平田篤胤の思想考 |
(最新見直し2013.12.08日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、平田篤胤の思想を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。「備中處士の平田篤胤大人遺文」が貴重な原文開示をしており、これを転載して学ぶことにする。その他を参照する。 2013.12.08日 れんだいこ拝 |
【平田篤胤の思想考】 | |
宣長の没後、平田篤胤(1776~1843)が登場し、国学を「復古神道」の域まで押し進める役割を担った。篤胤は、秋田の佐竹藩士の子に生まれで、江戸で学ぶうち宣長没後の門人を自称する身となった。篤胤は、宣長の古事記神話的神道説の垣根を取り払い、古事記より前の神道を伝えているとされる旧事記的神道、或いは更に遡り古史古伝的神道まで探索して行った。篤胤の特徴は、師と違いと云うかいや増してイデオロギッシュな側面を持ち、神道思想を深化させて行ったところにある。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、俗神道大意で、当時の「既成神道」、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝で、神代文字に関する研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる国学の精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教え、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、篤胤の博学は当時の古今東西のあらゆる学問に及んだ。その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤の「神道」論の特色は、徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で次のように記している。
平田教説は、天保期の神職、村役人級の上層農民、代官級の上級武士の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。国学が幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。その根は深く、明治維新後にも影響を及ぼし、天皇制イデオロギーにも加担していくこととなった。平田篤胤の門下からは、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士が輩出している。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。 れんだいこ眼力によれば、平田史学の惜しむべきは、「原日本新日本論」を獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」の道へと分け入り過ぎたところであろう。これは時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。本来は、平田史学を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めることであったであろう。ところが、平田史学の後継者はこぞって平田史学の負の面の方の皇国史観の継承で事足りてしまった。 2013.5.10日 れんだいこ拝 |
【篤胤の「異聞」考】 | ||
篤胤は、「仙境異聞」、「鬼神新論」、「本教外篇」、「古今妖魅考」、「勝五郎再生記聞」、「霧島山幽境真語」、「稲生物怪録」、「幽顕弁」などの一連の異界探究の論考を著している。 「稲生物怪録」は、広島県の三次での妖怪に襲われた青年の妖怪退治の話しを記し、天狗の字義、形状等についての詳密なる考証を中心に、その本質に論究し、一部慢心の仏徒が天狗魔縁の道に堕する過程を明らかにして、日本人は本来の正道たる神道信仰を守るべき理を説く。 「仙境異聞」は、上の巻は三巻で下の巻が二巻の全五巻ものになっている。この中に天狗に浚われて異世界を見たと称する少年の話である「仙童寅吉物語」、「神童憑談畧記」、「七生舞の記」を記している。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧する事を許されなかった極秘本といわれていた。次のように記されている。
次のように解説されている。
「勝五郎再生記聞」は、武州多摩郡中野村の百姓の次男勝五郎の再生談を篤胤自身が取材した記録で、前世の記憶があるという少年の話を記している。 「幽境真語」は、霧島山で明礬採集に従事する者が仙郷におもむき、女仙に仕えた物語を八代知紀が採録したもの。巻末に尾張の三浦千春が採録した遠州秋葉の神界に関する記録が収録されている。 鬼神新論は、儒教の鬼神論を退け、惟神の大道の見地から日本における神の実在を強調した論考。 |
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【篤胤の「和暦論」考】 | |
「天朝無窮暦」では日本には神代に独自な暦があったとしてそれを「考察」「復元」している。篤胤には、暦学や年代学関連の少なからぬ著作がある。いくつか題名を列挙しただけでも、『春秋命歴序考』(1833年)、『三暦由来記』、『太吴古暦伝』、『弘仁暦運記考』、『天朝無窮暦』(1837年)などがある。平田は古今の文献を博捜し、古代日本に確固たる暦法が存在していたことを執拗なまでに証明しようとしていた。『天朝無窮暦』の附録がある。1831年頃、平田は屋代弘賢(1758~1841)を通じて天文方の山路氏などに『天朝無窮暦』に対する見解を問い尋ねていた模様である。その応答がこの附録の中に書翰として書き記されている。彼の博識ぶりが遺憾なく発揮され、中国の古典的天文学ばかりではなく、ヨーロッパの天文学についても踏み込んだ理解をしている様子が行間から読み取れる。結論は日本古代の暦法の存在証明へと収束していく。内容が分からないが次のように評されている。
1840年、「天朝無窮暦」で幕府の司天家と論争している。 「神字日文伝」では同様にして漢字伝来以前の日本独自の文字を「復元」している。 更にインドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものであるとか、「天柱五岳余論」では中国の道教経典に見られる神仙の山々は崑崙が日本にあるのを中心としてオノゴロ島・トルコ・ユストル群島・カリフォルニアに分布しているなどと述べている。 神代に日本独自の度量衡があったともしている。 |
【篤胤の「民俗学」考】 | |
民間伝承にも研究対象として目を向けフィールドワーク・体験談の聞き取りを行ったことにより近代民俗学に影響を与えるなど功績も小さくはない。篤胤は極めて実証主義的なやりかたを徹底している。伝承を集め、その伝承者の健康状態を調べ、何年にも亘って記録を取り矛盾のないことを確認している。上田正昭氏は座談会「新国学談」で次のように述べている。
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【篤胤の「天の石笛発見」考】 | ||||||||||||
「『天石笛之記』が描く平田篤胤-ある国学者の資料蒐集-」を参照する。
宮内嘉長・石上鑒道作『天石笛之記』(文化十三)は、国学者平田篤胤(安永五~天保十四)がはじめ「真菅之屋」であった屋号を「気吹廼家」(「気吹舎」「伊吹舎」などとも)に変えた由来ともなった奇石「天の石笛」を発見した時の事情を、同行した弟子の二人が記したものである。次のように記されている。
田原嗣郎『人物叢書 平田篤胤』は、石笛のことにはふれていないが、それを採取した旅が行われた文化十三年について次のように記している。
この年が篤胤の活動が大きく発展した時期であるとしている。享和三年の最初の著作『呵妄書』以後、門人らへの講義録も含めた書を発表しつづけていた篤胤は、この頃、机の肘にあたる部分に穴をあけて網を張り、つき通しの肘が痛まないようにしたという没頭ぶりで、後年の彼の学問の根底をなす霊魂と幽冥の問題を追求した『霊の真柱』を文化九年に発行、服部中庸の『三大考』について本居大平と論戦して鈴屋門下を刺激し、生涯にわたる著作となる『古史伝』執筆も始めるなど、その学問は急速な成熟期にあった。だが一方で文化九年には愛妻が病死、同十一年には自らが大病にかかり、石笛を拾得した数か月後の文化十三年九月には次男も病死するといった不幸も続く。貧窮に苦しむ家庭の様子は、しばしば引用される伴信友宛の書簡などにも詳しい。 書の内容は次の通りである。冒頭に「師の大人の『天ノ磐笛を得たまへる故よしを、知たるまにくかきしるして見せよ』とのたまへるによりて、かき記し見せ奉るふみ」とあって、作者二人の署名が並んでいる。 本文は、文化十三年の五月十一日、篤胤が老翁渡辺之望(注7)とともに鹿島香取に参詣の帰途、銚子に立ち寄るとの知らせを受けた、弟子たちの喜びから始まっている。
十三日の早朝、篤胤は鑒通に猿田神社と玉ケ崎神社に参詣したい由を伝え、嘉長と鑒通は、渡辺之望と供の常蔵と四人で篤胤に従った。まず、猿田神社に赴く。参拝を終えてあたりを見めぐっていたところ、神社の後ろに白く晒された獣骨があった。篤胤は非常に興味を示して手に取るが、作者たちは不浄のものに師が触れたことに驚愕と嫌悪を禁じえない。篤胤はこれが古代をしのぶ貴重な品であることを教え、夢のお告げでこの神社に参詣したのに対して神が与えてくれたのだと述べる。その後、篤胤は神主に会って、このあたりの肉食の習慣について聞くが、神主もまた嘉長たちと同様に、肉食についての拒否反応を示し、そのような汚らわしい習慣はないと強く否定した。獣骨のあったことをますます不審に思いながら、一同は神社を後にする。 申の時過ぎに玉ケ崎神社に着いた。参拝後、門前のかぶらき屋といふ宿に一行は宿泊する。ここで、鑒通の家に昔仕えていた、この土地のことに詳しい源六という男を呼んで、篤胤はさまざまな質問をした。それに対して源六が語った、この神社の由来や、霊木の松のことなどが詳しく記されている。源六は更に、この近くの妙見神社と玉ケ崎神社の関係について述べ、また海岸に多くの石が流れ着く「寄り石」という不思議な現象について語った。興味を感じたのであろう、翌朝一行は妙見神社に参詣し、寄り石を見る。流れ着く石の中に、時々、穴があいていて吹けば音が出る石があって神社に供えてあるという。たしかに拝殿に、そのような石が十五六個あり、吹くとほら貝のような音がした。 源六と別れて帰途に着く頃から雨が降り出した。雨具の用意もないままにぬれそぼって小浜村に着いた一行は、そこの八幡宮の前の粗末な家で、稲俵(稲で作った俵)を貰って篤胤に着せて雨をしのぐ。八幡宮の鳥居の前で遙拝して、社のかたわらの坂を下ろうとした時、鑒通は神社の背後に近道があったようだと思いつく。
意地になった二人は、木々に笠や着物を引き裂かれながら、しゃにむに坂をすべり下りて大道に出る。まもなく之望が道を下りて来たが篤胤の姿は見えない。聞けば、神社に参拝しておられて、従者の常蔵もついているからと思って、自分は先に下りて来たと言う。しばらく木陰で待っていたが、いつまでたっても篤胤は来ず、とうとう二人が迎えに行くと、着ている俵の中で笑顔を見せながら道を下りて来る篤胤に会った。
二十町ばかりも来た頃に我慢できなくなって、また聞くと篤胤は「こは古き伝への書に天磐笛といへる物」と、詳しく石の由来を説明した。篤胤は更に語る。
悩んでいる篤胤の中で、また何者かが、「昨日得た鹿の肩骨で占って見ればよい、火がなければ水を使うとよい」と語りかけてきたようだった。それに従って篤胤は肩骨を取り出し、「もしこれが雨に濡れなければ、石を賜るということだ」と拝んで目をあけると、骨はまったく濡れていない。
神の許しは得たものの、人間にも了解を得ようとする篤胤は、しかし、これに続く別当の僧とのやりとりでは必ずしもすべてを正直に語って石を得るのではない。奉納されている他の石とは比較にならぬ名石であることを明確に告げないまま、信心のために石を一つ持ち帰らせてくれと頼み、けげんな顔をして渋る僧を、明白な嘘はつかないようにしながらも慎重に熱心に説得する。
篤胤の話に一同は驚き、篤胤の見た夢も、二人が道をまちがったことも、鹿の肩骨を得たことも、すべてはこの石を得させようという八幡神の配慮であったことを、あらためて思いやる。村から離れてもう大丈夫だろうと、篤胤に頼んで吹いてもらった笛の音はすばらしいものであった。
一行の小旅行はこうして終わったが、紀行はまだ続いている。その夜、集まった弟子たちの前で篤胤は石笛を吹いて見せ、以後も朝の神拝のたびごとに吹き鳴らした。篤胤が吹き慣れるにしたがって、音色はますます美しく神々しくなっていった。そして五月十八日、篤胤は弟子たちに別れを惜しまれながら銚子を出立して江戸へと帰って行く。石笛は丁寧に荷造りして篤胤より先に江戸へ着くように送ってあったのだが、その年の十月に嘉長が江戸に篤胤を訪ねると、石笛を見せられた。常蔵が転んだ時についた傷を何とか直してほしいと、毎朝、八幡神社にお参りしていたところ、深いひびがいつか浅くなって、ほとんど目にとまらなくなったということで、見るとその通りだった。翌年の二月に鑒通が訪れた時には、傷は更にめだたなくなっていた。そして、篤胤から「このふえを得つることの趣は、そこと嘉長がいとよく知れ丶ば、国に帰りてのちいとまあらむとき、二人してそのあらましをかき記しおきてよ」との依頼を受けたという。末尾には、玉ケ崎神社の霊木の松の由来と絵図が付される。もとは一枚摺の縁起であったものを写したとの注記がある。
門人著書類の翻刻に、天石笛之記は次のように記されている。
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【平田篤胤大人遺文】 | |||||
備中處士の「平田篤胤大人遺文」より。内容が濃そうなので、ひとまず転載しておく。追々に読ませてもらい咀嚼しておこうと思う。 | |||||
『仙境異聞』に、「寅吉(仙童。高山嘉津間)、余(大壑平田篤胤先生)が面を熟々く見て打笑みつゝ有りけるが、思ひ放てる状にて、『あなたは神樣なり』と、再三いふ」と。『印度藏志の序』に、「印度に唯摩居士、支那に東坡居士、東華に大壑居士」と。碧川好尚翁『童蒙入學門の跋』(天保二年九月)に、「學師大壑先聖」と。 山田孝雄博士の曰く、「全國神職の一半の支配者たる白川家は、文化五年(七月)より、他の一半の支配者たる吉田家は、文政六年(十二月)より、いずれも篤胤の古學神道を採用せるによりて、こゝにわが神職は、文政六年を以て、一統して古學神道を奉ずることゝはなりしなり。‥‥この文政六年を以て、神道の維新時代のはじめとすると共に、この文政六年を以て、佛教渡來以後、陵夷の運に向ひたりし神道の復活と認むるものなり。實にこの年は、わが神道が一千年以來の積弊より覺醒せし、記憶すべき年なりとす」と。 |
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藤田東湖は、平田篤胤を次のように評している。
かく評しつつ、烈公に推擧の由を述べている。 『天津祝詞考』。「掛まくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓ひ給ひし時に、生(あ)れ坐せる祓戸大神等、今日仕へ奉る神職等(かむつかさら)が過ち犯せる罪穢れ有らむをば、祓へ給ひ清め給へと申す事を聞し食せと、恐み恐みも白」。 篤胤は、『古史傳』の九の卷の三十枚の裏に次のように記している。
『直毘靈』・『古事記傳』で判明する本居史学の神道考は哲学的な意味での善惡二元論に傾斜している。本居神道はまだ純正の神道になつてゐない。篤胤の『古史傳』、『古史成文』で判明する平田史学の神道考は、『古事記』・『日本書紀』を綜合して書いてある。「これに伊邪那岐大神、興言曰(ことあげ)したまひ、『上つ瀬は、瀬急(はや)し。下つ瀬は、瀬弱し』とて、初めて中つ瀬に墮(お)り、かづきて滌(みそぎ)したまふ時に、大禍津日神[亦た八十枉津日神と云ふ。亦た天之麻我都比神と云ふ]を吹き生(な)したまふ」。 註に、この神の御名の意義とその御名の出所とを次のように説いている。
更にその下に再度の註を入れ次のように記している。
平田史学の神道は、本居史学の神道に比して、平田史学に至つて初めて神道が神道になつたと云える観がある。神道の神髓といふものをつかんでいるように思われる。『靈の眞柱』、その前の『鬼神新論』に既に平田史学神道が披瀝されている。しかし『鬼神新論』の時分には、この考へは十分に熟して居ない。『靈の眞柱』に至ると大分進んで參るけれども、『古史傳』よりはまだ少し足らない所がある。『古史傳』に至ると明白に示されて居る。今、神道を論ずる人は、西洋の宗教學を学んで神道論を述べているが神道の真髄を理解していない。神道には世界中にない祓といふ思想がある。これは荒御魂の發動の一つの姿である。吾々の體から穢れが祓はれる原理がこゝにある。本居流解釋では何時まで經つても祓の可能といふことは起つて參らない。平田の神道に至つて初めて祓の可能といふことの説明がつく。 |
【平田翁最後の御目的】 | ||||
「平田翁最後の御目的」を転載しておく。
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【廿五部秘書(にじゅうごぶひしょ)】 |
廿五部秘書(にじゅうごぶひしょ)は、平田宗家の内書。 平田宗家の蔵書には内書と外 書とがあり、一般の者の目に曝しても良いものと、門外不出のものとに分けていた。更に
平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして、口移し、口授、口伝、一子相伝として極一部の選ばれた者達に、他見他伝厳禁の誓約を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられた。これらの秘書類には、天文・歴術関係のものも含まれているが、大半は道家の玄学書であった。 1940年、国文学者の山田孝雄が自著『平田篤胤』の中で廿五部秘書の書名を公開している。それによると、太暤暦旋式 一軸、天象古説図 一軸、古暦日歩式 二十巻、古暦月歩式 十二巻、終古冬至格 三巻、古今交蝕囲範 三十六巻附総論一巻、天朝無窮暦・前編 六巻、天朝無窮暦・後編 十二巻、古今日契暦 初編二編 凡五百巻、武学本論 三巻、玄学得門編 五巻、神僊教化編 五巻、神僊方術編 五巻、神僊方薬編 五巻、神僊服餌編 五巻、神僊行気編 三巻、神僊導引編 二巻、神僊採補編 二巻、玄学月令編 五巻、家礼徴古編 五巻、太一循甲古義 二巻、五嶽真形図説 三巻、名家方函類編 十巻、密教修事部類 十巻、仙境異聞附勝五郎再生記聞 五巻。 |
(私論.私見)