平田篤胤の思想考

 (最新見直し2013.12.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の思想を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。「備中處士の平田篤胤大人遺文」が貴重な原文開示をしており、これを転載して学ぶことにする。その他を参照する。

 2013.12.08日 れんだいこ拝


平田篤胤の思想考
 宣長の没後、平田篤胤(1776~1843)が登場し、国学を「復古神道」の域まで押し進める役割を担った。篤胤は、秋田の佐竹藩士の子に生まれで、江戸で学ぶうち宣長没後の門人を自称する身となった。篤胤は、宣長の古事記神話的神道説の垣根を取り払い、古事記より前の神道を伝えているとされる旧事記的神道、或いは更に遡り古史古伝的神道まで探索して行った。篤胤の特徴は、師と違いと云うかいや増してイデオロギッシュな側面を持ち、神道思想を深化させて行ったところにある。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、俗神道大意で、当時の「既成神道」、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝で、神代文字に関する研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる国学の精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教え、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、篤胤の博学は当時の古今東西のあらゆる学問に及んだ。その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤の「神道」論の特色は、徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で次のように記している。
 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 平田教説は、天保期の神職、村役人級の上層農民、代官級の上級武士の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。国学が幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。その根は深く、明治維新後にも影響を及ぼし、天皇制イデオロギーにも加担していくこととなった。平田篤胤の門下からは、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士が輩出している。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。

 れんだいこ眼力によれば、平田史学の惜しむべきは、「原日本新日本論」を獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」の道へと分け入り過ぎたところであろう。これは時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。本来は、平田史学を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めることであったであろう。ところが、平田史学の後継者はこぞって平田史学の負の面の方の皇国史観の継承で事足りてしまった。

 2013.5.10日 れんだいこ拝

【篤胤の「異聞」考】
 篤胤は、「仙境異聞」、「鬼神新論」、「本教外篇」、「古今妖魅考」、「勝五郎再生記聞」、「霧島山幽境真語」、「稲生物怪録」、「幽顕弁」などの一連の異界探究の論考を著している。

 「稲生物怪録」は、広島県の三次での妖怪に襲われた青年の妖怪退治の話しを記し、天狗の字義、形状等についての詳密なる考証を中心に、その本質に論究し、一部慢心の仏徒が天狗魔縁の道に堕する過程を明らかにして、日本人は本来の正道たる神道信仰を守るべき理を説く。

 「仙境異聞」は、上の巻は三巻で下の巻が二巻の全五巻ものになっている。この中に天狗に浚われて異世界を見たと称する少年の話である「仙童寅吉物語」、「神童憑談畧記」、「七生舞の記」を記している。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧する事を許されなかった極秘本といわれていた。次のように記されている。
 「これは吾が同門に、石井篤任と云う者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我が古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れどこれは容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず」。

 次のように解説されている。
 「以前から異境や隠れ里の存在に興味を抱いていた篤胤は、寅吉に邂逅し異界について聞くことにより、幽冥の存在を確証するに到った。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。山神の図は現在東京代々木の平田神社宗家に大切に保管され、滋賀県大津の近江神宮では山神祭として定例の日に祭られている」。

 「勝五郎再生記聞」は、武州多摩郡中野村の百姓の次男勝五郎の再生談を篤胤自身が取材した記録で、前世の記憶があるという少年の話を記している。

 「幽境真語」は、霧島山で明礬採集に従事する者が仙郷におもむき、女仙に仕えた物語を八代知紀が採録したもの。巻末に尾張の三浦千春が採録した遠州秋葉の神界に関する記録が収録されている。

 鬼神新論は、儒教の鬼神論を退け、惟神の大道の見地から日本における神の実在を強調した論考。

【篤胤の「和暦論」考】
 「天朝無窮暦」では日本には神代に独自な暦があったとしてそれを「考察」「復元」している。篤胤には、暦学や年代学関連の少なからぬ著作がある。いくつか題名を列挙しただけでも、『春秋命歴序考』(1833年)、『三暦由来記』、『太吴古暦伝』、『弘仁暦運記考』、『天朝無窮暦』(1837年)などがある。平田は古今の文献を博捜し、古代日本に確固たる暦法が存在していたことを執拗なまでに証明しようとしていた。『天朝無窮暦』の附録がある。1831年頃、平田は屋代弘賢(1758~1841)を通じて天文方の山路氏などに『天朝無窮暦』に対する見解を問い尋ねていた模様である。その応答がこの附録の中に書翰として書き記されている。彼の博識ぶりが遺憾なく発揮され、中国の古典的天文学ばかりではなく、ヨーロッパの天文学についても踏み込んだ理解をしている様子が行間から読み取れる。結論は日本古代の暦法の存在証明へと収束していく。内容が分からないが次のように評されている。
 「具体的には、当時古くから使われてきた暦がずれてきて使い物にならなくなってきたのに対して西洋のグレゴリウス暦に基づいた「天朝無窮暦」を出版したことを咎められたのである。篤胤は政治的には何もしていないが、日本の文化発祥の原点に立ち返って民衆を教導していたことが江戸幕府にとっては脅威と感じられたのである。」。

 1840年、「天朝無窮暦」で幕府の司天家と論争している。

 「神字日文伝」では同様にして漢字伝来以前の日本独自の文字を「復元」している。

 更にインドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものであるとか、「天柱五岳余論」では中国の道教経典に見られる神仙の山々は崑崙が日本にあるのを中心としてオノゴロ島・トルコ・ユストル群島・カリフォルニアに分布しているなどと述べている。

 神代に日本独自の度量衡があったともしている。

【篤胤の「民俗学」考】
 民間伝承にも研究対象として目を向けフィールドワーク・体験談の聞き取りを行ったことにより近代民俗学に影響を与えるなど功績も小さくはない。篤胤は極めて実証主義的なやりかたを徹底している。伝承を集め、その伝承者の健康状態を調べ、何年にも亘って記録を取り矛盾のないことを確認している。上田正昭氏は座談会「新国学談」で次のように述べている。
 「平田篤胤という人は国粋主義者という一面のみがクローズアップされてきたが、実は、折口信夫は彼を民俗学者としての草分け的存在だとまで高く評価していますよ」。

【篤胤の「天の石笛発見」考】
 「『天石笛之記』が描く平田篤胤-ある国学者の資料蒐集-」を参照する。
 
 宮内嘉長・石上鑒道作『天石笛之記』(文化十三)は、国学者平田篤胤(安永五~天保十四)がはじめ「真菅之屋」であった屋号を「気吹廼家」(「気吹舎」「伊吹舎」などとも)に変えた由来ともなった奇石「天の石笛」を発見した時の事情を、同行した弟子の二人が記したものである。次のように記されている。

 「これより先き、常陸に赴きて鹿嶋香取の諸宮に詣し、途にして天の石笛を得「其名をば著く(ママ)いはふゑの音を大空に挙げむとそ思ふ」の詠あり、因て自ら号して伊吹乃屋と曰ふ、蓋し宇宙にする所の大気を吸して、天下に狭霧なす妖気を一掃せんとするにあり、翁が当年の意気卓犖にして天下を挙げて悉く敬神界裏に陶冶せんと試みられたる雄図は左の一篇に於て之を見るべし」 (村井良八『平田篤胤翁伝』 明治二五)。

 これより先き、文化十三年の四月、篤胤常総に遊びて、鹿島、香取の諸社を拝するや途にして天然の石笛を得たり。即ち、 その名をば著くもいはぶゑの
音を大空にあげむとぞおもふと咏じ、『眞菅廼舎』の家号を改めて『気吹廼舎』と号しぬ。今や琅々たる石笛の声は、端なく九重の天にまで響き、同時にまた紛々たる毀誉一身に集まる」(丸島敬『平田篤胤言行録』 明治四一) 。

 「この年(文化十三年)も大いに著述にはげんだ。四月始めて、鹿嶋、香取、息栖の三社に参詣した。この参詣の途次下位浜村の八幡宮で天之岩笛を拾得した。この岩笛は火山活動の作用か何かによって生ずるものらしいのであるが、当時は之を神秘化することが多かったらしい。これによって篤胤は『岩笛の記』を作り、「真菅乃屋」を改めて気吹廼家とし、自分の名を「大角」と改めたりしたが、この大角の名は、時の人からは、役ノ小角を凌がんとする号であろうなど後言をうけることにもなった」(伊藤裕『大壑平田篤胤伝』 昭和四八 錦正社刊)。

 田原嗣郎『人物叢書 平田篤胤』は、石笛のことにはふれていないが、それを採取した旅が行われた文化十三年について次のように記している。
 「また同じ一三年に家号を「気吹舎(いぶきのや)」(「伊吹之屋」)と改め、自分も大角と改称したこと、この年のうちに八七人という大量の入門者があって門人数が一六六人に達したことなどを考えあわせると、この年が「気吹舎」の発展にとってモニュメンタルな意味をもつ、といってよいであろう」。

 この年が篤胤の活動が大きく発展した時期であるとしている。享和三年の最初の著作『呵妄書』以後、門人らへの講義録も含めた書を発表しつづけていた篤胤は、この頃、机の肘にあたる部分に穴をあけて網を張り、つき通しの肘が痛まないようにしたという没頭ぶりで、後年の彼の学問の根底をなす霊魂と幽冥の問題を追求した『霊の真柱』を文化九年に発行、服部中庸の『三大考』について本居大平と論戦して鈴屋門下を刺激し、生涯にわたる著作となる『古史伝』執筆も始めるなど、その学問は急速な成熟期にあった。だが一方で文化九年には愛妻が病死、同十一年には自らが大病にかかり、石笛を拾得した数か月後の文化十三年九月には次男も病死するといった不幸も続く。貧窮に苦しむ家庭の様子は、しばしば引用される伴信友宛の書簡などにも詳しい。

 書の内容は次の通りである。冒頭に「師の大人の『天ノ磐笛を得たまへる故よしを、知たるまにくかきしるして見せよ』とのたまへるによりて、かき記し見せ奉るふみ」とあって、作者二人の署名が並んでいる。 本文は、文化十三年の五月十一日、篤胤が老翁渡辺之望(注7)とともに鹿島香取に参詣の帰途、銚子に立ち寄るとの知らせを受けた、弟子たちの喜びから始まっている。
 「『いま船より上り給ひつ』と、とも人していひおこせ給ふに、うれしなど云うばかりなく、御教え子たちにその由いひふれて、共に御むかひに参り、鑒通が家にと丶め参らせて、わが里なる御教え子のかぎり、五十人ばかりつどひ、夜昼といはず御教え言うけ給はり、腹ぬちにたくはへたる疑どもをも問いまつり、仕へ奉る」。

 十三日の早朝、篤胤は鑒通に猿田神社と玉ケ崎神社に参詣したい由を伝え、嘉長と鑒通は、渡辺之望と供の常蔵と四人で篤胤に従った。まず、猿田神社に赴く。参拝を終えてあたりを見めぐっていたところ、神社の後ろに白く晒された獣骨があった。篤胤は非常に興味を示して手に取るが、作者たちは不浄のものに師が触れたことに驚愕と嫌悪を禁じえない。篤胤はこれが古代をしのぶ貴重な品であることを教え、夢のお告げでこの神社に参詣したのに対して神が与えてくれたのだと述べる。その後、篤胤は神主に会って、このあたりの肉食の習慣について聞くが、神主もまた嘉長たちと同様に、肉食についての拒否反応を示し、そのような汚らわしい習慣はないと強く否定した。獣骨のあったことをますます不審に思いながら、一同は神社を後にする。

 申の時過ぎに玉ケ崎神社に着いた。参拝後、門前のかぶらき屋といふ宿に一行は宿泊する。ここで、鑒通の家に昔仕えていた、この土地のことに詳しい源六という男を呼んで、篤胤はさまざまな質問をした。それに対して源六が語った、この神社の由来や、霊木の松のことなどが詳しく記されている。源六は更に、この近くの妙見神社と玉ケ崎神社の関係について述べ、また海岸に多くの石が流れ着く「寄り石」という不思議な現象について語った。興味を感じたのであろう、翌朝一行は妙見神社に参詣し、寄り石を見る。流れ着く石の中に、時々、穴があいていて吹けば音が出る石があって神社に供えてあるという。たしかに拝殿に、そのような石が十五六個あり、吹くとほら貝のような音がした。  

 源六と別れて帰途に着く頃から雨が降り出した。雨具の用意もないままにぬれそぼって小浜村に着いた一行は、そこの八幡宮の前の粗末な家で、稲俵(稲で作った俵)を貰って篤胤に着せて雨をしのぐ。八幡宮の鳥居の前で遙拝して、社のかたわらの坂を下ろうとした時、鑒通は神社の背後に近道があったようだと思いつく。
 「さて社の右なる坂を下らむとする時に、鑒通ふとおもひよりて、「此坂はことに道あしければ、社ノ地にいりて宮のうしろに道ありとおぼゆ。そこをとほりて行む」と云へば、嘉長も「しかおぼえたり。近さもちかし、いざ」といふに、大人ののたまはく「宮のうしろは見はるかすに、藪にして道ありとも思はれず。もし行あたりて道なからむには、いたづがはしければ、益なきわざぞ。わろくとも大道をこそ」とのたまふを、己等はそ丶ろに近道ありきとおもはれければ「こ丶の案内は二人がよく知り侍り。いざく」と、あながちにいざなひて、こ丶ろあての所に至りて見れば、あらぬひがおぼえなりき。大人も之望老翁も「それ見よ、道はなきものを」とにが笑ひして、之望のをぢは鳥居のかたへ帰らる丶。おのれら二人は大人の宮のまへに、をろがみ居たまふもしらで、負けをしみの心さへ立チそひて「道ありや」と尋ぬるに、人のから跡(乾跡。からと。動物などの通った跡)だもなし」。

 意地になった二人は、木々に笠や着物を引き裂かれながら、しゃにむに坂をすべり下りて大道に出る。まもなく之望が道を下りて来たが篤胤の姿は見えない。聞けば、神社に参拝しておられて、従者の常蔵もついているからと思って、自分は先に下りて来たと言う。しばらく木陰で待っていたが、いつまでたっても篤胤は来ず、とうとう二人が迎えに行くと、着ている俵の中で笑顔を見せながら道を下りて来る篤胤に会った。
 「大人はひたぬれにぬれて、大きなる石の土まみれなるをわきばさみたまへるが、いなだわらの中よりほころび出て見ゆ。いと嬉しげなる面もちして、あはた丶しく来たまへり。「その、もたまへるものは何にし給ふにか」と声高に問まつれば、「あなかま、しづまりてよ。こはいともたふときものなるよ。そのよしは行々語らむ。おもふ由あり。今半道ばかりはいそぎてよ」とのたまふに何事とは知らず、いぶかしみつ丶、みなくつれ立チていそぐ」。

 二十町ばかりも来た頃に我慢できなくなって、また聞くと篤胤は「こは古き伝への書に天磐笛といへる物」と、詳しく石の由来を説明した。篤胤は更に語る。
 「さきに、そこたちの宮のうしろにいりて道をたづぬるほど、おのれまた神の御前をおろがみ奉り、御戸のまへを見るに、彼ノほら貝石の三つ四つありしが、みなかの妙見ノ宮にある石のたぐひにて、めづらしげもなかりしを、宮のわきなる礎のかたはらに、土にまみれ草におほはれうづもれたる此笛に、一ト目めと丶まるとはや、むねうちと丶ろきて、「此ぞ天磐笛なる」と人の告知らするやうにおぼえければ、まづ取上ゲて吹ならし試ミたるに、その音のいともめでたく、かのほら貝石の音の似るべくもあらねば、「神に賜はりて持かへらばや」と思ふ心いで来て、かにかくに思ひめぐらせど、「神の社に納めたる物を、みだりにもちゆくべきにあらず」と思ひわづらへるを、(略)」。

 悩んでいる篤胤の中で、また何者かが、「昨日得た鹿の肩骨で占って見ればよい、火がなければ水を使うとよい」と語りかけてきたようだった。それに従って篤胤は肩骨を取り出し、「もしこれが雨に濡れなければ、石を賜るということだ」と拝んで目をあけると、骨はまったく濡れていない。

 「『かたじけなし』など云フばかりなく、よろこびを白してたまはらむとせしが、また思へるやう、「神の賜へることはうたがふべくも無れど、現世の人の『盗とりたり』と思ふべければ心よからず。神主にことわりてこそ」と思ひ、「その家はいづこならむ。もの云ひてこそゆかめ」と笛はもとの所にさしおきて、そこら見わたすに、右リの方のやぶごしに草屋ひとつありて人ありげに見ゆれば、「此なめり」と思へど、まことの道を行むにはいと遠ければ、うばらかきわけ真直にとほりて其家に至れば、戸をさしてあり。外より声高く「こ丶の八幡宮をもり奉る神主どの丶家はいづこにある」と問ふに、しはがれたる女の声にて「神主はなし。宮の左リに見ゆる寺なむ、御別当なり」と云にぞ、よろこび(謝辞)云ひすて丶、そこもまことの道は遠ければ半町ばかりも草かきわけて、その寺にいたり、あないして戸を明ケたるに、た丶みだに見えぬやれ寺に、ふる仏ひとつすゑて、六十ばかりの法師ひとりいろりのわきに、わらぐつ造りてあり」。

 神の許しは得たものの、人間にも了解を得ようとする篤胤は、しかし、これに続く別当の僧とのやりとりでは必ずしもすべてを正直に語って石を得るのではない。奉納されている他の石とは比較にならぬ名石であることを明確に告げないまま、信心のために石を一つ持ち帰らせてくれと頼み、けげんな顔をして渋る僧を、明白な嘘はつかないようにしながらも慎重に熱心に説得する。
 「『和尚さまは』と問へば「我こそ此ノ寺の住持にはあれ」と云ふに、語をねもごろにして「守し給ふ宮のまへに、穴あきたる石のこ丶ら(多数)あるが中を、一つ得させ給ひね。深く信心する事のあれば」といふに、少しまめ立チたるかほつきして「おまへがたはいづこの人ならむ。神のものを持ゆくといふことの有らむや。殊にあの大きなる石をいかにして持ゆかるべき」といふに「おらは江戸のものなれど銚子より船に乗りて帰れば、たとへ重くとも銚子までのことなり。初穂を奉らむ。あとにて御酒をそなへて、よく申て祭りしたまひてよ」といへば、「彼ノ石どもは村人の玉ケ崎の石を買ヒたる中にまじりたるを、むかしよりつぎくにをさめたるなれば、持ゆくを見たらむには、腹を立ツべし」といふ。「然もあらば着たるこもの下に引いれて行クべし。後に村の人にはよく申し給へ」といひて、常蔵にもたせたる七百文余りの銭をあるだけさし出し「此をもて御酒をそなへ、その石を納メたる人にも酒のませ給へ」と云へば、和尚すこしゑがほになりて、かしらをなでく「さあらば、ともかくも信心にまかせ給へ」と云ふを聞くと、直によろこび云ヒて寺をいで、もと来し藪に立チ入れば、戸口まで立出て「その藪には、ばらがあるぞ、心し給へ。さてもあの大きなる石を何せむとて江戸まで持帰るやらむ。けしからぬ人ぞ」など、いひつ丶あるを、き丶すて、もとの所にまゐり、またよろこびを白して笛を賜はり、常蔵がきたるいなだわらの下にもたせて、坂を下るほど、この男ひぢ(泥)にすべりて、しりつきたるとき、下なる石にうちあたりて、笛の口のかたはらにひ丶きめ付キたり。「あなかなし。またもや然ることの有ラむか」と、こ丶ろもとなくて、みづからに(自分で)もち来つるなり。すなはち常蔵がよく見聞たることなり」。

 篤胤の話に一同は驚き、篤胤の見た夢も、二人が道をまちがったことも、鹿の肩骨を得たことも、すべてはこの石を得させようという八幡神の配慮であったことを、あらためて思いやる。村から離れてもう大丈夫だろうと、篤胤に頼んで吹いてもらった笛の音はすばらしいものであった。
 「一里ばかり行キたるに雨もや丶ふりやみたり。「こ丶は彼ノ村に遠ければ、いざ一ふき吹てきかしめ給へ」と申せば、「今少し行クさきに見ゆる山峡にて吹キたらむには、殊に音よかるべし」とて、そこに至りてふろしきもて土をぬぐひ、穴の中なる土をもとりて、吹ならし給ふに、いとなり高く神々しくうるはしくも遠音に響き渡れる事、ほら貝の耳の底つき通す如きには又似もつかず。山彦にこたへと丶ろくおとは、はた丶神(雷神)に似たれど、うるはしくきこゆ。その音はらぬちにうるはしくひ丶きこたへて、心のむすぼ丶れたらむも、とみに解べきやうにおぼゆ。なほたへなる音色におぼゆることは詞にのべ難し。さて笛はふろしきにつ丶みて常蔵にせたりもたせて、たそがれの頃鑒通が家に帰りつき給ひぬ」。

 一行の小旅行はこうして終わったが、紀行はまだ続いている。その夜、集まった弟子たちの前で篤胤は石笛を吹いて見せ、以後も朝の神拝のたびごとに吹き鳴らした。篤胤が吹き慣れるにしたがって、音色はますます美しく神々しくなっていった。そして五月十八日、篤胤は弟子たちに別れを惜しまれながら銚子を出立して江戸へと帰って行く。石笛は丁寧に荷造りして篤胤より先に江戸へ着くように送ってあったのだが、その年の十月に嘉長が江戸に篤胤を訪ねると、石笛を見せられた。常蔵が転んだ時についた傷を何とか直してほしいと、毎朝、八幡神社にお参りしていたところ、深いひびがいつか浅くなって、ほとんど目にとまらなくなったということで、見るとその通りだった。翌年の二月に鑒通が訪れた時には、傷は更にめだたなくなっていた。そして、篤胤から「このふえを得つることの趣は、そこと嘉長がいとよく知れ丶ば、国に帰りてのちいとまあらむとき、二人してそのあらましをかき記しおきてよ」との依頼を受けたという。末尾には、玉ケ崎神社の霊木の松の由来と絵図が付される。もとは一枚摺の縁起であったものを写したとの注記がある。  

 門人著書類の翻刻に、天石笛之記は次のように記されている。
 石笛記 一巻 宮内嘉長
        石上鑒通
 こは去し文化十三年に、師ノ大人の、鹿島香取の二宮に参詣たまひし序に、銚子にものし給ふ時しも、石笛を得給へる事を記し、且此ノ物の由来をも、師説に依て記せり。 気吹ノ舎と号けられしは、この故なり。

【平田篤胤大人遺文】
 備中處士の「平田篤胤大人遺文」より。内容が濃そうなので、ひとまず転載しておく。追々に読ませてもらい咀嚼しておこうと思う。
 『仙境異聞』に、「寅吉(仙童。高山嘉津間)、余(大壑平田篤胤先生)が面を熟々く見て打笑みつゝ有りけるが、思ひ放てる状にて、『あなたは神樣なり』と、再三いふ」と。『印度藏志の序』に、「印度に唯摩居士、支那に東坡居士、東華に大壑居士」と。碧川好尚翁『童蒙入學門の跋』(天保二年九月)に、「學師大壑先聖」と。

 山田孝雄博士の曰く、「全國神職の一半の支配者たる白川家は、文化五年(七月)より、他の一半の支配者たる吉田家は、文政六年(十二月)より、いずれも篤胤の古學神道を採用せるによりて、こゝにわが神職は、文政六年を以て、一統して古學神道を奉ずることゝはなりしなり。‥‥この文政六年を以て、神道の維新時代のはじめとすると共に、この文政六年を以て、佛教渡來以後、陵夷の運に向ひたりし神道の復活と認むるものなり。實にこの年は、わが神道が一千年以來の積弊より覺醒せし、記憶すべき年なりとす」と。
 藤田東湖は、平田篤胤を次のように評している。
 「どうも奇怪千萬なことをいふ男で、これはどうしても治らぬ。しかし學問の廣いこと、精力の旺盛なことは、天下に稀なる男だ。惜しいかな、どうも怪しいことばかりいふやつだ」。
 「甚だ僻見怪説も少なからず候へども、厚く古學存入り候ふ段は、格別のものに之れ有り。史館御出入、仰せ付けられ、當人相當の御用、仰せ付けられ、御取捨御座候はゞ、私共取懸り居り候ふ神書取調べに付き候うても、足り合にも相成る可し」(水戸市教育會編輯『東湖書簡集』所收)。

 かく評しつつ、烈公に推擧の由を述べている。

 『天津祝詞考』。「掛まくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓ひ給ひし時に、生(あ)れ坐せる祓戸大神等、今日仕へ奉る神職等(かむつかさら)が過ち犯せる罪穢れ有らむをば、祓へ給ひ清め給へと申す事を聞し食せと、恐み恐みも白」。

 篤胤は、『古史傳』の九の卷の三十枚の裏に次のように記している。
 「總べて師(本居)の素戔鳴尊・禍津日神のことをいはれたる説共には、違へることぞ多かる」。

 『直毘靈』・『古事記傳』で判明する本居史学の神道考は哲学的な意味での善惡二元論に傾斜している。本居神道はまだ純正の神道になつてゐない。篤胤の『古史傳』、『古史成文』で判明する平田史学の神道考は、『古事記』・『日本書紀』を綜合して書いてある。「これに伊邪那岐大神、興言曰(ことあげ)したまひ、『上つ瀬は、瀬急(はや)し。下つ瀬は、瀬弱し』とて、初めて中つ瀬に墮(お)り、かづきて滌(みそぎ)したまふ時に、大禍津日神[亦た八十枉津日神と云ふ。亦た天之麻我都比神と云ふ]を吹き生(な)したまふ」。

 註に、この神の御名の意義とその御名の出所とを次のように説いている。
 「さて此の神は、伊邪那岐大神の、そのふれ坐せる夜見國の汚穢を、疾く祓ひ去らむと、太(いみ)じく所念(おもほ)し入り坐しゝ御靈に依りて、彼の穢れの大御體(おほみま)を、はらひ出る驗とて、最初にこの神の生れ坐せるなり」

 更にその下に再度の註を入れ次のように記している。
 「さるは、二柱の大神の、神たちを生し坐せる事實を、つらゝゝに察(み)奉るに、凡そその大御靈を、一偏(ひとへ)に所念し凝らし給ふ時に、神たちは生れ坐して、その生れ坐せる神々の、その事に靈幸ひ坐すなり。それを一つ二ついはゞ、國の狹霧を撥はむと、御心を凝らし結べば、風神を生れ坐し、火神の荒びを靜めむとては、水の神・土の神を生れまし、夜見國より荒びくる物を止めむと、塞へ給へる御杖、また千引磐に、塞の神たちの成り坐せるなどを以て、この理を曉るべし。これ等一偏に御靈を凝らし給へるに就いて、その生し坐せる神たちの、その方に功ある跡の、炳焉きものぞ」。

 平田史学の神道は、本居史学の神道に比して、平田史学に至つて初めて神道が神道になつたと云える観がある。神道の神髓といふものをつかんでいるように思われる。『靈の眞柱』、その前の『鬼神新論』に既に平田史学神道が披瀝されている。しかし『鬼神新論』の時分には、この考へは十分に熟して居ない。『靈の眞柱』に至ると大分進んで參るけれども、『古史傳』よりはまだ少し足らない所がある。『古史傳』に至ると明白に示されて居る。今、神道を論ずる人は、西洋の宗教學を学んで神道論を述べているが神道の真髄を理解していない。神道には世界中にない祓といふ思想がある。これは荒御魂の發動の一つの姿である。吾々の體から穢れが祓はれる原理がこゝにある。本居流解釋では何時まで經つても祓の可能といふことは起つて參らない。平田の神道に至つて初めて祓の可能といふことの説明がつく。



【平田翁最後の御目的】
 「平田翁最後の御目的」を転載しておく。
 此処に収録しましたのは昭和七年に発刊された「国学院雑誌・平田篤胤特集号」に掲載された小論文です。これをお書きになられたのは星野輝興氏。尚、氏はかの宮地嚴夫先生のお弟子さんに当たる方です。それ故に他の方とは異なる視点で平田翁のことを論じております。文中に何度か出て参ります、「久延彦(くえびこ)(久延毘古)命」は平田大人が常に拝し、崇尊していました神です。久延毘古命に就きましての詳細はまた後日アップ致します。
 平田翁最後の御目的 星野輝興 著述 昭和七年八月七日
 平田翁の最後の御目的は何であったか。鉄胤先生が玉襷の末の年譜に記されたものに依ると、古史傳がそれで、自余のものは、凡てこれが為のものであったと言うことになっている。そうしてこの見解は、単に鉄胤先生御一個のものでなく、御門下一統のものと見て差し支えないと思う。それは翁の没後、御門下の首脳連が、古史傳の完成に全力を注がれたのでも分かるからである。

 ところが、自分の師匠の宮地嚴夫先生は、この首脳連とも交渉があった方にも拘わらず、最後の御目的については、全然異なっていた。即ち師匠が言われるには、翁の最後の御本意は、霊的生活の無限の向進であった。それは「赤縣太古傳」を主にして「黄帝傳記」「天柱五嶽余論」「葛仙翁傳」から、更に葛仙翁の文粋までも載せられた一面、「仙境異聞」「勝五郎再生記」「神童憑談略記」「七生舞の記」「霧島山幽郷眞語」「稲生物怪録」を著わされたと言うこともあるが、平田家二十五部秘書の一である、「密法修事部類稿」の末にある久延彦の傳の如きは、他の御著書からは想像もつかない大がかりの霊の御実修であるのでよくわかる。で自分はこれが翁の最後の御目的であると同時に、之が平田学の正系であると信ずる。然るに多くの学者が之を悟らず、此の方面の継承せんとするもののないのは、実に遺憾である。故に身不肖なりといえども、翁の眞意を体して之を発揚せんとする。で、おこがましくはあるが、自分こそは平田学の正系で、しかも唯一の継承者と確信している。汝亦吾が意を体せよと言うことであった。

 師匠がかく言われることになったに就いては、御一族に宮地堅磐と言う方がおられ、霊界によく通ぜられたと言うことも一因をなしたものと思われる節もあるが、とにかくこの点非常な確信を持っておられ、以上の如きお話があったばかりでなく、御著述から言っても、後継者を以て任ぜられたものが頗る多い。例えば其の内の国家学談の如きは、正に翁の萬学一握り式のもので、「祭天古俗弁義」は翁の意気を再現されたもの、「世界太古傳」は未定ながら「赤縣太古傳」の精神を伸張せんとせられたもの、「本朝神仙傳」は翁の霊方面の御本意を学門と実地とで明らかにされたもの、若夫れ葛仙翁の抱朴子の地眞巻の釈義稿に至っては、「赤縣太古傳」と「天柱五嶽余論」と「葛仙翁傳」及び文粋の結晶これなりと言う意気込みのものであり、更に翁の最後の御目的に端的に突っ込んでいかれたものは、神道要領を手ほどきにしての自修鎮魂法要訣であった。否其の実修であった。

 平山省齋氏の修道眞法に 『天神憫之、受饒速日命、以鎮魂神法、曰唱一二三四五六七八九十百千萬六言四句祝文、誠祷則有死人亦蘇生之霊験矣、大岳翁、亦晩年深信、示入室徒弟、以唱斯文数千遍、以精祈、且誡勿妄示常人』と言うことが見えているが、翁は意外にこういう方面に深く進んでおられ、相当あがかれたと思わると同時に、師匠の主張がまんざら一箇の見方では無いと言うことも窺われるような気がする。それに物の道理から言っても、荀しくも神道を云々する以上、事ここに至らなくては納まらぬものと思われるばかりでなく、翁の如き物の究極を掴まないうちは止まない方、例えば道儒佛の究明だけで満足せず、遂に二十五部秘書の一たる自鞭策にまで行かれたということもある位であるから、霊的方面のことも、其の編述だけでは満足が出来ず、事ここに至られたのは、実に当然過ぎるほど当然のことと思う。

 然し自分は此の霊的生活の無限の向進を計られたのみが、翁の最後の御目的であったと言う師匠の御意見に同ずるものではない。何となれば、久延彦の傳式の霊的生活の完成も確かに最後の御目的であったには違いないが、「古史傳」の完成と言う事も確かに最後の御目的であったからである。是を分かりよく極言すれば、翁の事業の結果からは、国境を認めない霊的生活に深く踏み込まれたが、其の一面に純日本人としての心的生活の徹底を期されたからである。

 然らば最後の御目的はこの二つであったかと言うと、結果からはそれに違いがないが、翁の御気持ちは、之を二つとは見ておられなかったと思う。否一つであると思うて進められたところが二となって現われ、しかも其の二がいずれも未完成であったばかりでなく、両者を一つにしようと焦れば焦るほど隔絶し矛盾し果ては葛藤が生じ、おまけに日暮れて道遠しと言う実情とあったので、かなり苛立たれ焦られたようである。彼の未定稿本、就中門外不出の二十五部秘書と言われたもののうちは、この点が余りにも歴然たるものがあって、実に涙なくしては拝見が出来ないものがある。翁がこの世を去り給うに当たり 『思うこと一つも神に務め終おへず、今日やまかるか惜らこの世を』と言う御辞世をお遺しになったが、これは決して謙遜でもお世辞でもなく、其の当時の御心中を如実にお詠み遊ばしたもので、自分は上述のことを回想する毎に、この御辞世が思い出され、胸が強く打たれる。

 そうしてこの事は、独り翁に見るばかりでなく、本気にやろうとする神道人の常に悩まされる問題である。現に斯く言う問題も、師匠との間に、この二について彼此があった。と言うのは、師匠によって霊的生活の向進が或る程度に進んだ時、自分に一の疑問が出た。お互い日本人はこれだけでよいのか、これから師匠と自分との間に、少々経緯が生じた。ところが師匠が帰幽に当たり『天地と共に栄えむ大御代を、いはひまつりてゆくがたのしさ』と言う辞世を遺されたので思わず分かりましたと頭が下がった。けれどもこれは両者の結論だけで本論ではない。肝心の本論はとうと伺うことが出来なかったと気が附くと、一瞬の歓喜はやがて永恒の失望となったが、間もなく、この論をどう説くかは、師匠が自分に遺してくれられた課題であると思い直して、今にこの開拓に汗みどろになっている。

 だがよく考えると之は師匠が自分に遺して呉れたものであるばかりでなく、既に翁が一般の神道人に遺されたもの。尚言うなれば、神が日本人全体に課せられたものであった。この国民としての心的生活と世界人としての心的生活、この両者の綜合・調和。それが成る成らぬは、世界の日本か、日本の世界かの分かれ道である。
 上記文中の「密法修事部類稿」は全十巻でありますが、篤胤全集でも公開されているのはその第四巻まででございます。従いまして上記の『久延毘古の傳』は残念ながら如何なるものかを吾々は窺い知ることは出来ません。

【廿五部秘書(にじゅうごぶひしょ)】
 廿五部秘書(にじゅうごぶひしょ)は、平田宗家の内書。 平田宗家の蔵書には内書と外 書とがあり、一般の者の目に曝しても良いものと、門外不出のものとに分けていた。更に 平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして、口移し、口授、口伝、一子相伝として極一部の選ばれた者達に、他見他伝厳禁の誓約を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられた。これらの秘書類には、天文・歴術関係のものも含まれているが、大半は道家の玄学書であった。 

 1940年、国文学者の山田孝雄が自著『平田篤胤』の中で廿五部秘書の書名を公開している。それによると、太暤暦旋式 一軸、天象古説図 一軸、古暦日歩式 二十巻、古暦月歩式 十二巻、終古冬至格 三巻、古今交蝕囲範 三十六巻附総論一巻、天朝無窮暦・前編 六巻、天朝無窮暦・後編 十二巻、古今日契暦 初編二編 凡五百巻、武学本論 三巻、玄学得門編 五巻、神僊教化編 五巻、神僊方術編 五巻、神僊方薬編 五巻、神僊服餌編 五巻、神僊行気編 三巻、神僊導引編 二巻、神僊採補編 二巻、玄学月令編 五巻、家礼徴古編 五巻、太一循甲古義 二巻、五嶽真形図説 三巻、名家方函類編 十巻、密教修事部類 十巻、仙境異聞附勝五郎再生記聞 五巻。




(私論.私見)