別章【本居宣長考】 |
(最新見直し2012.09.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、平田篤胤を考察しておく。 2012.06.21日 れんだいこ拝 |
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目録
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参考文献 |
(私論.私見)
本居宣長は、「古事記伝」で神について次のように記している。
「さて凡てカミとは、古(いにしえ)の御典(みふみ)に見えたる天地(あめつち)の諸々の神たちを始めて、その祀れる社(やしろ)に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらに云わず、鳥獣木草の類、海山など、その他何にまれ、世の常ならずすぐれたる徳のありて、かしこき物をカミとは云うなり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの怪しきものなども、よにすぐれてかしこきをば、神と云うなり」。 |
本居宣長は、享保十五年(一七三○)~享和一年(一八○一)に生きた国学者で、 松坂の木綿問屋・小津三四右衛門定利の次男として生まれた。
父・定利は豪商で江戸日本橋に出店をかまえるほどだったが、家運、次第に傾いて 、宣長十一歳の年、定利は病死。義兄が家運再興を期すも果たせず、宣長自身、他商 家に養子にいったりもしたが、これも離縁となって実家にもどっている。 ほどなく、義兄も亡くなり、宣長は家業をたたんで整理すると、宝暦二年(一七五 二年)二二歳で京都に上り、儒学者・堀景山(ほりけいざん)に入門する。 京都では、漢学・漢方医学・薬学を修める。景山のすすめで「万葉集」注釈に生涯 をささげた、国学の先駆けで仏門出身の契沖の書を読み、復古的な古典研究に目覚め る。 五年後、二七歳のとき、松坂にもどって小児科医を開業。同時に、やはり徹底した 「万葉集」研究から、儒仏を排した日本古来の根源精神を提唱した国学者・賀茂真淵 (かものまぶち)に入門。 三三歳になってから、大著『古事記伝』の執筆にとりかかり、三五年後の寛政一○ 年に脱稿している。 その間、それこそ「五七部」におよぶ著作をものしたが、中でも『紫文要領』『直毘霊』、紀州藩主・徳川貞治の下問に答えて献じた著書『玉くしげ』などが、代表作 として知られている。 まず、「神ながら」の意味については、こう書いてある。 「神の道にしたがうとは、(天皇が)天下を治められるにあたって、ただ神代から伝 わるままに、いささかも人知のさかしらを加えることが無いのをいう。そのように、 神代のままに、おおらかにお治めになるので、自然に神の道は働き、それ以外を求め る必要がない。そのことを、『おのずから神の道はあり』というのである。 それで、天皇が現人神として日本を統治するというのも、代々の天皇の統治が、そ のまま神の統治であることを意味している。『万葉集』の歌などにも、神ながら云々 というのがあるけれど、それも同じ意味である。(日本を)神国と外国人がいうのも 、なるほどうなずける話である」 「外国では、もとより定まった統治者のお血筋というものがないので、普通の平民も (機会さえあれば)たちまち王となり、王として生まれても(同様に)平民となって 滅亡したりする。昔からのありようである。そんなわけで、国を奪おうとたくらんで 、奪い損ねた者を『賊』として卑しめ憎み、国を奪えた者をば、『聖人』と呼んで、 尊び仰ぐようである。だから、いわゆる『聖人』も実は、『賊』のたくらみをうまく 為し得た者にすぎない。 (それにひきかえ)言葉にするのもおそれ多い、わが国の天皇(すめらみこと)は、 そのような賎しい出自でも平気な外国の王たちと、同じではいらっしゃらない。この 御国をお生みになられたイザナギの命が、御自ら、お授けになられた皇統であらせら れる。それなので、日本の創世より、皇統がお治めになられる大いなる御国と決まっ ているので、皇祖神・天照大神の神勅にも、『もし天皇の統治が悪い場合は、天皇と してお仕え申し上げなくとも良い』などというようなことは、記されてはいない。だ から、天皇御本人の善し悪しについて、はたよりうかがって、おはかり申し上げたり することはできない。 天地の有る限り、太陽と月が空から照らす限り、何万代を経ようとも、動ずること のない大いなる天皇の御位なのである・・・」 さかしらに人知によって、「道」をことあげするゆえに、支那では、もっともらし い聖人だの、道だのが、ことこまかに書物に記されており、あたかもすばらしい文物 であるように見えるが、実のところはそうではない。 日本の古学を学ぶものは、よく心を落ちつけて、それらの正体を見極めて、まどわ されないようにするべきだ。なぜならば、日本では古来、「道」という言葉さえなか ったけれど、事実としては「道」がちゃんと行われてきた。だから、むしろ支那では 「道」がすたれたがゆえに、「道」を喧伝せざるをえなくなって、それをことあるご とに継承しているのだ・・・・。 |