児玉誉士夫の履歴(プロフィール) |
(最新見直し2006.9.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【児玉誉士夫(こだま よしお、1911年2月18日 - 1984年1月17日)の履歴】 |
日本の右翼運動家、黒幕。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。「右翼の大物」であったことは史実であるが、その実態は「利権商業右翼」であり、米国CIAに篭絡された売国右翼であった。 |
1911(明治44).2.18〜1984.1.17日。福島県安達郡本宮町に生まれた。没落士族(旧二本松藩士)の家に生まれた、と云われている。 1918年、上京。朝鮮で苦学した後、内地で放浪。十五年、向島の鉄工所に見習工として勤務。労働組合活動に走るが、争議でなぜ「われらの祖国ソビエト!」と叫ぶのか違和感を抱き、次第に右翼に傾斜。 1929(昭和4)年、憲法学者上杉慎吉博士主宰の建国会に入る。右翼活動を開始する。当時、頭山満の「玄洋社」、内田良平の「国竜会」などの右翼組織があったが、児玉は天皇中心主義をスローガンに掲げる建国会を選ぶ。本部は東京・三河島。幹部に赤尾敏らがいた。 同年11月3日、天皇直訴事件で懲役6ヶ月の入獄。1931年、津久井龍雄主宰の「急進愛国党」に移籍。大川周明の全日本愛国者共同闘争協議会に参加。蔵相井上準之助に短刀を送り懲役5ヶ月(井上準之助蔵相脅迫事件)。 1932年2月、釈放。その後満洲に渡る。笠木良明の大雄峯会に入る。帰国後、8月に独立青年社を結成。頭山満の三男・頭山秀三が主宰する天行会とくみ陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こし皇道派のクーデターを誘発しようと計画。発覚し、逃亡中に自殺未遂。検挙され、内大臣・宮内大臣暗殺未遂事件等で起訴され、懲役3年6ヶ月の実刑に服す。 1937(昭和12)年、出獄。その後、笹川良一が結成した右翼団体・国粋大衆党(後の国粋同盟)に参加。 外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国行きを勧められて中国に渡る。 1938年、日中戦争始まる。1939(昭和14)年、河相の斡旋で外務省情報部嘱託となり、上海を拠点に情報活動に従事する。陸軍参謀本部より汪兆銘の重慶脱出支援を依頼されるが果たせず。参謀本部、外務省の嘱託となり汪兆銘政権樹立のために動く。 1941(昭和16)年、開戦直前、国粋党総裁・笹川良一の推薦で海軍航空本部嘱託となり、海軍航空本部大西中将の依頼を受け、軍需物資調達のための児玉機関を上海に作る。これをきっかけに黒幕へのし上がっていく。後に児玉の片腕となる岡村吾一も児玉機関の幹部の一人であった。児玉機関は海軍向けの銅、潤滑油、雲母、プラチナ等の軍需物資を海軍へ渡していた。 「児玉機関」は最盛時2000人を擁した。右翼団体・大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった吉田彦太郎や岩田幸雄、藤吉男、許斐氏利ら右翼の無法者がそろった。 1942.4.30日、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に立候補し、落選。 |
1945年8月、終戦時には児玉機関を通じて莫大な資金(ダイヤ.プラチナ等を上海から持ち帰り、時の金額で約200億円、現在の額で7兆円)を得ていたといわれている。「現在価格で7兆円以上という隠匿物資は、戦後日本の政治家の操作に使われた」。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣された時、東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっている。 、自由党結成などに資金提供している。以降、黒幕に位置することになる。東久迩内閣参与(顧問)。内閣総辞職で解任。 12月、A級戦犯指定で占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に入獄。この巣鴨には、 笹川良一、岸信介もいた。「児玉は、巣鴨プリズンで尋問された際、CIAの前身の情報機関(OSS)にタングステンを提供している。これを国防総省に売却したCIAはその資金を対日工作の秘密資金にあてた」と云われている。笹川良一も同様。 1948.12月末、釈放。隠匿物資と機密情報の提供を条件に釈放されたと云われている。2007.3.12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除公開され、「1948年末、釈放された児玉はCIAに協力するようになった」と記されていることが明らかになった。それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。 この収容期間中に通訳として知り合ったのが、後にロッキード社の日本向け広報業務を請け負い、児玉とロッキード社との仲介役を果たすことになるジャパン・パブリック・リレーションズ社の社長で、日系二世の福田太郎。 その後、CIA配下のエージェントとして、反共活動に向けてのヤクザとGHQ・政治家のフィクサーとしての活動を開始する。1950年、自由党結成に暗躍する。巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもあった辻嘉六に勧められて、鳩山ブランドの自由党の結党資金として提供した、と云われている。 同年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込む。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築く。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たした。 1954年、河野を総理大臣にする画策に力を貸す。 1955年、保守合同による自民党結成に暗躍し、資金面で支援する。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。 以後、新立川航空株買い占め事件、東洋精糖株買い占め事件、第1次FX選定問題、吹原産業事件、ジャパンライン株買い占め事件などのスキャンダルに関与する。 児玉は、岸と大野らとの政権移譲の「密約」に立ち会っている。1958年からロッキード社の秘密代理人として軍用機などの日本への売り込みの便宜を図っていたことが今日明らかになっている。 1959.1.16日、日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸首相は、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をする。児玉が立会人を務める。河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。 同年、右翼団体・全日本愛国者団体会議(全愛会議)顧問。同団体には、天野辰夫や橘孝三郎、小沼正、佐郷屋留雄、笹川良一、三浦義一らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。 1960年、60年安保闘争では岸首相の要請を受け、「左翼対策」のために右翼や仁侠を集め「右翼の親玉」的地位を見せ付ける。鶴政会(現・稲川会)の稲川角二、住吉一家(現・住吉会)の磧上義光らが応じ、山口組の田岡一雄は静観した。 1961年、全愛会議内に児玉に忠実な活動グループとして青年思想研究会(青思会)を結成する。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。1960年代終わり、青思会を全愛会から脱退させる。新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。 1962年夏、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと「東亜同友会」の結成を試み、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付ける。1963年、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と東声会・町井久之会長との兄弟盃(田岡一雄組長を兄とする)を実現させる。(ただ、東亜同友会は結成されることはなかった) 1965年、日韓条約締結の背後でも暗躍した。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いた。児玉は、この頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕と満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。 対韓経済援助リベート問題、インドネシア賠償リベート問題など、対外スキャンダルにも黒幕として関わったといわれる。 他にもインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。 岸首相の汚職を追及していた社会党の今澄勇を等々力の児玉の私邸に二度も呼び、児玉は岸の追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。悪事を書き立てる正論新聞を黙らせるため、巽産業株式会社代表取締役石井唯博(後の稲川会会長石井進)を送り込んだこともあった。 1976.2月、ロッキード事件が発覚。一連の政界スキャンダル問題に関与したことが明らかにされた。同社から巨額の対日工作資金を受け取ったとして脱税と外国為替管理法違反で起訴された。児玉はP3C軍用機の購入にも暗躍しており、児玉が受け取った報酬は23億円と推定される。「田中角栄が受け取ったと『される』5億円の4倍以上だった」ことになる。 1977.2.16日、衆議院予算委員会は、事件関係者としてアメリカで名前があがった、田中角栄の刎頸の友であった国際興業社長小佐野賢治、全日空社長若狭得治、副社長渡辺尚次、丸紅社長檜山広(ひやまひろ)を証人喚問。病床にあった児玉は病院で尋問(臨床取調べ)される。 |
(私論.私見)