伝承の公共性

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「伝承の公共性」をものしておく。

 2015.12.11日 れんだいこ拝


 2023.6.1日、「日本全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」」。
 日本列島を旅し、「庶民の歴史」を聞き集めて、一様ではない「日本」のあり方を追究し続けた民俗学者・宮本常一とは何者だったのか。 民俗学者・畑中章宏氏による新刊『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が話題だ。宮本のフィールドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのかを見てみよう。
※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 伝承の公共性──「よい老人」とは誰か
 伝承が急速に消えつつある時代に、宮本のフィールドワークはどのようなものであったのだろう。フィールドワークを可能にするには、まずできるだけ「よい老人」に会ってみることが大切であるという。そういう人たちは祖先から受けついできた知識に私見を加えない。なぜならその知識を「公」のものと考えているからである。年の若い人たちは私見が加わって、議論が多くなり、一個の意見としては通用するものの伝承資料としてはとりがたい。とくに村の封建性を非難することなどは、世相としての価値は認められても伝承的価値は乏しい。逆に、そうした知識をもった人物であれば、自分の過失や欠点についても、語り伝えなければならないことには私見を加えなかった。こうした老人の話が本物であるか、また古風なものであるかを見きわめる手がかりに、話者の語り口調がある。まったくの散文になりきっていれば、新しい粉飾が加わっているだろう。しかしよい話にはやや抑揚があり、かつそこに話の流れが見られるのである。民俗学は、現在の位置に立って過去をふりかえってみる学問で、現在が基準になるとされている。しかし、話者の話のなかにできるだけ多くの過去の伝承が正確に存在することが必要である。宮本が採集にあたって、できるだけ80歳以上の老人を対象に選んだのは、明治維新の変革を境にして、その前と後とではどれほどの差があったかを見たいと思い、さらに藩政時代の諸制度が、民間にどのように影響していたかを知りたいためだった。また、幕末生まれの老人と明治時代に生まれた人とのあいだには、民間伝承の保有量において明らかに差があった。話す態度が端然としていること、私見を加えないこと、そのうえもっている知識を後世に伝えたいとする情熱など、話を聞いていて胸を打たれることが多かったという。つぎによい話者は、明治時代における変遷をよく知っているような人で、若いときは村に住んでいたが、青壮年時代は他郷を歩きまわった、「世間師」などといわれるもののなかに多い。彼らには自他の生活の比較があり、知識も整理されている。ひとつの村だけに長く住みついていると、ほかからやってきた事柄に対して、無関心にすごしている場合が多い。よい伝承者から話を聞くと、聞くほうに聞くことがなくても話がとぎれることはなく、相手が質問以外のことを話していても、内容のだいたいは理解できる。それと同時にこちらの聞きたいことばかりでなく、相手が話したいことを話してもらうことになる。すると、自分が聞きたいことは聞き出せずに世間話で終わってしまうことも多くなる。宮本はそういう点で、自分は「聞き下手」なのかもしれないという。宮本が「聞き下手」なら、「聞き上手」はだれなのか問い返したくもなるが、話を聞くということの相互性が一筋縄でいくものでないことを、宮本は具体的に説明してくれている。
 文字を知らない住人たち
 宮本は大阪・高麗橋郵便局に勤めはじめた1924(大正13)年に局に近い釣鐘町(現・大阪市中央区)にある長屋の一間に間借りした。この長屋は12軒で一つのグループを作っていたが、住人たちは老人が多く、ほとんど字を知らなかった。30代でも字を知らない人がいたのだ。宮本はその事実に驚いたが、まもなくこの人びとの代筆をするようになり、また手紙を読んであげた。そういう人たちの男女関係は複雑なものが多く、宮本は恋文の代筆をしただけではなく、女性たちから身の上相談を受けた。女性は30歳前後、宮本は18歳のときである。宮本にとってこれまでこんなに困ったことはなかったが、実に多くのことを教えられたという。この長屋の人たちに悪い人はいなかったが、みな気が弱く、気が小さかった。人の邪魔にならないように生きているのだが、袋小路に追いつめられて、新しい世界をきり拓くことを知らない。宮本にとってこのときの体験が、その後多くの人に接し、また話を聞くうえで大変役に立った。長屋の人びとの生きざまは宮本の心に深く刻まれ、「都市」の生活に関心を持つようになったのもこのときの体験によるものだったという。

 また同じ頃、大阪の大きな橋の下には「乞食」の集落があり、筵(むしろ)で小屋掛けをして大勢の人びとが住んでいた(『山に生きる人びと』では橋の下の住民を「サンカ」とみなしている)。そのうちで最も大きな集落は、淀川に架かる長柄橋の下にあり、都島橋の下にも何十組もの家族が暮らす小屋があった。 宮本は大阪の街を歩いているうちにそうした人びとに出会い、話をする機会を持ったのだが、宮本はその人たちのことを不潔とも無知とも思わなかった。なかには身体障害者、病気をもった者、精神障害者もいて、町の片隅に吹きだまりのようになって生活していたのである。宮本はそうした現実に義憤をおぼえるより、そこにまた一つの秩序があり、それなりに生きている姿にいろいろのことを考えさせられたのである。その半ばうつろな眼をしているけれども、そういう人たちを内包している社会が、政治社会の外側に存在していた。その人たちの生活を向上させる方法はないものか。慈善事業としてではなく、自分たちで立ちあがっていくような道はないものかと考えたのである。




(私論.私見)