国学史考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).12.9日

【国学の動き】
 この頃の「みき」に影響を与えたベクトルその5として、「国学の流れ」を確認しておく。国学はその学問的系譜からみれば、その当初より在野的な研究として発展している。徳川幕府は、体制維持の理論的支柱として儒学を、その儒学の中でも特に朱子学を官学化し、これに権威を与え学問的統制をしていた。幕府のこうした学問政策によれば国学は傍流に位置する、いわば在野的な日陰者であった。但し、日陰者の気安さであろうか、逆に闊達に研究が進められていった。徳川幕府は学問の自律に対して規制せず、むしろ史学は必要と認める愛智的見地から推奨していた気配が認められる。次第に日本の国體()を明らかにする方向に向ったが、この流れは初期の段階では特段に徳川幕府の治政と齟齬しなかったように思われる。

 国学では、儒教のみならず仏教までを含めて外来思想とし、それとは別種の日本古来の伝統的思想、精神、民俗の解明、即ち儒教、仏教の精神性に汚染される前の古来の日本人が保持していた「大らかで雅な感情、心性を見直そうとする学問」を生み出して行った。この流れが、黒船来航以降の西欧思想の浸透と衝突して行くようになる。

 国学的営為には、遠回しの体制批判的な意味合いが込められていた。その種の学問として国学を認識することができる。その国学は漸次発展し、記紀神話的な段階から、更にそれを突き抜けて古史古伝的な出雲王朝世界への深淵を覗こうとし始めていた。この過程で復古精神、復古神道、王政復古思想を生み出し、それが幕末の社会情勢の中で倒幕イデオロギーの下地となり、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。理の当然であったといえる


 こうした国学の影響をここで取り上げる意義は、国学の精神が、当時のみきの精神にも相応な影響を及ぼしたものと窺うことができることにある。既に述べたところであるが、「みき」の父半七は、国学の泰斗本居宣長と同時代人であるばかりか、宣長の居住した伊勢松阪と地理的にも近く、読書好きであった半七に、宣長の学問的成果が伝えられていたことが容易に想像される。この当時、本居宣長の学問的な営みが大和まで伝わるのに時間差は殆どなかったものと考えられる。丁度、本居宣長が精力的に取り組んでいた「古事記伝」全44巻執筆の年代は、父半七の働き盛りの時代と符号しており、読書家であった半七の目にも留まっていたと考える方が自然である。宣長は、「敷島の やまと心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」と詠い、天竺、唐心に汚染される前の、古来日本の「明るく素直で清らかな大和心」の見直しに向かっていた。ここに本居史学の学問的業績が見られるが、こうした影響が半七に伝わり、そうした半七の気分が、「みき」の幼き心に対しても刻印を為したことを窺うことは穿ち過ぎであろうか。

 特に、記紀神話に於ける神々の「国産み譚」、「国譲り譚」、「二ギハヤヒ王権譚」、「天孫降臨譚」、「神武東征譚」等々の日本の神代の言い伝えについて、「みき」の耳に寝物語的に届けられたことがなかったであろうか。なお神代の言い伝えについては、大和神社、大神神社、石上神宮等の縁起も一考に値する。詳細は省くとして、古くよりの大和人には、記紀神話的「高天原王朝譚」とは別の、これこそ「実の神、元の神」とする出雲王朝系譜の神話が伝承されており、「みき」の幼少期の精神に与えた原風景として注目されるところである。立教の後半期に、「みき」は、に「元の理」(「泥海古記」)を語ることになるが、「この世の元始まり」という認識を持たしめた淵源としての、記紀神話よりなお古い出雲王朝系譜神話を称揚する。そういう地勢的時代的影響が考えられるのではなかろうか。「みき」には、こうした古代大和の地の精神風土と人々のものの考え方、口伝、歴史観に対する深い洞察力が備わっていたものと拝察される
このような意味での国学の精神が、この当時の「みき」に影響を与え続けていたことが拝察し得るように思われる。

【国学の系譜考、国学四大人うし考】
 暫く、国学の流れを追うこととする。江戸時代も元禄、享保の頃になると、こうした神、儒、仏の混肴した「神道」界の流れの中から、我が国固有の「神道」とは何かを問う動きも出始めた。一部の国学者の間から、仏教や儒教の伝来する以前の純粋な「神道」に立ち返ろうとする機運が盛り上がった。これが「復古神道」と呼ばれるものである。この範疇に入る代表的な「神道」家として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の、いわゆる「国学四大人うし」である。中でも、本居宣長、平田篤胤の「復古神道」の確立に果たした役割は大きかった。復古「神道」は、幕末期において、尊皇攘夷論に影響を与え、倒す幕府の指導原理ともなり、旺盛復古を実現させた。さらに威信語も、国家「神道」として、その精神的理論的中枢に据えられ、結果的に国粋主義を助長させることとなった。
 国学は、下河部長流(1624~86)、契沖(1640~1701)らによる歌学の革新に源流を持つ。その意図するところは、儒学や仏教の立場から古典を道徳的教訓的に注釈するのではなく、当時の心そのものを読み味わうべきであるという主張にあった。
 下河部長流(1624~86)
 契沖(1640~1701)
 契沖は1640年、摂津(尼崎市)に生まれ、代々が僧侶の家柄により、彼も高野山に入り真言宗の道を歩みながら古典学研究を始めた。7世紀から10世紀にかけて編まれた日本の古典は、長く続いた武家政治の期間注目されることなく寺院、神社に古書として扱われていた。このような状態を認識した契沖は古書を一つ一つ集めて研究をした末「伊勢物語」、「源氏物語」の注釈を初めて行い、「万葉集」を研究して字句の精密な考証によりこの時代の人々に読みやすい研究書「万葉代匠記」を著わして古典の研究にすぐれた成果をもたらした。契沖は古典を集め最初に研究した学者であり、彼の研究成果により後世における古典学研究への道が開かれ、彼は国学の開拓者と呼ばれるようになった。彼の影響で荷田春満や賀茂真淵など国学の巨星たちが登場した。
 荷田春満(1669~1736)
 この精神を受け継いだのが荷田春満(1669~1736)である。京都伏見の稲荷神社の神職の嫡子として生まれ、契沖の古典学の影響を受けて神道の教理と思想を究めた。古語に精通し、正確な古典研究により、上代における我が国固有の道を詳らかにするという「復古神道」を指針させた。歌学にとどまらず古典全般において、幕府の官学的立場を占める儒学に対するものとして日本固有の精神を対置させ、「古事記」、「日本書紀」など古典古語の研究を通じて国学を振興すべきことを説いた。神仏集合説に基づいたそれまでの「神道」や、東征に流行していた神儒一致論を嘆き、儒教で説かれるところのみが人の道ではない、「神道」も又人の踏み行うべき道であるとして、神祇道徳を唱えた。
 賀茂真淵(1697~1769)
 その研究は、もと遠江浜松の神職に血筋を持つ春満の門人賀茂真淵(1697~1769)に受け継がれていくこととなった。真淵は、京都の荷田春満の門下となってその教えを学ぶと、やがて江戸へ出て、自ら国学を教えつつ、「復古神道」を唱えた。真淵の著作は、冠辞考、万葉考、国意考をはじめ、祝詞のりと考、延喜式祝詞解等多数ある。真淵は、特に「万葉集」の研究に向かい、万葉集研究の大家として知られる。真淵が、万葉集その他古典研究に没頭したのは、日本の古語に通じることによって、古い義務を明らかにすることで、古い道の何たるかを知るという、荷田春満の「復古神道」を継承した為であった。著書「万葉考」の中で古代人の“高く直き心”を称え、「いにしへにかえる」ことを強調し、「上つ代の道をあきらかにせん」とした。そして、もともと我が国には、いにしへの道が広く栄え、ますますの興隆をみせんとしていたが、儒教の渡来によってそれが妨げられ、真の神道の本質がわからなくなってしまったと説き、神儒一致論者をことごとく批判した。「国意考」では、日本人の古代精神に関心を見せ、古道の究明に努めた。真淵は、日本人の古代精神を、儒教.仏教の影響を受ける前の清浄純正な古代の生活の中にあり、形式主義的な儒教道徳に束縛されない、おおらかで自然な心であるとした。
 本居宣長(1730~1801)
 こうした真淵の主張するところに感銘を受け、真淵の下に弟子入りしたのが、伊勢松阪の木綿問屋に生まれ、小児科医を業としていた本居宣長(1730~1801)である。真淵の研究成果は宣長に受け継がれ大成されていくこととなった。宣長は、特に「源氏物語」を研究して、日本人の心性としての“もののあはれ”を称揚し、儒教的な道徳論からの文学の開放及び人間感情を素直に肯定する清新な文学論をうちだした。

 更に持統天皇の時代に編纂された日本の代表的古典である「古事記」を重視し、その半生をかけて取組み、「古事記伝」全48巻(寛政10年、1798)を著した。「古事記伝」は古典文献学の集大成とも云えるものとなった。宣長の古事記研究で確認すべきは、何故に日本書紀ではなく古事記の研究に向かったのかであろう。この問いに対する宣長論が為されているのだろうか。れんだいこ眼力によると、宣長は、日本書紀は大和朝廷の正統性を訴求する狙いで記述され過ぎており、つまり大和朝廷以前の出雲王朝系譜の故事来歴を窺うには不向きであった。それ故に、大和朝廷以前の日本に既に形成されていた原日本の在り姿を知る為に古事記の研究に向かったものと拝察される。但し、宣長国学は、古事記重視の立場から没頭するあまりに古事記の枠から出でず、古史古伝各史書の検証には向かわなかった点で平田篤胤のそれと異なる。

 宣長は他にも直毘霊(なおびのみたま)、玉鉾百種、玉くしげ、玉勝間、大祓詞後釈(おおはらいのことばごしゃく)、答問録など60冊以上もの著作を世に送り出した。その研究成果から、漢意(からごころ)を排斥し、儒学が全盛を極めた当時の学会や思想界を批判した。漢意という先入観を取り除いて、純粋な日本精神に立ち返り、日本の古典を学び極めれば、「世にすぐれたるまことの道」(玉勝間)としての本当の神の道が見えて来るとしたのである。こうして、自然のままの生活を尊ぶ古代の人々の精神面に賛辞を送り続けるところとなった。

 2013.5.10日 れんだいこ拝
 平田篤胤(1776~1843)
 宣長の没後、平田篤胤(1776~1843)が登場し、国学を「復古神道」の域まで押し進める役割を担った。篤胤は、秋田の佐竹藩士の子に生まれで、江戸で学ぶうち宣長没後の門人を自称する身となった。篤胤は、宣長の古事記神話的神道説の垣根を取り払い、古事記より前の神道を伝えているとされる旧事記的神道、或いは更に遡り古史古伝的神道まで探索して行った。篤胤の特徴は、師と違いと云うかいや増してイデオロギッシュな側面を持ち、神道思想を深化させて行ったところにある。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、俗神道大意で、当時の「既成神道」、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝で、神代文字に関する研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる国学の精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教え、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、篤胤の博学は当時の古今東西のあらゆる学問に及んだ。その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤の「神道」論の特色は、徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で次のように記している。
 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 平田教説は、天保期の神職、村役人級の上層農民、代官級の上級武士の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。国学が幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。その根は深く、明治維新後にも影響を及ぼし、天皇制イデオロギーにも加担していくこととなった。平田篤胤の門下からは、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士が輩出している。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。

 れんだいこ眼力によれば、平田史学の惜しむべきは、「原日本新日本論」を獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」の道へと分け入り過ぎたところであろう。これは時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。本来は、平田史学を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めることであったであろう。ところが、平田史学の後継者はこぞって平田史学の負の面の方の皇国史観の継承で事足りてしまった。それは平田史学の換骨奪胎に近い。

 2013.5.10日 れんだいこ拝

【国学、復古神道のその後】
 明治新政府は、「文明開化」の名の下での開放政策のもと西洋の思想や文化を積極的に取り入れて行った。他方で、政治基盤を固める為に「神道」を最大限に利用して行くことになった。そもそも三百年の間、政権を握って天下を支配した、権力の座にある幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することのできたのは、各地に蜂起した勤皇の志士逹の活動によるのであるが、彼らの行動理念として、力強く彼らを駆り立てたものは、一部国学者が唱え始めた復古思想であった。従って、皇政復古という大目的が達せられ、新政府が樹立するや、復古思想は時代を風靡する支配勢力となり、天皇親政は、祭政一致、政教一致へと進み、政治も、宗教も、教育も一切を、わが国固有の神ながらの道にのっとってやることになり、その神ながらの道も、一切の夾雑物を交えない、純粋なものが要求されるようになった。かくては多年、その神ながらの道と習合して、大きな影響を与えてきた儒教、仏教をはじめ、その他一切の外来思想は、徹底的にせん除せよという、極端な方向に走っていった。

 明治政府の「神ながらの道の皇国史観的神道化」は、神ながらの政治を行い、神道を国教として民心を指導し、かつ国民教育をやろうとする大方針を定めていたものの、細則までが確立したのは明治7年に至ってであった。この期間、「諸事一新」に力を入れた明治政府が西欧的学問、制度を吸収することに追われ、日本固有の宗教信仰などの指導監督に充分な力を注ぐほどの余力がなかったことによる。漸く明治7年になって、末端の宗教信仰や行事などを取り締まる細則ができ上がった。

 祭政一致の天皇制国家が唱導され、全国の神社は天王家の祖神、天照大神を祭神とする伊勢神宮を筆頭とする傘下に治められて行った。「神道」と仏教の強制的な分離政策が施行され、廃仏毀釈運動が起った。異端宗教は排撃の対象となり、神社は、国民の意識を束ねる精神的統合の象徴として利用された。逆に正オア的なキリスト教は解禁されて行った。明治政府の宗教政策は、新たな「神道」体制を構築した。これがいわゆる「国家神道」とよばれるものである。「国家神道」とは、いわば支配者の都合の良いように改造された皇国史観宗教であった。

 こうした潮流の中で、日本列島各地に、一種の神霊的な異変が起り始めた。真の「神道」を甦らそうとする胎動であった。政府の宗教政策に起因するものであった。勢いの赴くところ、お道教理は明治維新政府による統制的な「神ながらの道」と対立することになった。しかし、お道の信仰者には主として百姓や職人が多く、明治新政府の動向に対しては無知な人たちばかりであったから官憲の動きなど知る由もなかった。お道弾圧の気配が濃厚になった。

【「頼山陽」考】
 頼山陽(1781.1.21-1832.10.16(安永9.12.27-天保3.9.23)も国学系譜の人物とみなせるように思われるので、ここで確認しておく。「ウィキペディア(Wikipedia)頼山陽」は次のようにガイドしている。
 頼 山陽(らい さんよう)は大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。
 「関 袈裟夫」氏の2017年12月9日付け「頼山陽/考」転戴参照。
 早や年の瀬。年の暮にそぐ「頼山陽」作歳暮詩「舟發大垣赴桑名」が思い出される。江戸幕末期に雄健なる文筆で、幕末志士を奮起せしめ明治維新へ大きな刺激を与えた史家・漢詩人「頼山陽」の人となりを記す。
 「舟發大垣赴桑名」  頼 山陽
蘇水遙遙入海流 蘇水遙遙として海に入りて流る
櫓声雁語帯郷愁
櫓声(ろせい)雁語 郷愁を帯ぶ
獨在天涯年欲暮
獨天涯にありて年暮れんと欲す
一篷風雪下濃州 一篷の風雪 濃州を下る
 この詩は、1813年10月、美濃など各地に遊び12月20日に帰京する折、木曽川を下り大垣から船で桑名に赴く時に、江馬細香(下記)との失恋の痛手と故郷・父母を偲んで作った詩。因みに大垣は、芭蕉「奥の細道」終焉の地でもある。
  〈補記〉
○篷(ホウ)=葦簀の覆いをかけた小舟。一篷は一艘のとま舟をいう。
○ 天涯=故郷から極めて遠いところ
○濃州=美濃国(岐阜県)
起句  王之喚「登鵲鸛楼」~"黄河海に入りて流る"を借用か。  ゆったり流れる木曽川の様子通し、詩自体を雄大にしている。
承句  船を漕ぐ櫓音や雁の鳴き声に郷愁を興趣。
転句  「独り天涯に在りて」について(「江馬細香」について付言)  山陽は大垣で大垣藩医で蘭学塾開塾・江馬蘭斎の娘で漢詩人にして画家である「江馬細香」(えまさいこう)という女性に初めて会い、ひと目惚れし結婚を申込んだ。山陽の良からぬ性行(既婚ながら性癖不行跡故、山陽は離縁沙汰中にあった)により、細香の父・蘭斎から細香との結婚は断られ傷心から、山陽に「天崖独りありて」と詠わせしめた心境。山陽破談となるも、細香は山陽を師として慕い山陽門下生として交流・交情、独身を通した。山陽死後、山陽遺稿を編纂・発行した。
結句  年の暮、雪まじりの伊吹下しの風に吹き飛ばされそうになり小舟で木曽川を下る情景は、気持ちも冷え切っている様子を表現している。最後の「濃州を下る」は、李白詩「峨眉山月歌」句中の「君を思えども見えず渝州に下る」を下敷きに、”君(細香)を思えども叶わぬまま空しく濃州を下っている”という頼山陽の心情を表現している。
 頼山陽は芸州藩儒臣朱子学派頼春水の長子。1780年大阪生まれ。国史研鑚に勉み帰藩するも放埓な生活で義絶幽閉され、その間「日本外史22巻」著す。赦されて著述に当り史論家、漢詩人として名を為す。著書「日本外史」は日本叙事史で30万部(当時の人口は3000万人)の大ベストセラーで、史論「日本政記」と共に雄健なる文筆は、幕末志士を奮起せしめ、明治維新の原動力にもなった。




(私論.私見)