平田篤胤の神代文字考

 (最新見直し2013.12.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の神代文字考を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。

 2013.12.08日 れんだいこ拝



【神代文字考】
 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に精力的に神代文字論を展開しているからである。学説も通説も、神代文字存在説を唱える者を邪視し、神代文字否定説を声高に唱える者を正論としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、「篤胤史学」研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語気荒く語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば、山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤史学研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤史学論」との決着をつけたいと思う。 

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本には文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと中国語へ転換すれば良かったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか説明がつかない。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない確固とした上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。この時、図象文字的な日本語があったのだが、それが政治的に禁制にされ、それが為に地下に隠され、いつのまにか消えてしまったのではなかろうか。数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まる。これが、神代文字考史となる。


 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。容易に知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されている。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われている豊国文字、秀真伝や三笠紀は秀真(ホツマ)文字で書かれている。全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。九鬼文書には春日文字など、竹内文書には百種以上、宮下文書には阿祖山文字、物部文書には物部文字、東日流外三郡誌には津保化砂書文字などが出てくる。対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。まだまだ他にもある。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、潮音という僧が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で、意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため、字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」の春巻の中の「神世文字の論」の稿で、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いている。これは、神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819年、彼の弟子たちが「神字日文伝」という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。


 ここまではまだ誰でも説ける。これから説くのが独壇場のれんだいこ節である。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。神代文字の研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みである。日本語0音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。こここそが最大の関心となるべきではなかろうか。

 れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。しかもそれはどうやらほぼ同時的に為されたのではなかろうか。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。

 と云う観点を披瀝しておく。神代文字否定論派には関心の湧かないテーマであろうが、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。平田篤胤が、これを学問的な俎上に載せたという功績がある。これが云いたかった訳である。
 (「古史古伝と神代文字」、「神字日文傳」、「」その他参照)

【篤胤の神代文字論】
 「 〈神代文字〉の構想とその論理―平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考―学術論文 〈神代文字〉の構想とその論理.pdfその他を参照する。

 平田篤胤が晩年に著した一連の神代文字論を確認する。神代文字否論者の山田孝雄(1873~1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)において、「神代文字をめぐる議論がいかに 〈毒〉におかされた危険な代物であるのか」ということを怒りと憤りに満ちた口調で語気荒く語っている。その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか。絶大なる不可思議の一つ」と述批判している。この山田孝雄の言の正邪を確認しておく。 

 宣長は漢字を排除しながら、純然たる正音が刻印された「ヤマトコトバ」の復原を試みようとする。「漢字三音考」(1785年)の有名な箇所は次の通りである。

 概要「皇大御国ハ、この如く尊ク万国ニ上タル御国ナルガ故ニ、方位モ万国ノ初ニ居テ、人身ノ元首ノ如ク、萬ノ物モ事モ、皆な勝レテ美キ中ニ、殊ニ人ノ声音言語ノ正シク美キコト、また夐ニ萬国ニ優テ、その音清朗トキアザヤカニシテ、譬ヘバイトヨク晴タル天ヲ日中ニ仰ギ瞻ルガ如ク、イサヽカモ曇リナク、又単直ニシテ迂曲レル事無クシテ、眞ニ天地間ノ純粋正雅ノ音也」(「本居宣長全集」第五巻、381-384頁)。

 「くず花」(1780年)では次のように語られている。

 概要「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書き伝ふるとを比べいはんには、互に得失ありて、いづれも勝れりとも定めがたき中に、古より文字を用ひなれたる、今の世の心をもて見る時は、言い伝へのみならんには、萬の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまされるべしと、誰も思ふべけれども、上古言い伝えのみなりし代の心に立かへりて見れば、その世には、文字なしとて事たらざることはなし。殊に 皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸ふ国と古語にもいいひて、実に言語の妙なること、萬国にすぐれたるをや」(「本居宣長全集」第8巻、124頁)。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「古事記伝」でも、「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で、意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため、字を読み書くようになった」と述べている。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。「古史徴開題記」の中で次のように語っている。「古史徴」は春・夏・秋・冬の四卷にわけられ、「神世文字の論」は春巻の中で述べられている。一八一九年、彼の弟子たちが「神字日文伝」という題名で版本を発行し一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。

 「皇国の古伝説の起源は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる、産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐せる時に御伝へ坐ると、その千五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り伝たるもあるが中に、天祝詞なる伝は、古伝説の本にて正しき由の論より、天つ祝詞と称ふこと、また産霊神の祝詞を伝へ坐る故よし、祝詞の伝への、古事記日本紀の伝へとは異なる故よし、また祝詞に、上古の文と後 世の文の別ある由、日本紀古事記なる伝は、世に弘く伝はりたるを集め記されたる故に、自然訛れる伝へも交れるを、祝詞の伝へによりて、正し弁ふべき」。「古事記神代紀に載せられたる伝々は、彼の千五百座と多かる神の、御裔の家々に伝はりたる、或は世に弘く伝たる説等をも、聚め載されたれば、自然に訛り混じりたる伝の多く交るべき謂なりける」、「然も有ば、祝詞なる故事の、古事記神代紀なる伝に勝りて正しき由は、如何にして知ると云に、総て古伝説はしも、古は更なり、今にも通りて、神随なる道の実事に違ふことなく、萬の事物の理に符へるを以て、正しき伝説と知ることなるを、祝詞なる伝々は、よく実事の旨に符ひて、萬の理に符ざる事なき故に、眞に正しとは知らるゝなり」、「故是を以て今古伝を撰ぶに、太祝詞なる伝へを以て、有が中の最上たる伝と定めて、古事記神代紀なる伝をば、是が次に立、二典の謬錯れる伝をも、太祝詞事の有る限りは、それに依て正しく弁ふる物ぞ。 この成文を読まむ人、まづその意を得てよ」(「古史徴開題記」、山田孝雄校注、岩波文庫、33頁)。 

 篤胤は、祝詞の書体の正統性を次のように語る。

 「殊に漢字を用られざる以前には、世継の 古事を記せる史籍とてはなく、故事を記せる物は、まづ祝詞にて、これ古事古籍の本なるを、漢字わたりて後に、彼にならひて記せるが、皇国にて物記ことの始めならむには、必ずまづ祝詞をこそ、漢文に書くべき物なるに、書と書く物の悉く、漢文に記し習つゝ、歌を仮字に、祝詞は宣命書に、別に書法を立べき謂なし。・・・・・・実に歌と祝詞は、神世より書来つるまにまに、その故実を失はず古き書体を守り来り、余の事実を記せる書も、古は右に同かりしを、天武天皇の御心として、漢国史風に記さむことを所思看起して、その由を詔ひいで、元明天皇の御世に、安麻呂の古事記を記されたるが、漢の国史風を学ばむと為たる始なること、上に次々論へる趣を思ひ通して弁ふべし」(同、43頁)。

 
篤胤は象形文字に触発されながら、古代日本における神代文字の存在を確信する。篤胤は古代における人々が自らの《コトバ》の音声と文字を変換したものだと説く。
 「限りなき事物の象形を尽く書かむことは、煩しく労がはしき事なる故に、口より出る音の印を形にうつして、仮字を製り給へりけむ。……これを仮名と云る義は、音の印を仮に書て、象形の字の真に、その物の形を書たる字に対たる称なるべし。……この如く在ば眞字と云も、象形の字をいふ本よりの古言なりけむを、漢字を専に用ふる世となりて、彼は字ごとに義ありて、音の符と製れる神世の仮字と異なるもの故に、彼をいふ称とはなりにけむ」(同、40頁)。

 篤胤は「口より出る音の印を形にうつし」た文字こそが神代文字なのだと説く。「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ、1818年)で次のように述べる。

 「しかれど御国なる千ぢの語は、この五十韻の音に通ふ趣を思へば、一向に、神世には、五十音の次第なせるは、無かりしとも言がたし。この書集つる字等の中には、 たゞヒフミヨといふ四十まり七つの音もて、次第なる字ぞ。その言のさまも、字の形も、他国に比ふべき物あらず。実に千早ぶる神世の物なるべし」(神字日文伝)。

 篤胤晩年のテクストである『古史本辞経』(1839)は次のように述べている。

 「まづ書名を、古史本辞経となむ按ひ出ける。それ古史とは、古事記、日本書紀の二典を云ふ。主とはこの二典の古訓に據らむと欲ればなり。・・・・・・その古語の本辞と称ふべき語を稽ふるに。必ず二言の語に極りて、その語凡て二千二十五言ぞ有りける。姑く是に五十聯の音の一言なるを合すれば、二千七十五言。これ本辞にして、この余に二言四言五言六 言なる語、いく千萬づの限り無らむも。(この本辞の外なるは)異国の語を除ては、唯一つだに有ることなく、今集むる言ども、即ち有ゆる言語の経言なるが故に乃ち経とは名くるなり。・・・・・・然るは経とは乃ち機の竪糸にて、緯とは即ち横糸なり。これはしも、畏きや天照大御神の、高天原にして、始めて織りませる御機の事より起れる語なるを、転して西土にも、大倭にも、天地の経緯など云ふを始め、種々の事に活用かし云ふこと多かる中に、書の名におほく用ふる事は、経は常也と訓て、常典と為べき由の名なるを、今撰べる二千二十言はも、近き世多く、人の撰れる語書の類に非ず。賀茂の翁の、引きて発たぬ誨へを推して、天の下の経言を錯綜へ尽せるにて、元より経と云ふべき物なればなり」(古史本辞経)。

 篤胤は『古史本辞経』において、従来の「五十音図」を〈訂正〉する作業を試みる。篤胤は賀茂真淵(1697~1769)を「我が古学びの祖父」と崇めながら、その「五十聯の音」の特権的地位について、次のように語り出している。
 「抑是の五十聯の音はも、上の件語意の説の如く、天地自然の声音なれば、天地を鎔造し給へる神の大御言に、素より然る定格ありて、その言霊幸をし、次々に傳へし故に、最上古には、殊にその図を模して、示し誨ふる迄もなく、天の益人ら皆知らず識らず、その言語に、その道自然に備はりて、少かも誤まる節無かりける」(古史本辞経)。
 「古語に。言霊の幸はふ国。言霊の祐くる国と称へ以来し事の如く。高天原に神留坐す。 天皇祖大神たちの。天津神語をし。禰継々に。云ひ継ぎ語り継ひし故に。宇都志世人の。音韻言語の道。また夐に萬の国に優りて。正しく美たく。足ひ調へる御 国になも有りける」(古史本辞経)。
 「然るに、今なほ是の図を、悉曇などに習はずは、作得まじき物のごと云ふ人あるは、なほ異国を揚げて、我が古を陋しむる僻の、止ざるになむありける」(古史本辞経)。

 「五十音図」の起源は 〈皇国〉にあるとし、従来説の「悉曇」を基礎とした「五十音図」は誤謬に満ちた代物だとする。篤胤は次のように述べている。

 「古語本辞を釈むと欲るには、その竪横の音韻は元より、位置の訂正また専要の事なり。かくて今の世に弘く用ふる所の竪行、アイウエオ、横行アカサタナハマヤラワの図は、前後の条に論ふ如く、悉曇章に依れる図にて、梵語の上には随分宜しけれど、皇国本辞の亀鑑と為すには、良行を第九位に置くこと尚宜しからず」()。

 篤胤は「五十音図」の〈起源〉について次のように語る。

 「さて、その上つ代に、音図こそ未制らね、その音の数に合たる、神字の五十字ありしこと。日文伝に述る如くなれば、その音を類聚して、図を作れるは、実にもその古説の如く、応神天皇の御世にて、そは赤縣籍を読しめ給ふ時に、彼の邦の字音を、此方に正しく伝へむ為に作れるが、その草創にぞありけむ」()。

 篤胤の「五十音図」の〈訂正〉作業は、《コトバ》の〈生成〉をめぐる言説と密接に関係している。篤胤は自ら〈訂正〉したハングルの反切表にも似た「五十音図」を示しながら、次のように《コトバ》の〈生成〉を語る。

 「抑、世の初め、天皇祖神の産霊に資りて、 大虚に侌易混沌たる一の物生出たるが、その物二つに分れて、その軽清りし物は上に萌騰りて、高天日の御国と成り、その重く濁れるものは、下に凝り結びて、この宇都志国と成れるが。その根にまた別に一の物成りて、こも断離れて、月予美国と成り、然して国土より天に昇る道を、天の八衢と云ひ。国土より予美国に降る道を、泉津平坂とぞ云ける。これ天地の初発の大凡なり。・・・・・・然るに奇霊なるかも。五十音の阿行をはじめ、その余の九行もその竪は、この道理にいと熟く符ひてぞありける」()。

 篤胤の言説が提示するのは、《コトバ》という世界が『霊の真柱』で構想した宇宙創成神話に包摂され、それが〈生成〉の瞬間から、篤胤が描く宇宙創成神話の中に組み込まれている構造である。この《コトバ》における〈生成〉の起源は、母の胎内というアナロジーで語られるのだが、それは言語活動が《身体》的な活動 であると同時に、その言語活動に支えられて「生」を営む人間が、極めて《身体》的存在であることを解説している。篤胤は続けて言う。

 「そは、人の音声の、起り出る原より稽ふるに、我人共に、母の胎内に在る間は、その気 息を、臍帯より受るまでにて呼吸なく、呼吸なき故に、声なきは素なれど、そは外に聞ゆる音こそなけれ。竟に初声を揚べき[音]は、身体の中府に根ざして、喉口の間に含み持たり。こは我人の祖先、始めて神の産霊を分賜りしより、今に相続し来れるものにて、神眞の道に、霊根元気と称する是なり。是乃ちつひに云とも宇とも響き出る声にて、諸声これより分り出れば、声の本には有なれど、人胎内に在りて、その声いまだ出ざる間はかの天地と分るべ き一物の、混沌れて牙を含み在りしと、全同じ趣なり」()。

 篤胤が考える《コトバ》とは五感そのものであり、《音声》と《身体》による感覚的活動が内意された理念として立ち上げられていく。

 「さて言語は、声音より起ること素にて、その五十聯の声音に、各々自然に意あり。象あり形あり。そは人の世に経る、事わざ繁きものなれば、見るもの聞くものにつけて、情その中に動きて、その声種々に発る。然るは物あれば必ず象あり。象あれば必ず目に映る、目に映れば必ず情に思ふ。情に思へば必ず声に出づ。その声や、必ずその見る物の形象に因りて、その形象なる声あり。こを音象と謂ふ。・・・・・・抑音象にかく、自然の定まり有りて、言と成るに、その言必ず、その見る物を指象りて、嗟嘆せるに形はる。そのやがてその情の中に動くに因ること上の如し」()。

 神代文字論は、篤胤を媒介者とすることで、「ヤマトコトバ」の起源と来歴が問われる問題として浮上する。平田篤胤の神代文字論に最も激しい批判を行ったのは同時代の伴信友(1773~1846)であった。信友は、篤胤が神代の文字があったと「日文伝」に書いたとき、反論として「仮字本末」(1825)を著わし、その題名が示す通り仮名文字の起源と来歴について考証し、偽造説の立場から篤胤神代文字論を否定している。序文にはこう記されている。、『神字日文伝』の中で日文を正真の神代文字とした。

 「仮字といふ事の皇国の用ひ来れるゆゑよしを始として、いはゆる平仮字片かな男文字女文字の起源を、くはしく考へ、また今俗にももはら用ひ馴れたる、伊呂波うたあるは、梵讃漢讃和讃、あるは今様歌順礼歌はたヲコト点といふものゝゆゑよし、及神代字の事さへに転化ひ来し次第をことごとく証し弁へ記されたる・」。(『伴信友全集』第3巻、385頁)。

 信友は、篤胤の〈神代文字〉が朝鮮諺文からの剽窃であるとする。次のように述べている。

 「あるが中に字体もおほかたさだかにて、みだりに作れるものとは見えざるが三体あるは、今朝鮮にて、諺文といひて用ふ国字の古体にて、吏道といふものとぞ見えたる、さるをわがともがらうひうひしきが中に、まことの神代なりとおもひまどへるがあるに、かたはし論ひきかせたりければ、いとゞしくまどはしくなりぬ」(同、470頁)。

 概要「朝鮮の文字が早くから日本に入ってきて変形したものが『日文伝』であり朝鮮諺文との不可分な関係にある。今日本で神代文字がとり沙汰されているが、江戸時代以前には何の議論もなく、また神代文字があったという文献も存在しない」。

 これに対して、鶴峯戊申(つるみねしげのぶ、1788-1859)は、西洋の数量文字から類推することで、古代日本に存在していた神代文字を確信する。「嘉永刪定神代文字考」において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いている。

 「戊申按ニ、今西洋ニ用フル字ノ数量文字、一をⅠトシ、二をⅡトシ、三をⅢトシ、四を Ⅳトシ、五をⅤトシ、六をⅥトシ、七をⅦトシ、八をⅧトシ、九をⅨトシ、十をⅩトス。田賦集ナル数量文字ト大同小異也。然レドモコレ天地の勢ニテ、タマ /\相似タルモノニテ、敢テ彼ワレニ倣ヘルニ非ズ。我カレニナラヘルニモアラザルベシ。件の諸説ヲ考ヘワタシテ、太古皇華ニ文字有りし¬ヲサトルベシ」(鶴峯戊申「鍥木文字考」、静嘉堂文庫所蔵)。

 篤胤は 次のように語る。

 「そは皇国はしも、元より萬国の皇国にし有れば、萬国の事物の用ひるべき限りは、借用ふるまでもなく、皆な取り用ひ給はむに、何でふ事なき道理なれど、まづ歴法また文字などの類ひ、此方に固より有つるを、そはさし措れて、諸越のを取用ひ給へるなどは、借用ひたりと云ふも然る事なれど、師説にもある如く、人の形を始め山川草木鳥獣などのさま、此方も佗国も大抵同くして、然しも異らざれば、そを絵に書たるも、互にに相似たるを、五十聯音もその如く、皇国にも佗国にも自然に固有せるが故に、そを図に模せば、大抵同じ様となるなり。また有るを有るとし、無きを無きと為すべきは勿論の事ながら、無き物をも有りと誣るは僻めるなれど、そは僻みながらも、国に実なる心より云ふなれば憎からぬを、無き物をなしと云ふは更なり」()。

 明治に至り、神道家の落合直澄が日本古代文字考を発表し、考古学上の文字資料を集成してその存在を肯定した。他方、国文学の山田孝雄は、所謂神代文字の論において個々の神代文字について偽作であるとした。豊かな国語・国文学的知識からの博引傍証からなるこの書の中で、実際の古典に神代文字で記された実例がないことを述べ、阿比留文字などもハングル文字の模倣であると断言した。この山田論文によって、学者としてその存在を信ずるものはほとんど影をひそめるにいたった。ただ昭和年代に入っても、愛国者や軍人のなかにその存在を信ずるものがあって、政治問題にまでも発展しかねない事件を引き起したことがある。戦後、国語学者の大野晋が、奈良時代の母音の数によって神代文字は平安時代以降の偽作と論じた。決定的な否定論と思えたが、言語学者の松本克己は、奈良時代の八母音は、漢字という書記法が日本語の発音を微妙に書き分けたことによる一種の虚像であるとして批判し、国語学者の森重敏は文法論と語構成の立場から奈良時代の八母音説を否定している。

 れんだいこのカンテラ時評№1199  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月21日
 れんだいこの平田篤胤史学論その5

 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが戦国期の研究を通じての陰謀論考で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。

 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。

 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367(貞治6)年に南北朝期の神道家・忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。

 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。

 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。

 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。

 欣喜堂通信の「伴信友と平田篤胤」を参照する。
 伴信友〔ばんのぶとも〕(1773―1846)は本居宣長没後の門人である。平田篤胤〔ひらたあつたね〕(1776―1843)もまた本居宣長没後の門人と自称(あくまで自称!)している。伴信友が歴史の研究、古典の考証にすぐれていたのにたいし、平田篤胤は復古神道を鼓吹し幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。伴信友は若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。信友は山岸維智〔これとも〕の子として生まれた。幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となり、江戸に出て小浜藩校「講正館」に学んだ。

 『仮字本末』は、文政年間に書かれた伴信友の遺稿をその子信近が校訂し、1850年(嘉永3年)3月に長沢伴雄(1806―1859)の序を添えたうえで、江戸・大坂・京都の書肆から刊行された。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計4冊からなっている。付録では、平田篤胤の『神字日文伝』の説を批判している。「神代文字」存在説が信じるに足りないもので、古代朝鮮文字である吏道〔リト〕が出自であるとしている。信友は、わが国に固有の文字が存在しなかったことを明確に主張している。

 『仮字本末』で批判された平田篤胤著『神字日文伝』もとりあげなければなるまい。平田篤胤は秋田藩士大和田祚胤の4男で、幼名を正吉また胤行という。通称半兵衛のち又五郎、また大角、さらに大壑とも称するとはややこしい。1795年(寛政7年)、20歳のとき脱藩して江戸に出て、さらに5年後、備中松山藩士の平田篤穏の養子となっている。1841年(天保12年)に、著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めのうえ国元帰還を命ぜられ、秋田藩士となった。

 『神字日文伝』は、上巻、下巻、付録からなる。1819年(文政2年)に成立した。前述したように、漢字伝来以前に日本に文字が存在したと主張する。
























(私論.私見)