、国際ユダ邪が対日政治に容喙するとき、「維新」なる用語を専らにする癖があるのではなかろうか。こういう用語が使われ始めたとき、我々は背後に国際ユダ邪の暗躍を認めるべきではなかろうか。この呪縛から抜け出す叡智を創造せねばなるまい。 ところで、この際、沖縄戦争の際の沖縄人の自決死につき言及しておく。大東亜戦争末期の沖縄戦争の際、多くの沖縄人の自決が刻印されているが、これを上官の命令による強制死として告発する正義運動がある。仮にそうであるのなら、その上官告発、その上官をして自決命令せしめた当時の軍部の責任告発をすべきであろう。但し、それだけでは片付かない問題があるように思われる。あれは縄文魂的自決であり、飛び込みの面があったような気がしないでもない。もとより手前は生き延び部下には自決を命令した上官が居ないとは思わないので検証して行くべきだろう。但し逆の例もあるとしたい。特攻隊の自決も同様のもので縄文魂の為せる敢闘だったのではなかろうか。この辺り、歴史を複眼的総合的に解析、理解せねばならぬのではなかろうか。 沖縄戦争を語るとき、専ら強制自決か自主自決かを論議することにのみ没頭するのは片手落ちである。本来は、沖縄戦争が如何に有能に「縄文日本」的に戦い、その結果として焼殺、焦土にされてしまったのか。この時の戦いぶりが本土決戦に向かう流れにおいて、連合国側に「ノーモアウォー」気分を醸成させた。そういう沖縄戦争の悲劇と敢闘ぶりを検証することの方が主となるべきであり、その一コマとして自決問題を語るのが筋ではなかろうか。 戦後日本が靖国神社に参拝するのも良い。戦死者の御霊がそこに祀られている以上は参拝するのが公務であり為政者は参拝すべきと考える。但し祀られる御霊の公平性を促したい。もう一つ、国際ユダ邪の指図に従い再度戦争に向かうのは言語道断と考える。不戦の誓いとして参拝すべきと考える。なお、沖縄戦争被害者の御霊にも手を合わすべきであろう。広島、長崎の被爆者の御霊にも、全国各都市の空爆被害者の御霊にも。そういうことを要求しない戦後民主主義論のあぁ如何に残薄なことか。政府高官の靖国神社参拝の政治的利用が如何に許し難きことか。そういう井戸中歴史観から出藍し本来の歴史論を創出してみたい。 |
「地球最古の人類は、原初日本人」その他参照。転載元「日本と地球の命運 」
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2010年11月18日「日本の原住民(1)」、「日本の原住民(2)」、「日本の原住民(3)」。
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(私論.私見)