れんだいこの平田篤胤史学論

 (最新見直し2013.12.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの平田篤胤史学論をものしておく。「読書と音楽」の「平田篤胤論」」等を参照する。

 2013.12.08日 れんだいこ拝


【れんだいこの平田篤胤史学論その1】
 れんだいこのカンテラ時評№1160  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月16日 
 れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ

 今日は2013.8.15日である。この日に「れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を捧げておこうと思う。れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。

 それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の混迷、その貧相な処方箋からの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。

 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、この地に邪馬台国以前よりの分権的な王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関にして、あるいは国譲り後の出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。

 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての:言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、それを滅ぼして以降の大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。

 その三輪王朝が天孫族(を僭称する外航族)によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国に代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。この傾向は日本書紀の方が古事記より強い。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。

 ここに本居宣長が登場する。本居史学は単なる神話として片づけられていた記紀既述に歴史の根拠を求めようとして営為した。その手法として、日本書紀よりも古事記の方に価値を見出そうとしていた。ここに功績がある。但し古事記世界より出ることを自主規制していた。ここに限界が認められる。いずれこの本居学は乗り越えられねばならなかった。

 この時、平田篤胤が登場する。平田は、本居史学の功績をそれとして認めつつも、本居史学が抑制していた更に先の古代史に分け入ろうとした。これにより平田史学が日本古代史の視野を更に先へ広げた。ここに平田史学の功績がある。但し、平田史学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まるきらいがある。

 平田史学が扉をこじ開けた日本上古代史の研究が受け継がれねばならないところ、平田史学派は幕末維新から明治維新の政治的激動に接近し過ぎて、結果的に西郷派なき後の日本帝国主義化の従僕となり、近代天皇制のイデオローグと化し、薄っぺらな皇国史観の確立に向かった。それが大東亜戦争の敗戦により大鉄槌を喰らい今日へ至っている。

 これを平田史学右派と命名すれば、平田史学左派はまだ登場していない。れんだいこ史学はこの系譜のものではなかろうかと自認している。ここに史上の意味と値打ちがある。但し緒に就いたばかりで、これと云う業績を上げている訳ではない。あるいは、平田史学につき詳細には知らないので、知れば袂を分かつかも知れない。そういう意味で未だ流動的である。

 他方、その後に津田史学が登場する。津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、皇国史観の欺瞞を討つには役立つが、本来の日本古代史、上古代史解明に対しては逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。よしんば皇国史観の詐術的歴史観を否定するのに功があるにせよ、「原日本」の解明に向かわない皇国史観批判論は「赤子をたらいごと流す」愚に似ている。日本マルクス主義がそうした限界を持つ津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。

 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたなら、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。これが古史古伝に対する態度となるべきである。

 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。彼ら旧政権派は、国譲り譚で判明するように、政権は譲り渡したが宗教的権威及び活動は担保され歴史に生き延びた。政治的には一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。この過程は西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。

 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。以上を踏まえると、日本はほぼ単一民族化しているとみなせるが単一社会ではない、むしろ原日本、新日本、その他を織り交ぜた複合練り合わせ社会と云うことになる。こういうところを政治家が認識していないと国運の舵取りを誤ることになる。

 この日本史に特異な現象として、現代史的に意味のあるところだが、戦国時代期及び江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。戦国時代期のネオシオニズムは衆知の過程を経て排斥された。ところが江戸幕末期の黒船と共に来襲して来たネオシオニズムはその後の日本史への容喙を続けて今日に至っている。その政治はここへ来て次第に露骨化し始めている。

 ネオシオニズムも又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し植民地化せんとし続けている。その壊しようはあたかも、ネオシオニズムと思想的に最も鋭角的に対立している日本思想そのものの撲滅を期している感がある。思想がそうなら社会もそうとして日本社会の絆を根底的に殲滅せんとしている形跡が認められる。こうなると、日本的なものを愛する我々との間には非和解的な抗争しかない。そういうことになろう。

 2010.7.28日 2013.8.15日再編集 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1196  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月13日
 れんだいこの平田篤胤史学論その2

れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を「れんだいこの平田篤胤史学論その1」とし、ここでは「れんだいこの平田篤胤史学論その2」と題して平田篤胤の総論をしておく。政治が面白くないときには、こういう原点からの問いが却って有益と思う。れんだいこは、その学説、思想を在地土着型の白眉なものと思っている。

 平田篤胤は1776(安永5).8.24日(10.6日)-1843(天保14).閏9.11日(11.2日)の人で、江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者である。その履歴の概要は「平田篤胤の履歴考」で確認する。ここでは、その史学について言及しておく。篤胤は復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。その学説を仮に「篤胤史学」と命名する。都合上、本居宣長の史学を「宣長史学」と命名することにする。

 平田篤胤は、本居宣長没後の人である。宣長を師として仰ぐが、「宣長史学」と「篤胤史学」の間には相当な違いがある。両者とも外来の儒教、仏教と習合して以来の国体を批判し、それ以前の日本精神に裏打ちされた国体を称揚する面では共通している。但し、篤胤の特徴は、師を師と仰ぎつつも、その史論については妥協することなく持論を展開して行った。「宣長史学」までは記紀神話史の実証的研究を旨としていたのに対し、篤胤史学は記紀神話をも相対化させ、記紀神話史以前の日本国体史へ歩を進めている。ここに画期的な意義を持つ。その研究は、いわゆる古史古伝まで歩を進めている。こうして国学に新たな流れをもたらした。

 加えてイデオロギッシュな側面を持ち、「篤胤史学神道思想」とでも云えるものを随伴させた。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、「俗神道大意」で、当時の既成神道、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝では日本古来文字としての神代文字の存在に言及し、その研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる日本国体精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、西洋医学、ラテン語、暦学、軍学など当時の古今東西のあらゆる学問に精通し、その博覧強記ぶりは他の追随を許さない。

 その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取り戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤神道論の特色は徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で、「篤胤史学」が後の神道系新宗教の勃興にも繋がっていると指摘して次のように記している。

 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

「篤胤史学」は、「草莽の国学」として天保期の神職、村役人級の上層農民(豪農)、代官級の上級武士、下級武士層の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、水戸学と相まって尊皇攘夷運動の有力な思想的原動力となって行った。国学がかく幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。平田篤胤の門下からは、生田万、佐藤信淵、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など数多くの有力人士が輩出している。篤胤生前の門徒が553名、没後も含めると1330人を数えている。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。これが為に不穏の動きと見られ、「著作禁止、江戸所払い、国元帰還」を命ぜられたと看做すべきだろう。事実、篤胤の高弟の生田萬は、越後国柏崎で起こった乱(生田萬の乱)の首謀者であった。

「篤胤史学」は学者や有識者にのみ向けられたのではなく庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人、豪農層の人々にも支持を得て国学思想の普及に多大の貢献をすることになる。このことは、土俗的民俗的な史話の中に史実を見出そうとする篤胤史学が、それ故に庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。

 特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村が自分の父親をモデルにして描いた小説「夜明け前」で平田学派について詳細に述べている。平田派国学の熱烈な支持者であった主人公の青山半蔵がその理想「新しき古」を求め、そして近代化の中でそれが否定される過程を綴っているとのことである。

 倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ち、その後の皇国史観的天皇制イデオロギーの理論化に加担していくこととなった。但し、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。これについては別途考察することにする。以上を「れんだいこの平田篤胤史学論その2」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1197  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月14日
 れんだいこの平田篤胤史学論その3

 「れんだいこの平田篤胤史学論その3」として、「れんだいこの平田篤胤史学論その2」に追補しておく。

 平田篤胤の一般評価の「復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」では扁平過ぎて篤胤史学の真髄が伝わらない。江戸期に国学が生まれ、記紀の実証的研究に着手した。代表的国学者として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が知られ、平田篤胤に至り、この4名が「国学四大人(うし)」と呼ばれる。これはそれで良い。但し、その学問の内容は、篤胤史学のところで明らかに質を変えている。それまでの国学研究が、大和王朝以来の皇統譜を正統化づける為に編纂された記紀の記述を「真」として、その実証的研究に向かっていたのに対し、平田篤胤となると記紀記述に「真」を置いていない。むしろ、記紀記述の御用学的限界を突き破り、記紀が批判的に記述している大和王朝以前の日本を束ねていた出雲王朝世界を注目し、その研究への門戸を開くところまで突き進んでいる。ここに「篤胤史学」の絶対的特異性がある。これを踏まえた「国学四大人(うし)論」でなければならない。

 案の定、徳川幕府は、そういう禁制の扉を開けようとする篤胤史学を危ぶみ、結果的に弾圧し、その二年後、篤胤は失意のうちに病没している。これを確認すれば、1841(天保12)年、篤胤晩年の66歳の時、著書「天朝無窮暦」の内容を問題とする形で、著述禁止、故郷である秋田への国元帰還を命じられ事実上の「江戸所払い(追放)」に附されている。 篤胤は15人扶持,給金10両の薄給身分の秋田藩士となったが、秋田に帰って2年後に病没している(享年68歳)。篤胤弾圧につき、「天朝無窮暦」が幕府の暦制を批判した為であったとか、激しい儒教否定と尊王主義が忌避された為とか解説されているが、問題はもっと本質的なところにあり、「篤胤史学」が大和王朝以来の支配者体制に対する批判の学足りえていたことが槍玉に挙げられたと窺うべきではなかろうか。

 こういう履歴を持つ平田篤胤を知ろうとしてサイト「平田篤胤の履歴考」と「平田篤胤の思想考」を設けているが、その情報は手に入りにくい。ほんの一部の研究者の愛好に狭められている感がある。ネット検索では、同じ文言の型通りの篤胤論は何度も出てくるが、いざ直の言説を知ろうとすると読めない、あるいは読みにくい。「指定のページが見つかりません」となっている。「平田篤胤の人となり、その思想」を確認しようにもできにくい仕掛けがされていることに気づく。こうなると、れんだいこのアンテナが作動する。これは何も平田篤胤だけのことではない。世に有益な情報、知識が隠され、なかなか読めない仕掛けにされており、逆にどうでも良い情報が洪水の如く流されていると云う仕掛けが廻らされている。かく秘せられ伏せられるほど、そういう権力者側の巧妙な思想統制に反発したくなる者が出てくるのは道理だろう。

 既にあらゆる知が囲い込みされ、ふるいにかけられ、こう考えるべき、理解するべき、評するべきとする国際ユダ屋テキストが敷かれている。これをよく学習できた順にお利口坊やと嬢ちゃんにそれなりの大学までの道が用意されている。こういう仕掛けなんだなとつくづく思う。最近の法学の堕落はその極みであろう。既に法理念、法体系が崩れに崩れ加速しつつある。しかして、そういうテキスト理解で賢くなった者は誰も居ない。却ってアホウになっている。そろそろそういう風に考えてみるべきではなかろうか。

 「平田篤胤の人となり、その思想」もそうで、安直な理解の弊害を知るべき、まことに格好の教材が平田篤胤ではなかろうか。このことを前提に、れんだいこの気づきを記しておく。結論はこうである。平田篤胤は、世上で知られているよりもはるかに、と云うか驚異的な博学にして執念の大著作を為し後世の史学に様々な問いを遺していると云う意味で偉大である。その平田篤胤の生(なま)の姿即ち実像を何も知らず、そうであるのに知った気にされ、しかもその結論が一知半解と云うより曲解させたものを通説にして流布されている。このことを痛感させられている。

 それは丁度、明治維新以来の天皇像に於いて明治天皇、昭和天皇を英明評価し、逆に大正天皇を脳病天皇視し悪し様に評する構図と似ている。真実は、大正天皇こそ史上の天皇の中でも十指に加えられるべき有能天皇であった。在任中、西郷派亡き後の明治維新以来露骨化した国際ユダ屋の日本支配の陰謀に対し、明治天皇、昭和天皇がこれに従ったのに比して立ち向かい、その結果として「押し込め」られ病死を強制させられたと看做すべきところ、逆の論が横行し今日に至っている。明治天皇、昭和天皇の逝去日を記念して祝日とされているが独り大正天皇のそれは無視されているのは衆知の通りである。奇妙なことに大正天皇罵詈論は国際ユダ屋に有無通じた凡俗系の右翼左翼問わずの共通の構図となっている。妙なところでウマが合っていることが分かる。こういうところで馬脚を表わしているとみなすべきだろう。

 もとへ。平田篤胤の奇怪なことは、本稿はこれが云いたかったのだが、師とする本居宣長が邪馬台国論に相当の考究をしているのに比して言及していないことである。これが何の理由によるのか、この詮索が興味深いところのように思われる。結果的に、邪馬台国論を避けた形での「天朝無窮暦」での日本には神代に独自な暦があった論、「神字日文伝」での日本には漢字伝来以前の日本独自の神代文字があった論、インドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものである論、「天柱五岳余論」での中国の道教経典に見られる神仙の山々ないしは神仙教は日本が元論、神代に日本独自の度量衡があった論、「稲生物怪録」、「仙境異聞」での天狗論。「勝五郎再生記聞」での前世の記憶論。「幽境真語」での女仙人論。「鬼神新論」での神の実在論等々をものしている。これを思えば、邪馬台国論に向かうべきエネルギーを神秘論、怪奇論、国体論へ向かわせていることに気づかせられる。このように見立て、問うのは、れんだいこが初見かも知れない。

 思うに、平田篤胤は、早くもかの時代において、れんだいこが今説く「原日本新日本論」の歴史の深淵を覗いていたのではなかろうか。即ち邪馬台国論に言及するとすれば、大和朝廷に先行する出雲王朝-邪馬台国系王朝の存在に触れざるを得ず、触れれば大和朝廷に征服解体されたとする史観を述べざるを得ず、それは記紀の説く新日本系大和王朝正統論と抵触し、ひいては幕府の禁制教学になることを弁(わきま)え、それ故に敢えて邪馬台国論を忌避し、まわりくどい形で神秘論、怪奇論、国体論への探訪でお茶を濁していたのではなかろうか。れんだいこは、かく解する余地があるとみなしている。

 その一端が次のところで確認できる。即ち、篤胤によれば幽界譚を重視しており、その幽界を出雲王朝の大国主命が司る世界だと述べている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとの説を述べている。この大国主命幽冥界主宰神説は篤胤以降の復古神道の基本的な教義となり、その後の神道及び政教関係を方向付けることとなった。この問題が明治の御世まで持ち越され、結果的に1881(明治14)年の祭神論争で却下され公的には否定された。但し、篤胤のこの説は現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

 これを証するかのように、平田宗家の蔵書には「廿五部秘書」(にじゅうごぶひしょ)が定められている。篤胤の膨大な著書のうちのどの書が「廿五部秘書」に当るのか本当のところは分からない。判明することは、門外不出の内書と一般の者の目に曝しても良い外書とに分けられており、平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして口移し、口授、口伝、一子相伝として極く一部の選ばれた者達に、「他見他伝厳禁の誓約」を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられたと云うことである。こうなると、平田篤胤自身が自らの史学が如何に危険な史学であるか認識していたと云うことになる。それは何も特殊偏狭なものであったからではない。日本の国体史に関わる深刻且つ重大な変更を迫る秘密を垣間見ていたことによると推理すべきではなかろうか。

 こういう篤胤の生涯履歴及びその史学をそれとして看做さず、逆に罵る評論をもって精通を自負する者が権威となり、これに随う者が大勢であるが、本稿をもって悔い改めるが良かろう。こうなると、「れんだいこの平田篤胤史学論その1、2」で述べたが、押し込められている篤胤史学の左派系登場こそが待ち望まれていると云えるのではなかろうか。篤胤史学の右派系的展開は皇国史観に丸め込まれたことを既に見てきた。左派系的展開をこそ見てみたいのが人情ではなかろうか。あらゆる社会思想が衰微しているこの時代、「篤胤史学」の地平から紐解き直すのは意味のないことではなかろうと思う。在地土着系の思想、イデオロギーの必要を感じている、れんだいこにはなおさらである。

 「れんだいこの平田篤胤史学論」
 (kodaishi/kokugakuco/hirataatutaneco/
rendaicoron.html)

 れんだいこのカンテラ時評№1198  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月19日
 れんだいこの平田篤胤史学論その4

 「れんだいこの平田篤胤論」の精度を篤胤著作の原文で確かめたい。そう思いネット検索を試みたが容易には辿り着けなかった。そのうち「小さな資料室」に出くわし「仙境異聞」が採録されていることを知った。続いて「務本塾・人生講座」に辿り着き、「古道大意」、「霊の真柱」が採録されていることを知った。サイト管理人のご苦労に謝意を申し上げておく。残念ながら篤胤著作のサイトアップはこれしか行き当たらなかった。平田篤胤著作は、今日びの強権著作論でもってしても著作権外の筈である。それなのに原文開示が為されていないのは、値打ちがないのか隠されているのかのどちらかであろう。れんだいこは後者の説を採る。

 しかしそれならそれで露にしようと思う者も出て来るわけで、そういう訳で今後は増えると思われる。が、れんだいこの目の黒いうちでないと面白くない。どなたかに期待しようと思う。れんだいこサイトを設け「別章【平田篤胤の著書原文】」と銘打った。追々に増やして行こうと思う。目下、備中處士の「平田篤胤大人遺文」が精力的にサイトアップしつつあるようである。その労を称したいと思う。

 読了後、れんだいこ評の的確さをますます確信することになった。即ち「仙境異聞」では、寅吉譚、勝五郎譚が仙境で垣間見た異次元社会を伝える体裁をしているが、実は出雲王朝の御世のそれを語り部している。「篤胤史学」が、大和王朝神話世界を突き抜けて出雲王朝神話世界へ歩を進め、記紀神話以前の日本を好意的に探っていることが分かった。出雲王朝御世譚の披瀝にこそ篤胤史学の真骨頂があると云うべきだろう。「古道大意」、「霊の真柱」では、国学史、古神道論をツボを得た解説をしていることに驚いた。平田篤胤の慧眼、論証能力恐るべしとの印象を強めた。他の著作を読めば同様の思いを強めることになるだろうと思う。

 付言しておけば、いつも思うことだが評論、解説よりも原文の方がはるかに面白い。これが好著の条件である。故に、良き評論、解説とは、原文を読んでみようと誘うものになるのが条件である。これが好著と評論、解説の相関関係式である。これを思えば、評論、解説でもって原文を読んだ気にさせるものには眉唾した方が良い。そういう悪式のものが多いけれども。評論、解説の方が原文より却って分かりにくいなどはご法度のそれであろう。そういう悪式のものが多いけれども。駄文に対してはいか様に評しようと勝手だが好著に対しては評論、解説にも礼儀が伴う。これが「れんだいこの評論、解説作法論」である。

 もとへ。その篤胤は、自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。自らの学問に対して次のように述べている。
「古道とは、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説き考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)。
「一体真の道と申すもの、実事の上に備はりあるものにて候を、世の学者らは兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へども、甚だ誤りに候。その故は実事があれば教えは入らず、道の実なき故に教えは起き候也。されば教訓と申す者は実事より早きものにて候」(古道学大旨)。

 平田篤胤の学問に対する姿勢は徹底的なものであった。「平田篤胤について 」によれば次のように記している。
「ロシアの研究ではキリル文字を習い、地図を集め、露日辞書まで自分で編集してしまう。資料はよほど極秘のものでもどうやってか入手する。インド研究でも大蔵経を読破し、正確なインド地図を手に入れ、サンスクリットは直接学問僧から学びとっている。篤胤の西欧知識人理解を要約して表現すれば、『科学への探求と古伝説への信仰』ということになる。従って、篤胤とは宇宙論では地動説を研究し、古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる。地動説を根軸とした儒学・仏教への批判は、同時に中国古文献や大蔵経の徹底したカン解読による、中国・インドの歴の最古層での宇宙創成神話の解明の試みとなっていった」。

 中段の「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる」のところが見解を異にするが、他は適切な評であろう。見解を異にするところの「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを云々」を評すれば、れんだいこは、日本神話と旧約聖書宇宙創成神話とは大きく質が違うと認識しており、その違いの部分を明らかにすることこそ肝要であると心得ているので、この説は受け入れ難い。これの詳論は別に論ずることとする。

 ここで、篤胤の超人的神がかり的執筆作法及び能力について確認しておく。(れんだいこ式に纏める)
 1811(文化8)年、36歳の時、この頃の篤胤の勉学への没頭ぶりは超人的なものであった。一年の大半を袴を脱がずに過ごし、睡眠は机にもたれ、伏せて寝ることですましたという布団知らずの研究に余念のない身であった。この年の10月、篤胤が弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れている。江戸での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその身を案じ、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考え、静養がてらに招いたものだった。と云う次第で駿河の国へ赴く運びとなった。ところが、弟子の一人の家に投宿したところ、遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞うものだから、とても休めるものではなかった。師弟問答を好んだ篤胤は、はからずも駿河の弟子宅で江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 篤胤は、弟子たちとの問答を通じて日本の国体を明らかにしておく必要を感じた。日本の神代、皇国に関する史書は記紀をはじめとしてあるにはあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形した諸説・古伝があり、整合的な理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し正しい神代の歴史・古史を体系化させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうお休みになられては」としつこく頼むので「枕と夜具を持て。但し途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たちはまた心配になって、「先生、大丈夫でございますか」と起こせば、「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように昼夜兼行の執筆生活に戻るというありさまだった。

 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。この時著わしたのが「古史成史」、「古史懲」の初稿、「霊能真柱」の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25日間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。このことが次のように解説されている。
「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果として成立するのである」。

 篤胤が「神々祈り」の中で書き上げたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしながら、こう言って微笑んだという。
「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つ頃に書き終えた。きみたちが心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。

「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も私信で次のように述べている。「調べもの、著述にとりかかったら、二十日間でも三十日間でも、昼も夜も眠ることなく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。そういう篤胤本を読まぬ手はなかろう。
 この経緯につき、新庄道雄翁の「古史徴ののそへこと」(文政二年四月)で次のように記している。
 「吾が伊夫伎屋の平田大人の、古へ学びに長々しき事は、をぢなき身として、称え挙げむは、中々になめしかしこし。左にも右くにも、ひたすらに学びの祖と思ひたのみ奉りてなもある。

 然るは、往にし文化八年の十月、同じ学びの徒(とも)どち相はかりて、柴崎直古が江戸より帰るに、誘ひ奉りて吾が郷へ請ひまをして、この国わたりの御弟子(みをしへご)ども、夜昼うごなはり侍(さも)らへるに、古へ典どもをつばらに解き聞かしめ給ひ、なお惑はしき道の奧かも、ほどほどに弁へ諭し給へりしほどに、早くも十二月になりぬ。こゝに大人ののたまふは、『年の極めての事業しげく、春の始めの営みも爲すべければ、汝たち、然るかたに勤しみてよ。余は箱根山の雪霜ふみ別けむがわびしければ、冬とも知らぬ、この暖国に旅居して、春を迎ふべし。それにつけては、このほど、汝たちの請へる事によりて、おのれ早くより思ふ旨あり。何處にまれ、靜かなる家の一間なる處を』とのたまふまにま、直古が奧の一間を見立てゝ、移ろはせ参らす。

 さて『有り合ふ古へ書ども参らせよ』とあるに、鄙びたる郷の初学びのともがら、何をかは持ちはべらむ。有りふりたる書ども五部・六部、取り集へて奉るを受け取らして、『汝達は家の事業、しげかるべし。よく営みて、勿怠りそ。春を迎へて長閑にこそ』とのたまひさして、やがてさし幽(こも)り給へるは、五日の日にてぞ有りける。かくて後は、夜の衾も近づけ給はず、文机に衝き居憑り給ひてより、夜も日もすがら書を読み、かつ筆とりておはす。朝夕の御食参らする間も、あからめもせで書読みつゝ、文机の上にてきこしをし給ひき。然てのみおはすほど、十日まり三日四日の比とおもゆ。『かく夜ひるならべて物し給ひなば、御躯や、いたはり給ふべき。今夜よりは夜牀(よどこ)に入り給へ』と、甚く強ひ申しければ、『然らば、しばし睡(まどろ)まむ。覚むるまで、勿おどろかしそ。枕もて来』とて、頓て衾引きかづき、高息引して、うま寐し給ふほど、日一日・夜二夜、同じ御有りさまなり。余りに長寐し給ふ事の、また心もとなくなりて、そと覚(おどろ)かし参らせければ、『勿さましそと、言ひてしものを』とのたまひて、やがて文机に居憑りて勤しみ給ふこと、前の如くなむ、おはしける。

 当年も、はや大晦日といふになりぬ。元日といふ日のつとめて、直古がり行きて、あろじと共に、おまへに出でて、年の始めの壽詞まをせば、大人は、いと早く清らに身づくろひし、御面しろくほゝゑみて、『去年とやいはむ、今年とやいはむ、今宵の丑の時の鐘打つ頃までに書きをへたる、この書よ、汝等がねもころに請へるに、うづなひ実(まめ)だちて、さし幽りたるその日より、年の内に書き竟へさせ給へと、神たちに宇気比まをしたりし甲斐ありげなり』とて、さし出し給ふに、まづ打ち驚きつゝ、もて退きて読み見るに、既に請ひまをせる古へ書どもに、こゝら記せる神代の事蹟の、まことまがひを撰りわきて、その正説をまさごとと文成し給へる。一部は即ちこの『古史成文』。しか撰り取り給へることわりを、徴(あか)し給へる一部は即ち二つの卷より次々の『(古史)徴(みあかしぶみ)』なりけり。また『霊の眞柱』といふをさへ著はして、道の奧かを示し給ふ」。

 れんだいこのカンテラ時評№1199  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月21日
 れんだいこの平田篤胤史学論その5

 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。

 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。

 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367(貞治6)年に南北朝期の神道家・忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。

 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。

 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。

 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。

 れんだいこのカンテラ時評№1200  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月22日
 れんだいこの平田篤胤史学論その6

 「篤胤史学」の文体に一言しておく。ほんの少ししか読んでいないのに評するのは早計かも知れないが、文体は簡潔にして論証的である。但し、内容の高度さ故に仕方ないことかとも思われるが文意は難解である。と云うか、その難解さは、篤胤文が漢字を多用する硬文体になっていることによるのではなかろうかと思われる。これは独り篤胤のせいではない。当時の風潮文体が和漢混交文であり、この頃は、ひらがな、カタカナ表記すべきところをも極力漢字表記する倣いがあり、いわゆる時代病で、篤胤も又これに侵されていると云うのが正しい受け取りようかも知れない。この文体傾向は戦前まで続き、戦後育ちのれんだいこにはとても読みにくい。

 但し、疑問が少し生まれる。国学が殊のほか漢学に侵される以前の日本論を云うのであれば、まずは文章そのものからして漢字に侵される以前の日本語を極力使用するという風にはならなかったのだろうか。大和言葉を生かす為に生まれたひらがな、カタカナの積極的使用による柔文体で著わすべきだったのではなかろうか。そうならなかったことを惜しみたい。漢学に侵される以前の日本を称揚しつつ、それを漢学傾向を強めた硬文体で記すというアンバランスさがやや滑稽な気がする。このことは、仮に篤胤が著作禁止令に遭わずもう少し延命したなら、やがてひらがな、カタカナの考証にも向かい、篤胤ならではの言語論を聞かせて貰え、これによる柔文体の登場があったかも知れないと思う気持ちに通底している。ないものねだりの感があるが、篤胤の能力を高く評する故にそこまで期待してしまう。

 れんだいこ眼力によれば、「篤胤史学」の惜しむべきはその未完成なところである。出雲王朝御世を垣間見させ、それを復権させようとする意図が見られるにせよ、相対的には偉業であるにも拘わらずなお「原日本新日本論」までは獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」段階にとどまった恨みがある。これも時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。かく観点を据えれば、この未熟さは、「篤胤史学」の後継者に託されている課題と受け止める必要があろう。本来は、「篤胤史学」の後継者は、篤胤が宣長を超えたように、篤胤を超えねばならなかったのではなかろうか。「篤胤史学」の限界を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めるべきだったのではなかろうか。この域まで向かわなかったことが足元を掬(すく)われることになったと思う。明治維新後、「篤胤史学」学徒がこぞって大和王朝御世正統化の皇国史観の確立へと向かったが、これは断じて「篤胤史学」の正統のものではない。痛恨の極みと思う。

 それは、「篤胤史学」の真骨頂である出雲王朝御世の礼賛の道を閉ざした奇形の国体論でしかなかった。もし「篤胤史学」学徒が、今れんだいこが唱える「原日本新日本論」を獲得していれば、好戦的な皇国史観には向かわず、出雲王朝御代の特徴である神人和楽の王朝楽土的国体観の称揚にこそ向かっていたのではなかろうか。明治維新政府の好戦政策に乗じられることはなかったかと思う。その差は大きいと見る。そういう意味で、「原日本新日本論」の観点から「篤胤史学」を検証する道が手付かずで残されていると了解している。

 最後に「篤胤史学」の代名詞とも云うべき「復古神道」に一言しておく。「復古神道」とは云いえて妙な呼称であり、その解釈が危うい。これを神道の「復古」と読めば篤胤の意に反する。古神道に「復す」と読むべきである。これならほぼ正確である。問題は、「復古神道」と云うとき、多くの者は神道の「復古」と読むであろうことにある。こうなるともっと的確な「篤胤神道」の呼称を創らねばなるまい。そこで仮に「篤胤古神道」と命名しておく。この方が正確に意が伝わろう。即ち、「篤胤史学」が求めたのは、「復古&神道」ではなく、「復&古神道」であった。こう判じたい。但し、禁制の学になることを恐れ、篤胤自身が幾分か故意に曖昧にしていたと思われる。これは致し方なかったのではなかろうか。以上、誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

【れんだいこの平田篤胤史学論その7】
 篤胤に関する次のような評伝「平田篤胤アンソロジー」(主宰者/唐仁原玄海)に出くわした。これを転載しておく。
 真実とか真相、本当に価値のある業績は無視されるか歪曲されて教えられる。なぜならそれが国家権力や既成学界を脅かす場合が多々あるからだ。今の日本でマイナスイメージで語られているものこそ、知の探究者は再検討すべきだ。オカルト、ナチズム、国家神道、征韓論。ここに日本思想史上において蛇蝎のごとく嫌われているかわいそうな老人を紹介しよう。平田篤胤(ひらたあつたね)その人である。彼は野心を持った政治屋でもなんらかのグループのリーダーでも教祖でもない。人並みはずれた学問的情熱をもった一人の思索者にほかならないのだ。ただその到達点が、古今東西の広範な知識を咀嚼した上で尚、日本人のアルカディアを提示しえた奇跡的な業績であったが故に、幕末から明治~昭和の敗戦にいたる日本の激動期において民衆と国家権力双方に、このひとりの老人が多大な影響を与え得たことは日本史上、空前絶後である。実は近未来の日本もこの維新前夜の平田学に学ぶ事がある。とまぁ、ようやく一部で再評価の動きはありますが、このような総括を書ける知識人はまだ少ないと思うのであえて書きました。噴飯ものでしょうか。

 竹内健・氏は「神字論」の中で次のように評している。 
 ●28才にして「阿妄書」を公にして以来、この40年間で篤胤が執筆した著作はめくるめく多岐に亘り、無数の点数にのぼっている。古神学、歴史学、歌学、民俗学などの分野は言うに及ばず、鬼神学、暦学、医学、易学、数学、にさえ至っている。(語学、地理学、博物学さえも)このような間口の広さは師の本居宣長さえも遠く及ばないであろう。実は、このような篤胤の著述分野の間口の広さは彼の目指す所が宣長とは本質的に異なっていたことを示唆するものである……。 →宣長は古史を明快に解釈することはあっても、あるいは稀に曲解することはあっても、自分なりに古史を創り出すわけではない。彼の『古事記伝』は、古史注釈史の中でも金字塔というに相応しいが、にも拘らず、それは新しき神代史の創造では毛頭なかった。

 ●われわれが地理的に孤立した条件の中で長々とかかって築き上げてしまった異形の文化は将来においても決して世界性を所有することはあるまい……平田神学とはこの文化から最も先鋭的な材質を抜き取って構築した宇宙秩序を統べるべき伽藍であり、巨大な虚構である。……ひたすら物のあわれの中に自己と世界のとの関りを見ようとした鈴屋一門の国学者たちには、この伽藍のめくるめくきらびやかさが鼻持ちならなかった。ごく形而下的な営利と権力の把握にのみあくせくしていた当時の神道家たち、たとえば吉田家にとっては、それは愚劣きわまりない瓦礫の山と思われた。このような中で、篤胤の大きさを認識したただひとりは、ほかならぬ江戸幕府であった。類い稀なる嗅覚をそなえているということでは徳川幕府の右に出るものはいまい。数百年間培ってきた持ち前の鋭い嗅覚は、遅ればせながら三人扶持のこの老国学者の中に、恐るべき毒性を嗅ぎとったのである。天保5年にはまず尾張藩が彼の扶持を召し上げ、同12年には著述を禁止し江戸を追放した。(この時点で門弟は宣長を上回る553人を数えた)

 ●貧困の中で何かを書くことは出来る。だが、貧困の極にありながら、しかも日ごと、神々の綾なす世界を、古史をたよりに精密に大胆に仮構してゆく作業は、それほど容易い仕事ではあるまい。一方において飢餓というのっぴきならない被害者状況が厳然とありながら、他方において、太古からもつれにもつれた神々と天皇の系列を実に理性的に編んでいき、近くは山河草木から虫や花にいたるまで、遠くははるか数億年の星辰の世界に至る途方もない大系図を作成すること。それが可能であった例は洋の東西を見渡してもそれほど多くはあるまい。

 折口信夫氏は次のように評している。
 ●篤胤先生といふ人は、果たして世間の人が見ているやうに、始終貧乏たれた風をして、水洟を垂らしながら偏屈なことを言って、怒りっぽく、まづい物ばかり食べて暮らしていた人、何か恐ろしい浪人をば感ずるやうな人、さういふ風に篤胤先生を受け入れていいかどうか、それだけは私は違ふと思ひます。どうも篤胤先生の学問はもつと広い気風を感ずる、何か非常に大きい、広い掌を以て、学問の徒弟をば愛撫しているやうな感じがします(折口信夫講演「平田国学の伝統」)。

 ●先生といふ人は『俗神道大意』といふ本を書いていながら、天狗の陰間みたやうな子供を捕まえて、一所懸命聴いて、それを疑っていない。事細かしく書いている。篤胤先生の学問も疑わしくなるくらい疑わずに、一心不乱に記録を作っている。さういう記録になると篤胤先生の文章がうまい。議論になるとこだはって、読んでいて辛いやうな気がしますが、さういう平易なものになると非常に楽で、名文です(折口信夫講演「平田国学の伝統」)。 

 ●(柳田)先生の学の初めが、平田学に似ているといふと、先生も不愉快に思われ、あなたがたも不思議に思われるかもしれません。けれども、今日考へてみるに平田篤胤という人は、非常な学者です。学者になる前の生活が悪すぎたと思ふ。実際は非常な読書家であり、大学者であり、しかも出来るだけ、新しい知識をとり入れようと集慮していた。集慮し過ぎていたという感じが深い。日本の神に就いても、之を出来るだけ知ろうとして、合理的な態度をとり過ぎた。だがあれだけ 方法を具へてかかった神道の研究家は、国学者の中には少ない。(中略)柳田先生の「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」の出る前にも、仙人の事などに先生が興味を以て居られるというやうな話を終始聞いていました。(中略)決してその行き方を等しくしていられなかったことは、後にはっきりしましたが、とにかく平田翁の歩いた道を、先生は自分で歩いていられたことも事実なのです(折口信夫講演「先生の学問」)。

 以上、「れんだいこの平田篤胤史学論」の仮の完結としておく。

 2021.2.5日、こぴゅら平田篤胤の国学と民俗学」。
 平田篤胤(ひらた あつたね)は、江戸時代後期の学者で、古神道の祖と目される人である。戦前の軍国主義、皇国史観を導いた国家神道の創成の元祖と見なされているため、何かと悪評の対象にされやすいが、その批判は批判として、ここでは平田の呈している別の側面に注目し、これについて論じてみようと思う。まず、平田は、死後の世、仙界などの異界や、天狗、仙人などの妖怪、そして輪廻転生などの超常現象に関心を示した。民俗学の権威、折口信夫氏は、平田のこうした面を好意的に見ている。このことについて、中央公論社の平田篤胤選集の解説者である相良亨氏は、次のような旨のことを述べている。

 なぜ折口氏が、このような篤胤の側面を評価したかというと、それはつまり、篤胤が、民間に信じられていたものを材料として、「人間世界の外に、日本人の考えていた、別のものがあるということを調べようとした」その姿勢を評価したからであった。篤胤が天狗や化け物に執拗な関心を示したのも、彼が民間で信じられている天狗や化け物の中に、日本の神の性質を認め、それを明らかにしようとする関心からであったというのである。この側面を捨象する時、それは平田国学の「曲解」になると折口氏はいう。しかして、平田国学のこの側面を継承することにこそ今日の民俗学のあり方があるのではないかと折口氏は考える。

 そして相良氏は、民俗学の大御所が篤胤を民俗学の先駆としている。これは篤胤解釈にとって重大な提言である、と言うのである。相良氏は平田が、民間で信じられていたこと自体をその考察の対象に選んだこと、民間信仰それ自体を対象にしたという側面に注目している。折口氏と相良氏のような視点から平田を見るとき、私には、日本の古道というものは、戦前の国家神道のような国家主義的で理念的な観点からよりはむしろ、民衆的で実質的、リアルな観点から迫った方が良いものと思われてならないのである。

 先達の本居宣長が文献学的な学問性に基づいたのに比べ、平田においては、古文献の権威は相対的に低下しており、かわって、民俗の事実が重くとり上げられている。彼の著作『仙境異聞』『勝五郎再生記』は、フィールドワーク的な性格を帯びた研究方法に基づいてなされたものである。相良氏は、平田が民俗へ関心を傾斜させたことについて、「それがまがりなりのものであっても、民衆の中にあって思索する姿勢の誕生を意味する」と述べている。それからまた、平田の研究態度には、主観的な性格が大きい。文献に入る前に、自身の内にひとつの宇宙観、宇宙解釈像を想定している。『古史徴』において、彼は次のように述べている。

 すべて、神世の故実をたづね、天地初発の趣を知らむとするには、まづ天地世間の有状をよく観て、腹に一箇の神代巻のいできたる上にて、国史を拝み読み、古事記序に、乾坤初分参神作造化之首とある文、・・・・・・などを心得おきて、火にも焼まじく、水にも溺るまじき、倭魂の真柱を固立て、後に漢学を為て、学問の才をおぼえ、其余の国々の事をも探ね知り、然して後に、いとも可畏き申しすぎに似たれども、造化の首を作し坐る、三柱神の御上より、見ましけむ心になりて、此国土をしばらく離れて、大虚空に翔り、此国土を側より見たらむ心をもて考えずば、真の旨を得まじくなむ。

 彼のいう「古伝」は、さまざまな文献によって、彼によってつくられた古伝であるらしい。文献に権威を認め、その理解において真理にせまろうとする態度から、主体的な判断によってもろもろの文献を取捨折中する態度への移行には、すでに近世の儒教が示した経過であるそうだが、国学においても、本居から平田への流れの中に、それが現れているという。

 平田は、死後の世界に積極的な関心を示した。死後の世界が明確にされなければ、この世の生き方を確固としたものにすることができないと考えた。彼によれば、国つ神のまします幽冥界こそ『本つ世』であり、この世は寓世であるにすぎないから、人が生きるということは、ただこの世にかりそめに居るだけのこと、となるのである。彼の独自な思想的世界をうち立てた『霊能御柱』という書物は、まさにわれわれの精神を柱あるものとして確立するには、この死後の世界の解明によってなされなければならないという発想から書かれたものであった。また彼は『本教外伝』を唱え、正しい古伝が日本には失われ、外国にそれが伝わっていると考えていたらしい。そこから、彼は、正しい古伝を求めて外国書へ関心を持つようになった。そのなかには、中国を経由したキリスト教関係の書物もあったらしい。しかし、それはおしなべて、彼の古伝復興のために表面的に活用されたにとどまったのであり、彼自身の幽冥界観とは、根本の教義からして、相違を生じているのである。

 (本稿は平成十年に執筆した手記をほぼそのまま掲載したものです)







(私論.私見)